第006号(平成26年6月発行)

~かんのみね通信~
№6
虎岩「おんたけ山」から見た「かんのみね」
◎「かんのみね」の「みね」はどちら?
その7
← 県埋蔵文化財センターの現地説明会のお知らせでは
「神之峯」
飯田市美術博物館・上郷考古博物館発行の →
「南信州の山城」では「神之峰」
「かんのみね通信」はインターネットの南信州ぽおたる、または上久堅地区まちづくり委員会のHPでもご覧いただけます
◎ 「かんのみね」の歴史
その6 法心院
法心院は「知久十八ヵ寺」のひとつで神之峰落城時に焼失したとされ、下平区に地名のみが残ってい
ましたが実際にはどのあたりにあったのか
が不明でした。
先年三遠南信自動車道の工事に伴う発掘
調査において、
「法心院跡」と伝えられてい
た場所から建物の跡が発見され、伝承が正
しかったことが証明されました。
また、この時の発掘により北側の斜面に
いくつかの曲輪とみられる跡が発見された
ことにより、神之峯が予想以上に巨大な要
塞であったことがうかがえます。
↑
法心院跡発掘現場説明会
発見された曲輪(?)跡 →
◎ 知久氏とは
その6 知久則直
~述懐~
阿島知久氏初代となる則直は幼名を萬亀丸といい、天正十二年(1584 年)、六歳の時父頼氏が自害し
たため、母木寺宮とともに、当時対立していたといわれる南信濃郡司菅沼定利の手を逃れて浜松へ行き、
当時家康から信濃惣奉行に任じられていた大久保忠世に保護されました。天正十九年(1591 年)に小
田原で大久保の紹介により家康の近習となり、慶長五年(1600 年)の関ヶ原合戦に参加して翌慶長六
年(1601 年)に伊那郡のうちで三千石の知行を得ましたが上久堅周辺は飯田城主小笠原秀政の領地と
なり神之峰城へ戻ることは叶いませんでした。江戸
時代には阿島に陣屋を構えていましたが、旗本とし
ては特別な「交代寄合」という家格を与えられまし
た。交代寄合は一万石未満の領地でも大名としての
待遇を得られるものであり、参勤交代の義務を負っ
ていました。交代寄合には中世の名族の末裔が任じ
られることが多く、信濃では知久氏の他、山吹の座
光寺氏、伊豆木の小笠原氏の三家が交代寄合でした。
後に神之峯を訪れた則直は「述懐」と題する詩を詠
んでおり、明治になって山頂の岩に刻まれ現存して
います。
大久保氏の居城
小田原城(復元天守)
◎「かんのみね」伝説
その5 追い取り
「山本勘助物見の松」からさらに奥へ進むと「追い取り」と呼ばれる場所があります。神之峰城を攻め落
とされた知久一族は思い思いに落ち延びていきましたが、当然武田側も追っ手を差し向けてきました。そ
のなかで一族の姫がここで追いつかれ命を失
ったといわれています。のちに供養のため祠が
建てられ、姫が裸足であったため、草履や草鞋
が供えられるようになりました。このため祠は
「足神様」とも呼ばれ痛む足をひきずりながら
無念の死を遂げた姫の霊を慰めています。この
ような話は下久堅にも伝わっていて、今日でも
小林の県道米川駄科停線沿いに「塔光様」と呼
ばれている社が祀られています。落城における
悲話といえるでしょう。
上:原平の「足神様」
左:下久堅小林の「塔光様」
室町時代作と伝えられる宝筐印塔
かつては「イボ神様」とも呼ばれて広く知れ渡っ
ていました。
◎「かんのみね」百景
伝
二の丸
本丸のNHK 鉄塔の下にある小道を進み、一回下って再び登ると開けた平坦地に出ます。二の丸と伝
えられるこの平地は本丸から南東へ続く尾根にあり、本丸との間に土橋や堀切とみられる遺構も確認でき
ます。現在この場所には蚕玉様等の社があり
ますが、城が健在な頃には城主の姫君の住居
があったといいます
伝
二の丸は城の南側に突出しており、南、
西、東側からの攻撃に対して他の曲輪と連携
しての反撃に適した防御の要であったこと
がうかがえます。
天文二十三年(1554 年)
、武田勢による東
側からの攻撃で落城した際にこの場所でど
のようなドラマがあったのか、思いを巡らし
てみるのも一興です。
◎ 知久頼氏の「かんのみね」
「天正壬午の乱」
平成 23 年 3 月
学研パブリッシング刊
「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」
平成 23 年 6 月
戎光祥出版刊
ともに平山優著
天正十年(1582 年)、武田氏が織田信長によっ
て滅ぼされ、同年にその信長が本能寺の変によ
って倒されたことにより、旧武田領であった甲
斐(現山梨県)・信濃等が空白地となったため、
徳川・北条・上杉等の周辺大名が勢力を伸ばそ
うとして互いに争ったのが「天正壬午の乱」と
呼ばれるものです。あまり知られることのなか
ったこの騒乱と大大名の間で翻弄される地方領
主の姿を紹介したこの2冊の中に知久頼氏も紹
介されています。数々の史料を基に示される史
実により神ノ峯落城の頼元から阿島知久氏開祖
の則直の間の様子を窺える好書です。
「秀吉の野望」p122 に龍潭寺に安置されている
知久頼氏の位牌の写真が紹介されています。
◎「かんのみね」雑話
龍潭寺・井伊谷宮編は今回が最後?です。
井伊谷宮の本殿前の門の脇に石灯籠がありま
す。見るとそこには「地久」と刻まれています。
そこで知久の苗字はよく「ちきゅう」と読まれる
ことがあったという子孫の方のお話を思い出し
ました。ならばこれは「地久=ちきゅう=知久」
と読めないだろうか?この地で無念の死を遂げ
たといわれる知久頼氏に関する何かがあるので
はないか?そう思えてしまうような光景です。も
っとも石灯籠の文字の意味は「天長地久」(もの
ごとがいつまでも続くことのたとえ
「老子」より)のことであり、対となる石灯籠にはちゃんと「天長」
と刻まれています。しかし、この地で「地久」を目にするとき、偶然とはいえやはり何かしらの因縁めいた
ものを感じてしまうのです。
編集後記
今年度最初の通信です。平成26年度は県の元気づくり支援金を受け
て神ノ峯の公園整備を実施します。よりよい観光地として展望改善、遊
歩道・安全対策の向上を目指して一年間事業をすすめてまいりますので
皆様のご協力をお願いします
発行
平成 26 年 6 月
編集
上久堅観光協会
(不定期)
(上久堅自治振興センター内)
◎記載の記事は主に「上久堅村誌」を参考に作成されています