見かけの問題 弁論における適切な身振り・手振りの必要性はクィンティリアヌスも力説している。クィンティリアヌ スはカイロノミー chironomy というギリシャ語の単語を使っているが、これは中世音楽においては グレゴリオ聖歌の旋律を手振りで指示する一種の指揮法の意味になっているが、もともとは古代ギ リシャの雄弁術における手振り術のことである。 しかし、クィンティリアヌスは身振り・手振りの有用性は十分に認めながらも、決して過度に使用し てはならず、わずかに示唆される程度がちょうどいいのだということを繰り返し説いている。大袈裟 のゼスチャーの使用は、品位を損ね、粗野であり、滑稽であり、ゼスチャーとはそれと気づかない 程度に用いるのが良いのだと言う。 頭を振り、大袈裟に身振り・手振りを用い、狂ったように歩き回る・・・こういった主張の方法は、確 かに熱情的でエネルギッシュだという印象は与えるだろうが、 “趣味の悪い” 聴衆にしか受けない のである。 頭を大袈裟に振る、体を揺する、大袈裟に体を捻ったり傾けたりする、舞台上を行ったり来たり 動き回る等々の身振りが大袈裟な演者に関しては、バロック期にも多くの記述があり、「そうした過 度の身振りは、滑稽であり、やめるべきだ」という意見が多く残されている。しかし、多くの記録があ るということは、それだけ大袈裟で見苦しい演者が当時にも少なくなかったということである。 ゼスチャーが大袈裟だと良くない理由は、必要以上にゼスチャーが大袈裟だと聴衆は、音楽自 体を聴かずに、ゼスチャーに気を取られてしまうからである。音楽に興味を引き付けるためのゼス チャーが逆に聴衆の気を散らす役割を果たすとなれば、これは本末転倒である。その意味で、ゼ スチャーは常にやや控え目でなければならないのである。 ゼスチャー同様、顔の表情、衣装、髪型なども、標準をあまりに逸脱したものも音楽そのものから 聴衆の注意を散じてしまうという点で避けるべきである。過度に派手なドレス、あまりにもみすぼらし い衣装、奇妙な髪型、あまりにも野放図な髪型など、衣装関係の不適切性はよく見られる。年齢に 不相応な肌の露出なども同様である。 また、音楽的であることをアピールするためか、恍惚とした表情、しかめっ面、忘我の表情、喜怒 哀楽の表情などを非常に豊かな顔芸で示す奏者もいるが、これもやはり音楽そのものから聴衆の 注意を散じてしまうという点で、まったく本末転倒である。(奏者の音楽性は、あくまで音で示すべ きである。)聴衆の注意を散じない程度の表情というのは、ごくごく自然のそれと気づかない程度の 表情なのである。 その他、聴衆・観客の注意を散じたり不快に思わせたりする身振りには、例えばオペラにおいて 時代考証に反する現代風の衣装を着てくるなどの、知的なレベルにおいて問題となるタイプのも のがある。また、口を歪めたり足踏みをするなど、奏者の無意識の癖によるものもある。これらは程 度の問題ではなく、完全に除去するのが望ましい振る舞いである。 要約すれば、ゼスチャー、身振り・手振りを含む一切の動作、表情、衣装、髪型などは、すべて 音楽表現上にも有効な要素であって、表現を助けるように利用すべきであるが、これらのうちどれ ひとつをとっても過剰になってはいけないということである。少しでも過剰になった要素は、聴衆の 注意を引き、結果として音楽から注意を逸らしてしまうからであり、また、過剰になると真面目な動 作でさえしばしば滑稽に見えるため、音楽表現そのものも損なわれてしまうのである。 ゼスチャーは料理における塩味に似ている。ある程度入っていなければ味気ないが、それとわ かるレベルにまで入れてしまっては味が台無しになってしまう。そして、一つまみでも入れすぎると 全てを駄目にしてしまうのである。強すぎる塩味を好むのは、味のわからない人だけであるが、濃 い味を好む舌音痴の人というのは必ず一定数存在する。過剰なゼスチャーが、必ず一定数は存 在する趣味の悪い人に好まれるのと同じことである。舌音痴の人というのは、調味料やソースの味 しか知覚していないが、本来、調味料やソースは素材の味を引き出すためのものであって、調味 料自体が前面に出てきてしまってはいけない。同様に、ゼスチャー、身振り、手振り、表情、服装、 化粧、髪型といった見かけの部分は、あくまで演奏効果に資するためにはあってもよいが、それ自 体が目立つようではいけないのである。 味音痴になってはいけないし、味音痴に喜ばれていい気になっているようでもいけない。
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