稀代の放蕩者ドン・ファンの名前はイタリア語だと、ドン・ジョヴァンニになる。したがって、モ ーツァルトの傑作「ドン・ジョヴァンニ」はドン・ファンを主人公にしたオペラである。 ドン・ジョヴァンニはバリトン、ないしはバスによってうたわれるが、歌唱技術的にかならずしも 難しい役柄とはいいがたい。しかし、ドン・ジョヴァンニをうたう歌い手には歌唱にも演技にも、さ らにただよわす雰囲気といったことでも、独自の気品が求められる。 なんといっても、ドン・ジョヴァンニは貴族である。その辺りにうようよいる薄汚い女たらしたち とはわけがちがう。ドン・ジョヴァンニをうたう歌い手の歌唱や演技に品位が必要とされるのも当然 である。 かつて、チェーザレ・シエピというドン・ジョヴァンニをあたり役にしていたイタリアのバスがい た。シエピのドン・ジョヴァンニはCDでもきけるし、ビデオでも残されているが、放蕩者ならでは の尋常ならざる生気をただよわせながら、しかも気品を感じさせて、素晴らしい。 ドン・ジョヴァンニうたいとしてのシエピの後継者をオペラ好きたちが物色し始めた頃に登場した のが、バスのルッジェーロ・ライモンディだった。イタリア・オペラ界ひさびさの大型バス歌手とい うこともあって、当時、ライモンディの登場はオペラ・ファンの注目をあつめた。 そのライモンディが1971年に初来日して、「リゴレット」と「ファヴォリータ」に出演した。若い ライモンディの声は深々としていながら滑らかで、素晴らしかった。このような声でドン・ジョヴァ ンニをうたったら、さぞや素敵だろうと思った。 インタビューしたときに、そのことをいってみた。彼は大いに喜んでくれて、実は日本から戻った ら、ボローニャで、初めてドン・ジョヴァンニをうたうことになっているんだよ、といった。ボロー ニャはライモンディの生まれ故郷だった。 ライモンディのうたうドン・ジョヴァンニがききたいばかりに、その場で、ボローニャまでききに いくことを約束してしまった。ライモンディは、来てくれるのならチケットをとっておいてあげよう といってくれた。 当日、ボローニャ歌劇場の楽屋口を訪ねると、彼が受付の人にも伝えておいてくれたのであろう、 すぐにライモンディの楽屋に案内された。しばらくはなしているうちに、開演時間が近づいて、舞台 係の人が彼に衣装をつけるようにといいにきた。 彼がこれから舞台衣装に着替えようとしているというのに、まさか、そのままその場にいるわけに もいかず、席を立とうとした。ライモンディはズボンをおろしながら、振り向きざまに、こういった。 「かまわないよ、そのままそこにいてくれても。きみは男なんだから」 *日本経済新聞
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