歴史と街づくり活動の経緯

歴史と街づくり活動の経緯
1.手づくりの観光まちづくり
1)時代の波に流されて
七日町通りは城下町会津若松市の街の中心である大町四ッ角(札の辻)から西にJR七
日町駅までの約 800m の通り。藩政時代には札の辻を起点とする会津五街道のうち日光、越
後、米沢街道の主要道路が通り、城下の西の玄関口として問屋や旅籠、料理屋が軒を連ね
ていました。明治時代以降も重要な通りとして繁栄を極め、昭和 30 年代頃までは、2 館の
映画館を擁するなど会津一の繁華街として賑わいを見せていました。しかし、市街地をと
りまくバイパスの開通や道路事情の変化により消費者は、中心市街地から郊外にある大型
ショッピングセンターへと移動してしまいました。七日町通りも次第に寂れはじめ、空き
店舗が目立つようになりました。幹線道路のため、車の交通量は多いものの、買物客はめ
っきり減り、シャッター通りと揶揄されるような商店街になってしまいました。七日町通
りが商店街の近代化に乗り遅れたことが幸いして歴史的な建造物が残りました。
明治後期の七日町通り。阿弥陀寺から東を望む
会津五街道の起点、大町四ツ角。左手前が七日町
2)歴史的町並み景観を地域資源に活かす
空洞化した会津若松市の中心市街地にある七日町通り商店街の再生とコミュニティの再
構築を目指して、1994 年 3 月に任意組織「七日町通りまちなみ協議会」を立ち上げました。
前年の 6 月に現会長である渋川恵男、副会長の庄司裕、目黒章三郎の 3 人が埼玉県川越市
で開催された全国町並みゼミに参加し、蔵の町並みに触発されたのがきっかけでした。設
立にあたってはこの会が住民運動の一環であることから、七日町 7 町内会の区長に顧問と
して参画していただきました。
3)住民自らが景観に理解を示す
商店街の活性化、再生の基軸にしたのが、歴史的建物が残る昔ながらの町並み景観でし
た。旧建設省のまちなみデザイン推進事業の助成団体に選ばれるなど、行政の支援も追い
風となりました。約 800m と長い七日町通りを便宜上、上の区、中の区、下の区の 3 つのブ
ロックに分けてまちづくりに取り組みました。1995 年には会津若松市景観条例に基づく景
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観協定の認定を受け、3 つの地区住民自らが町並み景観を守る住民協定を締結しました。
市の補助を得ながら外観を修景する店舗が増え、点から線へと町並みの連続性が生まれま
した。店舗ばかりか、協議会の取り組みに理解を示して、景観に合った建物を改装する民
家も現れ始めました。こうした動きがマスコミの目に留まりました。地域の人たちに来街
してもらおうとスタートした活動が、思いもかけず観光誘客につながることになりました。
「観光まちづくり」といった概念がまだない頃でした。
上の区は洋館の並びが特徴
中の区の桂林寺通り。右が市民広場
下の区の町並み景観
4)行政の支援が追い風に
観光客が増えるとともに、3 軒に 1 軒あった空き店舗が年々減っていきました。協議会
が発足して 20 年間に 25 軒の空き店舗が埋まりました。1997 年にガソリンスタンド跡地を
福島県と会津若松市が取得し、ステージ付の市民広場として整備、2002 年には県、市、J
R東日本、当協議会が連携して七日町駅舎を大正浪漫調の洋館によみがえらせました。阿
弥陀寺境内の鶴ヶ城本丸の遺構である御三階や東軍墓地や物語性のある常光寺のめぐりあ
い観音などの寺社も貴重な地域資源として取り上げました。「会津新選組まつり」といっ
たイベントも観光誘客に大きな効果を上げました。2010 年には国の支援を得て駐車場と滞
留拠点の機能を有した「七日町浪漫デッキ」を完成させました。現在、下の区から電線地
中化工事が進められています。
七日町浪漫デッキは歩行者に人気
民家も町並み景観に配慮して新築
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外観修景第 1 号の山寺米穀店は業態を
「やまでら茶屋」に変更しました。(右写真)
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廃業したガソリンスタンドが右のような
イベントもできる広場に蘇りました。
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七日町駅が雰囲気のある洋館づくりの駅舎に
変身。福島県、会津若松市のほかにJR東日本
が無人駅に建設予算を付けました。
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