資料3

■ 教科教育法 美術Ⅰ・工芸Ⅰ
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教育課程の変遷①
明治の教育
1 はじめに
前回の講義では、教育課程の変遷についてその概要を学んだ。使い古
された言葉であるが「歴史は繰り返す」と言うように、歴史を学ぶ事に
よって、現在そしてこれからの教育を考えていくために、今回からは日
本の教育の歴史をもう少し詳細に見ていくことにする。
2 教育の歴史に学ぶ
2.1. 幕末から開国
1868 年(明治元年)日本では、長らく日本を支配してきた将軍(徳川家)
による政権が崩壊し、天皇を頂点とする新しい政権が誕生するという政治革
命が生じた。
「明治維新」と呼ばれるこの改変とともに日本の近代化が開始さ
れる。
江戸時代においても、日本の教育文化は決して低調ではなかった。幕府や
多くの藩は、武士階級の子弟を対象に、主として中国の古典(儒教)を教育
するための教育機関として学問所や
を設立していた。
また、漢学・国学に加え幕末期には蘭学や洋学を教える民間のアカデミーで
ある
が各地に数を増していた。
さらに、庶民に読み書きと実用的な生活技能を教える教育機関として
●教育の世俗的性格
・西洋の教育がキリスト教と強い
結びつきを持っていたのに対
し、日本の教育は世俗的な性格
が強く、仏教、神道などの伝統
的宗教は、独自の宗教系の教育
機関(一般を対象とした)を持
つ事がなかった。
が都市部だけでなく農村部においてもかなり広く普及
していた。
一方、江戸時代以前から絵師などの専門家を養成する、今で言う美術教育
は
で行われていた。
●「美術」そのもののとらえ方が、
現在とどのように違っていたのか、
○ 1774 年 前野良沢・杉田玄白らにより「解体新書」が刊行されているが、
これと美術の関係をどのように考えるか?
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考えてみる必要がある。
教科教育法 美術Ⅰ・工芸Ⅰ
江戸末期 幕府の洋学研究所(蕃書調所:ばんしょしらべしょ)が設置
で西洋
され,川上寛(冬崖)が画学局の頭取に任命され、
画の材料・技法を研究する。
2.2. 明治維新の美育
明治維新になり開国に踏み切り、科学技術・軍事など欧米に追いつくた
●蕃書調所
○洋学の教育・翻訳・統制に当たるこ
とを目的として 1856 年(安政 3 年)
に幕府が設ける。幕府は、オランダ
の学校規則に「画学」のあることを
知り、その必要性を認め 1857 年 蕃書調所内に絵図調方を設置し、川
上冬崖を絵図調出役に命じた。絵図
調方は 1861 年画学局と改称される。
めに、欧米の学問をとりあえず摂取することが急務となった。
明治4年 (1871) に中央省庁として、文部省が設置される。その翌年の
明治5年 (1872) に「学制」が公布され、ここに我が国の近代教育が開始
された。「学制」本文で、全国を 8 大学区に分け各大学校 1 校を、1 大学
区を 32 中学区に分け各中学校 1 校を、更に 1 中学区を 210 小学区に分け
て各小学校 1 校を、それぞれ置くとした。全国に大学校 8、中学校 256、
● 1872 年(明治5年)学制頒布
小学校 53760 を設置しようという壮大な計画であった。
明治 6 年 (1873) には 7 大学区に改正されて実施となった。小学校は各
4 年制の下等小学と上等小学とから成る尋常小学を本体とし、女児小学・
村落小学・貧人小学・小学私塾・幼稚小学等も用意されてた。小学校にお
いても学力水準に応じて児童を配置する「等級制」が採用され、下等・上
等両小学科とも各八級に区分された。各級の標準学習期間は六か月で、進
・文部省により頒布された近代学校制
度に関する規定であり、フランス、
アメリカ等、欧米教育思想に基づく
もので、個人主義、実学主義の教育
観によるものであったが、当時の日
本の国情では徹底しきれいないもの
でもあった。
級は必ず試験によることとした。
中学校は各三年制の下等中学と上等中学を本体とし、大学校は理学・化
学・法学・医学の4科を置くとされた。教員を養成する師範学校制度、進
級試験制度、海外留学生、学校財政等も規定されていた。これらの学制の
最大の特徴は、身分に関係なく国民に開放された単一体系を採用した事
であり、当時米国を除けば国際的にもほとんど例を見ない画期的なもので
あった。
「学制」は、明治6年から全国的に施行され、7 大学の設立と学制の規
定の半分程度の 24000 以上の小学校が設立されたが、当時の経済状況か
ら 8 年度の児童の就学状態は、名目で男女平均 35%、出席状況を踏まえ
た実質では 26%程度に過ぎなかった。スコット(米国人)を教師に招い
て欧米での公教育教授法や教科書の翻訳編集しながら、師範学校を整備し
ていった。
美術においても、情緒的な日本の伝統的な絵画に対し、
で合理的・説明的な西洋の描画方法を取り入れることから美術(図画)教
育が始まる。
小学校・中学校に「罫画」や「図画」などの授業が行われるようになっ
た。小学教則(小学校における教科課程及び教授方法の基本を明示した
もの)「罫画」によれば『点線生形ノ類、机案ノ類、平面直線体ニ陰影ア
ルモノ」、弧線体、地図…」とあるように徹底した
主義
的で、描画法もモチーフも西洋のものであった。教科書もイギリスの技
法書を翻訳した「西画指南」や「罫画本」
「図法階梯」などが用いられ、
画を主とする臨画教育であった。この時期の美術教育は、
西洋画
・
画時代と呼ばれる。
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・上等小学「幾何学罫画大意」必修
・ 〃 「画学」随意
・下等中学「画学」必修
・上等中学「罫画」必修
e-mail:[email protected] http://www.yokota-inet.jp/p/
2.3 国粋主義の勃興
明治 10 年代末から、日本の政治動向が開明主義・欧化主義から儒教主
義を経て天皇制国家主義へと転換し、それに伴い美術の分野でも伝統的日
●明治6年 (1973) ウィーン万博で日本の
伝統的な美術が講評を博す。
本美術再興の運動が起こる。
明治 11 年 (1878) フェノロサ来日、明治 18 年 (1885) 文部省専門学務
局に図画取調掛(後 1887 年(明治 20 年)東京美術学校に)が置かれ、
掛に岡倉覚三(天心)
、フェノロサを中心に狩野芳崖、
今泉雄作、
上原六四郎・
狩野友信らが任命され、その調査主意書には、普通学校に図画を置く目
的を実用に供するためとし、その目的達成には鉛筆画やクレヨン画よりも
画の方が良いと記されている。
●フェノロサ(米 哲学者・美術研究家)
・1878 年( 明 治 11 年 ) 東 京 大 学 教
授として来日し日本美術の優秀性を
説く
●京都府画学校(京都芸大の前身)1880
年(明治 13 年)開校
● 1886 年師範学校において西洋画のほ
1886 年(明治 19 年)政府はこれまでの教育令を廃し「諸学校令」を出す。
かに毛筆画が加わる。
内閣制の発足のもとに、
初代の文部大臣となった森有礼(もりありのり)は、 ● 1887 年に設置された東京美術学校(現
学校制度を一層確実なものにするとともに、忠君愛国の思想を核とした国
東京芸大)の絵画は狩野派や円山派出
家主義へと展開していく。
身の画家の指導による伝統的日本画の
みであった。(西洋画科の設置は明治
この時期の美術教育は、
臨画時代と呼ばれる。
2.3. 明治中期以降の図画(美術)教育
明治 30 年頃からは、
画・
画優劣論争時
29 年)
●論争は明治 20 年頃から起こり、大正初
期まで続く。
代となる。
●順進教案
2.4. 『新定画帖』の発刊
アメリカの教科書を参考に、正木直彦、上原六四郎、白濱徴(あきら)
、
小山正太郎、阿部七五三吉等により『新定画帖』が編纂され、明治 43 年
4 月に尋常小学校用、大正元年9月に高等小学校用が発刊される。
課題及びその要旨・教授法が示された教師用書がまず作られ、その後に
児童用書が刊行された。課題は、それまでの画手本が「順進教案」である
のに対し、
「円周的教案」で構成され、知識や技術を確実に習得すること
・1つの課題は1回、1時間∼2時間
かけて、易い課題から難しい課題へ
段階を踏んで進んでいく。(段階的
教授)
●円周的教案
・同一課題を2・3回、時間をかけたり、
学年が進んでも繰り返し行う。(併
進的教授)
をねらいとした。
毛 筆 画 と 鉛 筆 画 の 関 係 に つ い て は、 教 育 的 な 観 点 か ら、 低 学 年 で
を、学年を進めて
を課すこととし、両画法
が同一の次元で考えられるようになった。
図画の種類を臨画・写生画・記憶画・考案画の4種とし、その教授の割
合は子供の興味と発達に基づいて行うと示されている。
(教師用書)
尋常6年教師用書には、臨画、写生画、考案画など 40 課題について指
導例が掲載されている。
(児童用の教科書にはこのうち 17 課題が掲載され
ている)
これらの教授法は、観察→説明→問答→画方の段階を踏む。
白濱は教材に対する注意と努力が必要と力説しながらも「新定画帖は教
師用に依って教授して行けば、先ず誰がやってもだいたい其通りに行く」
と、編纂者としての自信を示している。
しかし、新訂画帳はあくまでも、教授(先生が教え、それを子どもは習う)
と言う姿勢であり、子どもの主体性は重視されていなかった。
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●「新定画帖」発刊後の美術教育
・「鉛筆画手帖」・「毛筆画手帖」・「新
訂画帖」の3種類の国定教科書が存
在し、「新定画帖」とその趣旨が直
ちに全国に普及したわけではない。
・大正時代に入っても鉛筆画・毛筆画
論争が起こっている。
(雑誌「教育研究」事情誌上での阿部
七五三吉と荒木十畝の1年間に渡る
論争)
教科教育法 美術Ⅰ・工芸Ⅰ
【参考資料】 岡倉天心
岡倉天心(1862 − 1913)は、急激な西洋化の荒波が押し寄せた明治とい
う時代の中で、日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政家、美術運動
家として近代日本美術の発展に大きな功績を残した。その活動には、日本画
改革運動や古美術品の保存、東京美術学校の創立、ボストン美術館中国・日
本美術部長就任など、目を見張るものがある。また、
天心は自筆の英文著作『The
Book of Tea(茶の本)
』などを通して、東洋や日本の美術・文化を欧米に積極
的に紹介するなど、国際的な視野に立って活動した。
■美術行政への参画と古美術の調査
明治 13 年(1880)東京大学を卒業した天心は、文部省へ就職し草創期の美術行政に携わることになる。
同 16 年(1883)頃から文部少輔九鬼隆一(くきりゅういち)に従い本格的に全国の古社寺調査を行った
天心は、日本美術の優秀性を認識すると共に、伝統的日本美術を守っていこうとする眼が開かれ、同 19 年
(1886)フェノロサとともに美術取調委員として欧米各国の美術教育情勢を視察するために出張した。帰国
後の天心は、図画取調掛委員として東京美術学校(現在の東京芸術大学)の開校準備に奔走し、開校後の同
23 年(1890)、わずか 28 歳の若さで同校二代目の校長になった天心は、近代国家にふさわしい新しい絵画
の創造をめざし、横山大観、下村観山、菱田春草ら気鋭の作家を育てた。
■理想の実現に向けて 日本美術院の創立
急進的な日本画改革を進めようとする天心の姿勢は、伝統絵画に固執する人々から激しい反発を受けるこ
とになる。特に学校内部の確執に端を発した、いわゆる東京美術学校騒動により、明治 31 年(1898)校
長の職を退いた天心は、その半年後彼に付き従った橋本雅邦(がほう)をはじめとする 26 名の同志ととも
に日本美術院を創設しました。
横山大観、下村観山、菱田春草らの美術院の青年作家たちは、天心の理想を受け継ぎ、広く世界に目を向
けながら、それまでの日本の伝統絵画に西洋画の長所を取り入れた新しい日本画の創造を目指した。
【参考資料】 『新定画帖』
【課題学習について】
○5月2日(月)の授業は第1回の授業で予告したように課題学習とします。
・L2 での講義は行いませんので、各自が別紙の【課題1】を行うこと。
・課題の提出は、5月9日(月)の授業開始時です。(提出期日厳守)
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