明治期以降の小樽遊郭の発展 北海道大学大学院 経済学研究科 小林大州介 明治5年(1872)、明治政府は人身売買禁止の観点から芸娼妓解放令を施行し、同時に女郎 屋を意味する“貸座敷”に許可制を導入した。以後、娼妓達は国家の管理下に置かれ(今西 一[2007]『遊女の社会史』有志社)、北海道でも札幌、旭川、小樽、根室、釧路、函館など の遊廓に対して、開拓使による管理が行われた(渡部英一[1925]『北海道及花街』北海道乃 花街發行所、小寺平吉[1974]『北海道遊里史考』札幌・北書房刊)。中でも、海運で栄えた 小樽、防衛の要所であった旭川には、域内に 2 カ所の遊郭が設置された。本報告では両者 の遊郭関連資料を比較しつつ、小樽遊廓の特徴と発展形態を検討してゆく。 小樽と旭川の間には、開拓と防衛という国家事業に翻弄された旭川と、海の要所として 経済発展を遂げた小樽という際立った違いが存在する。どちらの遊郭も、その発端は自然 発生的な密売淫であったが、旭川の場合は明治中期における鉄道敷設に端を発しているの に対し、小樽の場合、幕末からの遊里であった金曇町であった。遊廓立地に関しても、旭 川住民の遊廓設置反対の意見は国の強い意向により封じられたのに対し、小樽では住民の 意見が強い影響を持ち、反映された。また、旭川の曙・中島両遊廓の盛衰は陸軍第七師団 の動向に翻弄されていたのに対し、小樽の南廓、北廓はどちらも隆盛を誇り、両者は対抗 意識を持ちつつ“南北戦争”ともいえる競争を展開している(下川耿史・林宏樹[2010]『遊 廓を見る』筑摩書房) 。 上記の論点を基に、小樽の遊郭は小樽の経済的基盤から、比較的国家の動向とは独立に、 自由な花街文化を築いていったのではないかという仮説を、旭川の事例との比較を通して 考察し、議論することが本報告の目的である。
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