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『和漢朗詠集』所收唐詩注釋補訂(四)
植木, 久行
中國詩文論叢. 10, 1991, p.187-201
1991-10
http://hdl.handle.net/10129/4364
本文データは中國詩文研究會の許諾に基づき複製し
,掲載したものである。
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http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/
187
﹃和漢朗詠集﹄ 所 牧 唐 詩 注 裡 補 訂 側
流れて海へとそそぐ銭塘江(前江)のほとりに立つ高棲の意。
房・朱・王)。杭州刺史在任。一江棲﹂とは、杭州城の南郊を
O長慶三年(八二三)の夏、作者五二哉、杭川での作(花
居易はまた、﹁東棲南望八韻﹂詩(者初、後集在 5) のなかで、
集を 5) の自注に、一城東の棲を望海棲と名づく﹂という。白
州の川聴内にあった高棲らしい。白詩﹁杭州春望己(巻初、後
れ、杭州城の南端にある鳳嵐山の東側、銭塘江を術敵する杭
三に望海棲と筒、一ノく。喜治(鳳恩山下にあった唐代以来の杭川
の役所)の中和堂の北に在り。(北宋の築史)﹃太平嚢宇記﹄
は現在よりもかなり銭塘江や海に近く、それで特に眺望にめ
標高一七八メートルの鳳嵐山の中腹にあり、しかもその場所
安士宣告二、東棲の保参照)。なお、唐代の杭州域については、
が、南宋の初期になると、すでに慶されていた(周蒜﹃乾道臨
ちなみに、北宋の蘇賦にも﹁望海棲晩景五絶﹂の作がある
(3)
(在九三)に、望潮棲と名づく。銭塘燃の南一十三里に在り。
ぐまれていたのであろう。
﹃和漢朗詠集﹄所牧唐詩注樟補訂帥(植木)
きの詩、多く此の棲に子いてこれを設す。査くは載せず。
案ずるに、白公(居易)の、郡(杭州品開杭郡)に在りしと
l
に置く ﹂とあり、本詩などを引いていう、
棲の高さは一十丈(約三0 メートル)、唐の武徳七年(六二四)
﹁郡中の登棲の慮、此の東軒(東棲)に勝るもの無し﹂と歌う。
南宋のは批判恥﹃淳一肺臨安志﹄巻五、奮治古蹟・東棲の僚には、
と。南宋の潜説友﹃成淳臨安志﹄巻五二、府治の候も参照。
行
-一五O 番 白 居 易 一 江 棲 に て タ 望 し 、 客 を 招 く ﹂ 一 風 吹 枯
久
要するに、江棲とは、東棲・望海棲・望潮棲などとも呼ば
木
木晴天雨、月照平沙夏夜霜﹂
植
188
第十集
好ましくない。やはり、﹃白氏文集﹄の各テキストに従って
中園詩文論叢
周峰主編﹃隔唐名郡杭州﹄(淵江人民出版社・杭州歴史叢編之二、
蒼と生い茂る、ものふりた大木の枝や葉が、風にざわめいて
﹁枯木﹂を﹁古木﹂に校改すべきであろう。柿村﹃考詮﹄に
設する﹁清涼﹂な一音の形容と見るべきであろう。晩唐の方干
一九九O年)の専著があり、巻末に付載する﹁唐時期杭川園ー一
本句は東棲から銭塘江付近を怖敵しつつ、聴血児(上旬)と
﹁龍泉寺の絶頂﹂詩(﹃三種詩﹄巻二)にも、﹁古樹は風を含ん
古、是﹂という(金子・江見﹃新津﹄も同じ)。穆
も﹁枯字作 v
硯費(下旬)を通して夏の夜の﹁清涼﹂(本詩第八句)感を歌
で常に雨を帯ぶ﹂と歌う。
も参照に値する。
だ夜全躍を意味する言葉である。
かしょこうむ
て闘を出ずる詩﹂の、﹁古木上って天に参わる﹂である
詩語一古木﹂は盛唐以降愛用されるが、なかでも劉長
悠久の時の流れや荒慶の感鹿児、違境の寂察、庭園・山野
卿は、この言葉を多用する(国例)。士口闘や古廟における
の雅趣などを博える働きをもち、それを使用する場所も
ω
川﹁古木ー一の語の初出は、六朝末、陳の何膏﹁使を被り
メージを失のように分析する。
ところで佐藤保﹁古木考﹂は、詩語としての﹁古木﹂のイ
う。﹁タ肇﹂のタは、ここでは﹁夜﹂と同意。夕方をも含ん
。︹風吹枯木晴天雨︺類似した護想は、すでに﹁遺愛寺の
前の渓♂持に題す﹂詩(告げ、四七歳の作)に﹁暑天風慧意、
晴夜雨凄凄﹂と見える。また﹁秋タ﹂詩(巷印、四十歳の作)
には、﹁葉聾落ちて雨の如く、月色白くして霜に似たり﹂と
いう。この﹁秋タ﹂詩を踏まえての護言であろうか、﹃私注﹄
きうぼく
い、﹃抄注﹄にも﹁枯木トハ、モミチ(紅葉)タル木欺。落葉
多様化する。かくて中晩唐期には、詩語﹁古木﹂のイメ
に﹁枯木とは朽木なり。其の葉の落聾、雨に似たり﹂とい
ノ一音ハ、ハレ(晴)ノソラニモ、雨ノフルトキコ(聞)ユル意
ージが完全に定着する。
也一とある。つまり、風に吹かれて舞い散る落葉の一音を、そ
ぼ降る雨のそれに見たてた設想、と考えたわけである。しか
﹁士口﹂は永遠の時の流れを意味する歴史感費をもつが、
﹁老木﹂﹁老樹﹂の﹁老﹂は時間の限定された生命感賓の
ω
ことは、やや飛躍しす、ぎているようである。しかも﹁枯木﹂
言葉である。他方、﹁木﹂は樹木の線韓、または樹木の
し、盛夏の情景として揺落の秋の﹁落葉﹂する一音を思い描く
の場合、一木﹂字が狭義の一孤灰﹂を犯すことになり、一層
D
189
樹木たる特性を抽象的かつに捉えるときに用いら
に用いる。
れ、﹁樹﹂は逆に個々兵種的な生命鰻としての樹木を
るに、に最も影響を輿えたであろう作品は、同
一一議診・平沙ナド武ヘルモ、
ハアラズ。
ハマト
トナリノ。
の、一日藩ちて盟碑培く、風来りて古本吟る﹂の句であろう
う。これは長江の岸ベにある江州︿江酒者九江)での作、なか
紅にしてに浸し、沙自くして月卒らかに錨く﹂と歌
白賠
Q酪臨海集護法﹄巷二所牧﹀。ただその荒涼・
9
も、﹁丹は新霜の色を帯と歌っている句酬夢得霜夜艶月見
易の場合は、前鶏の﹁月色白くして霜に似たり﹂のほかに
一九八C年
︺
地を産く
袋
一
一
一
、 沙の擦には、抄には
閣の一一演﹂
(6
﹀
して紹介する。
。長慶二年(八一一二﹀の初憂、作者五
内の自宅で︿花房ふ・託﹀。
﹁風生竹夜窓関臥、問
-一五自居易
懐﹂詩、器部、後集在日持﹀。
明るくし
る比喰は、李自の﹁静寂思﹂の用例が特に有名である
でも後句は一面に降りそそぐ丹光のために白くきらめく沙地
詩(前掲﹀に
護江提は向くして晴沙を踏む
れば、あるい護岸の白い沙堤を指ずか。白沙の水建が佼絞
たる月光に賊らされて、より一層白くきらめくのであろう。
や王汝弼門出活易建築﹄
一設に、この卒沙は﹁卒地﹂の(顧皐額・馬汝品吋臼
など)。
2
を意味する用法があるとし、
と表現することができる、
巻四、の僚にも、
叫和漢弱詠集﹄所歌麿持法難補訂駒(植木﹀
に贈る﹂
、蘇試は本匂を、﹁白
L とあるちによ
とは、銭塘江の
を歌い、本匂のイメ iジともれ似かよう。月の光を霜げいたとえ
一百韻:・﹂詩ハ経路﹀のなかで、﹁設
えてよいだろう。
雨意を含ませたかたちで、水
ス
させたところに、の工夫が為るわけである。
しかし、本匂の
ナト一五コト
のい
くれなゐし
謹と
木の鳴る衰の暑さを忘れさせてくれ
論文にも引く路賓王の﹁張平子︿後葉の張衡﹀の墓に過る﹂詩
と
190
中国詩文論叢
本詩作成時に
朝より鯖り、
為ったかどうか
第十薬
なお、川口まには、︿文集
を
還り慮る﹂詩﹀とあるが、これ
ない︿﹃文感知本も同じY 誤解な招きやすいの
あろう。
八年後の
ではない。
るべきで
る
て
て行の
を措寓す
いて
一五々とあるのはよれば、三とは、
ったコ堂﹂内の北警のもとにある、
紙を貼らないをいう告なお、向詩にはさらに、炎熱の一一一
しやたか
ろ
hUL
決のとき、朝廷から野ると、﹁竹窓﹂のもとで衣裳をお、き、
紗の頭巾をかぶる。そして六尺の小さな竹聾の上に臥すと、
風があって一晩中涼しいと歌う。本詩ハ一一九一番)作成の年の
露関
ハ
其 、巻話、
(巷幻、後集脊 6﹀の
などによれば、
む存んだらしい。
﹁池上竹下
の間は、ほとり、そば、 あ た り 窓 護 ・
枕鰻在り、来後何人か寄る﹂と。
新昌ハ坊﹀の堂の、薫粛ハ駄の一音﹀たる北窓の下
ハ
を 8﹀
ιも、その決遁さななつかしんで、こう歌う、
紋、都長安から杭婦へと赴任する途中で得った﹁竹窓を閉山
レ
ら
あ
は態く
後集巷 4﹀の﹁率問
︿午涯を含む﹀
で
.
b
の
の
191
ちなみに、岳居易の竹
との部には、陶淵嬰と弟、
かりでなく、議藁と玉ったてる竹眠、そ
れとともに醸し出す静関をも野んだようで島る。
ヲ
も
、
とハ二八一一良﹀。さらに
R
J
〆
h
u
、
一っとしての樹石﹂をあげ、のようにいう、
﹂ JJih
ー
ヲ d B h u雫
過去げいおいては、多く﹁調底﹂とか一山曲﹂の松や竹が、
文思?の題材であり、取り上げるのは、倫理的な構感︿四季
官通じて襲らぬ綾を保つ欝操への共感i引用者注)であった。し
かし 日
r 岩易が頻りに歌うのは、震前の転と討であり、しか
ためであろ
枝 に 聾 る を ﹂ ︿ ﹁ 新 栽 竹 ﹂ 議 9﹀ と 申 の ﹁ ス ス ミ ツ シ
タ竺意辻、この重要な貼を見逃しているようである。なお
、在﹄は、一!風生竹夜;一の生を﹁来ル義邑﹂とするが、和
(珪生する)のままでよい。
i
︿吋文産﹄本では、﹁ m
m
然の詩ハ一 諮業部山一局、待了日仏品不革﹂)に、
とある。
c
争品、
方を観望できるように作った高い建物。高どの﹂と注する﹀、
一刑者の
あろう。しかし、
年、品川村則仔執筆﹀に
心重量)をいう
かえれば、この蓋は
o
l
u
v
戸
、
,
ず
れ
するに青瓦を以てし、之を白沙の
は、現らかに松の生える白沙の中
て
を
首﹂ハ其二、を初、後集餐叩)にも、
般
的
一「
もその松籍や竹韻が動機であった。白居間にお
υ
ハ植木)
;
主
繁
↑近くして臥せば、数風
の場合も、 その
ける、訟竹ののである。
と(四七一一一頁)。
ノ。
h
﹀
﹃和寝朗一試集﹄
造根
謹
天
と
林:林三
平日な竹こ
の
あ
る
192
中関持文誰叢第十集
c
c この蓋も
このほか、﹁大兄
たにす令後、新昌豪ょの七株の松を﹂と為る
自宅内の中誌を指すことは疑いない
たてまっ
仕 上 る ﹂ 詩 ハ 巻 M﹀ の ﹁ 濁 り 荒 蓋 に し 望 一 め
ハ
日
﹀
日は西にして愁ひ立って黄昏に到れり
荒れはでた高豪をいい、決して
︿
ロ
﹀
ん、建物な沖るときの
えられ
は、じっ
いで謹頂を受けた名料、
(M
﹀
ており、その位震は前述の柴遊原の
部にあたっている己白居易の自宅辻、その青龍帝か
望一のもと応あ
・;﹂ハ脊印﹀には、ハ大切宮の丹愚門﹀は後に雷り、
あ
を越えた巽北にあった。自⋮口﹁新品の新吾、事を書
ところで
のイ'メ;
うして考えてく
しても知られた
もしく
c
送連(迭
なろう
る。これは、
く
用保として、﹁新たに
の自宅の
、と藷すのは、
し
の⋮卒去高さ数尺、
げること、ができるむ
も、じつはこの
ょう。
しかし、
はなく、自然のまま
メi トル﹀
ちなみに、
﹂という
松蓋に上つ
の白詩に
ハ標高約四五C
ょう。岡村
集
は、長安域内の高い
ているらしい。新昌坊一内の
第
えてそ、本詩の第六却の﹁
叢
換の宣帝ハ前八七 J前七
文
論
の一角を占めていたむ繁遊原とは、
中、鹿
り謡えする客)無し﹂ともよく呼臨すること
野拙の
の東北龍を中心としつ
ミ
三 i
土中
西年在位﹀合同る紫遊患のあっ
・宣千など﹀にも農がる高原で
︿日)
経印﹀。青龍関と
一の自宅を、﹁背龍南の北
と歌うハ﹁題新賠、寄元入﹂
易はか
つ、そのハ新日日・昇道・
ある。白
四の
て
L、
し
、
コ
ペ
193
(院﹀は美しいおおわれていた
である。
篠にいう、
祉、一九九C年﹀
には﹁陰間﹂に作る。
O ︹線樹陰前︺
えかたい
﹁陰中いとほ
(中州吉籍出版
日本的規受美応よる捉
附
一
掃
﹀
は
、
山集異文考い 2⋮
是ー一とある(吋新鰹﹄も向
らいえば、﹁幾議﹂に作るべきで為ろ
誌の各テキストでは﹁残暑一に作る。
謁下聴い、巻目﹀などと歌っている。
安の中書省において、︹制限(閑静﹀は愛す青玄口の説一(﹁偶題
かけい
白居易は育苔のおおう
む友人、の留守宅を訪れての作で為る。この移業坊付近
風景を特に好んだようである。母の喪に設して退居した下郊
w
(
器m
﹀、﹁境涼偶一散﹂
9
も業議療に隣接する高葦である。﹁松基﹂とは﹁桧が生えた
の自宅で、﹁関歩す青苔の院﹂(﹁秋君、在叩﹀と歌い、都長
-乗
とをいう。白詩応は、﹁仇
﹂(春日初、後集替口﹀などの
てすずむこ
の池については、一一回参照。逐涼は納涼・
(議鈴、後集巻 4﹀、﹁油幹
つ内題にて涼を逐ふ﹂詩に、﹁涼
涼などともいい、暑さ全涼しい
類題が島る。古くは梁の
(
を
落花の中﹂とあり、梁の詩文帝
などの詩が浅る。
の自宅での洋平朝課﹂
)
,
7
'
"
r
:
:
t
1'-
正斗
は、この松塞もおそらく、その地が繋遊原に
ハ一一首其 ﹀﹁青武口地
の
場
棄地い(関村吋由民文集い一一一の注﹀を意味するがより兵糧的に
あったことを措まえての措爵であろう。要ム
な逐ふ
ているのではない。
-一五九番白居易﹁池上
L
弘、明耐
での作︿花房・朱﹀。太子少縛分可在伍。池上は池の上り。こ
O開 成 一 克 年 ︿ 人 一 二 六 ﹀ 、 作 キ の 自 宅
上錯残雨、議樹陰部逐晩諒
〉帰
によれば、
の
V
C
、
を納る古河楊の
沼、議集巻 2﹀の﹁静かに掃く
の
の
2相撲蕗詠集知所牧慶詩技韓議訂紳(植木﹀
の
も
194
よう。ちなみに、﹁中﹂を音
漠然と場所を表わす軽い名詞語尾になった賓態と関連してい
く、これらの方位詞が卒灰や封句などの修辞上の制約から、
と。﹁頭﹂字もこの中に加えてよい。こうした現象はおそら
津本に擦って﹁夜境﹂を﹁夜憶﹂に校改するが、むしろ﹁憶﹂
に作る。卒阿武夫・今井清校定﹃白氏文集﹄(第三珊)は、金
注﹄には﹁池上夜憶人﹂に、﹃六注﹄には﹁池上夜涼憶人﹂
﹁池上夜憶﹂と題する(堀部正二﹃校異和漢朗詠集﹄)。他方、﹃私
侯爵家所蔵博二候魚氏筆本や岩瀬文庫所蔵延慶本などにも
第十集
E日南北朝詞語例四樟梓﹄(江蘇古籍出版吐、一九九O年)﹁前﹂
浩﹃貌 菅
字のほうが﹁境﹂の形詑とも考えられる。というのは、本詩
中国詩文論叢
の候参照。一例をあげれば、梁の氾雲﹁、途別﹂詩に﹁未壷樽
の重黙は明らかに﹁池上の夜境(夜景)﹂を歌うことにあり、
﹁憶ふ﹂あるいは﹁人を憶ふ﹂要素はきわめて乏しいからで
︹補注︺
前酒﹂とあり、﹁樽前﹂は﹁樽中!一の意。
こかげ
O ︹逐晩涼︺木陰での夕涼みをいう。﹃六注﹄に、一逐トハ
ル也﹂とある。白居易はこのとき、一軽い下駄をはき車衣を
た夏の敷物(竹製のござ)。和名はタカムシロ。熱い夏に寝牽
O ︹露箪︺箪は、総の竹を男き、(その表皮を)編んで作っ
この音山味である。白居易は、特に一六尺﹂の小箪を愛用した
5)や﹁秋は箪上より生ず﹂(﹁夜坐﹂、各 U)と は 、 い ず れ も
てんさ
著て、薄い沙の帽子をかぶり、浅い池の違の低い藤棚のあた
(株)のうえに敷き、なめらかで涼しい肌ざわりを柴しむ。そ
ある(佐久節の課参照)。
りを散歩し﹂ている(佐久節語)。﹁晩涼﹂の語は、すでに杜甫
の心地よい絹感が肌寒く感じられるようになるころ、すでに
朝ススミヲハ木隠(木陰)ノ西一一求メ、夕涼ヲ木隠ノ東一一求ム
の詩(﹁輿任城許主簿遊南池﹂)に一晩涼洗馬を看る﹂と見え
秋が訪れている。白詩の﹁露箪秋意生ず﹂(﹁涼夜有懐﹂、在
白居易﹁池上の夜境﹂﹁露箪清笠迎夜滑、
さしやほとりふぢだな
る
。
-一六O 番
唐代、斬川(湖北省東端に近い長江ぞいの地)産の箪が特に有
きし中う
。大和四年(八三O)の夏、作者五九歳、洛陽の履遁里内の
名。韓愈の﹁鄭群箪を贈る﹂詩に、﹁斬州の笛竹(十日川)天
らしい(前掲の﹁竹窓﹂や﹁招東隣﹂(巷 7] など)。
自宅での作(花房・朱)。太子賓客分司在任。池上ば前詩(一
下知る﹂とある。白詩﹁李斬川に寄す﹂詩(巻弘、後集在日)
粛一躍先秋涼﹂
五九番)と同意。詩題は金津本に﹁池上夜憶﹂に作り、前田
風
襟
1
ヲ5
ならかいえふてん
の自注にも、﹁鞍州は好笛井びに蓮葉穫を出だす'一という。
の持に封する愛は竹で作ったものにまでおよんで
い
守
分
。 箪・杖・務などがそれである。青幾筆・碧箪・新
年地らおおにらし
産業躍とは﹁滑かなること難の葉を鋪くが如き﹂ハ出詩﹁寄
2ハ迂﹄には、一ー一蕗ハ、スキトヲルトヨム色一という。
的注調伊は、白詩企⋮則一掃の﹁容鞍苅箪、輿元九・:の
が
し﹂の解穫と関連して興味深い。岡村
は、この匂を﹁露が下りたように溝らかで潤いがみめ
る﹂箪の措寓とする(一ニ八三一員)。筆者辻、﹁関タ︺詩(器
にい﹀フ、
ある竹葉﹂(締村吋要解b
になお、
犯、後集を 2) の辺地箪詰くして露有。﹂の匂をも参類して、
堤留吉
内和溝朗⋮ 結
ι 集﹄所枚謄詩草棒補お締
と(二八一一一頁
)Q
用いたものと思われる。
)
-
入ると、降りノ
Jbsヨ ︿ 貌 ) ﹂ 、
に作る︿句校異和
ため広一緒省、表面が、すべすべする
滑らかさと冷やかさが箪である。夜に
に擦って
埜:一にに作り、鐸譲原定額筆山域切や
というむの字には、一種の涼惑もこもる。ところが一ー清
容 語 。 品 別 戴 涼 夜 、 奈 5) に ﹁ 露 箪 色 は 宝 に 似 た り 一
のごとき輝きと透明惑に満ちあふれた清潤さをいう盤韻の形
に﹁キヌクススシケナル完}とあるが、本来、費十ふれ
(
詩
洋
一
円
)
に
一
ろをみると、あるいは休憩に、あるいは訊践に野んで
制恥・臥筆・小譲などの語ーがしばしば沼市いられている
る
む
薪州輩、興元九、間賭六韻﹂、奮は山)惑が為るための命名であ戸
i
演群芳議官在位、竹譜・竹一、一 薪
竹﹂の設には、﹁色
ん薄﹀ある者者以て箪を鶏り、節の疎らなる者もて笛を
壌 を 帯 ぶ る 者 も て 杖 を 震 る ⋮という。いわゆる斬竹の
7
︿﹁送、氷議
﹂とから、夜
ある。白居易は、この舟箪﹂を愛用し、友人の光
っている。も、島るいはこり川
み Jh
と
Q薪樺﹄参熊﹀。 写参
の
王賛宥護婦懸﹂)に、﹁夜深けて露議を課‘とある。ところ
に入っていう
ちなみに、
か損
196
中題詩文論叢
第十擬
江文字どおりべ水
てのつ滑らかなり﹂とあり、
﹁秋池二首﹂ハ其一一、山菅沼、
ことをいう Q新 制 仰 い つ ま り 、
気があってつるつるする意。
にも、
(紅)
かなり﹂の匂もある。
えりではなく、
c
F
す﹂⋮不是樺房無熱到、担能心静邸身涼 ⋮
L
てら
ここでは作者を、﹁人
苦し
の作︿花・朱
こうと平︿
・一六一寸熱きにしんで、恒寂姉の
。一克和十年ハ入⋮五﹀、昨者四
﹃護校与、
命酷暑、の南意がある。﹁苦熱喜涼﹂ハ審問﹀の
G
苦炎熱﹂などは①の m
m例、﹁苦識に詩ハ管錦、後葉春山﹀の
堪建苦熱﹂などは②の用剖であろう
荷村富美子づ臼柴夫恥は﹁苦だ熱きに、:﹂と謹む。一組寂師
の﹁議﹂︹限定︺に注吾)、ひとまず通設の舎に従う c ただし、
人馨を避けて走ること狂へるが揺し、瀦り捧師の房者
に向かっ
辻、風が胸もとをなでる爽涼感をこめた表現
辻、宋玉の
(﹃元横集旬怒川WY また元橿の﹁思議・出向・
織の詩題には﹁和策天鱈雲寂借﹂とあ
出﹀によれば、彼の座簿の姉であった。ちなみに、白詩﹁桓
辻不詳。合詩の問年の作﹁恒寂部﹂(﹁重判的援七紹句い其七、巷
出でざる有り﹂と歌われる﹁人人﹂の一人として捉え︿京匂
cよ
H襟﹀を開い
て坐せば、一夏日も秋時の如し﹂と歌う
姪に示す﹂詩ハ前議﹀には、﹁衿ハ
a
黙の賦﹂(﹃文選い泰円以﹀の、一(楚の議﹀
に山富たる﹂
爽やかでいの形容語。
。}参
とうもけい
ぅ実番
四時部・
D
﹁題'⋮は
なお吋六詮﹄に
の一室か
︿明党構集﹄巷 mw
﹀の一人、震上人も向
と芸
あり﹂とあるように、精神的な解放感をこめて用いることが
らんにやすなは
﹁蘭若︿寺読﹀の寓岩﹂(在 6﹀氏、﹁行止は親ち白
J
蟻藤たるを費ゅー一という。吋抄詮﹄に一 ススシキ
の大江経時
日
召
多い。
虫、甚だ身
に密着さいがあろう。
し、ー
の孔誰珪﹁北山移文一(刊文選﹄審制)にる出席摺の制
いてこれ
を含めて五例使揺する会索引引﹄)。﹁新たに事基・
G
や﹁胸襟﹂などの熟一誌が生じてくるわけである
ふさぐ部分をいう。それで
襟は、い
し
ι ﹁冷やかに身に浸と注するのは、下匂
も
て
Jコ
克
﹂
、
の
197
一ー不是﹂
﹂に作る。の
の冬テキストではに﹁可
闘して、関村﹃臼氏支集﹄四は、
かつて我が露に博来した﹃白氏文集﹄本げいは、﹁可是﹂
提匂﹄に擾って、
⋮の繰にも、韓愈﹁撤樹二首﹂ハ其一一﹀の
立、可ん什針げ煩議蔓作交加﹂をあ浦りていう、
是枝傑
i
一可
煩﹂を﹁侍煩﹂に作るテギスト辻、﹁可﹂
に﹁山一去を意味する用法があることに気づかず、(何
たものである。通ずるけれども、じつは本
の人々にとっては、より一一層理解しにくかったであろ
のこうした俗語的用は、外露であるわが
はない。
を意味する径語的用法がある
あり、﹁可﹂
われる。しか
﹁濁り身を怒ふるまでに数柏見るベし﹂一五
できたことに端的広
の濁﹂辻明らかに﹁山一旦獲﹂の
あベ
しばしばあひ
に搾る異文は、じつは一可﹂の
は、﹁可﹂と
う。このことは、五七三番の﹁可濁移身敷桔見、子孫長存隔
G
こうした新
﹁
出
回
一
﹂
ために妄改された可
あろう。とい
をっていた本があったことがわかる。
うのは、
{子に
ことに気づ文意を通れツ
議性がきわめて高いからである
は確かに通期したが、震・五代になると、
を意味する新しい用法が多用さ
は﹁可にいもしくは﹁可けんやいと讃むべきとろである
の
興の裕一語的用法は後世の人々を
に懇身
を、﹁向﹂に作る異文は多くめるが、﹁不﹂
p
この﹁可濁﹂を﹁不弱﹂に作ることであ る。中留で
は、こうした
どで
ところで特に興味深いのは、
ることになる。
は令く﹂ハ否
Q詩家推鼓﹄悲上審 mmQただし、島本では﹁何﹂に作る﹀。よりく
例として、この
一九輯、には、
話造成異文一の
無線糞花概黄葉可ん川作須春月始傷心
例をあげれば、呉融﹁本塔偶題﹂詩に、
とある完全庸地配容六八六﹀。傾繋すべき設である。
ハ第四衣場訂本)韓虚字、
明和理鎮詠集﹄所牧藤持法輝補訂倒
︺は﹁ただ;
王じさせる要因になった。郭
その
従
198
に作る例はほとんどなさそうである。ところが﹃和漢朗詠
い、形も似ている﹁何﹂﹁不﹂に改めようとするだろう。
(中略)可の字が(正しく)譲めない時は、意味の通じやす
可と不は筆勢によってはほとんど巨別がつかなくなる。
第十集
集﹄に政める﹁山豆﹂を意味する二つ用例の讐方に、﹁不﹂に
その反封に、﹁何﹂または﹁不﹂の句は意味がよく通じる
中園詩文論叢
作る異文が存在するのである。豊田穣﹁唐詩俗語放!一(養徳社
を鏡く分析する。そして前掲の五七三番の詩句に着目してい
と述べ、﹁可﹂一何﹂一不﹂の三字間における異文部民生の原因
ろう。
から、意味の通じない﹁可﹂に改めようとする者はないだ
刊﹃唐詩研究﹄所牧、一九五三年)には、唐詩中の一可是﹂が、
ある場合には﹁:・でせうか、さうではありません﹂、即
ち﹁不卦﹂﹁並不是﹂といった強い否定のひ U恥として用
ひられてゐる。
じないから、文字の誤りが有ると考え、可の字によく似た
まり、一可濁終身敷相見﹂を肯定文としたのでは意味が通
不の字は日本の寓本だけにあるのも意味深長である。つ
﹀内ノ、
理解したうえで、それを意園的に﹁同義の文語表現へと書き
六この例⋮相是梓房無熱到)を引いて、﹁可是猶山豆是、亦却
不是也﹂という。とすれば、口語﹁可是J﹂の意味を正確に
不の字にしてしまった。その時の寓本は恐らく草書に近
と指摘し、郭在胎﹁唐詩中的反訓詞﹂(﹃訓詰叢稿﹄所牧)に
かえた一可能性(柳瀬喜代志﹁和漢朗詠集異文考﹂)も全く否定
く、可と不がよく似てたのではなかろうか。草書字典を見
緋九ものがあったわけではなかろうと考える。ちなみに、﹁可
是﹂の是は、副詞に軽く添えられる接尾辞(副詞語尾)であ
是﹂は﹁可是﹂の妄改であり、中園博来の寓本に﹁不是ー一に
と。きわめて示唆に富む設である。筆者は現在のところ、﹁不
られる。
る
ル
﹂
、 この二字はほとんど見分けがつかないものが見受け
しきれないが、むしろその意味を把握しかねて文意を通りや
c
すくするために﹁不是﹂に妄改した可能性がきわめて高いよ
うである
(
幻
﹀
大野峻﹁白地ポ天の詩﹃放吾一口﹄二則﹂は、 こ の 論 黙 に つ い
て、きわめて注目すべき護言をする。
可・何・不の三字は草書の字形が似ているため混同され
(お)
c 昔は完本で博承されたのだから、異本が多い
やすかった
のは必然の結果である。ことに草書ともなれば、可と何、
1
9
9
号、﹁定是﹂﹁必是﹂
で、川口謬に﹁ただ心を静かつて観れないの大曾
いいかえ
根諜に﹁ただ樺舗の心が安静で飽れないから﹂とあるのは、
︿M持
)
L とある。
L持にも、一安揮は必ずしも山水
を須ひず、心中を減持すれば火も白から、諒し
ももおりづ
一変司慢空上人の院に題す
種の﹁清道詩いであると理解すべきであろう。晩唐の杜萄鶴
たうえで、より普通的な﹁輿理﹂へと昇華させた、いわば一
する直接の賞讃というより辻、むしろ日諮した獄況を踏まえ
れば、本句は、猛暑をよそに卒然と産揮する担寂師の姿に裂
G
じ。白居易はしばしば一‘是﹂字を用いて
ヲ移ス
:但﹂の意味を正しく理解していないことになる
院
。
する。花房英詩吋白居易研究﹄四五
珂︺一担寂師の移業する
部チ曾房'也﹂とある。
。︹担能心静即身涼︺は、﹁もし:::しさえすれば
︿知岬﹀
摘する(三四一一員﹀。したがっ
には、﹁︽只要︾は古い白話で辻
(こういう結果を招くどと、必要銀件を提訴する設定の用法。
ということが多い ι と
と歌う。
に浩えうせる曹
詩ハ義務、
も、一である。白居易はまた、
勝師と林下
の極みが雑念の
知る念に蕗ひて
︹
法
︺
↑語、
務務、九人一年﹀参照。
(3﹀織腕嵩山﹁杭州域市的興趣及其誠監的義展﹂︿句歴史地理旧制制
在思態山牛、故見潮也﹂とある。
牧める﹁落海婁晩景思絶﹂に劃する清のヱム文語の注に、﹁棲
ハ2﹀孔凡謹黙校叫蘇拭詩集い老人︿中華書同局、九八一に
ハ1﹀﹃或博臨安士官巻十六、﹁府治問﹂参照。
関れ
漸;
でもよい会詩家推蔽﹄
ハ﹁賠都農往還﹂務部、後
はと誌
の一つハ其四十二、
ょう。この
「か
卦で
て、こうした﹁位﹂は﹁もシ﹂
議上、﹃文語解﹄巻二﹀。﹁但・:部﹂は、
就﹂にほぼ者臆する表現で為る。白
が呼躍する。
︹ふりはらういすれば、使ち是れ遺違たる地上の仙﹀の
集巷玲﹀の﹁畑一能科撮人間事、使是遁進地上伯﹂
場合は、
い、﹁右丞相、但だ龍く人を済ひ閣
を泊中駒陰陽白剤へば、官牛顕十作をがわたるるとも防庁無し﹂
能は
の
と歌う。つまり、﹁但能心静﹂は円もしも雑念をなくして心
つことが
吋和漢鰐詠集﹄所設庸詩設樺積一訂帥ハ植木﹀
モ2
ノ
し
2
0
0
中園詩文論叢
第十集
安住宅坊里小考﹂(﹃白居易研究﹄所取)、王拾這﹁白居易雨
京宅第考﹂(﹃祉曾科皐戟線﹄一九八一年二期・文塞皐)など
奮朴政本による。宋版・馬本は琵琶を械械に、雨を露に作
る。卒阿武夫﹁白氏文集における刊本と嘗鈴本の間﹂(﹃かが
(4)
拙稿﹁唐都青龍寺詩初探﹂(平河出版社刊﹃道教と宗教文
参照。
﹃お茶の水女子大皐中園文皐曾報﹄八続、一九八九年所牧。
(日)韓愈﹁鄭群贈箪﹂詩には﹁八尺﹂の箪が歌われる。
(日)六六番の注参照。
化﹄一九八七年所牧)参照。
(H)
み﹄十競、一九六五年)参照。
(5)
﹁非自詩圏文皐﹂と l ﹂(﹃文皐﹄一九七七年六月披)にも、
小島憲之﹁平安びと漢詩表現の一ふし│﹁被白詩圏文皐﹂と
詩語﹁古木﹂への言及がある。
(国)﹁病中逢秋、招客夜酌﹂詩、巻 8、後集を 1参照。
(げ)佐久節語注本第二冊五九七頁など参照。
(四)﹃和漢朗詠集古注罪集成﹄第三巻所敗。
ただし、清の播徳輿﹃養一驚詩話﹄在三には、﹁余按此二
語殊平浅、非自詩之妙者、不解東披何以賞之﹂と反論する。
(却)﹃文選﹄巻八に牧める漢の揚雄﹁羽識の賦﹂にも見える。
(6)
いま、陳友琴編﹃白居易巻﹄(古典文皐研究資料品粟編)によ
王鎮﹁試論古代白話詞匪研究的意義興作用﹂(﹃文史﹄二五
集、一九八五年)参照。ただし、唐以前にも若干、その用例
(μ)
詩ノ落句也﹂とある。
(お)﹃和漢朗詠集和談抄﹄(詩注)には、﹁悟道詩ト云フ絶句ノ
(幻)下孝萱﹃元積年譜﹄元和十年(八一五)の僚参照。
(幻)﹁酬牛相公﹃宮城早秋寓言﹄見寄・:﹂詩、巻初、後集巷 40
る
。
羅聯添﹃白柴天年譜﹄(園立編語館・中華叢書、一九八九
朱金城﹃白居易研究﹄(険西人民出版社、一九八七年)八
年)の略稿。以下、同じ。
(7)
(8)
三頁以下、ウェ lリ l ﹃白柴天﹄(花房英樹語)一一一一頁参
前掲の蒋紹愚﹁唐詩詞語札記﹂参照。
昭
川
。
俗語詞研究中的運用﹂(﹃中園語文﹄一九八一年六期)など参
がある。﹃敦煙嬰文字義通樟﹄四五七頁以下、劉堅﹁校勘在
(9)
(叩)講談社、一九四八年刊。二六頁。
(お)﹃敦煙国境文字義逼理﹄四五四頁など参照。
昭
山
。
(日)佐久節語注本や岡村﹃白氏文集﹄二一など参照。
(お)伊藤東涯﹃用字格﹄巻一に、﹁可是・是可、此ハ不是・是
(ロ)前掲の﹁新昌新居、書事四十韻・:﹂詩に﹁平治遺牽路﹂と
あり、岡村﹃白氏文集﹄四には﹁家の土蓋の周圏の道を平ら
不ト同例ナリ。可是ト云ハ俗語ナリ。文章一一ハ不 v用﹂とい
にならし﹂と語す。
(日)﹃唐雨京城坊考﹄巻三、新昌坊の僚や、朱金城﹁白居易長
201
ト
勺JO
(幻﹀叫湘南文準
b
O、
一九八二年四期﹀
じは、行蓄の形が似ているために、 ﹁不﹂を﹁可﹂に誤った
一
一交付
ハ招﹀項懇叶敦柏法務
例を指摘する。
ハ品川一掲)に詳しい。
ハmm) ﹁可是﹂の思統や例文じついては、
回
Q
c
詩ハ清都は都長安の、水繁坊にあった滋観の
}の詩は題下の家詑によれば、作者十六議ハ貞一克十
﹃和漢朗、詠集﹄所牧唐詩詑鰐鶏訂締ハ植木)
名﹀がある。
一克棋に
{補在)
て、筆者が詳しく語まする。
ハ糾﹀大移舘書活で刊行諜定の・校芝府詩解四伊藤典いにおい
つことができさえすれば﹂と正しく語す
と課課するが、関村﹃{口氏文集﹄一一一には﹁但だ心を静か拡能
(お﹀西村官弟子﹃白祭天﹄も﹁ただ、必静かで居られるから﹂
部いと中将す
には、﹁右永一相、只要存能癌陸矯民謀一騎科、牛領野被也設間
M居易詩課析﹄(黒龍江人員出綾柱、一九八一年)
(認)一窟松林 2
往還﹂とある。
︿訂﹀王経﹁等張五弟﹂⋮一一けにも、﹁不訪飲酒復一躍動、君使館来程
八六年﹀参賭。
ハぬ)入矢義高﹁中関口語史の構想﹂(﹃集刊東洋事﹄五六、一九
穣
年︹七九四じから十人政までの七首のつである。しかもそ
頭に伎遣することから推部すれば、十六ム誌の作であろうハ木孝
も三十五年ほど前である。
蓑 2ん積年譜b
o つまり、元議詩の﹁夜境﹂の現例は、白詩より