目 次

目 次
目 次
すけさぶろう
き
く
一章 父祐三郎から娘純久へ ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
大和屋の女将、阪口純久/お茶屋というところ/司馬
太郎と大和屋/阪口祐三郎という傑人/司馬さんから教
わったこと
二章 ⅵ
大和屋﹂のしだい ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
ミナミ 南
(地 の
)大和屋/打ち水と行灯/玄関の意味/お
座敷の畳/道具の見立て/はじめの一献/お座敷が人を
つくる/料理の演出さまざま/仕出し料理から自前料理
へ/芸妓のもてなし
三章 南地 ミ(ナミ 花)街の歴史 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
ⅳ阪口祐三郎伝ⅴ/南地花街の生い立ち/島之内、風俗の
v
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29
87
vi
にぎわい/芸妓の登場と料理茶屋の台頭/ミナミ、花街
の成立/明治期、花街の変革/大和屋芸妓学校/大和屋
名物﹁へらへら踊りⅶ/阪口祐三郎著﹃芸妓読本﹄
四章 花街のおまつり ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
始業式で舞初め/十日戎と宝恵駕/節分のお化けさまざ
ま/住吉の御田植/春の華﹁あしべ踊りⅶ/戦災復興の
なかから﹁大阪おどりⅶ/万博で﹁大阪おどり﹂の復活
/新たに﹁上方花舞台ⅶ/上方花舞台の三十周年
参考文献 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
写真・図版でことわりのないものは大和屋提供
あとがき ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
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205 201
大阪の広域地図(昭和 54 年)
大和屋」だけとなったミナミの花街界隈(昭和 54=1979 年,日地出版(株)の地
図を基に作成)
一 章
すけさぶろう
父祐三郎から娘純久へ
き
く
(上)=阪口祐三郎,(下)=第三回大阪おどり
(昭和 27 年)で紙屋治兵衛に扮する阪口純久.
大和屋の女将、阪口純久
なんち
や ま とや
平成一五 二(棚棚三 年)一棚月五日。
おおぢゃや
大阪ミナミ 南(地 の)﹁大和屋﹂の看板がおろされた。
ミナミの大茶屋の最後の灯が消えた。
とんだ
や
い
た
こう
そう え もんちょう
大茶屋は、料理茶屋のなかでも、とくに格式の高い店をいう。ミナミでは、とくに宗右衛門町に
大茶屋が建ち並んでいた。戦前までは、大和屋のほかに﹁富田屋﹂﹁伊丹幸﹂﹁紀の庄﹂などが名店
として数えられていた。
その兆候は、昭和三棚年代後半ごろからみられた。が、経済の高度成長期には、まだにぎわいが
あって目立ったものではなかった。平成の時代に入り、いわゆる高度成長 バ(ブル が)はじけて、経
迫の時代を迎えた。
済の停滞がはじまった。なかでも、社交費用が削減される傾向が加速した。東京でも大阪でも、高
級飲食店は、軒並み経営が
ミナミの料理茶屋も休業を余儀なくされた。
そのなかで、大和屋は、よくぞそこまで生きつないできた、ともいえる。
げいこ
建坪五五棚の鉄筋五階、地下一階建 昭(和四棚=一九六五年新改築 の)維持管理だけでも簡単ではな
い。それに、芸妓衆は、大和屋が独自に育成した専属である。仲居も料理人も相当数を抱える。当
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一章 父祐三郎から娘純久へ
然、人件費がかさむ。
別館の一部を改築して、おでん割烹にもした。手のあいている芸妓たちが、割烹着を着けて立商
いに励んだ。
おかみ
き
く
それでも、立直しはきかなかった。
女将の阪口純久 昭(和七=一九三二年生 は)、いう。
たお
いちぼく
ⅵ時代の流れというもんでっしゃろなあ。抗してみてもせんないことでしたわ﹂
たいか
ⅵ大廈の顚れんとするは、一木の支うるところにあらず﹂とは、大和屋を閉めるときに純久自ら
が書いた挨拶文での引用句である。
ⅵそら、くやしかったですけど、思いきりました。ただ、先祖に申し訳ない、という気もちと、
次の代まで借金を残すわけにもいかん、という気もちと。
何事も、引き際というのがおますやろ﹂
すけさぶろう
純久は、何度も高野山に足を運んだ。
高野山には、父祐三郎 一(八八四∼一九六一年 が)眠る墓所がある。
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純久は、祐三郎が昭和三六 一(九六一 年)に逝去したあと南地大和屋を相続している。それまで、
茶屋経営のあれこれを祐三郎に教わり、姉妹のなかでもとくに厳しい﹁仕込み﹂を受けていた。
か
し
四υ五歳のころから日本舞踊の稽古をつけられた。そこでは、芸妓見習いと同じ扱いであった。
昭和二三 一(九四八 年)、一六歳になったころは調理場へ入れられた。毎朝四時起きで河岸へも通
った。
その後、仲居と一緒に働くことになったが、座敷には出してもらえなかった。
すわ
結婚 昭(和二五年 す)るまでは、純久をして祐三郎の娘とみる人も少なかった。
か
がい
かい
やがて、帳場にも座り、座敷へも出るようになった。
親子鷹ならぬ父娘鷹か。﹁花街の魁﹂ともいわれた祐三郎に似た娘、と評されるようになった。
その父の墓石の前にぬかずく。
無言で、父に問いかける。何度目かで、これでええのやな、とつぶやくことができた。
ⅵそのころは、まだ情況を整理して考える余裕がなかったんでっしゃろね。このごろ、ようやく
わかるようになりました﹂
店を閉めなくてはならなくなった原因は、二つある。と、純久はいう。
ⅵひとつは、大阪の企業が次々と東京に本社を移しはったこと。これは、バブルがはじける前か
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一章 父祐三郎から娘純久へ
らではじめました。昭和四六 一(九七一 年)のドルショック、ニクソンショックというのがありまし
たやろ。それから、銀行も製薬会社も次々に本社を東京に移しはったんです。
それとあわせて、大阪財界と中央官庁との会合が減ってきました。
昭和五棚年前後、高級官僚がある企業に費用を肩代わりさせ、京都の花街に出入りして事件を起
よしあし
こしはったことがありましたやろ。新聞や週刊誌が取りあげて、それ以来、花街での接待や談合を
すべて批判する風潮がでてきました。そら、個人的な善悪はしかたないことですが、困ったのはそ
れからですわ。花街全体が、さも悪の温床かのような印象でみられるようになってしまいました。
もう一方で、お客さんも変わってきました。あえていわしてもらうと、お客さんの器量ですね。
とくに、お役人が。たとえば、大阪へ赴任してこられた局長クラスやと、前任者が連れてきはって
引合せがあります。大阪でのおつきあいが粗相なくできるようによろしく、という意味があり、先
輩・後輩の引継ぎ儀式のようなもんでした。
それで、私らも代々それまでそうしてきたように、ここはこうしたほうがよろしいでっせ、と親
切心でいいますやろ。そうしたら、なんや女将風情が、となりますねん。言葉にはださんでも、表
情や仕草にでますがな。
それでも、先輩からは、お座敷の作法を教えてやって、といわれますしね。そのギャップが大き
くなってきたんです。
お客さんしだいのお商売やいうても、そのしきたりを大きく変えるまでの改革はできませんし、
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したくもおませんから。
時代の流れ、いうたんは、その二つの変化に代表されるんです﹂
はべ
ⅵお茶屋﹂は、ただの飲食の提供の場ではない、といいたいのであろう。むろん、芸妓を侍らす
とか侍らせないという場でもない、といいたいのであろう。
ミナミでも宗右衛門町のお茶屋街 花(街 は)、近代以後、政財界の上質の社交場として機能してき
たのである。
そこは、花街というハレ 非(日常 の)街区。祝祭 ま(つり の)空間。紳士たる者たちが、﹁大人ぶり﹂
を身につける場でもあった。ムラ 村(落社会 で)みても、祝祭行事は、年齢相応の言葉や所作を習得
する場でもあるのだ。
純久は、そこまではいわない。が、その口ぶりからは、たしかにそういいたいのだろう、と思え
た。
ⅵ経済の変化もさることながら、お人の変化もこわいことでんね﹂
あるとき、何気なくいった彼女の一言である。
休業にあたって招待の客を、五棚人と決めた。
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一章 父祐三郎から娘純久へ
それを一週間のうちに割り当てた。せめて、ゆきとどいたもてなしを、と気を配った。
お茶屋での宴席は、パーティーとは違う。と、純久はいう。
ⅵこのお客さんとこのお客さんは、同席でよろし。けど、このお客さんとこのお客さんは、同席
せんほうがよろし、というのがありますやろ。
お客さん同士の動線をきちんと見分けて仕切るんが、女将のひとつの役目といえるんでしょう
か﹂
はため
招待客にも、廃業ではなく休業ですから、とその意をくんでくつろいでもらうよう頼んだ。
あんどん
傍目でみるかぎり、大和屋のたたずまいにもにぎわいにも、変わりがなかった。
そして、一棚月五日、大和屋のすべての行灯が静かに消えた。
お茶屋というところ
ⅵお茶屋﹂は、﹁料亭﹂ともいう。が、大阪では料亭とか料理茶屋とはいわなかった。戦前までは、
そうであった。
お茶屋には、芸妓が出入りする。そこで、お茶屋は、宴席を提供する。ゆえに、これを貸席業と
もいう。そして、大阪では﹁大茶屋﹂と﹁小茶屋﹂と呼び分けがなされており、小茶屋には旅館を
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兼業するところも少なくなかった。
その定義づけは、むつかしい。とくに、関東と関西では少々違ってくる。関西ではお茶屋という
言葉をつかうが、関東では料亭という言葉を常用してきた。あるいは、料理茶屋といった。
料理茶屋とは、江戸で水茶屋 茶(店 や)出合茶屋 待(合 と)区別しての呼称であった。もっとも、そ
れは戦後経済の高度成長期までのことで、それ以降は東西の言葉が混同することになった。そして、
江戸・東京系の﹁料理茶屋﹂という言葉が一般化もした。新幹線の開通に代表されるように、人の
往き来が簡便に頻繁になされるようになったことがそこに大きく作用した。あるいは、テレビの普
及に代表されるように、視覚情報がほとんど一律に伝達されるようになったことがそこに大きく作
用した。その結果、こうした呼称の地域差が縮まる現象を生んだのである。
しかし、大阪での伝統を重んじて、ここでは主に﹁お茶屋﹂という呼称をつかうことにする。行
政上の業種区分では茶屋営業ということになろうが、茶屋ではおさまりが悪い。以下の三つの接客
要素を充たした店を、現在では料理茶屋とひとくくりにもするお茶屋ということにする。
一( )しつらえを施した座敷と、それを内に含む贅を凝らした建築と庭園
二( )プロの料理人の手による料理と什器や盛りつけの演出
三( )女将・仲居・芸妓のもてなし術の成立と機能
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一章 父祐三郎から娘純久へ
この三条は、平成一五 二(棚棚三 年)度の食の文化フォーラム﹁料理屋のコスモロジー﹂で論議さ
れた結果でもある。
食の文化フォーラムは、味の素食の文化センターが主催するもので、毎年、テーマを定めて開催。
関連の研究者二棚∼三棚人が会して発表・討論するもので、その成果は出版物で広く周知されてい
る。したがって、右の三条による定義づけも、食文化研究の分野では認知されたこと、としてよい。
なお、私もそのメンバーの一員であった。この文言については、高田公理編﹃料理屋のコスモロジ
ー﹄の﹁序章﹂に記載された条文の一部を改筆したものであることをおことわりしておく。また、
ここでは、お茶屋の機能上の特徴 客( 側の享受、の意 に) ついては論議がなされていないことも注記
しておく。
ⅵお茶屋のしきたり﹂ともいうべき接客文化がたしかに存在した。座敷のしつらえ、料理の彩り、
仲居の気働き、芸妓の話術と芸能など。江戸期に萌芽し、近代に各地でそのしきたりを醸成した。
お茶屋の文化は、まぎれもなく日本の文化のひとつなのである。
太郎さん 一(九二三∼九六年 で)ある。
お茶屋を﹁高度な日本文化の空間ⅶ 平(成九=一九九七年刊﹃大和屋歳時﹄に所収の﹁思想としての大和
屋﹂より、以下同じ と)したのは、作家の司馬
客をマレビトとしてかすかながら神聖視する気分が、日本の第一級の料亭には、ごく自然に
残っている。
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なぜそうなのか。司馬さんは、次のように解く。
す
客たちは外界でのさまざまなる困難さを背負い、その困難という荷物を露地のそとにおろし、
素のままの身になって、座敷にすわる。
たしかに、そうなのである。料理茶屋の座敷は、カミにも等しいマレビトを招くハレの場なので
ある。﹁まつり﹂の場、といいかえてもよい。
そのマレビトに仕える芸妓・仲居は、職業として上代の巫女の末裔のようなものだといえそ
うである。この要素をすこし濃くすれば、大相撲だけが神事でなく、日本の第一級の料亭の座
敷もまた神事であるといえなくはない。
司馬さんならではの名文である。大和屋はこんなところであった、と書き遺した名文なのである。
この﹁思想としての大和屋﹂は、平成七 一(九九五 年)八月の執筆である。司馬さんが亡くなる半
年ほど前のこと。大和屋で先述の﹃大和屋歳時﹄を出版することになり、その巻頭文の依頼に応え
たものである。
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