⑧飛鳥仏は輸入品か

G-8
広隆寺
飛鳥仏は輸入品か
国宝 木造弥勒菩薩半跏像
通称「宝冠弥勒」
彫刻部門国宝第一号に指定されるも日本書紀に推古三十一年(623)新羅・招来仏と
あるのを本像とみる説あり渡来仏か国産かは不詳
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*国産か渡来仏かの判別は?
飛鳥仏を歴史文献から検索することにより渡来仏か国産かの判断が可能な場合がある。
日本書紀に記された仏像をリストアップすると
538 仏教公伝 半跏思惟像
552 欽明 13 年 釈迦仏金銅像 蘇我稲目が小墾田の自宅に祭る
553 欽明 14 年 放光樟造仏 吉野寺(比蘇寺)に祭る
577 敏達6年
百済王が造仏工を派遣
579 敏達8年
新羅より仏像招来
584 敏達13年 百済より鹿深臣が弥勒石像/佐伯連が仏像招来し馬子が石川仏殿
に祭る
585
587
603
605
606
623
642
649
654
敏達14年
用明2年
推古11年
推古13年
推古14年
推古31年
皇極元年
大化4年
白雉4年
物部守屋仏殿を焼き、仏像を難波堀江に棄てる
物部討伐戦で四天王像
聖徳太子が秦造河勝により蜂岡寺=広隆寺に仏像を祭らせる
銅・繍の丈六仏各一体造仏を命じる=飛鳥寺大仏
丈六仏を元興寺金堂に坐せしむ
新羅招来仏を太秦寺に祭る=広隆寺半跏思惟像?
蘇我蝦夷が菩薩像と四天王像を祭り雨乞い
阿部内麻呂が四天王寺に仏像4体を祭る=小四天王像
旻法師のため仏菩薩像を川原寺に祭る
685 天武14年 諸国の家毎に仏像を祭る
686 朱鳥元年
天武のために観世音像を大官大寺に祭る
689 持統3年
新羅招来金銅阿弥陀像、観世音菩薩像、大勢至菩薩像を祭る
692 持統6年
郭務悰が天智の為に造る阿弥陀像を筑紫より送らせる
この間飛鳥地域に多くの寺院が造営され、そこには仏像が安置されたはずであるが殆どは
歴史の波に呑み込まれて消失したといえる。
前掲の写真「宝冠弥勒」の所蔵されている広隆寺は飛鳥期には蜂岡寺とも太秦寺とも称
されていたことから、推古11年に聖徳太子が秦氏に与えた新羅招来仏であるとか、推古
31年の新羅招来仏のいずれかとの判断があり、材質がアカマツで新羅では常用されてい
るために従来は渡来仏説が支配的であったが、1968年調査で内繰りの背板にクスノキ
が使用されており、背部の衣文もこれに彫刻されていることが判明し、右腰から下げられ
た綬帯(じゅたい)はクスノキで後に付加したと考えられていたが、クスノキは我国での
佛像制作に多用されていることから国産の可能性が出てきたため不詳となっている。
判断基準として推古14年の鞍作鳥の飛鳥大仏が国産第一号としているのが通説とな
っていることから、それ以前の仏像は渡来品と考えて良いでしょう。
しかしそれ以降も渡来仏は多く存在したはずであるが、我国に造仏工が育ってくれば国
産に成る可能性は高いと云える。
特に天武14年の令で諸国の家毎に祀る仏像は各豪族が独自に入手した渡来仏も多か
ったかもしれないが、当時としては鋳造技術も保有していたことから小金銅仏の多くは渡
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来仏をモデルにして鋳型を使って類似品を国産した可能性もある。
G-4「飛鳥の小金銅仏」で記述した法隆寺奉納48体仏もこれらの手段で入手した
可能性は高いと云えよう。
仏像の国産か否かの判別手段として文献以外に使用材料や造形型式があり、材料には金
属、木造、漆、石造、塑造等があり、金銅仏では材料分析により出処が判断出来、木造仏
では白檀、クスノキ、アカマツ、檜、ヒバ等があるが白檀は中国、アカマツは朝鮮と統計
的処理と産地である程度判断出来、乾漆像は飛鳥仏には存在せず、石仏の秀作は圧倒的に
朝鮮製が多い、塑造仏は搬送に問題があり渡来は考えにくい。
造形型式は顔の造形に特長があり、その国の国民性が顕著に表現されることは美術の世
界で実証済みで、衣文については統計的手法で判別可能である。
しかし例外は必ず存在し種々の判別手段を組み合わせて活用することが不可欠で、安易
な判別は混乱を招くことになる。
特に飛鳥仏に多い小金銅仏については銅鏡における同範鏡、舶載鏡、彷製鏡等の識別機
能を活用して注意深く判別する必要があろう。
*仏師は何時頃から居たの?
「仏師」という呼称は我国独自のもので中国、朝鮮には無い。
中国・朝鮮では仏教伝来以前から既に工人制度が整備されており、寺院建造や仏像製作
には既存の工人の編成(画工、木工、鋳造工、轆轤工等)することで目的を果たしていた
と考えられる。
特に仏像製作に関しては経典に各種の仏の特長を詳細に記されており、「儀軌」(ぎき)
に従って造仏しなければホトケでは無いというルールがあり、特殊な知識と技術を要する
ことから工人の養成には時間がかかったのは事実でしょう。
「日本霊異記」「扶桑略記」の記事から欽明朝の池辺直永田(いけべのあたいながた)
や用明朝の鞍部多須奈(くらべのたすな)が仏像を製作したとあるがいずれも木造彫刻で
本格的な仏像製作には至っておらず、両史料共に説話的要素が多く、我国での造仏は仏教
公伝から半世紀以上経たのち本格化したのでしょう。
敏達6年(577)に百済から造仏工が来朝しており彼の指導により渡来系の帰化人を
中心とした造仏工の養成がスタートしているが、これらの工人の中で著名なのが飛鳥大仏
を作成した鞍作鳥(くらつくりのとり)でしょう。
法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘に「止利仏師」とあり造像作者を示す「仏師」という造語
の初見例であるが、この光背銘の信憑性が疑われており推古三十一年(623)の製作と
は考えられず、天武朝の7C後半に追刻された可能性が指摘されており、その要因は聖徳
太子信仰の一環と考えられている。
「仏師」の用語の使用例は本件以外では天平六年(734)の「造仏所作物帳」(正倉
院文書)に「仏師将軍万福」とあり、これ以降の史料に頻出することから「仏師」なる用
語は七世紀末あたりに創作されたのではないかと考えられる。
7Cまでの造像工人として記録されている人物は鞍作鳥、山口大口費、薬師徳保、高男
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麻呂、志比古麻呂、鉄師手古等が挙げられているが僅かであり、殆どが帰化系氏族で絵画
製作に関係する人物と云える。
特に初期の工人は宮廷直属の工人で大王や為政者の命令で諸寺の造営に関わっていた
が、天武朝になって官寺造営のために「造寺司」が置かれるようになり、中国の制度に倣
って寺院造営に必要な諸工人を集めて組織化していたと考えられる。
律令制では令外官として存続しておりピークは造東大寺司であり、ここに「造仏所」が
設けられて多くの天平仏が製作され「仏師」という呼称も定着して、平安期には定朝、鎌
倉期には運慶、快慶の如き著名な仏師が輩出した。
*渡来仏が国宝になるの?
文化財保護法により1951年以降に国宝指定された彫刻作品は7C~13Cの間に
作成されたと推定されるのが2013年時点で128件ある。
原則的には国産の作品が対象とされているが例外的に中国からの輸入作品が含まれて
いる。
典型的な事例として国宝第一号の広隆寺所蔵の木造弥勒菩薩半跏像(上記掲載写真)が
渡来仏の可能性を認めながら国宝指定していることから必ずしも渡来仏を疎外しない方
針と云える。
従って明確に渡来仏と判明している次の4件が国宝指定を受けている。
#法隆寺所蔵 木造観音菩薩立像 九面観音と称されている仏像7~8C唐で製作され
た香木・白檀一木造りの超国宝級と評価されている。
高さ38cmで経典を忠実に守られている価値ある仏
像で十一面観音菩薩の原型とされている
#金剛峯寺所蔵 木造諸尊仏龕 香木・白檀で8C唐で製作されたと考えられる仏龕で遣
唐使と共に学問僧として同行した空海が請来仏とし
て持ち帰った作品
#東寺所蔵 木造兜跋毘沙門天立像 サクラ材に着色、漆箔された9C唐で製作されたと
する毘沙門天像で、平安京羅城門楼上に安置されてい
たとの伝説あり。
#清涼寺所蔵 木造釈迦如来立像
サクラ材寄木造り、三国伝来仏とされ印度から請来し
た仏像を手本に985年中国・北宋で製作したのを奝
然が986年に伝来したとされ、像内に絹製の五臓六
腑が納入品として収められている。
以上の各作品とも希有な存在で国宝指定の事由が存在すると云える。
<註>
阿部内麻呂:大化の改新での孝徳朝で左大臣として蘇我氏に代わる筆頭豪族で難波に地盤
があったとされ、四天王寺建立支援している
旻法師:孝徳朝で国博士、それまで中臣鎌足や蘇我入鹿の師匠として私塾を開く
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郭務悰(かくむそう):白村江の戦で倭が大敗し、進駐軍の長として渡来し我国との敗戦
処理に
綬帯:菩薩などが身につける帯状の装身具
同範鏡:同じ鋳型から作られる兄弟鏡
舶載鏡:中国・朝鮮で製作され我国に伝来された鏡
彷製鏡:国内で製作した鏡
轆轤(ろくろ):土器つくりのための回転台、古墳期に須恵器の製法伝来と共に我国にも
もたらされた
「儀軌」
(ぎき)
:仏像を製作するために守らなければならない規定、これに従ってなけれ
ば仏像と認定されない
山口大口費(やまぐちのおおくちのあたい):法隆寺の広目天の作者、日本書紀に記載
令外官(りょうげのかん):律令制度に規定のない新設の官職
定朝(じょうちょう):平安後期の仏師 寄木造技法を完成、仏師として初めて「法橋」
の位を藤原道長より与えられ没後定朝様式として院派、慶派、円派
が生まれ12Cまでの仏像の規範となった
仏龕(ぶつがん):仏像や経文を安置するために設けられた容器、本品は全面を左右に開
くと内部に彫刻された諸仏諸菩薩が現れる
奝然(さいねん):東大寺僧なるも出自は不明、入宋よりの請来仏を本尊として清涼寺を
建立した
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