IT投資と日本経済・労働市場の変化

情報経済論
第 12 回 IT 投資と日本経済・労働市場
1、日本の IT 投資と労働の補完・代替関係
(1) 90 年代の IT 投資の特徴と労働の代替
1990 年代(特に 90 年代後半)に入り、日本経済においても IT 投資は増加し、
IT 資本ストックは構成比においても、経済成長への寄与度においても日本経済
に大きな役割を果たしている。特に、卸売・小売業=サービス産業での増加が
著しい。一方、労働の寄与度は常にマイナスの値であり、IT 投資が労働代替型
の設備投資としての性格を持ち、経済成長が雇用の回復につながっていないこ
とを示している(→第 11 回)。
1980 年代にも IT 投資は経済成長に大きな寄与を示しているが、その中心は
製造業における FA(Factory Automation:工場自動化)の投資や、金融業にお
けるオンライン化の投資であった。FA のように生産工程の効率化をもたらす投
資によって、単純労働者のスキルはソフトウェアに簡単にプログラミングされ、
機械やロボットに置き換えられた。また銀行業務のオンライン化によって窓口
業務は ATM で行えるようになり、預金・為替・融資などの科目間処理も機械化
による連動処理が可能となり、女性一般職のスキルが事実上デジタル化された。
一方、1990 年代以降の IT 投資は、卸売・小売業=サービス産業を中心に、
生 産 工 程 以 外 に 開 発 ・ 顧 客 管 理 ・ 物 流 ・ 事 務 管 理 等 な ど の OA ( Office
Automation)が各部門で利用されるようになった。これらの部門は製造業、生
産工程に比べて労働者間のコミュニケーションや所属企業内部の暗黙知など、
デジタル化が困難なスキルが多い。その中でも 1990 年代に入って IT 投資によ
る労働の代替が着実に進んでいる。
(2)IT 投資と労働者間の代替関係
IT 投資は若年労働者と熟年労働者の間の「デジタル・デバイド(Digital
Divide)を生じさせる。特に熟年低学歴労働者は、パソコンやインターネット
などの IT 機器への適応が遅い。IT 投資は、資本と労働の代替を進めるだけでな
く、労働者内部での代替関係(熟年労働者と若年労働者、低学歴労働者と高学
歴労働者)を強める傾向がある。
図 13 は 1980 年代(1981 年~1989 年)と 1990 年代(1990 年~1998 年)
の付加価値(GDP)成長率に対するそれぞれの労働(熟年労働者と若年労働者、
低学歴労働者と高学歴労働者)の寄与を全産業、および産業別に調査した結果
である。
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情報経済論
図 13
付加価値(GDP)成長率に対する労働の寄与
図13-1 付加価値成長率に対する労働の寄与 80年代(1981年~1989年)
2.000
1.500
1.000
0.500
全
産
業
商
業
建
設
金
融
運
輸
・通
信
サ
ー
ビ
ス
-1.000
化
学
窯
業
・土
石
一
次
金
属
金
属
製
品
一
般
機
械
電
気
機
械
輸
送
機
械
精
密
機
械
紙
・パ
ル
プ
繊
維
-0.500
食
品
0.000
-1.500
-2.000
若年低学歴(40歳未満)
熟年低学歴(40歳以上)
若年高学歴(40歳未満)
熟年高学歴(40歳以上)
図13-2 付加価値成長率に対する労働の寄与 90年代(1990年~1998年)
1.500
1.000
0.500
業
全
産
輸
・通
信
サ
ー
ビ
ス
融
金
運
業
商
設
建
械
機
械
精
密
機
械
輸
送
機
械
電
気
品
機
一
般
製
属
金
属
金
石
・土
業
窯
一
次
学
化
プ
・パ
ル
維
紙
-1.500
繊
-1.000
食
-0.500
品
0.000
-2.000
-2.500
-3.000
若年低学歴(40歳未満)
熟年低学歴(40歳以上)
若年高学歴(40歳未満)
熟年高学歴(40歳以上)
1980 年代の IT 投資を中心とした設備投資は生産工程の効率化といった側面
が強かったので、資本によって代替されるのは若年低学歴労働者であった。生
産工程において熟年労働者の職場における学習やオン・ザ・ジョブ・トレーニ
ング(OJT)によって習得されるスキルは生産性の向上に大きな寄与をしてき
た。これに対し 1990 年代の IT 投資は、これらのスキルをデジタル化すること
によって、熟年労働者の代替を進めている。
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図13-3 付加価値成長率に対する労働の寄与 90年代前半(1990年~1994年)
1.500
1.000
0.500
産
業
ス
サ
全
・通
輸
運
精
ー
ビ
信
融
金
業
商
設
機
密
送
建
械
械
機
械
輸
一
電
気
機
般
属
金
機
械
品
製
属
金
一
次
・土
業
窯
-1.500
石
学
化
プ
ル
維
・パ
繊
紙
食
-0.500
-1.000
品
0.000
-2.000
-2.500
-3.000
-3.500
若年低学歴(40歳未満)
熟年低学歴(40歳以上)
若年高学歴(40歳未満)
熟年高学歴(40歳以上)
図13-4 付加価値成長率に対する労働の寄与 90年代後半(1995年~1998年)
1.500
1.000
0.500
全
産
業
ス
ー
ビ
・通
輸
サ
信
融
金
運
業
商
設
建
械
精
密
機
械
輸
送
機
械
電
気
機
械
一
般
機
品
金
属
製
属
次
一
・土
業
金
石
学
プ
・パ
ル
維
繊
化
窯
-1.500
紙
-1.000
食
-0.500
品
0.000
-2.000
-2.500
-3.000
若年低学歴(40歳未満)
熟年低学歴(40歳以上)
若年高学歴(40歳未満)
熟年高学歴(40歳以上)
この傾向(IT 投資による高学歴労働者と熟練低学歴労働者の代替)は 90 年
代通じて、より強まっていることがわかる。90 年代に入って、労働者間のコミ
ュニケーションや所属企業内部の暗黙知など、デジタル化が困難なスキルが多
いと思われている商業や通信、サービス業などにおいても IT 投資による熟年低
学歴労働者の代替が進んでいる。IT 投資は長期的雇用関係に根ざした労働者の
経験に基づく熟練や暗黙知などの「生産のノウハウ」をデジタル化し、代替可
能なものにさせてしまったのである。
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情報経済論
以上のように、IT 資本と高技能労働は補完関係、IT 資本と低技能労働は代替
関係となる傾向がある。IT 技術の導入は効率化を高め、雇用を減らす(代替関
係)、一方で IT 技術を使う業務への需要を高めて雇用を増やす(補完関係)。
1980 年~2005 年までの産業別データから、資本と労働の代替弾性値を計測
した結果、製造業、サービス業ともに、IT 資本と高技能労働は補完的、情報資
本と低技能労働は代替的な関係が得られた。
表13-1 資本と労働の代替・補完関係
製造業
サービス業
情報資本と高技能労働 補完的
補完的
(-6.93)
(-0.15)
情報資本と低技能労働 代替的
代替的
(7.88)
(6.59)
『平成 21 年版
情報通信白書』より
ソフトウェアによってプログラム化できるような定型的業務や、ウェブサイ
ト・電子端末等で自動化できる受付業務等は、情報通信システムによって代替
が可能である一方、高度の専門知識を必要とするシステム構築や、膨大な情報
の中から取捨選択して付加価値を生むような企画立案等は、情報通信システム
を使いこなす業務であるため IT 資本と補完的な関係となる。
65
情報経済論
2、IT 革命と就業形態の変化
(1)IT 投資と労働の強化
「IT 革命」という言葉に代表される情報通
信技術の革新は単なる技術的な変化にのみな
らず、市場構造の変化をもたらす。それは生
産と消費を結び付けるだけでなく、市場をよ
り競争的にさせ、生産過程における労働過程
の強度の増大へとつながっている。1980 年代
に日本経済の「強さ」の象徴であった「かん
ばん方式」=「トヨタ型生産方式」に代表さ
れる多品種少量生産システムは、それによって生
産性を高めた日本製品の輸出と同時に、そのシス
テム自体が海外に輸出された。特に日本の輸出攻
勢を受けたアメリカでは「トヨタ型生産方式」を
積極的に導入し学ぶと同時に、これをアメリカの
得意な情報通信技術で強化し、「リエンジニアリ
ング」という名前で生産システムをより市場に直
結させることによって「シリコン・バレー型生産
方式」とも呼ばれる、市場の変化にオンラインで
即応した生産システムを作り出した。
1990 年代に入ってからのアメリカ経済の「復活」の背景には「情報スーパー
ハイウェイ構想」に象徴される IT 技術革新とそれによる労働生産性の上昇があ
ったのであるが、それは単なる生産の技術的な変化だけではなく、IT 革命=情
報通信技術の発達による市場即応型生産システムの「完成」による労働過程の
強度の増大があったのである。労働者は生産過程において IT によって代替され
るか、IT によって強化された労働過程に従事するか、といった選択だけでなく、
IT 革命が作り出した情報通信網によって市場における競争にオンラインでさら
されることになったのである。
そして、日本において「構造改革」が叫ばれる中、「IT革命」が強調されITへ
の積極的な投資が進められるのは、今度は日本が「シリコン・バレー型生産方
式」を導入することに他ならず、日本の生産システムと労働過程、そして労働
者の雇用に確実に大きな変化をもたらした 1。
90 年代のアメリカ経済は、
「情報スーパーハイウェイ構想」が登場し IT 投資は積極的に
なされ始めた 92 年から 93 年にかけては実質 GDP 成長率がマイナスからプラスに転じる中
で失業率も 5%台から 7%台へと上昇し、特に IT がオフィスに導入されたことによるホワイ
1
66
情報経済論
確かに IT 技術を駆使した多品種少量生産システム、市場即応型の生産システ
ムは「消費者」にとっては自分の欲望する商品をオンラインで生産させ、市場
がより競争的になることは価格の低下にもつながるのであるが、市場に登場す
る大多数の「消費者」が得る所得は生産過程おいて「生産者」=労働者として
存在することによって得られるものであり、IT 革命=情報通信技術の革新は消
費過程の華やかさとは裏腹に、生産過程においては非常に過酷で厳しい競争、
そしてリストラが待ち構えているのである。
この生産システムの変化は具体的にはまず、個別企業においては生産過程へ
のIT技術の導入による企業業務の情報化・オンライン化や、それと結びついた
企業間(B to B)や企業と消費者間(B to C)などの電子商取引となって現れる。
特に後者(B to C)の進展がまた前者のIT化、情報化を進め、それと結びつい
た労働過程の強度を増大する。労働過程が市場の変化にオンラインで即応する
ことによる労務管理・生産管理がなされるのである。B to Cの典型的な成功例で
あるアマゾンの販売システムは消費者にとっての利便性を向上させるが(同時
にアマゾンに莫大な利益をもたらすが)、これを支えているのは物流センターで
厳しいノルマとコンピュータの監視の下、低賃金・過酷な労働条件で働く雇用
が不安定な労働者層である 2。
トカラー層の大量失業を生み出し、いわゆる「雇用なき景気回復」と呼ばれた。そして、
その後の生産性の上昇がサプライサイドを変革し投資全体を押し上げたとして 94 年以降は
失業率が低下し、そして 97 年からはアメリカ連邦準備制度が警戒する「インフレを加速さ
せない失業率水準」の下限値 5%を下回って 4%台へと下降してもインフレを生じさせるこ
となく、これが 90 年代の「アメリカ経済の健全性」を示していると言われる。しかしなが
らこの失業率の低下と、物価上昇率の低下の同時並存の背景には、生産システムの変化に
よる労働過程の変化、特にホワイトカラー層におけるパートタイム雇用の増大、アウトソ
ーシングへの雇用形態の移行、そして SOHO という「雇用形態」の増大などが背景にある。
すなわち、これらの雇用形態の増大は失業率の低下となって表れないだけでなく、失業率
が名目的に低下し相対的過剰人口が減少しながらも労働市場においても労働者にとって不
利な状況を作り出し、実質賃金率の上昇には結びつかず、労働コストの増大による物価上
昇率の上昇にも結びつかないのである。
(「情報経済論」参照)
2 横田増生「アマゾン・ドット・コムの光と影―躍進する IT 企業・階層化する労働現場」
(情報センター出版局)参照。
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情報経済論
(2)IT 投資と労働力の流動化
IT 投資による生産過程、さらに流通過程の情報化は労働者が今までの熟練に
よって蓄積・伝承されてきたスキルをデジタル化し、置換え=代替可能なもの
にした。1990 年代中盤以降、企業はリストラや新卒社員の採用抑制により、人
員のスリム化を進める一方で、代替可能な単純な労働は派遣社員やパート、ア
ルバイト、嘱託社員などの非正規雇用者によって補うようになってきている。
IT 投資だけが直接の要因ではないが、IT 投資の拡大と労働力の流動化は無関
係ではない。1990 年代から 2000 年代にかけて非正規雇用者数は年々増加して
おり、2010 年以降その伸びが加速化している。
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情報経済論
(3)IT 革命と SOHO・テレワーカー
IT 革命による生産過程・流通過程の情報化は生産のオンライン化、ネットワ
ーク化と併行した生産単位の小規模化をもたらす。そこで登場してきた小規模
生産形態のひとつが 1990 年代後半から登場してきた SOHO(Small Office
Home Office)であり、これは市場構造の変化に柔軟に対応する生産形態、雇用
形態として注目されてきた(「情報化社会と経済・情報格差(Digital Divide)
とその克服(SOHO)」参照)
。
女性の場合は結婚や出産、育児によるキャリアや賃金水準の非連続性を伴い
やすい。
そこで、2000 年代に入ってからは、インターネットや携帯電話等の進展によ
り、在宅でも働きやすい環境が整備されることによる「テレワーカー」という
勤務形態も注目されてきた。IT の活用によって女性の潜在的労働力を引き出そ
うという試みであり、また女性にとってキャリアを連続させようとする取組で
もある。
また、テレワークは女性だけでなく、男性、そして高齢者や障がい者にも雇
用と社会参加の場を拡大する可能性がある。(「情報化社会と経済」参照)
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情報経済論
2000 年代以降、企業においては、イン
ターネットやクラウド・コンピューティ
ング(Cloud Computing)利用などの
IT 環境の整備は進んできた。
一方で、企業におけるテレワーク制度の導入率は IT 環境の整備に比べて進ん
でおらず、加えて、大企業に比べて中小企業における導入率が低い傾向にある。
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情報経済論
(4)クラウド・ソーシング
2010 年代に入って、発注者がインターネット上のウェブサイトで受注者を公
募し、仕事を発注することができる働き方の仕組みとしてクラウド・ソーシン
グ(Crowd Sourcing)が注目を集めている。
(出典)総務省「ICT の進化がもたらす社会へのインパクトに関する調査研究」
(平成 26 年)
日本におけるクラウド・ソーシングの利用は 2009 年頃から本格化したと言わ
れており、2012 年時点でその市場規模は 100 億円を超えている。国内の市場規
模はその後右肩上がりで成長を続け、2017 年度には 1,473.8 億円規模に達する
見込みである。一方で、クラウド・ソーシングの拡大は労働市場における労働
者の格差をますます進める可能性があることも考えなくてはならない。
(出典)矢野経済研究所「BPO 市場・クラウドソーシング市場に関する調査結果 2013」
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