平成 26 年度 社会工学類都市計画主専攻 卒業論文最終発表 2015/01/28 戦後オールドカマーによる国際親善マーケットの形成と東上野コリアンタウンへの発展 理工学群社会工学類都市計画主専攻4年 201111208 井下純貴 指導教官: 松原康介 第1章 研究背景と目的 1.1.研究背景 を軸としたものが多くある。 一方、コリアンタウンに関する研究では山中(2011) オールドカマーとは、第二次世界大戦前後あるいは 6)によるもので、1990 年と 2007 年に同様の方法で撮 それ以前に日本国民として徴用または経済難民とし 影された記録をもとに対象地を映像による比較研究 て来日、密入国した人々であり、主に在日韓国・朝鮮 がある。他にも吉田・リムボン(2007)7)や五味田(1996) 人を指す言葉と定義される。1)戦後にオールドカマー 8)によるコリアンタウンの景観的な変化や街づくりの によって形成されたマーケットが現在のコリアンタ ありかたについて論じたものがある。 ウンとして残っている事例がある。 石榑・初田ら(2014)2)の研究によると、戦後東京 オールドカマーを起源とするコリアンタウンの歴 史的な背景とその発展を結びつけた研究は見当たら で発生したマーケットのうち当時からの駅近郊に位 ない。 置しないものが 9 ヵ所ある。そのうちの 4 つのマーケ 1.3.研究目的 ットが台東区にあり、且つ、オールドカマーにより形 成されたものであった。 台東区に多く現存するオールドカマーによるマー ケットのひとつである東上野コリアンタウンを対象 そのひとつである「国際親善マーケット」は現在「東 とし、その形成と発展を歴史から読み解く。また、オ 上野コリアンタウン」として知られている。上野駅・ ールドカマーによるマーケットにみられる街区・建築 御徒町駅から徒歩 5 分ほどの場所に位置し、50m 四方 的特徴を明らかにする。以上の様に歴史的視点からみ ほどの街区を中心に韓国・朝鮮系店舗が 20 軒ほど集 たオールドカマーを起源とする商店街の特徴を明ら 積している。東上野コリアンタウンを対象地とし、そ かにすることを目的とする。 の位置を図 1-1.に示す。 1.4.研究方法 まず第 2 章においては、戦後に日本に残されたオー ルドカマーが結成した在日本朝鮮人総聯合会(以下、 総聯)の台東区支部による同胞沿革史から東上野がコ リアンタウンとして成立するにいたるまでの変遷を たどった。 次に第 3 章においては、戦後の東京に形成されたマ ーケットを記録した新興市場地図、古地図、火災保険 地図や住宅地図を用いて対象地区の街区と建物の空 間構成の把握を行った。当時の国際親善マーケットの 写真と地図を見比べて、建物の構造や階数などについ ての分析も行った。 最後に第 4 章では、対象地の商店店主へのヒアリン 図 1-1. 東上野コリアンタウンの位置 グ調査と新聞に掲載された取材記事を用いて、対象地 (Google マップより作成) の住民の声から考察を行った。対象地が形成されてか 1.2.既往研究 らの当時の様子とその移り変わりを把握した。 浅野(1997)3)による在日韓国・朝鮮人社会の視点 から地域社会形成をみた研究に加え、佐々木(2010) 第2章 東上野コリアンタウンの形成史 4)や竹中(2012)5)による研究ではオールドカマーの 2.1.戦前のオールドカマー 国籍やアイデンティティ、多文化共生に関する「ヒト」 呉 9)によると、1885 年には朝鮮からのオールドカ マーが日本にいたことが記録されている。1910 年の 日本に残ったオールドカマーも約 90 万人いたことが 「韓国併合」以降、オールドカマーは微増を続ける。 記録されている。上野駅から御徒町駅一帯に広がって その総数が 1 万人を超え、朝鮮人集住地域が形成され いた闇市に多くのオールドカマーが露天をだしてい はじめ、それらが一定の広がりをもったのは 1917 年 た。彼らは東京都からマーケット建設を口実に強制退 以降であった。こうした集住地区の形成要因は以下に 去令を受け、1947 年春に現在の東上野の地に 53 店舗 10) まとめられる。 に住宅も兼ねた「国際親善マーケット」を建設した。 ① 雇用された会社の社宅、寮および作業所宿舎にそ 1955 年に総聯が台東区で結成され、1963 年には台 の後も住み続け集住地区が形成される場合。 東支部が国際親善マーケットの隣に建設された。総聯、 ② 土地の所有者が明確でない低地、湿地、河川敷、 そして総聯の存在を背景に誕生した多くの組織や団 崖下などに自力で仮小屋を建てて住み始めてい 体の活動も台東区では精力的に行われていたことが く。 記録されていた。 ③ 日本人が住まなくなった空家、工場跡、古い家な どに住み始める場合。どのケースでも建物は独自 第3章 東上野コリアンタウンの街区と建物にみえ に改造、建て増ししていき大勢で住めるようにす る特徴 る。 3.1.戦前と戦後の街区比較 ④ アパート・長屋などを借りられると、そこを拠点 台東区は東京のなかでも甚大な戦災を受けた場所 に広がっていく。朝鮮人が入居すると出て行く日 のひとつであった。図 3-1.からは対象地に複数回にわ 本人もおり、次第に朝鮮人集落となっていく。 たる空襲の罹災地域が重なっていることがわかる。 この集住地区の形成要因は東京においては、台東区 を含めた現在の 23 区東部に当てはまっていた。対象 地が位置する当時の下谷区には約 600 人のオールド カマーがいたことが図 2-1.からわかる。 図 3-1. 戦災概況図東京(1945 年 12 月) (出典:国立公文書館デジタルアーカイブ) 図 3-2.には戦前の 1935 年、国際親善マーケットが 建設された後の 1950 年、そして 2010 年における対 象地の街区を示している。戦前の西側に並ぶ長屋や街 区中央に伸びる路地などの名残がマーケット建設時 に受け継がれていることがわかる。 図 2-1. 東京府管下朝鮮人分布図(1934 年) (出典;東京市・府社会調査報告) 2.2. 総聯同胞沿革史からみた東上野コリアンタウン 在日本朝鮮人総聯合会 (以下、 総聯) 台東支部は 2007 年に台東区におけるオールドカマーの歴史や活動に 関する資料を掲載した「同胞沿革史テドン」11)を発行 している。支部単位で沿革史がつくられることは極め て稀である。ここから対象地の形成史を把握した。 1945 年の終戦で朝鮮は解放されたが、帰国せずに 図 3-2. 街区(左から 1935 年、1950 年、2010 年) (出典:火災保険地図、ゼンリン住宅地図) 図 3-3. 新興市場地図「親善マーケット」(出典:都市製図社) 3.2.新興市場地図からみる国際親善マーケット 「新興市場地図」は 1953 年 1 月から 1962 年 12 月 の間に作成された一種の住宅地図であり、東京 23 区 を網羅し、全 138 枚、281 の「新興市場」が描かれて いる。対象地である国際親善マーケットは、1953 年 4 月に「親善マーケット」の名称で描かれており、図 3-3. に示す。 図中では斜線で網掛けされている西側の長屋にい 図 3-4. 1960 年頃の国際親善マーケット くつかの特徴がみられた。全戸数が 46 であることか 第4章 ら、長屋だけで 29 戸の店舗ないし住宅が密集してい 4.1.ヒアリング調査 ることがわかる。 また、長屋には他の建物にみられない「中二階建て」 住民の声と記録から 調査内容を以下の表 4-1.に示す。今回のヒアリング 調査では、国際親善マーケット建設当時から現在にい の記載がされている。図 3-4.に示した当時の写真をみ たるまでの移り変わりを住民が知るかぎりの情報を ると 2 階部分は 1 階に比べて高さが低く、町家の建築 集めることを目的としている。そこで、以下のような 様式である「厨子二階」に近いもので、より多くの人 質問事項を設けたが、その質問事項にとらわれず、ヒ が寝床を確保できるように設けられたと考えられる。 アリング対象者との会話から聞かれることを中心に 更にマーケット中心部には共同で使用していたと思 結果をまとめる。調査結果を表 4-2.に示す。 われる「スイジ場」や「W.C」といった表記がみられ (1)にまとめられた回答からは、歴史的背景がコ る。オールドカマーが限られた空間で生活していたこ リアンタウン形成に与えた影響が伺えた。これは第 2 とが建築にあらわれている。 「W.C」に関しては、現在 章、 第 3 章で得た結果を補強し得る貴重な証言である。 も残っており商店街を利用する人や店舗の人が使え そして(2)にまとめた回答からは近年における変化 る公衆トイレとなっている。 がみられ始めていることが明らかになった。 平成 26 年 10 月 2 日、11 月 21 日、 で洋服を作って、日本橋の業者に納めた。妻は仕事全般 のプロデュース、職人たちの賄い、2男3女の子育てま でこまねずみのように働いた。それを糧に、喫茶店や焼 肉店を始めた。 マーケット建設当初はまだ闇市として活動が残っ 12 月 5 日、12 月 6 日 ており、警察による取り調べなどが頻繁に行われてい 東上野コリアンタウン商店街 19 店舗のう たなど厳しい生活の様子が読み取れる。また、生活が ち、1990 年の入管法改正以前からある 13 安定してから彼らが、商店街での仕事に勤労してきた 店舗 こともわかった。 表 4-1. 東上野コリアンタウンへのヒアリング ヒアリング概要 日時 対象 内容 ・ 創業当時の様子について ・ 街区や建物の変化について ・ コリアンタウンとしての変化について ・ その他発言から 表 4-2. ヒアリング結果 建物や街区は当時のまま残っている 長屋の名残がある 昔は焼肉屋と乾物屋ばかりだった (1)創業当時 の様子 総聯や民団の建物が近くにあったか らみんなこの周辺に集まってきた 当時は差別なども激しく固まってい たかったのだと思う 戦前からコリアン系の集住地区だっ た すぐ隣の街区でビルの建設が始まっ ている 第5章 結論と課題 本研究で得られた結果は以下の通りである。 ① オールドカマーの集住地区の形成要因が 23 区東 部に当てはまり多くのオールドカマーが住んで いた。 ② 台東区で結成された総聯やその他の団体の精力 的な活動オールドカマーの支えとなり、台東区に おいてオールドカマーの社会が発展した。 ③ 高密度で店舗が集中している長屋型の商店街、中 二階建ての構造、商店街中心部にあるトイレはオ ールドカマーが限られた空間で協力し合って生 活してきた結果としてみられる特徴である。 本研究では、東上野コリアンタウンのみを対象とし て扱ったが、その他のコリアンタウンや戦後に発生し たマーケットとの比較を行うことで、より深くその特 徴を把握することができると考えられ、今後の課題と したい。 周辺の変化による多少の店舗の(すぐ (2)近年にお ける変化 近くへの)移転もあった 世代交代が進み店舗の商業形態が変 わることもあった ここ 5~10 年くらいで街並みの雰囲 気は多少変わってきた 次世代による事業展開がされている 4.2.対象地オールドカマーへの取材記録から 朝鮮新報に 1949 年に来日し現在の東上野コリアン タウンの地で暮らしを続けてきた金徳順という女性 の記事が掲載されていた。2007 年 2 月 24 日の朝鮮新 報の記事「生涯現役」12)に掲載された内容の一部を以 下に記す。 “タバコ、ドブロク…、闇で作って、売れるものは何で もやった。パチンコの景品交換をやって、取り調べを受 けたり、イタチゴッコのような…” 暮らしが落ち着くと、洋服の「まとめ」の仕事に精を出 すようになった。夫が裁断したものを一貫した流れ作業 参考文献 1) 奥田道大編者(1996)『コミュニティとエスニシティ』勁草書房 2) 石榑督和・初田香成(2014) 「「新興市場地図」にみる戦後東京の マーケットの建築的分析」日本建築学会計画系論文集第 79 巻第 705 号,pp2589-2597 3) 浅野順(1997)「在日韓国・朝鮮人社会から見た地域社会形成: 荒川区日暮里・三河島地区を事例として」お茶の水地理第 38 号,pp60-69 4) 佐々木てる(2010)「「日本人」と「外国人」の間−コリア系日本 人という試み−」フォーラム現代社会学9pp.9-19 5) 竹中理香(2012)「在日コリアン高齢者支援活動にみる多文化共 生への課題−多文化主義をめぐる論争点を手がかりに−」関西福祉 科学大学紀要第 16 号 pp.43-59 6) 山中速人(2011)「コリアタウン(大阪市生野区)の映像記録の 方法と実際」日本都市社会学会年報 29,pp25-37 7) 吉田友彦・リムボン(2007)「在日韓国・朝鮮人集住地区におけ る近隣商店街の変容に関する研究-大阪市 M 商店街 1995 年調査 との比較から-」日本都市計画学会都市計画報告集 No.6,pp74-77 8) 五味田恵美子(1996)「川崎コリアンタウン構想をめぐる地域社 会」お茶の水地理学会紀要論文,pp68-76 9) 呉圭祥(2005) 「記録在日朝鮮人運動朝鮮総聯 50 年」綜合企画舎 ウイル 10) 樋口雄一(2002)『日本の朝鮮・韓国人』同成社 11) 総聯東京台東支部(2007) 「総聯東京台東支部同胞沿革史テドン」 朝鮮新報社 12) 朝鮮新報<生涯現役>東京・東上野コリアンタウンの生き字引- 金徳順さん http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2007/06/0706j0224-00001.htm (最終閲覧日:2015 年 1 月 19 日)
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