白秋ゆかりの地・湘南

白秋ゆかりの地・湘南
-三年かけ三崎と小田原を歩く-
太田陽治
2013(H25)年10月24日、首都圏一双会の総会のとき、旧制松江中学の文芸誌『しろたま』
の復刻版が完成したことが報告された。『しろたま』の創刊趣旨の二つの目標の一つが北原白秋
(1885~1942)だったことを知り私は白秋ゆかりの地を訪ねてみたいと思うようになった。
総会のあと二次会で、野津功君、別部松彦君らとお茶をしながら、先程上映された4人の同期生
が、80歳記念に作った『紅陵傘寿』について話し合った。そのとき復刻版『しろたま』について別部
君から、創刊者である古野由男先生のご子息由光(よしみつ)氏の住所がわかったことを知らされ
た。また、別の話として「来月20日、千葉の版画グループ7~8人で、大磯の藤村旧居などを見たあ
と一泊し、翌日、10時に現地解散。都合はどうか」と聞かされ、私は即座に『小田原文学館』を案内
しようと約束をした。文学館を選んだのは、次の理由からだった。
(1)小田原文学館・白秋童謡館
共通入場券
尾崎邸
白秋童謡館
湘南・茅ケ崎に越して間もないころ、新聞で、小田原文学館を知った。そのうち行ってみようと思い
ながら、数年が過ぎた。
ある年、4月3日前後が桜の満開日と知り、思いたって一人で訪ねた。小路の入口に、格調ある名
の「西海子(さいかち)小路」と小振りの石碑が立っていた。ここにはさいかちの木(マメ科の落葉樹
高木で枝・幹にとげがある)があったのでこの名が付けられたとか。
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道路の両側の桜は、うわさ通り満開だった。文学館は、100mばかり行った左側にあった。
本館1Fは、近代文学の先駆者北村透谷のほか、槙野信一、尾崎一雄、川崎長太郎、北原武夫
らの小説家。小田原出身の民衆詩人福田正夫、アルプスに挑んだ登山家辻村伊助などの諸氏
が紹介されていた。
2Fは風光明媚な小田原に惹かれて移って来た谷崎潤一郎、三好達治、坂口安吾、北條秀司、
岸田国士など、私たちの世代に懐かしい作家らの作品が紹介されていた。
3Fは展望室で、美しい庭や箱根の山などの眺望が楽しめた。
建物は田中光顕(みつあき)の別邸で、S12年に建てられたスペイン風の建築。また、別邸は
T13年の和風建築で、これが『白秋童謡館』だった。共に国の登録有形文化財となっている。
和洋折衷の庭園を進んで行くと、S58年3月逝去した尾崎一雄の業績を偲び下曽我の自宅の
書斎をH17年に移築した平屋の一軒家があった。家の前の小径に添って、からたちの花がひっ
そりと咲いていた。隣の別館が目指す白秋童謡館だった。
白秋はT7年から15年までの8年間を小田原で過ごした。ここには、全童謡集の原稿があった。
(写真)左下、尾崎邸。右下、白秋童謡館。
2Fには「童謡のふるさと」-白秋が愛したまちーと書かれたビデオ(15分)があり楽しめた。
この環境の良いところを私は『湘南シネマ同好会』の七周年記念に会員に見せたいと思い、
2013(H25)4月5日に案内したが、桜は既に3月下旬に散っていた。わずか20年ばかりの間
に地球温暖化の進む早さに驚かされた。『小田原文学館』の案内はこの経緯があったから推薦
した。
さて2013(H25)11月20日(水)、別部君と大磯駅で落ち合い小田原へ急いだ。三好達治の
旧居を見るため諸白小路から入った。海に向かって右側に白い建物の旧宅があった。シーズ
ン・オフだったので、白秋童謡館のビデオはゆっくり二度ばかり繰り返して味わった。
庭で記念写真を受付けのご婦人にシャターをおして頂いた。
右の別部君と筆者
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JR「小田原ラスカ」に着いたのは15時だった。お茶をしながら、別部君から「丁度今頃、西
宮市の古野由光氏宅に贈呈本の復刻版『しろたま』上下巻と『紅陵傘寿』が着いているころだろ
う」という話と、送るに先立ち由光氏に電話をかけたら、『しろたま』と聞いて中塚、坂根君等の
名前が次々と出て来て本当に驚いたこと、先生は『しろたま』を大変誇りにしていらしたことな
どの会話内容を聞いた。(『一双会たより』第16号P49~P52に掲載。ぜひご一読賜れば幸
いです。)
つるべ落としの晩秋に友情を深めた一日となった。
(2)片戀の町「曳舟」
2014(H 26)年9月22日(金)の朝日新聞夕刊(湘南版)を見て驚いた。朝日が「街プレー
バック」というタイトルで月に1~2回街の風景を写真入りの読み物にした文の中で『北原白秋
「片戀」曳舟川通り』が出ていた。この記事について私は遠い日の思い出があった。
1954(S29)年の秋だった。当時私は高円寺にいた。駅前に都丸書店があり、いい本が多
かった。目に止まった本が二冊あった。『日本耽美派の誕生』もう一冊は『アルバム東京文學
散歩』で、共に野田宇太郎氏の著作だった。前者は、明治末期から大正にかけて、隅田川川
畔で繰りひろげられた「パンの会」(※)の論文記事で、後者はS27年から始めたカメラによる
東京下町の風景写真を撮った文学散歩だった。(ちなみにそれ以前はスケッチ)。早速購入し
て写真と対比して読んだ。文中「パンの会の詩歌集」の項に白秋初期の詩を見付けた。
片戀
あかしやの金と赤とがちるぞえな。
(※)かはたれの秋の光にちるぞえな。
片戀の薄着のねるのわがうれひ。
「曳舟」の水のほとりをゆくころを。
やはらかな君の吐息がちるぞえな。
あかしやの金と赤とがちるぞえな。
この詩は1909(M42)年10月、白秋20代のときの作だった。翌年4月にこの詩は雑誌『ス
バル』に発表された。夕刊は丁寧に(※)「かはたれ=彼は誰:夕方、または明け方を指す古
語」と注釈をつけていた。
私が驚いたのは『アルバム東京文學散歩』の曳舟川の写真を見て、著者も書いているよう
に『S20年代の曳舟川は、東京で一番汚い町のやうに思われてゐる墨田区寺島の町中を
流れる「どぶ」又は「おはぐろどぶ」の曳舟川だった』と。
この川と街をいま見る街の風景は、二車線×2=4車線+両歩道+α(残りの空いた道)に
広がり、両側は、かなり高いビルが立ち、ビルの背後に“東京スカイツリー”の上部が顔を出
して、大きく街が変貌していた。
東京の街は2020年の東京オリンピック・パラリンピックを目指してさらに変貌するであろう。
野田宇太郎先生に私がお逢いしたのは、1958(S33)年12月24日、日本電波塔(株)
(東京タワー)が開業した翌年だった。私は営業担当だったので、訪ねてこられたとき、先生
の本を大変興味深く読んだことを告げると「あれは僕の学術論文だった」とおっしゃった。
肩に掛けておられたカメラは、本のあとがきから、キャノン4SBレンズf1.8だった。
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(※)パンの会
パンの会はM41年の秋、木下杢太郎が美術文芸雑誌『方寸』同人たちにパリのカフェ文芸運動
のような詩人と美術家が一緒になった会をつくろうと提案し誕生したもので、石井柏亭、山本鼎、森
田恒友、倉田白羊、小林未醒、織田一磨、平福百穂、坂本繁二郎らの画家たちと、白秋、杢太郎、
吉井勇らが中心となり、後に高村光太郎、長田秀雄・幹彦兄弟などが加わった。
パンの会は耽美派を形成する若い人々の交歓の場となった。芸術の自由と享楽の権利を謳歌し
ながら、青春のヴィーナスとヴァッカスの饗宴はエキゾチシズムと江戸情緒の入りまじる東京下町
でくり広げられた。
東京をパリとして、隅田川をセーヌ川になぞらへ、カフェの代わりに洋食屋があり、そうした欧化
途上の市街と下町の古い江戸の面影とが奇異なコントラストの面白味をかもしだした。(『日本耽美
派の誕生より)
空に真赤な
空に真赤な雲の色。
玻璃(はり)に真赤な酒のいろ。
なんでこの身が悲しかろ。
空に真赤な雲のいろ。
『邪宗門』より
白秋作のこの詩は『パンの会』の会歌として歌われた。
『パンの会』提案者 杢太郎自画像
1985(S60)年8月9日~9月8日。神奈川近代文学館『木下杢太郎展』生誕100年記念
(3)伝肇寺(でんじょうじ)と
からたちの花の小径
別部君と別れてから、しばらくして、辻堂市民図書館に行った。入口の棚に一枚の黄色いチラシ
が目に止まった。『小田原文学散歩』コースは小田原駅-からたちの花の小径-清閑亭で、実施
日は既に11月13日(日)に終わっていた。一年後、このコースを『湘南シネマ同好会』の前回参
加した2人のご婦人らと登った。
2014(H26)年11月7日。当日は台風20号が関東を直撃する予定だった。心配で気象情報
を見たら、八丈島付近から急遽進路が北東に変わり、当日は快晴となった。何たる天佑か!
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(写真提供)佐宗美子さん
伝肇寺へは、予定のコースを逆に行った。東海道線のガードをくぐり、すぐ右手の急な山道を
登って行った。お寺の駐車場は、ギッシリとすき間なく車が入っていた。従ってお堂まで行けない。
ご用の方は隣の「みみづく幼稚園へ」(写真)を見つけて訪ねた。
女住職が出てこられた。白秋のころの住職のひ孫さんだった。話が上手な方で、茅ケ崎から来
た旨を告げたら丁寧にお話をしてくださった。話を聞いているうち、写真で見たカヤの大木が目の
前に在ることに気づいた。白秋が設計して作った「木兎(みみづく)の家」の隣の木だったので尋
ねた。「あれは藁(わら)で作った茅葺の家で、放火される恐れがあり取りこわした」と話された。
木兎の家
お屋根は萱やで、壁は藁
小窓のお眼々が右ひだり
お鼻の入口、はひりゃんせ
木兎、ぽうぽう。
内から、ぽうぽう。
いまはなき、「木兎の家」の詩である。また、「赤い鳥、小鳥の碑」は、実物を半分にした碑が
残っていた。最後に中河幹子の墓に案内された。この近くのお寺に中河与一の墓があり、当時
の両住職の計らいで、この伝肇寺に呼び寄せて現在仲良く眠っていると話を結ばれた。
中河与一は、横光利一らと同じ新感覚派の作家で、ロマン主義の傑作『天の夕顔』は彼の代
表作。S23年ごろだったと記憶するが、東宝争議後、松江で上映された新東宝映画を見逃した。
帰宅後、本を取り寄せて読んだ。プラトニック・ラブの小説に新鮮さを憶えた。文末には、アルベー
ル・カミユ、柳田国男によって推称せられ、英、米、独、仏、中国、スペインなど六カ国に翻訳され
たと編集部註が記されていた。
伝肇寺をあとに再び急な坂道を登り、からたちの花の小径を歩いた。(写真)かって私が住ん
でいた八王子東急片倉台の戸建て住宅街の頂上が入口の絹の道よりも、もっとスケールの大き
い小径だった。一人で歩くのは寂しすぎる小径であった。山を下り小田原駅に着いたのは正午
だった。昼食後、朝通った道を再び報徳二宮神社まで戻り、そこから天神山に登り、「清閑亭」
に着いた。ここは、1昨年(H26 )年の大河ドラマ『軍師官兵衛』に登場した黒田長政から数えて
14代目の黒田長成侯爵の別邸の邸園だった。1Fの玄関付近の部屋が工事中であったが、相
模灘が一望出来る大広間(和室)は先客で満席だったが、続きの部屋で、ビスケット付きのコー
ヒーを飲みながら眺望を楽しんだ。(写真)
小田原市経営の古民家の休憩所で一休みして、近くの蒲鉾店でお土産を買い、念願のぷち散
歩を終えた。万歩計は20,181歩を表示していたが、駅から清閑亭までがダブッた歩数であった。
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(4) 城ケ島大橋開通のころ
城ケ島大橋は、1957(S32)年4月に起工し、1960(S35)年4月に開通した。橋の完成で、三浦
半島の先端から城ケ島に車で行けるようになった。開通の年の5月のことを思い出す。
当時、東京タワーの営業(サービス担当)のM君(故人)がフロントのH嬢から、「運転免許を取
得したので、城ケ島大橋に行き、試運転を見てくれ」と頼まれた。彼は数年前、九州から上京した
ばかりで、道がわからない。そこで私が道案内を頼まれた。
今なら観光地や観光施設などの開業時には、どこも混雑が予想されるが、S35年ごろはまだ、
乗用車を持つ人は少なかった。開通後、1か月ばかりのウイーク・ディだったこともあって、その
心配は当たらなかった。八十路を過ぎた今、大胆な行動こそが、若者の象徴であると納得してい
る。
当時はまだ高層建築はなかった
2度目に行ったのは、湘南に引越した1990(H2)年1月から3年後、息子が乗用車を買ったの
で、三崎に試運転に行くというので同行した。城ケ島大橋を渡り、白秋の碑を見たのち、売店で
『湘南文学』第5号(1993春)特集号を買った。
寒の凪磯の香匂う白秋碑
寒釣りの船通り矢を通りゆく
陽治
“
(5)春の城ケ島と見桃寺
“春に三日の晴れ間なし”の諺通り、天候が不安定な日が続いた。
(写真提供 佐宗美子さん)
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2015(H27)年4月16日(木)、前日まで続いた冷たい雨が上がった。三年目の白秋ぷち散歩に
同行してくれたのは、前回のメンバー2名だった。
東洋一を誇った「城ケ島大橋」を渡るとき、こんなに狭い橋であったのかと、内心自分の記憶を
疑った。橋上10mばかりの補修工事を行っていた。考えてみれば、半世紀以上もたっている。
わが国は、その間「瀬戸大橋」1988(S63)年4月供用開始し完成させ、人と車と列車も通れる
上に、美しい曲線の橋も完成さした。技術は日進月歩と進んだ。
白秋の記念碑を見てから『白秋記念館』に入る。先ほどから「城ケ島の雨」が館内に流れてい
た。どうも聞けないので、記念館の方に「奥田良三」(1903~1993)の歌があればと尋ねたら、す
ぐスイッチを切り替えて下さった。やはり、やさしく、力強く感情を込めた歌にしばし満足した。
記念館のテラスから三崎方面を眺めると、ひときわ大きい屋根のお寺が見えた。三浦洸一の
実家「最福寺」であると知らされた。彼のヒット曲『踊り子』は、よく唱った曲だった。
水中観光船が通って行った。少し先の宮川湾で、海中展望室から魚が見られるという。
(左上)坂田霞さん
(左下)さびた看板のある
見桃寺入り口
良三の歌の館や八重桜
春の凪水中船に人まばら
城ケ島白秋の碑風光る
見桃寺さみしき寺に蕗の花
(右上)佐宗美子さん
(右下)本堂に続くのは
住職の家か
陽治
“
美子
“
三崎港まで引き返し、徒歩で約20分。目的の桃の寺、見桃寺にたどり着いた。住宅地の中に
建つお寺(写真右下)は、住職が不在だった。寺の隣接は自宅らしき家も共々、締まっていた。
近所の方に尋ねてみた。「奥さんがおられなくなって・・・(住職は一人か?)何か用事があれば
大椿寺(椿の寺)から住職が来られます。」過疎が進む現在の日本の姿を垣間見たような気がし
た。(万歩計は、10,306歩)
https://www.youtube.com/watch?v=cMAVuRJQzVU ここをクリックっすると曲が聴けます
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(6)湘南の白秋『光と影』
三崎時代(1913~1914)
パンの会で華々しく活躍し、名声を得た白秋に、暗雲が迫ってきた。
1912(M45 T元)7月、白秋27歳。隣家の人妻、福島俊子と関係を持ち、その夫に「姦通罪」
で告訴され、7月6日未決監に拘束された。幸い、弟の鉄雄の奔走により、2週間後の20日に
出所ができた。名声は地に堕ちた。白秋は後悔と自責の念に駆られ、自殺を考えた。翌T2年
1月22日~2月14日まで三崎に渡ったが死に切れなかった。
野 晒
死ナムトスレバイヨイヨニ
命恋シクナリニケリ、
身ヲ野晒ニナシハテテ、
マコトノ涙イマゾ知ル。
人妻ユヱニヒトノミチ
汚シハテタルワレナレバ、
トメテトマラヌ煩悩ノ
罪のヤミジニフミマヨフ。
(『白金之独楽』より)
1913(T2)年1月。處女歌集『桐の花』が、東雲堂より刊行された。歌集に『春の鳥な鳴きそ
鳴きそあかあかと、外(と)の面(も)の草に日の夕』《うぐいすよ、もう戸外の新緑の真赤な日
が沈もうとゆう時なのに、そんなに楽しげに鳴いてくれるな》という歌をのせた。
同年4月、夫にも離婚され、また胸を病んでいる俊子と偶然再会し、5月、彼女を救おうと正
式に結婚。三崎町向ヶ崎の異人屋敷に移住。10月、三崎町二見谷の臨済宗見桃寺に仮寓し
た。ここで、島村抱月の率いる芸術座から「舟唄」の依頼があった。不朽の名作『城ケ島の雨』
の誕生である。作曲者は梁田貞(ただし)で、T2年10月30日、東京有楽座での“芸術座音楽
会”で発表された。山田耕筰や中山晋平らとコンビを組み、以後数々の名作を生んだ。
1914(T3)年、白秋29歳の8月、貧窮の末、俊子と離婚。
小田原時代(1918~1926)
1916(T5)年5月、白秋31歳のとき、江口章子(あやこ)と二度目の妻を迎えた。共に再婚
だった。
1918(T7)年2月、小田原町御幸浜の養生館に仮寓、4月、十字お花畑に移った。7月、鈴木
三重吉の児童芸術雑誌『赤い鳥』創刊とともに童謡欄を担当した。秋には天神山伝肇寺で間
借り生活を始めた。
1919(T8)年、ようやく窮乏の生活から脱した。この夏伝肇寺東側の竹林に「木兎の家」と名
付けた萱屋根、藁壁の住居と方丈の書斎を建てて移り住んだ。この地は郷里柳川を別にすれ
ば白秋の生涯のうちでもっとも長く住みついた所であった。9月「城ケ島の雨」「さすらいの唄」
などと童謡集『とんぼの眼玉』を共にアルス社より刊行した。
1920(T9)年、35歳。前年の夏、境内に「木兎の家」を建てた隣接地に赤瓦の洋館を新築に
着手し、地鎮祭後、事情あって章子と離婚。
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1921(T10)年4月、佐藤菊子と三度目の結婚。翌3月、長男龍太郎誕生。T14年6月、長女篁
子(こうこ)誕生。
1926(T15 S元)5月、東京谷中天王寺に転居。
白秋の湘南時代を俯瞰して見て、三崎時代は、郷里柳川の実家の没落、それに伴い家族
の上京、続く生活苦による不運が重なり苦難の時代だった。それに反して、小田原時代は、
幸運の女神が宿り、子供にも恵まれ、再び脚光を浴び、不動の詩人・童謡作家へと成長して
行った時代であったと言えよう。
終。
参考資料
1.『日本耽美派の誕生』野田宇太郎著 (河出書房)S26年1月15日発行。
2.『近代日本の詩聖 北原白秋』編集・発行=北原白秋展専門委員会・(財)北原白秋生家
保存会・西日本新聞社 1985(S60)年1月。
3.『湘南文学』第5号特集―北原白秋と三崎・小田原ー1993(H5)年春。
学校法人神奈川歯科大学・湘南短期大学発行・制作鎌倉春秋社。
(訂正の記) 原稿出稿後「BS朝日開局15
周年特別企画」黒柳徹子の『コドモノクニ』に
北原白秋、山田耕筰の番組を見て、歌手の
安田祥子が『からたちの花の小径』を訪ねて
いました。先の大樹の森(写真)は間違って
いたことに気付きました。
JR小田原駅新幹線口から登った大樹の森
の入口付近に、一本のからたちの大木があり、
それにちなんで『からたちの小径』と名付けら
れたようです。何の変哲もない小径で気づけ
ず間違っていたことをお詫びし訂正させてい
ただきます。
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