4 2−1.鎌倉の全体像 鎌倉の不思議について 2. 中世鎌倉の都市計画

2. 中世鎌倉の都市計画
2−1.鎌倉の全体像
*
中世都市鎌倉は現在、
周りを緑の深い山と海
1.なぜ若宮大路の軸線は南北にないか
平安京の計画と比較しても街の軸である若宮大路は
南北に通っていない。 当時の大土木工事である若宮
鎌倉の不思議について
鎌倉の都市形態は京都の平安京に習って
現在、
わかっている鎌倉の都市構造は以下の
ようである。
「鶴ヶ岡八幡宮(以下八幡宮)を本山とし、街
大路の軸は北が北東、南が南西に直線となっている。
いるとか、陰陽道に従っているとは言わ
れるがそれを知る資料や記録は何もない。
鎌倉時代の代表作である「吾妻鏡」もそ
2.なぜまちの道が碁盤の目にないか
れらについての詳しい資料や図式はない。
これらを実証するには今後発掘される遺
の中心を通る若宮大路があり、
これがまちの軸
線となっている。その軸線の東には小町大路、
西には今小路がある。
それぞれ若宮大路(軸線)
平安京にある碁盤の目状の通り鎌倉にはない。あ
るとは言われるものの京都ほどはっきりしたものは何
に囲まれている。 社寺仏閣の文化財も多く、
観光客も多く訪れるまちである。
もない。
跡に期待したい。
右の疑問に関して都市そのものができた
経緯や過程を解明したいと言う気持ちが
に並行するかのように海へ伸びている。
鎌倉
の平地を囲うように北、東、西は山があり、南
3.なぜ鎌倉五山はその位置か
今回、このような仮 説を見出すことと
なった。
は海に面している。その周辺の山は城壁に、切
通しは城門に例えられ、
自然の城塞都市と言わ
れている。
海には海上交通の拠点として和歌
建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の位置
関係は都市構造として明確ではない。鎌倉五山はど
のようにして決められたのかなど不思議に思うこと
この仮説を立てる経緯としてまずは
「な
ぜ若宮大路の軸線が南北にないか」
「鎌倉
江島がつくられた。
そして無数にある寺は地形の谷戸を利用して
が多い。 配置され、平地の部分(若宮大路周辺)に寺は
ほとんど無い。
海には和賀江島に港を築き交易
も盛んであった。」 これが「鎌倉の都市」とし
4.なぜ海に面しているか
山が城壁に相当し、
切り通しが城門に例えられる。
城
塁つまり平安京や長岡京は外周に巡らされた塀の内部
て語られている内容が全てである。
京都の都市構造の解明から比べると不明な点
が多く、ミステリーな部分が多い。
に計画された。鎌倉では山や切通しがそのような役目
を果たしたのか、非常に興味深い。そして何故この地
を選んだのか? 中世の貿易港としても意味深い。 現在、
鎌倉時代から残る道として都市軸の若
5.
滑川の重要性はどのようになっていたか
宮大路、今小路、小町大路などがある。これら
の他にどのような道があるか、
都市構造がわか
らない限り、不明な点が多い。この都市構造を
川底が深いのは単なる侵食によるものか、それとも
何かの目的があって低くなっているのか?川の利用
がかなり行われていたのではないか?
理解するうえでこのような仮説を立ててみた。
7.なぜ北鎌倉方向は重要か
大船、北鎌倉方面からのアプローチが一般的で西や
東からの発展はなかった。
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に南北や東西に沿った道はないか」など
これらの疑問点が重なるようになった。
そこで考えたのが、鎌倉の都市構造は
中世前期の他の地域とは全く違う形態が
存在したのではないかと思うようになっ
た。 そして南北の通りとして現存する
ものは材木座商店街がある。 これを手
がかりに何ができるかを探しているうち
のこのような理論に至った。 基本的には都市を守る手段として
「目視
できる環境」を作ることが大事だった。そ
のためには旧鎌倉周辺の山々の存在は重
要な位置関係を占めた。 現在、それは全
てが解明されているわけではなく、今後
の研究成果も期待される。 八幡宮
由比ガ浜
材木座
和賀江島
国土地理院航空写真
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