第6回

JOMF NEWS LETTER
No.253 (2015.2)
病気の世界地図・トラベルドクターとまわる世界旅行
第6回「疫病多発地帯を行く~中国・深圳」
東京医科大学病院
渡航者医療センター
教授 濱田篤郎
疫病を止める城壁
2014 年秋に香港で大規模な反政
府デモがおきました。この町は中国
政府の管轄下にありながら「一国二
制度」という特殊な統治システムに
より、今まで高度な自治が認められ
てきましたが、中国政府が選挙制度
に介入したために、今回のデモが発
生したのです。
この「一国二制度」を象徴する場
所が、香港と深圳の間に置かれてい
る出入国検査所です。この隣接する
二つの町を行き来するためには、中
国国内でありながらパスポートを提示して出入国手続きを受けなければなりません。私が
2013 年に深圳を訪れた時も、香港から羅湖(ローウー)の検査所を経由して入境しました
が、その時にパスポートの書類とともに、健康検疫申請書という書類を書かされました。
深圳側に入ると、この旅を調整してくれた現地の調査機関の人が出迎えてくれました。
今回の旅の目的は中国南部の感染症を調査するというものです。早速、先ほど提出した健
康検疫申請書について聞いてみました。
「あの書類は香港に入境する時にまた提出します。その時はちゃんと書いた方がいいです
よ」
彼の話によれば、健康検疫申請書は 2003 年の SARS 流行以降に始まったもので、お互い
の地域に感染症が流入するのを防ぐためとのこと。ただし、香港側の方が内容を厳しくチ
ェックするそうですが、私にはその理由がよく分かりました。
JOMF NEWS LETTER
No.253 (2015.2)
中国南部では今までに世界を震撼させる感染症の大流行が幾度となくおきてきました。
たとえば 19 世紀末のペストの流行。そして 20 世紀のアジアインフルエンザや香港インフ
ルエンザの流行。いずれも中国南部で流行が始まり、香港から世界各地に飛び火していま
す。さらに 2003 年の SARS(重症急性呼吸器症候群)の流行も然り。広州付近で流行が始
まり、それが香港に侵入したために世界流
行に至りました。こうした香港を経由した
感染症の世界拡大を防ぐために健康検疫申
請書があるのです。
あらためて深圳側からこの検査所を眺め
てみると、その巨大な建物は中国南部から
流出する疫病を止める城壁のように見えま
した。そこで今回は、中国南部で新たな感
染症が発生する原因と、その世界拡大を阻
止する城壁の役割について紹介します。
羅湖の出入国検査所(深圳側から)
中国南部の危険な田園風景
新しい感染症がヒトに蔓延する原因として、動物の病原体がヒトに感染するケースが多
いようです。たとえば、エボラ熱はコウモリの病原体がヒトに感染したことに端を発して
いますが、こうした新しい感染症の発生を頻繁におこしている場所が中国の南部です。そ
こには、ヒトと動物が隣り合わせで生活している世界があります。たとえば中国南部の田
園地帯を訪れると、アヒルと豚を飼育している光景が目に入りますが、この二つの動物の
共存が問題なのです。
アヒルは中国南部の水田で 1000 年以上前から除虫や除草のため飼育されてきました。実
は、この水田に住むアヒルが新しいインフルエンザウイルスの感染源になっています。中
国南部の水田には毎年、北方からマガモが越冬のため飛来してきますが、この時に新しい
インフルエンザウイルスを水田にまき散らし、
そこでアヒルの感染がおこります。
しかし、
アヒルからヒトにウイルスが直接感染することはありません。アヒルの体内にいるウイル
スが周囲で飼育されている豚に感染し、豚の体内で変異をおこした後に、ヒトに感染する
のです。アジアインフルエンザや香港インフルエンザはこのようなメカニズムで流行が発
生しました。水田の近くでアヒルと豚がのんびりと暮らす田園風景と言えば、心和むシー
ンですが、実はこれが危険な景色なのです。
特別な動物を食べる習慣
中国南部ではもう一つ危険な風景があります。
今回の旅でも深圳近郊の裏町を歩いていると、ある食堂の前で犬や猫が檻に入れられて
いました。店の人にその理由を尋ねると、食用で飼っているとのこと。さらに、店の奥で
はタヌキやニシキヘビも飼育されているそうです。中華料理では様々な食材を用いますが、
中国南部では特別な動物を食べる「野味」という習慣があります。
この習慣については、SARS が流行した時に盛んに取り上げられました。あの時はハクビ
シンというネコ科の動物が原因で、それを食べてヒトが SARS ウイルスに感染したという推
JOMF NEWS LETTER
No.253 (2015.2)
測がなされました。
実は SARS という病気については、感染経路がかなり解明されています。まず、このウイ
ルスはコウモリが古くから保有していることが明らかになっています。この感染コウモリ
が周囲の動物に病原体を蔓延し、その動物に接したヒトが感染するという経路です。もち
ろん、この接するという行動には動物を食べるという行為もあるわけです。
では、
「野味」という危ない食習慣が、長い中国の食文化の中でなぜ存続できたのでしょ
うか。私はこの習慣が危険になったのは最近ではないかと思います。中国南部では経済発
展の影響で都市近郊の開発が急速に進んでいます。今回訪問した深圳でも郊外では大規模
な土地の造成が行われていました。このため、今までヒトが立ち入らないところにも開発
の手が伸び、そこで捕獲される動物が「野味」の素材になるケースも増えてきたのです。
こうした未開の土地では、動物の間で SARS ウイルスなど未知の病原体が蔓延しています。
それが、
「野味」の素材となる動物を介して、ヒトの世界に拡大していったのではないでし
ょうか。
このように、
「野味」という古くからある食習慣は、最近の中国南部での急速な開発の影
響で、危険な行為になっていったのです。
世界への発信基地
中国南部が新たな感染症の震源地となる原因を紹介してきましたが、これに加えて、こ
の土地で発生した感染症は世界に向けて拡大しやすい傾向にあります。それは、この地域
が古くから世界への玄関口として発展してきたからです。たとえば、広州は漢の時代から
南海貿易の拠点として栄えてきました。
この状況は 19 世紀になるとさらに拍車がかかります。清朝と英国の間に勃発したアヘン
戦争の結果、1842 年に香港が英国領になりますが、それからというもの、香港は中国の世
界に向けた玄関口として大いに発展していきました。商業面だけでなく文化面でも、中国
の産物は香港を介して世界に流出することになります。そして、この産物の一つに中国南
部で発生した感染症も含まれてい
ました。
香港はこのような感染症の発信
基地としてだけでなく、それを増
幅する場所としても重要な位置を
占めてきました。今回、私が香港
の町並みを見て驚いたのは、林立
する高層アパートの数。商業や文
化の拠点として、香港には中国本
土だけでなく世界中から多くの
人々が集まり、そこで暮らしてい
ます。これだけの人口密集地とい
うのは世界をみても他にないでし
香港の町(ビクトリアピークから)
ょう。そして、こうした人口密度の高い場所は、インフルエンザや SARS のように飛沫感染
で拡大する病気にとって格好の増幅装置になるのです。
このように、香港という国際都市が中国南部という感染症の多発地帯に隣接しているこ
JOMF NEWS LETTER
No.253 (2015.2)
とが、そこで発生した感染症を世界に蔓延させる最大の原因になっているのです。こうし
た状況から、羅湖にある出入国検査所が疫病を止める城壁として大変重要な意味をもって
きます。
鳥インフルエンザの脅威
今回(2013 年)
、中国南部まで調査に来た目的は、最近この地域で新たに発生した感染
症の脅威を調べるためでした。その感染症とは鳥インフルエンザ A(H7N9)型で、2013 年春
から上海や広東省などで流行が始まりました。ヒトの患者は重症の肺炎をおこしますが、
ニワトリなど鳥類には病原性が低いという特徴を持っています。これは高病原性の鳥イン
フルエンザに比べて大変厄介です。もし高病原性ならまず鳥が次々に倒れて、その周辺で
ヒトの患者が発生するという経過をとりますが、A(H7N9)型の場合、鳥は元気なので予測が
つきません。そして、この病気に感染する場と考えられているのが、生きたニワトリを販
売している市場です。
中国だけでなく発展途上国の市場を訪れると、生きたニワトリが売られている光景をよ
く目にします。これもヒトと動物が接近する場所で、感染症の発生がおこりやすい状況の
一つですが、現在の中国南部ではとくに危険な場面と言っていいでしょう。販売されてい
るニワトリは元気でも、A(H7N9)型に感染している可能性があるからです。
A(H7N9)型の流行が発生してから、
中国政府は市場で生きたニワトリを販売することを禁
止する措置をとりました。この効果で流行は一時的におさまりましたが、禁止措置が解除
されると流行が再燃しています。店側も生きたニワトリを販売するのには理由があり、生
きていれば冷蔵庫を設置する必要がないからだそうです。
私が調査した深圳の市場でも生きたニワトリは販売されていませんでしたが、その後、
流行が一段落すると販売が再開されたと聞きます。この調査を終えてから、現地の在留邦
人の方々を対象に鳥インフルエンザの感染予防対策について説明をしました。まず、市場
の立ち入りには十分注意すること。もし生きたニワトリが売られていたら、そこから早め
に立ち去った方がいいでしょう。そして日ごろから手洗いやウガイを心がけること。さら
に、鶏肉や卵は加熱してから食べること。そんな注意が必要です。
「一国二制度」の効用
今回の調査や在留邦人への説明会を終えて、私は羅湖の検査所を深圳から香港側に向か
いました。深圳側にも「鳥ンフルエンザに注意」と書かれたポスターが沢山張られていま
したが、香港側では健康検疫申請書をかなり詳しくチェックされました。機械による体温
チェックも行われており、なにかピリピリした雰囲気が流れていました。
その後、香港衛生当局の情報サイトを見ると、この数日前に深圳から香港に入境した旅
行者が A(H7N9)型を発症して亡くなったとの記事がありました。この件で、香港側は厳戒
態勢をとっていたのでしょう。
私は香港の「一国二制度」という統治システムが、感染症の世界拡大を防ぐためにも大
きな効果があると思います。この制度がなくなり、深圳から香港側へ自由に移動できるよ
うになれば、それは新たな感染症の世界流行に直結することになるでしょう。羅湖の城壁
は偉大です。