小樽の鰊場と歴史的建造物の保存

2015/2/10
調査研究方法実習
比較農史学
小樽の鰊場と歴史的建造物の保存
佐藤奈津子
Ⅰはじめに
私たちは昨年の 9 月 11 日から 13 日まで北海道の小樽市へ行き、小樽市の歴史・水産や観光地
としての小樽の発展の経緯について話を伺った。
最初に、私たちは小林多喜二の小説から蟹工船について調べようと考えていた。しかし下調べ
をしているうちに、蟹工船と北海道の港町の間にはそれほど関わりがなく、労働者も北海道の出
身ではなく他県からの出稼ぎ労働者がほとんどであることが分かり、調査のテーマは小樽でも盛
んだった鰊漁中心に変えることになった。
Ⅱ事前学習
まず、蟹工船のことを調べようと考え『「蟹工船」の社会史』という本を読んだ。この本は題名
通り小林多喜二の「蟹工船」を社会科学的に分析した浜林正夫の書籍である。浜林正夫は歴史学
者で、専攻はイギリス史だが、出身が小樽であるためこの本を書いたと思われる。
1.蟹工船の実態について(浜林正夫『「蟹工船」の社会史』学習の友社 2009 年)
この本によると、
「蟹工船」は、蟹の缶詰を作る缶詰工場を乗せた船で働く労働者の過酷な生活
を描いたプロレタリア文学の代表的な小説で、小説の中の「博光丸」という船は北前漁業で使わ
れていた「博愛丸」という船がモデルと言われているらしい。博愛丸事件と呼ばれる事件は、作
業中の居眠りや蟹肉の計量間違い、仮病などを理由に虐待が行われ多数の重病人・死者を出した
事件である。蟹工船は遅い時期に成立したため、それ以前の北方植民地化・帝国主義化の過程で
形成されてきた北洋漁業一般の労働強化に蟹工船の特徴を重ねた極端な労働強化や虐待が行われ
たという。しかし小説は博愛丸とは異なる蟹工船・北洋漁業のことも豊富に引用しているほか、
博愛丸とは関係のない労働者闘争の二度の蜂起とソビエトとの接触が描かれていることから、多
喜二の関心は虐待中心の博愛丸ではなく、蟹工船や北洋労働者の争議・運動の方にあると言える
ようだ。
そして浜林氏によると、小説の中にも記述があるが、蟹工船含む北前漁業に携わった労働者は
様々な地域から連れてこられたという。その手法は失業者や浮浪者に声を掛けの土工夫の素人を
だまして連れてくる“タコ釣り”と呼ばれるものであろうということである。このことから北海
道は寄港地にすぎず、蟹工船との土地的な関係は薄いと思われる。
浜林正夫氏の本を読んで、今度は北前漁業の労働者がどこから来て船の上でどのような生活を
していたかに興味を持ったため、次は当時の労働者の聞き取りの話をまとめた本である『北前の
記憶』を読んで北前漁業について調べることにした。
2.北前漁業について(井本三夫『北前の記憶』桂書房 1998 年)
ある労働者によると、北前船の労働者はほとんどが富山県の岩瀬や青森などから出稼ぎ労働に
1
来た人たちだそうだ。作業としては地元から船に乗り、北海道の海で鮭鱒を取って缶詰にする。
これを大部分は函館で売って始末し、漁期が終わると出港地まで巡航して戻り、残りの製品を各
地で売っていたという。
また、北前漁業の個人営業時代は漁獲高が制限されていたため、船に乗り込んでいる労働者た
ちにとっては獲った魚を隠したり賄賂を贈ったりの違法行為を行うことが普通だったが、ソビエ
トの勢いが強くなると取り締まりが厳しくなった。このため個人経営の利点がなくなり、昭和七
年カムチャッカ漁業は一つの日魯(現在のマルハニチロ)へ合同になったという。このとき魯領
水産組合富山支部も解散している。漁場主は日魯へ資産・権利を売却したが、半分を現金、半分
を株で渡され株主にさせられたため社員にはなれなかったらしい。日魯に入社できた者も合同の
年に使われるだけで秋には大体首切りされたようだ。日魯時代以降、日魯が用意した汽船で 1000
人ほどが 15 ほどの漁場に函館から乗っていくようになる。
前述のように、北前漁業で鮭鱒を扱っていた船の労働者も富山や青森などから出稼ぎに来てい
たと書かれている。したがって蟹工船同様、北海道は北前漁船の寄港地にすぎず漁船と漁港のつ
ながりは薄いと思われる。
しかし一方、北海道の観光名所に鰊御殿などがあるように、北海道で盛んだった漁業の中でも
鰊漁は土地と密接に関わっているものだと思われる。また、すでに実習では鰊番屋と呼ばれる建
物に宿泊させてもらうことが決定していたため、今度は鰊漁について調べようと考えた。
次に読んだのは葛間寛の「鰊場育ち」である。この本は鰊場(鰊関連施設が立ち並ぶ場所)出
身の作者が幼少期の思い出を振り返っているものである。作者の生まれ育った地域は鰊が獲れな
くなった現在、泊原発が建てられている。
3.鰊漁(葛間寛『鰊場育ち』幻冬舎ルネッサンス 2012 年)
昭和初期、鰊は春の食卓には欠かせない食品で、卵は数の子、内臓や白子は田んぼや畑の肥料
など、用途も広く重宝がられていたそうである。当時は一度に多くの鰊が獲れたため、非常に稼
ぎのいい漁として多くの漁師たちが鰊漁に勤しみ、北海道の様々な場所に鰊場が設けられていた。
鰊漁はもともとアイヌの一部地域で昔から行われていたが、15 世紀本州から多くの人がやって
きて刺し網と呼ばれる網が普及するようになり、漁の効率が上がる。江戸時代初めから松前本領
の指定した地域での出漁が認められるようになり、明治時代には北海道の開拓が国策となる中で
鰊漁で一旗揚げようとする人たちが集まった。
しかし鰊場の好景気は昭和三年(1928 年)ごろまでで、そのあと漁獲高の減少と同時に鰊相場
の下落から鰊場の衰退を危惧するようになった。この時期から人工ふ化への取り組みも懸念事項
となった。
このように、北前漁業が盛んになるよりも以前から長く北海道で鰊漁は行われていると分かり、
また鰊場が廃れた経緯や今後の取り組みなど実習のテーマとしても深く調べることが出来て面白
そうだということになった。
Ⅲ小樽での調査
事前調査の流れから今回の実習は鰊漁をメインにして小樽見学をし、当初のテーマだった蟹工
船や小林多喜二についても小樽文学館で調べた。
2
小樽では小樽市祝津にある旧白鳥家番屋に二泊する。9 月 11 日夜は北海道の朗読家の方による
アイヌ民話朗読を聞く。12 日は小林多喜二をテーマとして小樽市内の小樽文学館・北海製缶小樽
工場外観・手宮の埠頭・手宮公園などを回る。その後小樽商店街の昆布屋・利尻屋みのや社長で、
街づくりの第一人者である蓑谷修さんの話を聞く。その日の夜は小林多喜二の小説『不在地主』
の舞台のモデルである旧磯野農場倉庫跡を改装した“海猫屋”というレストランで夕食をとる。
13 日は旧余市福原漁場を見学、その後水産博物館も行く。最後にニッカウヰスキー余市蒸留所の
見学したのち解散する。
なお当初の蟹工船についての調査では北洋漁業関係者の方から話を伺う予定だったが、途中で
中止になった。その理由の一つは、北洋漁業関係者の間で『蟹工船』や小林多喜二の評判はあま
り良くなく、北洋漁業について調べたいというこちらの要望に違和感を抱いたことにあるようで
ある。題材になっている博愛丸事件は特殊な事件だが、多喜二の本によって北洋漁業全体に悪い
見方が広がってしまったということであった。
1.祝津と旧白鳥家番屋
合宿中は小樽市祝津にある白鳥家番屋とよばれるところに泊まらせてもらった。番屋とは鰊漁
で出稼ぎに北海道まで来ている漁師たちが宿泊する建物のことである。
以下は、調査の時にお世話になった方から頂いた資料を基に説明する。その方は建築家として
白鳥家番屋の保存運動にかかわった方であり、そのためそれに関する資料を多くいただいた。
○鰊漁の様子(『鰊場の記憶』、旧余市福原漁場の資料より)
鰊場を持っている家族は直接漁に出て鰊を取っていたわけはなく、経営者として鰊の取引や鰊
場の運営を主に行い、漁や魚の加工などには大勢の労働者を雇っていた。漁夫は東北や道南から
の季節労働者を雇っていたほか、鰊の加工には日雇い労働者も多く雇っていた。また、鰊漁の季
節が終わると農耕をする鰊場も少なくなかった。
祝津には本来、番屋をはじめ用具を収納する倉など鰊漁関連施設
が一つの敷地内にまとめて建てられた鰊場と呼ばれる漁場が海岸線
に沿って並んで造られていた。
具体的には稲荷小神社、番屋、文書庫(貴重な書類・衣服・調度
品などが保管されていた)、石蔵(ニシン粕・身欠き鰊などの製品を
保管していた)、干場・白子干場(鰊からとったカズノコ・白子など
↑写真 1・袋澗
をここで干して製品にした)、船蔵、米味噌倉(漁場の食事に使われる米・
味噌・醤油などを保管していた)、網倉(鰊漁に使われる網や浮きを保管
していた)、ナヤ場(内臓を取り除いた後の鰊をここにかけ身欠き鰊を作
った)、雑倉(用具を収めた)などがまとめられていて、鰊場では漁から
ふくろま
加工、製品化までの一連の作業が行われていた。また、袋澗 と呼ばれる、
陸揚げするまで鰊を一時的に貯蔵する自然の水槽もあった(写真 1)。
三月下旬から二か月ほどの間が漁期で、一つの定置網には 25~30 名
ほどの漁夫が操業していた。女子供など含む地元の人は沖揚げされた鰊
を加工場までモッコと呼ばれる箱(写真 2)を背負って運ぶ作業に参加
していたほか、魚かすや身欠き鰊の加工に関わった。
3
↑写真 2・モッコ
加工された鰊は、漁獲量の最高期には6~7割が鰊粕(肥料)として利用され、残りは胴鰊、
身欠き鰊、カズノコなどの食料になったほか一部鰊油として利用されていた。この割合は鰊の漁
獲高が落ちた昭和 27 年(1952 年)ごろには鰊粕の割合は3割に落ち込み、4割が身欠き鰊、1
割冷凍鰊、カズノコなど食料としての需要が高まった。
カマで焚いた鰊を絞って身を発酵させたシメ粕と呼ばれる魚粕や、エラ・白子などの出荷は漁
期の終る4月末~5月になると海上に待つ運搬船や貨車輸送などで道内外に運ばれていった。
○祝津の歴史(『ひろば』56 号(社)北海道建築士事務所協会 94.12.25)
小樽市祝津は江戸期から鰊漁で栄えた地区である。江戸時代から松前藩の管理下にあり、宝暦
3年(1753 年)には近江出身の商人、西川伝右衛門が場所請負人となる。場所請負人の制度は松
前藩が各地の漁場の経営を商人にゆだね、漁獲の利益を運上金として藩に上納させる仕組みであ
る。この制度は明治 2 年(1869 年)新政府の誕生とともに廃止となり、「移民扶助規制」によっ
て出願者に土地の永住権と漁業の権利を与えた。その後祝津は明治 30 年代に最大の漁獲量を記
録するなど大正初期まで順調な漁を維持したことから海岸線に番屋や倉庫が立ち並んだ。
『祝津町史』によれば寛文 9 年(1669 年)の「津軽一統史」を引用し、17 世紀中ごろには祝
えんきょう
津に間があり、商い場にもなっていた。また、寛保・延 享 ごろ(1740 年代)の「松前商買文書」
か き ざ き じゅうすけ
には「シクヅイシと申地、蠣崎 重 助 殿御預り、出物鯡(鰊)漁の大場所」との記述がある。しか
し、鰊漁は 1930 年に北海道西海岸一帯で皆無になり、その後盛期の量を回復できず 51 年を最後
に途絶えた。
その後鰊漁場の建物も次第に変容しているが、
他の日本海沿岸の鰊漁場と比較すれば祝津は遺
構が多い地区と言える。その理由の一つは、隣
接の高島および小樽との道路整備が遅れたこと
が挙げられる。祝津の地勢は海岸まで丘陵が迫
り昭和 34 年(1959 年)に高島地区とトンネル
で結ばれるまで山越えの道路と海上交通によっ
て往来していた。
□ 旧祝津 漁場施設群 (日本 建築学会北海道 支部歴史意
匠委員会『小樽市の歴史的建造物』、相澤唯『祝津の遺
構調査の結果と旧白鳥栄作番屋について』)
・旧青山家石庫(昭和初期以前)
・旧青山家廊下(昭和初期以前)
・旧青山家網(昭和初期以前)
・旧青山家廊下(昭和初期以前)
・旧青山家一、二番倉(昭和初期以前)
・旧青山家三番倉(大正9年)
・茨木家文庫蔵(大正年間)
・茨木家網蔵(大正年間)
・茨木家住宅(大正年間)
・茨木家はなれ(昭和2年)
・茨木家所有建物(茨木中出張番屋・明治後期)
・斎藤宅倉庫(茨木家出張石蔵・明治後期)
・佐藤宅(青山熊蔵出張番屋・明治中期)
・旧白鳥家石蔵
図 祝津の鰊関連施設(○は現存するもの)
4
・茨木家所有建物(白鳥栄作番屋・明治 10 年代)
・旧近江家番屋(明治初期)
図は祝津地区にどれほど鰊関連の建物が残っているかを示すものである。
これからも分かる通り、現在の祝津地区には当時の建物が無秩序に残っているのみで、保存状
態もまちまちである。
たとえば、もともと 15 番地にあった青山元場関連建物は網倉と廊下を除き大半が北海道開拓
の村に移築復原されている。茨木家関連では、元場の番屋とはなれのほか、二棟の石造文庫蔵、
木造の米蔵と網元が保存状態もよく残っている。祝津漁場の突き当りには幕末創建とも言われる
近江家番屋が遺存している。また、近江家番屋の後ろの坂の上には観光施設の鰊御殿が建ってい
るが、これはもともと別の地域にあった御殿を移築したものである。(写真 3~8)
↑写真 3・白鳥家番屋
↑写真 4・茨木家番屋
↑写真 6・青山別邸(貴賓館)
↑写真 7・石蔵
↑写真 5・茨木家中出張番屋
↑写真 8・近江家番屋(下)
鰊御殿(上)
○白鳥栄作について(『北海道立志編』北海道図書出版
1904 年)
きさかた
「白鳥栄作氏は天保十三壬寅年(1831 年)八月羽後國由利郡象潟 町(現在の秋田県にかほ市)に
生る。父は山形県の人、本間久平と云ふ。安政二年(1855 年)北海道に来たり。厚田郡及び浜益
郡等に於て漁業に従事し元治元年余市郡林長左エ門方に奉公し明治二年高島郡祝津村林出張漁場
の支配人に選抜せられ勤務中明治七年七月同村白鳥喜四郎氏の養子となる。白鳥家は鰊漁業を営
み相当の財産有りしが氏、之を継ぐに及び一意漁業に勉励したれば家産大いに増殖し今は祝津、
え さ し
たい よ
浜益、枝幸 、小樽の各地に漁場二十一統を有しその内自家営業に係るもの七統余は他人に貸 與 す。
おしょろ
一ヶ年の漁獲高約三千石海産干し場は高島、忍路 、小樽、浜益、枝幸などに数ヶ所あり其の外小
あ さ り
はりうす
ぜにばこ
樽、朝里 、張碓 、錢函 、浜益、枝幸に宅地もしくは耕地を有す。」とあるので、白鳥家番屋を建て
た白鳥栄作は多くの漁場、鰊場や農地をもち、その一か所が祝津であると考えられる。また、白
鳥栄作は漁のみならず石炭用鰊釜の製作に協力したほか小樽一帯の公共福祉にも努め、漁業組合
の要職についていたようである。
5
○白鳥家番屋の造り(日本建築学会北海道支部歴史意匠委員会『小樽市の歴史的建造物』、小樽
再生フォーラム『小樽の歴史探訪』)
白鳥家番屋は、建築家の調査によると木造一部二階建て約百七十平方メートルの建物で、明治
しりべし
22 年の『後志 国盛業図録』にも紹介されているように、鰊漁場祝津を代表する番屋建築である。
創建年は図録に掲載されていることからも明治 10 年(1887 年)ごろと推定されている。
外観は図録にみられる特徴をほぼ残しているものの、洋風飾りのついた方形の明り取り窓と煙
出し一つが失われているようだ。もう一つの煙出しは現在もほぼ同位置についているが、屋根が
切妻から寄棟へと変更されている。
正面には破風屋根の玄関が二つあり、左が主玄関、右がやん衆とよばれる漁夫たち用の脇玄関
として使用されていた。右側の脇玄関を入ると、左手は広間型の座敷、右手が「ダイドコロ」で
ある。二間幅の「ニワ」は手前を土間、奥を板敷にしているが、当初からの形式かは不明。ダイ
ドコロの北面と東面に L 字型の「ネダイ」がまわっている。これは明治初期からのニシン番屋特
有の形式だが、上部ネダイが釣りボルトによる釣り構造であることが特徴であるらしい。
○一般的な鰊番屋の造り(旧余市福原漁場展示資料・解説より)
鰊番屋には特有の設備がいくつかある。
一つは白鳥家番屋にもある通り、ネダイというものである。これはやん衆(漁夫)たちの寝る場
所で、就寝のためにネダイを上り下りするときのみ梯子が掛けられ、それ以外の時間は梯子が外
される。厳しい労働でやん衆たちが夜逃げしないようにするための工夫である(写真 9、10)。
←写真 9(左)
・下から見た ネダ
イの様子
←写真 10( 右)・ネ ダイの 上。
天井が低くて動きづらい
また、やん衆たちがご飯を食べるところは、鰊の到来に合わせていつでもすぐ外に出られるよ
う、土足で座って食べられるような造りになっている。白鳥家番屋では見られなかったが、見学
した旧余市福原漁場では板間のいろりを囲む一部の床が外せて、上げた床はテーブルとして使用
でき、さらに外した床の下の長椅子に座ってご飯を食べられる仕組みである(写真 11、12)。
←写真 11(左)・板間
(漁夫だまり)
←写真 12(右)・食事風景の再現
6
旧余市福原漁場は、付近の鰊場を取り壊す代わりに史跡としてそのままの形で残された余市町
の施設である。敷地内には鰊番屋の他に鰊の加工場や倉庫、書庫や干場など様々な設備が見学で
きる。説明もていねいで分かりやすく、保存状態もいいので非常に勉強になった。
○白鳥家番屋の保存活動について(北海道新聞『残してニシン番屋』1994.9.29)
白鳥家番屋の近くには水族館や鰊御殿等の施設があり毎年数多くの観光客が訪れるにもかかわ
らず、付近に公共トイレがないことから地区住民が 1991 年 2 月に市議会にトイレ設置を請願し
た。一方老朽化した白鳥家番屋の所有者も解体の意向が強く、市は土地の所有者と買収交渉を進
め、1994 年度内に土地を取得し次年度中に着工する計画であったようだ。
しかし、これに対して日本建築学会北海道支部歴史意匠委員会有志の遠藤明久(北海道工業大
学名誉教授)ら6名が、この番屋が典型的な鰊番屋建築の遺構であり、貴重な歴史的遺構である
ことを理由に「旧白鳥番屋の保存に関する要望書」(1994 年 9 月 5 日)を市に提出する。これを
引用すると、「1、明治 10 年代の建築と推定され、本道に現存する歴史的建造物の中では、最古
参の一つであること。2、ニワと呼ばれる土間をはさんで、網元の居住部である広間型の座敷と
雇漁夫の寝起きしたネダイのまわるダイドコロと呼ばれる板間とで構成される典型的なニシン番
屋建築の遺構で、明治初期にこの形式が成立したことを示す貴重な遺構であること。3、明治 22
年発行の銅版画集『後志国盛業図録』にも掲載されている建築で、しかも細かな部分を除き『図
録』の特徴を現在までにほぼ継承しており、創建当初の姿に容易に復することができること。4、
小樽市教育委員会発行『小樽市の歴史的建造物』(1994 年)にも指摘されているように、道内の
漁業集落として最も有名な祝津地区の特徴的な歴史的建造物であること。」とある。
その結果敷地内に観光用トイレが作られることとなり、白鳥家番屋の建物は残されることにな
った。
番屋は 1995 年改修工事が行われ、料理店「群来陣」として開業するが 2010 年に廃業する。な
お、この建物は改修工事の行われた 1995 年に小樽市歴史的建造物に指定された他、翌年 1996
年に小樽市都市景観賞を受賞している。
2.小樽運河の街並保存活動について
現地 で の 実 習 の二 日 目 は町 並 み 保 存 活動 に 詳 しい 現 地 の 方 に小 樽 を 案内 し て も ら い、 随 所で
様々な説明を受けた。以下の文章は、その方の説明と利尻屋みのや社長の蓑谷修さんの作成した
資料を基にしている。
○小樽について
ロシアの南下や人口増加の対策として、明治政府によって蝦夷地および千島列島の開発・内地
化が行われた。
小樽は幌内炭田の発掘により石炭積出港として日本で三番目の鉄道が敷設されたほか、気候・
風土の似ている米国から指導者を連れてこられアメリカ風の建築が多く造られた。また、小樽は
鮭・鰊・コンブなどの産地であり天然の良港であったため江戸時代から栄えていたが、明治以降
は開拓使の官庁が出来たので人と物資の集散地として発展した。日露戦争後は樺太・千島列島と
の輸出入が盛んになる。
第一次世界大戦の時は欧州が食料不足になったため北海道の豆類・ジャガイモ等が小樽に集め
7
られ、相場値上がりを待つ隠し倉庫として石造倉庫が多く建てられた。これによって大正時代に
は大量の資金が小樽に集まり、国内の主な銀行の他、札幌よりも早く日本銀行小樽支店が開設さ
れた。
一方で北海道内の道路の建設も急がれたが間に合わなかったため、かわりに道内くまなく沿岸
航路網が作られ、小樽にも船会社が多く建てられた。道内のほか樺太・千島列島への生活物資・
衣料・菓子・ランプ・漁具など多くが小樽で生産されたため、ガラス産業などが今も小樽の特産
として残っている。また、明治政府の外貨確保のため鮭鱒・蟹缶の生産をするために日魯漁業の
缶詰部門として北海製缶が作られた。また、炭鉱・鉄道関係の設備・製造・修理などから小樽に
金属加工技術が集積され、輸出入も増加したため日本で最初の近代的な防波堤と運河が作られる。
戦後は北洋漁業が再開され、南洋材・北洋材の輸入加工や生活物資の生産が行われた他、戦地
から引き上げた人などが集まったことで人口が一時期 20 万人を超えたが、しだいに官庁所在地
の札幌に人が集まるようになり小樽の産業空洞化が進んだ。
○小樽運河の保存活動と現在の街並み
昭和の末、交通渋滞解消のため運河を埋め車道を作る案が行政と経済界から起こり、石造倉庫
群が壊され始めるようになる。反発した北海道内外の若者たちが運動に立ち上がり、小樽の知名
度が高まった。
現在小樽の運河は一部そのままの形で残され、残る一部は埋め立てて幅を狭め、横に道路を建
設した形になっている。観光地で有名な小樽運河の景色は幅を狭められた地区である(写真 13)。
観光地として整備された運河沿いには、石蔵を利用した観光施設などが立ち並んでいる。原型が
残された運河沿いには現在も北海製缶などの工場や倉庫が立ち並び、運河には小さな船が停泊さ
れているが、運河としての機能は失われているため輸送は反対側の道路から行われている(写真
14)。小樽運河は沖合を埋め立てて造った運河であり、かつてはすぐ近くまで海が迫っていたが、
現在はさらに埋め立てられ海から遠くなっている。
← 写 真 13( 左 )・ 観 光 地 化 し
た地域の小樽運河
← 写 真 14( 右 )・ 元 の 幅 の ま
ま残っている小樽運河
また、石炭や海産物の積み出しを行っていた貨物線の日本国有鉄道の手宮線が南小樽駅から手
宮駅まで通っていたが、1985 年に廃止となった。現在は小樽市内の住宅地の中などに線路跡が残
っている(写真 15)。手宮駅は小樽市総合博物館となっている(写真 16)。
8
←写真 15(左)・住宅地の 中に残
る手宮線の線路跡
←写真 16(右)・現在の手宮駅
(小樽市総合博物館)
3.利尻屋みのや
利尻屋みのやは小樽運河が復活し賑わってきたころ、小樽の歴史を取り入れて昆布を売り出し
た。みのや社長の蓑谷修さんは小樽商店街の活性化を担ってきた一人であり、建物の外装以外に
歴史館を作ったことなども注目される。小樽の歴史を感じさせる建物とファサード(表面飾り)
など入ってみたい雰囲気の外装にすること、期待を裏切らない内装と物語の展開、明るく親切な
店員としっかりした商品説明、商品の品質管理の徹底を心掛けている。
Ⅳ実習を振り返って
印象的だったことは大きく3つあり、第一は蟹工船についての取材を断られたことである。
「蟹
工船」は教科書にもプロレタリア文学の代表として名前が載るほど有名な小説であり、当然地元
の方も良く評価しているものだと思っていたため、この本を足掛かりとして話を聞くこと自体に
違和感を覚えられたという話には驚いた。
また、今までは授業で外部の詳しい方から話を聞くことはあったが、その取材を取り付け場所
を用意するのは全て教員であり、私は完全に出来上がった形で提供されるだけだった。今回の実
習でも先生が手配してくださったが、身近にその経緯を聞いたり相手とやり取りした手紙を目に
したりしたとき、これが本当の意味での取材なのだと感じ、取材する対象も近く感じられた。
第二に印象的だったのは白鳥家番屋の保存についてである。私は歴史的なものを取り壊す話に
ついては勿体無いと考えてしまうが、それは保存に掛かる費用や手間などとは全くかかわりのな
い立場にいるから言えることなのだとも感じた。白鳥家番屋は、番屋の特徴に沿った歴史を感じ
られる外観で中もよく手入れされ綺麗だったが、それを公衆トイレというあまり綺麗な印象を持
たないものに建て替えられそうだったと聞いて初めは驚いた。しかし、資料の新聞記事の中に、
公衆トイレがないばかりに切実に困っている人がいたことを知れば仕方のない要望なのだと感じ
た。結局敷地内のスペースに公衆トイレが設置できたため白鳥家番屋も残されることになったの
は良い結果と思うが、それが出来るなら初めからそうしてほしいとも感じた。しかし、古い物を
綺麗なままで残そうとするのは大変だが、それ自体はむしろ時代にそぐわず使用価値が小さいた
め、関心のない人にとっては全く無駄な行為である。白鳥家番屋の所有者に取り壊す意向があっ
たというのは、歴史的建造物の保存で一番よくある問題だと思われた。
第三は白鳥家番屋保存活動に関連して、小樽運河と旧余市福原漁場の保存の話についてである。
小樽運河は幅を狭めた偽物のほうが有名というのは少し惜しい気はするが、観光地になれば利益
が出るので総合的に見れば歴史保存の成功例だと思う。旧余市福原漁場は割り切った保存方法で、
地区単位としての保存を完全に諦め、代わりに確実に残せるものだけ資料館として残していると
いう例である。祝津地区のようにばらばらと統一感のない保存が行われている地区と比べると、
非常に合理的で私は感動した。きれいに話がまとまる例は珍しいと思うが、早めの計画的な保存
が歴史的建造物の保存に対しては一番望ましいと感じた。
この実習では一年間を通して取り込むうちにさまざまなテーマに繋がっていった。今回は初め
9
から実習の目的地が決まっていたこともあるが、蟹工船にはじまったのにもかかわらず調査する
うちに調査地小樽との関係が薄いことや取材相手の返事によって、次第に鰊漁にテーマが移り、
最後は全く予想していなかった史跡保存について様々な話を聞くことができ、予想外だが興味深
い実習になった。あらかじめゴールを予想しても思惑通りにいかない勉強をこれから何度もして
いくのだと実感した。
Ⅴ参考文献
・浜林正夫『「蟹工船」の社会史』学習の友社 2009 年
・井本三夫『北前の記憶』桂書房 1998 年
・葛間寛『鰊場育ち』幻冬舎ルネッサンス 2012 年
・北海道新聞『残してニシン番屋』1994/9/29
・『ひろば』56 号(社)北海道建築士事務所協会
1994/12/25
・相澤唯『祝津の遺構調査の結果と旧白鳥栄作番屋について』
・旧余市福原漁場・よいち水産博物館
・『北海道立志編』北海道図書出版
1904 年
・樋口忠次郎『祝津町史』祝津郷知会
1972 年
・小樽再生フォーラム『小樽の歴史探報』
・日本建築学会北海道支部歴史意匠委員会『小樽市の歴史的建造物』
・利尻屋みのや蓑谷修さん作成資料
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