2015.05.15 第2回公民館分科会 <公民館活動報告> 要約 相馬光子 2015 年 5 月 15 日 ふとしたきっかけから、歴史の学習会へ足を伸ばすことになった。 公民館の、苦労のあった創生期の頃から、ちょうど次の世代にあたる頃だったと思う。 公民館での活動を特に意識したことはなかったが、それ以来長い付き合いとなった。 歴史の会では、当時日本の近代史の黎明期を学んでいた。 会の名称も、ちょうどその時代を学ぶにふさわしい「あけぼの…」と称する会だった。 会員は、圧倒的に女性が多く、男性はまばらだった。先輩格の女性が 7,8 名、男性 は講師を初めとして、大学生等が数名だけだった。 しかし、その後しばらくして講師は多忙の為に会を退かれ、その結果、学習会の形態 は、会員たちが各回のリポーター役を輪番制によって務めるという自主学習のグルー プへと変わった。また更に、学習範囲も、それまでの日本の近代史から世界の歴史へ と広がった。 こうして何年かが経ち、次第に学習を重ねていくうちに、自然自然に自分の中では、 自分というものを歴史の大きな流れの中に位置付け、自己を客観視していくというよ うな実感があった。 逆に、自分自身が対社会や物事を見ていく上で、ある種の座標軸のようなものが培わ れていくといった実感もあった。 つまり、及ばずながら学習するということは、そういうことではないかとおこがまし くも思われる。物事の比較視、分類、抽出等の過程を経て、ある事物を客体化する。 堅苦しく言えば、そのような一連の作業の中から、何がしかの抽出物やら編み出され たものがあるとして、しかし望ましい形としては、それがそれだけに留まらずに、何 らかの形で社会還元できるような事態がより好ましいのではないかと思われる。 ともあれ、思わず関わりが長くなったこの学習会自体の歴史を聞くようになったの は、ずっと後になってからのことだった。 そもそも、会のスタートは、公民館事業だった「講座」があって、それが単発に終わ らずに継続という形で発足したのが、この会だったと知った。昭和 45 年の発足だっ 6 2015.05.15 第2回公民館分科会 たという。 たまき 今考えると、それは社会教育の 環 そのものをくぐってきた感がある。 当時、公民館事業のその「講座」には、公民館の保育室を利用してきた女性たちが多 く参加しており、彼女たちに当時の社会教育主事が呼びかけをし、引き続き学習会を 設けていくよう促したという。 会の担当講師として、「講座」時の講師を毎回招くといった下準備も、教育主事が主 に担ってくれたとも聞いた。 このようにして始まった会も、それから数十年…。現在は会の構成メンバーは、ち ょうど男女半々、合わせて 10 名程の会になっている。 男性たちも欠席することはさほどなく、新たに得られた学ぶことの価値を何よりも貴 重なものに感じ、そしてそれを大いにいつくしんでいる。 高齢になられて、残念ながら重い病にかかった人も、また、記憶が薄れて、会話が全 く不自由になられた人も、月2回の例会の日だけは記憶から離れず、家族の心配をよ そに足を運んでくれた。 ただ無言のまま、皆の話に耳を傾け、無言のまま、皆と食事を共にし、最後には会の 誰かが送って帰途に就く。それだけの行動を2年も続けてくれた人…。あるいは、大 手術をして、皆がお見舞いに行ったはずの人が、いつの間にか退院し、程なく手に持 ってきたのは、以前から準備していた自分のリポート…、ただ声が失われたので、発 表のリーディングだけは、他のメンバーに代ってもらった人…。色々思い出深い話が 多い。 さて、このように、実際内部的にはかなり恵まれた道程だったが、しかしよく思っ てきたように、館全体での自分たちの位置といった観点からは、残念ながら自分たち は「井の中の蛙」状態だった。ほとんど他のグループとこれといった繋がりもなく過 ぎてきた。隣の人は、何をする人ぞ…! 自分が公民館で、活動に加わり始めた頃は、それでも「いずみ」という手作りの立派 な文集が出されていた。発行者は、「狛江市婦人学習グループ」の名だった。昭和 58 ~9 年、61 年といったその頃の「いずみ」には、市長、教育長の挨拶に始まり、各グ ループの活動報告、更に巻末には、東京都公民館大会報告、公運審委員報告などが記 載されている。 7 2015.05.15 第2回公民館分科会 事情で廃止になったようだが、せめて他のグループはどのような内容のグループなの か程度は、互いに知り合いたい。横軸パイプが太くなることで、組織全体の内容にも より幅が出てくるように思われる。 自分の場合、今回は割愛するが、公民館での活動はこの「歴史の会」の他に、結局 あと二つのグループに関わることになった。 うち一つは、市の任意団体だったので、一般のグループとは異なるが、ただ最初、引 き受けるかどうかのスタートラインで、時間の制約等から、活動を躊躇する面もあっ たが、今となっては、それなりの意義ある場だったと思われる。 「歴史の会」が自らの学習の場だったとすれば、後の二つは微力ながらも実践の場だ ったように感じられる。 以上 8
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