豊信報 H.24.4月号 教会のHP=http://www.toyonobu.com/ 又は 天理教豊信分教会で検索 天理教 豊信分教会℡ 06-6388-6080 摂豊分教会記念祭 創立百十周年祭並びに四代会長就任奉告祭 日時 10月28日(日) 午前10時 摂豊分教会は明治34根年9月1日に教会設置のお許しをい ただいて、 110年となります。 そこで、今年、10月28日に創立記念祭が執行されるこ ととなりました。 記念祭にはおつとめがつとめられ、豊信は部内と併せて計1 8名で九・十下り目をつとめさせていただきます。 おつとめをつとめる人が一人でも多くいりますのでみなさ ん、よろしくお願いいたします。 当日はおつとめ終了後、記念撮影、余興、模擬店などが予定 されています。 1 【教理:おやさまのお話し】 さて、ゆきさんは、をびや許しを頂いたにもかかわらず、教祖 のお言葉を十分信用しきれず、毒忌、もたれ物など昔からの習 慣に従がってしまいました。その結果、産後の熱で三十日程寝 込んでしまったのです。 これは現在では「さんじょく熱」とよばれるものです。衛生 状態のよくなかった当時は、これで命を落とす人が少なくあり ませんでした。 苦しんだゆきさんは、教祖に伺ったのですが、教祖のお言葉は、 ズバリ、「疑いの心があったからや。」と、仰せられました。 ゆきさんは、このお言葉を聞いたとたん、なるほど、と、深く 感銘しました。自分の心を見透かされたように感じたのです。 そして、心の底から反省しました。 教祖は、その赤ちゃんを引き取って世話なされました。ゆきさ んも程なく全快したのでした。 翌年、再び妊娠したゆきさんは、今度は決して疑いません、と 堅く誓って、再び「をびや許し」を頂きました。そして今回は、 教祖の教えをよく守り、ただひとすじに親神様におもたれしま した。そうすると、不思議なくらい軽いお産で、産後の肥立ち も順調でした。 以前からのなりゆきを知っていた村人たちの間に、この話が噂 として広まりました。人々は、まだ親神様が入り込んでおられ るとは知らないながらも、教祖はただの人ではないと、ようや く気付き始めたのです。 しかし、貧のどん底に落ちきる道は、まだ続きます。 安政二年の頃には、残った最後の三町ちょうぶ歩(約三ヘクタ ール)余りの田地を、全部同じ村に住む足達重助さんへ年ねん ぎ切り質に書き入れなされました。 年切り質とは、土地を売るのではなく、安い値段でいったん質 に入れることをいいます。いわば使用権を売るわけです。後日、 2 そのお金の額を売り主が返金することにより、土地を返しても らえる制度でした。 中山家の人たちは、親神様の思召のままに、田畑に出る時にも 常に木綿の紋もんつき付を着ていました。近村の人々は、庄屋 敷村の紋付さんと呼んでいました。なかでも野菜や神棚に飾る さかきを売って近村を歩く秀司先生の姿は、特に人目につきま した。村人達は、紋付さん紋付さん、と親しみをこめて呼びま した。続く [桜] この時期、やはり、桜を取り上げないわけにはいきません。 パッと咲きパッと散る潔さが、日本人の好みに合うので しょう。 本当に日本人は、この花を見るのが好きです。 (梶井基次郎 短編小説「桜の木の下には」)「花は桜木、 人は武士」と言ったのは、一休さんのモデルになった、一休宗 純。まるで吹雪のように散る桜の下で、酌み交わす一献。 盃にひらりと舞い落ちる花びら一枚。 実に絵になります。 呑めなくても…… さまざまの 事おもひ出す 桜哉 松尾芭蕉 3 『天理教原典おさしづ』 【明治二十一年】 〈真実誠の心いうものは、弱いものである。なれども、長い堅 いもの。又々長くの心を持ちて、内々互いの心持ちて、内々睦 まじい。内に誠の心持ちて、世界から成程の内や、と言う。〉 ▼[誠]ほど長く堅いものはないという意味のおさしづです。 私たちは目に見えないこの誠真実を使わせていただくところに 神様のおはたらきがあるのです。 近くの他人 この頃 隣の人と 交際う人が少なくなったようですネ 教えられたり 教えたりする社会は 明るく 温かく楽しい 陽気が溢れます。 「遠くの親戚より 近くの他人」 と申しますが、隣の人と 親戚のように 仲よく むつまじく お付き合いの出来る人は 温かい 幸福をつかめる人では な いでしょうか。 親神様の ご理想通り「陽気ぐらし」隣人と 仲良し 助け合 って楽しい人生を おくりたいですネ。 この時期 「一列は皆兄弟 他人と言うはさらにないぞや」 のお言葉どおり 「遠くの他人」「遠くの兄弟」の一人一人が 我がこととして出来ることを 惜しまず させていただきまし ょう 筒井敬一著「雨が降ったら 傘さそう」より 4
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