GKH020706

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天理教の 「
諸宗教 の教学」への試み
東
馬
場
郁
生
〔
要 旨〕 天理教者が他宗教 との対話に参加する機会が増えている。宗教間対話の意義
,
を考えるとき,対話の当事者は 「
我々にとって他宗教 とは何か」という問題にも向き
合っているO対話の相手を自らの立場から規定できず して,主体的な対話はおこなえな
いからだ。キリス ト教では,他宗教 と自宗教の関係を神学的に意味づける試みは 「
諸宗
教の神学」 と呼ばれ,これまで相当の議論が積み重ねられている。/
」
、
論では,それを援
用 しながら,天理教の 「
諸宗教の教学」を試みる。最初に,キリス ト教による 「
諸宗教
の神学」の視点を概観するO次に,天理教者の立場から 「
諸宗教の教学」を試みる。天
理教の諸宗教観の背景について述べた後,啓示と救済の二つの側面から天理教は自らと
他宗教をどのように関係づけているか検討する。
〔
キーワー ド〕 諸宗教の数学,諸宗教の神学,排他主義,包括主義,多元主義
は
じ め
に
近年,天理教者が 日本 の内外 で諸宗教の集 いや他宗教 との対話 に参加する機会が増 えている。
1
9
9
8
年 にローマで,2
0
0
2
年 に天理で開催 された 「
天理教 とキ リス ト教の対話」 は特 に顕著 な例
0
0
2
年 1月にイタリア,ア ッシジで行われた 「
世界平和 のための祈
で,我 々の記憶 に新 しい。2
Kじ
2の宗教伝統の一つ に天理教があった。
り」 では, ローマ教皇の呼 びかけに応 じ集 まった世界の1
日本 においては,比叡 山サ ミッ トへの参加, また毎年沖縄 で開かれる 「
祈 りと平和 の集い」 で
の教友の活躍 もよく知 られている。教団の代表 としてではな く,個人 として他宗教の信仰者 と
交流や対話 をす る天理教者 も少 な くない。
天理教者 に とって,他宗教 との対話や交流 は どの ような意味 を もつのだろ うか。一つの回答
として,天理教 の認知度が上が り布教伝道が後押 しされる
とい う現実が期待 されている。 さら
ヽヽヽヽ
に,対話で天理教の教理が表明 され,祈 りの集会でてをど りがつ とめ られることを考 えれば,
参加す ること自体が伝道の場 であ る ともいえる。 「
お道 [
天理教]が世界へ打 って出る布教 の
(
2
)
一つの手立 て として も,他宗教 との対 話 にはおお きな意義がある」 のは確 かだ。 しか し,対話
の意味 はそれだけだろ うか。
,「我 々に とって他宗教 とは何 か」 とい う,
他宗教 との対話 について考 える とき,私 た ちは
よ り大 きな問題 に も向 き合 っている。相手のいない ところに対話 は成立せず,その相手 を自ら
の立場か ら規定で きず して,主体的な対話 はお こなえないか らだ。けれ ども現実は,対話 とい
う事実が先行 し,天理教 の他宗教観 ,特 に他宗教 との関係性 については,信仰者の立場か
らの
(
3
)
意義付 けは もちろん,充分 な議論 さえなされていないのではないだろ うか。天理教者 にとって
の他宗教 の意味 を教学 の作業 として明 らか に し,そこか ら生 まれる成果 に基づ いて他宗教 との
対話や交流の意味 を探 求す ることが,今 ,求め られている。
他宗教観 をめ ぐる教学的作 業 は,世界 に複数の多様 な宗教が存在 していること,つ ま り宗教
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天 理 大 学 学 報
的多元性 について数学的に考察す ることである。それは,天理教独 自の規範的立場か ら他宗教
とその存在の意味 を明 らかにす ることである。同時 に,いわばその裏返 しとして,多元的な宗
教環境 における天理教の存在 を指定する試みで もある。 これを宗教的多元性への教学的応答
と
(
4
)
い うこ ともで きよう。キ リス ト教 で は, この ような神学 的営 み は 「
諸宗教 の神学」 と呼 ば
れ,1
9
6
0年代か ら相当の議論が積み重ね られている。それに倣 うならば,本論文で試みる,天
(
5
)
理教教学の立場か らの宗教的多元性の考察 を 「
諸宗教の教学」 と呼ぶ ことがで きよう。
以下では,次のことをおこなう。 まず,キ リス ト教 において宗教的多元性の認識が生 まれた
背景 を明 らかにする。そ して,キ リス ト教 による 「
諸宗教の神学」の方法論的視点 を概観する。
キ リス ト教 と天理教では,現在の宗教的多元性の捉 え方 もそれに対する反応 も多分 に異 なるか
もしれないo Lか し,既 にキ リス ト教神学者 によって深め られた分析 の枠組みは,天理教学の
諸宗教の教学」への見通 しをつける上で参考 にすべ き点
立場か らの応答 を理論的に整理 し,「
が少な くない。実際,キ リス ト教の 「
諸宗教の神学」で一般 に排他主義,包括主義,多元主義
と分類 される他宗教-の態度 は,概念枠 としてある程度の有効性 をもっている。 また,それ ら
は将来,天理教 と他宗教 との間で 「
諸宗教 の神学 (
教学)
」 をテーマ に対話す る際 に,共通の
「
切 り口」 として便利 な分類概念 となろう。
次 に天理教者の立場か ら 「
諸宗教 の数学」 を試みる。第一段階 として,天理教の諸宗教観の
背景 を概観す る。立教以降,天理教 を取 り巻 く宗教的,社会的環境 はキ リス ト教の場合 と大 き
く異 なっている。同時に,それ らは天理教が諸宗教 を認識する様式,態度 に深い影響 を与えて
きた。 この ような条件下に天理教者は諸宗教の存在 をいかに認識 して きたかを検討する0第二
段階 として,啓示 と枚活の二つの側面か ら,天理教 は自らと他宗教 をどの ように関係づけてい
るか考察する。諸宗教 と天理教 との関係 を示唆する と思われるものを,原典お よび教理書, さ
らには先行する教学的研究 に求め整理 したい。そ して,他宗教 に対する天理教 の立場が包括主
義的絶対性の立場 であることを明 らかにす る。
キ リス ト教 の 「諸 宗教 の神 学」
背景一宗教的多元性の認識
キ リス ト教の 「
諸宗教の神学」 は,宗教の多元性の認識 を前提 としている。キ リス ト教の場
令,宗教の多元的状況 はユ ダヤ文化圏における成立期 よ り経験 され,時代が下がると,非 ヨh
ロッパ圏への拡大 に伴い,多 くの文化 と宗教 に接触する経験の中で認識 されて きた。 ヨーロッ
パ においては過去の長い間,キ リス ト教 は絶対的優位の 自信 と宗教的独 占を有することがで き
た。 この間,他宗教 とは伝道者や探検家,あるいは貿易商たちが異国で経験 し本国に持 ち帰 っ
て語 る話の世界であった。
キ リス ト教 にとって今 日の宗教的多元性 には過去 とは違 う特徴がある。第二次大戦後,諸外
国か ら欧米へ急激 な人口流入が生 じるに伴 い, さまざまな宗教 も持ち込 まれて きた。欧米 にい
なが ら,社会や教育現場で他宗教 に触れる機会が増 え,それは交通手段や情報伝達手段の発達
によって さらに加速 された。長い間一元的宗教世界 に暮 らして きた欧米のキ リス ト教者の身近
に,他宗教の信仰者が存在するようになって きたのである。
このような現実に基づ く他宗教観は,伝道上の経験 に刺激 をうけた他宗教理解 とは本質的に
nGi
l
ke
yによれば,その認識は,多
異なる認識 をもた らした。 ラング ドン ・ギルキー Langdo
様 な宗教が存在す るとい う従来の理解 に加 え,新 たに,それ らの宗教 もキ リス ト教 と対等の妥
当性 と有効性 を有す るとい う概念 を含んでいる。ギルキーはこれを 「
対等なるものの多元性」
天理教の 「
諸宗教の教学」への試み
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(
6
)
と呼ぶ。彼 は,キ リス ト教 と他宗教 の対等性 は,西洋文化 と非西洋文化 との間の対等性 を反映
9
45年以降
している とい う。かつて,西洋 による支配は西洋の人々に優越の意識 を与 えたが ,1
の西洋文化の相対化は,西洋の宗教 もい くつかの世界宗教の うちの一つである との認識 を促 し
た。西洋文化が非西洋の宗教 に も開かれ,他の宗教文化 を感化する力が逆方向に流れ出 し,他
の信仰がキ リス ト教 の領域で 自己主張 を始めるようになった。一方,キ リス ト者 にとってキ リ
ス ト教 は受身的で生気がない と感 じられるようになった。 このような新 しい状況が諸宗教の相
互関係 に新 しい理解 と霊的力の新 しい均衡 をもた らした。それは二つの異 なる平衡性の感覚 に
(
7
)
ある
。
よって説明 されている。すなわち,キ リス ト教 にとって自らの絶対性が低下する感覚 と,他 の
宗教 にとってキリス ト教 との平等性へ と上昇する感覚で
宗教 の 「
対等なる多元性」へ と繋がる上向 きの平等性 と下向 きの平等性 とは,キ リス ト者の
立場か らの描写である。 しか しそれは,世界での諸宗教の認知度 と影響力の変動 を的確 に表わ
対等 なる多元性」は,キ リス ト教以外 の宗教,特 に世界的 にはい まだ小数派であ
している。「
る教団にとっては, どの宗教 をも等価値的に眺める環境 として歓迎すべ きものだ と考 えて よい
だろう。
「
諸宗教の神学」の三つの立場
対等 な
このような時代 の特質 を背景 に,キ リス ト教神学界 には新 たな動 きが現 れ始める。「
る多元性」が,長年一元的な宗教環境 に慣れていたキ リス ト教徒 には衝撃であったことは疑い
ない。 しか しそれは,他宗教 をどう理解すべ きか,それ らの宗教 とキ リス ト教 との関係 はいか
にあるべ きかなどを,神学的な立場か ら向 き合い,考える契機 となった。そ して,キ リス ト教
神学者の間に.「
新たな宗教的多様性
の経験 に照 ら して,キ リス ト教 の教理の進展 に寄与 しよ
(
8
)
うと試みる」動 きが生 じた。
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rは,近著 I
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Re
カ トリック神学者ポール ・ニ ッタ- Pa
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ons (
諸宗教の神学入門)の中で,「
諸宗教 の神学」が取 り組 む課題 を次 の 6項 目にまとめ
ている。
1 なぜ これほ ど多 くの異 なる宗教が存在するのか。
2 もし神が一つなら,宗教 も一つであるべ きではないのか。
3 全ての宗教 は神 の 目には妥当なのか-全てが等 しく人々を神聖なる ものに導 くのか。
4 諸宗教 の違いは,中身の相違 よりも色の [
外見だけの]違いの問題か。宗教伝統 は互
いにどうい う関係 にあるべ きか。
5 よ り具体的に言って,私の宗教 は他の諸宗教 とどのような関係 にあるべ きか。
6 自分の宗教か ら学 んだことよ りも多 くのことを他
の諸宗教か ら学ぶのだろうか。なぜ,
(
9
)
私 は他の宗教ではな く, この宗教 に属するのか。
上 記 6項 目 は,宗 教 の多 元 性 の 問 題 (1, 2) か ら始 ま り,諸 宗 教 の 相 互 関 係 の 問 題
(3, 4) へ と移 り,最 後 に宗 教 的 多 元 性 の な か で の 自宗 教 の意 味 や位 置 づ け の 問題
(5, 6) で終わっている。 これ ら三点は相互 に関連 しているので,実際の議論では同時 に存
在す ることもある。
諸宗教 の神学」が問題 とす るのは,所与の事実 としての宗教 的多元性 を神
いずれにせ よ,「
学的にどう解釈 し,説明するか とい うことだ。そ して,その議論 の中心 は,キ リス ト教 と他宗
教 との関係 を自らの神学的主体的立場か らどう理解す るかに他 ならない。 これは同時に,宗教
的多元性 において 自分の宗教は如何 にあるか とい う開法 を必然的に議論することにもなる。す
天 理 大 学 学 報
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なわち,宗教的多元状況 を背景 とした 「
他宗教観」 と,その反照 としての 「自宗教観」が問わ
れるのである。 こうしてキリス ト教 は,他宗教 との関係 をどの ように規定す るか とい う問いを
自らに投げかけている。
「
諸宗教の神学」 において,他宗教 に対する神学的態度,あるいは宗教的多元性への神学的
(
1
0
)
応答 は, しば しば排他主義,包括主義,多元主義の三つの立場
l
]
い に分類 される。 この類型はすで
0
年前 にアラン ・レイス A
la
nRa
c
eが提唱 した ものだが,今 日その概念 の普及 に最 も寄与
に2
しているのは,影響力のある 「
諸宗教の神学」者の一人で,多元主義者であるジ ョン ・ヒック
Jo
hnHi
c
kである。そ こでこれ ら三つの立場 をヒツクによる説明 を中心 にまとめてみ よう。
まず,排他主義は救済 をキ リス ト教伝統 に限定する。 この立場 は,た とえばカ トリック教会
の 「
教会の外 に救いな し」の ドグマや,プロテスタン ト教会の海外宣教運動 による 「キ リス ト
(
1
2
)
教の外 に救いな し」 などの宣言 に見ることがで きる。 これ らが,他宗教 に対するキ リス ト教の
優位性 と,キ リス ト教 と他宗教 との間の質的断絶 を示唆することは言 うまで もない。真の啓示
と救済はキ リス ト教 においてのみ可能であるとの見方である。第二バチカン公会議 までのカ ト
(
1
3
)
リック教会の態度 は概 ねこの立場であった と理解 されている。排他主義 は,救済者 としてのキ
リス トの絶対性 に関する 「
新約聖書」の言葉 に しば しば依拠 している。た とえば 「ほかのだれ
によって も,救いは得 られ ませ ん。わた したちが政われるべ き名は,天下 にこの名のほか,人
神 は唯一であ り,神 と人
間には与 えられていないのです」 (
使徒言行録 4 ・1
2),あるいは,「
との間の仲介者 も,人であるキ リス ト イエスただおひ とりなのです」 (
テモテへ の手紙 - 2
(
1
4
)
・5) などが しば しば引用 される。
次 に,包括主義は,人間に対する神の許 しと受容はキ リス トの死 によって可能 になったが,
この犠牲 により与 えられる恩寵-すなわちキ リス トの頗罪- はすべての人間の罪に及んだので,
人間は,た とえイエスのことを知 らな くとも,キ リス トによって購われているとい う理解であ
る。包括主義はさらに,救いを 「キ リス ト教の歴史の中だけでな く,他 のすべての偉大な世界
宗教の伝統のなかにも生 じる出来事」 としてみる。救いの出来事が どこで生 じたにせ よ,それ
(
J
5
)
はナザ レのイエ スにおいて受肉 した三位一体 の神の第二位格であるキリス トの業 とみなすO こ
うした包括的立場 は,現在ではカ トリック教会のみならず,ルター派,改革派,メソデ イス ト,
聖公会な どのプロテス タン トの主流派 にも共通 しているといわれる。
包括主義が, イエスを唯一で最終かつ絶対の救済者 として主張する点 において,排他主義 と
同 じ軸 を共有 しているのはい うまで もない。確かに包括主義 は,他の宗教 にも啓示の真理 と救
済の契機が存在する と認める点で排他主義 とは異 なる。 しか し包括主義看は,他宗教 における
真理 と救済が各宗教の主体的独 自性の中で生 じているとはみな さない。む しろ,それ らをキ リ
ス ト教的に読み直 し,意味付 ける。他宗教 における真理 をキ リス ト教の完全 なる真理の一部 と
して位置づけるのである。キ リス ト教以外 の宗教 による救済は,た とえ当事者が認識 レベルで
自覚 していな くとも,存在 レベルでキ リス トの業 として捉 え直 され,基礎づ けられるのだ。 こ
の ような立場 を象徴的に表す もの として しば しば引用 されるのが,カ トリック神学者 カール ・
ラーナ- Ka
r
lRa
hne
rの有名 な 「匿名のキ リス ト者」 とい う概念 であ る。それは,キ リス ト
教信仰者でな くとも意識的あるいは無意識的に神の意志 を遂行 しようとする者 はキ リス ト者 と
みな しうる, とい う立場である。
宗教的多元性への神学的応答の三番 目に多元主義がある。その特徴 は,キ リス ト教の唯一性
や絶対性 を捨 て,キ リス ト教 も真理 を伝 える宗教の一つだと認識することにある。多元主義の
主張がキ リス ト教の最終的な唯一性 に基づ く他 の二つの立場 とは根本的に異 なることは明 らか
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天理教の 「
諸宗教の教学」への試み
(
I6)
で,その主張の衝撃の大 きさか ら神学上の 「コペルニ クス的転 回」 と形容 されることがある。
多元主義神学者 はまさに今 日の 「
諸宗教の神学」の火付 け役であ り,論議の中心 となっている。
多元主義者の主張では,キ リス ト教 は唯一真正の宗教ではな く,他の宗教 と並ぶ道の一つに
過 ぎない。 こうして彼 らは排他主義や包括主義が内包するキ リス ト教の絶対性の主張 を退ける。
キ リス ト教 も含め諸宗教 には,他の どの宗教 も取 って代 わることので きない固有の真理がある。
その独 自性 は排他的超越性 には結 びつかず,いかなる宗教 も最終的,普遍的真理 を占有 しない,
(
1
7
)
というのである。 ヒツクによれば,全 ての宗教 は人間が直接知ることので きない究極的実在 に
対する応答であ り,宗教の多元性が生
じるのは,文化的相違の故,互いに異 なる独 自の方法で
、
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t
t
l
応答せ ざるをえないか らである。つ まり,究極的実在 に辿 り着 く道が多数存在するとい う意味
での多元主義であ り, どの宗教 も全体的真理の一部 を占めるに過 ぎず,諸宗教は互いに補完的
関係 にある。
宗教的多元性のこの ような理解 は 「
人類の より広 い宗教的経験か ら様 々な影響 をすすんで受
(
1
9
)
け ようとする」態度 を要請す る。それは他宗教 に対する, より開かれた態度 に他ならず,他宗
教 との交流や対話 は真理探究のために促進 されるようになる。多元主義者 によるこうした主張
はキ リス ト教の他宗教観 に大 きな刺激 を与えてお り,諸宗教 の神学 といえば多元主義的他宗教
観 と理解 されることが多い。 日本 においては, ヒックの多元主義的著作が特 に積極的に翻訳,
紹介 されたことか らもその趣は強い。
多元主義 に対する批判
,「諸宗教の神学」の三つの立場 にはさまざまな
今 日,キ リス ト教神学や宗教哲学の領域で
批判がなされている。なかで も,カ トリック教会 とプロテスタン トの主流派では排他主義は非
現実的 と退け られ,包括主義が主流 を占めているが,多元主義の主張には最 も多 くの批判が投
げかけ られている。
is
t
o
ph Sc
hw6
be
lは,多元主義の主張が諸宗教
た とえば, クT
)ス トフ ・シュヴェ-ベル Chr
の個別性の喪失 につながると警告 している。彼 は,多元主義 は 「
表向 きの意図 とは反対 に具体
的な個別宗教 を超越す る全 ての宗教 に普遍的で究極的なヌーメン的焦点 を描 き出 した り,個別
の宗教表現 に通底す る共通の人間学的常数 という表象 を作 り上げた りする」 と述べ,多元主義
的主張が一種の普遍宗教の創造 に向か う危険性 を指摘する.彼 によれば,この場合,キ T
)ス ト
教信仰だけでな く他のすべての宗教の個別的な主張が抽象的な普遍性 に適合す るように還元主
,「宗教 というものの一
義的に再解釈 されることになるoそれぞれの宗教はその独 自性 を失い
般 的 な抽象概念 もしくは形而上学 の一事例 に変質 させ られて しま う」。 その結 果,諸宗教 は
1
2
01
「
究極一歩手前の予備的な位置づけ しか与え られない」 ことになる という。ちなみにシュヴェ
,
-ベルは, こうして多元主義 を批判す る一方で,排他主義 について も 「キ リス ト教信仰の固
有性 と個別性 を表現す るには長けているが, 自ら宣べ伝 える神の行為 の普遍性 を疑 わ しくす
る」 と批判する。彼 は,排他主義 と多元主義
には諸宗教の個別性 と普遍性の複雑 な関係 を把握
(
2
1
)
で きない という共通の弱点があると指摘す る。
多元主義への批判 は, カ トリック教会か らも公式 に表明 されている。2
0
0
0
年,教皇庁教理省
(
2
2)
は 「ドミメス ・イユズス」 を発表 し,その中で,イエス ・キ リス トと教会の救いの唯一性 と普
,「扱 い に関わ っての教 会 と諸宗
遍性 をあ らためて宣言 し,多元主義 を批判 した。た とえば
,「明 らかにカ トリック信仰 に相反す るのは,ほかの諸宗教 によっ
教」 と題 された第 6章には
てなされる救いの道 と共 に,数 々の道 の ひとつ [
ママ] として教 会 を考 えるこ とである」 と
天 理 大 学 学 報
90
記 されている。宣言 は さらに次の ように続 けている。
多様性 に富 む宗教伝承 の中 には,神 か ら来 て
,「人 々の心 の中,諸文化 と諸宗教 の中での
聖霊」の働 きの一部 をなす宗教性 の諸要素が含 まれ,差 し出 されていることは確 かである。
実際 に,ほかの諸宗教の幾つかの祈 りや儀礼 は,人 々の心 を促 して神 の働 きに開かれ るよ
うにするための様 々な道 ない し教育 と して,福音の前準備 の役割 を担 うこともで きる。 し
か しなが ら,そ こ には キ リス ト教 の秘 跡 に固有 な神 的起 源 と事 効 蔚効力 (
e
x o
pe
r
e
o
pe
r
a
t
o) を認め るこ とはで きない。 さらに,ほかの儀礼 が迷信 やその他 の誤謬 に基 いて
いて (1コ リ1
0・2
0-21
参照),永遠 の救 い に とってむ しろ障害 となってい るこ とも無視
(
2
3)
で きない。
この ように,本宣言 は,他宗教 に真理性の存在- す なわち 「
神の働 き」- と導 く 「
道 ない し教
育」 となる ものの存在- を認める ものの,結局 それ らは 「
福音の前準備 の役割 を担 う」 に過 ぎ
ない とす る。 さらに宣言 は,キ リス ト教以外 の宗教 には 「キ リス ト教の秘跡 に固有 な神 的起源
と卓効飴効力 (
e
xo
pe
r
eo
pe
r
a
t
o) を認めることはで きない」 と述べ て,他宗教 とキ リス ト教
との格差 を鮮明 に している。
この他宗教観 は,上記引用の次 に現 れる第2
2項 において一層 明確 になる。そ こでは,神 によ
り設立 されたカ トリック教会が全人類救済の手段 となるよう望 んだ とい う 「
信仰の真理」の主
張は 「
教会が このわた したちの世界 にある諸宗教 を,真心 を込めて高 く評価 してい る事実 に何
,「しか し,同時 に "どの宗教 も価値 は同 じだ 'と
ら抵触 しない」 と しなが らも,その直後 に
考 えるように仕向ける宗教 的相対主義 の足跡 を刻 まれたメ ンタリテ ィーを根底か ら排 除す る」
と記 されている。つい には, カ トリック教会 と比較す るな らば,他宗教 は 「
客観的に重大 な欠
損状態 にあることも真理であ ることに変 わ りはない」 と宣言 されるに至 っている。
,「包括
ここに見 られ る主張が, これ まで見 て きた 「
諸宗教の神学」 の三つの立場 の中で は
主義」 の特徴 にそっているのは明 らかであろ う。無論 , これはカ トリック教会の中心か ら発せ
られた宣言であ り,神学論争の一つ として軽 々 しく扱 うことは控 えねばなるまい。 しか し,そ
の主張の中に,我 々は,包括主義 の立場 は, 自らの信仰の特殊性 とその究極性 の確信 か ら決 し
て遊離す る ものではない ことを,改めて確認で きる。
「
諸宗教 の神学」 は,多元主義者 による主張が一巡 した現在, よ り広 い視野か らの再評価 の
,「諸宗教 の神 学」が,硯在の宗教 的多元性 が何 を意味 し,そ
時期 に来てい る。 しか しなが ら
の中で 自らの信仰 は どうあるべ きか を問 う場 をキ リス ト者 に提供 して きた ことは間違いない。
今,天理教 も,同 じ世界 内存在 として,同 じ宗教 的多元性 の中に投 げ込 まれている。 キ リス ト
者 と同 じ問題 に直面 しているのである。我 々は,天理教信仰者の立場 か ら, この現代 的問題 に
どの ように対処すべ きだろ うか。 また,その ような議論 それ 自体 は可能なのだろ うか。
宗教 的 多元性 の 中の 天理 教- 「諸 宗教 の教 学 」
背景一宗教的多元性の認識
キ リス ト教や他 のあ らゆる宗教 と同様 に,天理教 が宗教的多元性 とい う条件 の下 にあること
は否定で きない。ただ し,長年,宗教 として圧倒 的優位 にあ った欧米キ リス ト者 による多元性
の認識 と,立教以来歴史 も浅 く,宗教集団 として も少数派の地位 にあった天理教の信仰者 によ
る宗教 的多元性 の認識 には違いがあって当然である。天理教者 は宗教 的多元性 をこれ まで どの
ように認識 し,経験 し,語 って きたのだろ うか。
現在知 られている諸宗教のいずれ もが,宗教 的な多元性 とそれ故生 じる他宗教 との論争的状
天理教の 「
諸宗教の教学」への試み
91
(
2
4)
況の中か ら生 まれた といわれる。天理教 も当初 より宗教的多元性の中にあった。既 に教祖在世
当時か ら,こふ きやおふで さきな ど教祖が 自ら語 り,話 した教 えの中には天理教 と他宗教の関
係が言及されている。ただ し注意 しな くてはならないのは,教祖 を通 しての教 えである以上,
それ らの意味 はあ くまで普遍的なもの として理解 されるべ きであ り,歴史的に限定 され得 ない
とい うことだ。それは数 えであ り,歴史的相対性の中に現れる天理教者の他宗教観 とは区別 さ
れねばならない。天理教 における他宗教認識の主体 は,天理教信仰者,あるいはその集団 とし
ての天理教である。宗教的多元性の認識 について語る際には,私たちはそれをあ くまで信仰者
の経験 と認識の問題 として扱わねばならない。 これは,キ リス ト者 による宗教的多元性の認識
と考察の レベルをそろえるためにも必要である。
この ように限定する と,天理教が他宗教の存在 を認識 し何 らかの対応 を迫 られたのは,教祖
に救 われ導かれた者たちが,教祖 に教 えられる真理の独 自性 を主張する一方で,集団 としての
宗教的,法的正統性が挑 まれた ときか ら始 まった とみなす ことがで きよう。教祖在世当時であ
,『稿本天理教教祖伝』で言及 されている以下の具体 的事柄が原初 的事例 になる。元治元
れば
午 (
1
86
4年)の大和神社ので きごと,慶応 2年 (
1
8
6
6年)の不動院の山伏 による狼籍,慶応 3
年)の京都の吉田神祇官領か らの許可,明治 7年 (
1
87
4年)の大和神社 ・石上神宮 ・
午 (
1
867
円照寺ので きごと,明治 1
3年 (
1
8
8
0年)の地福寺 との関係 ,明治 1
8年 (
1
8
85年)の神道本局か
らの教会設置許可などである。
明治2
0
年 に教祖が現身 を隠 されて後の教会設置や一派独立の運動 に して も,他宗教,特 に神
道 との距離感が もたら した困難 と制限は,祭儀か ら教理体系 まで天理教のあ り方 に深 く関与 し
ていた。周知のごとく当時の天理教 は,神道本局 に属 し,教派神道 とい う枠の中での存在であ
った。 しか し,一方, この厳 しい条件下で教祖の教 えを真筆 に歩 もうとする信仰者の間には,
天理教の独 自性 を維持,模索する努力 とエ ネルギーが常 に内在 していた。だか らこそ他宗教 と
天理教 と神道 とが相対す るダイナ ミズムを象徴的に読み取ることがで きる。た とえば,明治41
午 (
1
9
0
8
年) 3月に初代真柱 らによって内務大 臣宛 に提出 された第 5回の 「
天理教会別派独立
願 」 には次の文章がある。
天理教ハ教祖 中山美岐子天保九年十月 ヲ以テ開創 シ,慶応三年神祇管領吉田家二属 シ,明
治十八年二至 り始テ神道本局 ノ管轄二属ス, (
中略)而ル二本教 会ハ神道本局 ノ管轄こ属
ス ト錐,其祭神ハ奉祀 ノ体 ヲ異ニシ,其教理二於イテハ全然之 卜異ナ リ,且教則及規程ハ
特に [
ママ]貴大 臣閣下 ノ御認可 ヲ得 タルモノニシテ,専 ラ神道本局 ノ教規二通順セザル
モノ有 り,是 ノ故こ,神道本局管轄 ノ下二在 リテハ,啓二布教上二於テ隔靴掻痔 ノ歎アル
ノ ミナラズ,平素部下 ノ教 師ヲ指揮監督 スルノ道二於テモ,亦左枝右梧 ノ憂ナキ能ハズ,
(
2S)
是 レ新治郎等 ガ窃二嘆息スル所 ナ リ
この文書 には,当時,天理教が神道本局の管轄下 にあ りなが ら,実際示
巳られる神 も祭儀 も教
理 も神道本局のそれ とは異 なる という矛盾が明確 に表記 されている。一方では存続のため教派
神道 に届 きねばな らず,それゆえ受ける制約があ り,他方では天理教独 自の 「
専 ラ神道本局 ノ
教規二通順セザルモノ」があった。その結果,実際の布教 は 「
隔靴掻痔 ノ歎」があ り,布教の
現場では混乱 を生 じざるをえない状況であった。 この ように,当時の天理教 にとっては, まず
教 団 としての存続 とい う極めて具体的な, しか し切実な問題 を巡る苦悩 とそれを乗 り越 える努
力の中に 「
他宗教」が存在 していた。神道 との関係 において天理教の独 自性の主張がお こなわ
れたのであった。
92
天 理 大 学 学 報
さらに上記の資料は,他宗教 との関係の問題 は布教伝道の文脈で も考察 されねばならない こ
とを示唆 している。事実,現在 も,天理教 とい う新 しい教 え と伝道地に既存す る宗教的価値 と
の関係 は,人々の改宗の動機 を考 えるうえで看過で きない。社会的 レベルで も,個 人的 レベル
で も,「それまでの宗教」 と 「
天理教 とい う新 しい宗教」 との関係性の認識 にかかわる問題 は,
布教の現場でほぼ必ず といって よいほ ど表面化す る。それは天理教の信仰 と実践が もつ個別性
の問題 を意識 させ る。天理教の教 えの価値や真実性 を主張することは,その個別性や独 自性 を
主張す ることにつなが り,その結果,他宗教 との間に断絶 を生 じさせ ざるをえない。 この意味
で,布教伝道は他宗教 との断絶の相 を有 している。
しか し,断絶の側面だけでは伝道は成 り立たない。伝道の行われる地域社会,あるいは被伝
道者 に天理教が 「
排他的」 とみなされ,異質性が強調 されて しまうか らだ。そこで,他宗教 と
のつなが りも必要 となる。それは,消極的には,他宗教 を非軌 排斥 しない宗教的寛容の態度
として現れる。 よ り積極的には,天理教 を,世界平和 を祈念 し,困窮す る人々を救済す る諸宗
教の一つ として位置づ けることで,他宗教 と協調 を図る態度 として現れる。 このように実際の
伝道においては,天理教 と他宗教 との関係 は,断絶 とともにつなが りの側面 も含 んでいる。
伝道の場では,他宗教の存在が今 日も天理教者 によって強 く意識 されているのは明 らかだ。
では,天理教者は,今 日経験す る多元的宗教世界,他宗教の存在 をどの ように考 えればよいの
だろうか。そ して天理教の独 自性 をどの ように理解 し主張すべ きだろうか。親神が教祖 を通 し
啓いた普遍的真理 を信仰者の 「
今」 とい う歴史条件 と結 び,呼吸 させ るのが天理教数学の営み
であるならば,宗教的多元性 とい う 「
今」 に生 きる信仰者 にとって,教祖の教 えと他宗教の関
係 は真筆 に問われねばならない。
天理教 と諸宗教
1.啓示の側面 における天理教 と他宗教の関係
他宗教 に対す る天理教の立場 を考 えるとき,おそ らく誰 もが最初 に思い起すのが 『
天理教教
典』第三章 に示 される教 え,すなわち親神の数 えの十の うち九つ までは既 に人間に伝 えられ,
最後の一点が教祖 を通 しての直接啓示 によってのみ明か された とい う教 えであろう。天理教 に
おいて,他宗教 との関係 はまず啓示の地平 に現れるのである。関連部分 を引用 しよう。
か くて,親神 は,教祖の口を通 して,親 しく, よろづいさいの真実 を明か された。それは,
長年の間,-れつ人間の成人に応 じて,修理肥 として旬々に仕込 まれた数の点晴である。
即 ち,ここにい よい よ,親神直直のだめの教が垂示 された。けだ し.十の ものなら九つま
で数 え,なお,明か されなかった最後の一点,元の親 を知 らして,人類 に,親神 の子供 た
るの 自覚 を与え,-れつ兄弟姉妹 としての親和 を促 し,親子団梁の陽気 ぐらしの世 と立て
(
2
6)
替 えようとの思召か らである。
(
2
7)
『
天理教教典』では, この引用部分 に続 き,おふでさきか ら六首のお うたが挙 げられている。
その意味内容は,引用箇所の後半部分 「
最後の一点,元の親 を知 らして,人類 に,親神の子供
たるの自覚 を与え,-れつ兄弟姉妹 としての親和 を促 し,親子団梁の陽気 ぐらしの世 と立て替
えようとの思召」の内容 と符合する。
ここでは他宗教 との関係性 に焦点 を当て,上記引用の前半部分,すなわ ち,「
親神直直」の
教えが 「
十の ものなら九つ まで教 え,なお,明か されなかった最後の一点」であることについ
て理解 を深めたい。天理教 と他宗教 との関連 について数示 されるお うたをおふで さきの中に探
す と, まず,次の一連のお うたが挙 げ られる。
9
3
天理教の 「
諸宗教の教学」-の試み
い ま 、で もどの よなみち もあるけれ ど 月 日を しへ ん事 わないぞ千
月 日よ りたいてへ なにもだん一--と
を しゑて きたる事 であれ ども
このたびハ またそのゆへの しらん事
なに もしんぢつみなゆて きかす
これ までハか らや とゆ うてはぴか りた
これ も月 日が を Lへ きたるで
このたびハ月 日元 ゑ とたちかい り 木のね しいか りみなあ らハすで
この よふの元 を しいか りしりた もの
どこの もので もさらにあるまい
1
0号
4
2
4
7
「このたび」 とは天保 9年 (
1
8
3
8年)の立教以降の親神か らの啓示 を示 している。 これ まで も
「月 日を しへ ん事 わ」 なか った。 しか し, このたびの啓示 は 「しん じつ 」の教 えである。それ
は同時 に 「この よふの元」や 「
木のね」 といわれる ように,根源の教 えである といわれている。
「このたび」 の啓示の真理性 と根源性 の根拠 について考 えた場合,最初 に挙げ られるのは,
そのはづや月 日たいない入 こんで
8号
はな しす るのハい まは じめやで
5
0
と教示 され るように,それが教祖 を通 した,神 による初めての直接的啓示であったことである。
,「絶対 的な ものが
つ ま り,教祖の立場が啓示 の真理性 と根 源性 を支持 してい る。中島秀夫 は
相対 の場 に硯成」す る神の啓示 は 「
絶対無限の境位 につなが る極 めて特殊 な媒介の事実」 を含
(
ヱ8)
む と述べ て,啓示 の媒介者 と しての教祖 の特殊性 に言及 してい る。彼 によれば,歴史上の多 く
の預言者が一時的なある時,ある場所 における 「なかだち」 や 「
橋渡 し」 であったの に対 し,
,
教祖 の 「なかだち」 の立場 は,その存在 において一貫 してお り 「しか も永遠の次元 に高め ら
,
単 なる 「なかだち」 とい う存在性が乗 り越 え
れた存在である」。その結果,教祖 の場合 には 「
l
=
9
1
られて (
中略)神の地平へ と止揚 されてい る」。 これ は,特殊 な媒介 と しての教祖 は,仲介者
であ りなが ら仲介者ではな く,その存在 と立場 は神 と同位 だ とい う意味である。中島はこの こ
とを 「
教祖 を通 しての親神 の啓示が,その 「
通 して」 とい う限 りにおいて,論 理上 はあ くまで
も間接 的な ものであ りなが ら,実 は親神の人間に対す る直接 的 な自己啓示 に他 ならない とい う
(
3
0)
。「このたび」 の啓示 の真理性 と根源性が啓示の直接性 に
玄義」 とい う言葉 に集約 させてい る
基づ くこと, さらに, この啓示の直接性 は啓示の媒介者 と しての教祖 の特殊性 に依 っているこ
とが理解 される。
教祖 を通 しての直接 的啓示は,他宗教 と対比 して考 えた場合,真理性 と根源性 だけではな く,
新規性 も備 えている。た とえば,次 のお うたは,いずれ も,親神 による教祖 を通 じての 「この
たびの」教 えが 「
い ま 、で しらん事」,つ ま り, これ まで にない新 しい内容 であるこ とを説い
(
3
1
)
ている。
このたびハ神が を もていあ らハれて
なにかい さい をといて きかす る
この よふ をは じめてか らハ なにもか も
この さきハみへ てない事 だん一-ーと
といて さか した事ハ ないので
よろづの事 をみ な といて を く
1号 3
3号 1
2
3
4号 8
9
また さきハなにかたん一--と くけれ ど い ま ゝて しらん事 ばか りやで
6号
この よふ を初 てか らにない事 を
1
2
号 1
3
8
どんな事 をもを Lへ たいか ら
5
3
,『教典』で
3) とは
い うまで もな く,上記 のお うたが宣言す る 「
い ま ,で しらん事」 (6号 5
「なお,明か されなかっ た最後 の一点」 (
傍点筆者) と言 及 され る内容 に他 な らない。 な らば
それは,人間創造以来親神が明か
した,他宗教 の教 えを含むいわば一連の教 えの,単 に時 間的
ヽヽ
意味 だけの最後 の一点 なのだろ うか。あるい は 「
究極 のお しえ」 とい う表現が示す ような,
,
真理の完結性 だけの問題であろうか。それ らの意味 を包含 しなが ら,実際 には次の ような解釈
が成立 している。
9
4
天 理 大 学 学 報
つ まり,「
十の ものな ら九つ」 との教 えは, この最後の一つ を加 えることで,これ までの九
つの教 え も意味的に刷新 される, まさに教祖 に入 り込んで明示 されるをやの教 えによって, こ
れまでの教 えに新 しい意義 と質が与 えられる とい う理解である。例 えば,深谷忠政は, この こ
とを 「
応法の教 え」 (
枝葉の教 え) と 「
究極的仕上げの教 え」 (
根本の教え)の関係 ととらえて
(
32)
いる。そ
して 「
最後の教 えによって応法の教 えも生 きるのである」 と説明 している。天理教の
ヽヽ
教 えがだめ (
最後 ・究極)の教 えと表現 される場合の最終性 ・究極性 とはこの意味 において解
釈 されている。
0号4
2
-4
3に教 え られる他宗教 との啓示的連続性 と, 3号
実際,そ うでな くては,た とえば1
1
2
3に教えられる天理教の啓示の特殊性 との整合性 は維持で きない。 これまでの話 もこのたび
の啓示 も親神 によるもの, しか し, このたびの教 えはだめの教 えである, との命題が成立する
には,この最後の一点が同 じ親神の教 えであ りなが らも他 と比べて特殊でな くてはならないの
である。
このたびの啓示が 「
木のね」であるとは,必然的に, これ までの教えが木の枝や葉 と位置づ
けられることを意味 している。 このたびの啓示 によって, これまでの教 えが親神の啓示 と認識
される真理の体系 に収赦
されてい く,木のねをもとに一つの木の枝葉 として体系付 け られてい
ヽヽ
くのである。 さらに,だめの教 えが特殊である とは,それが最終かつ究極であるとともに,他
宗教 を含めた教 えの体系 を可能 にすることに基づいている。天理教 と他宗教の啓示の関係は,
前者の最終性,究極性 とともに全体性 を柱 に理解 されている といえる。
加えて,他の教 えが,最後,究極,全体の真理 を含むこの教 えへ と収赦 される過程では,た
とえ同 じ親神 による ものであって も両者の間に質的な差異が認識 されねばならない。他宗教 と
の関連性 に軸足 をおいて 「だめの教 え」 を考察す る場合, この質的な差異の認識は不可欠であ
る。
ヽヽヽヽヽ
この こ とは,おふ で さきで は,「
い ろ7- にある」み ちや 「たい くつ した」み ち に対 す る
「しんぢつの」みち として区別 され,教示 されている。
よろづ よのせかいぢふ うをみハたせバ
みちの しだい もいろ/- にある
1号 45
いま 、てハながい どふちふみちすが ら
よほ どたい くつ したであろをな
1号 5
5
このみちハ どふゆう事 にをもうかな
この さきハみなだん/一
- としんぢつの
この よをさめる しんぢつのみち
みちをふ しゑる事であるか ら
6号 4
8号 1
4
みちとは,い うまで もな く比帳的な意味で,天理教 を 「
お道」 とよぶ ときのみちである。そ
れは,広 く人間の生 き方や価値観 などを意味す る。佐藤浩司が 「
本義 としての道」 として説明
(
3
3)
す る ように,それは 「
内容 によって,真理 をも意味す る」。教祖 を通 じ親神 か ら教 え られ る
「このみち」は, これ までの 「いろいろ」で 「たい くつ」なみ ちの延長ではない。それ は,
「しんぢつのみち」であ り,明 らかな質的断絶 を含んでいる。けれ ども,それまで人間が辿 っ
た道 も 「このたび」の道 もみちとしては同 じである。 これまでのみちが消滅 して しまったので
最後」の一点 によって真実なみ ちへつ なが るよう意義付 け直 される と理解 されな く
はな く,「
てほならないだろう。
もっとも,厳格 な教理敦説か ら少 し視野 を広 げるならば,天理教者の意識の中には,今 まで
見て きたような包括的啓示論ばか りがあったのではない。教祖の教 えは全 てを包含 しなが ら同
時 に他のあらゆる宗教の教 えか ら独立あるいは超越 していると捉 える視点 も存在 して きた。実
際の ところ,信仰者の心情 としては, こちらの方が強いのではないだろうか。 これは,親神 の
教 えは教祖 を通 しての直接啓示 に限定 され,それ自体で完全であるとの感覚である。包括的啓
9
5
天理教の 「
諸宗教の教学」への試み
示論が天理教の啓示 と他宗教の啓示 をいわば垂直方向につなぎ合わせ るのに対 して, これは両
者 を水平方向に相互に独立 させて位置づ ける見方 とも言える。真理の所在 として他宗教 との連
続性 を必ず しも必要 としない立場であ り, これを包括的啓示論 と区別 して,排他的啓示論 とみ
なす ことがで きる。
しか し,キ リス ト教の 「
諸宗教 の神学」ですでに了解 されているの と同 じ意味で,天理教 に
おける議論 において も,他宗教 に対する包括的視点 と排他 的視点の間に本質的な差異 はない。
キリス ト教の例で も指摘 したように,他宗教 の教えを自らの全体啓示 における部分的成就 とみ
なすのは, 自らの究極性,絶対性の主張 を放棄 し,真理へいたる過程の一つ として相対化す る
最後の一点」 とい う概念 を仲介 に して他宗教 の教 え
ことではない。包括的啓示論 の場合 も,「
を教祖の啓示 と関連づ けた時点で,すでに他宗教の教 えには当事者の理解 を離れた意義付 けが
されているか らである。それはあ くまで も,天理教の絶対性 に基づいて構築 される他宗教観 な
のだ。
以上,教祖の特殊媒介性 を第一の根拠 に,教祖 を通 した啓示 と他宗教 との質的断絶 を明 らか
に し,同時 に,同 じ親神 による啓示 として他宗教 との連続性 も指摘 した。我々は,啓示におけ
る天理教 と他宗教 との関係 を 「
質的断絶 を含む連続性」 と捉 えることがで きよう。 また, これ
を天理教の絶対性 を内包する包括主義的啓示論 とみなすの も可能であろう。
2.救済の側面 における天理教 と他宗教 との関係
次 に,啓示 と同様,我々の信仰生活 に欠かせない救済における天理教 と他宗教 との関係 につ
,『稿本天理教教祖伝逸話篇』 を手がか りにする。『逸話篇』 には現実
いて検討 したい。その際
の信仰者 に向け られた教祖の導 きの実例が具体的に記 されてお り,それは救済の実例 に他 なら
ないか らだ。救済の場 に現れる教祖の ことばの中に他宗教 との関係 を教示す るものがあれば,
それは救済に関する他宗教観であるといえる。
まず 「え らい遠廻 わ りをして」 と題 された逸話 (
『
逸話篇』 10) に目を向けてみ よう。文久
3年,夫の伊三郎の嘱息の平癒 を願 って,桝井キクは近隣の詣 り所,願い所のほ とん どを訪れ
たが,なかなか治 らない。隣家の人にすすめ られておぢばへ帰 り,教祖 にお 目通 りして,「
今
日まで,あっちこっち と,詣 り信心 を してお りました」 と申 し上げた。す る と教祖
は,「
あん
ヽヽヽヽヽヽヽ
た,あっちこっちとえらい遠廻
わ
りをしておいでたんやなあ。おか
しいなあ。
ここへお出でた
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
ら,皆んなおいでになるのに」 (
傍点筆者) と仰せ られた とい う話である。
「ここへお出でた ら,皆んなおいでになるのに」 とい う教祖 のことばには,いわば種々の部
分的救済 と,十全の救済 との関係性が含 まれている。それは,他宗教 (
部分的救済) と天理教
(
十全 的救済) との関係 に重 な り合 う。他宗教 においては部分的に成就 されているものが,天
理教では自前で全てそろう,つ まり親神の救済 において全 てが用意 されているといわれるので
ある。
ならば,救済の面では他宗教 との連続性は必要ないのだろうか。 この点 において,教祖 によ
る 「
皆んなおいでになる」 とい うことばの意味 は少 し慎重 に考 えな くてはならない。 この こと
ばに示 される十全性 は,少な くともその表現 においては他宗教の部分救済 を前提 とし,それ ら
を包括する全体的救済 として語 られているo Lか し,包括性 をイメージさせ るこの表現 に して
今 日まで,あ
ち,単独の全体 的救済の可能性 も含 んでいる。 とい うの も,教祖 のことばは,「
っちこっち と,詣 り信心 をしてお りました」 とのキクのことばに呼応 させて,あ くまでキク本
人が理解 しやすい ようになされた表現であるか も知れないか らだ
D
「
皆んなおいでになる」 とは,実体 としての他宗教の救済が,いわばモザイク画の ように統
9
6
天 理 大 学 学 報
合 されていると捉えるべ きなのか。それ とも,全 く別の次元,別の質の救済が用意 されている
と理解すべ きなのか。この点は,上記の話か らだけでは不明瞭であるので,他の例 を再び 『
逸
話篇』に求めてみよう。
0
8) と題 された話がある。それによると,法華 を熱心 に信
「
登 る道は幾筋 も」 (
『
逸話篇』1
仰 していた今川聖次郎 は,教祖の話 を聞 き,長年の胃病のご守護 を頂いた。教祖 は今川 に,
「
あんた,富士山を知っていますか。頂上は一つやけれ ども,登る道は幾筋 もあ りますで。 ど
の道通 って来るの も同 じやで」 と仰 り,次に,
「
あんた方,大阪か ら来なはったか。
」 と,仰せにな り,「
大阪 というところは,火事が よ
くい くところだすなあ。 しか し,何んは火が燃えて来て も,ここまで来て も,ここで止 ま
るということがあ りますで。何んで止 まるか と言 うたら,風が変わ りますのや。風が変わ
るから,火が止 まりますのや。
」 と,御 自分の指で線 を引いて,お話 し下 された
という。
教祖の最初のことばでは,山の 「
頂上」 と 「
登 る道」のたとえが使われている。山口渡は,
この部分 を,どの信仰 をしていて も辿
り着 く頂上 とはこの道であ り,この 「
お道」は究極の教
(
3
4)
えであると諭 された と解釈 している。 しか し,これは,「
頂上」 に予め力点 をおいた読み方で
はなかろうか。原文を注意深 く読むと, もう一つの 「
登 り道」の方に諭 しの力点があるとも解
釈で きる。「
登る道は幾筋 もあ りますで。 どの道通 って来るの も同 じやで」 と,登 り道の多様
性 と相対性の方に教祖のことばの中心があるように読むこともで きるのである。 とすれば,こ
こでは,頂上- と続 く,お道以外の他宗教の多様性,相対性 を教えられていると解釈で きよう。
では,その場合,他宗教 とお道 との関連は何か。「
頂上」 には 「
登 り道」 を説明するための予
備的意味 しかないのだろうか。
風が変
そこで,山口が触れていなかった,数阻のことばの後半 にも注 目しよう。教祖 は,「
わ りますのや。風が変わるか ら,火が止 ま りますのや」 と自分で線を引いて話 したという。こ
こに含 まれる 「
風が変わる」,「
火が止 まる」,「
線 を引かれた」 という三つの要素に,親神の救
済の異質性 (
風が変わる) と実効性 (
火が止 まる),そ して他 との断絶性 (
線 を引 く)を読み
取ることはで きないだろうか。
この解釈が可能ならば,救済面での他宗教 と天理教の関係 について次の二点が指摘できるだ
ろう。 まず,他宗教 による救済は多様で相互 に相対的であること。次に,天理教で もたらされ
る救済は他の部分的救済の単なる集合体ではな く,そこには親神の働 きの質的異質性か らくる
特異な実効性が含 まれてお り,その結果,他宗教 とは絶対的な質的断絶が存在 している, とい
うことである。
同様の視点か ら,「
天が台」 (
『
逸話篇』1
7
0) にある 「
何の社,何の仏 にて も,その名 を唱え,
後 にて天理王命 と唱え」 との教阻のことば も解釈で きる。上田嘉成はこの教祖のことばについ
て 「どんな神 さんや仏 さんの名前 を呼んで も,最後に 「なむ天理王命」 と唱えることによって
(
中略)十全のご守護 を下 さる親の立場であるということを,お教え下 されている」 と述べて
(
35)
いる。つまり,天理王命 と唱えることが,十全の守護を得ることにつながるというのだ。それ
天理王命」 と唱 えるこ
は,表現 を変 えれば,他宗教 だけでは完全 な救済を得 られないか ら,「
と,つ まり教祖 を通 した親神の教えに帰依 し,信 じ,実践することで,完全な救済が得 られる
とい うことになる。「
天理王命の神名 を唱えよ」 とのことばに,親神の救済が他宗教 にはない
特異な実効性を含むことを象徴的に読み取ることがで きるのである。
『
逸話篇』に記 された教阻のことばから,他宗教 との連続性 も含みなが らも質的断絶をとも
9
7
天理教の 「
諸宗教の教学」への試み
なう絶対 的救済観であ る とみなす ことがで きる。 これ を端的 に表現す るのは難 しい。 しか し啓
示 の側面での議論 とあわせ て,他宗教 に対す る天理教の全体 的 自己認識 をまとめれば,それは
「
包括主義的絶対性」
と呼べ るのではないか と思 う。
ヽヽヽヽヽ
おふで さきにおいて,啓示 と救済の相関関係 は,
これ まてにない事 ばか りゆて きか し
しんぢつ よ りのたす けす るそや
8号 3
0
このたびハ どの よな事 もしんぢつ を
ゆ うて きか してたす けいそ ぐで
1
0号
1
5
と,啓示か ら救済へ と直結 していることが示唆 されてい る。教 えを啓 き,それが救済の働 きと
なる とい うのだ。啓示 は 「しんぢつ」 であ り,救済 は 「しんぢつ よ りのたす け」 である と明示
されてい る。
お
わ
り に
キ リス ト教の 「
諸宗教の神学」 の概念枠 を援用 しなが ら,天理教の 「
諸宗教 の教学」 を試み
た。 これは,他宗教 との関係 について天理教者 による主体 的な考察が十分 なされてお らず,そ
の結果天理教独 自の教学 的 「
切 り口」が未発達 な現段階での,最初の小 さな試み に過 ぎない。
今後,議論が深 まれば,排他主義,包括主義,多元主義 とい う概念枠 の限界 もよ り明確 にな り,
それ らを超 えた天理教独 自の立場が さらに具体化 されるであろ う。その ときには上 にまとめた
「
包括主義 的絶対性」 も批判 され,他宗教 との関係 の中での天理教 のあ り方 を示す さらに適切
な表現 も生 まれて こよう。
最後 に,本論文 冒頭 に掲 げた問題 に立 ち返 り,天理教 に とっての宗教 間対話の意義 を若干指
摘 したい。 まず宗教 間対話は互い に理解 し学 びあ うとい う点で,啓示 的側面 にかかわるこ とで
ある。そ こで,他宗教 との啓示的真理の連続性 に着 目す るな らば,我 々にとって他宗教 の教理
を学ぶ ことは,同 じ親神 による教 えと して天理教 の教理 をよ り深 く学ぶ契機 になる。 ただ し,
この学習的意義 は教学の地平 にのみ限定 されることで,啓示の真理その ものの拡大 を意味 しな
い。「
天理教 とキ リス ト教 の対話」 では,両者の神学 (
教学)研 究 の歴 史の違 いが痛感 された
との印象が,天理側参加者か らよ く出 されたo宗教 的対話 において相手か ら学ぶ こととは, ま
さにこの神学 (
数学)的 ことが ら,厳密 には神学 (
教学)研究の上での理論 と方法である と思
う。た とえば, カ トリックにおいて教会 の神学 (
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かな り洗練 された体系 になっている。我 々は, カ トリックの 「
教会 についての教 え」 それ 自体
を取 り入れる必要 はない。 しか し,教会が どの ように研究 されて きたか,説明 されて きたか,
彼 らの神学的な営みか ら学ぶ ことは多い。実際,我 々はその情夫 を深谷忠政 による 『
天理教教
(
3
6)
会学序説』 にはっ きりと見 ることがで きる。
対話 について, よ り実践的で現実的な意義付 け も可能であろ う。 グローバル化が進 む今 日,
宗教的多元性の中で,宗教が世界 の平和 と未来 に関心 を寄せ ることは大切 である し,その よう
な宗教 の一つ として,天理教 を世界 で認識 して もらうことは大変重要である。 これは,天理教
の救済的使命のために も実践 されな くてほな らないだろ う。広 く世界 に対 し扉 を開 き,認知 し
て もらわず して,人々は どうして天理教 の信仰 の門をたた くだろ うか。そ う考 えれば,絶対的
な真理 ・救済の宗教 である との信念 と宗教 間対話 は互いに矛盾するべ きものではない。 む しろ
自己の信仰 の絶対性 と特殊性への洞察が他宗教 との対話 によって徹底 され る とさえ言 われる。
教学的立場か ら発せ られる包括主義的絶対性 の主張 と,実践 的な他宗教 との協調 と対話 とは共
存 しうるのである。
98
天 理 大 学 学 報
注
(1) 天理教 は,1
9
86年.ローマ教皇の呼 びかけで同 じア ッシジで開催 され た 「
世界平和祈 願集
9
91年か らは,その意志 を受け継 いだカ トリック教会の聖エデ ィジオ共
会」 に参加 して以降,1
同体が主催 して毎年開かれる世界規模の 「
世界宗教者平和 の祈 りの集い」 に代表 を送 っている。
ローマ教皇主催の ものでは,1
99
9年 に 「
第 3千年紀 を前 に一諸宗教 間の協力」 にも代表団 を送
9
99年の集会 と,2
002年の集会に参加 した。
った。筆者は,この1
(2) 『
みちの とも』 (
天理教道友社,立教 1
66年 [
2
03] 1月),3
8頁。
(3) その中にあって,山口渡 による 「だめの教 えと諸宗教」 (
F
天研』創刊号,立教 1
5
9年 [
1
9
9
6]
1月,26
-4
4頁)は,天理教の立場か ら天理教 と他の諸宗教 との関係 を正面か ら取 り上げた貴重
な論文である。ただ し,関係資料の紹介 とい う点では参考 にす る面は多いが,残念 なが らそれ
らの資料 を元 に した教学的議論は充分 とはいえない。
(4) 英語では,t
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nsが一般的。
(5) もっとも,本稿が 目指すのは他宗教 に対す る態度 についての規範的主張ではない。む しろ,
その 目的は,諸宗教 と天理教の関係 について どの ような教 えが天理教で説かれてお り,それに
基づいてこれまで どの ような教学的議論が なされて きたのか,また将来的に可能であるのか検
討す ることにある。
,
(6) ラング ドン ・ギルキー,「
多元性 とその神学的意味」 F
キ リス ト教の絶対性 を超 えて-宗教的
99
3年),8
8頁。
多元主義の神学」 (
春秋社 ,1
(7) ラング ドン ・ギルキー,「多元性 とその神学的意味」,85
-88頁。
(8) ジ ョン ・ヒ ック,間瀬啓 充訳 『
神 は多 くの名前 を もつ一新 しい宗 教 的多 元 論』 (
岩波書
9
86年),v
i 頁。
店,1
(9) PaulF.Kni
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,2002)
,p.1.
原文では以下の通 り。W
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(
1
0) ヤ ン ・ヴァン ・ブラフ トは,「
諸宗教の神学の中には三つの傾向がある」 という (
南山宗教文
化研究所編 『
宗教 と文化』 [
人文書院,1
99
4年],43頁)
o ちなみに,ポール ・ニ ッターは,キ リ
ス ト教による諸宗教の神学のアプローチ として (1)r
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充私
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他宗教の)受 け入れ,の 4つのモデル を
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,
提示 している (
20021を参照のこと)。
(
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,1
983)(
小原克博 ,「
現代神学 における宗教的
多元 性- グ ローバ ル化 す る世 俗 化社 会 の行 方」 『
宗 教研 究』3
29 [
2
001
年 9月],2
43頁,注
[5]
)
0
,
,
(
1
2) ジ ョン ・ヒック 『
宗教多元主義一宗教理解のパラダイム変換』,6
5
-71
頁。
(
1
3) 南山宗教文化研究所編 『
宗教 と文化』,43頁。
(
1
4) 『
聖書 新共同訳』 (日本聖書協会 ,1
996年)
0
,
(
1
5) ジ ョン .ヒック F
宗教多元主義一宗教理解のパ ラダイム変換』,6
5
-71頁。
99
天理教 の 「
諸宗教 の教学」へ の試 み
(
1
6) これ は,単 にその態度 の変革の大 きさだけで はな く,諸宗教 を太 陽 を中心 に回 る惑 星 にた と
え, キ リス ト教 も神 を中心 に回 る星 の一つ だ とす る見解 も含 んでい る。 ヒ ックは, これ との対
比 で,キ リス ト教 を絶対視す る立場 を,地球 中心 に宇宙 を想像 した プ トレマ イオス になぞ らえ
,『神 は多 くの名前 を も
神 学 ) と も形容 して い る (
ジ ョン ・ヒ ック
て,「プ トレマ イオ ス的」 (
つ』,11頁)。
(
1
7) 小 原 克博 ,「
現代神学 にお ける宗教 的多元性」,2
3
3頁参照。
,
(
1
8) ジ ョン ・ヒ ソク 『宗教多元 主義- 宗教理解 の パ ラ ダイム変換 』,9
9頁参照。保 呂篤彦 ,「「宗
教 多元主義」 を超 えて新 しい宗教哲学へ」 (
南 山宗教文化研 究所編 『
宗教 と宗教 の (間 )
』(
風媒
社 ,2
0
0年),2
4
6頁。
,
(
1
9) ジ ョン ・ヒ ック 『宗教多元主義へ の道』,訳 者 あ とが き,2
2
8頁。
(
2
0) Chr
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Mar
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ks
,1
990)
,p.
33.
訳出
にあた って は, ク リス トフ ・シュ ヴェーベル ,「
個別性 ・普遍性 ・諸宗教一宗教 の神学 の構 築 を
,
め ざ して」 『キ リス ト教 は他 宗 教 を ど う考 え る か- ポ ス ト多 元 主義 の 宗 教 と神 学』 (
教文
9
9
7
年),6
9頁 を参照 した。
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(
21
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,
'
'p.
33.ク リス トフ ・
シュ ヴェ-ベ ル,「
個別性 ・普遍性 ・諸宗教」,6
9頁。
(
2
2) ラテ ン語 に よる原題お よび本文 の掲載 は以下の通 りcco
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(
2000)
,no
.
1
0,pp.
742
-765.なお,全文の 日本語訳 と詳細 な解説が和 田幹男 に よってな されて
い る。以下のサ イ トを参照 の こと。
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DJESUS.
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。和 田 に よ れ ば,「
本 宣 言 は, ラ テ ン 語 で
Do
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usで始 まるので, これが広 く本宣言 の名称 と して用 い られて」 お り, 日本語で も
「ドミメス ・イユ ズス」 と して知 られてい る。
(
2
3) 上記注参照。
,
(
2
4) ヴ オル フハル ト ・バ ネ ンベ ル ク,「多元 主義 と真 理主張」 『キ リス ト教 は他宗教 を どう考 え る
,1
4
9
頁。
か』
(
25
) 上 田嘉成編著
,『稿本 中山真之亮伝』 (天理教道友社 ,立教 153年
,
[
1
9
9
0]
),35
6
35
7頁。
(
2
6) 天理教教 会本 部編纂 『天理教教典』 (
天理教道友社 ,立教 1
6
3年 [
2
00]),3
3頁。
(
27) この よふ を初 た神 の事 な らば せ かい-れつみ なわが こな り
四 6
2
せ かい ぢ う神 のたあにハみ なわが こ -れつハみ なをや とを もゑ よ
四 7
9
せ かい ぢ うい ちれつ わみ な きよたいや
た にん とゆ うわ さらにないぞや
一三
4
3
と教 え,更 に又 ,
せかい にハ この しんぢつ を しらんか ら み な どこまで もいつ むはか りで
2
5
一四 2
6
この さきハせ かへ ぢううハ どこまで も
一〇
月 日にわにんけんは じめか けたのわ
よふ きゆ さんがみ たいゆへ か ら
よふ きづ くめ にみな してか ゝる
。(
『
天理教教典 』3
4
3
5頁)
,『総説天理教学』 (天理 や ま と文化会議 ,1992年),134-135頁。
,『総説 天理教学』,138頁。
(
3
0) 中島秀夫 ,
『
総説天理教学』,1
3
9頁。
一四
1
0
3
と仰せ られてい る
(
2
8) 中島秀夫
(
2
9) 中島秀夫
(
31) ちなみ に,3号 1
2
3のお歌 につ いて,芹 揮茂 は,「この よふ をは じめ てか らハ」 の部分 を 「こ
の世 を初 (
創) めてか ら (の こ と)は」 と解釈 してい る (
芹淳茂 『
おふで さき通訳』 [
天理教道
1
00
天 理 大 学 学 報
5
3
年
友社,立教 1
(
1
9
9
0
)
]
,1
1
5
頁)
。 この ように名詞化 して解釈する以外 にも,単純 に 「この世
を始めてか らは」 と副詞的に理解することも可能であろう。そ うすれば ト ・
ハ」 とい う文体表
記か らも,「このさきハ」(
4号8
9
)とも 「またさきハ」(
6号㍊)とも統一 されていると理解で
きる。
(
3
2
) 深谷思政,
F
改訂天理教教典講義』 (
天理教道友社,立教1
5
8
年 [
1
9
9
5
]
)
,1
2
0
頁。
(
3
3
) 佐藤浩司,「みち」,
『
みちの とも」 (
天理教道友社,立教 1
6
6
年 [
2
0
0
3
]7月号),5
3
頁。
(
3
4
) 山口渡,「だめの教 えと諸宗教」,
『
天研』創刊号,立教 1
5
9
年 [
1
9
9
6
]1月,3
2
頁。
(
3
5
) 上 田嘉成 ,
『
天理教教典講習録』 (
天理教道友社,昭和6
0年),9
7-9
8
頁。
(
3
6
) 深谷忠政,
『
天理教教会学序説』 (
天理教道友社,立教1
5
8
年 [
1
9
9
5)
]
0