第六章 聖母園 - Akira Togawa

第六章
聖母園
お腹の子が男の子だと知った時、父親は跡取りの出現を大いに喜んだが、母親にとっては秘密と裏切り
の証拠を自らの体内に宿すような気がした。
「名前はもう決まってるんだ」
「急がなくてもいいのよ、生まれるのはまだ先のことだから」
「変える気はないよ、親父と偉大だった祖父の名前から一字づつもらって太一とすることにしたんだ。
北柳太一」
「お爺様ってどんな方だったのかしら」
「物ごころついた頃にはいなかったからな、顔も覚えてないな。元は化学者だったらしいよ、石油の将
来性に眼をつけて事業を興したんだ。それを会社組織にまでしたのが親父というわけで、僕は何もして
ないが祖父と親父の遺産で食ってるというわけさ」
「そんな言い方は止めて」
「じゃあ何と言えばいいんだ、会社だってこの家だってすべて親父が牛耳ってるんだよ、俺なんか操り
人形みたいなものさ、操り人形に子供ができるなんておかしいだろう、操り人形に子供はできないんだ
よ、できちゃいけないんだ」
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「どういうことなの」
夏子の研ぎ澄まされた感覚に康雄の鈍器のような感情が襲いかかって来た。
「太一は北柳家の男の子だっていうことだ、大切ことは北柳家に跡取りができたっていうことさ」
北柳親子連続殺害事件の捜査は難航していた。
警察は会社関係者への聞き取りから、同じ会社の黒川太一を重要参考人として取調べを行ってきたもの
の、一郎邸の謎の訪問者も、相模湖の崖から落下した車の同乗者も未だ分からず、事件の核心を掴めぬ
まま無駄な日にちを過ごしているように見えた。
新たな情報が舞い込んできたのはそんなある日の午後だった。
「警部補、やはり黒川太一は聖母園の世話になっていたようです、北柳一族が出資している児童養護施
設ですよ」
「よし行こうか」
聖母園は湘南海岸といってももう小田原に近い二宮の海岸沿いにあった。東京から二宮までは東海道線
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で75分、小田原まで新幹線で行って、戻ったほうが時間的に早いぐらいの場所だ。
「警視庁捜査第1課の朝霧警部補と新垣刑事といいますが、こちらの責任者の方はおいででしょうか、
お話を伺いたいんですが」
奥の部屋から出て来た人物は、若干片足を引きずるような歩き方だった。
「施設長をしております中里と申します。警視庁の刑事さんが、どういったご用件でしょうか」
「かなり前のことになりますが、こちらの在籍者で黒川太一という名前に御記憶はありますか」
黒川太一という名前を聞いた瞬間、施設長の眼に影が差しかかったようだった。
「立ったままも何ですから、こちらへどうぞ。君、刑事さんにお茶をお出ししてくれないか」
施設長は柔和さを取り戻した顔に媚びるような笑みまでも浮かべながら、二人を別室へ案内した。
「黒川君の何をお知りになりたいんでしょうか」
「ある殺人事件の捜査の過程で、黒川太一氏の名前が上がってきているんですよ、彼について教えてい
ただきたいと思いまして。こちらへ入った経緯とか、こちらを出た後のこととか、こちらにいる際に懇
意にしていた人物とか・・・・」
「分かりました、何分時間が経っていることですから、ファイルを持って来ますので」
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言って、部屋を出て行った。
「殺人事件と聞いても特に驚いた様子でもないようですね」
「北柳一郎が出資しているということだから、いずれ警察の聞き込みがあることぐらい予想していたん
じゃないかな」
「お待たせしました」
中里施設長は1冊のファイルを持って、部屋に戻ってきた。
「黒川太一君でしたね。彼は非常に頭が良くてしかも優しい子でね、年下の子たちに人気がありました、
特に女の子にね。それでご質問はなんでしたっけ?」
「黒川君がこちらに入ることになった経緯は?」
質問されて中里施設長はファイルをひっくり返していたが、
「あれっ、黒川君が来た時の記録が無くなってます」
「記録が無い?
しかし備えておくべきなのでは」
「当時のものは紙ベースで管理されているんですが、入園時の記録が見当たりませんね」
「最初から無かったのか、その後無くなったのか、もしくは誰かが故意に」
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「ファイルは鍵の付いたキャビネットに納められておりますし、鍵は私しか持っていません」
「ということは、施設長以外の人間は誰もファイルに近寄れないということになりますが」
「私は決して・・・・ちょっと待ってください。かなり前のことですが、秘書に鍵を預けたことがあり
ます」
「ほう、その秘書とはどなたですかね」
「それが2カ月ほど前に辞めました」
「それはまた、好都合なことですな。秘書のことは連絡先を教えていただくとして、入園時のことは記
憶にありますか」
「確か、義父と喧嘩して・・・、いやある方からお電話をいただきました、面倒を見てやって欲しいと」
「ほう、どなたからですか?」
「多分、入園時の記録には書いてあったのかもしれませんが。思い出せませんね」
残念そうに言った施設長の言葉をそのまま受け取ることはできなかった。
「思い出してもらわないと困りますが、その前に黒川太一君がここを出て行くことになった経緯は?」
施設長はもう一度ファイルを見なおしてから答えた。
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「亡くなられた北柳一郎さんが、この施設の有力な後援者でもあるんですが、北柳さんが身元引受人と
なって関連会社で働くことになったんです。確か働きながら夜学にも通わせてもらうというようなこと
だったと思います」
朝霧と新垣は顔を見合わせてうなずいた。
「その会社とは、帝都石油販売ですね。でもどうして北柳氏は黒川太一の身元引受人になったんでしょ
うかね。まったく知らない間柄なんでしょう、それとも何かあるのかな?」
朝霧の視線が施設長の胸の内を探り出すように見抜いていた。
「一つ思い出したことがあるんです」
施設長はたまらず眼を反らし、あたかも突然あることを思い出したかのごとく、喋り出した。
「黒川君は後輩の面倒を良く見ていました。それもあってか施設をでてからも2カ月に1度ぐらいはこ
ちらに来てみんなと話していました。そして半年ぐらい前でしたか、同じ北柳一郎氏の身元引受で帝都
石油販売に働き口があるからと昭島百合香という女の子を連れ出して行ったんです」
「昭島百合香さん?お幾つぐらいの方ですかね」
「20歳前の子です。20歳になると施設を出なければならないんで。実は彼女は顔に火傷のあざがあ
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ったものですから、ちゃんとした働き口があるという形で施設を卒業できるというのはラッキーなこと
だったんです」
「昭島さんはどういう経緯でこちらへ?」
「よく覚えています。ある女性が生まれたばかりの女の赤ん坊を持ちこんだんですよ、多分水商売だろ
うと思われます、綺麗な方でしたよ。自分ではとても育てられないからこちらで預かって欲しいと。そ
ういう見ず知らずの方は通常お断りしているんですが、とても見捨てられないような状況で」
「名前は?」
「お聞きしました、昭島さんと名乗られて、その女性が百合香と名付けて欲しいと言っていたものです
から昭島百合香と名付けたんです。もちろん昭島という名前は本名とは思えませんでしたが、仕方が無
い事です」
「黒川君のことで他に何か記憶されていることはありませんか」
「先ほども言いましたが、彼は非常に頭のいい子でリーダーシップもありましたから、子供たちから慕
われていました。だから昭島君の就職口を見つけてくれたことには我々も感謝しているほどで」
「先ほどの、黒川君の入園時に口を添えたという方ですが、北柳一郎氏じゃないんですか」
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「そうだったような気もしますがはっきりしませんね」
「でも他の方だったら引き受けますか」
「確かに、他の方だったらお断りしているかもしれません」
中里氏は渋々ながらも頷かざるを得なかった。
「それはそうと、北柳さんはこちらにはたまに来られてたんですかね」
「滅多に顔は出されませんが、2か月ぐらい前でしたか、何の事前連絡も無しに。お忙しい方ですから、
驚きました」
朝霧警部補は北柳と黒川の関係に何か特別なものがあるのではないかとの感触を持った。
「北柳さんは黒川太一と昭島百合香の身元引受人になったわけですね。他にも誰かの身元引受人になっ
てるんですか」
「いいえ、私の知っている限り黒川君と昭島君の二人だけです」
「では、何故この二人なんでしょうかね」
「それは・・・私共では何とも・・・」
施設長の言葉は明快さを欠いていた。
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「何か知っているんじゃないですか。施設長、これは殺人事件に関する捜査の一環なんですよ。署でじ
っくり話を聞いてもいいし、場合によっては強制捜査することだってできるんですがね。ご存知のこと
を言ってもらった方がいいと思いますが」
施設長の顔色はかわいそうなほど青ざめたものとなっていた。
「しかし、私はよく知らないんです」
「ほう、何をよく知らないんですか。黒川と北柳の関係についてですか、それとも昭島と北柳の関係に
ついてですかね」
ここで朝霧は新垣と目線を交わした。
「施設長、あなたが悩む必要はない、あなた自身が事件に関係したわけでもないでしょう。私は北柳一
郎氏が、この施設にいる少年少女の中から、何故黒川太一と昭島百合香の二人を選んで、身元引受人に
なり、帝都石油販売で働かせることにしたのか、ということをお聞きしているだけですよ。例えば二人
は誰か北柳家の関係者の血縁だとか・・・」
施設長は観念したように喋り出した。
「これは私の個人的な意見ですが、二人は北柳さんもしくは北柳さんの親戚縁者の方と何らかの形で血
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が繋がっているんだと思ってました。実は私にもよく分からないんですが、そのような噂もあったもの
ですから、しかしこのことは決して外部に漏らすなと言われてましたので」
「なるほど。それでどのような形での血の繋がり方なのかな」
「あのう、これも私の勝手な推測にすぎないんですが。黒川君は一郎氏が誰かに産ませた子供ではない
かと、そして昭島君は北柳康雄氏の私生児ではないかと推測しているんです。もちろん相手の女性まで
は分かりませんが」
「もし施設長の言うように、黒川太一が北柳一郎の子供だとして、母親は誰なんだ。そして昭島百合香
は北柳康雄の子供だって。二人とも一郎が後援している施設へ送り込んで育てられたというのか?」
「しかし、どうしてまた引き取ったりしたんですかね」
「そこが謎だな。生みの母親が誰なのかも知っておくべきだろうな。一郎と康雄の相手は誰なんだ」
「まさか、同一人物ってことはないでしょうね」
「一人の女性が父親と息子を相手にそれぞれ子供を作ったということか。事実だとしたら化け物だな。
どんな女か会ってみたいよ」
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朝霧警部補は窓の外を見つめながら、呟いた。
「新垣、面白くなってきたじゃないか」
「確かに、あのクラブのママなんかどうです。施設長も水商売の女性が持ち込んできたって言ってます
し、歳は幾つか分かりませんが、十分に妖艶ですよ。警部補が20年前、30年前、あなたは若すぎた
からできてしまった子供の処置に困ったんじゃないかって言った時の彼女の目付きは確かに何かを感じ
ている目付きでしたね」
「水商売の女なんてやまほどいるだろう、それだけで「ル・ジタン」のママと決めつけるわけにもいく
まい、それよりもう一度本人に当たってみることだな。しかしその前に昭島百合香を調べてくれ、まだ
帝都石油販売で勤めてるのかな」
「当たりです、後にも先にも帝都石油販売には昭島百合香という名前の女性は存在していないようです
し、顔写真にもあたりはなさそうです。つまり黒川太一は昭島百合香を施設から連れ出して、どこか他
へ連れて行ったということのようです」
「何処へ?」
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「いやそれは・・・分かりません」
「何処へいったのか、すぐ調べてくれ。顔写真もあるんだし、いざとなったら黒川を絞りあげてもいい」
「会社の方じゃないとしたら、こういう場合は水商売とか」
「それは十分考えられるな、しかし待てよ、この女の子は顔に火傷の痕が残ってるって言ってたな」
「水商売には向きませんか」
「普通はな」
「もう一つ、黒川の母親が分かりました。既に亡くなっている女性ですが、名前は下園夏子」
「下園?
あの下園と関係があるのか?
じゃあ何で名前が違うんだ」
新垣刑事にとっては楽しい瞬間でもあった。
「それがちょっと込み入ってましてね。下園夏子の旧姓が黒川なんです、元黒川男爵家の出身らしいで
す、その夏子が北柳康雄と婚約中にできた子が太一ということのようです。しかし彼女は康雄とは結婚
せずに後に下園義と結婚、太一は下園家で生まれることになったということです。当然生まれながらに
して父親とはそりが合わなかったのかもしれません、彼が10歳の時に夏子が亡くなると、その後11
歳で太一は家出しています。しかも太一はそれ以来母親の旧姓黒川を名乗っているんです」
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「実の父親は康雄なのか、「聖母園」の中里は太一は一郎の子じゃないかと言ってたが」
「それはこれからのお楽しみです」
「馬鹿野郎、早くやれ。お前の謎解きに付き合っている暇なんかないんだ」
「黒崎洋子さんですね、警視庁捜査第1課の朝霧と新垣です。またお邪魔させて頂きますよ」
二人の刑事はマンションの部屋からのあまりの景色に改めて驚かされた。今朝はカーテンが全開になっ
ていたのだ、部屋一面のガラス窓を通して新宿の高層ビル群が手に取るように見えるのだ。
「どうぞゆっくりなさってください、と言ってもお忙しいんでしょうね、なんならワインでもいかがか
しら」
「いやあ、仕事中なものですから」
「それで、今日はどのようなご用件で?」
「それにしても素晴らしい景色ですな」
朝霧の感覚が何かを捉えようとしていた。
「今日はお仕事なんでしょう」
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「残念ながら、北柳親子殺害事件に絡んで、改めてお話をお伺いしたいと思いましてね」
朝霧は先日の話題はおくびにも出さない。
「どのようなことでしょうか。北柳さんはクラブのお客さんではありましたが、ああいうこともありま
したので」
「私共の観点はあくまで殺人事件の捜査ということで、黒崎さんは北柳康雄さんにお子さんがおられた
ことはご存知ですかね」
「確か、奥様との間には・・・」
朝霧が黒崎洋子の表情の変化を見逃すはずはなかった。
「奥様との間ではなく・・・ご存じではありませんか、認知していなかったんでしょうかね」
「他にお子さんがいるんですね」
「そのようですな。昭島百合香という名前に聞き覚えはありませんか」
「いいえ、聞いたことの無い名前です」
「では「聖母園」という名前の施設はどうですか」
黒崎洋子は黙っていた。下手な嘘はむしろ付きたくなかったのだ。
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「ご存知のようですね」
「北柳さんがそのようなことを仰ってました、北柳家として児童養護施設を支援しているんだとか」
「ほう、それで?」
「別に、それだけです。その時「聖母園」という名前をお聞きしたのだと思います」
「じゃあもちろんそこを訪ねたこともないし、ましてやそこにあなたのお子さんを預けたりしたことな
んかありませんね」
朝霧の口調が急に鋭いものに代わっていた。
「まさか、何を仰るんです。私が・・・私の子供を・・・、馬鹿げたことを、いくら刑事さんだからと
いってもひどすぎます」
黒崎洋子は涙までは見せなかったが、恨みのこもった目付きで朝霧警部補を睨んでいた。
「そうですか。昭島百合香という女の子を「聖母園」に入れる手配をしたのは北柳一郎氏のようです。
そして彼女の身元を引受て施設から出したのも北柳一郎氏なんですよ、しかも施設から出す時には帝都
石油販売に就職させると言って出しているんですが、帝都石油販売にそんな女性はいない。昭島百合香
は何処へ行ってしまったんでしょうかね」
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黒崎洋子は夜の世界では味わったことの無い空気にあえいでいた。
「黒崎さんなら、その辺りの事情をご存知なのではないかと。北柳康雄氏の相手、つまり昭島百合香さ
んの生みの母親が誰なのか?」
黒崎洋子は朝霧の言葉に燻り出されるような感触を味わわされていたが、懸命に耐えていた。
「さあ、そんな。見当もつきませんわ」
「お話いただけないんですか、残念ですね」
「だって知らないものは知らないとしか答えようがありませんもの」
朝霧警部補も作戦変更が必要になってきたようだった。
「先日地検特捜部の人間から呼ばれましてね」
黒崎洋子の恨めし気な目付きが男二人を捉えていた。
「「ル・ジタン」の営業許可の話なんですけどね」
黒崎洋子は観念したのか、
「警部補さんもやはり警察の方だったんですね、取引しようということかしら」
「情報によっては、営業許可の方はなんとかなると思うんですがね」
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「どんな情報ならいいと言うのかしら」
「それをこちらから言うことはできないのぐらいご承知でしょうに」
洋子は落ち着きを取り戻していた。
「一郎さんの片腕に下園義さんという防衛省出身の方がいらっしゃったんです。この下園さんと康雄さ
んの別れた元婚約者夏子さんとおっしゃる女性をひっ付けたんです。その裏にはいろいろ事情があった
ようですが、私もこれ以上の詳しいことはよく分かりません。ただそれから何年か経って下園さんご夫
妻が自動車事故に遭われて、奥さんの夏子さんが亡くなられた時、下園さんはその事故が一郎さんの仕
業ではないかと疑っていた節があり、一郎さんを恨みに思っていたようなんです。だから一郎さんが亡
くなられた時、下園さんの仕業だったのではないかと私は最初思ったんですよ」
「昨日怖い夢を見たんだ。死にそうになっている男が何故殺されなくちゃならないだって僕に向かって
訴えるんだ、他には誰もいないし、多分僕なんだ、僕が男を殺そうとしているんだろう。しかもその殺
人自体僕が小説に書いたことそのものだという気がするんだ、僕の筋書き通りに殺人が行われたという
ことなんだ」
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「自分で作った物語の中に没頭し過ぎてるんだわ、入り込みすぎて現実と妄想の境目が分からなくなっ
てるんじゃないの」
亮二の頭の中が混乱していた。
今こうやって真紀と話していることさえ妄想の世界の出来事のような気がしていた。
「分からない・・・ただ怖いんだよ。今書いていることそのものだし、皆知っている人ばかりなんだ。
夢に出てくるように僕自身が実行するんじゃないかって」
「馬鹿ね、そんなことあるわけないじゃない」
真紀の頭をかすめたものがあったのだ。
「それって、どうやって殺したかまでは分からないんでしょう」
亮二はそれには答えなかった。
真紀が思い出したように、
「知ってる人なのね、誰なの?」
亮二は軽く首を横に振っただけだった。
「誰なの、例え夢の中の話にしてもあなた自身が殺したいと思ってるのは・・・」
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「そんなこと聞いてどうするんだ」
真紀は軽く肩をすぼめただけだった、別に質問にあまり意味は無いというように。
「例えば、僕が誰かを殺したいと思っているとして、もし君がそれを知ったら僕の悩みを解決してくれ
るのかな」
「私でできる事ならいつでも」
「じゃあ・・・いや、止めておこう」
今にも何か重大なことを打ち明けそうだった亮二が、口をつぐんでしまった。
二人で遅い昼食を取ってから、日比谷の方へ向かおうと地下街から地上へ出る階段を上がっていこうと
したときだった、黒地にラメを散りばめたチャイナ風のドレスに身を包んだ美女が階段を下りてきたの
だ。しかも身体の線を余すところなく際立たせるような細身のドレスの両サイドには深い切り込みが入
っている。
亮二はその顔を見た瞬間それが誰か咄嗟に分かった、そして身をかわして階段を下りようかとも考えた、
しかしそれはあまりにも不自然な動きだったろう。
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「あらっ」とその女性は言った。
「ああどうも」
亮二はばつの悪い思いをこらえながら答えた。
「あらっ、浅賀さんですわよね、こんなところでお目にかかるなんて」
亮二は真紀の方を見ないようにしながらも、彼女の視線が気になっていた。
「その後いらっしゃっていただけないのね」
彼女は完全に真紀のことは無視していた。上から階段を下りてきたのだから、二人一緒のところを当然
見ているはずなのだが。
一方、亮二の一挙手一投足に対する真紀の視線は鋭く突きさすように感じられた。
「会社のほう大変でしたわね、会長に続いて常務まで。まさかあの方が・・・でもそういう時にこそ骨
休めのためにいらしていただきたいわ」
甘えるような声が亮二をいらつかせた。
「そのうち黒川と相談して・・・・」
「そうしてくださいね、女の子たちも待ってますのよ」
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そして別れ際に何を意味したのか、真紀のほうへ視線を向けて、
「お似合いのカップルだわね」
と言ってからだめを押すように、
「お待ちしておりますわよ」
と言い置いていった。
亮二の頭の中で言い訳と言い逃れの考えがめまぐるしく駆け回っていた、駆け回ってはいたがこの短い
時間内に残念ながら結論は出なかったようだ。
階段の踊り場まで先に上がって、女と亮二の様子を見ていた真紀の視線をまともに正面から受けないよ
うに、亮二はうつむき加減に階段を小走りに上がっていった。
「前の常務と一緒にいった六本木のクラブのママだよ、1回しか行ったことないのによく覚えてるもん
だな」
笑い飛ばすように努めて明るく振舞ってみた。
「へえ六本木のクラブのママなの、でも1回しか行ったことなくても覚えられてるんだ、たいしたもの
ね」
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「そこは商売柄なんだろうね、やり手らしいから」
「ふ~ん、すごくきれいな人ね、すごく高そうな服着てるし」
「そりゃあ、いわゆる玄人さんだから・・・」
彼女の皮肉っぽい質問にたいしての亮二の答えは、喋れば喋るほど負けが込んでくるような気にさせら
れた。
「なんか嬉しそうだったわ」
真紀の声が冷たく感じられたのは気のせいかもしれない。
「ママと会ってか?別にうれしくなんかないけど、そういう風に見えた?」
「うん、見えた・・・私のこと気にしてたからそうでもないように装ってたのかもしれないけど、実は
結構嬉しいって感じに見えたなあ」
亮二は何と言っていいか分からなかったが、
「でもまあいいわ、私は私だから」
この言葉は亮二には救いの手に聞こえたが。
「そうだよ、君は君だし、彼女は彼女だろう、真紀にクラブのママみたいになって欲しいって言ってる
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わけじゃないし」
「なれって言われたってなれないわよ、あんなすごい服着られないし、私は販売会社の総務ですから」
「もういいだろう、たまたまそういう女性に会ったってだけだから、さあ映画見に行こうよ」
彼が手をひいて、彼女もそれに従ったものの、二人の間にできた溝は完全には埋まっていないようだっ
た。
映画も二人の仲をより親密にすることに役立たなかったが、映画の後二人はいつもと同じように食事を
とった。
お互いになんとかこの気まずい状態を逃れたいという思いは同じだったのだろう、二人で一緒にいれば
そして時間をかければお互いに元に戻れるかもしれないと思っていたのだ。
しかし今日は日が悪かったのか、殊更混み合って、団体客の隣の狭い席しか空いてなかった。
団体の客は若い男女で彼らが大声で喋っていて、二人の会話が聞こえにくいぐらいだった。
それでもアペタイザーからメインへと移る時間帯は無難に過ぎて行った、問題はコーヒーとデザートま
での待ち時間にやってきた。この空いた時間を利用して真紀がトイレへ立ったのだ。
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席に着いたときから気になっていた女の子が若い男女の中にいた、亮二の席から斜め前に見える女の子
がそれで、どことなくナオミに似ているような気がしたのだ。
さすがに真紀が眼の前にいる間は女の子のほうをじろじろ見るわけにもいかず抑えていたのだが、彼女
がトイレに立った隙に気になっていた女の子を見つめてしまった。
人間という動物は文明を手にし、野生を失った時から敵の気配を感ずる能力が著しく衰えたとはいうも
のの、人は他人に見つめられていることを意外にも肌で感じたりするものなのだろう。
おそらくこの若い女の子もそうだったんだろう、亮二の方を見て彼が見つめていることに答えるように
ウインクした、亮二も笑顔で答えた。
「知ってる人?」
真紀の声が亮二の笑顔を一瞬にして凍らせてしまった。
「えっ?」
もう嘘はつけなかった。
「えっ、あの子?
誰かに似てるような気がして・・・」
「まあ素敵な出会いだこと、あなたが見とれてたら、彼女がウインクを返してくれたっていうわけ?」
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彼女の口ぶりは席を立っていくときとはうって変っていた。
「別に見とれてたというわけではないし、ウインクを返したっていうわけでも・・・」
「私見ちゃったのよ、今日はお昼にはクラブのママとの麗しい出逢い、そして夜は若いキュートな女の
子のウィンク、もてもてね」
「別にただ偶然にっていうだけだろう」
もちろん偶然だけでこんなことはそうそう起こらない、亮二にとっては日が悪かったのだ。
「帰りましょう」
「だってこれからデザートも・・・」
「デザートをおいしく食べるような雰囲気じゃないの、それとも一人でデザート食べるの、それならそ
れでもいいわよ」
真紀の目が逆立っていた、研ぎ澄まされた剃刀のように冷たく光っていた。とても言い訳が通じるよう
な状況ではなかった。
いままで騒いでいた隣の若い連中が妙に静かになっていることにこのとき初めて気がついた。
そして若い男女の視線を背中に浴びながら、亮二は真紀に手を引かれるようにレストランを出て行くこ
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とになった。
「はい浅賀です」
「浅賀さん?「ル・ジタン」の黒崎です、先日はかわいいお嬢さんとご一緒のところをお邪魔でなけれ
ばよかったんですけど」
彼女からかかってきた初めての電話だった。
「そんなことは」
「いえ、そんな改まったことじゃあないのよ。でも偶然お会いしたからっていうわけじゃないのだけど、
もしお時間が許すなら今夜あたりお店にいらしていただけないかしらと思ってお電話差し上げたんです、
もしほかにご予定が無ければ是非」
「急にそんなこと言われても・・・」
亮二の頭の片隅を過ったことがあった。
「こんなこと言うと失礼かもしれないけど、これは私からのご招待ですので、気楽にいらしていただい
て思う存分遊んで行って欲しいわ、それにお話したいこともあるし」
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クラブのママの招待だから遊びに来てくれと言っている、何か裏でもあるのかとも思ったが、それ以上
は考えないことにした。
「お返事今すぐいただけなくても構いませんのよ、お忙しいでしょうから」
「なるべく近いうちに伺います」
亮二はそれだけしか言えなかった。
「じゃあいつか来ていただけるものと・・・お会いできるのが楽しみですわ」
電話は切れたが、彼女の誘うような声が耳に残っていた。
階段を下りてくる彼女の身体に纏わりつくような黒いチャイナ風ドレスの両サイドのスリットから剥き
だした太腿の線が亮二の目の前にちらついた、彼女に会ってみたいという気持ちが強く沸き起こってき
たのだ。
「警部補、分かりましたよ」
「何が」
机の上の読み物から眼を上げずに、朝霧は答えた。
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若い咲田刑事は、警部補が自分の得た情報の重要性に気付いてくれることを期待しながら話し始めた。
「昭島百合香の生みの親です、黒崎洋子、あのクラブのママです。産院の確認もとれました、間違いあ
りません」
「そうか」
「「聖母園」の施設長にも確認させました、抵抗はありましたけど。確かに黒崎洋子が、昭島百合香と
名付けてくれと言って女の子を置いて行ったそうです。更に北柳一郎氏がその直前に女の子を受け入れ
るように施設長に電話しているそうです」
「よく掴んできたな」
「はい、ありがとうございます」
「しかしだからと言って、黒崎が犯人だというわけにもいかんしな」
「あの女はいろいろ知ってるくせに隠し事が多すぎますね」
新垣が割り込んできた。
「ママのことになると新垣の出番てわけだな」
「えっ、どうしてですか」
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「お前の顔見てりゃ分かるよ。この間マンションへ行った時も彼女に見とれてたんじゃないか、いい女
には弱いんだから」
「新垣さん、そうなんですか」
「馬鹿、何言ってんだ。咲田、今度言ったら承知しないからな」
「それで昭島百合香は黒崎と康雄の子供なのか、それとも一郎との間の子供なのか」
「そこはまだはっきりしません」
「そこをはっきりさせてくれよ。クラブの古くからの客の中で何か知ってるのがいるんじゃないかな」
「警部補、ちょっと気になることなんですけど」
「新垣、何だ」
「黒川太一の母親は旧姓黒川夏子ですが、父親は一郎か康雄かはっきりしません。昭島百合香の母親が
黒崎洋子だとしてこちらも父親は一郎か康雄か分からない、謎めいてませんか、どういうことなんでし
ょうね。黒川夏子と黒崎洋子の関係も分からないし」
「DNA検査しませんか」
たすがに咲田は若い。
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「近頃はやたらめったらにはできないんだよ」
新垣が先輩風を吹かして、
「何か手立てはあると思いますけど」
「咲田、警部補に迷惑のかからないような方法を考えないと」
「科学捜査部の連中とコンタクトしてみます、いいですね」
「ぐじゃぐじゃ言ってないで何でもいいからとにかくやってみろ、疑問に思ったら何かやってみる、忘
れるな、さあ行った行った」
朝霧は新垣と咲田を追い払うように手を振った。
そして自分は一人でゆっくり考える時間を持ちたかった。
*
*
*
つ
づ
く
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*
*
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