しがだい41_p.19 表紙解説

Study Abroad Report
留学体験記
表紙解説
27年3月卒業
経済学部 平成
き
みず
おく むら 奥村 瑞貴
毛筆画の図画教科書―『毛筆画帖』
(明治26〈1893〉年)
了式( 左 端 )
留 学のタイ語 修
私の人生を変えた場所
明治初期の図画教科書は、鉛筆画による幾何的基本形体
の手本を模写することから始まりました。欧米模倣の鉛筆画
による臨画の手本時代です。明治中期になると、国粋保存の
日本画の復興気運が起こり、毛筆臨画中心の時代になりまし
ボランティア活動と言葉
時間を楽しんで遊ぶことに力を注ぎました。私にとってはこれ
た。毛筆画優位が続きますが、鉛筆画論者と毛筆画論者との
私は2012年9月から2013年8月まで、
タイ王国チェンマイ大
ぐらいしかできることがなかったからです。ボランティアという
激しい論争は、明治30(1897)年代でも続き、明治後期までも
学教育学部に滋賀大学の交換留学プログラムにより留学して
形には程遠い活動ではありましたが、子供たちの日々の成長
いました。チェンマイ県というタイ北部の県で人生初めての一
を留学中ずっと見守り続けました。
残ります。
光風学館編池田真也画『毛筆画帖』巻1∼12は、検定期の
典型的な毛筆画教科書です。第1巻では直線・曲線の運筆か
か き
人暮らしだったこともあり、私の留学は周りの人から助けられ
ら入り、次に簡単な器具と模様に移り、第3巻より花卉に進
ながらスタートしました。生
将来を変えた機会
活や身の周りのことを人に
それから留学の後半期には、卒業論文の研究としてタイの
助けてもらいながら、つたな
環境問題について活動させていただく機会を持ちました。
いタイ語を必死に喋ってい
チェンマイ大学理学部のチームに同行し、カドミウム汚染地
た当時を思い出すと今も支
帯の農業者の経済調査を始めました。かつて日本がイタイイ
えてくれた皆さんに感謝の
タイ病として経験したカドミウム汚染がタイで起きているとい
念を禁じ得ません。
うことを、少しでも日本に発信することができればと論文を書
私の留学中の生活は平日
きました。そしてこの活動が縁となり、大学院に進学すること
授業・休日児童ボランティアと大きく二つに分かれていまし
になりました。それまで大学院という進路を考えたことがな
場所にあり、東海道が通る重要な橋で
た。平日はとてもすぐには覚えられそうにないタイ語の教科
かったため、留学は私の将来を大きく変えた機会だったと今
あったため、江戸幕府も定期的に改修
書を傍らに、毎日言語の勉強に追われ、休日土曜日にはドロッ
は思っています。
タイ人・日本人でのよさこい披露のイベント
み、第9巻で淡墨を用い、第10巻から虫・魚・鳥・獣に進みま
す。臨画を基本として、運筆練習→形状の斎整→用筆の綿密さと形状の斎整、墨染の方法を学ばせました。明治後期の国定制
になっても決着はつかず、図画科での毛筆画と鉛筆画の2種類の国定教科書が発行され、
『尋常小学鉛筆画帖児童用』
と
『尋
常小学毛筆画帖児童用』
として刊行されました。
木全 清博(滋賀大学名誉教授・元教育学部教授)
せ た や ばせ あわ づ
瀬田・矢橋・粟津
瀬田橋は、瀬田の長橋または唐橋と
も呼ばれます。東西交通を結びつける
していました。近江商人・中井源左衛門
し ょ う じ え
家の分家である京都の中井正治右衛
プインセンターという児童ボランティア施設へ子ども達との
門は幕府に三千両を寄付して、文化12
交流に行っていました。
タイでの生活を通じて
年(1815)に一手での架け替えを実現しています。
しかし、瀬田橋を渡る陸上ルートよ
ボランティアは毎週授業で覚えたタイ語を必死に駆使して
タイはとても魅惑的な国です。私はタイ留学中、
日本で味わ
りも、矢橋の湊から石場(大津に近い松本村の渡船場)
まで船に乗った方が1時間ほど
「子供たちと一緒に遊ぶ」
というもので、私自身の言語能力の
えない季節・人との交流・感情を体験することができました。
早く対岸へ着くことができました。
「武士のやばせの舟は早くとも急がばまわれ瀬田の
大きな成長に繋がりました。
タイ語でコミュニケーションをと
雨季の酷暑は部屋
れるようになってからは得意なイラストの描き方を教えるま
に発生する害虫に悩
でになり、言語を習得してこれ程嬉しかったことはありません
まされ、一方で冷た
でした。元々私は子どもが苦手で、
どう接したら良いのかもわ
くて 美 味 し い コ ー
かりませんでした。
しかしそのうち施設の皆から
「絵が描ける
ヒーやかき氷に魅了
お姉ちゃん」
として覚えてもらえるようになり、言葉とイラスト
されていました 。ま
でこんなにも子供と一緒に過ごせる時間が楽しくなるという
た子ども達や友人、
ことに気がつき、
自分の中の気持ちの変化を感じました。
先生など心優しいタ
ボランティア施設
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もん
みなと
と せん ば
いし ば
もののふ
長橋」―リスクが高い近道よりも安全で着実な道を行くべきだ―という歌は、
このこと
にちなんでいます。
「粟津」
とは、瀬田川河口の西側に位置する広域地名です。
ここも東海道の道筋
で、松並木と近くにそびえる膳所城が旅行者の目を楽しませていました。以上の3地
せきしょう
安政3(1856)年
「湖水浦廻り 名所・寺社便覧図蹟」
より
き はん
せいらん
点が近江八景に組み込まれて「瀬田夕照」
「矢橋帰帆」
「粟津晴嵐」になったのです
が、
これらは東海道と関わって発達した橋・湊、そして沿道の風景が名所と見なされ
たものと言えます。
青柳 周一(経済学部附属史料館教授)
タイ語のクラスメンバーとクラトン(灯篭)作り
施設に通う子どもたち
イ人・留学生仲間たちに囲まれて寂しい思いをすることもあり
は親からの虐待や犯罪
ませんでした。寂しさをあまり感じなかった代償に、他のマイ
への関与など複雑な背
ナスの感情をたくさん味わいました。
日本語も日本文化も知っ
景 が あると聞 きました
ているのに、外国というフィールドでは違う言語と文化に翻弄
が、
どんなにあがいても
され「彼らの当たり前のこと」が理解できない苦悩や焦りが一
それは私に解決できるこ
番苦しかったです。海外では「私の当たり前の物・事」が当たり
なお、
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とではありません。私は
前でなくなってしまう。その体験だけでも
「この留学は本当に
ご回答はホームページからお願いします。
た だ 毎 週ともに過ご す
価値のあるものだった」
と私は感じています。
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