I-2 見瀬丸山古墳 奥にある石棺 手前脇にある石棺 -6- *どんな古墳なの? 全長310Mの全国で6番目の規模の前方後円墳なるも6世紀に建造された最大規模 の古墳と云える。従来見瀬丸山古墳と呼ばれていたが見瀬町と五条野町にまたがっている ため五条野丸山古墳と改称されている。 飛鳥地区に存在するこの巨大な前方後円墳は飛鳥時代に活躍した重要人物の墓であろ うことは誰もが想像するが、不思議なことに被葬者は誰であるかが記録に残っていないた めに不明とされ、江戸期には開口されていた横穴式石室の内部状況はよく知られ調査図面 等も刊行されていた。 明治4年の天皇陵指定で天武・持統合葬されたとする大内陵に指定されていたが、造幣 局の技師として招聘された英国人・ウィリアム・ゴーランド氏により古墳調査が実施され たのは当時における外国人の特権だったのでしょうか、前方後円墳であること、18Mの 羨道を有する石室内に二基の石棺が泥水に浸かっていること等を記録にとどめている。 しかし明治13年に京都・高山寺で鎌倉期の古文書「阿不幾乃山陵記」(あふきのさん りょうき)が発見され、ここに野口王墓古墳(現在の天武・持統合葬陵)の盗掘記録が記 載されており、盗掘時の野口王墓の墳丘や前室・墓室の状況が詳細に記録されていた。 そこで宮内庁はこの決定的な事実を無視できず天武・持統陵は野口王墓古墳に指定替え されたが、結果として五条野丸山古墳は格下げされ陵墓参考地となり被葬者不明のまま放 置されてきた。ゴーランド氏が石室の内部調査が出来たのは指定替えされたタイミングを 上手く活用したものと考えられます。 現在周壕と墳丘部は国の史跡に指定され、後円部頂上部が陵墓参考地に指定され宮内庁 管轄下にある。平成3年にこの古墳が世間の注目を浴びることとなったのは現状の石室内 部のカラー写真がTVで放映されたことで、あわてた宮内庁は石室開口部の閉塞工事と併 せて石室内外の測量調査を実施し一部を公表した。<頭記資料はそれに基づく> *だれが被葬者なの? 飛鳥地区での最大規模の前方後円墳の被葬者探しはプロ、アマ含めて考古学者の関心が 集中し、候補としては飛鳥時代の有名人のオンパレードとなっている。 有力候補では欽明天皇が挙げられているが宮内庁による陵墓指定で梅山古墳(I-4 参照)が登録されており、記紀記載の内容による埋葬地名や葺き石の有無等から学会にお いてもほぼ認知されていたが、妃の堅塩媛(きたしひめ)を同一墓室内に追葬した事実を 重要視するなら五条野丸山古墳が候補に挙げられるのは頷ける。 しかしこの説を取れば梅山古墳の被葬者が不明となり、天武・持統陵の野口王墓の轍を 踏むことになり大混乱が生じるが、梅山古墳の発掘調査か、決定的な古文書が発見されな い限り推理の域に留まらざるを得ない。 梅山古墳の墓室内調査を実施すれば全ての謎が一気に解決することになるが、現在の宮 内庁は指定陵墓の墓室内調査を実施することを全く否定しているため本件は謎として継 続されることとなるでしょう。 文字資料が欠乏する我国の古代史において古墳の発掘調査は年代を特定できる貴重な -7- テーマであり、多くの謎解きに貢献してきたが主要な古墳は宮内庁の陵墓指定で抑えられ てきており、学会としても文化庁に解禁願いを要望するも宮内庁は指定陵墓は皇室の墓で あり、その発掘調査は個人の尊厳を損なうことになるとの論理で拒否してきた。 最近陵墓の補修や測量時に学会関係者を参加させることを許可しているが学会の要望 とはかけ離れており謎の核心に触れることは余り期待できないでしょう。 *二つの石棺は竜山石製なの? 丸山古墳に埋葬されている石棺はいずれも刳抜家型で六個の縄掛け突起を有し、石棺編 年では前棺は6世紀後半とされ、奥棺は七世紀前半としていずれもが竜山石製である。 当時ブランドとされていた二上山の白石に代わって兵庫県の竜山石が使用されるよう になってきたが奥棺の方が前棺より製作年代が新しいことが謎を生じさせ、推理を働かせ るネタになっている。 古墳における横穴式石室は追葬が可能な構造となっており、複数の石棺を埋葬している 事例は多く認められているが、この古墳の石棺配置が異常で先に埋葬された石棺を脇に除 けて追葬する石棺を奥に設置している。 本来古墳建設時に埋葬された被葬者が主で、追葬者は従であり先の石棺の手前か並列に 設置されるのが常ではある。 この点を論点に挙げて推理したのが欽明天皇陵説である。 日本書紀の推古20年に推古の生母である堅塩媛を桧隈大陵に改葬するに当たり隣接 した軽の街で一大デモンストレーションの葬送の儀を兄の馬子が演出したとある。 当時は推古の叔父である蘇我馬子の権力の最盛期にあたり、妃でしかなかった堅塩媛を 大后なみに取り扱って追葬したと考え、蘇我家の権力を見せつける為に欽明の石棺を脇に 押しやり堅塩媛の石棺を奥の正面に据えたとする説で、古墳の建造時期や二つの石棺の製 造時期が上手くマッチすることからも飛鳥時代の最大の前方後円墳の被葬者として欽明 がふさわしいとするもので学会でも賛同者が多い。 しかし推古26年の記載に葺き石で桧隈陵を飾り、域外に人工山を作り大柱を立てたと あり、この記事に関してはむしろ梅山古墳の方が該当するとされている。 従ってどの説にも決め手がなく陵墓指定のため考古学者は歯がゆい思いをしている。 ついでながらこの石棺を竜山石で摸刻した作品が兵庫県考古博物館に展示されています ので搬送用の修羅(しゅら))と共にご覧になれます。 *この古墳の調査記録はないの? 飛鳥の下つ道の南端にあたる巨大な前方後円墳は目立った存在で陵墓指定以前には当 然調査されていたはずで、江戸期と明治初期の調査記録が残されている。 当然盗掘されており記録が残されている江戸期には石室は泥水で半没しており充分な 調査は出来なかったと考えられる。 明治初期に調査した英人・ゴーランド氏は帰国後「日本のドルメンとその築造者」等の 論考を出版し出土品も含めて大英博物館に収納されている。 -8- ゴーランド氏は16年間日本に滞在し406基の古墳調査と140基の測量・写真を残 しているのは貴重で特に仁徳陵や見瀬丸山古墳の全景写真等が残されており「日本考古学 の父」と称されている。また見瀬丸山古墳では玄室が後円部中心に至っていないことを測 量で実証している。 この要因は自然石による横穴式石室を巨大な前方後円墳に適用するには使用石が巨大 になり過ぎ構築の限界を示す事例と考えられ、本古墳が飛鳥における最後の前方後円墳と なった。 この事象やこの古墳から殆ど出土品が出ていないことから、古墳として未完成のままと なり後円部のみを活用して円墳としたとする説もあり、丸山古墳の名がこれを実証してい るとしている。 最近大英博物館のゴーランド・コレクションが注目され、明治大学・京都府立大・大手 前大・京都橘大等が共同で2012~2016の間大英博物館の協力を得て、日本古墳時 代研究を継続中である。 <註> ウィリアム・ゴーランド:英人で明治5年大阪造幣所技師として明治新政府に招聘され、 16年間滞在し技術向上に貢献するだけでなく、我国の古墳調査で活躍し全国の横 穴式石室を有する古墳406基を調査・収集し、帰国後技術論文と共に大英博物館 にゴーランドコレクションを寄贈し、現在も日本コーナに順次展示されている。 趣味も広く近代登山を我国初めて六甲山で実演し、日本アルプスの命名者ともな り、レガッタの漕法を指導したと云われている。 阿不幾乃山陵記:1235年の野口古墳の盗掘時、実地検分のため派遣された勅使による 調査記録で、藤原定家の明月記により石室内部の様子が詳細に記されており、続日 本紀の持統天皇の葬送記事と一致していることから宮内庁も無視できなくなり指 定替えをした 石棺編年:土器編年と同様に石棺の製作方法や形状により、その年代を推定できるとした 組立式と刳抜式があり、形状として箱形・長持形・家形・舟形・割竹形等があり、 縄掛け突起の有無等で編年している。 古墳時代のブランド石:大王が権力を誇示するために石棺にブランド石を取り寄せたとさ れ、阿蘇のピンク石・宝殿の竜山石・二上山の白石が有名 修羅:重量物を運搬するためのソリで、古墳時代から近代まで長く活用されていた。 古墳時代のモノとして古市古墳群の三つ塚古墳の周壕から大小の修羅が発掘された -9-
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