閖上ってどんな町?

閖上ってどんな町?
~歴史と文化そして3.11を振り返る~
第6版(2015年6月30日)
はじめに
宮城学院女子大学では、さまざまな
学科の学生たちが、それぞれの学び
を生かして、閖上の歴史や文化につ
いて調べ、その継承を考える『閖上プ
ロジェクト』を行っています。
活動のきっかけ
 宮城県の調査(2014年6月)で
復興の進行状況が低かった
名取市(資料1)
 一方,4年連続住みやすさ
東北No.1都市という高い評価
(資料2)
⇒ これらの事実のギャップに
関心を持ったことが最初の
きっかけ
心理行動科学科の取り組み
約5ヶ月間、名取市と閖上の歴史
や文化について調べ、閖上を知ら
ない人に,閖上のことを伝える資
料の作成を試みました。
宮城学院女子大学 学芸学部 心理行動科学科
[4年] 片倉・後藤 [3年] 蝦名・横山
[2年] 根本・服部・平野・古里・谷津
作成した資料の目次
第1章.閖上の歴史と文化
震災以前の名取・閖上の歴史と文化を知る
⇒文化継承
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
⑫
⑬
⑭
⑮
地域を知る:地理的位置と信仰
歴史を知る:地名の由来と貞山堀
人・ものの流れを知る:橋・船など
歴史を知る:名取市の発展
都市環境を知る:住みよさ
閖上の特徴:地区住民の語りから
名取市の文化を語る閖上
閖上地区の産業の歴史
漁業の町を彩る文化
昭和の想い出:四季の行事
昭和の想い出:お祭りなど
昭和の想い出:子どもの遊び
宮城県の地震・津波災害の歴史
宮城県の地震・津波災害の歴史
津波に対する意識
第2章. 「3.11」を振り返る
震災当日および被災状況について知る
⇒今後の災害対策
①
②
③
④
津波による浸水深
津波到達時刻と被害状況
避難行動と防災無線
閖上住民の避難行動
付録.参加学生たちの感想
① 閖上訪問記(2015.06.04)
② 閖上訪問記(2015.06.04)
壁の展示は資料の一部です。
資料全体をご覧いただくために,
閲覧用冊子を用意いたしました。
どうぞお手にとってご覧ください。
資料1)河北新報ONLINE NEWS(2014.7.16) http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201407/20140716_11022.html
1
資料2)『都市データパック2010,2012,2013,2014』東洋経済新報社
② 歴史を知る:地名の由来と貞山堀
■地名の由来(資料1)
■貞山堀とは(資料2)
年
名称
由来
昔
名取の浦
(特に表記なし)
717年
(養⽼元年)
871年
(貞観13年)
揺上浜
ゆりあげ浜
《概要》
 宮城県の仙台湾沿いにある運河。
 阿武隈川から仙台湾に沿って松島湾を経由
し、東名・北上運河につながり旧北上川ま
で続く⽇本最⻑の内陸⽔路の⼀部。
 南から岩沼市、名取市、仙台市、多賀城市、
七ヶ浜市、塩竃市、東松島市、⽯巻市、の
市町村にまたがる。
橋浦屋茂右衛⾨が海辺にて神体を発⾒。
→神が揺り上げられて来た。
海岸に⼗⼀⾯観⾳像が波にゆり上げられた
のを⾥⼈が発⾒した。
閖上新町裏にある観⾳寺(淘上⼭観⾳寺)は延元3
1339年
(延元3年)
淘上
年(1339)の古碑があり、延元以前の古寺であ
《貞⼭堀が造られた主な⽬的》
 仙台⽶の運搬、年貢輸送、建築物資の運搬
等。新⽥開発のための排⽔路。
 喫⽔の浅い川⽤の船のまま航⾏が可能
⇒スムーズな荷物積替え、円滑な⽔運!
る。その寺字正⾨に「淘上⼭」という扁額が掲げ
られていることから。
???※1
1650年代
1697年
(元禄10年)
淘上浜
閖上浜
閖上浜
⾼舘⼭に鎮座する那智⼭権現が、⼭藤の筏に乗ら
れ名取川を下るうち、この地に淘(よな)いだ※2
ため。
淘上浜でたびたび⽕災が発⽣
《⽔系図について》
※1 番号は造られた順を表す。
※2 (カッコ)内は堀・運河が開削された年代、
●は区間、○は役割を表す。
→⽔⾨明神に救済を求めた。【湊神社】
四代綱村が命名。
(「⾨の内から⽔が⾒えた」ことから)
※1…資料では「往古」とだけ表記されており、年は不明
※2…淘ぐとは「より分けて悪いものを捨てる」という意味
貞⼭堀・北上運河・東名運河の⽔系図
仙台藩祖伊達
政宗公の法号
「貞山公」にちな
んで、明治期に
命名。
木
曳
堀
御
舟
入
堀
(1597〜1601年/慶⻑2〜6年)
●阿武隈川河⼝の新浜地区〜
名取川河⼝の閖上地区
○仙台城下への建築資材運搬・
河川の最終的な排⽔路
(1658〜1673年/万治元年〜寛⽂13年)
●旧北上川河⼝〜阿武隈川河⼝
○仙北地⽅〜仙台城下に年貢⽶、⽊材運搬
新
堀
(1870〜1872年/明治3〜5年)
●七北⽥川河⼝〜名取川河⼝
○海岸沿いの荒地開拓の為の排⽔路・
有料運河→維新後の⼠⺠救済事業のひとつ
北
上
運
河
(1878〜1881年/明治11〜14年)
●⽯巻市北上川の⽯井閘⾨〜
鳴瀬川
○野蒜築港の関連事業⇒
仙台⽅⾯へ向かう交通の動脈
東
名
運
河
(1883〜1884年/明治16〜17年)
●松島湾の東北端鳴瀬町東名浜〜
鳴瀬川河⼝右岸同町野蒜新町
○北上運河と同様
広
瀬
川
資料1)『閖上風土記』(1977年)名取市閖上郷土史研究会・岡崎一郎
資料2)『貞山運河トップ』 http://members2.jcom.home.ne.jp/walklandsendai/teizanunngatop11.html
2
④ 歴史を知る:名取市の発展
■名取市の地区別人口の推移
■名取市の市町村合併
(資料1)
※地図と照らし合わ
せて見て下さい。
増
田
町
増
田
村
明29.6.30 明22.4.1
町制施行
閖
上
町
東
多
賀
村
(資料4・5より作図)
{増田村
田高村
手倉村
上余田村
下余田村}
 名取市全体の人口
 戦後増加し続け、1940年から現在までに3倍近くに!
閖上地区のみ
{閖上浜
小塚原村
牛野村
大曲村
高柳村}
 1940年~1960年までは人口規模が最も大きい地区。
 戦後1947年に急増しており、1955年までは増加傾向。
戦後の増加については、大部分は「閖上」の人口増加であり、
漁業労働者となった復員、帰還者、五十集(いさば)商として定
着した人達による(『閖上風土記』より。)
昭3.4.1 明22.4.1合併
町制施行
下
増
田
村
一部岩沼市へ
名
取
市
昭52.9.1
名
取
市
名
取
町
{下増田村
杉ヶ袋村}
館
昭33.10.1昭30.4.1合併 腰
村
市制施行
明22.4.1合併
和暦
西暦
明22
1889年
明29
1896年
昭3
1928年
昭30
1955年
昭33
1958年
昭52
1977年
 1960年以降、減少傾向にあるものの、一定の人口規模を保持
明22.4.1合併
 2011年9月末時点では前年同期に比べて減少。
東日本大震災の影響と考えられる。
{飯野坂村
植松村
本郷村
堀内村}
 震災後も減少し続けている。
閖上の復興を待たず、他の場所で新生活を始める準備が整っ
た人達の他の場所への流出だろうか?
{吉田村
川上村
熊野村}
高
館
村
明22.4.1合併
愛
島
村
明22.4.1合併
、
閖上町 (資料2・3)
• 5つの行政区画
(閖上・小塚原・
高柳・牛野・大曲
の5つの大字)か
ら成る。
• 閖上以外は,純
関
農村落で,漁業と 食 係
が
は無縁の集落。 料
に密
【丘区】
恵接
• 閖上のみが,人 ま で
れ
家の密集した町 豊 交
流
を構成(全戸数の か が
約80%が集中)。 な あ
町 り
【町区】
{塩手村
笠島村
小豆島村
北目村}
1940年(昭和15年)
1947年(昭和22年)
1950年(昭和25年)
1955年(昭和30年)
1960年(昭和35年)
国 1965年(昭和40年)
勢 1970年(昭和45年)
調 1975年(昭和50年)
査
1980年(昭和55年)
1985年(昭和60年)
1990年(平成2年)
1995年(平成7年)
2000年(平成12年)
2005年(平成17年)
2010年(平成22年)
2009年(平成21年)
住 2010年(平成22年)
民 2011年(平成23年)
登
録 2012年(平成24年)
2013年(平成25年)
2014年(平成26年)
増田
増田西
閖上
杜せきのし
たを含む
0
下増田
館腰
美田園を含む
10,000
20,000
30,000
40,000
愛島
愛の杜・愛
島台を含む
50,000
高舘
名取が丘
ゆりが丘・相互台・那智
が丘・みどり台を含む
60,000
70,000
(人)
80,000
7,152
8,706
9,325
9,486
9,296
9,071
8,660
8,661
8,891
8,683
8,373
8,229
7,860
7,419
6,902
7,187
7,105
3,692
3,110
2,640
2,320
資料1)『角川日本地名大辞典:4.宮城県』(1979年)
資料2)『閖上風土記』(1977年)名取市閖上郷土史研究会・岡崎一郎
資料3)『「閖上」津波に消えた町のむかしの暮らし』(2014年)みやぎ民話の会・早坂泰子,他
資料4)総務省統計局『国勢調査報告』 (平成25年度名取市統計書より)
資料5)住民登録人口・各年9月末データ(名取市ホームページ「統計情報」より)
3
⑨ 漁業の町を彩る文化
■閖上の『女 五十集(おなご いさば)』
(資料1)
五十集
 磯場とも書き、漁場、魚市場、魚商人や水産加工業者の意味で共通して用いた用語。『Wikipedia』
 (東日本で)魚商。また、その商品。『コトバンク』
• 最盛期の魚市場登録人数は300人以上(男性含む)
• 比較的安い保証金を積み,5人組を作り(※1),せりで魚
を買い入れる。
閖上は女性も
力が強かった??
• 漁夫の女房のほとんどが従事。
→ 夫の歩合制(※2)の生活費を補充(※3)。
• 男勝りに女房連がせりを落とす様は,閖上独特。
• 商い:独特の荷籠 を背負って,名取川の堤防
を歩き,落合の渡し(広瀬川と名取川の合流点)を
渡し船で越え,仙台のお得意さんを回った。
※1:その後,組での契約が,個人契約になっ
た。番号札制で,183番まであったという。
(資料2,p.16)
※2:漁夫の歩合制:5分5分(1915年(大正4) の
記録)→4分6分に
※3:当時のお姑さんたちは「空缶勘定はあ
てにせず、お金を貯めろ。それが嫁の
甲斐性だ」と言っていた。
⇒閖上では五十集をする女性が多かった
→ 交通の便が良くなると四角の背負い籠に。
*空缶勘定:臨時収入のようなもの。空の燃料缶に
前払いした燃料代を夏の禁漁期間にもらう
• 商品 (資料2,p.78‐79)
- いい魚:魚市場(とや)で仕入れ。
↑資料1のP.376より
⇒仙台で売る
- 分け魚:漁師の家で食べる分として分けてもらう魚。
イワシ、サバ、アジ、カツオなどの浮き魚。
⇒一部を、近辺(下増田、増田、館腰など)で売る
■閖上を活気づけた『唄』
閖上の焼カレイは名
産品。
仙台市や付近の村里
で有名。
←『伝えたい残したい
なとり100選』より
(資料2・3)
閖上大漁唄い込み節(大漁祝唄)
 大漁の時は、漁師たちが、港口から船の板子を
ドーン、ドーンと鳴らして唄い込んできた。
 伊達政宗公が閖上の浜を散策された際、土地の漁
師達が披露したと言い伝えられるほど歴史がある。
閖上大漁唄込み踊
サアッサ ホラヤン~
おめでとうよ
サアッサ ホラヤン~
今朝でた出船
サアッサ ホラヤン~
・・・(略)
(資料2,p.78‐79)
 (市指定)民俗文化財
無形民俗文化財
 大漁祝唄と大漁節を合
わせ、踊りとして振りを添
えて風流化させたもの
 毎年なとり夏まつりの際
などに披露される
今朝の日和は 空晴れ渡り
チョイ チョイ
波静かえ~
アラ エート ソーラ
またも大漁だえ~
ヨーホレ ヨーホレ
・・・(略)
閖上大漁節
 明治初期に千葉県・銚子港
より伝わり、当地風に変化
させたものといわれる。
資料1)『閖上風土記』(1977年)名取市閖上郷土史研究会・岡崎一郎
資料2)『「閖上」津波に消えたむかしの暮らし』(2014年)早坂泰子・河井隆博・小野和子(編)
資料3)『閖上大漁唄込み踊』 名取市 http://www.city.natori.miyagi.jp/soshiki/kyouiku/bunkasports/node_1784/node_1461/node_1722
(2014年8月15日更新,2015年5月8日閲覧)
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