李光洙のクィア物語 ――近代・植民地・セクシュアリティ―― シンディ

李光洙のクィア物語
――近代・植民地・セクシュアリティ――
シンディ テキスター
ワシントン大学
この発表では、李光洙の『無情』に対していわゆる「クィア・リーディング」を
行いたい。「クィア」とは、一般的に同性愛などマイノリティ化されたセクシュア
リティのことを指すのだが、それ以外のさまざまな領域に対する文化的な規範を攪
乱する存在を示す、さらに幅広い概念として考えてよいだろう。
よく知られている通り、李光洙自身は上のような意味においてクィア的なセクシ
ュアリティを持っていた可能性が高い。1また、日本語のデビュー作である「愛か」
(1909年)をはじめ、クィア的なセクシュアリティに触れる小説を数多く書い
ている。実は、『無情』もその一つである。特に妓生同士の間において、ホモソー
シャルな関係よりもホモセクシュアルな関係、あるいはクィアとも言える関係が明
確に現れる。
ただ、『無情』のクィア性は、それだけに基づいているわけではない。その実験
的な文体も一種のクィア実践として扱えるのではないだろうか。一般のクィア実践
はジェンダー・セクシュアリティのあらゆる規範システム(つまり、規範や価値を
定める力関係のこと)を攪乱することだとすれば、テクストが同様に言語の標準を
揺らがせる限りに、クィア性があると言っても問題ではないだろう。例えば、『無
情』が連載された時期には、植民地化された空間の中で「近代」への変転が行われ、
その脈絡において「近代」と「伝統」の規範システムが衝突し、絡み合う状況にな
っていた。このプロセスによって、セクシュアリティや言語がさまざまな形で縛ら
れてしまうのだが、『無情』に刻まれている言説的なクィア実践はそのような状況
から脱出する媒介となる可能性もある。この発表では、可能性としての「クィア」
性を軸とし、規範システムの問題に対する『無情』の複雑なスタンスを考察したい。
具体的に焦点を当てたいのは、1917年3月8日に、『毎日申報』 に掲載され
た『無情』の第53章である。第52章まで『無情』において前景化されたハング
ルのみの文体、また実際の新聞紙面のうえで、この連載を囲んでいる記事の漢字と
ハングルによる混交文体とも異なる文体が使用されている。第53章のほとんどを
占めているハングルの場合、漢字に変換しうる言葉については丸括弧の中に漢字表
記が並置される。すなわち、漢字が見にくい形であふれ、読者の読解行為の邪魔と
なる。確かに、文学史的な転換点と言ってよい時期に連載された『無情』の文体は
実験的なのだが、それにもかかわらず、なぜそれほど読みにくい文体がこの章だけ
に突出しているのかと問わざるを得ない。
(1)セクシュアリティをめぐる言説的暴力
文体がなぜ唐突に変化したかという問題に答えるためには、第53章が物語の中
でどのような役割を果たしているのかについて注目する必要がある。それを考える
上で、物語において妓生である英采を媒介にセクシュアリティの問題がどのように
扱われているかということが大きな手がかりになる。第53章の直前は、英采がレ
1
金東仁、『春園研究』(三千里、1934年12月〜1935年10月)
イプされてしまったために、平壌で自殺を決意したという手紙を読んだ李亨植が、
英采の自殺を防ごうとし、平壌に向う場面である。物語の展開と共に、英采に対す
る暴力の連鎖が続くのだが、レイプによって、その連鎖は最高潮に達することにな
る。だが、注目すべきは、英采に対する暴力は物語内容のレベルのみならず、物語
言説のレベルでも行われていることである。言い換えれば、英采が位置づけられて
いる空間の中で、相位の異なる家父長制が交錯しており、それぞれの規準を満たす
ことがそもそも不可能な構図になっている。
例えば、『無情』におけるジェンダー規範に従うために、英采にとって最も重要
なのは、「親孝行」や「純潔」(処女であること)など、つまり男性(「父」や
「夫」なるもの)との関係によって意味付けられたものなのである。しかし、この
二つの徳を同時に守ることは英采の場合に不可能である。英采の父親が逮捕された
時、「ものの本によれば、むかし、罪に落ちた両親を身を売って救った娘がいたと
いう。私もそうしてみようかしら」(第15章)2と考え、父親を監獄から出すため
に妓生になる。しかし、父親は「身を汚したのじゃ!」3と英采を叱り、結局それを
理由にして自殺してしまう。英采は父親が教えてくれた「ものの本」をモデルとし
たにもかかわらず、結局その行為を父親に認めてもらえなかったのである。すなわ
ち、物語空間において、英采は「親孝行」のために「純潔」を犠牲にするか、ある
いは逆に「純潔」のために「親孝行」を犠牲にするしかない構造に置かれているこ
とになる。このような規範の二重性こそ、ある種の「暴力」だと言わねばならない。
(2)抵抗としてのクィアな皮肉:英采と月花の異性愛規範的な同性愛
「父」を軸とする「伝統的」な規範システムだけではなく、「近代的」な言説に
よる規範システムもが絡み合うと、英采のセクシュアリティに対するに暴力的なダ
ブルスタンダード(二重規範)がさらに複雑になる。『無情』の語り手は「伝統的」
な価値観に必ずしも否定的であるわけではないが、「近代的」な価値観を肯定的に
捉えているのは確かである。その上、『無情』という言説空間においては「近代的」
な人間になることがセクシュアルな「目覚め」と深く結びついていることを見逃し
てはいけない。
例えば、英采が、彼女自身の姉のような存在である月花と一緒に、歌を歌っている
中学生のグループを見るシーンがある。中学生たちが歌っている、「天下の人が夢
見ているとき/私だけが目覚め」(第32章)4という言葉が含まれている歌は、彼
らを「近代的」な存在として位置づける役割を果たしていると考えられる。興味深
いことに、その「目覚め」はすぐ次のシーンでセクシュアルな文脈で接続されてい
くのである。
浮碧楼の宴会以来、月花がうって変わって悩んでいる様子を見て、英采も月
花に何かが起こったことを察した。英采もいまでは男性を恋しいと思うよう
になっていた。初めて会う男性の前では顔が火照り、夜一人で寝ているとき
2
3
4
“옛날 책을 보면, 혹 어떤 처녀가 제 몸을 팔아서 죄에 빠진 부모를 구원하였다는데, 나도 그렇게나
하였으면……”
日本語訳は、波田野節子訳、大村益夫・布袋敏博編、朝鮮近代文学選集1、『無情』(平凡社、2005)より
“벌써 몸을 더럽혔느냐!”
“천하 사람 꿈꿀 제/나만 일어나”
など誰か抱いてくれる人がいたらいいのにと思うことがあった。あるとき英
采と月花が宴会から遅く帰って一緒の布団で寝ていると、英采が眠ったまま
月花を抱きしめて口づけした。これを見た月花は寂しげに笑った。「ああ、
あんたも目覚めたのね――あんたもこれから悲しんだり苦労したりするんだ
わ」。(第32章)5
要するに、近代的主体として「目覚める」ことはセクシュアル的な主体として「目
覚める」ことに繋がっているのだが、その基準になるのはいつも異性愛の構図、英
采の場合には男性に対する欲望にほかならない。この構図はまた、親孝行と純潔の
逆説的な関係性と同じように、実現不可能な規範になってしまう。なぜかというと、
男性に対する欲望を持っていたとしても、その欲望によって「純潔」を失っても構
わないというわけではないからである。従って、ここでは「妓生」という周辺的に
位置づけられている存在の身体にはさまざまな「不可能性」が刻まれていると考え
るべきだろう。
しかし、注目したいのは、まさに、この「不可能性」からクィア性が浮上してく
るということである。すでに述べたように互いにあいいれないセクシュアリティを
めぐる規範に従うためには、微妙に矛盾しているクィア性を演じるほかはない。特
に皮肉なのは、男性の代わりに月花に欲望を向けることは、異性愛的な規範に反す
る行為ではなく、逆にそれを補強する行為として描かれていることである。それは、
再び英采と月花の間に行われるクィアな経験が描写された直後に、「英采が亨植を
一生の伴侶と決めて七年ものあいだかたく貞節を守ってきたのも、半分は月花の力
だった」(第34章)6という場面へと節合されているところか らも表れている。
このように、同性愛的にセクシュアルな体験を通して「貞節」を守るという皮肉が
異性愛的な規範に潜んでいる矛盾を露呈させているのである。
(3)「被害者」の力とそのクィア性
これを念頭に置いて英采のレイプに戻って考えると、彼女の反応にも同じような
いわばクィア的な抵抗が見られる。まず現実のレベルで血を流している英采の身体
をめぐるグロテスクな描写に注目してみよう。英采は「この血は汚れている。汚れ
た血なのよ!」と、意図的に唇を噛み切り、その血を身体の外に出すという場面で
ある。
英采の身体は寒さで震えるように震えている。英采はまたもや下唇を噛みし
めた。温かな血の滴が、英采の胸のうえに置かれた女の手の甲に落ちる。女
はびっくりして、抱いた英采の顔を見た。英采の唇からは泉のように血が噴
き出している。前歯が血で真っ赤に染まり、歯のあいだから泡のような血が
したたりおちる。乱れた髪が目と頬をおおい、その影のために英采の顔はま
5
6
“그러나 부벽루 연회 이래로 월화의 변하고 괴로워하는 모양을 보매, 어린 영채도 월화에게 무슨
일이 생긴 줄은 짐작하였다. 영채도 이제는 남자가 그리운 생각이 나게 되었다. 못 보던 남자를 대할
때에는 얼굴도 후끈후끈하고, 밤에 혼자 자리에 누워 잘 때에는 품어 줄 누구가 있었으면 하는
생각이 나게 되었다. 한번은 영채와 월화가 연회에서 늦게 돌아와 한자리에서 잘 때에 영채가
자면서 월화를 꼭 껴안으며, 월화의 입을 맞추는 것을 보고 월화는 혼자 웃으며, '아아, 너도
깨었구나― 네 앞에 설움과 고생이 있겠구나.'”
“영채가 형식을 일생의 짝으로 알고 칠 년 동안 굳은 절을 지켜 온 것도 월화의 힘이 반이나 되었다.”
るで死人のようだ。(第42章)7
それから、上記と同じような光景が亨植の想像にまた現れることによって、幻想の
レベルで流された英采の血の恐ろしい力が著しくなる。
亨植の前に善馨と英采がならんで現れる。初めは二人とも雪のように白い衣
装をまとい、片手に花の枝をもち、もう一方の手は亨植の手を取ろうとする
ように亨植の前に差し出している。二人とも微笑みながら、「亨植さん!私
の手を取ってくださいな、ねっ」と、甘えるように首をかるく傾げる。亨植
はこの手を取ろうかあの手を取ろうかと、両手を宙につきだして迷う。まも
なく英采の姿が変貌をはじめる。雪のような白い衣装が消え、血がついて引
き裂かれた名も知らぬ絹地の下衣を着て、破れ目から血のついた脚が見える。
英采の顔には涙が流れ、唇からは血が出ている。英采が手にしていた花の枝
はたちまち消え、手には汚い土くれが握られている。亨植は首をふって目を
開けた。しかし、あいかわらず白雪のような衣装を着て微笑んでいる善馨は、
亨植の前に手を差しのべて、「亨植さん、私の手を取ってくださいな」と、
首を軽く傾げている。恍惚とした亨植が善馨の手を取ろうとしたとき、かた
わらに立っていた英采の顔が恐ろしい鬼神に変わったかと思うと、唇をぎり
ぎりと噛み切って亨植に血を噴きつける。亨植は驚いて身体を震わせた。
(第45章)8
ここで浮き彫りになるのは、英采がレイプの被害者であると同時に、その体験で彼
女の「汚れた血」が武器になるという皮肉である。もちろん、けっして「レイプさ
れてよかった」という意味ではない。ここでの狙いは、レイプのような激しい暴力
にあったとしても、英采がただ「被害者」の位置に留まっているのではなく、かえ
ってレイプを通して暴力の構図の転覆が仕掛けられたという皮肉(あるいはクィア
性と言ってもよいかもしれない)を浮き彫りにするところにある。
(4)『無情』におけるクィア的文体
7
8
“영채의 몸은 추워하는 사람 모양으로 떨린다. 영채는 또 아랫입술을 꼭 물었다. 따끈따끈한
핏방울이 영채의 가슴에 있는 노파의 손등에 떨어진다. 노파는 얼른 영채의 어깨 위로 영채의
얼굴을 보았다. 영채의 입술에서는 샘물 모양으로 피가 솟는다. 앞니빨에 빨갛에 핏물이 들고 이빨
사이로 피거품이 나와서는 뚝뚝뚝 떨어진다. 흐트러진 머리카락이 눈과 뺨을 가리어 그림자에
영채의 얼굴은 마치 죽은 사람과 같다.”
“형식의 앞에는 선형과 영채가 가지런히 떠 나온다. 처음에는 둘이 다 백설 같은 옷을 입고 각각 한
손에 꽃가지를 들고 다른 한 손은 형식의 손을 잡으려는 듯이 손길을 펴서 형식의 앞에 내어밀었다.
그러고 두 처녀는 각각 방글방글 웃으며, '형식 씨! 제 손을 잡아 주셔요, 녜' 하고 아양을 부리는 듯이
고개를 살짝 기울인다. 형식은 이 손을 잡을까 저 손을 잡을까 하여 자기의 두 손을 공중에 내어들고
주저한다. 이윽고 영채의 모양이 변하여지며 그 백설 같은 옷이 스러지고 피 묻고 찢어진, 이름도
모를 비단 치마를 입고, 그 치마 째어진 데로 피 묻은 다리가 보인다. 영채의 얼굴에는 눈물이 흐르고
입술에서는 피가 흐른다. 영채의 손에 들었던 꽃가지는 금시에 간 데가 없고, 손에는 더러운 흙을
쥐었다. 형식은 고개를 흔들고 눈을 떴다. 그러나 여전히 백설같이 차리고 방글방글 웃는 선형은
형식의 앞에서 손을 내어밀고, '형식 씨! 제 손을 잡으세요, 녜' 하고 고개를 잠깐 기울인다. 형식이가
정신이 황홀하여 선형의 손을 잡으려 할 때에 곁에 섰던 영채의 얼굴이 귀신같이 무섭게 변하며
빠드득 하고 입술을 깨물어 형식을 향하고 피를 뿌린다. 형식은 흠칫 놀라 흔들었다.”
最後に、もう一度、第53章に戻りたい。血だらけの生霊と化した英采の出現の
あとに続くこの章は、英采のセクシュアリティと自殺への決意に関して亨植と彼の
友人である申友善の意見を比較する形をとる。簡単にいえば、友善は英采が「純潔」
を失ったのであれば、自殺は正しい選択であるという意見を述べる。それに対し、
亨植は「純潔」を守ること以外の義務もあるがゆえに、英采が生き続けないといけ
ないと話している。三人称の語り手は友善の理念における矛盾や問題を指摘し、亨
植の「生きるべき」だという考え方に傾いている印象を与える。この章は「一人は
英文式であり、一人は漢文式なのだ」9と二人を比べる言葉で終わる。
つまり、二人の意見が対立の関係に設定されているのである。そして「英文式」
と「漢文式」として位置づけられている側面から見ると、ここは個々人ではなく民
族と民族を並べる帝国主義的な設定だとも考えられる。だが、両方とも英采がレイ
プされたことを彼女の失敗とするレイプカルチャーを問題にしないという点におい
ては、共通している。このように重なったり矛盾したりしながら、英采の存在する
空間を束縛するこの二つ(以上)の規範システムこそ、英采が交渉しないわけには
いかない「不可能性」を実現させてしまう。しかし、亨植の側が主張している生き
なければいけないとする価値観は、「死者」になることによってしか持てなかった
武器「血」を英采から奪ってしまうことになる。これらのことを踏まえると、亨植
の言葉の方が一層暴力的であるといわねばなるまい。
こういう暴力的な構造に、第53章の不思議な「翻訳者・媒介者」なる存在が介
入し、そこに隠蔽されているクィア的な曖昧さを武器にしてその語りを裏切ってい
く。どのようにこの裏切りが可能になるのかという問題を考えるために、この章と、
『無情』全体の「文体」を検討する必要がある。先に述べたように、『無情』のほ
とんどはハングルのみで語られているのだが、第53章では急に丸括弧付きの漢字
が増え、それが散文を読む流れを邪魔してしまう。ハングルのみの文体は「近代小
説」の条件とされた「表音的」な文体だとすれば、この章の「表音的」ハングル記
号の間に「表意的」な漢字が数多く挿入された場合、漢字は「伝統的」な文体とし
ての機能を担うことになるだろう。10この「近代」・「伝統」という対立は、章の終
わりに浮かび上がる「英文式」・「漢文式」という対立に相当する。
ところが、この漢字の大部分は日本語を媒介とした、英語をはじめとする欧米言
語の翻訳語であることが、括弧付き漢字の介入により前景化されることに注目すべ
きである。換言してみれば、小説の「身体」としての「文体」の中から、英采の血
と同様に暴力的に外側に出された括弧付き漢字がクィア的な武器となり、「英文式」
と「漢文式」という規範の二項対立的な構造を崩してしまう。しかも、普通のハン
グルのみで書かれた他の章の文体にも、その英文式でありながら漢文式でもある言
葉が潜んでいることも示唆する。このクィア的な視点から見ると、亨植の「英文式」
の理念は、あくまでも「漢文式」の言語でしか表現できないという矛盾を暴力的な
形で露呈させている。あるいはそうではなく、「漢文式」対「英文式」という線引
きがこのハイブリッドなテクストの文脈においてはそもそも意味がないと言った方
が適切かもしれない。
このように、『無情』は逆説や曖昧さを孕んでいるテクストであることが分かる。
そして、このクィア的な様相を媒介に、セクシュアリティと言語、その両方をめぐ
る規範に対して、クィア的な抵抗が作動しているのである。『無情』においては、
9 “하나는 영문식(英文式)이요, 하나는 한문식(漢文式)이로다.”
10 小森陽一、『日本語の近代』(岩波書店、2000)に参考。
帝国主義によって作り出された「近代」・「伝統」などの二項対立が様々なダブル
スタンダードを成立させる。だが、その抑圧的な二項対立に亀裂をいれることを可
能とするのは、そのテクストのクィア性にほかならない。