151 〈書 評〉 有馬敏則著『国際通貨発行特権の史的研究』 中 西 市 郎 (1) 「国際通貨発行特権」(lnternational Se玉gniorage)の問題がわが国で検討され始めたの は,1970年代初頭のことであった。本格的な研究生活に入ってなお日浅い頃にこの問題に 直面されたと思われる著者は,その後,一般の関心が薄れたと見なされるにもかかわら ず,このテーマに即して研究を続け,『国際通貨発行特権と国際通貨制度』 (滋賀大学経 済学部研究叢書,第5号,1979年3月)をはじめ,多くの労作を発表されてきた。したが って,著者は,こと「国際通貨発行特権」に関しては,わが国学界においても屈指の研究 者であるとの定評を得ておられるのである。 その著者が,永年にわたる研究成果を集大成して公刊されたのが本書である。出版事情 の困難な折柄,1983年度交部省科学研究費補助金研究成果刊行費の助成を受けて,日本学 術振興会から出版された本書は,質量ともに本格的な学術研究書の名に恥じない業績であ る,といっても過言ではあるまい。 ところで,1984年2月末に刊行されていらい,本書についてなされた書評ないし紹介は かなりの数にのぼっている。また,分析視角は明確であるとはいえ,その対象は一般に「国 際金融論」と題する書物で取扱かわれるすべての分野に及んでいる。しかも,そのひとつ ひとつの論題について詳しい記述が行なわれ一たとえば,第2部第1章におけるケインズ の主要著作の検討,第2章におけるIMF協定の成立経過,第4部第3章における最適通 貨地域論の紹介とEMSに関する説明など一,それ自体としては多くの示唆に富む内容を 含んではいるものの,それだけに,読者をして横道に踏みこませ,本来の論旨を暫く見失 なわせるおそれがないでもない。さらに趣旨を徹底し」:うと努力されるあまり,記述に若 干の重複が見受けられるように思われるのである。 以上の理由から,ここでは,本書の順序にしたがって内容を紹介することを避け,わた 152 彦根論叢 第230号 くしなりに論点をしぼって本書の特徴を明らかにするとともに,二,三の疑問をつけ加え ることにしたい。 (2) Seigniorageとは歴史的には,専制書主や封建領主が貨幣鋳造権を独占し,鋳造費用よ りも高い手数料を徴収したことを意味し,「君主鋳造特権」あるいは「貨幣鋳造税」と訳 されてきた。このような特権は,市民社会における「鋳潰しの自由」ないし「自由鋳造権 の確立」とともに消滅した。しかしながら,その後,国家が不換紙幣を発行し,これに強 制通用力を付与するようになると,通貨発行額に等しい利益を得ることとなる。それにと もなってSeigniorageの概念も拡張され,「通貨発行特権」として,「通貨発行による利 益一般を総称するようになった」(p.21;以下,本書よりの引用はページ数のみを示すこ ととする)といわれるのである。 「国際通貨発行特権(lnternationa1 Segniorage)とは,このような概念を国際的に適用 したものである。すなわち,基軸通貨ドルとその発行国アメリカの経済的優位性を,アメ リカが基軸通貨発行の権利を独占的に保有してぎた観点から議論するために,新しく創出 されたものである。」(p.3)そして,著者が,「『国際通貨発行特権』を国際通貨制度の分 析の基礎におくのは,国際通貨を発行することによって生ずる利益を.世界各国に公平に 分配するような「対称的国際通貨制度』の構築をはかるためである」(p.4)と述べられ ている。著者の狙いは明確であると云うべきであろう。 さて,世界中央銀行が存在しないばかりでなく,国際通貨に強制通用力を付与する政治 権力も見出すことのできない国際間においては,「信認の強い国際通貨として機能するこ とができる国民通貨を需要せざるをえない。したがって国際通貨発行国は,この自発的な 国際通貨需要の範囲までは国際収支赤字を出し,それを自国通貨で決済することが可能で ある。」(p.40)このように,国際通貨発行国であるために許される国際収縛赤字から得 られる利益を,国際通貨発行特権にもとつく「経常的利益」と呼ぶ。 さらに,著者は,コーエソ(B.」.Cohen)に従って,国際通貨発行特権による「資本的 利益」をあげる。それは, 「対外投資や間接投資に投入される金額が,国際通貨発行国で なかったときより多く投資可能で,その投資から得られる利益を指している。」(p. 42)た だし,ここにいう対外投資は,実物投資ではなく,「実際に基軸通貨ドルを使って投資さ れたものに限定すべきで,他国から借入れた金額も除外しなければならないといえる。ま 〈書評〉有馬敏則著『国際通貨発行特権の史的研究』 153 た,投資収益は厳密な意味での国際通貨発行特権の利益ではなく,国際通貨発行特権を保 有することから間接的に出てきた利益といえるだろう」(p.42)と付記されていることに 注意しておこう。 第4部門1章において「基軸通貨国アメリカの利益」を計測するに当って,「国際通貨 発行特権による経常釣利益」を示すものとしては,一定期間におけるアメリカの「基礎収 麦の赤字」を便宜的に使用されている。また,「資本的利益」については,アメリカの対 外投資残高(計測開始時点以降における対外直接投資残高と対外長期証券投資残高との増 分)に,長短金利の利鞘を乗じたものによって表わされている。けだし,アメリカの貸借 ポジションは「短期借・長期貸し」を続けているからである。このばあい,対外直接投資 利潤率で対外長期投資利潤率を代表させJアメリカ財務省証券の3ヵ月物の年平均利回り によって,対外短期利子率を示しているのである。 かくて, 「国際通貨発行特権による利益」は,上記のような内容を含む「経常的利益」 と「資本的利益」よりなる。しかしながら,著者は,「基軸通貨国の利益」を考えるに当 っては,国際通貨発行特権による利益に加えて,「基軸通貨国の銀行サービスに対する, 外国の需要増加からの,基軸通貨国への純所得増加」=「金融センターからの利益」をあ げ,これらを一括して「直接的利益」とされる。これに見合う「直接的費用」は,「外国 の基軸通貨国への預金・債券等に支払う利子」である。さらに,1971年8月以前のアメリ カは,基軸通貨国として金準備を保有していたところがら,「その管理費用と,金保有量 を他の財や証券に投資したら得られたであろう機会費用」も,直接的費用に含められるの である。 「基軸通貨国の利益と費用1はこれにとどまらない。著者は,「民問経済部門を通じる 間接的利益」として,「基軸通貨国のほかの金融的,商業的サービスに対する外国需要の 増加から生じる,基軸通貨国への純所得増加」をあげる。また,「経済政策を通じる間接 的利益」として,「国際収麦不均衡を生じたときでも自国が基軸通貨を発行するので,外 貨準備に制約されないで弾力的な政策を行なうことができる」効果をあげる反面,その 「間接的費用」として,「基軸通貨を無制限に発行すれば,信認が失なわれることになる ので,完全雇用政策の遂行に対してある程度の制約を受ける」ことをあげられる。さらに は,経済政策を通じる聞接的効果:として.状況いかんによっては「利益」ともなり「費用」 ともなるものとして,「国際的準備供給の,発行国における所得効果」および,「催国の 計算単位通貨であることによる所得効果」が列挙されているのである。(p.59,第2表 154 彦根論叢第230号 基軸通貨国の利益と費用 による) (3) さて,「国際通貨発行特権による利益」を以上のように規定された著者は,各時期の囲 際通貨制度に即して.その所在を追求される.まず,「国際金本位制度(金本位制度)」の もとにおいては,金平価と自由金市場の存在により,金貨の額面とコストとの間に差が生 じないので,国際通貨発行特権による利益は発生しない。 次に,「国際金為替本位制度」においても金請求権に対して!00%金準備を保有してい るばあい,国際通貨発行特権による利益は生じない。ただし,金準備を超過して国際通貨 が発行されるようになると,発行国に利益が生まれる。したがって,第1次大戦前のイギ リスと植民地インドのばあいのように,金為替本位制が採用されていたところでは,国際 通貨発行特権による利益が全くなかったと否定することはできないのである。 「ところで,ブレトンウッズ体制は,金とドルを中心とした国際金為替本位七度であっ た。しかし金の生産量は,急速に拡大する国際流動性の需要量を賄うほどには増大せず, 専らアメリカの国内通貨であるドルの発行により国際流動性が供給されてきた。この金の 節約体制がアメリカに国際通貨発行特権による利益を生じさせる可能性を与えたのであ る。そしてドル債務がアメリカの金準備を超過して流出し始めた1960年から,その可能性 は顕在化したといえるだろう。」(pp.212−2!3) このような観点に立って,1960年以降アメリカが金・ドル交換の停止を行なった197! 年8月までの期間について,「アメリカの基軸通貨発行国としての直接・間接の利益」の 計測を試みられた結果,試論的であるとはいえ,アメリカ“S・472億ドルにのぼる利益を得 たと計算されていることは,興味深い。 さて,1971年8月の金・ドル交換停止以後においても,ドルに代る国際通貨がないため, いわゆる「ドル本位制度」が出現した。「この状態でアメリカは.金交換の義務を免れな がら,なお大幅な国際収麦赤字を出し,匡際通貨発行特権による利益が急増するようにな った。」(p.213) さらに,1973年2月から3月にかけて,主要諸国は変動相場制に移行し,今日にいたっ ている。ところで,自由に変動する為替相場制度のもとでは,為替相場の変動を通じて国 際収支の均衡が達成されるはずである。したがって,公的機関が介入通貨や準備通貨を必 要としない以上,国際通貨発行特権の問題は生じない。しかしながら,著者は,「政府が 〈書評〉有馬敏則著『国際通貨発行特権の史的研究』 155 コ入する現行の『管理されたフロート』の下では,介入通貨は依然として必要であり,国 際通貨発行特権の問題は残されることになる」(p.213)と述べられている。ただし.その 計測は,たえず変化する為替相場の評価いかんでは結果が大きく異るところがら,断念せ ざるを得ないとされているのである。 その他,1960年代から急激にすすんだアメリカ商業銀行の国際化,これに対抗して,ヨ ーロッパを中心とするユーロ銀行の挑戦による国際金融再編成の産物としての,ユーロ・ ダラー市場,1981年12月に設立された「ニューヨークIBF」,さらには,1979年3月13日 から発足した「ヨーロッパ通貨制度(EMS)」について,それぞれに詳細な説明が加え られるとともに,国際通貨発行特権の利益にかかわるか否かを検討されている。 この中,ユーロ・ダラー市場について,次のように述べられていることに注意しておき たい。「ユーロ・ダラー市場への本源的預金がアメリカ国内から調達されたドルで行なわ れる場合,国際通貨発行特権による利益が生ずるけれども,ユーロ・ダラ・一市場に流出し たドルを取り入れて国際金融業務を行ない,利益を上げても,それは国際通貨発行特権に よる利益とはいえない。なぜなら,このばあい,アメリカから国際通貨ドルは発行されて いないからである。」(pp.17ユー172)同様の理由から,ニューヨークIBFについても, 国際通貨発行特権による直接的利益は生じない。けだし,「外一瞬」取引に限定されてい るこの市場を通じて.国内で調達されたドルが海外へ流出することはないからである。 (p. 176) とはいえ,=・一ロ・ダラー市場において,アメリカの銀行は,ドルが国際通貨であると ころがら有利な国際金融業務を行なうことができる。「そのために生じた利益は,国際通 貨発行特権から副次的・派生的に生じたもの」(p.172)であると述べられている。「また, IBFの発展とともに,国際金融市場としてのニューヨークの地位も高まり,直接海外ヘ ドルを貸出す機会が増加するだろう。そのばあい,国際通貨発行特権による利益と,国際 金融市場であることからアメリカの金融機関が直接・間接に得ることができる利益の両方 が増加する可能性は十分あるといえる」(pp.176−177)と付記されていることに注意し ておこう。 (4) 現行の変動相場制下において,「ドルが国際通貨として使われていることは,ドルに全 面的に代替できる通貨がないという消極的な理由からである。しかし消極的理由にして 156 彦根論叢 第230号 も,ドルが国際通貨発行による利益を引き続き享受し,しかも基軸通貨国としての負担 は,変動相場制度によって免れていることは事実である。」(p。285) このような現状をぎびしく批判される著者は,最終章において,「将来のあるべき通貨 制度を,従来あまり試みられなかった『国際通貨発行特権』の観点から考察する」(p. 275) として,ケインズの「超国家銀行案」,「国際清算同盟案」,トリフィソの「世界中央銀行 案」の検討につづいて,それらと対比しながら,「SDR本位制」をとり上げるのである。 ところでSDRそのものは,1970年からの3年間,および1979年から1981年にかけて, 再度にわたって創出され,各国のIMF割当額に比例して配分されてきた。このSDRに ついては,「それ自体には価値がなく,参加国の一般的受領性や受領義務によって支えら れ,これによって価値を与えられている。SDRのばあい,国際通貨発行特権は加盟各国 の合意の下に行使される。しかし現状では発行量も少なく.介入通貨としてドルが用いら れ,ドルの国際通貨発行特権をなくすことはできない」(p,287)と述べられているのであ る。 さて,SDRがIMF割当額に比例して配分されることを非難し.「SDRの創出に伴 う『国際通貨発行特権による利益』の大部分は,世界的立場から開発資金にリンクすべき である」というのは.発展途上諸国に共通する年来の主張であった。それにもかかわら ず.先進諸国の強い反対によって未だに陽の目を見ていないのである。 SDRの配分問題について,著者は発展途上諸国の主張に耳を傾けながらも,積極的に は,「いずれにしても国際的に創出される準備資産は国際的に合意された基準に基づいて 配分されるべきである。それは発展途上繭の自助努力を促し,もって世界経済が拡大再生 産を行なうことができるような,リンクの方法を採用する方向で進められるべきであろ う」(p.315)というにとどまっている。 また,SDRを開発金融とリンクさせることにより,実物資源の移転が富の再分配を促 進するかどうかは,SDRの金利水準によるという。すなわち,「SDRへの支払い金利 が低いほど,発展途上国の国際通貨発行特権からの利益が大きくなるといえるだろう」 (p.3!6)と述べている。このように主張する著者は,SDRに対する金利が,当初は1.5 %であったものが,1974年7暗いらい,次第に引上げられて,1981年5月からは.先進5 力国の短期市場金利の加重平均の100%相当にまで引上げられていることを,看過されて はいないのである。(p.312) 著者がSDR本位制に期待されるものは,準備通貨ドルをSDRによって代替するとと 〈書評〉有馬敏則著『国際通貨発行特権の史的研究』 157 もに,国際通貨を発行することによって生じる利益を,世界各国に公平に分配するような 「対称的国際通貨制度」となることであった。著者によれば,「金は現在,国際的な価値 尺度,最終的な決済手段,安定した価値貯蔵手段機能を果している。SDRがこれらの機 能を果たすためには,金とリンクされ,相互に交換性をもつか,強制通用力を付与するこ とができる超国家的権限をもった世界政府が樹立されるかいずれかの場合であろう。超国 家的権限をもった世界政府成立の可能性は,予見しうる期間内には存在しない。とすれ ば,SDRを国際的に流通させ,信認を失なわせないために,金との交換i生が是非とも必 要である。」(P.316) したがって,著者が理想とするSDR本位制度は,「IMFへの金の集中」をはかり, 「SDRと金との交換性」を保証し,「SDRの発行量は国際的に管理し,国際流動性の 必要量と金集中の度合を勘案して慎重に行なう」ことなどを骨子とするものである。この ような通貨制度の確立が極めて困難で険しい道であることは明らかである。このことを十 分に自覚しながらも,著者は,「安定的な国際通貨制度を構築するためには,粘り強い努 力が今まで以上に必要である」(p.318)と述べて,結語とされているのである。 (5) ぱじめに確認したように,「国際通貨発行特権」の概念は,基軸通貨ドルとその発行国 アメリカの経済的優位性を解明するために創出された概念であった。著者は,本書の全篇 にわたって,この概念を縦横に駆使することによって多くのことを明らかにされたこと は,これまで見たとおりである。ここに本書の最大の特徴と功績があることは云うまでも ない。 このことを十分に評価しながらも,あえて疑問を出すとすれば,こうである。先に引用 したように,著者は,「国際通貨発行特権による利益」を,「基軸通貨国の直接的利益」 の中に含められている。そして,この直接的利益としては,その他に「国際金融センター としての利益」をあげられる。それとは別に,「基軸通貨国の間接的利益」として幾つかの 項目が列挙されていた。問題は,「国際通貨発行特権による利益」とそれ以外の利益との 関係にある。直接的な利益と間接的な利益,そして後者は前者から誘発され,派生された というだけにとどまらず,相互の関連性に立入った分析が示されることを望むのは,無い ものねだりのそしりを免れないだろうか。この点が明確にされるならば,「国際通貨発行 特権」の概念を分析の基礎におく方法論的意義が,よりょく理解されるように思われるの 158 彦根論叢 第230号 である。 次に,著者の目的とされるところは,国際通貨を発行することによって生じる利益を, 世界各国に公平に分配するような「対称的国際通貨制度」を構築することであった。問題 は,いうところの「公平な」分配,ないし「対称性」の意義にある。著者もとりあげられ ているように,この問題をするどく提起しているのは,発展途上諸国による「SDRと開 発金融のリンク」案であった。「国際通貨発行特権による利益」を何よりも重視される著 者に対して,この問題の立入った分析を期待することは,果して酷にすぎるだろうか。 この問題を明らかにしないまま,金との交換性をもつSDR本位制の構築を説くことは 客観的には,アメリカが独占する国際通貨特権を批判し,ついにはその制約から離脱し, 独立しようとして「欧州通貨制度」 (EMS)を発足させた,西ヨーロッパ諸国をはじめ とする先進諸国の立場にとどまることになりはしないだろうか。 以上の2点は,わたくしの勝手な注文であり,それがないからといって,本書の価値が 大きく損なわれるものではない。変動相場制のもとにおいて,アメリカが,巨額にのぼる 経常収支の赤字を計上する一方,財政赤字にもとずく高金利によって外国から資本を誘引 し,ドル高を堅持している現状は,「国際通貨発行特権」に基礎をおく分析の有効性を増 大しこそすれ,減少することはないと思われる。著者の研究がさらに大きく前進すること を期待したい。
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