F-2 寺院は遷都で移転? 寺院は遷都で移転? *遷宮で移転するのは大王 *遷宮で移転するのは大王家の私寺 で移転するのは大王家の私寺なの 家の私寺なの? なの? 藤原遷都までは大王の代替わり毎に歴代遷宮するのが常であり、大王家が仏教を取り込 んだ推古朝以降は遷宮と共に大王家の持仏堂としての私寺を造営したと考えられる。 推古朝では豊浦寺を改修して豊浦宮として即位し、その後小懇田宮に遷宮して蘇我氏の 氏寺・飛鳥寺を準官寺として扱っていた。 舒明朝では我国初めての勅願寺=官寺として百済大寺を創建した。 皇極・斉明朝では川原寺が官寺として扱われ、難波遷都では四天王寺を改修して官寺と された可能性があり、氏寺としては百済寺、阿部寺、堂ケ芝廃寺等が創建された。 天智朝では大津遷都で勅願寺として崇福寺を創建し、穴太廃寺や藤原鎌足の氏寺・山階寺 が山科に造営されたとの伝承が残されている。 -5- 天武朝では飛鳥に戻り勅願寺としての高市大寺は百済大寺を移築改修したとされてお り、持統朝では天武・持統の病気平癒を願っての勅願寺・本薬師寺を完成させ、文武朝で は大官大寺を藤原京に官寺として完成させたとされている。 従って遷宮と共に即位した大王の私寺を勅願寺と呼び、天武朝以降は正式に官寺として 取り扱われるようになったのでしょう。 大王家は古来より神祁祭祁権を保有しているが、仏教伝来で仏教祭祁権を蘇我本宗家が 保有していたが仏教も神祁の範疇との考え方で、乙巳の変で蘇我本宗家を滅亡に追い込み 仏教祭祁権をも大王家に取り戻した。 従って大王家も積極的に官寺を創建することになり、天武朝では僧尼令で仏教の統制を 計り氏寺の建造に制約を加えたと考えられる。 *平城遷都ではどうしたの 平城遷都ではどうしたの? したの? 平城遷都までは官寺も氏寺も飛鳥の地で維持管理されていたが、藤原京から平城京への 遷都にあたり藤原京四大寺の首位は大官大寺で左京に在ったが大安寺と名前を変えて平 城京の同じ左京に移転し、第二位の薬師寺は右京に在ったが平城京でも国家官寺を各々左 京、右京に配した。 第三位の川原寺は飛鳥の地に残されたが、第四位の飛鳥寺は元興寺の寺号で移転され東 張り出し部の外京の地とした。 平城京の基本計画は飛鳥の古道である中ツ道と下ツ道を東西幅とする藤原京を古道に 沿って奈良盆地北部に移動し、下ツ道を基軸に西側へ折り返して平城京主体部の東西幅と した。北端中央部に平城宮を配し東西八坊、南北九条の条坊区画を定め、東辺の一条から 五条に東西三坊の外京を張り出したのが上図平城京である。 この外京の計画経緯については不明であるが、興福寺の外京位置は地盤が強固で高台に 在り、南は三条大路を境に崖となり遠くに大和三山や二上山を、西に京域を見渡せる絶好 の景勝地に位置付けしたのは藤原不比等でしょう。 和銅元年に遷都の詔が発せられ、これに伴い左大臣・石上麻呂、右大臣・藤原不比等の 任官で遷都事業を事実上主導したのは不比等だったと考えられる。 興福寺は「宝字記」によると中臣鎌足が創建したとされる山階寺(やましなでら)が前 身で、その後飛鳥に移転された厩坂寺(うまさかでら)を平城京に移築創建したとされる が実態は不明である。素性の不明瞭な藤原氏の氏寺を平城遷都のどさくさに紛れて京随一 の景勝地に興福寺を登場させたのは当時の第一実力者・不比等で、国家官寺である川原寺 を飛鳥に残し代わる第四の国家官寺として興福寺の建立を画策したのでしょう。 その後聖武天皇による東大寺が外京の東に、称徳天皇による西大寺が平城宮の西に創建 されて法隆寺と併せて南都七大寺と称され、造営にあたっては官営の造寺司を設け維持管 理のため膨大な封戸・荘地が施入された。 *遷都での寺院の伽藍配置は? お寺の配置とは寺院を構成する建物(講堂、金堂、塔、中門、南大門)の並べ方を示す -6- もので伽藍配置(がらんはいち)とよばれ、そのお寺の造営目的を表現するものとされて います。飛鳥期の寺院の伽藍配置は ・ 四天王寺式は南北一直線に南大門-中門-塔-金堂-講堂と配置するもので基本形 ・ 法隆寺式は基本形の変形で塔-金堂を東西に並べかえて他は同じ。 ・ 薬師寺式は塔を二塔にして東西に並べ他は基本形に同じ この三形式が代表的で殆どの寺院はこれで識別されますが飛鳥寺のような特殊(一塔三金 堂)な配置もあります。 大安寺創建時の伽藍配置 大安寺創建時の伽藍配置 興福寺創建時の伽藍配置 元興寺創建時の伽藍配置 東大寺創建時の伽藍配置 -7- 薬師寺創建時の伽藍配置 西大寺創建時の伽藍配置 上図は平城遷都への創建時の伽藍配置を示すもので現存伽藍配置とは異なる。 各寺院共に天災や戦火で焼失しており再建や復興等で伽藍配置は変化しているが、発掘調 査により創建当時の伽藍配置を復元したものである。 従って我国の寺院・伽藍配置は飛鳥期にほぼ出揃った感があり、以後はその方式をモデ ルにし地形に合った配置を選択していると云える。 *大安寺は? 平城京・左京六条に創建された大安寺は国家最高位の寺として飛鳥期とは異なった伽藍 配置で大安寺式と称され以降の勅願寺(東大寺、西大寺等)の基本形となった。 特長は南門と中門の間に広い空地を設け東西に七重塔を配置し、中門―金堂―講堂と南北 直線に並べ回廊で囲っている。大安寺創建を主導したのは大宝遣唐使の留学僧・道慈で、 長安の西明寺をモデルにしたとされている。我国最初の官寺としての百済大寺から文武天 皇による大官大寺までも最高位寺院として建造され続けていた。 しかし聖武天皇による東大寺創建で国家最高位の地位を奪われ、平安遷都後しだいに衰 退し鎌倉期の火災と江戸期の地震で消滅して現状東西塔礎石を残すのみである。 *薬師寺は? 右京六条に創建された薬師寺は藤原京の本薬師寺を残したまま伽藍配置は踏襲してお り、飛鳥期の伽藍配置で薬師寺式と称される回廊内に二塔を有する型式で、創建時の建物 で現存しているのは東塔のみで昭和になり高田好胤氏の努力で創建時の伽藍が再建され つつある。一説には本薬師寺移転説もあったが東塔には解体移築した形跡が見られないこ とから否定されているが、本薬師寺と同種の瓦が出土することから西塔が移転された可能 性は残されている。本尊薬師三尊も移転説と新造説で論争されているが決着していない。 *元興寺は? 飛鳥寺の法号を寺号として外京に創建された法興寺(元興寺)は飛鳥に飛鳥寺を残した まま伽藍配置は南大門―中門―金堂―講堂―鐘堂―食堂を南北一直線に配置し、中門回廊 の外側東西に東塔院、西小塔院を設けている。飛鳥寺は一塔三金堂式と云う特殊な伽藍配 置であるがこれを踏襲していない。 元興寺は平安期に律令体制崩壊と共に衰退し、鎌倉期に東室南階大房(ひがしむろなん かいたいぼう)と呼ばれていた僧坊の一部を極楽堂、禅堂に改造して法灯をともし続けて はいたが、江戸期以降昭和18年まで無住寺となり境内は住宅地化し、現在も「なら町」 に埋没している。 現在は元興寺極楽坊として存続して本堂、禅室、五重小塔が国宝指定を受けているが、 創建時の伽藍を偲ぶには元興寺極楽坊境内、五重塔跡、西小塔院跡が史跡として残されて いるのみで過去の威容を覗うこともできない状況である。 *興福寺は? *興福寺は ? 平城京・外京の一等地に創建された興福寺は本来藤原氏の氏寺であったが実力者・不比 等の活躍で「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ造営は国家の手で進められるように なった。創建時の伽藍配置は南北に南大門―中門―中金堂―講堂が一直線に並び、境内東 側に南から五重塔―東金堂―食堂が、境内西側に南から南円堂―西金堂―北円堂が配置さ -8- れていた。平安期以降律令体制の崩壊で殆どの寺院が衰退していったが興福寺は藤原一族 が一手に権力を掌握していたため、氏寺として隆盛を保ち衰退した寺院を末寺として吸収 して繁栄していった。 鎌倉期以降も武家社会において私兵としての僧兵を組織し、大和国を支配し続け興福寺 の隆盛を維持していた。戦国期に織田信長の軍門に下ったが以降は幕府から大名並みの朱 印を与えられ寺勢を保っていた。 しかし明治の廃仏毀釈の嵐に巻き込まれて、寺領は没収され門主以下僧は還俗させられ 一時は廃寺同然で五重塔も売りに出される状態だったが、明治14年にようやく復興の許 可が下り「古社寺保存法」の保護下で修復・維持していた。現在創建1300年記念行事 として中金堂を再建中で南大門の再建計画もある。 <註> 歴代遷宮:古代の大王は即位する度に宮を遷ることを常としたのは死を穢れとする思想に よるとの説がある 官寺:創建から維持管理費用を全て国が負担すると同時に経営管理・統制も国が行い、目 的は鎮護国家としている 「宝字記」;「興福寺流記」に引用されている史料で藤原氏の氏寺建設が記されている 伽藍配置:F-10 参照 勅願寺:大王・天皇自身が発願して創建された寺院 -9-
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