雪の下の蟹 男たちの円居

雪の下の蟹
男たちの円居
古井由吉
講談社オンデマンドブックス
雪の下の蟹
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子供たちの道
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男たちの円居
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雪の下の蟹・男たちの円居
雪の下の蟹
正月を東京で過して、一月もなかばに金沢にもどって来ると、もう雪の世界だった。駅を出る
と
とちょうど雪が降りやんだところで、空は灰色に静まり、家々の屋根の柔らかな白が、夕暮れの
中に融けこもうとしていた。道路では何台ものバスが、砕氷のように崩れても融けようとしない
はんこ や
雪にタイヤを取られて、右へ左へゆらりゆらりと傾きながら往きかっている。途中、重い荷物に
苦しんでようやく下宿の印屋の店先にたどり着くと、主人が印を彫る手を止めて、
「いや、ひどい
く
ど
降りでしたよ、先生」と言って私を迎えた。もう大雪もおしまいになったような口ぶりだった。
掘炬燵のある居間で鳩が一羽歩きまわっていた。正月中に、中学生の長男が父親を口説き落と
して買ってもらったらしい。父親は部屋の中を歩きまわる鳩を見るとさすがに不機嫌らしく、し
きりに小言をいっていた。男の子は二人の妹とちらりちらりと目配せを交わして、父親の小言を
聞き流していた。私は鳩の動きを目で追った。鳩は何やら不思議そうな顔で畳の上をあちこち歩
きまわっていたが、いきなり部屋中の空気をわさわさと揺って天井に舞い上がり、吊り棚の上に
ゆ
げ
とまってまた不思議そうに部屋を見おろした。火鉢の練炭が蒼い炎を立てて、忍びこむ湿気とた
たかっている。そのにおいと、人の息の暖さと、土間から流れてくる炊事の湯気が、戸外を一面
ふる
におおう湿気から、箱船のような居心地良さをつくっていた。それから、鳩はまた翼を大きく広
げて畳の上にストンと舞い降り、まんまるな目をひらき、ふくよかな喉を顫わせて、こちらにむ
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雪の下の蟹
かって首をかしげた。気がついて見ると、印屋の主人も私と同じに鳩の動きを目で追っていた。
彼と私はしばらく黙って鳩を見つめていた。それから彼は苦々しげにつぶやいた。
「白山の鳥が、今年は樹の高いところに巣をつくっているそうです。人間さまは巣を動かすわけ
にいかんから、どうにもならん」
顔色が良くなかった。大雪のためにだいぶ疲れている様子だった。
夕飯の後、私はいつものように二階の部屋にこもって、炬燵でぼんやりと本を読みはじめた。
すると窓の下から、
「いいゾォ」と澄んだ女の子の声が空に昇り、しばらく路上がざわついていた
かと思うと、いきなり「ストップ、ストップやぞ」といら立たしげな声がまた空にあがった。同
じ叫び声が際限もなくくりかえされた。声は一心で、しかもひどく無力な感じだった。店の軽三
輪を狭い車庫の中に入れるのを手伝っているようにも聞えたが、それにしてはいつまでも止まな
いのが変である。それに、大人の仕事を手伝う子供のはしゃいだ調子がすこしもない。むしろ雪
の中に立たされて、もう叫び疲れた子が、それでも精一杯に叫びつづけているという風だった。
何だろう、と私は考えた。しかしすぐに興味を失った。
あの頃、学生という身分をようやく切り上げたばかりの私は、なにも世の中をすねていたわけ
ではなかったが、何事にも興味がいだけなかった。そのかわりに、私はひどい不眠症になやまさ
れていた。ことによると、あの頃の私にとっては、目覚めと眠りのことが、唯ひとつの関心事だ
ったかもしれない。人の一日は目覚めと眠りの微妙な満ち干から成っていることを、私は知った。
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私にとって昼間の仕事は、どんなに神経を張りつめていても、しばしば眠りに似ていた。それに
ひきかえ、夜の眠りはこわばった目覚めに似ていた。何時間もぐっすりと眠りとおした後でも、
まるで眠りの中でひどい緊張をくぐりぬけて来たように、精根つきはてて朝の光の中に浮びあが
ることもある。目覚めと眠りの満ち干を単純で自然な曲線にすることが、私の日夜の苦心だった。
そのためには、昼間の仕事を畑仕事のように淡々とやり、そして夕暮れから夜更けにむかって、
心の内の興奮をすこしずつ抑えながら高めていかなくてはならない。床に就く時に心がどんなに
高ぶっていても、それは構わないのだ。ただ、興奮はゆるやかな上昇線を描いて高まって、就寝
前にとにかく頂点をまわっていなくてはならない。そうすると興奮はいつのまにかそのまま眠り
の様相を帯びはじめ、後は実際に寝つかれなくても、目覚めと眠りの境目は心地良くも不確かに
なっていく。もっとも計算がはずれると、頑固な不眠と明け方まで添寝となることもしばしばだ
った。
「いいゾォ」と空にむかって一心に叫ぶ女の子の声は、いかにも可憐だった。その声は窓の下の
こだま
細長い静けさにそって哀しげに鳴り響き、耳を澄ますと、はるか遠くでもう一度、いよいよ哀し
げに谺しているような気がした。私の下宿している《印房》は、長い長い小路に面している。小
路はこの街の東側を流れる浅野川の、その大橋も間近に見えるあたりから、町家のひしめきあう
真只中へ、川の流れとほぼ並行して切れこんでいく。幅二間たらずの路の両側には、おもに商店
から成る家々が壁と壁をぴったり寄せあい、重い艶やかな瓦屋根をのせて、どこまでも続いてい
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雪の下の蟹
つけ もの だる
る。どの家も間口の割には奥行きが深く、店のわきの格子戸から土間がまっすぐ奥へ伸び、細長
い薄暗がりの中にかまどがあり、流しとガス台があり、漬物樽や石油缶や自転車が並び、雨の日
には壁に立てかけられた傘や、てらてらと光るゴムびきのマントが水を滴らせている。そしてそ
れらすべてを、高い煤けた天窓からしみ出てくる白っぽい光が、暗がりからぼうっと浮きあがら
せている。表から見ると、店はことさらに客を招き寄せようとする表情もなく、鈍い光の中に品
かえ
物を並べて静かだった。店先に立って奥へ何度も声をかけさせられることもすくなくない。夜も
八時をまわると、大抵の店は表をとざして灯を消し、街はひとすじの静かな小路に還って、通る
人の足音や軒の下の立話しの声をよく響かせる。そんな時、遠ざかっていく足音を追って耳を澄
ましていると、ふと自分の意識の影のようなものが、細長い静けさにそってはるばると広がって
ゆき、そのまま細長く横たわるような気がする。そして軒から軒へ下駄の音が、ふくみ笑いが、
ときおり「死にとおなる……」と溜息まじりの声が、私の意識の影のひろがりを横切っていく。
ねむ け
女の子の叫び声はいつまでもくりかえされた。しかしそれがいったい何なのか、私はたずねよ
うともしなかった。私は寝床に入って、睡気が静かに寄せて来るのを感じながら、二ヵ月ほど前
の海辺の光景を思い浮べはじめた。
ゆり かご
海は暗い揺籃のように、水平線に立つ鉛色の雲の重みと、砂丘の灰色のうねりを、ゆったりと
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