CASABELLA JAPAN レクチャー

C A S A B E L L A J A P A N レ ク チ ャー
である─言うなれば、住まうための人工的補完物であ
いかに建築空間は思考されるか 岡田哲史
り、数多くのアメリカ史の背景として幾度も使われたのも
(Villa Winternitz, Praha-Smichov, 1931-32)
に関与した人物
であったという点にあります[注1]。同じ右腕でも、
ネウマン
偶然ではない。
第 9回 ─アドルフ・ロース試論[4]
とクルカは師弟の間柄でロースを支えていましたが、
ウホ
リチャード・ギアもジュリア・ロバーツ演じる「プリティウー
聞き手=小巻哲
タはそうではなかった。実に興味深いことですが、そのち
マン」のもとへ行くのに非常階段をよじ登った。年若きスタ
がいがやがてヴィンターニッツ邸の空間デザインで露呈
ンリー・キューブリックが撮影した忘れ難い写真では、
とあ
─「アドルフ・ロース試論」の 4 回目です。前回は 1920
します。その詳細は後述に委ねるとして、
まずはウホタの
る非常階段の踊り場で「Love in New York」が交わさ
年代におけるロースの動向と彼の活動を支えていた右
[Figs.1-2]
略歴を紹介しておきましょう。
れた。多くのアメリカ的ハッピーエンディングのよく似た平
腕について詳しく聞かせていただきました。公私にわたり
プラハ出身のウホタは、プルゼニの高等学校を卒業
凡な背景によって、今日ホイットニー・アメリカンアート美術
ロースの身辺でどんなことが起こっていたか、彼はなぜ
後、1912 年に名門プラハ建築土木大学に進学します
館の来館者も、
これまで見てきたようにかなり紆余曲折を
1924 年にウィーンからパリへと活動拠点を変えたか、そ
が、在学中に第一次世界大戦が始まったため、兵役によ
経た物語の、
「ハッピーエンド」
を表す建築作品を背にで
してその 4 年後の 1928 年にまたしてもウィーンに戻って
る空白期間を経て 1923 年に卒業します。大学では建築
きるようになった。彼らはマーク・ロスコの『 Four Darks in
活動を続けるわけですが、そのきっかけは何だったかな
設計のみならず構造設計や積算まで包括的に学んでい
Red 』を堪能した後、非常階段を下りながら、テラスに面
ど、
ロースの足取りをたどりながら従来の歴史書では語
たようで、在学中からコシツェの州当局に雇用され州立
したギャラリーに最後の一瞥を投げる。そして、高架線の
られてこなかった暗闇の部分にまで光を投じる試みでも
病院の設計に携わり、卒業後は民間のゼネコンやプラハ
レールの間を確かな足取りで歩きながら家路につくのだ。
あったように思います。今回は 1928 年以降の、つまりは
市の地方事務所建設局で建設プロジェクトをいくつも担
最晩年のロースをめぐって語っていただきたいと考えて
当し実務経験を積んでいました。その一方で教育にも強
作品:ホイットニー・アメリカンアート美術館
いますが、やはり同年にミュラー氏と設計契約を取り交わ
い関心を示していたようで、1923 年からブルノの工業大
設計:レンゾ・ピアノ/レンゾ・ピアノ・ビルディング・ワークショップ
したことがロースに大きな転機を与えていたのではなか
学建築工学科で非常勤講師として構造学を教え始め、
協働者:Cooper, Robertson & Partners (New York)
ろうかということでした。ロースはミュラー邸を自分が携
1925 年にはプルゼニのチェコ国立産業学校の教授職
設計チーム:M. Carroll e E. Trezzani (partner-in-charge);
わった数ある作品のなかでも最高傑作と位置づけていま
に就きます。そしてその翌年、教育省の奨学金を手にし
K. Schorn, T. Stewart, S. Ishida (partners), A. Garritano,
したから、
ミュラー邸には彼の建築に関する理念が結晶
た彼はフランス、ベルギー、オランダをめぐり近代建築の
F. Giacobello, I. Guzman, G. Melinotov, L. Priano,
しているでしょうし……。
視察旅行をしていました(実はウホタの父親ヨゼプも建築家で
したが、プルゼニの高等工業学校長に任命されたあと、1918 年の
L. Stuart; C. Chabaud, J. Jones, G. Fanara, M. Fleming,
D. Piano, J. Pejkovic; M. Ottonello (CAD); F. Cappellini,
岡田 ─今回はいよいよミュラー邸について詳しく見て
チェコスロヴァキア建国時には教育省の大臣に就任していましたか
F. Terranova, I. Corsaro)
いきます。しかしその前に少しだけ建築家カレル・ウホタ
ら、
カレルはその恩恵にあずかっていたのでしょう……)。いずれ
(Karel Lhota, 1894 -1947)
について説明を挟んでおきたい
にしてもウホタは、
ミュラー邸の仕事を始めた当時すでに
Arup; Heintges & Associates; Phillip Habib & Associates ;
と思うのです。前回は、
ロースがミュラー邸の設計を始め
設計実務からは少し距離を置き、大学の先生をしていま
Theatre Projects; Cerami & Associates; Piet Oudolf;
るにあたりチェコスロヴァキア国内に協力者を探していた
したから、
ロースは彼のことを「プロフェッサー・ウホタ」
と
Viridian Energy Environmental)
ところ、知人のボウミル・マルカロウスからウホタを紹介し
[Fig.3]
呼んでいたのです[注 2]。
施工:Turner Construction
てもらったという話で結びとしました。今回はその続きにな
ところで、
ロースがミュラー邸の一件でウホタを紹介さ
建築主:The Whitney Museum of American Art
りますが、
ウホタについて述べておくことの意義は、彼が
れていたことにちがいはないのですが、実はそれ以前に
ローカル・アーキテクト:Cooper Robertson team: Scott Newman,
ロースの最後の右腕としてミュラー邸とヴィンターニッツ邸
も一度ウホタと面会していました。それは 1923 年のこと、
コンサルタント:Robert Silman Associates; Jaros, Baum & Bolles;
Thomas Wittrock, AIA, LEED AP, Thomas Holzmann,
Greg Weithman; Kieran Trihey, LEED AP; Weifang Lin,
LEED AP; Erin Flynn, RA, LEED AP; Christopher Payne,
LEED AP; Annalisa Guzzini; Eric Ball. Atara Margolies,
LEED AP; German Carmona; Jenelle Kelpe; Marlena Lacher;
Eric Boorstyn; Jeremy Boon-Bordenave; Lori Weatherly,
Lauren Weisbrod
規模:延床面積 20,500m2 |スケジュール:2007-15 年
所在地:99 Gansevoort Street, New York, U.S.A.
Fig.1:ロース|ミュラー邸の東側
Fig.2:ミュラー邸の屋上で撮影された記念写真( 1930 )|
外観、
プラハ、1928 -29
左からミュラー氏、
ウホタ、
ロース、
クルカ
Fig.3:カレル・ウホタ
20
ウホタがまだブルノの工業大学で非常勤教員をしていた
務に携わっていましたから、
ロースはやはりクルカでなけ
頃の話ですから、
ロースにとって彼は脳裏に刻みこんで
れば埒が明かないと考えていたのでしょう。いずれにし
おくほどの存在ではなかったのかもしれません。その一
てもウホタはロースのデザインを心底理解していたとは思
方で、
ウホタはその当時のことを回想し、
ミュラー邸完成
えないのです。その証拠を、私たちはミュラー邸の直後に
後に次のように語っていました。
実現を見たヴィンターニッツ邸で目撃することになります。
従来のロース研究では、
ウホタはミュラー邸もヴィンター
初めてロースと面会したとき、
とても好きにはなれない
ニッツ邸もロースの右腕として活躍したことになってい
(中略)
マルカロウス教授はそれを
人物だと感じました。
ます。ヴィンターニッツ邸の外観は、なるほど一見すれば
知っていてわざと引き合わせていたのです……。ロー
ロース風です。しかし内部空間はお世辞にも「アドルフ・
スは会うなり、いきなり建築家のことを侮辱しはじめまし
ロース」のそれとは言い難く、
まるでとるに足らない、似て
た。それで内心、
この人とは合わないと思ったのです。
非なるものに終始しています。それはいったい何を意味し
でも、そんな人の言うことでも一理あると気づかされて
ているのでしょうか……? 弁護士として財をなしていた
[注 3]
からは、
人って変われるものですね。
ヴィンターニッツ氏がロース事務所と設計契約を結んで
Fig.4:ウホタ/ロース|ヴィンターニッツ邸の外観
4 4
4 4 4 4 4
いたことは紛れもない事実です。
ところが、その設計内容
4 4 4 4 4
ロースにしてみれば、
まさかその当時大学で教えてい
にはロースの魂が入っていなかった……。そう考えるほ
た若者と一緒に仕事をするなど思いもよらなかったでしょ
うが妥当なくらいヴィンターニッツ邸の内部空間は凡庸
う。しかも構造学を専門に教えていたわけですからね
なのです。前回も触れましたが、
ロースの体調はミュラー
……。おそらくは 2 度にわたるマルカロウスの推しが利
邸の完成を待たずして悪化の一途を辿っていましたか
あろうことかウホタは「ヴィンターニッツ邸のオーサーシップ
いたか、はたまた建築設計だけでなく構造から積算まで
ら、
ロースがヴィンターニッツ邸の設計をほとんどウホタに
(原作者が誰であるかということ)
は自分である」と主張してい
こなすオールラウンダーとして実力をつけていたウホタこ
任せていたことは容易に推察できます。1930 年下半期
たというのです[注 6]。ウホタの気持ちもわからないではな
そ必要な人物であると判断したか、
ロースはウホタを自
のロースの足取りを調べてみると、8月には妻のクレール
いですが、
それではまるで
“ヤブヘビ”
です。
自分に才能が
分の新しい右腕として迎え入れるのです。ちなみにミュ
と一緒にパリまで旅行し、翌月にはチェコスロヴァキアに
ないことを自白しているようなものですからね……。プラ
Fig.5:ウホタ/ロース|ヴィンターニッツ邸の内観
です。最近読んだウホタ関連の文献では、
ロースの死後、
ラー氏は、1926 年以降、生活の拠点をプルゼニに移して
戻ってヨーロッパで最も美しい温泉地といわれるカルロ
ハ市博物館のドキュメントでは、
ヴィンターニッツ邸の作家
いましたが、
ウホタはその前年に同じプルゼニにあるチェ
スバッドへ温浴療養に出かけ、12月にはプラハに戻りミュ
を「カレル・ウホタ、
アドルフ・ロース」のように 2 名併記のか
コ国立産業学校の教授に就任していましたし、
カプサ &
ラー邸で行われた 60 歳の誕生日会に顔を出していたか
たちで記録されていまが、
ウホタの名をロースの前に置い
ミュラー社が誇る最先端の建設技術に無関心でいられ
と思えば、翌年 3月にはまたしてもパリからミラノまで大陸
[Figs.4 -5]
ているところが意味深です[注 7]。
るはずもなかったでしょうから、両者はロースの出現を待
を縦断し、行きつけのコートダジュールに初夏まで滞在し
つまでもなく、
すでに面識があったにちがいありません。
たあと、パリ、そしてウィーンへと居場所を変えていました。
─つまり、そこにはヴィンターニッツ邸を正真正銘「アド
ところで、大事なことなのでもう一度繰り返しておきます
そしてとうとう1931 年の 7月には身体の自由がきかなくな
ルフ・ロース」の手になる近代建築遺産と高らかには謳え
が、
ウホタはロースとは無縁の環境で建築教育を受けて
り、車椅子生活を余儀なくされます[注 4]。そんなロース
ない理由があったわけですね。ウホタだって、
ラウムプラン
いました(ましてやロースを嫌な人間と思い込み、ずっと距離をお
がヴィンターニッツ邸の設計に本腰を入れられたとは思え
については頭では論理的に理解していたのでしょうが、
いていたわけです)から、
クルカやネウマンがロースの考え
ないのです。
ロース本人もその仕事を軽く見ていたからで
やはり感性で空間をイメージする才能というか、
空間を操
やデザインの本質を阿吽の呼吸で捉えるようにはいかな
しょうか、
クルカが編纂した『アドルフ・ロース作品集』にそ
るバランス感覚が優れていないと、
ものにはならないので
かっただろうと想像します。したがってミュラー邸の仕事
の作品は見当たりません[注 5]。クルカは、
たとえ未完のプ
しょうね。
が始まっても、
ロースが提示した当初の設計内容を把握
ロジェクトであったとしても、
それがロースの大切な作品で
するのにしばらくは苦労していたのではないでしょうか。
あれば模型写真や図面を駆使して掲載していましたし、
岡田─さて、
そろそろミュラー邸の話に入っていきたい
ロースとウホタとのあいだを、いわばメッセンジャーとしてと
ヴィンターニッツ邸の工事開始が 1931 年 11月でしたか
と思いますが……、これまでお話してきたような経緯も
りもっていたのはクルカでしたが、彼もウホタを相手にして
ら、逆算すると編集段階でプロジェクトとして入れようと思
あって、
ロースはミュラー氏と設計契約を締結するにあた
同じように苦労していたのではなかろうか……、
と。それ
えば入れられたはずなのです。それにもかかわらずクル
りウホタの協力を前提としていました。ミュラー氏本人も
から、結局のところ、そのクルカも1929 年の 12月からミュ
カは、そして最終判断を下していたロースは採択しなかっ
ロースの体調を不安視していたからでしょうか、その条
ラー邸の現場に乗り込み、完成を見届けるまで監理業
た。つまりヴィンターニッツ邸は意図的に外されていたの
件を前向きに捉え、別個に書面を交わしていたようです。
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Fig.6:ミュラー邸|
Fig.7:同、申請図書の屋上階平面図。
申請図書の配置平面図、1928
プラハ市 建 設局はこの計画 内 容を許
[プラハ市博物館]
可しないと赤 線で「×」を入れていた。
[プラハ市博物館]
ミュラー邸に関するドキュメントは比較的詳細に残されて
のです。ウホタはロースの指揮下でおよそ忠実に動いて
いますから、以下、それを追いつつ特筆すべき点をピック
いたはずですから、おそらくはロースがミュラー氏の要求
アップしてみたいと思います[注 8]。
に押し切られるかたちでその内容を作成していたのでは
最初に注目すべきは、建築申請書類が 1928 年の12月
なかろうかと想像しますが、申請図書の提出はロースで
28日に提出されていたことです。設計契約の日取りが同
はなく、
ウホタでもなく、
ミュラー氏率いる建設会社が直接
年の10月28日でしたから、
ロースはたった 2ヶ月間でミュ
行っていたので、実質的にはミュラー氏本人が最前線に
ラー邸の設計案をおおむね完成させていたことになる
[Fig.6]
立って役所と交渉していたことになります。
のです。計画当初に描かれたラフな図面を観察すると、
それにしても、建築面積の抵触もさることながら、屋上
同じ紙面上にロースとクルカ両人の署名がありますから、
階に誰が見ても「居室」
とわかる部屋を計画していた以
ロースは設計の基本構想をウィーン事務所でクルカを従
上、却下されても反論の余地はありません。その後ミュ
えて作成していたことがわかります。上述のとおり、計画
ラー氏は 1929 年 2月15日に行われた 2 度目の審査会で
の初期段階においてはウホタを当てにはできなかったた
235.40 m2から222.75 m2まで面積を減らした計画案を
め、彼らはミュラー氏と直接やりとりをしながら数々の要望
提示し、その修正点を主張しましたが、200 m2を超えて
を整理し、計画内容に反映させていたはずです。当時そ
いることに変わりはないので受理されるはずもなく……。
うしたやり取りは、
もっぱら郵便で行われていました。事
次なる手として屋上階の面積を減らし、わずかに残した
実、
ミュラー氏がロースに宛てた書簡がいくつも残されて
空間を「倉庫」
とする計画内容に修正して 1929 年 4月6
います。
しかもその多くは終始ミュラー氏がロースからの
日に 3 度目の審査会に臨みますが、指導内容が根本的
返事を催促するものでした。
おそらくはせっかちだったミュ
に改善されていないと判断され、
またしても却下されてし
4 4 4 4 4
Fig.9:同、申請図の西側立面図。プラハ市建設局が屋上階の壁面に開口部を
つくるよう赤線で促したところ、
ミュラー氏はそれを拒否し消そうとしていたことが
読み取れる。
[プラハ市博物館]
Fig.8:同、屋上階で南東の方
Fig.10:同、北側からの外観
角に穿たれた大開口部
Fig.11:ウホタ|ミュラー邸の外観アクソノメトリック
[プラハ市博物館]
ゼ
ネ
コ
ン
ラー氏が、
マイペースのロースに業を煮やしていたにちが
まいます。市当局は往生際の悪いミュラー氏にさらなる
いありません。どうやらロースは事務所に舞い込む書簡
制裁を加えようとしたか、今度は「南西側(つまりは前面道
の管理が上手にできなかった人らしく、
クルカはいつもやき
路側)
の壁面が大きすぎる」
という理由をもちだし、屋上テ
もきしていたようです。クレールの回想録にもその様子が
ラスを囲む壁面部分を取り除くよう指導するのです。
しか
語られていますが、
ロースの周りに放置された未開封郵
しそれに対してミュラー氏は最後まで聴く耳を持ちませ
便の山には、新しい仕事の依頼がいくつも含まれていた
んでした。おそらくは将来の増築を見越して、その壁を残
というのです[注 9]。それはさておき、
ウホタの最初の重要
しておきたいと考えていたのではないでしょうか。南東側
な役割は、
ロースとクルカがまとめた設計内容を申請用の
の屋上階に眼を向けると、そこには巨大な開口を残した
フォーマットに忠実に落とし込むことでした。
しかし考えて
まま壁がそそり立っていますが、その開口部こそ未来の
もみてください、その作業でさえそれ相応の時間は必要
居室の窓であり、1日中陽光を享受することのできるサン
だったはずですから、その前段階として基本計画を纏め
ルームが夢に描かれていたとしても不思議ではないので
上げたロースは驚異的なスピードで動いていた、
というか
す。反対に、同じ屋上階でも、北西側と南西側の壁面に
ミュラー氏に動かされていた?……、
ことになるのです。
は小さな窓ひとつ見当たりません。市当局は「その壁こ
ところがその申請内容は、1929 年 1月8日に実施され
そ不要ではないか……、せめて対面と同様の開口を設
た建築審査会であえなく却下されています。プラハ市建
けてはどうか……」と指導していたようですが、それも無
設局が提示した理由はふたつ。簡潔に言えば、
ひとつは
駄でした。ミュラー氏はきっと、屋上の楽園を前面道路
(具体的には「敷地に
「建築面積が大きすぎるから」であり
からの視線や自動車の騒音やライトに汚されたくなかっ
といめん
2 以内で計画しなければならないにも
占める建物の面積」は 200 m
たのでしょう。結局、3 度目の審査会で市当局が提示し
かかわらず申請内容は 235 .40 m2であった)
、
もうひとつは「階
た指導内容を受け入れなかったミュラー氏は、1929 年 4
数を2 つまでに抑えなければならないという条件に抵触
月19日に再提出した建築申請も却下されてしまいます。
していたから」でした(緩和条件として「地下階および居室の用
そこで、それを不服とした彼は州当局に上訴するわけで
に与しない屋上階は計画してよい」
という条項はあった)。つまり単
すが、
どういう風の吹き回しか、1929 年 6月14日に申請
純な話、
その街区に適用されていた法律に抵触していた
はあっさりと受理されてしまうのです。
ところが実際には、
22
建設工事はその受理を待たずして始まっていたといいま
12.5m の平面形で立ち上がる無装飾の白い箱ですが、
(それこそ重大な違法行為のはずなのですが)
すから
、
ミュラー
北東側の屋上階部分が後退しているため直方体の一
氏はよほどロースの設計案に惚れ込んでいたのでしょう、
部が欠けた形状をしています。それによって北東側の居
せっかちな彼は 1日も早く竣工させたくて仕方がなかった
(OBYVACI POKOJ)
室部分は、下階にリビング・ルーム
、上
のです。なにせ申請が下りた 1ヶ月後には建物の概形が
(LOZNICE)
階にベッドルーム
という2 層構成になります(市
できあがっていたといいますからね……、滅茶苦茶な話
当局もそれを「2 階建て」と解釈し申請を受理していた)。南西面
[Figs.7-10]
です(笑)。
のファサードでは、前面道路から1m下がったレベルにエ
4
4
(VSTUP)が、
ントランス
そこからさらに北西側に回り込み
─そうなると、
ミュラー邸の屋上階の形態はロースのデ
ながら下った先にガレージ(GARAZ)が計画されています
ザインというより、
クライアントの要求によって決められてい
[Fig.B]。その結果、
ガレージはエントランスよりも半階下
たと見るほうが適当かもしれませんね。
しかしいずれにし
がったレベルに計画されることになりますが[Fig.G]、実は
ても、
ロースが最初にイメージしたミュラー邸は途中で多
そのレベル差がミュラー邸の「ラウムプラン」を起動させる
少の面積調整はあったものの、ほぼイメージ通りに完成
[Fig.11]
きっかけを与えていたのです。
されたと見ていいわけですね。
申請図書には記載がなく、完成した建物に新たに加
A:配置図
D:1 階平面図
B:地下階平面図
E:2 階平面図
C:エントランス階平面図
F:屋上階平面図
わった要素は北東側の基壇部です[Fig.B]。この基壇部
岡田─申請図面の内容は完成した建物とほぼ同じと
には、倉庫(NARADI)のほかに馬鈴薯の貯蔵庫とワイン
みてよいと思います。ロースとクルカの署名が入った計画
セラー(SKLEP)が計画されており、ガレージの背後で廊
初期の図面と比べれば、新たにエレベーターを設置する
下を挟んだ南東側の使用人部屋に隣接しています。こ
という条件が加わったため、その周辺の平面計画に変
の部分の屋上面が、ちょうどリビング・ルームから連続す
更が加えられていますし、それとともに構造計画も変更さ
る屋上テラスになっているわけですが、実施設計の段
れていましたが、外周壁のデザインや内部空間の構成
階で地下階の倉庫増設とリビング・ルームに連続する屋
も、小窓の配置など本質的ではない部分を除いては大
上テラスを望んだミュラー氏の要求に応じ、あとから付
きくは変わっていません。その一方で、誰が見てもわかる
加されたものでした。同じ階で南側隅を占める大きな倉
変更点としては、北東側に四角く突き出した基壇部をあ
庫は石炭貯蔵庫(UHLI)です。
トラックで運ばれてきた石
げることができます。これは「建築面積」に関する規制を
炭は、エントランス・ポーチの右端(エントランス扉と反対側)
無視した違法行為ですからクライアントの責任で加えら
にある矩形の開口部から投下され、直接貯蔵庫にストッ
れた要素と思われますが、それが実現されているところ
クされる仕組みになっています。さらにその貯蔵庫がボ
を見ると、
ロースはそれによって建物の外観が変わってし
イラー室(KOTELNA)に隣接していますから、燃料を最
まうことについては寛容だったのです。以下にその計画
短距離でボイラーに投入することができます[Fig.B]。こ
[注10]。
内容を詳しく見ていきましょう
こで注目しておいてよいのは、石炭の投入口周辺のディ
まずは敷地についてですが、場所はプラハの市街地
テールです。投入口の周囲は炭粉の飛散で汚れますか
から西北西の方角へ直線距離にして 3 km ほど離れた
ら、
ロースはそれを回避すべくトラバーチンの石板で大き
(申請図書では地下階とエントランス階
を併せて「地階平面図」とされていた)
郊外の丘陵地にあります。1928 年当時、そこはまだ造成
されたばかりの新興住宅地でした。敷地面積 1 ,270 m2
の広大な土地は、全体的に南西から北東の方角に向
Figs.A-G:ミュラー邸
9:馬鈴薯貯蔵庫
20:サロン
(婦人室)
かって傾斜しており、南側接道部から北側接道部まで約
─
10:ワインセラー
21:テラス
0:ゲート
11:エントランス・ポーチ、
22:寝室
11m の高低差があります。主要道路は敷地の上方を走っ
1:ガレージ
12:エントランス
23:ワードローブ
2:石炭貯蔵庫
13:談話室
24:子供室
ていたため、
ロースは自動車で敷地内に進入するための
3:ボイラー
14:ホール
25:客室
ゲートを南側のコーナーに計画し、そこから道路沿いに
4:洗濯室
15:リビング・ルーム
26:使用人室
5:乾燥室
16:ダイニング・ルーム
27:朝食室(夏季限定)
敷設した斜路を下り、建物本体にアプローチするスキー
6:運転手詰所
17:パントリー
28:倉庫
ムを組み立てます[Fig.A]。建物のシルエットは 18.5 m×
7:使用人室
18:キッチン
29:屋上テラス
8:倉庫
19:書斎
23
G:断面図
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な囲いをつくり、エントランスを美しく保つための工夫をし
築面積の領域内で、最上階を寝室階とし、その直下にリ
[Fig.12]
ていたのです。
(JIDELNA)
とキッチ
ビング・ルームからダイニング・ルーム
(KUCHYN)
ン
、
さらには書斎(KNIHOVNA)や婦人の部
─なるほど、細やかな気配りですね。そこまで読み込
(SALON)等の居室を配置すれば、
エ
屋であったサロン
んでいければロースの合理主義も深みが増しますね。
と
ントランスはさらにその下の階に配置せざるをえなかっ
ころでミュラー邸内部の空間デザインは、
どのように読み
たのです。エントランスが描かれた平面図には「地下
解くことができるのでしょうか。
(SOUTERRAIN)
」というタイトルが与えられていますから、
実際には地上階にあっても法律上は「地下階」
としての
岡田 ─とりあえずはエントランスのポーチから話を始
扱いだったことがわかります。そこに法律上の「居室」を
めますが、そのポーチはトラバーチンで舗装された小さ
計画しなければ「1階分」としてはカウントされないため、
4
4 4 4
Fig.16:ミュラー邸|
Fig.17:フランク・ロイド・ライト|
リビング・ルーム
(右手が
ユニティ
・テンプル、
オークパーク、1906 、内部空間
ホールに連絡する開口部)
奥に計画されたホール(PREDSIN)は、エントランスとリビン
な平場(見込み寸法にしてわずか1.2 m)で、前面道路からガ
ミュラー邸は、法的には「2階建ての建物」と見なされて
グ・ルームの間を繋ぐ過渡的な空間です。来客はこの場
レージへと下っていく斜路(路幅 2.85m)からはステップ
[Fig.13]
いたのです[FigG]。
所でコートを脱ぎ、
クロークのコート掛けへと向かいます。
を3 段下りたレベルに設定されています。そこは公道の
エントランスの周辺は、幅 5 m にわたってニッチ状に抉
突き当りのベンチは、
そこに座って一服するためだけでな
道路面より高低差にして約 1 m 低く、歩道を往来する人
られ、
トラバーチンで化粧された壁面が重厚感を漂わせ
く、脱着した衣服や手荷物を一時的に置くための場所と
からは見おろされる位置関係となるため、一般的に考え
ています。その壁面は、中央に造り付けられたベンチの
しても使われていたはずで、座面を跳ね上げると収納とし
れば不自然な計画のようにも見えますが、建物の高さ制
左側にエントランス、右側に石炭投入口と炭粉飛散防止
ても機能します。
この空間は、
ほの暗くて狭い青緑色のエ
限をクリアしなければならないロースにとっては致しかた
用の囲いで構成されていますが、
とりわけ興味をそそら
ントランスの空間とは対照的に、床面積にして 3 倍以上あ
のない選択でした。大前提として、法的に許容される建
れるのは、庇込みで 2 m 程度の奥行しかないポーチの
る広くて明るい空間として計画されています[Fig.C]。ここ
空間[Fig.12]が、天井高 2 .2 mまで低く抑え込まれてい
で興味深いのは内装の色の使い分けで、エントランスの
るところです[Fig.G]。そのスケールの感覚が、前回から
空間とは正反対の構図、すなわち壁面には白色、天井
の繰り返しになりますが、
「フランク・ロイド・ライト」を髣髴と
面には深緑色が使われている点です。天井高は依然と
させるからです。エントランスの内部は、幅にして1.7m、
して 2.5mと低いままですが、
ロースはクレールに「もっと
天井高は 2.4m の素っ気ないトンネル状の空間です。こ
低く抑えるべきだった」
と漏らしていました[注 12]。ロース
の空間には、左手に物置(KOMORA)が隣接し、右手に
が天井に暗めの色を使った理由は、その空間に心理的
は地下階から屋上階まで直通の階段室が接続します。
に上から重く圧しかかる空気の必要性を感じていたから
ちなみに当初は「物置」
として申請されていたその空間
です。実はその
“抑圧”
の感覚こそがロースの狙いだった
も、完成後はひとつの部屋として使用されていたらしく、
ク
のです。抑圧の直後の解放。彼はそれを空間演出の手
レールによれば、
ミュラー氏が家の奥へ通したくないと判
法として重視していました。ちなみに床材は、エントランス
断した客はその場で応対していました[注 11]。クレールは
からこの空間までは、摩耗に強くスリップしにくい煉瓦タイ
回想録のなかでミュラー邸の内部空間について建築家
[Figs.14 -15]
ルが使用されています。
顔負けの空間記述をしていますから、それを適宜引用し
さて、
そのホールから木製の階段を7 段上り、
高低差に
ロースはそのトンネ
ながら解説していこうと思いますが、
して 1.19 m 上にあるリビング・ルームへと至ります。その狭
ル状のエントランス空間に適度の狭さと暗さをイメージし
く屈折した階段は、天井の低いホールの抑圧された空
ていたようです。壁面に青緑色を選択することでその暗
間からリビング・ルームの開放的な空間へと誘う、いわば
さが生まれるわけですが、材料として硬質の色ガラスを
心象変換器の役割を担っていました。ロースの空間デ
選択していたことからも、細かい配慮を感じ取ることがで
ザインが巧妙なのは、その階段を上がりきった場所の天
きます。その空間では着膨れしたジャケットやコートによる
(ちなみに、その
井高を2 m 程度まで抑え込んでいるところ
擦れ傷が予想されるため、ひとつにはそれを回避する目
真上には婦人室が計画されており、造り付けの腰掛が占めるそのア
的があったのでしょう。擦れ傷を想定する必要のない天
ルコーヴの空間もやはり天井高は 2 m)
です。ロースがクレール
井は白色の塗装で仕上げ、天井灯の反射光を利用し適
にミュラー邸の案内していたとき、
「扉を開けるとすぐに大
度な明るさを保てるよう配慮されています。エントランスの
きな部屋に入ってしまうような設計は駄目なんだ。その前
Fig.12:ミュラー邸|エントランス・ポーチ
(右端の囲いがプランターとして使用されていた頃の写真)
Fig.14:同、エントランス
Fig.13:同、申請時の地下階平面図
[プラハ市博物館]
Fig.15:同、ホール
4
4
4
4
4
24
Fig.18:同、平面図
Fig.19:ミュラー邸|リビング・ルーム全貌
Fig.20:同、全貌
Fig.21:同、
リビング・ルームか
らダイニング・ルームを見る
に一拍(小さな空間を)置かなければ……」と語っていま
イトは間接的に繋がっていたのです。1920 年の 3月、サリ
て言えば、
リビング・ルーム周辺の比類ない空間構成が
したから、そうした空間操作を意識的にやっていたので
ヴァンの著書『 Kindergarten
Chats(1902-04)』のヨーロッ
その不協和音をも超越するある種の強度を有しているよ
す[注 13]。その空間の展開は、あくまでも私個人の直感
パ・
ドイツ語圏における出版企画を前進させようとしてい
[Figs.19 -21]
うに感じられるのです。
的判断ですが、
フランク・ロイド・ライトのユニティ・テンプル
たシンドラーは、その草稿をウィーンのロースに送っていま
さて、その空間を左手に見ながら6 段からなる緩やか
(Unity Temple, 1906)
を想い起こさせます。ユニティ
・テンプ
したが、
この事実は渡米した弟子がロースと良好な関係
(正確には1,020 mm)上が
な階段を高低差にして1m 余り
ルにおける抑圧された(エントランス)ホールの空間から開
を保ちつつ、多かれ少なかれアメリカの情報を恩師に流
ると矩形の踊り場へと至ります。
そこが分岐点となり、
直進
放的な聖堂へと至る途ゆきの空間性が、
ミュラー邸のな
していたことを裏づけるものです[注14]。
して1段上がればダイニング・ルームに入り、そこから南西
かで再現されているように感じられるのです。面白いこと
話をミュラー邸に戻しますが、
リビング・ルームの寸法
の方角に向かって同じレベルでパントリー(PRIPRAVNA)
に、
階段の形状こそ異なりますが、
段数はユニティ
・テンプ
は、長手方向が 11mで短手方向が 5.6 m、それに天井
からキッチンまで空間が展開します。そのダイニング・ルー
ルもミュラー邸もまったく同じです。ひょっとしたらそれは、
高も4 .3mですから、その空間は驚くほどの大きさではあ
ムについて、
ロースはクレールに対し次のように説明して
人が日常的に無理なく昇降運動できるレベル差の限界
りません。ロースがつくる空間操作のシナリオが、そこを
いました[Fig.D]。
[Figs.16 -18]
をほのめかすものなのかもしれません。
経験する人に物理的な大きさ以上の空間を印象づける
のです。あらためて言うまでもないことですが、その空間
この小さな部屋の天井を木板で仕上げることができた
─それもまた建築家ならでは感覚ですね。空間から
は厚く堅く重い壁に四方を閉ざされた旧来の空間ではあ
のは、それがリビング・ルームに向かって開いているから
感じとるスケールや明るさ暗さなど、実際に経験しなけれ
りません。こう言ってよければ、そのひと昔前、
日本建築の
(天
なんだ。息が詰まるような部屋で同じことをやったら
ばわからないことだらけですが、経験してもわからない人
空間性に触発されたライトが「箱を壊す(break the box)」
(中略)
井面が)棺桶の蓋に見えてしまうだろ……。
ダイ
はわからないでしょうしね……(笑)。
ところで、その狭くて
ことに気づかされ、幾多のプレイリー・ハウスで実験を繰
ニング・ルームは使用人が給仕しやすい広さを確保で
低い空間を通り抜けた先にあるリビング・ルームはどのよう
り返していた空間の本質が、それとは異なったかたちで
[注15]
きれば、
それで十分だ。
に説明できるのでしょうか?
顕われているだけなのです。ロースがチポリーノ大理石
で被覆したダイニング・ルーム側の壁面に階段状の表現
そもそもロースがダイニング・ルームの天井高を低くし、
岡田─さきほど「抑圧」
と
「解放」について述べました。
を与えたこと、つまりはそれによって左右相称性を破った
天井材に暗い色のマホガニーを使用した目的は、
落ち着
それを論理的に理解するのは簡単ですが、
ロースは感
ことが、その空間に一種のダイナミズムをもたらしていま
いて食事に集中できる空間をつくることにあったわけで
覚で捉える才能を持ち合わせていたのでしょう。彼は二
す。階段を昇降する人間の動きとともに空間が水平方向
すが、実際にはダイニング・ルームとリビング・ルームの空
次元の図面を読み込むだけで三次元の空間をイメージ
のみならず垂直方向の視線つまりはダイアゴナルの視線
間の連続性がそれを可能にしていたのです。これを抽
する能力にも長けていたはずですから、
これまた持論の
を獲得したのは、
もちろんロースの空間が最初ではあり
象的に説明すれば、
「ロースは空間 X の仕上材や大きさ
繰り返しになってしまいますが、
クルカやネウマンと一緒に
ません。
しかしヨーロッパに限って言えば(アメリカではライト
(連続する)空間 Y の性質や人間
を決めるさい、隣接する
ヴァスムート版ポートフォリオのページを捲りながらライト
がすでに実践ずみでしたから)
、それが大きな建物ではなく小
行動学的観点から見た空間の機能性を判断の拠りどこ
の空間を追体験していたのではなかろうかと想像します
さな住宅のなかで実現されたことに価値があったのであ
ろとしていた」ということ。こうしたロースの合理主義的な
(もっともライトの作品集は透視図満載でしたが……)。
ロース建
り、そのことに対してロースは十分に意識的でした。私自
考え方は、当然のことながらキッチンにも反映されていま
築学校の教え子であったシンドラーは第一次世界大戦
身の眼には、
ロースのプロポーションは、例えばウィーンの
した。彼は、キッチンでは調理に必要なものすべてが料
を機にアメリカへと亡命し、
ライトの息のかかる場所にい
ロースハウスがそうであるように、
どんなに贔屓目に見て
理人の手の届く範囲になければならないと考えていたら
ましたから、たとえそれが細い糸だったとしてもロースとラ
も美しく映えることはありませんが、
ことミュラー邸につい
しく、それを「アメリカン・システム」のキッチンと呼んでいた
25
C A S A B E L L A J A P A N レ ク チ ャー
[Fig.22]
のです[注 16]。
まりは「ラウムプラン」の核心に迫ってみたいと思います。
リ
ところで、
ミュラー邸における垂直方向の動線は全部
ビング・ルームを左手に見ながら階段を6 段上がると踊り
で 3つあります。1つはエレベーターで、残りの 2つが階段
場となり、そこを直進してさらに 1 段上がればダイニング・
です。階段の 1つは裏の動線で、地下階から屋上階まで
ルームに辿りつくところまでは説明ずみです。その踊り場
ダイレクトに連絡する直通階段です。ロースとクルカは設
を今度は右に折れ、4 段ずつ計 8 段分の階段を上がりき
計の初期段階でその動線の配置計画に相当悩んでい
ると比較的大きな踊り場に出ます。そしてその踊り場がま
たようで、その苦労の痕跡が 1 枚のスケッチに残されてい
たしても分岐点となり、
西の方角に進めば書斎の扉、
北西
ます。ロースは最終的にその階段をエレベーターと対に
の方角に右折すればサロンの扉に直面します。書斎は、
してエントランスのすぐ脇に配置していますが、考え抜か
扉を開けて室内に入るとすぐに小さな踊り場があり、そこ
れただけあってサービス動線としては各階に必要不可欠
から階段を4 段(高低差にして 680 mm)下りたレベルに床面
な交通手段となっています。舞台俳優に喩えて言えば、
が設定されています。この部屋には、北西面の壁に暖炉
主役を陰で引き立てる名脇役といったところでしょうか。
も
[注
を中心に据えたアルコーヴ・ラウンジが形成されており
う1つは、建物のほぼ中心に設置された表の顔となる主
17]、
南西面の壁には採光と換気のために横長窓(開口寸
ほど
要動線で、
ラウムプランによって解かれた空間の各々を連
法が 2 m×1 .2 m の 2 重サッシュで、
ロースはこの窓を定型としてミュ
絡する階段群です。
このいわば主役の動線は、
前回のモ
ラー邸のいたるところに使用している)
が穿たれています。他方、
ラー邸でも見たとおり、建物の 1 層分を一気に上がりきる
サロンは、扉を開けるとすぐに 1 段分のステップがあります
(ただし同じ主役の階段でも、
ラウムプラ
階段は皆無と言ってよく
(このステップはミュラー邸のなかで最も不自然な階段)
。それを下
ンが展開する階から直上の寝室階へと至る階段だけは例外)
、蹴
りてリビング・ルームの方向に進むとアルコーヴ・ラウンジに
上寸法 17 cmを単位として数段からせいぜい 6 段までの
突き当たります。ロースはそのラウンジの天井高を2 m に
[Fig.23]
小刻みな階段を要素として成り立っています。
抑えていますが、
リビング・ルームを覗くことのできる透かし
ここでもう一度リビング・ルームに戻って、その主役の階
窓がその圧迫感を和らげ、
心地よい空間を実現させてい
からく
段を追いながらさらにミュラー邸内部の空間の絡繰り、つ
ます。そこからさらに階段を3 段下りるとサロンのなかで最
Fig.24:ミュラー邸|書斎
Fig.26:同、サロンとリビン
Fig.25:同、サロン
Fig.27:同、寝室
グ・ルームを連絡する階段
Fig.28:同、子供室
Fig.29:同、リビング・ルームの
壁面にビルト・インされたアクア
リウム用の水槽(画面中央)
も広い空間(1.8 m×2.5 m)に出ます。この場所も南西側壁
面のニッチにソファが造り付けてあり、
そこに腰掛けるとす
Fig.22:ミュラー邸|
ダイニング・ルーム
ぐ脇に穿たれた横長窓を通して北西から北の方角の風
にとって、サロンは役者控室そのものであり、その階段は
景を楽しむことができます(同じ定型窓も、サロンの狭く小さな空
[Figs.25 -26]。
花道の役割を果たしていたのです[Fig.D]。
間にあっては心理的にはかなり大きく感じられる)
。そこは 2.8 m
最上階(屋上階ではなく)は、寝室(LOZNICE)
とそれに
の天井高も手伝って、天井の低いアルコーヴ・ラウンジとは
(SATNA)
付属する夫婦各々のドレッシング・ルーム
、2つ
正反対の開放的な空間なのです。
このサロンで感心させ
の子供室(DETSKY POKOJ)に家族共用のバスルーム
られるのは、その空間が透かし窓によりリビング・ルームと
(LAZEN)
、客室(HOST)
とそれに付属する小さなバスルー
視線的に繋がっているだけでなく、直通階段により動線
ム、
そして使用人室(SLUZKY)
とそれ専用のバスルームで
的にも繋がっているところです。その階段をめぐってクレー
構成されています[Fig.E]。ロースは家族の領域を北東か
[Fig.24]
ルは次のような言葉を残しています。
ら南西にかけて、つまりは陽当たりのよい方角にまとめて
配置し、客室と使用人室は北西側にまとめ、家族の領域
Fig.23:ロース|
この部屋にはリビング・ルームを見下ろす小窓があり、
ご
よりも2 段分(340 mm)上がったレベルに配置しています。
婦人は到着されたお客様に気づかれることなくその様
とりわけ使用人室が割り当てられた領域は、屋上階から
子をご覧になられます。彼女は小柄で華奢な女性です
地下階まで直通のサービス用階段とエレベーター(ただ
が、お客様のところへは威風堂々のお姿で階段を下り
しエントランス階だけは止まらない)
を内包しているため、荷物
[注 18]
ていらっしゃいます。
を上下階に運搬する使用人に対しても十分に配慮され
階段の配置計画に
苦悩したことを示すスケッチ
[プラハ市博物館]
た計画となっているのです[Fig.E]。屋上階は屋根裏室
リビング・ルームという舞台で主役を演じるミュラー婦人
(PUDA)
と夏季限定の朝食室(KOMORA)の 2 室が計画
26
され、階段室と朝食室からは直接屋上テラスに出ること
ジェクトの切り盛りをしていたが、
アパートメントの改修計画等を専らと
ができます。すでにお話したとおり、
これらの空間は申請当
しており、
目ぼしいプロジェクトには関与していなかった。
初「居室扱いにはしない」、つまり
「倉庫として使用する」
2 ─ウホタの経歴はプラハ市博物館(Muzeum Prahy)の史料を参照。
─ Ludwig Minz, Adolf Loos, Il Balcone, 1956
という約束で許可されていましたが、実際には居室として
3 ─ Vaclav Chadraba, Winternitzova Vila, Stavebni-Forum.cz,
─ Adolf Loos, Spoken into the Void – Collected Essays 1897-1900,
フル活用されていたようです。当初ミュラー氏は屋上階に
2006
大きな部屋を希望していましたが、その後増築された形
4 ─ Maddalena Scimemi, Adolf Loos, Archimagazine, www.
─ Elsie Altmann-Loos, Mein Leben mit Adolf Loos, Wien, 1984
跡もありませんから、実現された家が家族 3 人の生活空
archimagazine.com
─ Panayotis Tournikiotis, Adolf Loos, Princeton Architectural
[Fig.F]
1930年、
間としては十分に事足りていたのでしょう
。
5 ─ Heinrich Kulka, Adolf Loos: Das Werk des Architekten, A.
プルゼニに滞在していたロースは「ミュラー博士の新居
Schroll & Co., 1931
は、
これまで私が手がけた一連の作品のなかで一番の
6 ─ Karel Ksandr ed. Villa Müller: Adolf Loos and Karel Lhota,
出来でした」と振り返っていましたから、それが最高傑作
Argo, 2000
[Figs.27 -28]
であることを自らも認めていたのです[注 19]。
7─ヴィンターニッツ邸はナチの占領下で改装された後、保育施設
として転用されるなど変遷を経てきているため、
ヴィンターニッツ一家
さて、
ミュラー邸の話はまだ途半ばですが、今回も時間切
が過ごしていた当時の状態は失われているが、空間そのものの骨
れとなってしまいました。次回もこの続きを予定しています
格は原形を留めている。
が、
そこでは構造法に関する分析まで踏み込んでみたい
8 ─ミュラー邸のドキュメントは、プラハ市 博 物 館の史 料およ
と考えています。今回のおわりに、
クレールの回想録から、
び Allison Saltzman ed., Villa Müller - A Work of Adolf Loos,
ミュラー邸の工事現場を訪れたロースのエピソードを紹
Princeton Architectural Press, 1994を参照。
介して結びとしましょう。
ミュラー邸の現場には、
まるで少
9 ─ Claire Beck Loos, Adolf Loos – A Private Portrait,
年のように夢見るロースがいたのです。
DoppelHouse Press, 2011 , pp.10 -11
10 ─ミュラー邸の部屋名について、本稿は当時ロースが使用して
─ Heinrich Kulka, Adolf Loos: Das Werk des Architekten, A.
Schroll & Co., 1931
The MIT Press, 1982
Press, 1994
─ Graphische Sammlung Albertina ed., Adolf Loos, Historisches
Museum der Stadt Wien,1989
─ Giovanni Denti, et. al., Adolf Loos opera completa, officina
edizioni, 1997
─ Maddalena Scimemi, Adolf Loos, Archimagazine, www.
archimagazine.com
─ Roberto Schezen、et.al. Adolf Loos: Architecture 1903-1932, The
Monacelli Press, 2009
─ Beatriz Colomina, Privacy and Publicity – Modern Architecture as
Mass Media, The MIT Press, 1994
─ Jeffery K. Ochsner, H. H. Richardson – Complete Architectural
Works, The MIT Press, 1982
─ Kenneth Frampton, Modern Architecture – A Critical History,
ミュラー邸の工事はまだ始まったばかりです。
ミュラー博
いた名称を尊重し、
申請図面に記載されていた用語を邦訳した。
士のご依頼に応じ、
ミーティングに現場へと来ています。
11─ ibid., p.36
ロースは梁と梁のあいまに立ち、
どこやら指をさしていま
12 ─ ibid., p.36
す。
そして呟くのです。
「ここに置きましょう、
魚を入れた明
13 ─ ibid., p.36
1962 年、兵庫県生まれ。建築家、千葉大学大学院准教授。コロン
るい水槽を」。皆キツネにつままれたような面持ちです。
14 ─ Esther McCoy, Vienna to Los Angeles: Two Journeys, Arts &
ビア大学大学院修了後、早稲田大学大学院博士課程修了。日本
博士は先を急いでいらっしゃいます。検討しなければな
Architecture Press, 1979
学術振興会特別研究員、文化庁芸術家在外研修員、
コロンビア大
らない大事なことが山ほどあるからです。でもロースは
15 ─ Claire Beck Loos, op.cit., p.37
学大学院客員研究員を経て、1995 年、岡田哲史建築設計事務所
そこに立ちつくし、そんなことおかまいなしに続けるので
16 ─ ibid., p.38
設立。デダロ・ミノッセ国際建築賞グランプリほか、受賞多数。ヴェネ
す。
「この家のなかで、
ここはご主人のお気に入りの場
17 ─岡田哲史、
「いかに建築空間は思考されるか 第 7 回─ア
ツィア建築大学(IUAV)、デルフト工科大学など、海外の主要大学で
所になるでしょう。日暮れどき、仕事に疲れて帰宅すると
ドルフ・ロース試論[2]」、
『 CASABELLA JAPAN 』847 号、2015 年、
も建築デザイン教育に携わっている。主要著書:
『ピラネージと
「カン
魚たちが静かに踊っています。
ランプに照らされ色とりど
p.25:
「アルコーヴ・ラウンジ」は「壁面の一部を凹ませてつくられたラ
(桐敷真次郎/岡田哲史、本の友社、1993)
プス・マルティウス」』
、
『 建築巡礼
りに揺らめいているのです」。博士はもううんざりといっ
(用語の定義)。
ウンジ」をいう
(丸善、1993)
(共著、
トレヴィル、1997)
32 ピラネージの世界』
、
『 廃墟大全』
、
たご様子ですが、
ロースには悪気などありません。工事
18 ─ Claire Beck Loos, op.cit., p.37
中の型枠や足場には眼もくれず、完成した家に思いを
19 ─ Adolf Loos, Shorthand Record of a Conversation in Plzen,
2004)など。2009 年には、
ミラノのエレクタ社より作品集『 SATOSHI
馳せる彼。そんなロースが今日たったひとつ口にしたこ
1930
(序文:フランチェスコ・ダルコ)
OKADA 』
が刊行されている。
[注 20[
]Fig.29]
とといえば、
光揺らめく魚の話でした。
20 ─ Claire Beck Loos, op.cit., p.15
アクアリウム
Thames & Hudson, 1980
[岡田哲史]
(G・B・ピラネージ著、岡田哲史校閲、アセテート、
『ピラネージ建築論 対話』
[図版提供]
[注]
1 ─当時のロースの右腕として、厳密にはもう一人 Kurt Ungerを
挙げることができる。ウンガーは 1931 年 1月以降ロースの傍らでプロ
27
[注記以外の主な参考文献]
─ Veronika C̆adová, et al., Adolf Loos a Plzen̆, Knihovna města
Plzně, Plzen̆, 2011
岡田哲史建築設計事務所