安藤 竜二

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三河国のページ。バーチャルシティになっている。
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「サムライ日本プロジェクト」の商品群(一部)。統一のデザインが施されている。
地方ブランディングの仕掛け人として 年半で受けた取
材は200件以上。その人物は大手広告代理店バックアッ
プや特別なコネもなく、自らの腕一本で実績を築きあげた。
DDR(愛知県岡崎市)の安藤竜二社長が脚光を集めるき
っかけとなったのは「サムライ日本プロジェクト」の成功
だ。安藤氏の地元である三河国(愛知県岡崎市)を始め、
加賀国(石川県)
、安芸国(広島県)など 地域を藩とし
てブランディングする手法が、地方の魅力を伝える新たな
一手として注目を集めた。地域活性化の若い騎手の挑戦は
まだまだ始まったばかりだ。
DDR
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代表取締役社長
ス が 設 け ら れ る こ と が 決 ま っ た。
地域ブランドというキーワードは
それに携わる人にとっては常にア
ンテナを張っているテーマであ
り、商業施設にとっても普遍的に
魅力的なテーマ。一つ面白いプロ
ジェクトが始まるとその波及効果
は大きい。
安藤氏の仕掛けは当たったの
だ。ポイントは商材を単体で押し
出すのではなく、地域別にパッケ
ージデザインや名称など統一のブ
ランディングを施すことで興味関
心が横に広がる仕掛けを作ったこ
とだ。耳馴染みのある八丁味噌に
目を止めた人が、こだわりを打ち
出した「サムロック商品」に関心
を持ち、そして抵抗なくサイダー
のこだわりを受け入れる。ブラン
ドとはメーカーと顧客の信頼関係
だと言うが、同一ブランド化する
ことでその信用性を参加企業が共
有することになる。
逆に信頼が裏切られるようなこ
とがあると全体にマイナスイメー
ジが波及してしまうというリスク
がある。しかし、そこは安藤氏が
直接その企業を訪れ、社長と語り
合い、志を確かめてからメンバー
に入れていることでリスクを回避
している。それよりは同じ地域の
同志として切磋琢磨することでよ
安藤 竜二
トとして、店頭プロモーションの
機会を得たのだ。
「当日蓋を開けでびっくりしま
した。若い女性から年配の方まで
サムロック商品を見て『このサイ
ダー、かわいい』や『え、これが
味噌』と手にとって次々と購入し
てくださる。この姿を出品してく
れた方たちに早く見せたいと思い
ました」
消費者は黒と赤で統一されたパ
ッケージやロッカーとサムライを
合わせたキャラクターの斬新さに
まず目を奪われ、興味を持ったと
ころでスタッフがその商品のこだ
わりや歴史を説明する。その説明
マニュアルは安藤社長が手作りで
短 く ま と め、 スタッフが自分の言
葉で語れるように教育したのだった。
「サムライ日本プロジェクト」
の快進撃はここから始まった。
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Business Chance 2011.4 6
7 Business Chance 2011.4
信用性を共有することで
強固なブランド力を発揮
年 月、加賀国(石川県)の
参加が決まった。醤油屋の井村商
店がこのプロジェクトを聞きつけ
名乗りを上げたのだ。さらに、三
河国に 商品が加わり、程なくし
て日本橋の複合ビル「コレド日本
橋」の中にある「セレンディピテ
ィ」にサムロック商品の特設ブー
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起業
世界
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売上250倍増の大ヒットも登場
地方ブランド復活の仕掛け人
社長は、この歴史ある商品を「サ
ムロックサイダー」としてネーミ
ングからパッケージまで一新させ
てしまったのだ。
もちろんパッケージだけでいき
なり売れ出したりはしない。ポイ
ントは三河国(愛知県岡崎市)の
こだわり商品として他の商品と一
緒に売りだされたことにあるだろ
う。「 サ ム ロ ッ ク サ イ ダ ー」 以 外
にも岡崎市一番の特産品、まるや
八 丁 味 噌 を「 サ ム ロ ッ ク 八 丁 味
噌 」、 太 田 油 脂 の 灯 明 油 を「 サ ム
ロック和灯」などその他合わせて
品を三河国のサムロック商品と
してリリースした。そのお披露目
は六本木ミッドタウンという華や
かな舞台だった。
2007年 月 日から ヵ
月、東京ミッドタウン「ジカバー
ニッポン」のオープニングイベン
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力
え
を変
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Cha er
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本 円、月に100本程度しか
売れな い し が な い ご 当 地 サ イ ダ ー
が、ラベルのデザインを変えただけ
で価格を 円に上げて月 万本売れ
るヒット商品に生まれ変わった。
まるで魔法のようなこの変身
は、D D R の 安 藤 竜 二 社 長 が 仕 掛
けた「サムライ日本プロジェクト」
に参加 し た か ら だ 。 こ の 変 身 を 遂
げた商 品 は 「 万 石 サ イ ダ ー 」 と
いう明 治 年 創 業 の 酒 問 屋 、 大 岡
屋のプ ラ イ ベ ー ト ブ ラ ン ド 。 安 藤
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る
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ジメ
ン
チェ
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した。しかし、夢はつかの間。帰
りの飛行機の中で「帰ったら仕事
探さないとな」と一気に現実に引
き戻された。
帰国後、父親の伝手で入社した
のが岡崎製材という老舗の材木屋
だった。
作業員から営業職に移り、
そしてアメリア好きという理由で
志望していた輸入建材の部署に回
された。アメリアのフェアなどに
参加すると企業が自分たちの魅力
を伝えるための演出の凄さに圧倒
された。その後、世界の工場であ
る中国で仕事をすることになっ
た。そこではアメリカとは真逆で
ブランドという感覚が皆無だっ
た。そこから岡崎製材の社内ベン
チャーとして家具ブランドを立ち
上 げ る プ ロ ジ ェ ク ト を 任 さ れ た。
家具業界に木材を打っていくため
のプロジェクトだ。縁があったデ
ザイナーに依頼し、デザインをま
とめ、製造は伝手のあった中国の
工場に決めた。
いよいよ商品も形になってき
た。しかし、モノはできても消費
者に知られないと意味が無い。安
知恵絞ってブランド売り込み
8ヵ月で 冊の雑誌に掲載
りお互 い が 緊 張 感 を 持 っ て 良 い 特
産品を 発 信 し て い こ う と い う 相 乗
効果に つ な が っ て い く 。 こ の 相 乗
効果は ク チ コ ミ を 生 み 、 さ ら に 同
じ地域 の 賛 同 者 を 増 や し て い く よ
ころに行き着きました」
うだ。
この思いは地元の材木屋で初め
現に 最 初 に ス タ ー ト し た 三 河 国
て腰をすえて仕事に取り組み、本
では、 現 在 商 品 が サ ム ロ ッ ク 商
気で自分たちの商品を世界に届け
品とし て 販 売 さ れ て い る 。 そ し て
たいと熱くなった 代前半から火
藩(地 域 ) は 、 全 部 で 地 域 に ま
で拡大した。地域を増やしながら、 がついた。伝えようとしてもなか
なか伝えられない。そんな思いが
その地 域 の 参 画 企 業 が 増 加 し て い
安藤氏をブランディングプロデュ
くこと で ア メ ー バ 状 に 「 サ ム ラ イ
日本プロジェクト」は広がっていく。 ーサーへの道に駆り立てたのかもし
れない。
「 私 も 駆 け 出 し の 頃、 ブ ラ ン ド
に関す る 本 を 沢 山 読 み ま し た 。 そ
岡崎の材木屋で強烈に感じた
こには 『 ブ ラ ン ド は 消 費 者 へ ホ ン
「伝えたい」という欲求
モノを 届 け る と い う 約 束 の 証 』 と
いうフレーズがありました。でも、 徳川家康の生誕地、愛知県の岡
崎市に生まれた安藤氏は、車とバ
それは ル イ ・ ヴ ィ ト ン や グ ッ チ の
イクとロックンロールに明け暮れ
ように す で に 有 名 に な っ て い て 名
た学生時代を過ごし、ロックスタ
前を聞 い た だ け で 認 知 し て も ら え
ーに憧れて上京した。しかし、岡
る大ブ ラ ン ド な ら そ う だ ろ う 。 ま
崎=日本の中心と考えていた若者
だ消費 者 に 伝 わ っ て い な い ブ ラ ン
は東京で挫折し、 年ちょっとで
ドが『 ホ ン モ ノ を 届 け る と 約 束 し
地元にトンボ帰り。地元のライブ
ます』 と 言 っ た と こ ろ で 消 費 者 に
ハウスでバンドを続けながら飲み
とって は 何 も あ り が た く な い 。 何
屋の店員、宅配ピザの配達、酒問
がその ブ ラ ン ド の ホ ン モ ノ な の か
屋のトラック運転手と職を転々と
をそも そ も 知 り ま せ ん か ら 。 約 束
した。 歳で今の奥さんと出会い、
するた め に は ま ず 消 費 者 に 伝 え な
100万円お金を貯めて ヵ月ほ
ければ い け な い 。 そ の 手 段 を 作 る
ど憧れのアメリカツアーに繰り出
ことが ブ ラ ン デ ィ ン グ だ と い う と
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Profile あんどう・りゅうじ
1971年、
愛知県岡崎市生まれ。高校卒業後、
ロックスターを夢見て上京するが挫折、
93年に岡崎の老舗木材会社に入社。作業員からスタートして営業マンに、更に住
宅材輸入にかかわり北米・中国へ。03年、社内ベンチャーで家具ブランド「SIKI」
を立ち上げ話題に。04年、上海で中国初のデザインギャラリー「KOO」をオープ
ン。フリープロデューサーとして東京で店舗プロデュースやブランド開発を手がけた
後、故郷に戻り、06年、ブランディングカンパニーDDRを設立。07年1月にサム
ライ日本プロジェクトを立ち上げる。07年8月、経済産業省より地域中小企業サポ
ーターに委嘱される。
地元FM局で番組のメインパーソナリティーもつとめる
藤氏のブランディングの戦いはこ
こから始まった。
まず考えたのは「雑誌に載りた
い」ということ。雑誌に乗ってい
るブランドは立派に見えるし、信
頼感も増す。自分がこれまで読者
として感じてきた素直な発想だった。
「 中 小 企 業 に と っ て メ ジ ャ ー な
雑誌に広告を出すのは意味が無
い。毎月何百万円もかけてバンバ
ン広告を打っている大ブランドに
太刀打ちできません。記事で取り
上げてもらうのにはどうしたらい
いのか。そこで目をつけたのが雑
誌によく登場するインテリアショ
ップがあること。商品提供先一覧
や協力先一覧として載っているこ
ともある。ならばよく雑誌に登場
するインテリアショップに自分た
ちの家具を置いてもらえれば掲載
されるチャンスがあるかもしれな
Business Chance 2011.4 8
9 Business Chance 2011.4
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いと考 え た の で す 」
思い つ い た ら す ぐ 行 動 。 何 度 も
電話し 、 興 味 を 持 っ て く れ た 店 に
はカタ ロ グ を 持 参 し て 説 明 し た 名
古屋や 東 京 の イ ン テ リ ア シ ョ ッ プ
が家具 を 置 い て く れ る こ と に な っ
た。す る と 目 論 見 は 当 た り 、 だ ん
だんと 取 り 上 げ て く れ る 雑 誌 が 1
誌、2 誌 と 増 え 、 8 ヵ 月 後 に は 合
計 冊となった。この間、広告費
は1円 も 使 っ て い な い 。 す る と 家
具を卸して欲しいと連絡をくれる
インテリアショップも増えた。
●会 社 名 :株式会社DDR ●本社所在地:愛知県岡崎市伝馬通2-8
●設 立 :2006年
●代 表 者 :380, 000円
●U
R
L :http://www.ddr38.com/l
力
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起業
世界
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を変
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「これまで営業では一軒一軒地
のだ。この店舗は中国の新聞や雑
ンドのブランディングディレクタ
道に回ってなんとか仕事を取って
誌に毎月3、
4誌は取り上げられ、 ーだった。
きたのに、雑誌に取り上げたこと
ドイツの国営テレビやイギリスの
地元に帰り新たな挑戦
で向こうから卸して欲しいとお願
メジャーなデザイン誌にも記事が
世界へ地方を売り込む仕事
いされる。この感激は大きかった」 掲載された。
2005年、安藤氏は会社を辞
さらに2003年、上海展開を
そのうち中国の企業から予想外
してフリーのプロデューサーにな
スタートさせた。東京に直営店を
の依頼を受けるようになった。
った。インテリアやギャラリーの
出すという選択肢もあったが、よ 「 う ち の ブ ラ ン ド も プ ロ デ ュ ー ス
実績から飲食店プロデュースの仕
り競争が少なく世界中に発信でき
してください」
事が多く舞い込んだ。東京で客単
る 場 所 と し て 上 海 を 選 ん だ の だ。
講演依頼も増えた。自動車のア
約半年の準備期間、体重を7キロ
ウ デ ィ の 中 国 本 社 に も 招 か れ た。 価4万円のイタリアンレストラン
や 飲 食 チ ェ ー ン の 店 舗 デ ザ イ ン。
減らしてようやく中国で始めての
当日、もう一人招かれていた講師
数多くの人と会って、多くの仕事
デザインギャラリーオープンした
は、世界的な有名なスーパーブラ
をこなした。
そんな折に出会ったのが、後に
「サムライ日本プロジェクト」を
立ち上げる、大岡屋の鈴木裕之社
長だった。そうあの「サムロック
サ イ ダ ー」 を 作 っ て い る 社 長 だ。
久 し ぶ り に 地 元 の 仲 間 を 見 つ け、
語り合ううちに地域ブランディン
グの情熱に火が付いて行ったのだ。
海外に憧れ世界を飛び回った青
年は、生まれた地に戻り、地域の
良いものを世界に発信していく仕
事を始める。一度は東京に淡い夢
を抱いて、打ち砕かれて帰ってき
たが、今度は大きな経験という武
器を持って帰ってきた。その戦は
まだ口火を切ったばかり。安藤氏
の見ている先は世界。これからさ
らなる挑戦が続く。
本も執筆している
る
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ーカ
ジメ
ン
チェ