人ついに全地に散る - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

人ついに全地に散る
旧約単篇
創世記の福音
人ついに全地に散る
創世記 11:1-9
よく知られたバベルの出来事です。最初の講解は 1973 年でした。「言葉の
混乱」という角度から取り上げています。それも単に諸言語の起源という語
学のテーマでも神話的な興味でもなく、人が神から離れたとき、お互いのコ
ミュニケーションが断絶すること。愛することも理解することもできなくな
る。そういう捕らえ方をしています。
最初の説教の 4 年後に、こんどはギリシャで、同じスピーチの改訂版を語
っています。アテネ市のカラパーヌ教会の夕拝。この教会は米軍基地の隣で
集会していましたので、夕拝の聴衆は半分アメリカ人、半分ギリシャ人でし
た。たいていは宣教師が英語でやって、ギリシャ人の通訳がつきましたが、
その晩は自分で通訳して one sentence ずつ、まずギリシャ語で話して、すぐ
英語で言い直すという自家通訳みたいのをやりました。「神が言葉を混乱さ
せなさったので、今夜は日本人がギリシャ語と英語を使ってお話しせねばな
りません」という前置きが受けました。
今日は少し視点を変えて、標題も「人ついに全地に散る」としました。4
節では「金輪際、散るものか!」と抵抗していた人間が、ついに主なる神に
よって全地の面に散らされて行く、というのが 8 節と 9 節です。この地を覆
って散乱するくだりは、一見神の裁きとも見られます。確かにそういう要素
もありましょう。しかし「全地に散る」ことを徹底的に嫌って抵抗したバベ
ルの人たちが、自力による統一を誇示するシンボルのような塔を建ててまで、
一か所に終結しようとしたものを、「神が全地に散らされたからである」と
いう、最後のリフレーンを見る限り、やはりこの散乱は元々主の意志であっ
て、ついにこのとき、人間の意志に反して主の意志が成就した……と見るの
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が、正しいのでしょう。
1.世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。 2.東の方から移動
してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。 3.彼ら
は、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれん
がを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。 4.彼らは、「さあ、天ま
で届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることの
ないようにしよう」と言った。 5.主は降って来て、人の子らが建てた、塔の
あるこの町を見て、 6.言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話し
ているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てて
も、妨げることはできない。 7.我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混
乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
この物語が伝えたいのは、「人間の文明そのものが神の意志に反する」と
いうことではないと思います。原始的で素朴であればあるほど神の意志にか
なう……というような考えは、単に昔人間の安易な感傷だと思います。よく
言われる言い方で、「神は田舎を作り、人は都会を作る」というのがありま
すけれど、これも違うでしょう。ここでは、文明そのもの、都市そのものが
断罪されているのではなく、「神に依り頼むことなしに、人間の力ですべて
ができることを実証しよう!」という目的での人間の団結と示威が、バベル
の大事業として示されていると思います。
そういう意味での人間の団結と、その団結から得られる安心感が、シンア
イの地バベルの事業でした。「神などなくても、十分やって行けるじゃない
か!」その自信を“馴れ合い”で保証し合おうという試みが、「塔のある町」
の建設計画でした。その思い上がりが命取りであったから、神はこの大都市
計画を破壊なさったのです。
8.主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめ
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た。 9.こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の
言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたか
らである。
ここには、「散らされたので」、「散らされたから」という言葉が繰り返
されます。これが 4 節の「散らされることのないようにしよう」という、人
間の宣言への神の意思なのです。私は、「クリスチャンがクリスチャン村を
作って、励まし合って住むのは主の意志に反する」とまでは言いませんが、
やはり神を仰ぐ者の使命は、お互い安心して生きられる同質の人間の砦にた
てこもるのでなく、全く異質の生き方の人たちの中で痛みながら軋みながら
住むことが大事なのではないかと思います。
その理由は多分、最初の人間アダムが「神の像」を掲げて、すべての被造
物に神を示したように、神と無縁の世界の中でやってこそ、それは生きて来
るのではないか!「散らばって孤立したまま」で、頼りないままで、神だけ
に頼って、他には当てにできるものを何一つ持たないで、「そうだそうだ!」
と調子を合わせてくれる者のいない世界で、一人一人が信仰の生き方をする
……そこにこそ意味があるからだと思います。
私は以前、教会成長運動の元祖マギャヴラン氏と、先代のクラークさんを
交えて語り合ったことがありますが、その時マギャヴランさんが、「クリス
チャンコミュニティをどうして作らないのか。同じ生き方をする兄弟が、互
いに刺激し合って縛られる位の共同体が力なのです」と言われたのに、とて
も反発を覚えたのを思い出します。
「バベル」lb,B' という地名が、「バラル」ll;B'(混乱させた)という意味
から来ているという、9 節の言葉は、今日では言語学的に全く関係が無いこ
とが分かっています。これはヘブライ語の駄洒落と言えば言い過ぎかも知れ
ませんが、一種の「言葉遊び」以上のものと考えてはいけないのでしょう。
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ここで、ヘブライ語の音の響きに慣れた人が聞いて、ウフッと言ったと思っ
て下さい。我々もよくやる洒落を、聖書の記者も使ったのです。ですから、
この記事が「バベル」の語源を示すために書かれた等と、真っ正直に考えな
いことです。またこの記事を言語の起源を明らかにするものと受け取るのも、
聖書の意図とは違うことになるでしょう。セム系の言語と、インド・ヨーロ
ッパ系の言語とが、どこから別れて行く……とかです。筆者に聞かせたら、
「えっ!」と絶句することは確かです。これはどこまでもユーモアなのです。
けれども、このバベルの物語は、そういう科学的……言語学的な次元でで
はなく、霊的次元(神と向き合って神の息を受ける次元)で、「人間の言葉
とは何か? 言葉は本質的に何のために与えられているものか?」という問題
と関わる……と言うことはできるかも知れません。
この物語の中で、塔の建設を失敗させるために、神が何をなさったかに注
目するのは、アメリカの聖書学者 Walter Brueggemann です。ブルッグマン
は 7 節の(新共同訳)最後の一句「聞き分けられぬように……」に注目しま
す。創世記の原文は《
W[m.v.yI alo rv,a]
》―直訳すると、「聞けないよう
に」“that they may not hear,”なのです。七十人訳(古代ギリシャ語訳)
は、《  》と訳しまし
た。「一人一人が、自分の隣人の声を聞かないように」です。
これは一つの強烈な暗示を与えてくれます。人間が神から独立を宣言して、
神に依存したくない、神の意志に縛られたくない。我々は自主独立で立つと
宣言するとき、神から与えられた「言葉」という貴重な宝がその命を失いま
す。それは、各人が話せなくなるのではない。表現できなくなるのではない。
言葉は飛び交い、意志も思想も有り余るほど溢れ切っているのに、隣人の声
を「聞く」ことが不可能になるのです。
神を「不要」と宣言した人間は、神の約束を信じることができなくなるだ
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けではなく、人間同志の信頼も、愛も成り立たなくなります。それは「自分
がすべて」、「自分の判断がすべて」だからです。他の人の視点や異質の考
え方は我慢がならないし、人に耳を傾けて「新しいことを受け入れる」用意
などはないのです。
言葉自体は氾濫するくらい豊かに行き来し、音声としても、記号としても、
文章としても、十分な言語活動が営まれているようでいながら、言葉は結局
全部、宙に消えて、その言葉を人格的に「聞くことがない」のです。これが
バベルの悲劇です。とすれば、この「主がそこで全地の言葉を混乱させた」
は、セム系と印欧系と何系が別れた……というような御愛嬌を教えるのでは
なくて、人間の罪は「言葉」という貴重な生きた賜物を死なせてしまう。「聞
く」ことがなくなれば、「語る」ことに何の力があろう! ―その破綻を示
すのが「バベル」の正体です。
ここで、使徒行伝の五旬節の記事を比較してみます。27 年前の私のスピー
チでは、「神の言葉」であるキリストによって、人と人とのコミュニケーシ
ョンが回復され、癒されたことを、結びで強調しました。「五旬節の出来事
は、言わば“ルベバ”であった」という洒落も使いました。これは創世記の
著者より次元の低い一種の“落洒駄”でありましょう。でもこの“ルベバ”
という発想は多分、間違ってはいないと思います。
私は、使徒たちが新しい言葉を「語った」ことに注目しました。私が言い
たかったのは五旬祭の異言そのものと言うより、この日に語られたキリスト
の福音が、「新しい、一つの言葉」だという意味です。ところで私の発想と
は対照的に、Brueggemann は、使徒行伝 2 章の中に何度か繰り返される「聞
く」という言葉に注目しています。五旬節の恵みの御業は、「聞かないよう
に」という“バベル”とは反対に、「聞くように」耳を開く奇跡であったと
言うのです。
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「だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話すのを聞いて……」
(2:
6)―「……どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞く
のか」(2:8)―「わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞
こうとは……!」(2:11)―「わたしの言葉に耳を傾けてください」(2:
14)―「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ……」(2:37)
私は、自分に聖書を教えてくださった師匠たちの中で、ジョージ・ベック
マンさんと、マーチン・クラークさんが、五旬節の奇跡について対照的なお
考えをお持ちであったことを思い出します。クラークさんは、聖霊が、語る
一人一人に働いて、学んだことのない「ほかの国々の言葉で」奇跡的に語ら
せた、ということを無条件に強調されました。これに対して、ベックマンさ
んは、それを「神の偉大な業を語る」内容として聞くことを可能にした、聞
き手の側への奇跡をも考えねばならないことを指摘されたと記憶します。今
から考えると、ベックマンさんのお考えも、一つの大事な点を押さえていた
ことに気づくのです。
私は、クリスチャンが自分たちだけの「クリスチャン村」を作ることに疑
念を表明しました。同じ原則は、私たちが自分と同じ福音理解、自分と肌の
合う神学や実践法の者同志で「そうだ、そうだ!」と囃し立て合って、他の
人の立場を「聞く」心を失うなという警鐘となるでしょう。特定の「信頼に
足る偉い先生」の周りに集まって、安心する人たちも、新しい“ババル”を
造る危険を冒しています。私は一部の指導者がよく使う“teachable な学び
手”という考えに、いつもアレルギーを催すのですが、その理由は、そうい
う「指導者から見て素直な、教え易い」素材との“馴れ合い”の中に、“現
代のバベル”の萌芽を見てしまうからです。「高い塔」を中心に「一つに団
結した」都市の幻をそこに感じ取る私の、これは単なるアレルギーなのでし
ょうか……。
もちろん、私たちは「自分とは異質」としか思えないものを、無条件で肯
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人ついに全地に散る
定する必要はありません。でも、相手が兄弟であることとへの尊重があれば、
その痛みを覚える程の「異質の」言葉を、逃げないで「聞く」だけの用意は
なければならないのだろうと、自分を戒めています。これは私という器の小
ささを示すだけと言われれば、弁解の言葉はありませんが、自分にとって
“teachable な学び手”とは凡そ程遠い人たちと、肌を逆撫でされ合いなが
ら、時に珍しく「聞いて」もらえたことを喜び、時にお互いに傷を残したま
ま、分れて行くような触れ合いを、身分相応に続けてみたいと、今も思い続
けています。
(90/10/28,交野)
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