第四屆東亞語文社會國際學術研討會: 日本研究的去疆界化與再疆界化 (日本研究の脱領域化と再領域化) 會議手冊 時間:2015年4月24日 星期五 地點:A會場(人文社會科學院演講廳 H1-110)、B會場(人文社會科學院 H1-111) 主辦單位:國立高雄大學東亞語文學系 協辦單位:越南河內國家大學所屬人文社會科學大學 國立高雄大學越南研究中心 贊助單位:中華民國科技部、國立高雄大學 目 次 一丶會議議程 二丶議事規則 三丶專題演講------------------------------------------------------------------------------------P1 1. 古代日本文学と中国文化―『今昔物語集』の龍を中心にして― (國立台灣 大學日本語文學系 陳明姿教授) ------------------------------------------------P2 2.私小説研究における越境と脱領域化---------------------------------------------P9 (國立廣島大學大學院 樫原修教授) 3.日本語の文における「事態」と「話し手」、そして「形式」―日本語文構造 の再領域化を目指して―------------------------------------------------------------P16 (仁濟大學日文日語學科 全成燁教授) 四丶論文發表(會場發表順、敬稱略)-------------------------------P26 A 會場:H1-110 第一場次 1. 「~ない」文の上昇調と下降調による発話意図の判定実験(洪心怡)P27 2. 程度副詞について(陳連浚)-----------------------------------------------------------P35 3. 日本文化と日本語教学との間の連動性について―新生医専応用日本語学科 を例として(涂美珠・野川博之)--------------------------------------------------------- P45 4. 台湾人日本語学習者の複合名詞アクセント習得の一考察(郭獻尹)--P55 第二場次 1. 漢日古語辞典編纂及び使用の伝統について(LA MINH HANG)-----------P64 2.日本語の音声単位とベトナム語の音声単位との対照研究(HOANG ANH THI) -------------------------------------------------------------------------------------------P75 3. ベトナムの小・中等教育における日本語教育事情および今後の日本語教育 の発展に関わる諸課題(NGO MINH THUY)(缺稿) 4. ファン・ボイ・チャウ(潘偑珠)の「国民国家」観の形成と日本(NGUYEN TIEN LUC)-------------------------------------------------------------------------------------------------P81 B 會場: H1-111 第一場次 1. 夏目漱石『心』英訳で読む「中 両親と私」―Meredith McKinney 訳の分 析―(徳永光展)---------------------------------------------------------------------------------P90 2. 斷詞 斷句標 記之 操作與 運用 ――以 日 譯中視 譯與 筆譯為 例 (林雅 芬) ----------------------------------------------------------------------------------------------------------P97 3. 新時期日本観光政策と官民協働に関する研究(郭子瑄)------------------P105 4. 国語伝習所及び公学校における漢文教授内容の変更について(安達信裕) --------------------------------------------------------------------------------------------------------P115 第二場次 1. 日韓語中的音韻詞組:以台籍學習者為主(林智凱)------------------------P125 2. 日語學習過程中學習情緒變化要因之比較分析(陳亭希・山藤夏郎)-----P133 3. 国学者藤井高尚の著作に見られる送り仮名表記(神作晋一)-----------P142 五丶演講者主持人評論人簡歷------------------------------------------------------P150 六丶發表者簡歷 -------------------------------------------------------------------------- P151 一丶會議議程 時間 08:30~09:00 09:00~09:20 議 程 報 到 開幕式 (A 會場:人文社會科學院演講廳 H1-110) 09:20~10:10 專題演講(中華民國) 介紹/演講/提問 主講人:陳明姿教授(國立台灣大學 日本語文學系 ) 研究領域:中(台)日比較文學 講題:古代日本文学と中国文化―『今昔物語集』の龍を中心にして― 主持人:深尾圓(國立高雄大學) 10:20~11:10 專題演講(日本) 介紹/演講/提問 主講人:樫原修教授(國立廣島大學大学院 綜合科學研究科 ) 研究領域:日本近代文學 講題:私小説研究における越境と脱領域化 主持人:何資宜(國立高雄大學) 茶 11:10~11:30 11:30~12:20 專題演講(韓國) 介紹/演講/提問 主講人:全成燁教授(仁濟大學 敘 日文日語學科 ) 研究領域:日本語學 講題:日本語の文における「事態」と「話し手」、そして「形式」―日本語 文構造の再領域化を目指して― 主持人:陳志文(國立高雄大學) 12:20~13:20 午 餐 13:20~13:45 13:50~14:15 論文發表 A 丶 B 會場 14:20~14:45 詳細議程請參照下頁 14:50~15:15 15:15~15:30 茶 敘 15:30~15:55 16:00~16:25 論文發表 A 丶 B 會場 16:30~16:55 詳細議程請參照下頁 17:00~17:25 17:25~17:35 閉幕式 【A 會場】 地點:人文社會科學院 H1-110 ※ 發表 20 分,提問 5 分 時間 題目 發表者 講評人/主持人 語學・教育學 13:20~13:45 「~ない」文の上昇調と下降調 洪心怡 による発話意図の判定実験 (國立高雄第一科技大學 副教授) 13:50~14:15 14:20~14:45 14:50~15:15 程度副詞について 陳連浚 蘇文郎 (南臺科技大學 助理教授) (國立政治大學 日本文化と日本語教学との間 涂美珠 日本語文學系 の連動性について―新生医専応 (新生醫護管理專科學校 用日本語学科を例として 副教授) 台湾人日本語学習者の複合名 郭獻尹 詞アクセント習得の一考察 (東吳大學推廣部 教授) 兼任講師) 茶 15:15~15:30 15:30~15:55 敘 漢日古語辞典編纂及び使用の LA MINH HANG 伝統について (The Institute of Hannom Studies 研究員) 16:00~16:25 日本語の音声単位とベトナム HOANG ANH THI 語の音声単位との対照研究 (河內國家大學・人文社會 大學教授) 16:30~16:55 ベトナムの小・中等教育におけ NGO MINH THUY る日本語教育事情および今後 17:00~17:25 (河內國家大學・外國語大 の日本語教育の発展に関わる 學東洋言語文化科學部 諸課題 學部長) ファン・ボイ・チャウ(潘偑珠) NGUYEN TIEN LUC の「国民国家」観の形成と日本 (胡志明國家大學・人文社 會科學大學 日本學科長) 葉淑華 (國立高雄第一 科技大學應用日 語系教授) 【B 會場】 地點:人文社會科學院 H1-111 ※ 發表 20 分,提問 5 分 時間 題目 發表者 講評人/主持人 翻譯・文化學 13:20~13:45 夏目漱石『心』英訳で読む「中 德永光展 両親と私」―Meredith McKinney (福岡工業大学教授) 訳の分析― 13:50~14:15 斷詞斷句標記之操作與運用──以 林雅芬 日譯中視譯與筆譯為例 (國立台中科技大學 林淑丹 助理教授) 14:20~14:45 新時期日本観光政策と官民協働 郭子瑄 に関する研究 (國立高雄餐旅大學 (文藻外語大學 日本語文系 副教授) 兼任助理教授) 14:50~15:15 国語伝習所及び公学校における 安達信裕 漢文教授内容の変更について (文藻外語大學 助理教授) 15:15~15:30 15:30~15:55 茶 敘 語 學 日韓語中的音韻詞組:以台籍學 林智凱 習者為主 (美國夏威夷州立大學 博士候選人) 16:00~16:25 陳亭希 因之比較分析 (南臺科技大學 (國立高雄大學 助理教授) 東亞語文學系 山藤夏郎 教授兼人文社會科 (南臺科技大學 助理教授) 16:30~16:55 陳志文 日語學習過程中學習情緒變化要 国学者藤井高尚の著作に見られ 神作晋一 る送り仮名表記 (南臺科技大學 助理教授) 學院副院長) 二丶議事規則 論文發表規則: (1)使用語言:中文、日文擇一。 (2)發表時間:每篇論文 25 分鐘(發表 20 分鐘/講評與提問5分鐘)。 (3)發表進行時,計時人員將舉牌三次。 第一次舉牌時間為結束前 3 分鐘 第二次舉牌時間為結束前 1 分鐘,發表者請準備結束 第三次舉牌表示時間結束,請停止發表。 講評提問規則: (1) 每一場次,各篇討論及評論時間共計 5 分鐘。計時人員將舉牌二次。 第一次舉牌時間為結束前 1 分鐘,第二次舉牌表示時間結束。 (2) 發問人發言前請先說明服務單位與姓名。每人以 1 分鐘為限,超過時間 工作人員將舉牌提醒,請停止發言。但若取得主持人許可者,得延長 1 分鐘。 日本の古典文学と中国文化 ―『今昔物語集』の龍を中心にして 陳明姿 一、 はじめに どの国の文化でも外国の文化とかかわる可能性がある。特に外国との交流が 頻繁であればあるほど、その国の文化は外国の文化とのかかわりあいが深いと 思われる。日本も古くから中国と頻繁に交流していたため、古代の日本には早 く中国文化とのかかわりが見られる。そして、そのような現象は当時の文学に も反映される。古代日本文学における龍には特にそういう様相が強く見受けら れる。そのため、ここでは特に龍に焦点をあて、試みに日本の古典文学と中国 文学とのかかわりを考察しようと思う。龍は現代人にとっては想像以上の動物 に過ぎないが、古代中国人にとっては実在した生き物である。河南濮陽の墓か ら発掘された仰韶文化(新石器時代、紀元前 5000 年から 3000 年まで)の中か ら貝殻でアレンジした龍の図形をしたものが見られたし、 『山海経』 『易経』 『左 伝』 『淮南子』 『荘子』などの古い文献においても、龍に関する伝説が多く記さ れている。中国には古くから龍にまつわる説話が多くあるものである。そして、 時代を降って、仏教の伝来とともに、インドや西域各国から、仏典や仏教説話 などを通して、さらに新たに龍に関する説話が多く中国に伝わってきた。その ため、六朝や唐代以後の文学において、いっそうバラエティーに富んだ龍の説 話が現れるようになった。そして、これらの龍の説話は日本と中国が頻繁に交 流していたもとに、多くの典籍(中文訳の仏典をも含めて)とともに日本にも 伝来した。『日本書紀』以来、多くの龍のキャラクターが日本文学に登場して きた。とりわけ『今昔物語集』の中に、各種の龍のキャラクターが現れるよう になった。今度の発表は多文化社会における文学を探求する一環として、特に 『今昔物語集』を中心に、日本文学の龍が中国の龍といかなる関連を有するの かを考察しようとする試みである。 二、『今昔物語集』における龍と中国の説話の中の龍 龍は『説文解字』によると、「鱗蟲之長、能幽能明、能細能巨、能短能長、 春分而登天、秋分而潛淵」1である。即ち、龍は変化自在、且水と深くかかわ っている存在だと考えられている。そのため、龍はしばしば水神、雨神として 文学に登場する。台湾の農民暦では今でもかならず「~龍治水」(竜が多いほ どその年の雨量が多い)とあることからもその一端から窺える。そして、こう いう考えも龍という漢字とともに日本に伝わった。『日本書紀』の中では、水 神の息女である豊玉姫の正体は龍だと語られていることからも古代日本人が 1 段玉裁『段氏說文解字注』宏業書局(1971、7) p.145 2 龍を水神として考えていることが明らかになった。2 又、龍を雨神として語られる例もある。 『今昔物語』巻第十四、四十一の「弘 法大師修請雨経法降雨語第四十一」にはその例である。 天下旱魃して、天皇をはじめ全国の人々が苦歎いている時、弘法大師が天皇 の命を受け、神泉苑で請雨経の法を修し、七日経つと、「壇ノ右ノ上ニ五尺許 ノ蛇出来タリ。見レバ、五寸許ノ蛇ノ金ノ色シタルヲ戴ケリ」3天筑の阿 達 智の善如龍王が現れ、まもなく西の方から黒雲が湧き出て、国中あまねく雨が 降ったという。当時では、そういう類の話が多くあるようで、 『宇治拾遺物語』 第二巻の第一話もその例の一つである。その話の中でも静観僧正の虔誠な祈祷 により「雲むらなく 大空に引き塞ぎて 龍神震動し 電光大千世界に満ち 車軸のごとくなる雨降」4ってきたのである。いずれも雨を降らして人々を旱 魃の苦しみから救い出してくれるのは龍だと語っている。(即ち、古代日本で も龍が雨を降らす能力を持っていると考えられていた。そのため、旱魃が起き ると、法が霊験な僧侶に龍神に雨を降らせるように修法してもらうのである。) 龍が雨を降らせるという話は早く日本にも伝わった『抱朴子』の中に見られ る。その話は凡そ次のようである。 秦の使者甘宗が西域での見聞を奏上することによると、 「外国方士」5で「神 呪」をよくするものがいる。川に臨んで息を吹くと、龍が浮んできて、最初は 数十丈の長さもあるが、方士が息を吹く度に、龍の身長が縮む。最後はついに 数寸の長さまで縮んでしまう。それを取って壷の中に入れて、わずかの水で飼 う。旱魃のところがあると聞くと、そこへ行って龍を売って雨を降らせるとい う。 この話は秦の時代の使者甘宗が西域での見聞を語ったような口調で書いた ものである。ここでの「方士」は僧侶の類のものだと思われる。 『大唐西域記』 のような仏教関係の本の中に、龍が雨を降らせる話がよく見られる。こういう 話は当時の中国人にとって、まだ珍しい話であったろうが、時代を降って、仏 教が盛んになるにつれて、僧侶が龍を召して、雲雨を興させる話も現れるよう になった。『太平広記』巻第四百二十一の中で、唐代の兵部尚書蕭昕をまつわ る次のような話が見られる。 蕭昕が京兆尹を勤めていた時、旱魃が起きたので、静住寺の天竺名僧不空三 蔵法師に龍を召して、雲雨を興すように頼んだ。三蔵法師は最初は龍を召して、 雲雨を興させれば、風雷の災も起きるから、かえって農作物に害を与えること になるといって断るが、蕭昕に再三に頼まれたから、やむをえず承諾した。三 蔵法師が修法して暫くすると、木の皮の上に小龍を置いて、蕭昕に渡して、曲 2 坂本太郎ら校注『日本書紀 上』岩波書店(1967、3 第一刷。1972、4 第 6 刷。)の p.167 には「天孫猶不能忍、竊往 之、豊玉姫方化為龍」とある。(圏点筆者) 3 馬淵和夫校注、訳『今昔物語集』小学館(1971、7 初版。1989、12 第十七版。)p.594 4 小林智昭校注、訳『宇治拾遺物語』小学館(1973、6 初版。1990、9 第十八版。)p.95 5 李昉『太平広記』巻第四百十八の「甘宗」新興書局(1969、12) 3 江に投げ入れるように言った。蕭昕が言われた通りにすると、俄かに暴雨が降 り出し、道路が水であふれて、まるで溝のようになったという。 僧侶が龍を召して、雲雨を起こす話はインドや西域から中国に伝わってから さらに日本に伝わったと考えられる。しかし、 『山海経』の中で「大樂之野 夏 后啓於此儛九代乗雨龍」6とあるように、古代中国の神仙思想では仙人や優れ た能力のある人も龍を使うことができると考えられている。そのためであろう か、中国の方では、僧以外の人でも龍を使って、雨を降らせる例が現れる。 『太 平広記』巻四百二十三の「豢龍者」の中で龍に雨が降らせるのは僧ではなくて、 処士であった。中国の処士には様々な異人がいる。その中で龍を使う術を持っ ている人がいても不思議ではない。僧を処士におきかえることはいわば中国文 化にあわせて書きかえたものだと思われる。しかし、それはやはり日本の習俗 とは異なる。そのため日本の方では、やはり、処士ではなく、僧侶を龍使いと して設定したのであろう。 又、雨を降らせる能力があるとはいえども、龍はかってに降らせることはで きない。『太平広記』巻四百十八の「李靖」を見ると、李靖が宿を借りる龍の 家に雨を降らせる天符が来た。龍母が家に息子がいないから李靖に頼むことに した。ところで李靖は天上界の規則を知らないから、龍母に言われた通りの雨 量を降らなかった。そのために大洪水になってその村の人が全滅した。龍母も それで天帝からきびしい処罰を受けることになったという。 「李靖」からも分かるように、中国の方では龍がいつどのぐらいの雨量を降 ればいいのか、かならず天帝の命令に従わなければなりません。さもないと処 罰されることになる。『西遊記』の中の龍王も天帝が命を下った雨が降るべき の時と量を守らなかったために、唐の大臣魏徴に首を切られてしまったのであ る。即ち、雨神龍は道教の最高神天帝に支配されていると考えられる。 『今昔物語』巻第十三第三十三話の中でも、龍がかってに雨を降らせるため に、殺された話が見られる。この話の中で、大梵天王をはじめとした仏法の守 護神達が国の災をなくすため、雨を降らせない。長い間雨が降らなかったから、 国中旱魃が起きた。龍は恩人の僧の難儀と天下の旱魃を救うために、雨を降ら せたが、そのため、罪を犯して、大梵天達に殺されてしまったという。7 この話は『法華験記』に基づいて書いた話である。そのため、龍を支配する 超自然界の力も仏法の守護神大梵天達だと設定されている。中国の方では雨神 龍が道教的色彩を鮮やかに帯びているのに対して、日本の方では仏教的色彩を 濃く持っているのである。 又、楚辞の中で「神龍失水而陸居、為螻蟻之所裁」とあるように、龍は海や 池などの水の世界では強い力を持ち、悠々自適の生活を暮らしているが、一旦 6 袁珂校注『山海経』「海外西経」里仁書局(2004、2)p.209 馬淵和夫校注、訳『今昔物語集』小学館(1971、7 初版。1989、12 第十七版。)p.435-437 参照 7 4 水から離れると、力を失ってしまう。『太平広記』巻四百二十一の「任項」で は、道士がまず呪術で池の中の水を涸し、その中の黄龍を食べようとする。と いうのは、水がなくなると、黄龍が神通力を失い、抵抗できなくなるのである。 しかし、黄龍が老人に化けてまえもって任頊に助けてもらうように頼んだから、 池の中の水が涸すと、任頊が大きな声で「天有命、殺黄龍者死」8と叫んで、 言い終わると、池の中の水が再び満ちる。三回もくりかえして叫んだから、道 士はついに黄龍を殺すことができない。その後黄龍から驪珠が酬られたという。 『今昔物語』の巻第二十の第十一話もこの考えをもとにして語った話である。 讃岐国の万能池の中の龍は、ある時池を出て、堤の辺に小蛇の形で蟠ってい るが、天狗に捕えられた。龍は力が強いから、俄かに食べられない。しかし、 水がないと、神通力を失い、飛ぶこともできないから、天狗に囚禁されたまま でいる。が、同じく天狗に捕えられてきた比叡山の僧から一滴の水でももらう と、力を取り戻し、僧を背負い、山の洞から飛び出して、自由自在に空を飛ぶ ことができるようになった。 同じく水から離れると力を失う龍についての話であるが、『今昔物語』の方 では登場人物が僧と天狗であるのに対して、中国の方では登場人物が道士と任 頊である。そして、任頊が黄龍を助けるときも「天有命、殺黄龍者死」と叫ん で、天帝に訴えるのである。この類の話も日本の方では仏教的色彩が濃いのに 対して、中国の方では、道教的雰囲気が漂っている。 しかし、「任頊」の中の龍は上述したキャラクターのほかに、もう一つ報恩 譚的要素をも帯びている。龍が恩人に珠や金餅を与える類の話は仏教説話の中 で多く見られる。『太平広記』四百二十に収められている『法苑珠林』の「倶 名国」もその一つである。 「倶名国」は僧祇律が語るような形で書かれている。 話の中にある商人が龍王の娘を助けたお礼に龍宮に案内されて、歓待された上 に帰りにさらに、龍女から八つの金餅をもらった。話の中の龍は従来の中国の 龍と違って六道輪廻の畜生道の生きものとして位置づけられた。そして、龍が 様々な苦しみから解脱するために、仏教の菩薩道に帰依したと語られている。 仏教的色彩を濃く帯びている。そして、こういう話はインドや西域から多く中 国に伝わって、さらに日本に伝わったろう。『今昔物語』にも多く見られる。 しかし、中国の方では仏教的なものと道教的なものと両方あるのに対して、 『今 昔物語』の方では中国の話を伝える震旦部の第十巻第三十八話(青龍が恩返し のため猟人に珠をあげた)に特に仏教的色彩が見られないのに対して、本朝部 にあるのはやはり仏教的な色彩の強いものである。ここでは『今昔物語』第十 六巻の第十五話「仕観音人行龍宮得富語第十五」を見てみよう。 観音の虔誠な信者である若い男がある日如意作りの男につかまった小蛇(龍 王の娘)を助けた。そのお礼に龍宮に案内され、帰りに龍王から金の餅をもら って生涯富み栄えたという。 8 『太平広記』巻四百二十一 新興書局(1969、12)p.3430 参照 5 これはさきの『法苑珠林』の中の「倶名国」と同じく仏教説話の中の龍女の 報恩譚の話型属しているだと思われる。 次は『今昔物語』震旦部に収録されている巻十の第二と第三の劉邦について の話に目を移ろう。 劉邦の母親劉媼がある日池を通りすぎる間に、雷が鳴り響いたので、こわく て堤に低く臥したが、雷がとうとうその上に落ちた。その雷は実は龍王である。 やがて劉媼が懐妊し、劉邦が誕生された。龍の子である劉邦が将来天子になれ るので、芒山と崵山(今の安徽省崵山県)に隠れていた時、そこの空に常に吉 兆を示す五色の雲が現れた。秦の始皇帝もそれに気づいたが、ついに彼を捕え ることができなかった。そして、劉邦のほかにも皇帝になる可能性のある龍の 子がいたが、作者がさらに赤龍の子である劉邦をしてライバルの白い龍を切り 殺させた。ライバルも消された以上、劉邦はその後、当然順調に帝王になるの である。この二つの話は明らかに『史記』巻八の高祖本紀第八の話をふまえて 語ったものである。中国では漢に至って、龍がいかに地位が高くなったことか は劉邦のこの伝説からも窺われる。 勿論『今昔物語』の方では『史記』ほど詳しく書いていないが、両者の間の 最大の違いは、劉邦が白蛇を切った時間の違いにある。『史記』の方では劉邦 が白蛇を切ったのは彼が亭長を勤めている時であるのに対して、『今昔物語』 の方では、彼が項羽を打ちに行く途中である。そのため、白蛇に象徴される人 物もそれぞれ解釈が異なっている。『史記』の方では秦の皇帝を匂わせている のに対して、 『今昔物語』の方では項羽だと思わせるようになる。9しかし、ど ちらも劉邦がもう一人の皇帝になる可能性のライバルを倒したこととして解 釈できると思われる。 漢の高祖の後も龍王は王の象徴とされている。日本の方においても『台記』 巻三の中に堀川院がなくなってから、北海の龍王に生まれ変わったという話が 見られる。10何故龍に生まれ変わったのか、ここでは説明されていないが、特 に帝王と関連付けて語る様相が見られない。その文章の中で、定国が堀川院を 慕うために、「出家之後、期年而造龍頭舟、乘之、以佛経置於內懸帆、南風烈 時、浮北海」11とあるところからすると、 「仏経」の力によって何かをしようと する意図が見られる。よって、この話はむしろ仏教と関係のある話だと思われ る。天皇が死後龍に生まれ変わったことは『平家物語』にも例が見られる。建 徳門院徳子は平家一門が滅亡された後、夢の中で安徳帝及び平家一門が龍宮城 に生まれ変わって、龍畜経にある苦しみを受けたことを見たとある。即ち、安 徳帝たちは非業の死を遂げたため、恨みと苦しみをもっていて、ついに成仏で きずにいて、龍畜道に陥ってしまうのである。それと考え合わせると、堀川院 9 小峯和明校注『今昔物語集 二』岩波書店(1999、3)P.297 増補「史料大成」刊行会『台記』臨川書店(1965、11)p.93~94 11 同注 10 10 6 が死後、龍に生まれ変わったことは、むしろ龍畜道に陥ってしまうことをもの 語っている。 中国の方においても、死後龍に生まれ変わる話が見られる。『太平広記』巻 第四百十八の「梁武后」はその例である。 梁武后は梁の武帝の后で、非常に嫉妬深い女性で、武帝が即位した後、諸般 の用事で忙しくて、すぐ彼女を皇后に冊命する余裕はなかった。彼女はそれで 怒って、井戸に身投げした。周りの人たちがすぐ助けに行ったが、もうすでに 遅れだ。后は忽ち毒龍に生まれ変わって、煙炎が井戸の中から高く燃えのぼっ たので、誰も近づくことができない。12恨みをもって死んだために成仏できず に毒龍に生まれ変わったというのである。この話は従来の中国の龍の伝説と明 らかに色彩が異なっている。梁の武帝は非常に虔誠な仏教信者で、彼にまつわ る仏教説話が多くある。 『両京記』は唐代の韋述によって書かれたものである。韋述はどこからかこ の故事を聞いて『両京記』を書くに際して、この話を取り入れたのかもしれな い。この話自体は仏教が中国に伝わってからできた話だと思われる。『大唐西 域記』や『法苑珠林』の中にも龍に関する説話が多く収められている。中では 恨みや悪願、悪報で龍に生まれ変わったものが多く見られる。そして、一旦龍 として生まれると、熱風、熱砂に身を焼く苦、暴風雨に住居、着衣を破られる 苦、金翅鳥に食い殺される苦などのような苦しみを耐えなければならない。龍 として生まれたのは「前世の罪」によると考えられている。13そういった龍の 話は『今昔物語』の中に多く取り入れられた。巻三の第七、第八、第九、第十 一などはその例である。 仏教思想の中での龍のイメージは明らかに中国の従来の龍のそれと異なっ ている。そのため、仏教文化が中国に伝わってから、中国文学の中の龍のキャ ラクターもいっそうバラエティーに富むようになったのである。 三、 結び 以上『今昔物語』を中心にして、同じく多文化社会である中国と日本との両 国の文学における龍のキャラクターの関連及びその異同を考察してみた。また いくつかの課題が残されているが、およそ次のようなことがいえよう。 中国において古くから、様々な龍の伝説が見られるが、漢に至ると、龍の地 位が非常に高くなり、帝王の象徴だと尊められていた。それに対して、仏教の 世界では龍がむしろ畜生だとされている。龍として生まれ変わったのは前世の 罪によることと考えられている。仏教説話の中にも種々な龍の説話がある。伝 入した仏教文化の影響のもとで、中国の方ではさらにバラエティーに富んだ龍 12 注 8 同掲書 p3406 7 の説話が作り上げられた。そして、これらの龍の説話が漢字文化とともに、日 本に伝来し、日本文学にも影響を及した。天竺、震旦、日本の説話を集大成し た『今昔物語集』を通して考察すると、龍のキャラクターは実に多彩である。 まず旱魃の時、龍が雨を降らせ、人々を苦しみから助け出す能力をもつと考え られていた。しかし、雨を降らせる能力があるとはいえ、かって降らせること はできない。かならず大梵天王などの神仏の命令に従わなければ、罪を犯し、 首を切られるになる。そして、強い力を持ち、水の中で自由自在に逍遥できる が、一旦水を離れると、神通力を失い、天狗に囚禁される身になってしまうこ ともある。又、宝珠や金餅など世にも稀な宝物の持ち主でもある。それらの宝 物を恩人や信仰虔誠な仏教信者などの善人に与えれば、その善人が忽ち豊かな 長者になるという。逆に人間から明珠などの宝物を奪取する悪役になる場合も ある。 即ち、『今昔物語集』も中国の文化、文学を受け入れたために多彩な龍のキ ャラクターを語りあげたのである。 8 私小説研究における越境と脱領域化 樫原 キーワード 修/広島大学 私小説研究、越境、脱領域化 1.はじめに 本シンポジウムのテーマは「日本研究の脱領域化と再領域化」であるが、あ まりに広大なテーマであるので、ここでは私小説研究を事例として、日本文学 研究における越境と脱領域化の問題について考察したい。 その前提として、最初に現代の日本人が一般的に有する「文学」の概念につ いて確認しておきたい。こうした点を確認するには文学事典よりも一般の国語 辞典を見た方がよいが、たとえば『広辞苑』第六版(岩波書店、2008 年)には、 「①学問。学芸。詩文に関する学術。②(literature)言語によって人間の外界 および内界を表現する芸術作品。詩歌 小説 物語 戯曲 評論 随筆などか ら成る。文芸。」云々という説明が見られる。現代日本人の誰もがこのような明 快な説明が行えるわけではないが、彼が「文学」という言葉を聞いて思い浮か べるのはこの②に類した意味内容であると思われるし、我々が通常「文学研究」 という時の「文学」もこの意味であると思われる。逆に①のような用い方は歴 史的用法といったものであり、通常はこの意味で「文学」という言葉が用いら れることはない。 実は、この『広辞苑』の説明には「文学」という語の歴史が反映している。 ②の意味は、明治以降に、英語の literature が表現しているまったく新しい領 域として見出されたものであり、その領域を指すのに「文学」という既存の語 が用いられたのである。したがって、それ以前には「文学」はまったく別のも のを指す言葉として用いられていたのであるが、②の意味が流布した結果、現 在では以前の意味の方が思い出されなくなっているのだと考えられる。明治以 降に見出された「文学」領域は、19 世紀以来の literature 概念を反映して、人 間にとって普遍的な、輝かしい領分として意識されるようになり、それ以後は 実際の制作も考察(研究)も、その内側で行われ続けて来たように見受けられ る。 「文学」概念の拘束力は、日本においてはことのほか強かったように思われ る。 一方、1960 年代後半以降のヨーロッパにおいて、そのような「文学」概念が 普遍的でも自明でもなく、歴史的 文化的所産であること、 「文学」は特権的な 9 領域ではなく、様々な言説の一つに過ぎないとみなされるようになってきたこ とも周知の事実であろう。日本人は、近代的な「文学」概念を知ってから 100 年も経たずに、今度はその自明性を疑う論説に接したわけだが、そのような歴 史を踏まえると、文学研究の問題はどのように見えてくるだろうか? 以下で は私小説研究に即してその点を考察する。 2.私小説概念の成立と久米正雄の議論 「私小説」という語の、現在知られているもっとも早い使用例は宇野浩二の 小説「甘き世の話」(『中央公論』1920 年 9 月)であるが1、その中で宇野は、 最近の小説には「無暗に「私」といふ訳の分らない人物が出て来て」、その人物 の造型はなされないまま「妙な感想のやうなものばかりが綴られ」たものが出 現しており、その結果、 「小説の主人公の「私」は皆作者その人のことであつて、 従つてその小説は悉く実際の出来事のやうに読者がいつとなく考へるやうにな つた」と述べている。 「私小説」という用語の出現とともにその基本概念も成立 していることがわかるが、それが批判的なニュアンスで用いられていることも うかがえよう。 実は、この「私小説」に類似した意味内容を持つ語は、明治末期から大正期 にかけて多数出現している。楽屋落小説、身辺雑記小説、友達小説、告白小説、 一人称小説、反吐小説などであるが、その早い例である正宗白鳥の「随感録」 (『読売新聞』1909 年 3 月 3 日)は、「楽屋落小説」は「中の事実を知らぬも のには極めて興味の少ないものであ」り、小説としては認められないというと ともに、「作品中の人物を作者自身と見做して彼此云ふ読者批評家」を批判し ている。これが「私小説」と重なり合う小説を問題にしていたことは明らかだ が、異なるのは、一方が、物語内容、あるいは方法に特化したネーミングであ ったのに対し、「私小説」はそれらを統合する呼称となった点である。「私小 説」という語は、それぞれの語が示唆してきた問題を全体的に捉える視座を提 供したということだろう(樫原 2014)。 ここで注意したいのは、これらの語が否定的なニュアンスを含んだ用語であ る点である。正宗白鳥や宇野浩二からの引用に垣間見えるように、最初の議論 は制作態度の安易さとか小説的造型の不足などに対する批判の文脈で展開され ている。さらにいえば、これらの批判は、事実をそのままに描くだけでは「文 学」にふさわしい芸術性は実現できないという批判であったといってよい。 こうした見方に対して真っ向から反論したのが久米正雄の「「私」小説と「心 1 ここでは「「私」小説」という形で、「私」にカギ括弧がつけられている。以後様々な表 記が行われているが、使用頻度が増すにつれてカギ括弧が脱落するなどして現在の用語が 定着する。 10 境」小説」(『文芸講座』7、14 号、1925 年 1、5 月)である。久米は「私はか の「私小説」なるものを以て、文学の、-と云つて余り広汎過ぎるならば、 散文芸術の、真の意味での根本であり、本道であり、神髄であると思ふ。」とい う。なぜなら、自分には「芸術が真の意味で、別な人生の「創造」だとは、ど うしても信じられない。 (中略)私に取つては、芸術はたかが其人々の踏んで来 た、一人生の「再現」としか考へられない」から、いわゆる本格小説が「「他」 を描いて、飽く迄「自」を其中に行き亘らせる」ものだとはいっても、 「それと て他人に仮托した其瞬間に、私は何だか芸術として、一種の間接感が伴ひ、技 巧と云ふか凝り方と云ふか、一種の都合のいゝ虚構感が伴つて、読み物として は優つても、結局信用が置けない」という。「結局、凡て芸術の基礎は、「私」 にある。それならば、其私を、他の仮托なしに、素直に表現したものが、即ち 散文芸術に於いては「私小説」が、明に芸術の本道であり、基礎であり、真髄 であらねばならない」とするのである。したがって、 「問題とすべきは、只その 「私」なるものが、果して如実に表現されてゐるか否か、にかかる」が、この 「如実に」というのは単に即物的な意味ではなく、 「其処には必ず一つの、ある コンデンサーを要する。「私」をコンデンスし、-融和し、濾過し、集中し、 攪拌し、そして渾然と再生せしめて、しかも誤りなき心境を要する。」とも述べ ている。 この久米の見解は、後に小林秀雄がいうように2、卓見だとはいえないが、 「当 時多数の文人達が、抱いてゐたといふよりは寧ろ胸中奥深くかくしてゐた半ば 無意識な確信を端的に語つ」たためか、驚くほどの影響力を持つことになる。 芸術が現実の一人生の再現であるという久米のテーゼ自体普遍性を持つもので はないが、 「芸術」の名をもって批判されてきた私小説が、ここでは同じ「芸術」 の名をもって称揚されているわけである。 ここで煩雑きわまる私小説論の歴史を俯瞰する余裕はないが、否定から絶賛 にいたる議論のさまざまを溶かし込んで私小説という概念は定着したといえる。 いわゆる私小説の実作を見る我々の眼は、そのような議論の堆積によって、あ らかじめ曇らされていたということができる。 3.志賀直哉の読まれ方 「「私」小説と「心境」小説」を書いた時、名前こそ明示していないが、久米 正雄の念頭に志賀直哉の存在があったことはほぼ確実である。志賀は久米の論 の理想的なモデルであったと考えられるが、逆に久米らの論の出現以降は、そ の枠組みを通して志賀直哉の小説が読まれるようになる。すなわち、志賀の小 2 「私小説論」(『経済往来』1935 年 5~8 月) 11 説は実生活の体験を忠実に再現=表象したものであり、平凡な日常を描いたも のに過ぎないが、高い心境のゆえをもって高度の芸術性に達している、といっ た見方である。 志賀直哉論においては、こうした見方に志賀の生活史がプラスされる。父親 との不和から和解に至る生活史が座標軸として置かれ、その座標軸の上で(実 生活上の)志賀の心境の安定度といったものが推測されて志賀物語ともいうべ きものが形成され、個々の小説の理解もその座標軸にそって行われる。 具体的に見てみよう。たとえば須藤松雄は次のように書いている3。 「濠端の住まひ」は、大正三年夏の松江市の生活を描いている点では、「小 品五つ」の中の「家守」(大正三年)と同様である。前に説明したように、 家守と、それを殺さないではおられない嫌悪とが、自然界に存在するどうす ることもできない矛盾として、否定的にしるされていた。悲劇を起こしがち な自我貫徹の方式は否定しはじめたが、そうかといって、調和的世界は十分 に根を下ろしていないという暗い転換期から「家守」の作は生まれていた。 ところが、同じ松江の生活を扱かいながら、「濠端の住まひ」の方は、(中 略)自然と調和した安らかな世界として描かれている。 松江生活の事実としては、「家守」にしるされたような自然関連も、「濠 端の住まひ」にしるされたようなそれも、それぞれ何らかの程度で含まれて いたに違いない。しかし、大正三年という段階では、「家守」の方を書かな いではおられなかったこと。大正二年から五年までぐらいの、暗い転換期を 経過し終わり、父との和解も実現した約一〇年の後には、同じ松江生活を扱 かいながら「濠端の住まひ」の方が作られたこと。ここに問題はある。つま り、前者の段階では、樹立されていなかった調和的自然関連が、後者の段階 では、志賀文学の基調になっていることが物語られているであろう。それだ けにまた「濠端の住まひ」には、「城の崎にて」「焚火」などのような緊迫 感や深い陰影は認められないのであって、等しく大正二年から五年までとい う特別な時期の自然体験を扱かいながらも、この作が、「城の崎にて」「焚 火」などのようには重視されないのも、理由あることに思われる。 ここには深刻なトートロジーが存在する。二つの作品の質の差は、志賀の生 活史から想定される、作品以前の(実生活を生きる)志賀の心境から説明され 3 『志賀直哉の文学』(桜楓社、1963 年。1972 年改訂。引用は改訂版による。) 12 ているが、その志賀の心境の推移を小説以外で実証的に証明するものはない。 (志賀直哉の心境の移り変わりを説明してくださいといわれると、結局小説を 示して説明するしかない。)しかも、この理解は、久米正雄の私小説論を完全に 反復しているということができる。先に久米正雄の影響力といったのはこうい うことである。ここで須藤は、志賀直哉の小説を私小説だと思うことによって、 久米正雄の理解の枠組みも同時に受け入れており、志賀直哉の作品を対象とし て考察しているつもりで、実は久米の論の内埒をなぞっているのである。 もちろん、こうした見方を打破する試みは様々に行われている。たとえば、 「和解」に関しては近年多くの読み直しが行われており、この小説が、事実の 再現というよりは、まさに小説的(フィクショナル)に造型されたものである ことが明らかにされてきている4。 しかし、私小説という問題を全体として考えた時、こうした試みは未だ不十 分である。外部から、この枠組み自体を切断するような視点が必要だと思われ る。 4.外部からの視点 私小説は、近代日本特有の小説形式として、長く問題にされてきた。どちら かといえば、研究の対象というよりジャーナリズム上のホットな問題として議 論されてきたと見られる。たとえば中村光夫は、日本の近代文学史特有のあり 方(歪み)を原因として私小説形式の発生の原因を論じたし(中村 1950)、政 治思想史学者の丸山眞男は日本社会の後進性のあらわれとして私小説を論じて いる(丸山 1949)5。私小説は日本近代文学の中心的問題としてだけでなく、 文学を超えた日本社会の問題としても議論されてきたのである。 しかしその過程で、そもそも私小説とはなにかといった、私小説概念自体を 問い直すような試みは、寺田透をほとんど唯一の例外として(寺田 1954)6、 なされなかったように思われる。久米正雄をはじめとする歴代の論者によって 4 私も「濠端の住まひ」を対象として同様の試みを行っている。 「志賀直哉の方法に関する 覚書-「濠端の住まひ」をめぐって-」(『日本研究』2 号、1986 年 8 月。のちに「「濠端 の住まひ」という時空」と改題して、[樫原 2012]所収)参照。 5 丸山は「近代精神とは「フィクション」の価値と効用を信じ、これを不断に再生産する 精神」だという。これに対し、前近代社会においては精神が感性的自然から分化独立して いないため、感覚的経験に引きずりまわされ、 「媒介された現実」=フィクションの価値や 効用を認めることができないのだと述べる。日本は、その意味でヨーロッパの中世に相当 する前近代社会であり、私小説が行われることも、政治において近代的な組織や制度を媒 介しないで社会的調整が行われることも、そうした後進性のあらわれだと論じている。 6 「 「私小説」に関する省察から「私小説論」がはじまるのではなく、「私小説論」によっ て「私小説」にあれこれの性質が押しつけられて来た傾きが大きいといわなければならな い。それは帰納的概念というより半ば帰納的半ば演繹的な直覚的判断の上に立つ概念であ る」という指摘がある。しかし、論自体はその問題を徹底して追究してはいない。 13 「私小説」には様々な意味内容が付与されてきたにもかかわらず、 「文学」自体 が自明であると思われていたのと同じように、 「私小説」もまた自明であると思 われていたのかもしれない。 そのような、内部からは盲点となっていた問題点の存在が、外部からの視点 によって示された。イルメラ 日地谷=キルシュネライトの『私小説-自己暴 露の儀式-』(平凡社、1992 年)や鈴木登美の『語られた自己-日本近代の私 小説言説-』(岩波書店、2000 年)などの業績がそれであるが、それらは二重 の意味で外部性を帯びていた。 (すなわち、国境の外で書かれたものであると同 時に、「文学」を外部から相対化する視点を取り込んだものであった。) 日地谷=キルシュネライトは、日本の私小説研究は理論的裏付けや学問的厳 密性を欠いた、 「ヨーロッパ的文学研究の立場からすれば問題の多い」ものであ り、真に私小説研究の名に値する包括的な研究書は存在しないといい、私小説 というジャンルの学問的定義自体が存在しないことを批判している。彼女の定 義によれば、 「事実性」 (作品は作者が経験した現実を直接再現しているという、 作者 読者間の暗黙の了解)と、「焦点人物」(語り手および作者と視点を共有 する登場人物=主人公)とが私小説の基本要素である。彼女はその二つを構造 要素とする私小説の構造モデルを提出したわけだが、鈴木は、日地谷=キルシ ュネライトは「私小説は読者がこれら二つの原則を採用するときに実現するコ ンテクスト依存のジャンルである」としているにもかかわらず、実際にはそれ らの特徴がテクストに内在するものと考えてしまっていると批判している。 そこから鈴木はさらに大胆な視点の転換を図っている。様々な「言説」に関 する理論を踏まえて鈴木は、「「私小説」という語は、明確にこれと特定でき る記号内容(シニフィエ)をもたない、強力で流動的な記号表現(シニフィア ン)として広く流通し、影響力の大きいひとつの批評言説を生み出した。」と 述べる。次のような指摘が注目される。 私小説は、これまでの通説に反し、対象指示上、主題上、形式上の何らか の客観的な特性によって定義できるようなジャンルではないのである。(中 略)読者が当のテクストの作中人物と語り手と作者の同一性を期待し信じる ことが、そのテクストを究極的に私小説にする。私小説はひとつの読みのモ ードとして定義するのが最も妥当である。それは、私小説とは単一の声によ る作者の「自己」の「直接的」表現であり、そこに書かれた言葉は「透明」 であると想定する、読みのモードである(いま挙げた諸特性は、これまでは 私小説の「内在的な」特徴と見なされてきたものである)。 14 すなわち、「この言説は、すでに客観的に確固として存在する特定のテクス ト群を、単に記述的に表したものではな」く、逆に、この言説によって「いわ ゆる私小説テクストなるものの諸特徴が広く定義され、その過程で、特定のテ クストにそうした特徴が投影されて、見いだされたのであ」り、「私小説の系 譜とその集成は、このより大きな言説のなかで遡及的に構築され、それによっ て生み出された。」とするのである。これは、私小説というジャンルを実体的 なものと見て、その特性を究明しようとしてきた(その結果、私小説という現 象を客観的に解明したというより、新たな私小説言説を付け加えてきた)従来 の通説の視点を 180 度転換する新しい見方であるといえよう。 もちろん、こうした指摘によってすべての問題が解消されるわけではない。 しかし、日本近代文学研究という制度の中で、我々がどのような行為をなして きたのか、「文学」にいかに深く囚われてきたのかを自覚するきっかけにはな ると思う。我々の今後の研究はそうした自覚の上に立つべきではないだろうか。 参考文献 イルメラ 日地谷=キルシュネライト(1992)『私小説-自己暴露の儀式-』 平凡社(原著はドイツ語。1981 年刊) 樫原修(2012) 『「私」という方法-フィクションとしての私小説-』笠間書院 樫原修(2014) 「私小説概念の成立」 『私小説ハンドブック』私小説研究会(編)、 勉誠出版 小林秀雄(1935.5~8)「私小説論」『経済往来』 久米正雄(1925.1、5)「「私」小説と「心境」小説」『文芸講座』7、14 号 丸山眞男(1949.10)「肉体文学から肉体政治まで」『展望』 正宗白鳥(1909.3.3.)「随感録」『読売新聞』 中村光夫(1950.2~5)「風俗小説論」『文芸』 須藤松雄(1963)『志賀直哉の文学』楓桜社(1972 年改訂) 鈴木登美(2000)『語られた自己-日本近代の私小説言説-』岩波書店(原著 は英語。1996 年刊) 寺田透(1954)「私小説および私小説論」『岩波講座文学第五巻』岩波書店 宇野浩二(1920.9)「甘き世の話」『中央公論』 15 日本語の文における「事態」と「話し手」、そして「形式」 ―日本語文構造論の再領域化を目指して― 全 成燁(韓国·仁済大学) 要 旨 本稿は、日本語の文構造論について、従来の陳述論とモダリティ論との関わりを概観し たあと、モダリティ論のように話し手から切り離された客観的要素として命題を設定し、 文の構造を「命題+モダリティ」といった異質の2要素による階層構造として捉え、言語形 式を命題とモダリティとにいかに振り分けるかという観点からではなく、発話の中心はあ くまでも話し手にあり、話し手が事態をどのように捉えたのか、そしてそのことが言語形 式の選択とどう関わっていくのか、という点を追究すべきであるという基本的認識のもと に、話し手情報という概念を導入しつつ、文の構造分析と具体的形式の用法記述を行った もので、このような見方は日本語文構造論の再領域化を試みるものと言える。 キーワード:日本語文構造、陳述、モダリティ、話し手情報、段階的認識判断 1.はじめに 本稿は、広くは伝統的日本語学の文構造論、とくに日本語モダリティ論の文に対 する見方、つまり、文が異なった二大成分(「詞」と「辞」、「客観」と「主観」、 「コト」と「ムード」、「言表事態」と「言表態度」、「命題」と「モダリティ」 など)から成り、その二大成分が互いに対立するものとして、また「話し手」から離 れているものとして捉えられていることへの問題意識から、「話し手」を文(発話) の中心に据えて、「事態」と「認識」、そして「形式」との相関関係から日本語の 文構造を捉えようとした筆者の研究成果の一部をまとめたものである。 2.先行研究の文構造観 2.1 陳述論の文構造観 日本語の文構造観について、先行研究、まず「陳述論」の文構造観から、そのあ と、モダリティ論の文構造観の一部を大雑把にまとめて示したい。 次の1)は、山田の「陳述」の説明の一例である。山田の「統覚作用」というのは、 簡単に言ってしまうと、「意識の統合作用」で、次の例では「である」による意識 の統合作用の言語的現われが「陳述」であると、説明できるだろう。 1)山田孝雄:陳述を用言に求める。 吾輩ハ ネコ デアル (主位) (賓位) 統覚作用 → 「である」による言語的な現われ =陳述 一方、時枝は、「陳述」の働きを山田のように用言に求めず、 次のように助動詞や 16 助動詞相当の零記号にあるとする。次の■が助動詞相当の零記号であるが、これは 引き出しの「取っ手」、「引き手」を象徴化したものであるという。 2)時枝誠記:陳述を山田のように「用言」に求めず、助動詞や助動詞相当の零記号に認める。 裏の小川がさらさら流れる■ 今日は波の音も静か 今日もまた雨 だ。 か。 陳述といふことは、話手の主體的表現に屬することであり、國語に於いては、客體的表 現と、主體的表現とは一般に分離して別の語を以て表現され、この兩者の表現上の相違を以 て、語分類上の根本基準とする立場に立つ時、用言に於ける右のやうな事實(筆者注;「犬 が走る。」「氣候が暖い。」)をどのやうに扱ふかは重要な問題である。外形だけから考へ るならば、陳述は確かに前例の「走る」「暖い」といふ用言に累加され、含まれて居るやう に見える。しかしながら、主體的表現である辭は、常に客體的な表現である詞とは別の語に よって表現され、かつそれは客體的なものを包み、統一する關係にあるといふ國語の一般原 則に立つならば、陳述は次のやうな零記號に於いて表現されてゐると見ることが出來るので ある。 犬が走る■ 氣候が温い■ (『日本文法 口語篇』219p)(下線筆者) 図1 c b ■=机の抽斗(ひきだし)と引手(ひきて)の関係を 象徴化したもの。 a 時枝の「入子型構造」:主体的表現である「辞」が客 体的表現である「詞」を包み、統一する。 結局、上記の時枝の文は、次のように図示できると思う。 図2 詞 辞 裏の小川がさらさら流れる ■ 今日は波の音も静か 今日もまた雨 だ か 以下、その他の陳述論の概略をまとめて示しておく。 三宅武郎(1934):陳述を用言、助動詞のみならず、終助詞や「。」「!」「?」など にも認める。 大野 晋(1950):文は、事柄にそれに対する話し手の気持ちが加わって文になる。 17 渡辺 芳賀 「問い」「命令」「禁止」「要求」「願い」「感動」などの話し 手の気持ちを「陳述」と呼ぶ。 実(1953):用言などが持っている働きを「叙述」、終助詞が担っている機能 こそが「陳述」であるとする。渡辺により、文成立論が文の述部 の構造解明へと進んだと言える。 綏(1954):渡辺が文を完結させる営みと言語者めあての働きかけとを全同と していると批判。「芝居でも始まるかね」の終助詞「か」は、聞 き手志向でもないし、話し手自身を相手取っているのでもなく、 「芝居でも始まる」という渡辺の叙述の内部にあって働いている 語でもないとして、これは「芝居でも始まる」という「事態」に ためらいの気持ちが向けられているものとする。次の図3が、それ である。 図3 芝居でも始まる か ね これらの陳述論は、いずれも次に見る日本語モダリティ論に多大な影響を与える。 とくに芳賀の文構造観は、次の仁田の文構造観にほぼそのまま受け継がれていく。 日本語の「モダリティ」研究は、英語学などの「modality(=助動詞の mood的意味)」 ではなく、「陳述論」を基盤として発達してきたものであると言える。 2.2 モダリティ論の文構造観 1)命題の対立概念としての(階層的)モダリティ論:仁田義雄など。 「文は、客観的な事柄内容である「命題」と話し手の発話時現在の心的態度(命題 に対する捉え方や伝達態度)である「モダリティ」からなり、モダリティが命題を包 み込むような形で階層構造化されている」 図4 言表事態 言表事態 めあてのモダリティ 発話・伝達の モダリティ 2)叙法論としてのモダリティ論:尾上圭介など。 「言語学上の本来の「モダリティ」という概念は言表事態や「主観性」一般のこ とではなく、専用の述定形式をもって非現実の事態を語るときに生ずる意味」 3)岡部嘉幸(2013)の分類: A:文において客観的内容を表す「命題」と対置される「話し手の主観的把握」(話 し手の発話時における心的態度)を「モダリティ」と呼ぶ立場-仁田、益岡、日本語 記述文法研究会など。 B:文によって述べられる事態(内容)と話し手の現実との関係性を述べることに関わ る意味を「モダリティ」と呼ぶ立場-尾上、野村、大鹿など。 18 Bの立場の構文観(岡部(2013)p90から引用) 図5 文= 主 語 事態の中核 + + 述 事態のあり方 語 =内容構成的側面 判断作用的側面 ①事態内容を判断作用が包み込むという階層的構造ではなく、事態内容を表す側面 と判断作用を表す側面とが述語の2側面として併存(あるいは相即(≒「融合」)して いるとするもの。 ②終助詞やいわゆる陳述の副詞などはモダリティ形式とみなされなく、述語形式の みがモダリティ形式とされる。 4)日本語研究の「モダリティ」とは、次のようにまとめて示すことができる。 広く一般:「話者の主観的な判断を示す形式」 仁田:「話し手の発話時における事態の把握の仕方や話し手の主観的な表現態度 が文法形式によって表現されたもの」「モダリティは、命題内容を重層的に 包む」 宮崎:「文の述べ方についての話し手の態度を表し分ける、文レベルの機能・意 味的カテゴリー」 尾上:「非現実の領域に位置する事態を語るときのみに用いられる専用の述定形 式がモダリティ形式で、それによって表現される意味がモダリティである」 本稿:(本研究は「モダリティ」という用語を用いないが)「客観的で文脈的な 「話し手情報」によって、文の述べ方についての、段階性を有する話し手の 認識的判断の表し分けに関わる、文脈レベルの機能・意味的カテゴリー」 というふうに言えると思うが、本研究の特徴として、 ①「事態」は話し手の外にあるもの、話し手から離れているものではなく、むし ろ話し手を中心に据えて捉えるべきであると考える。 ②形式にも「モダリティ形式」ではなく、話し手の、話し手情報による「認識的 判断と関わる形式」と、それとは関わらない、話し手の対聞き手への「伝達に関 わる形式」とが存在すると考える。 ③認識的判断は二分法ではわり切れなく、段階的な言語現象として捉えられる。 ④このような見方はいわゆるモダリティ形式の多義性の説明に有効である。 ⑤モダリティ形式の意味用法は、発話の文脈から得られる話し手情報と事態内容 との相互作用の帰結であると考える。 ⑥つまり、語彙的な基本意味はあらかじめ形式に内在されるのではなく、最も多 く用いられる用法が基本的意味となるのである。 といったようなものが挙げられよう。 それでは、本研究の文構造観を具体例といっしょにご覧いただきたい。 19 図6<モダリティ論の捉え方> 文(発話) 客観 言表事態 命題 話者の外 主観 言表態度 モダリティ 話者の内 … … <モダリティ論の見方> 図7 <本研究の見方> 言語形式 命題(事態) 図8 主体(話し手) 話し手 事態への認識 (言語)形式 図9 本研究の文構造の捉え方 事態 話し手 (事態への) 認識 形式 (絡み合い) 事態の内容 判断 伝達 <認識の段階> 命題 判断にかかわる要素 伝達にかかわる要素 <形式の段階> 発話全体の 意味用法 例文)A;ほら、あそこに大きい木があるだろう。 B;うん。 図10 事態;「ほら、あそこに大きい木がある(話し手と聞き手の目に見える場所 20 に大きい木が存在する)」 話し手 事態への認識 形式 事態の内容;「あそこに大きい木があるかどうか」 話し手情報;視覚的に直接捉えている 話し手判断;断定 伝 達;聞き手有り。 「ほら、あそこに大きい木 があるだろう」 認識の段階において散在する言語要素 命題;「あそこに大きい木がある」 H;Ф(=無標の形式) D;「ほら」「だろう」「↗」 あそこに 木 大きい ある だろう ほら が 文の用法;「断定」+「知らせ」 注:「P」は「命題」、「D」は「伝達段階」 「H」は「判断段階」、「↗」は「上昇 図11 S D1 ほら S1 調のイントネーション」を示す。 D2 ↗ だろう Pn H Ф あそこに大きい木がある・・・ そして、次のような例は、図12と図13のように捉えることができる。 例文; 彼女も、その前後の飛行機で、東京へ戻ってくるだろう。 図12 事態;「彼女も、その前後の飛行機で東京へ戻ってくる(話し手とは 直接かかわりをもたない、実現していない内容の事態が存在す 21 る)」 話し手 事態への認識 形式 事態の内容;「彼女が・・・飛行機で・・・戻ってくるかどうか」 話し手情報;NSH(=話し手や聞き手とはかかわりをもたないもの) 話し手判断;推し量りの内容として捉える 伝 達;必ずしも聞き手を前提としない 「彼女もその前後の飛行機 で東京へ戻ってくるだろう」 認識の段階において散在する言語要素 命題;「彼女もその前後の飛行機 で東京へ戻ってくる」 H;「だろう」 D; Ф 東京 へ だろう 前後 も 彼女 戻ってくる で その 飛行機 の 文の用法;「推量」 図13 S S1 D Ф Pn H だろう 彼女も・・・飛行機で・・・戻ってくる・・・ 3.事態内容に対する話し手の認識的判断と形式の関わりの諸相 さらに、様々な言語状況においての、 話し手情報による事態内容に対する話し手 の認識的判断と形式との関わりを見よう。ここでは、「だろう」「ようだ」「~ (し)そうだ」などの推量形式や可能性を表す「かもしれない」、そして「確信」 「当然視」の意味を表す「はずだ」、「疑い」の意味の「(の)だろうか」などの形 式の、話し手情報による事態内容との関わりを表にまとめて紹介することにしたい。 いずれも、事態内容に対する話し手の捉え方には段階性が認められることが分かる。 1)A;ほら、あそこに大きい木があるだろう。 22 B;うん。 2) 彼女も、その前後の飛行機で、東京へ戻ってくるだろう。 例文 「だろう」の用法 事態内容への捉え方 推し量り度が 話し手情報度が 例 1) 断定・知らせ 事態内容を視覚的に直接捉えてい る、断定的 0% 100%(に近い) 例 2) 推し量り 不確か、話し手・聞き手とは関わら ない 高い 低い 3)(新聞のテレビ番組欄を見ながら)今日は野球の中継はないようだな。(早津(1988)の例) 4)(医者が患者に)扁桃腺炎のようですね。 5)どうやら、秀夫とジョーの間には、別のやばい話があったようだ。(仁田(1989)の例) 例文 「ようだ」の用法 事態内容への捉え方 推し量り度が 話し手情報度が 事態内容を(が)、視覚的に/専門領 例 3)、 断定避け・婉曲 域のものなので、確かなものとして 4) 捉えている、断定的 0% 100%(に近い) 不確か、話し手・聞き手とは関わら ない 高い 低い 例 5) 推し量り 6)「何を食べに行く?」と私は訊いてみた。「イタリア料理なんてどうかしら?」 「いいね」「私の知ってるところがあるから、そこに行きましょう。わりに近くよ。材料が すごく新鮮なの」「腹が減った」と私は言った。「ねじでも食べられちゃいそうだ」 「私もよ」と彼女は言った。(世界の終り) 7)見あげると、青い空に白と鼠色の雲が重なりあい、ひと固まりの黒い雨雲が、南のほうか ら速い速度でひろがりつつあった。「夕立が来そうだな」と栄二がその雨雲を見ながら云っ た。「いそごうか」(さぶ) 8)主任の席を見ると、彼はどこかに出かけたらしく姿がなかった。三原は、メモに「鎌倉に 行きます」とだけ書いて、主任の机の上に置き、警視庁を出た。これから鎌倉に行くのでは、 帰りが夜になりそうであった。(点と線) 例文 「~(し)そ うだ」の用法 事態内容への捉え方 例 6) 比喩 断定的、実現する可能性がないことを 知っている 0% 100%(に近い) 例 7) 観察的 印象、直前 不確か、実現していないが、実現の可 能性が高い(実現しようとしている) 低い 高い 例8) 思考的 推し量り 不確か、思考的、実現していない 高い 低い (根拠がない) 推し量り度が 話し手情報度が 9)もし、下の人からその下へと、将棋倒しに人が倒れたら、どんなことになったか、考えても ぞっとする。それに、すぐ近くに、この初老の医師がいて、手当てを買って出てくれたのも 幸運だった。 「骨には異常ないと思うが、一応レントゲンを撮った方がいいかもしれないね」とその医 師は付け加えた。(女社長に乾杯!) 23 9)' ??「・・・骨には異常ないと思うが、一応レントゲンを撮った方がいい可能性があるね」 10)「自宅へは戻っていないようです」 「そうか。どこへ行っちまったんだろうな、全く」 「申し訳ありません。ほんのちょっとウトウトした隙に……」 「ともかく、この近辺を捜すんだ。まだ近くにいるかもしれない」 「はい」(女社長に乾杯!) 例文 「かもしれな い」の用法 事態内容への捉え方 例9) 婉曲・主張 確かなもの、実現済みのもの、話し手自 身と直接関わる、描写的 0% 100%に近い 可能性・推し量 事態の内容自体が不確か、根拠が薄い、 り 確かさの低い度合いを示す副詞と共起 高い 低い 例10) 可能性度が 話し手情報度が 11)この男の年齢からして、まだ年ごろの娘があるとは考えられない。 しかし、あと十数年たって、自分の娘が、かつて自分が、他人の娘にしたようなことを、 こんどは他人からされたとなったら、ということを考えたことがあるのだろうか。 もし、そういうことをすこしでも考えていたら、かりそめにも嫁入り前の人様の娘に手を 出すなんてことは出来ないはずなのである。 (停年退職) 12)「井筒君は、今夜、奥さんと子供さんを連れて、のうのうと映画を見にいっているはずで すよ。僕が電話をしたら、そういっていましたから」 秀子に、そういう情景が見えてくる ようであった。(停年退職) 13)「しかし、いいことだよ。近ごろの青年にいちばん欠けているのは敬老精神だ。これは、 目に余る。が、その中では、まァまァな方だろう」 「でもないんですが」 「たしか、矢沢さんに年ごろの娘があったはずだが」 「…………」(停年退職) 例文 「はずだ」の用法 事態内容への捉え方 例11) 強い確信+余地がわず か 強い確信、当然視 例 12) 例 13) 推し量り度が 話し手情報度が 低い 高い(信念) 確信+当然視+余地を 確かではないか確信している、 残す 話し手が直接捉えている 低い 高い(根拠) 思い込み+当然視+余 地が多い 高い 低い 不確か、推し量り 14)しかし、時子を、自尊心というたった一つの特徴を中心に考えて、わかるなどといってよ いものだろうか。もちろんそんな簡単なことで、時子の気持ちがわかるなどと言えるわけが ない。(さきに愛ありて) 15)正面玄関を出て見上げると、この二十六階建アパートが、高さに比べ幅がひどく狭いのに 気がついた。薄いウエハースを縦にしたような格好で、見るからに不安定である。一体、地 震には耐え得るのだろうか、と思いながら見上げていると、誰かが私に道を尋ねた。 (若き 数学者のアメリカ) 16)廊下で、スリッパの音が聞えて来て、部屋の前でとまった。 「入ってもいいだろうか」章太郎の声であった。秀子は、ちょっと緊張したようであった。 すぐ、イスから立って、畳の上に、きちんと坐った。 「どうぞ」郡司道子がいった。(停年退職) 24 例文 「(の)だろうか」の用法 例14) 強い主張、反語 例 15) 不信感の疑い 例 16) 柔らかい質問 事態内容への捉え方 割合 話し手情報(度)が 事態内容を確信し、それを主張する 4% (15/391) ある(高い) 話し手情報が衝突する、食い違いが 18% ある、「~A かどうか(=B)」の、 (72/391) 「裏の意味(=B)」で捉えている ある(高い) 情報を求めて聞き手に質問する 9% (36/391) ない 参考文献 大鹿薫久(1999)「叙法小考」『日本文藝研究』50巻4号 pp17-31 関西学院大学日本文学会 大野 晋(1950)「はじめて文法を教へる時に」『国語学』第5集 pp23-41 国語学会 岡部嘉幸(2013)「モダリティに関する覚え書き」『語文論叢』No.28 pp75-96千葉大学文学部 奥津敬一郎(1978)『「ボクハウナギダ」の文法』くろしお出版 尾上圭介(1989)「文法論-陳述論の誕生と終焉-」『国語と国文学』5月号 pp49-65 ――――(2001)『文法と意味Ⅰ』くろしお出版 神尾昭雄(1990)『情報のなわ張り理論』大修館書店 全 成燁(2005)『話し手の文法─文の意味構造と話し手の認識的判断の体系─』pp.77-162図書出版J&C ――――(2010)「「(し)そうだ」に関する一考察」『日語日文學』第45輯 pp.69-88 大韓日語日文学会 ――――(2011)「「かもしれない」と「にちがいない」についての一考察―事態の内容に対する話し手の認識的 判断との関わりから―」『日語日文學』第49輯 pp.41-60 大韓日語日文学会 ――――(2012)「「はずだ」に関する一考察―事態内容に対する話し手の認識的判断との関わりからー」『日語 日文學』第53輯 pp.99-114 大韓日語日文学会 ――――(2015)「(の)だろうか」形式における「疑い」についての一考察―事態内容に対する話し手の認識的判 断との関わりから―」『日語日文學』第65輯 pp.67-86 大韓日語日文学会 時枝誠記(1941)『国語学原論』岩波書店 ――――(1950)『日本文法 口語編』岩波書店 仁田義雄·益岡隆志編(1989)『日本語のモダリティ』くろしお出版 仁田義雄(1991)『日本語のモダリティと人称』ひつじ書房 ――――(1997)『日本語文法研究序説 日本語の記述文法を目指して』くろしお出版 芳賀 綏(1954)「陳述とは何もの?」『国語国文』23巻 pp11-34 京都大学国語学国文学 早津惠美子(1988)「「らしい」と「ようだ」」『日本語学』4月号 pp46-61 明治書院 益岡隆志(1991)『モダリティの文法』pp108-123 くろしお出版 三宅武郎(1934)「音聲口語法」『国語科学講座Ⅵ』 pp43-71 明治書院 宮崎和人(1990)「現代日本文の<判断のモダリティ>の体系と構造について」『岡大国文論稿』第18号 pp54-72 岡山大学 ――――(2002)「認識のモダリティ」『新日本語文法選書4 モダリティ』pp121-171くろしお出版 山田孝雄(1936)『日本文法学概論』寶文館 渡辺 実(1953)「敍述と陳述―述語文節の構造―」『国語学』第13・14集 pp26-41 国語学会 ――――(1971)『国語構文論』塙書房 J.R.SEARLE (1979) Expression and Meaning. Cambridge University Press. F.R.PALMER (1986) Mood and Modality.Cambridge University Press. 用例採集資料 (女社長に乾杯!)=『女社長に乾杯!』赤川次郎 (点と線)=『点と線』松本清張 (世界の終り)=『世界の終り』村上春樹 (若き数学者のアメリカ)=『若き数学者のアメリカ』藤原正彦 (さぶ)=『さぶ』山本周五郎 以上、CD-ROM版新潮文庫の100冊(1995)新潮社 (停年退職)=『停年退職』源氏鶏太 (さきに愛ありて)=『さきに愛ありて』藤原審爾 以上、CD-ROM版新潮文庫の絶版100冊(2000)新潮社 25 「~ない」文の上昇調と下降調による発話意図の判定実験 洪心怡・高雄第一科技大学副教授 要旨 「~ない」は発話のイントネーションにより「質問」「誘い」「否定」「確 認」など、さまざまな意図に表現できる。本稿では、意志動詞の否定形で終わる「~ ない」という文末形式を採り上げ、台湾における日本語学習者がイントネーション の上昇調と下降調の違いにより「誘い」「否定」の2つの発話意図を弁別できるか を聴取実験により検証した。被験者はJLPTにより分けられた習得レベルの異なる日 本語専攻者70名と非日本語専攻者90名である。判定実験は強制二分法で行われ、実 験語は「行かない」と「食べない」の2つの「~ない」文を用いた。実験の手法と しては、まず、意図弁別の能力を調べるために、「誘い」「否定」の2つの意図を 込めて発話された「~ない」文を聴取させたうえで、それぞれの発話がどのような 意図で発話されたかを判定させた。次に、前文提供の効果を調べるために、 「今夜、 お祭りがあるの。行かない↗」のように、前文の情報が提供された同じ「~ない」 文をもう一度聞かせ判定させた。その結果、前文提供の効果が認められたことと、 前の文脈とは逆接関係にある「~ない」文のほうが比較的弁別しにくいことが示さ れた。これは学習者がイントネーションより文脈依存で発話意図を理解することを 示唆している。 キーワード イントネーション 発話意図 「~ない」文 文脈依存 1. はじめに 日本語では発話意図は文末の意味や語形の要素によって決まる。たとえば、「何 曜日?」「行かないか?」のように、文中に疑問詞か疑問終助詞がある場合には、 イントネーションが上昇か下降かに関係なく、文は相手の返事を促す質問文である (鮎沢1990)。しかし、疑問終助詞「か」がない文の場合には、文末のイントネー ションが上がれば「行かない?」となり、相手の行動を促す誘いの意味の文になる が、下がれば「行かない。」となり、否定の意思表示になる。さらに、同じ「行か ない」という文はイントネーションの変化により、疑問、問い返しなど発話意図を 弁別する機能がある。つまり、意思動詞の否定形で終わる文は、イントネーション が上昇か下降かにより、発話意図がいろいろに変る。「行かない」と書かれている ものそれだけでは、発話意図が不明で、イントネーションが加わることによりはじ 27 めてその発話意図が確認される。本研究は台湾人日本語学習者が学習初期で直面す る「~ない」文の二つの発話意図、「誘い」および「否定」を弁別できるかを明ら かにするものである。学習者が日本語の「~ない」文のイントネーションを聞いて、 発話意図を聞き分けられるのかを調査した上で、前文情報の提供とどのように関与 しているのかを明らかにし、習得のプロセスの解明を試みた。 2. 先行研究及び研究目的 イントネーションは発話意図を表現する働きがあるが、日本語学習者にとっては、 イントネーションの変化によるの発話意図の違いを理解することは容易ではなく、 イントネーションが上昇したのか、下降したのか、平坦なのかを聞き分けられない 人が多い。しかし、音声言語としての日本語を習得するには、イントネーションの 習得が必須である。よって、音声教育を実施するに当たっては、学習者のイントネ ーションの知覚の実態やイントネーションの特徴を聞き取る能力がどの程度ある のかを知る必要があり、そのために、日本語における文末イントネーションの研究 が進んでいる(森山1989、鮎澤2003、戸田2008、福岡2012)。 「~ない」文の語末イントネーションに関する先行研究では、発話意図の分類に 着目するものが多かった(蓮沼1993、張2004、三枝2004、三木2008)。これらの研 究では、イントネーションの違いにより「否定」「問い返し」「肯定」「推量・確認 要求」の4つの発話意図に分けられることが報告されている。また、学習者を研究 対象としたものでは、日本語母語話者との比較において、イントネーションが十分 に習得されていないという結果が示された(土岐哲1990、大塚1997、稲田2005、三 木2008)。このように「~ない」文の語末イントネーションに関する先行研究は少 なくないが、意志動詞の否定形で終わる「~ない」文における聞き取り調査の研究 は見当たらなかった。しかしながら、否定意図の下降調と誘い意図の上昇調の違い は日本語学習の初期に対面する問題であり、学習者にイントネーションが話し手の 表現意図・心的態度の伝達に重要な役割を担っていることを提示できる最初の実例 である。学習者が二つの発話意図を弁別できるならともかく、できなければ音声教 育を実施するに当たって、学習者の「~ない」文に対するイントネーションの知覚 の実態やイントネーションの特徴を聞き取る能力がどの程度あるのかを知る必要 がある。 3. 聴取判定実験 3.1 目的 実験の目的は台湾人日本語学習者の、上昇調と下降調の「~ない」文の発話意図 の弁別能力を明らかにすることである。具体的に、以下の4点を解明する。 28 (1) 発話意図の弁別能力を専攻非専攻者別、日本語能力別に検討する。 (2) 発話意図の弁別能力が上昇調と下降調の違いに影響されるか。 (3) 発話意図の弁別能力が前文情報の提供に影響されるか。 3.2 実験語 判定実験は、「行かない」と「食べない」の2つの「~ない」文を用い、強制二 分法で行われた。実験の手法としては、意図弁別の能力を調べるために、「誘い」 「否定」の2つの意図を込めて発話された「~ない」文を聴取させたうえで、それ ぞれの発話がどのような意図で発話されたかを判定させた。 3.3 被験者 被験者は JLPT により分けられた習得レベルの異なる日本語専攻者 70 名と非日 本語専攻者 90 名である。そのうち、N1 が 22 名、N2 が 35 名、N3 が 22 名、N4 以下が 81 名である。よって、被験者は日本語専攻非専攻者別に、専攻者グループ と非専攻者グループのようにグループ分けされており、日本語能力別に N1~N4 以下のようにレベル分けされている。 3.4 実験内容 実験内容は提示条件の異なる「前文なしテスト」と、「前文ありテスト」からな る。前文なしテストは単独発話「行かない」「食べない」の2文に対し、イントネ ーションの違いで誘い意図の上昇調と否定意図の下降調からなる4項目である。前 文ありテストは前文なしテストで使った「行かない」「食べない」の2文の前に、 誘い意図とは語意的に順接関係のある文をそれぞれ挿入して構成された4項目から なるものである。各項目に5秒の間隔を置いてあり、あわせて8つの項目を1つの音 声ファイルに編集した。この音声ファイルを用いて、東京方言話者5名に聞き取り テストを行ったところ、100%の正答率が得られ、誤答は見られなったため、この 音声資料を使用することにした。表1は実験内容を示したものである。 表 1 実験内容 実験文 (1)行かない?↗ (2)行かない。↘ 前文なしテスト (3)食べない?↗ (4)食べない。↘ (5)今夜お祭りがあるの。行かない?↗ (6)今夜お祭りがあるの。行かない。↘ 前文ありテスト (7)おいしそうでしょう。食べない?↗ (8)おいしそうだね。食べない。↘ 29 発話意図 誘い 否定 誘い 否定 誘い 否定 誘い 否定 3.5 実験手続き 実験の実施に当たって、ウェーブ上で回収する方法をとることにした。まず、被 験者の背景調査、そしてテスト内容について提示条件の違いの説明、回答方法の説 明がある。つぎに、回答画面には各項目が提示されており、被験者に音声を聞かせ ながら、「一緒にする」「しない」のいずれかを強制判断させる。各項目は次の項 目が提示されるまでの5秒間に回答する。テスト自体は5分程度である。基本的には パソコン上で実施したが、音声資料をダウンロードし、オーディオ機器と回答用紙 によって実施することもあった。研究協力者が出向いて実施した場合、ヘッドフォ ンの着用を義務付けた。 4. 結果と考察 4.1 専攻非専攻者別にみた分析 専攻非専攻者別にみた正答率を図1に示した。 100% 75% 50% 25% 0% 1 2 3 4 5 6 7 8 87.1% 74.3% 88.6% 97.1% 97.1% 91.4% 95.7% 88.6% 非専攻 85.6% 81.1% 72.2% 83.3% 88.9% 80.0% 85.6% 53.3% 専攻 図 1 専攻非専攻者別に見た正答率 専攻者では項目2を除き、すべて8割以上の正答率を示しているが、非専攻者では 正答率が53.3%~88.9%で、90%を超えることはなかった。また、専攻者の正答率 が非専攻者より高いことは、項目2以外の項目に共通している。両者の正答率の差 を詳しく見ると、項目2では非専攻者のほうが正答率が高かったが、項目3、項目4、 項目6、項目7、項目8では専攻者のほうが高く、10ポイント以上の差が見られた。 特に、項目8では、専攻者の正答率が88.57%であるのに対し、非専攻者の正答率は 53.33%で、両者の違いが目立っている。以上のことから、専攻者は比較的「~ない」 30 文の発話意図を正しく判定できるのではないかと思われる。t検定を行ったところ、 専攻者は非専攻者より正答率が高いことが確認された(p<.05)。これは専攻者が非 専攻者よりイントネーションを習得できることを示しているが、非専攻者グループ には学習初期の者が多く、専攻者グループには上・中級学習者が多いということを 考えると、この結果は日本語能力の違いに影響される可能性を考えなくてはならな い。以下では日本語能力別に検討した。 4.2 日本語能力別にみた正答率 専攻者および非専攻者による結果の違いが、日本語能力の差に起因する可能性を 挙げたが、専攻者グループの場合、日本語能力試験(JLPL)がN4の者からN1のも のまでが混在しており、日本語能力に大きなばらつきが見られる。日本語能力の差 がこの判定実験の正答率にどのように反映されているかを見るため、すべての被験 者を日本語能力別にグループ分けし、それぞれの項目別正答率を図2に示した。 100% 75% 50% 25% 0% N1 N2 N3 N4以下 1 2 3 4 5 6 7 8 95.5% 90.9% 95.5% 100.0% 100.0% 95.5% 100.0% 90.9% 85.7% 62.9% 91.4% 97.1% 94.3% 88.6% 94.3% 80.0% 81.8% 77.3% 86.4% 100.0% 95.5% 90.9% 95.5% 86.4% 85.2% 80.2% 67.9% 80.2% 88.9% 79.0% 84.0% 54.3% 図 2 日本語能力別に見た正答率 上昇調と下降調の違いにより意図弁別能力に違いがあるかを検討するために、項 目1と項目2、項目3と項目4、項目5と項目6、項目7と項目8、のような組み合わせで 比較した。その結果、正答率では (1)項目1が項目2より高い、(2)項目4が項目3より 高い、(3)項目5が項目6より高い、(4)項目7が項目8より高い、の4点が4レベルを通 して一致している。その中で、(1)と(3)では、誘い意図の「行かない」は否定 意図の「行かない」より高い正答率であり、この傾向は前文を入れた場合も変わら ないことがわかった。一方、(2)と(4)では、否定意図の「食べない」は誘い意 図の「食べない」より高い正答率を持っているが、否定意図と語意上の逆接関係に 31 ある前文を入れた場合、否定意図の正答率が下がったことがわかった。以上のこと から、上昇調と下降調の違いが弁別能力に影響を与えるということには繋がらなか った。 次に、前文提供の効果を調べるために、項目1と項目5、項目2と項目6、項目3と 項目7、項目4と項目8、のような組み合わせで比較した。その結果、正答率では、 (1)項目5が項目1より高い、(2)項目7が項目3より高い、(3)項目4が項目8より高い、 の3点は4レベルに共通して見られる。N1、N2、N3では、項目6が項目2より高いこ とを示しているが、N4以下では項目2が項目6より1ポイントだけ高いことを示して いる。以上のことから、前文提供により誘い意図では正答率が上がる傾向が見られ るが、否定意図では逆に正答率が下がることがわかった。 ただし、正答率が正答数に基づいて算出された結果の場合、同じ項目では、前文 なしの場合に正答であったものが前文提供により誤答になったという被験者が見 られた一方、前文なしの場合に誤答であったものが正答になったという被験者が同 時に存在する場合、集計された正答数が変わらないことになる。単に正答率に基づ いて前文提供の効果を検討すると、前文提供による正答数と誤答数の消長の変化が 見失われてしまう。つまり、正答率で前文提供の効果を検討するのは大まかな傾向 としか言えず、本当に前文の提供が発話意図の判定に役立つかどうかは確認できな い。そこで、前文提供が発話意図の判定に影響を及ぼしているかどうか、前文を提 供したことの効果が正しく反映されているかどうかについて調べるためには、集計 された正答数ではなく、前文の有無による正答数、誤答数の変化で検討する必要が あり、なおかつその方法をとることが合理的である。以下表2はその変化を示した ものである。 表 2 前文の有無による正答数・誤答数の変化 項目1 項目3 正答数 誤答数 正答数 誤答数 項目5 項目6 正答数 誤答数 正答数 誤答数 134 4 110 12 正答数 項目2 14 8 27 11 誤答数 126 1 109 34 正答数 項目4 18 15 2 15 誤答数 正答数 誤答数 正答数 誤答数 項目7 項目8 前文の提供が正答数に影響するかを調べるために、マグニマー法で独立性の検定 を行った。その結果、項目1と項目5、項目2と項目6、項目3と項目7にはそれぞれの 32 間に有意差が認められた。このことから、学習者に前文情報を提供させることは発 話意図の判断に役立つことがわかった。さらに日本語能力別にそれぞれ検定を行っ たところ、N1では前文の有無に影響されなかったが、ほかのレベルでは前文の提供 による影響が認められた(p<.05)。これは、日本語能力の上達にともなって、発 話意図を正しく聞き取れるようになり、イントネーション習得が進んでいる、とい うことを示唆している。 一方、項目8は前文の提供により正答率が高まるどころか、前の文脈とは語意上、 逆接関係にあるためか、前文提供により正答率が下がる傾向が見られた。独立性検 定を行ったところ、項目4と項目8で有意差が認められ(p<.001)、前文の提供が 逆に発話意図の判断に困難をきたすものになることが明らかになった。このことか ら、学習者にはイントネーションの上昇・下降で発話意図を判断するというより、 前文の文意で話し手の表現意図を理解する、という文脈依存の特徴があることがわ かった。さらに、日本語能力別に調べたところ、日本語能力が上達していくうちに、 文脈依存の傾向がなくなり、N1では前文提供による影響が確認されなかった(p >.05)。このことから、学習初期では、前文の文脈により影響されやすく、単純に イントネーションに基づいて発話意図を判定するのが難しい。しかし、日本語能力 が上達していくうちに、文脈依存の影響がなくなり、イントネーションで発話意図 を判別できるようになるのであろう。 5. まとめ 本研究は台湾の日本語学習者を対象に、「~ない」文のイントネーションの違い による発話意図が弁別できるかを聴取実験により検証したものである。その結果、 上昇調と下降調の違いが弁別能力に影響を与えるということは見られなかったが、 前文提供の効果が認められた。また、前の文脈と逆接関係にある「~ない」文が比 較的弁別しにくい、という文脈依存の傾向が示された。これは学習者がイントネー ションより文脈依存で発話意図を理解することを示しているが、学習していくうち にこの問題が解消されるということから、日本語能力の上達との関連が示唆される 結果である。今後、さらに多くの実験語を取り入れ、日本語のイントネーション教 育を行った場合、習得が促進されるかといった指導の効果の検証を行っていくこと が求められる。 謝辞 聴取実験実施に当たり、大くの協力者および聴取実験を実施してくださった 方々に感謝申し上げます。 33 参考文献 鮎澤孝子(1990)「意味のあいまいさとイントネーション・ポーズ」『講座日本 語と日本語教育 3 日本語の音声・音韻(下)』明治書院、p.113-138 鮎澤孝子(2003)「外国人学習者の日本語アクセント・イントネーション習得」 『音声研究』第 7 巻第 2 号、p.47-58 稲田朋晃(2005)「日本語学習者の発話の自然性について~アクセント句とイン トネーション句の形成に注目して~」『第三回日本語教育研究集』、p.6-9 大塚淳子(1997)「ではないか)」の談話機能と音調について」『言語文化と日本 語教育』、p.104-116 張雅智(2004)「「ではないか」の用法」『言語科学論集』第 8 号、p.37-48 土岐哲(1990)「中国人・韓国人・アメリカ人による日本語のイントネーション とプロミネンス」『講座日本語と日本語教育 3 日本語の音声・音韻(下)』 明治書院、p.258-287 戸田貴子(2008)「日本語音声の研究と教育における課題」『日本語教育と音声』 くろしお、p.3-21 三枝令子(2004)「終助詞「じゃない」の意味と用法」『言語文化』41巻、p.19-33 三木理(2008)「韓国語を母語とする日本語学習者の「これじゃない」の発話意図 とイントネーション―音響分析と聴取に基づく考察―」『言葉と文化』名古屋 大学大学院国際言語文化研究科、p.321-341 蓮沼昭子(1993)「日本語の談話マーカー「だろう」と「じゃないか」の機能 -共 通認識喚起の用法を中心に-」『第一回小出記念日本語教育研究会論文集』、 p.39-57 福岡昌子(2012)「韻律の知覚習得における方言別中国人学習者の中間言語研究」 『三重大学国際交流センター紀要』、p.13-26 森山卓郎(1989)「文の意味とイントネーション」『講座日本語と日本語教育 1 日本語学要説』明治書院、p.172-196 34 日本語の程度副詞について 南臺科技大学応用日語系陳連浚 要旨 日本語の程度副詞の中で、他の品詞から転成したものは少なくない。例えば形 容詞から転成したものには「いちじるしく」 「えらく」 「どえらく」 「おそろしく」 「すごく」 「すさまじく」 「すばらしく」 「はなはだしく」 「ひどく」などがある。 このことについて、工藤浩(1983)と仁田義雄(2002)などがすでに指摘してい る。小野正弘も「形容詞連用形における意味的中立化」 (1997)という一文で、 「い たい」 「いやだ」 「えらい」 「おそろしい」など11語の形容詞連用形を例にその共 起可能の語彙的環境を考察したが、その機能を「意味的中立化」と名づけて、 「そ の場合の、基本義との関係、意味変化のメカニズムはいまだ充分明らかになって いるのではない」と述べている。本稿では、この九つの語を対象に、これまでの 研究成果を踏まえて、そのよくかかわるものから、使用の特徴、それから意味変 化の仕組みを考える第一歩として、その共通点を見出すこととする。実際の用例 に関しては、国立国語研究所が提供している「形容詞用例データベース」 (http://csd.ninjal.ac.jp/adj/2014 年 3 月7日アクセス)を用いるとする。 実例を考察して意味変化の仕組みの立場から見ると、次の使用の特徴が取り上 げられるだろう。 1.「恐怖性」から「程度性」へ変わるのは「おそろしく」 「すごく」 「すさまじく」 である。 2.「優越性」から「程度性」へ変わるのは「えらく」 「どえらく」 「すばらしく」 である。 3.このほかに「困難性」の性質を持つ「どえらく」 、 「目立ち性」の性質を持つ「い ちじるしく」 、 「残酷性」の性質を持つ「ひどく」もある。 4.そもそも「程度性」を有しているのは「はなはだしく」である。 このような意味変化の仕組みの解明から程度副詞の理論の再構築につなげると 思われる。 キーワード:程度副詞、形容詞、連用形、共起、程度性 35 日本語の程度副詞について 一、はじめに 日本語の程度副詞の中で、他の品詞から転成したものは少なくない。例えば工 藤浩(1983)は「程度副詞をめぐって」という一文で、暫定的な類別をして 8 種 類のものを取り上げている。その中で「すごく」 「ひどく」 「おそろしく」などを、 形容詞から転成したものの例として取り上げている。仁田義雄(2002)は形容詞 から転成したものをいわゆる移行.派生型の程度副詞として、 「程度副詞に使われ た場合、形容詞の持っていた感情や評価なりの意味は、抑えられたり希薄化させ られたりしている」ものとして、 「程度副詞化した評価性のタイプに属するもので ある」と説明している。例として取り上げたのは「いたく」 「おそろしく」 「えら く」 「どえらく」 「すばらしく」 「ひどく」 「すごく」 「ものすごく」 「すさまじく」 などである。また、純粋程度の副詞としてとりあげたものには「はなはだしく」 「いちじるしく」がある。これらものは、同じように形容詞から転成したもので あるが、どのような仕組みを持って程度的意味を発生したのか、興味深い問題で ある。 このことについて、小野正弘は「形容詞連用形における意味的中立化」(1997) の一文で、「いたい、いやだ、えらい、おそろしい、すさまじい、すばらしい、 とんでもない、ばかだ、ひどい、みごとだ、よい」など11語の形容詞連用形の 考察を行った。「連用形が、相反する語彙的環境に共起可能となっている」と説 明し、「意味的中立化」と小野が名づけたのであるが、「その場合の、基本義と の関係、意味変化のメカニズムは、いまだ充分明らかになっているのではない」 とも述べている。 また、鳴海伸一が「程度副詞における程度的意味の発生の類型」(2013)の一 文で、工藤浩(1983)の指摘をもとに、通時的視点から程度的意味が発生するパ ターンを提示し、程度的意味の発生の過程を検討した。次のように四つの類型を 取り上げたが、詳細については今後検討の余地があると指摘している。 (1)量的意味から程度的意味へ (2)「真実性」の意味をもとに、評価的意味が程度(度合い強調)性を帯びる (3)「比較性」の意味をもとに、評価的意味が程度性を帯びる (4)程度的意味が評価性を帯びる 36 しかし、鳴海伸一の説明は漢語副詞(「無下」「格別」「随分」「結構」な ど)の具体的な事例を中心に考察したもので、形容詞から転成したものについて 少し触れたが、詳しい検討は欠如している。 したがって、本稿では工藤浩と仁田義雄が代表例として取り上げている「いち じるしく」 「えらく」 「どえらく」 「おそろしく」 「すごく」 「すさまじく」 「すばら しく」 「はなはだしく」 「ひどく」この九つの語を対象に、これまでの研究成果を 踏まえて、その程度的意味の意味変化の仕組みを検討したいと思っている。用例 は日本国立国語研究所が提供している「形容詞用例データベース」 (http://csd.ninjal.ac.jp/adj/2014年3月7日アクセス)を用いるとする。 二、意味的特徴 この九つの語の意味と使い方について、 最も詳しく説明しているのは飛田良文· 浅田秀子の『現代形容詞用法辞典』 (2008)であろう。この九つの語の形容詞とし て使われた場合の意味について、それぞれ次のように指摘している。 表 中心的意味 「いちじるしい」 変化や差異が誰にでもわかるようにめだつ様子を表す。 「えらい」 (1)人や行為が立派で、賞賛や尊敬に値する様子を表す。 (2)(1)から進んで社会的地位が高い様子を表す。 (3)物事が簡単にはできず困難な様子を表す。 (4)(3)から一歩進んで、困難でたいへんだ、とんでもな いという意味を表す。 「どえらい」 困難でたいへんだ、とんでもないという意味を表す。 「おそろしい」 恐怖や不安を感じる様子を表す 「すごい」 非常に恐ろしい様子を表す。 「すさまじい」 非常に恐ろしい様子を表す。 「すばらしい」 非常にすぐれていて感嘆すべき様子を表す 「はなはだしい」 普通の程度をはるかに超えている様子を表す。 「ひどい」 残酷で無情な様子を表す 飛田良文·浅田秀子の説明を見て、次のような共通点があるに気づくだろう。 (1) 「おそろしい」 「すごい」 「すさまじい」に共通して、 「恐ろしい」か「恐怖」 37 という意味を強調的に表現している。 (2) 「えらい」 「すばらしい」には「優れる」か「立派である」ことを強調的に表 現している。 (3) 「えらい」 「どえらい」には「困難でたいへん」であることを強調的に表現し ている。 (4) 「いちじるしい」は「目立ち性」1を強調的に表現している。 (5) 「はなはだしい」はそもそも程度にかかわっている。 以上の共通点から、 「非常に恐ろしい」様子か「恐怖」の感じを示している「お そろしい」 「すごい」 「すさまじい」を「恐怖性」のグループと仮称しよう。それ から「優れる」か「立派である」ことを表現する「えらい」 「すばらしい」を「優 越性」のグループと仮称する。飛田良文·浅田秀子の説明によると、 「どえらい」 は「えらい」を強調した形の語2とされているので、一緒に検討することにする。 また、 「はなはだしい」は程度性にかかわっているものを除いて、 「どえらい」 を「困難性」 、 「いちじるしい」を「目立ち性」 、 「ひどく」を「残酷性」のものと 仮称する。順次検討していく。 二、一「恐怖性」から「程度性」へ まず、 「おそろしい」の用例を見てみよう。 (1)台風のサイズが大きくなったり、竜巻が起こったりで恐ろしいことこの 上ない。 (2)エイズという病気、HIVという病原体の最も恐ろしいところは、人間 の体を守るために重要な働きをしているという点です。 この場合、飛田良文·浅田秀子が指摘しているように、 「おそろしい」は「恐怖 や不安」のことを表現している。このような「恐怖」の感情から、 「おそろしい」 が連用形で使われて、次のように程度強調になっていく。 (3)現地の物価からすると恐ろしく高い金額です。 (4)ジャンボ宝くじの場合、1枚300円で、1等はそのうちのわずか1本な ので、恐ろしく確率は低いです。 (5)温泉はツルツル気持ち良く、食事が恐ろしく良かったです。 1 「目立ち性」という名称は工藤浩が使われている。 「ずば抜けて」 「際立って」などを指す。 飛田良文·浅田秀子の『現代形容詞用法辞典』380p 2 38 (6)ポイント率が恐ろしく悪く、1年後に化けたのは商品券たったの1,0 00円分ですよ!? 「おそろしく」は「高い」 「低い」 「にかかわって、数量的程度の「多い」 「少な い」を表現している。それから「良い」 「悪い」にかかわって、評価的に「良い」 「悪い」を示している。 また、 「すごい」は次のような用例が出ている。 (7)宮崎で確認された口蹄疫被害は凄い事になりそうだ!! (8)鈴木良雄先生がどれだけ凄いお人かwikipediaで調べたらわか る。 「すごい」が示している「おそろしい」ことなら、以上のように「悪い」こと もあれば、「良い」こともある。その「おそろしい」状態から、次の用例のよう に程度強調となる。 (9)同じくらいの棋力の好敵手(ライバル)が居るという環境は、成長に凄 く良いです。 (10)漫画家といえば、連日徹夜しちゃったりして凄く大変そう! (11)また同じ理由で区市町村により保険税が決められているため、保険税の 格差が凄く大きい。 (12)彼女たちの手は凄く小さくて、とっても柔らかくて、彼女たちは必ず両 手で私の手を握ってくれた. . . 。 「すごく」は「すごい」の連用形として、例えば「大きい」 「小さい」のような 数量的程度の「多い」 「少ない」を表現できると同時に、 「良い」 「大変」のような 「良い」か「悪い」の評価を表現することもできる。 また、 「すさまじい」には、次のような用例が使われている。 (13)だが結婚する前から信長の乱行ぶりはすさまじいものがあり、結婚して もその行いは一向に変る気配は無かったのである。 (14)ここでは家屋やビルが倒壊する様子や地震のすさまじい破壊力や同時に 発生した火災の怖さなどを映像により体験することができました。 39 「すさまじい」は「恐怖」を感じるほど激しいことを表現している。この「恐 怖」の状態から、次のように程度強調となる。 (15)嫌なニオイが抑制でき、洋服や下着類に悪ニオイが付きにくくなった、 との口コミの評判は上々、すさまじく良いです。 (16)最新版の追跡とを両方するのは、作業量的にすさまじく大変な気がしま す。 (17)診察費、治療費、エコー代など、すさまじく高いです! (18)すさまじく自分に自信がないので一人で生きていくのもしんどいです。 「すさまじく」は「良い」 「大変」にかかわって、 「良い」か「悪い」評価を表 現していると同時に、 「高い」 「ない」にかかわって、数量的程度の「多い」か「少 ない」を表現することもできる。 二、二「優越性」から「程度性」へ 前述したように「えらい」と「すばらしい」が「優れる」か「立派である」こ とを強調的に表現することができる。まず「えらい」の用例には、次のようなも のがある。 (19)私の会社では、部長(部長という肩書が付いている人)は、偉い人だと 言われています。 (20)この人は、日本初のボトル入り天然炭酸水の国内初のメーカーを会津で 設立して、ブランド化に成功したという経歴を持つ偉い人。 この場合、確かに飛田良文·浅田秀子が指摘しているように、 「えらい」人とい うのは「立派」な人か「社会的地位の高い」人を指している。このような優れた 実績を持つ「優越性」のことから程度強調になる。 (21)斜め向かいには1000ルピー(2600円)高いだけなのに偉く綺麗な ホテルがあってウラヤマシス。 (22)年の初め頃だったか、ラスベガスに行った際にセリーヌ・ディオンのショ ーを観て、偉く感激した。 (23)ズボンのクリーニング代が偉く高かったと記憶しています。 (24)この硬化時間、周辺温度で偉く違うんですね。 40 「えらく」が「綺麗」 「感激した」にかかわっていて、 「良い」評価の程度を表 現している。それから「高かった」 「違う」にかかわっていて、数量的程度が「多 い」ことを示している。 また、前述したように「どえらい」は「えらい」を強調した形の語であるとさ れるので、ここで一緒に検討することにする。 (25)どえらい内容の震災復興イベントが名古屋の栄で開催! (26)とでも言いたいくらいのどえらい優れものです。 この場合、たいへん良いものであることを表現している。このような「優越性」 を持つ状態から、次のように程度強調を表現するものになる。 (27)友達同士だったんで、最初はイキオイのよーなものだったんですが恐ろし いことに、カラダの相性がどえらくよかったのですよ。 (28)買収なんぞされた日にはどえらく大変だろうなーと思ってみたりです。 (29)日本の信号機については国内の6社が寡占状態で完全利権状態であり価格 競争など起こらないのでどえらく高いのは間違いないようです。 この場合、 「どえらく」は「よかった」 「大変」にかかわっていて、 「良い」か「悪 い」評価の程度を表現している。また、 「高い」にかかわって、数量的程度の「多 い」ことを表現している。しかし、その一方、数量的程度の「少ない」ことを表 現する用例が見つからないので、 「どえらく」は数量的「程度性」の「多い」こと に傾いていると言えるだろう。 それから、 「すばらしい」の用例には、次のようなものがある。 (30)新郎新婦を通して、本当に絆というものを感じ、結婚って本当に素晴らし いことだなあと思いました。 (31)アメリカの広告業界誌『AdweekMedia』が選ぶ、過去10年間 で最も素晴らしい広告作品が昨日発表されました。 この場合、 「すばらしい」は非常に好ましい、とても優れていることを表現して いる。このような「優越性」から、連用形で使われた場合、次のように程度性の 強調を表現するものになる。 41 (32)口に含んだ瞬間に、鼻に抜ける爽やかな香りが素晴らしく良い。 (33)でも、自分には、このまとめ方、まとまり方は尋常でなくて素晴らしく 完成度合いが高いと感じる。 「すばらしく」は「良い」にかかわって、 「良い」評価の程度を表現している。 それから「高い」にかかわって、数量的程度の「多い」ことを示している。 「優越 性」から「程度性」の強調となるのである。 二、三「困難性」 「目立ち性」 「残酷性」から「程度性」へ 飛田が指摘しているように、 「どえらい」は形容詞として使われた場合、 「困難 でたいへんだ、とんでもないという意味」を表している。例えば、次のような用 例がある。 (34)昨夜、食中毒を思い出させるような腹痛に襲われてどえらい目にありまし た(>_<) (35)制作スタッフによると、がん発覚後も宮迫が「降板したらどえらい迷惑を かけると思い、そこを気にして手術しました」と続投を強く望んだこともあ り、撮影を3週間遅らせて対応。 このような「とんでもない」状態から、連用形で使われた場合、前述したよう に「程度性」の強調となる。 また、飛田良文·浅田秀子が「変化や差異が誰にでもわかるようにめだつ様子を 表す」と説明している「いちじるしい」について、次のような実例がある。 (36)経済成長が著しいベトナムで、日本の即席ラーメン戦争が勃発している。 (37)私には、ADD特有の症状があるが、とりあえず著しい障害がない(と思 っている)。 この場合、 「いちじるしい」ははっきりと目立っていることを表現している。こ のような「目立ち性」から、連用形で使われた場合、次のように程度性の強調を 示すものになる。 (38)透明であるため、厚塗りする傾向がありますが、厚塗りすると輝度が著 しく低下しますので、ご注意下さい。 42 (39)記憶力は、特に幼児期に著しく成長する能力です。 (40)成木の葉に比べ、幼木の葉は著しく小さいです。 (41)昨今の教育現場では、保護者・PTAの発言力著しく大きいのですか? 「いちじるしく」は「成長する」 「低下します」にかかわって、 「良い」か「悪 い」評価の程度を表現している。それから「大きい」 「小さい」にかかわって、数 量的程度の「多い」か「少ない」を表現している。 また、飛田が意味特徴を「残酷で無情な様子を表す」ものだとされている「ひど い」というものがある。 (42)古い角質や余分な皮脂が残っていては、ニキビがひどい状態になってし まいます。 (43)自然災害の中、地震災害が最もひどいものです。 「ひどい」が連用形で使われた場合、次のように程度性の強調を表現するもの になる。 (44)奥様の一見優しいけれども毒を含んだ言葉は、クレールの自尊心をひど く傷つけていた。 (45)やるべきことを淡々とこなす姿にひどく感動し、まるでアーミーのよう だったと言っていた。 (46)市内からひどく遠く、アルプス下ろしの風が吹き抜けて寒い等、地元フ ァンにも不評が多くでています。 (47)ひどく狭い部屋で、流しやトイレは埋め込まれていて、壁や床はでっぱ ったところが無いように作られています。 「ひどく」は「感動(する) 」 「傷つける」にかかわって、 「良い」か「悪い」評 価の程度を表現している。それから、 「遠い」 「狭い」にかかわって、数量的程度 が「多い」か「少ない」ことを示している。しかし、用例の数から言うと、 「悪い」 評価と数量的程度の「多い」のほうが比較的に多く見られたことも事実である。 三、まとめ 以上で飛田良文·浅田秀子の『現代形容詞用法辞典』での記述を踏まえて、 「い ちじるしく」 「えらく」 「どえらく」 「おそろしく」 「すごく」 「すさまじく」 「すば 43 らしく」 「はなはだしく」 「ひどく」の形容詞としての意味特徴と、連用形として 使われた場合の意味特徴を概観してきたが、その意味特徴の共通点として、 「恐怖 性」のグループと「優越性」のグループがあることを無視してはならない。その ほかに「困難性」 「目立ち性」 「残酷性」の存在も認めなければならないと思われ るが、他の形容詞から転成した程度副詞、例えば「いたく」 「むごく」 「いたまし く」 「ばかに」 「いやに」など、それから「目立って」 「極めて」など動詞から転成 したものをも詳しく検証した上で、対照させる作業は欠かせないだろう。これを 次の課題とする。 付記:本稿の一部は現在執行中の科技部 103 年度専題研究計画(MOST 103-2410-H-218 -001、テーマ:從形容詞轉變過來的程度副詞)の研究成果である。 用例出典:日本国立国語研究所「形容詞用例データベース」 主な参考文献 小野正弘(1997)「形容詞連用形における意味的中立化」『日本語文法 体系と 方法』川端善明·仁田義雄編 ひつじ書房 工藤浩(1983) 「程度副詞をめぐって」 『副用語の研究』渡辺実編 明治書院 鳴海伸一(2013)「程度副詞における程度的意味の発生の類型」『国立国語研究 所論集』第6巻p93-110 仁田義雄(2002) 『副詞的表現の諸相』くろしお出版 飛田良文.浅田秀子(1994)『現代副詞用法辞典』東京堂出版 (2008)『現代形容詞用法辞典』7版 東京堂出版 44 日本文化與日語教學之間的互動性: 以新生醫專應用日語科學生為例 涂美珠:新生醫護管理專科學校應用日語科專任副教授 野川博之:法鼓文理學院佛教學系兼任助理教授 摘要 本研究以台灣五年制專科學校(簡稱五專)教學為探討主題,其論述要項:日 本文化如何融入日語教學課程?高中職日語科(中等教育)、五專應用日語科(後 中等教育),與一般綜合大學、科技大學所設置之日語課程相比教,的確難以呈現 特色,一般的認知皆傾向較難於深入文化層面。但作者認為,學生之身心的年齡層 與教師的實力,有關於語言學習之深淺度,因此,(後)中等教育日語學習者亦可 培育成,如大學日語系的優秀學子。本研究提出「未來五專日語教育方向」及教學 策略,進行論述。 關鍵字:五專、教師的流動、語言與文化連結 45 日本文化と日本語教学との間の連動性について ―新生医専応用日本語学科を例として 涂 美珠:新生医護管理専科学校応用日本語学科専任准教授 野川博之:法鼓文理学院仏教学科兼任助理教授 要旨 本稿では台湾の五年制専門学校( 「五専」と略称)の教学において、日本文化に いかに取り込むかということを論述のテーマとしたい。日本語学科、もしくは規 模の点でより小さな日本語コースを設ける五専は、五校前後である。 今のところ、 大学や高等学校の日本語教育に比して、さしたる特徴があるとは言い難い。しか しながら、学生たちの心身の若さと、教師のもつ実力という点を今以上に有機的 に組み合わせれば、大学の日本語学科とはまた違った有為な卒業生を輩出できる ものと思われる。本稿では、五専の日本語教育が今後進むべき方向性についてと りわけ日本文化を日本語教学の場でいかに教えるべきか、ということについて、 筆者の日ごろの教育活動を通じて得られた意見を提示したい。 キーワード:五年制専門学校、教員の流動、文化教室 46 一、問題の提起 本稿では、台湾の高等教育制度にあって、とかく見落とされがちな五年制専門 学校、いわゆる「五専」における日本語学校教育について、筆者らがこれまで数 年以上にわたる観察と実践とを通じて気づいたことを、 率直に報告したいと思う。 周知のように、日本における台湾高等教育制度についての研究は、2010 年代前半 現在、小川佳万・南部広孝の両教授が日台双方の門下生を指導しつつ、細やかに 進められている。詳しくは本稿篇末に掲げた文献リストを参照されたい。ところ が、これら 9 論文のうち実に 8 篇までが、五専について全く触れていない(教育 体系系統図での図示を除く)か、触れても僅々数行(!)にとどまっている。1五 専について唯一系統だった变述を日本語で行っているのは、劉語霏氏の以下の变 述のみである。 (3)専科学校2 1.種類:台湾戯曲専科、看護(原語)専科、工商専科、海事商業専科、観光経 営管理専科、医看護(言語:医護)(管理)専科3がある。 2.校数(筆者注:2008 年現在)全部で 15 校ある。その内訳は、台湾戯曲専科 学校、看護専科 3 校、工商専科 1 校、海事商業 1 校、医護(管理)専科 8 校。 3.修業年限:5 年制(例外:薬学、獣医、輪機(筆者注:船舶の機関を指すか)、 航海等の学科は 6 年制)と 2 年制(例外:建築は 3 年制)がある。 4.教育目標:応用科学と技術を教授し、中級レベルの実用的な専門人材を育成 すること。 5.募集対象:国民中学(国中:日本の中学校に相当)、総合高級中学(筆者注: 日本語:総合高校)の職業科、高職(筆者注:高級職業学校、日本の職業高 校に相当)、高中(筆者注:高等学校)の卒業者、また、前者と同等の学歴 を有する者、また、前者と同等の学歴を有する者。 1 とりわけ惜しまれるのが南部広孝(2011) 「東アジア諸国における高大接続―大学入学者選抜方 法の改革に焦点をあてて―」である。南部教授は日本では大学と短期大学とに加え、 「高等教育を より広義にとらえれば高等専門学校も含まれる」としつつ、 「ただし、他国との整合性を考え、こ こでは狭義の高等教育機関のみを取り上げ」ると言明し、そのうえで、 「同様の理由から、同じく 前期中等教育から進学する台湾の 5 年制専科学校も対象から外し」たと述べている(掲載号 166 頁、 (注 2) ) 。南部教授のこれまでの経験と力量とを以てすれば、ここはぜひ多尐なりとも五専に 関する概説を加えて頂きたかったところであり、五専で現に教えている筆者らとしては非常に遺 憾に思われる。ただ、台湾の五専を日本のそれと同類の「広義の高等教育機関」であり、 「前期中 等教育から進学する」と表現したいるのは、今後、台湾の五専を比較教育学専門家以外の日本人 へ紹介するに際しては、すこぶる適切なものと思われる。 2 劉語霏(2008a) 「第 2 章:高等教育機関」 、 『台湾の高等教育―現状と改革動向―』 ( 『高等教育叢 書』第 95 号)17 頁。なお(1)は大学、 (2)は独立学院(主としていわゆる「技術学院」 )であ り、これら 3 項目を合わせて当該論文の第 2 節「高等教育機関の種類:3 類型」を構成している。 3 筆者らが現に奉職する「新生医護管理専科学校」が実にこれに該当している。 47 ①5 年制の場合は、主に国中の卒業生。 ②2 年制の場合は、主に総合高級中学の職業科と高級職業学校の卒業生である、 が、一部の学科では高中の卒業生も応募できる。 6.入学試験時期:毎年 7 月。 7.学科の類型:「学科」と言う(筆者注:大学における「学系」と区別)。専 門分野については、専科学校と技術学院は同じ。 8.学位資格:副学士(筆者注:日本の短期大学卒業生が授与される「準学士」 に相当)。 9.進学先:卒業後 3 年間の仕事の経験(筆者注:いわゆる「実務経験」)があ れば、(大学の―筆者増補)修士課程と博士課程に進学できる。 2015 年春現在の五年制専科学校(五専)は、今後多尐の変動が予測されるとし ても、ここに描かれたような骨格を持っている。ここで台湾の五専の現況を、温 かな目で、しかも客観的に描いた文章がないものか、学術雑誌のほか、新聞雑誌 へも検索の網を広げたところ、幸いにしてこのほど『自由時報』に掲載された邱 (私立) 繼智氏の談話記事を見い出すことができた。4同氏は「台北商業科技大学」 の五専部にあって、現に教務長を務めている。この大学では、四年制の課程に加 え五専をも併設している。邱氏は五専の特色を次のように語っている。 五専は構造としては、普通科高校・職業高校 3 年のうえに専科学校 2 年分が加えられたよう な感じです。この五専に学ぶということは、世の多くの若者よりも一足早く行く先を異にし、 しかも大学へのレールを敷くということを意味しております。五専の多くは今や科技大学へと 昇格しております。しかしながら、五専の教師は大学から来られた人も尐なくなく、人的資源 の面でより豊富なものとなっております。 五専という学校は、「大学を受験したいがどうも自信がなく、高校の課程も なかなか難しそうだと思うがその一方で専門的な科目には興味があるという 人」には向いております。私ども台北商業科技大学の五専部について申します と、初めの 3 年は 12 年国民教育の一環をなしており、一定の比例で共通の基礎 的な科目が配されております。そして五年一貫という構想のもと、専門的な科 目にまつわる能力をも高めるべく、五専の学生は早くから会計、経済学、コン つちか ピューター、統計学といった方面について能力を培いつつあります。その結果、 大学へ編入学(原文:挿班)に際しましても、 (高校から来た)学生よりも競争 力を具えており、公立の名門大学に合格する確立もすこぶる高いのです。 4 邱繼智(談) : 〈五專/適合對象:希望接軌大學、培養專業能力的人〉 , 《自由時報》2015 年 3 月 21 日,E(週末生活版〔北台灣版〕 (訳題:五専/適合する学生タイプ:大学へさらに進学し、専門的な 能力も培いたい人) 。 48 けれども今現在、五専は数において、やや尐なくなっています。商業科を除け ば、大部分の看護学校が五年制を主としております。このほか、一部の工業、料 理関係の学校も選択対象に含めることができましょう。かつては五専を卒業する と、そのまま社会へ出る人が多かったのですが、今の学生は引き続き二年制の専 科学校へ進学したり、大学へ編入学する人が大部分を占めております。 ここで邱氏のいう「大学から来られた人」とは、 「同じキャンパス内の大学で教 えている教員が、五専でも教えている」という意味であろうが、筆者らもまた、 これとは違った意味で「大学から来られた人」ではある。ただ、筆者らの存在が 五専をして「人的資源の面でより豊富なもの」たらしめているかどうか、心もと ない。多感な十代後半を実に五年にもわたって同じ校舎で過ごす学生諸子が、新 鮮な思いを失わず日本語学習に取り組めるよう、 なんとか智慧を絞ってゆきたい。 二、研究の動機と目的 日本の比較教育学研究者が台湾の高等教育を研究するに際し、五専を軽んじが ちであることは、否定すべくもなく、いかにも残念なことである。われわれのこ うした思いに追い討ちをかけるがごとく、去る 2014 年 5 月、政府「教育部」(日 本の文部科学省に相当)では、経営状況のよくない、一部のいわゆる「科技大学」 (元来は五専であった学校が昇格して四年制大学となったもの尐なしとせず)に 対し、一種の懲罰的措置として、そうした学校を五専へと再び「降格」するとい う方針を発表した。5また、五専の教員の中には、以前は四年制大学の教員であっ たのが、諸般の社会情勢から、大学よりも格下と見られがちな五専に転じた、と いう向きが今や尐なくないが、 五専の外国語学科は、 他の一部の新設学科と同様、 学生の入学率(原文:註冊率)の低さに依然として苦しんでおり、6「どこまで続 くぬかるみぞ」という慨嘆を筆者らも当事者として禁じ得ないのである。 5 以下、詳しくは篇末の「引用・参考文献」に列挙した新聞記事 1~3 を参照されたい。核心的な 投書を行った李家同・羅仁権の両氏は現役の大学教授であり、そして李教授の投書へ深く賛同す る現場の教師・鍾邦友氏もまた五専ならぬ職業高校(中国語:高職)の教師である。つまり、現 場の五専教師の声は、筆者らの記憶と調査の限りでは見当たらないのである(個々の教師のネッ ト上の意見は除き、社会的に依然として重みを帯びる新聞への投書に限定)。 6 鄭玲: 〈拯救大學/回歸專業差異(訳題:大学を救え/専業上の違いある姿に帰れ) 〉 , 《聯合報》2015 年 1 月 1 日,A-19。鄭氏は看護学科(中国語:護理系)主体の五専から科技大学へと昇格したい くつかの科技大学にあっては、看護学科は相変わらず 90 パーセント以上もの高い入学率を誇るの に対し、昇格に際して設けられた情報工学科(中国語:資訊工程系)や応用化学科(化学工程科) にあっては、それが 5 割にも満たない状況を指摘している。そのうえで、工業専門もしくは美容 専門の専科学校が科技大学に昇格して後も同様の状況、つまり、専科学校時代の中心的な学科の みが安定しているということを指摘している。ひるがえって今現在も五専のままである学校を眺 めてみるに、大学昇格をも視野に入れた将来の発展を目指し、新たな学科を設けたものの、これ また既に大学昇格を果たした元五専と同様、看護学科のような五専が従来核心的学科としていた 49 以上、いささか前置きが長くなったが、筆者らの勤務する五年制専門学校のカ リキュラムはおおよそ以下のとおりである。 (1)「應用日語科學習計畫」とりわけ3-5頁の図表7 また、より簡易なものとしては、 次の資料を挙げたい。8 (2)「新生醫護管理專科學校 應用日語科 學習地圖」 いずれの表も、学校全体の中で応用日本語学科がどう位置づけられ、かつ、学 生が学年ごとに一般教養と専門学科のそれぞれについて、どういった方面から学 びを進めてゆくべきかをチャート化している。これらを見て容易に知られること はまず、学校が定めた必修および選択必修の多さである。すなわち、1年生の段階 では国文(すなわち中国語)、英語、数学、音楽、美術、コンピューター概論(原 文:計算機概論)、体育、国民国防教育(原文:全民國防教育)、労働教育(原 文:勞作教育)の9科目を数え、これらのうち国語と英語、そして体育は、5年間 の課程も終わりに近い4年次まで継続して学習すべく規定されている。 学生たちが あらゆる必修科目から完全に自由になるのは、卒業を控えた5年次なのである。こ れに対し、 1年生の段階での日本語学科における必修科目は初級日本語と日本語発 音、日本語ヒアリングのわずか3科目を数えるのみ。次の2年次に至ってようやく 中級日本語、ヒアリング(承前)、日本語語法、日本語会話、日本語講読(原文: 日語閲讀)、日本語文書処理、「日本の風土と文化」が教授され、ようやくにし て日本語学科らしくなる。法令により3年次までは高級中学(日本の高校に相当) と同内容の課程を教授するよう規定されており、日本語学科における日本語教育 は、このような日本語とは直接のかかわりがない英語など必修科目との間のせめ ぎ合いを経てきた。次に、2番目の表に込められた日本語学科の理念を見たい。 (1)本学科学生の義務 1.本学科の学生は、卒業までに220単位を取得しなければならない。 2.本学科の学生が卒業までに習得すべきに日本語の能力レベルは、日本語検定2 級(原文:日語檢定N2)を目安とする。詳しくは、「日本語検定実施規定(原 文:日語檢定實施辦法)」を参照のこと。また、本校では英語の能力に関して も「国民英語検定(原文:全民英檢)」初級程度に合格することを課している。 学科以外は学生募集で苦戦しているように見受けられる。遺憾ながら、日本語学科もその例外で はない。 7 詳しくは以下のネット資料を参照。とりわけ 3-5 頁を参照されたい。 http://aj.web.hsc.edu.tw/ezfiles/20/1020/attach/2/pta_5207_4084505_02752.pdf(2015 年 3 月 20 日) 8 http://aj.web.hsc.edu.tw/ezfiles/20/1020/attach/18/pta_6484_2936478_24974.pdf(2015 年 3 月 20 日) 50 3.本学科の学生は「ビジネス・貿易の実務(原文:商貿實務領域)」、「観光 日本語(原文:觀光日語領域)」のいずれか一テーマを選び、そこに属する科 目を履修して32単位以上を得なければならない。 (2)本学科学生に要請される能力指標 つちか 1.日本語検定2級以上の日本語力を培う。 2.(a)日本語のヒアリングと会話力を培う。(b)日本語の読解力と作文の力 を培う。 3.日本語に関連したツアーコンダクター(原文:領 隊)もしくはガイド(原 文:導遊)の資格を取得 4.ビジネス・貿易方面の実務能力をつちかう。 (3)卒業後、大学へ進学した場合の主たる進学先 1.日本語にかかわる学科、2.観光にかかわる学科、3.ビジネス方面の諸学科 (4)卒業後、そのまま就職した場合の進路。 1.通訳、2.ツアーコンダクター(領隊導遊)、ツアープランニング(觀光管理) 3.業務、秘書 、4.このほか、2の観光関連の仕事の関連業務や、ホテルなどレジ ャー産業、あるいは国際貿易関連の仕事など。 五専の、それも日本語学科の学生の一般的な特色として、「元気のよさ」と「頭 脳の若さ」を挙げたい。この特色は、 「水よく舟を載せ、亦たよく舟を覆す」 (『貞 観政要』)という格言さながらであり、これらが良いほうへ出れば、IT機器や 3C製品を駆使して「好きこそものの上手なれ」さながら、日本のアニメーショ ンやマンガについて、学んだばかりの日本語を武器に一層の知識を自らの意志で 得ようとする。ところが、こうした特色がひとたび悪いほうへ出ると、IT機器 や3C製品に取り込まれてしまい、授業中も教師の言葉や姿が耳目に入ってこず、 それら機器の画面を見つめ続ける、というありさまとなる。パワーポイントを使 っても、こうした現状はなかなか改善を見ず、より印象に残る授業実践を目指し て、中年以上の世代の教員は、若い世代の教員にも謙虚に教えを仰ぎたい。 六、結論 本校を結ぶに際し、筆者らが現に実践しつつある教育上の試みを二つばかり挙 げておきたい。ひとつは、「必修科目の教科書や副読本にも折々目を通し、話題 になりそうなネタを探すこと」である。ある日のこと、筆者(野川)が国文(中 国語)の授業が終わったばかりの教室に入ったところ、黒板には国文の教師が板 書した筆勢麗しい「琵琶行」の一段が、まだ消されずに残っていた。白楽天の名 作である。 そこで、日本の高校ではどんなふうに中国古典を教えているかを語り、 51 かつ、インターネットが利用できる最新式の教卓が教室にあったのを幸い、日本 にも琵琶を演奏する人々がいること、小泉八雲の『怪談』に収録された「耳無し 芳一」の物語などを、簡単に解説したことがある。 か し お か 第二に、「おかしのふくろのおかしな日本語探し(お菓子の袋の可笑しな日本 語)」である。あまり知られていないことだが、日本語の広告文やキャッチコピ ーが台湾にあって最も多く見い出される分野こそ、台湾企業が製造した菓子の袋 やパッケージである。時としてカタカナの「ソ」と「ン」とを混同していたり、 より長い文例では、文法的に見て明らかにおかしな例が散見される。企業側の面 子や自尊心を損ねてはいけないから、こうした事例を教師が論文などで取り上げ る際には、企業名や商品名を伏せるなどの配慮が欠かせないが、日本国外の地で 日常的に日本語の広告文が見られる国は、世界広しといえども台湾があるばかり であり、注目すべき研究資料として、ここに敢えて指摘しておきたい。9 我々が日々接している若者たちの多くは 10 代後半の尐年尐女たちであり、 精神 面では、おしなべてなお発達中と見るほかはない。彼らの潜在能力を引き出すた めの素材は、したがって大上段に構えた理論のうちには見いだされず、むしろ彼 い お う らと教師とを取り巻く身近な環境のうちにこそ見い出されるべきであろう。 「医王 め み ち ふ み ぐすり げ ほ う ひ と こ う しゃく たから み の目には途に触れて皆な薬なり。解宝の人は礦石を宝と見る(原文:医王之目, 触目皆薬;解宝之人,礦石見宝)」という古人の金言(空海『般若心経秘鍵』) は、ここにおいても真理を衝いている、と言い得よう。目に触れるものすべてが 薬の原料となり、ただの石としか見えないもののうちに潜む宝石を認める、そん な能力を「五専の日本語教育」という場において今後も弛まず磨いてゆきたい。 引用・参考文献 一.論文類(氏名五十音順) 1.小川佳万(2008a)「第 1 章:高等教育の発展」 , 『台湾の高等教育―現状と改革 動向―』( 『高等教育叢書』第 95 号) ,広島大学高等教育研究開発センター,1 ~11 頁。 2.小川佳万・蔡婉如(2008b)「第 4 章:学士課程」 ,『台湾の高等教育―現状と改 革動向―』(『高等教育叢書』第 95 号),広島大学高等教育研究開発センター, 35~451 頁。 9 黄意雯著『台湾文学作品に見る日本語借用現象』221 頁では、著者自身が住まうマンションのエ レベーターで見かけた、 「引越しに伴う近隣への迷惑をわびる文面の貼り紙」を主たる題材としつ つ、こうした菓子類の包装に見る誤用の多い日本語文について考察を加えている。筆者の管見の 限りでは、これまでよりも踏み込んだ形で、筆者のいわゆる「お菓子の袋の可笑しな日本語」を 取り上げた学術的な著作としては同書以外にまだ類例を見かけない。 52 3.小川佳万(2012) 「第 5 章:厳しい選抜過程に支えられた質保証」 , 『アジアの教 員:変貌する役割と専門職への挑戦』 ,東京:ジアース教育新社,125~148 頁。 4.小野寺香(2012) 「第 5 章:台湾における高大接続プログラム」 , 『東アジアの高 大接続プログラム』 ( 『高等教育叢書』第 115 号) ,広島大学高等教育研究開発セ ンター,73~88 頁。 5.南部広孝(2006) 「第 20 章:台湾の教育計画」 , 『現代アジアの教育計画(下) 』, 東京:学文社,302~311 頁 6.南部広孝(2007) 「台湾の大学入学者選抜における「繁星計画」の導入と展開」, 『大学論集』第 39 集,広島大学高等教育研究開発センター,131~144 頁。 7.南部広孝(2011) 「東アジア諸国における高大接続―大学入学者選抜方法の改革 に焦点をあてて―」, 『高等教育研究』第 14 集(特集:高大接続の現在) ,日本 高等教育学会,151~168. 8.劉語霏(2008a) 「第 2 章:高等教育機関」 , 『台湾の高等教育―現状と改革動向 ―』( 『高等教育叢書』第 95 号) ,広島大学高等教育研究開発センター,13~21 頁。 9.劉語霏(2008b)「第 3 章:大学入学者選抜制度」 ,『台湾の高等教育―現状と改 革動向―』(『高等教育叢書』第 95 号),広島大学高等教育研究開発センター, 23~34 頁。 二、単行本学術書 1. 黄意雯(2012)『台湾文学作品に見る日本語借用現象』,台北:致良出版社。 三、新聞記事(古いほうから年月日順) 1.李家同: 〈升格?降格?搞清專校重要性!(訳題:昇格か?降格か?専科学校の 重要性を認識せよ!) 〉 ,《聯合報》,2014 年 5 月 11 日,A-15。 2.鍾友邦: 〈四技降格/師資設備回不去(訳題:四年制科技大学の降格/教員も設備 ももはや元には戻らず) 〉, 《聯合報》2014 年 5 月 12 日,A-15。 3.羅仁權: 〈重拾專校驕傲/轉型正是時候(訳題:専科学校の矜持をもう一度/今こ そメタモルフォーゼの時) 〉 ,《聯合報》2014 年 5 月 13 日,A-15。 4.鄭玲: 〈拯救大學/回歸專業差異(訳題:大学を救え/専業上の違いある姿に帰 れ) 〉 ,《聯合報》2015 年 1 月 1 日,A-19 5.邱繼智(談) :〈五專/適合對象:希望接軌大學、培養專業能力的人(訳題:五 専/適合する学生タイプ:大学へさらに進学し、専門的な能力も培いたい人) 〉 , 《自 由時報》2015 年 3 月 21 日,E(週末生活版〔北台灣版〕 ,E-23 53 四、ネット資料 1.新生医護管理専科学校「應用日語科學習計畫」(2015 年 3 月 22 日) http://aj.web.hsc.edu.tw/ezfiles/20/1020/attach/2/pta_5207_4084505_02752.pdf 2. 「新生醫護管理專科學校 應用日語科 學習地圖」(2015 年 3 月 22 日) http://aj.web.hsc.edu.tw/ezfiles/20/1020/attach/18/pta_6484_2936478_24974.pdf 54 台湾人日本語学習者の複合名詞アクセント習得の一考察 郭獻尹 東呉大學推廣部兼任講師 要旨 日本語のアクセント指導を行う際に、単純語のアクセント(とりわけ、名詞) を取り上げて論じることが多いが、その一方、複合語のアクセントに触れること が少ないようである。しかし、複合語は「形態」と「意味」のみならず、「発音」 もまとまった一つの語が作られる。アクセント習得の成否は円滑なコミュニケー ションに関係しているため、大変重要であると思われる。 本稿は「複合名詞」を中心にし、そのアクセントの種類を「そのまま型」、「後 部決定型」、「曖昧型」、「前後崩壊型」に分け、音声産出実験を行い、台湾人 日本語学習者と日本語母語話者のアクセント相違を明らかにした。また、どのよ うな複合名詞アクセントが学習者にとって困難であるかを調査・分析し、今後の 複合名詞アクセントの指導に向けた提言を行いたい。 キーワード:複合名詞アクセント、そのまま型、後部決定型、曖昧型、前後崩壊 型 1 55 1.はじめに 日本語のアクセントは、 「飴」と「雨」 、 「橋」と「箸」のような意味的相違を示 す「弁別機能」だけでなく、 「言い訳」と「いいわけ」 、 「拾い物」と「広いもの」 といった統語的関係を表す 「統語機能」 も持っている(天沼他 2001、 田中他 2012)。 また、この二つの働きはコミュニケーションに関わり、大変重要であると思われ る。 一方、アクセントの指導は単純語(とりわけ、名詞)に止まり、複合語に触れ ることが少ないようである。しかし、複合語は「形態」と「意味」のみならず、 「発音」もまとまった一つの語が作られる。例えば、形態上では「青い鉛筆」は 修飾関係であり、 「青鉛筆」は複合名詞である。また、意味上では、 「青い鉛筆」 の外見は青いが、芯は青いとは限らない。それに対し、 「青鉛筆」は青い色が出る 鉛筆を指す(田中他 2012)。更に、 「青鉛筆[aoe'mpitsɯ]」のアクセントは一つし か持たない。もし、アクセントが元のまま(「青[a'o]」と「鉛筆[empitsɯ]」)だ と、形態と意味に合わず発音も不自然である。また、場合によっては、コミュニ ケーションに支障を来たすこともある。 本稿はよく見られる「複合名詞」を中心に考察し、生産的な規則1によって作ら れた複合名詞のアクセントに関して、音声産出実験で台湾人日本語学習者と日本 語母語話者(以下、学習者と母語話者と呼ぶ)のアクセントの相違を明らかにし たい。また、どのような複合名詞アクセントが学習者にとって困難であるかを調 査・分析し、今後の複合名詞アクセントの指導に向けて提言したい。 2.複合名詞のアクセントを決める要因及び複合名詞アクセントの種類 日本語の複合名詞のアクセントを決定する要因として、複合名詞の後部要素の 拍数とアクセントの型と語種(和語・漢語・外来語)が挙げられる(NHK 放送文 化研究所 2000、山下 2005、朱 2008、松森他 2012、黄 2013) 。そのうち、後部要 素の拍数の場合、簡単にまとめると、例えば、 「フランス・語(1 拍) 」は「○○・ ○○2」 、 「フランス・人(2 拍) 」は「○●・○○」 、 「フランス・料理(3 拍) 」は 「○○・●○」である3。つまり、 「●(アクセント核)」は後部要素の拍数により、 一定のパターンになる。もちろん、前部要素にいずれの語彙を入れ替えても、ア クセントが変わらない。即ち、前述した「生産的な規則」である。 また、アクセントの型の場合、アクセント核は前部要素に来るか後部要素に来 1 「生産的な規則」とは、複合語は単純語のように 1 語ずつ覚えなくても、そのアクセントは規則 によって無限に作られる(松森他 2012)。例えば、 「〜式(平板型)」や「〜県(-3 型)」が挙げられ る。 2 ここでは、拍数に関係なく、前部要素と後部要素を統一して各 2 拍で示す。 3 これらは後述の(表 1)4.前後崩壊型に当たる。 2 56 るか、或いはアクセント核を持たない。これが後部要素の拍数の場合と同様であ る。語種の場合、漢語は特殊拍(鼻音・促音・長音)を持っているため、アクセ ント核が該当拍の前か後ろかに来る。或いはアクセントが平板型になる。なお、 アクセントの型の場合は後部要素のアクセントを問わず、複合名詞となると、新 しいアクセントが生産され、しかも、後部要素の拍数の場合と同じであるため、 本稿では検討しない。そこで、複合名詞のアクセント・パターンの分類は先行研 究のうち最も詳しい松森他(2012)に従い、(表 1)にまとめ、調査を進めたい。 松森他(2012)によると、複合名詞アクセントの種類は(1)2 語連続、(2)不完全 複合名詞、(3)1 単位の複合名詞である。また、分類の難しいものもある4。しか し、その命名がややわかりにくいため、本稿では(1)そのまま型:前部要素と後部 要素のアクセントが変わらない複合名詞、(2)後部決定型:後部要素がアクセント を決定する複合名詞、(3)曖昧型:アクセントが後部決定型か前後崩壊型を明確に 区別しにくい複合名詞5、(4)前後崩壊型:前部要素と後部要素が結合すると、元 のアクセントに関係なく、アクセントが一つになる複合名詞とする。なお、紙幅 に限りがあるため、これらに当たる説明は(表 1)を参照されたい。 注:( )内の「複合語アクセントの種類」の命名またその語彙例は松森他(2012)から引用したものである。 4 本稿では、この類の複合名詞アクセントを「曖昧型」と呼ぶ。 例えば、(表 2)に取り上げられた実験語である「〜屋根」は単純語の「屋根(や'ね)」にせよ複 合名詞の「草屋根(くさや'ね、くさやね)」にせよ、そのアクセントは「後部決定型」か「前後崩 壊型」に明確に分類できないため、本稿では「曖昧型」とした。一方、本稿は「後部決定型」の 後部要素を 2 拍以上の語彙に設定しているため、 「距離」は「前後崩壊型」の 4①-2 例外に分類し た。しかし 、(表 1)の分類に従うのなら、拍数と関係なく、 「〜距離」も「〜屋根」と共に「曖昧 型」となってしまう。よって、今後、松森他(2012)の分類を改めて検討する余地がある。 5 3 57 3.実験方法 本稿の実験方法は以下のようになる。 (1)実験語:本稿は(表 1)の分類に従い、NHK 放送文化研究所(2000)6 、朱(2008)、 松森他(2012)に載せた 35 語(和語・漢語・外来語・混種語)を実験語として選択し、 (表 2)にまとめた7。ただし、次のような語彙は対象外にする。 ①お、ご+名詞:これらは尊敬と美化の表現に扱われるため、接頭辞の「お」と 「ご」がなくても、意味が変わらない。例えば、お手紙、お花、ご家族がある。 ②前部要素が動詞連用形から来た複合名詞:前部要素が動詞連用形から来たもの なら、そのアクセントは終止形のアクセント(平板式か起伏式か)に従い、規則化 される。しかし、本稿は純名詞でできた複合名詞のみ考察するため、このような 語彙を実験語としない。例えば、消しゴム、飲み物8などが挙げられる。 ③数字+助数詞の造語:数字でできた造語はアクセントの例外が多いため、実験 語から省く。例えば、3 階と 3 回、5 本と 5 人のアクセントの相違がある。 ④2 拍語と 2 漢字語:先行研究のうち、朱 (2008)のみは「義務、価値(2 拍語)」 と「秩序、期間(2 漢字語)」のような語彙を複合名詞とする。しかし、 「義務(ぎ む)」や「秩序(ちつじょ)」は拍数が少ないため、実験語に入らない。なお、本稿 の実験語は 4 拍語以上のものと定めた。 ⑤連濁の起こった複合名詞:連濁の現象が起こると、普通、アクセント核は複合 名詞の後部要素の初頭拍に来るため、学習者にとって予測しやすい9。また、その 習得は困難ではない。よって、実験語から除外する。例えば、蝙蝠傘や貿易会社 がある。 ⑥複数アクセントを持つ複合名詞:複数アクセントを持つものなら、(表 1)の前 後崩壊型のどの項目に入れるかは困難である。例えば、ゴミ箱のアクセントは「ゴ ミばこ(4①-1)」 、 「ゴミ'ばこ(4①)」 、 「ゴミば'こ(4①-2)」がある10。 ⑦母音無声化のある複合名詞:母音無声化が起こると、アクセント核が移る。例 を挙げると、「音楽会」は「おんが'くかい」と読み、「く」は無声化され、アク セント核が前の「が」に移る。そのため、母音無声化のある複合名詞は実験語に 6 該当文献の付録-資料集・解説-の p.30-62 を参照されたい。 (表 2)2.後部決定型の外来語の 3 例(〜マーケット)は先行研究において 4 拍語以上のものが見 つからないため、筆者が考えた。 8 終止形「消す(けす) 」は平板式であるため、連用形「消し」は「けし」となる。一方、終止形 「飲む(の'む) 」は起伏式であるため、連用形「飲み」は「のみ'」となる。従って、複合名詞の 「消しゴム」は「けしゴム」となり、 「飲み物」は「のみ'もの」となる。 9 無論、平板型の例もある。例えば、 「〜顔(がお):心得顔」や「〜側(がわ):日本海側」が挙げ られる。 10 数字の意味は(表 1)を参照されたい。 7 4 58 入れない。 注:1①や 4①などは(表 1)に従った分類である。 (2)実験対象:本稿の実験対象は計 8 名である。そのうち、母語話者 2 名(男女各 1 名)は東京出身者、40 代の日本語教師である。学習者 6 名(男女各 3 名)は SH 大 学の日本語学科二年生、既に一年間「日語発音」の授業を履修した者である。以 下、母語話者を「JM(日本人男性) 」と「JW(日本人女性) 」 、学習者を「TM(台湾 人男性) 」と「TW(台湾人女性) 」と呼ぶ。 (3)録音の機材と方法:録音機材はノートパソコンとコンデンサーマイクを使用し た。録音する前にインフォーマントに 15 分間、ランダムに並べた(表 3)実験語の 読み方を確認させ、その後、(表 3)を回収した。また、録音時は静かな部屋で実 施し、PPT により実験語とその読み方を無造作に提示し録音を行った。 5 59 4.実験結果とその分析 本稿の音声産出実験の分析は筆者が耳で聴取し、また、音声分析ソフト Praat でアクセントの正確さを確認した。以下、母語話者と学習者の複合名詞のアクセ ント相違を述べたい。なお、(表 4)は学習者による実験結果である。 (1)母語話者の場合:母語話者 JM と JW の音声データを分析してみたところ、 「草 屋根」のアクセントは平板型となっている。当初予想した「くさや'ね」と相違し ているものの、NHK 放送文化研究所(2000)によると、 「草屋根」は「くさやね(平 板型) 」と「くさや'ね(-2 型)」の二つの読み方があるため、正しいアクセントと 認められる。実験後 JW に対するインタビューは、前部要素が 2 拍語の場合、 「○ ○屋根」を平板型と読んだほうが一般的であると確認できた。 一方、アクセントは「そのまま型」の「利害損得」 、 「合格者発表」 、 「高性能携 帯電話」は、JW が JM、先行研究の朱(2008)、松森他 (2012)と相違し、 「前後崩壊 型(4②)」と発音した。つまり、「利害損'得」、「合格者発'表」、「高性能携帯電' 話」である。これらの複合名詞は JW にとって複合性が強いため、アクセントを後 部要素の初頭拍につけて発音したということである。 (2)学習者の場合:紙幅の関係上、学習者による実験結果を (表 4)に簡易にま とめた。これでわかるように、全体的から見れば、誤る頻度が最も高い複合名詞 アクセントの種類は「そのまま型」である。その次は、 「前後崩壊型」 、 「後部決定 型」 、 「曖昧型」となっている。何故なら、 「そのまま型」は語彙一つでありながら、 アクセントを二つ持っているからである。仮に、学習者は教わったことがなけれ ば、アクセントを一つと発音する場合が多いと考えられる。(図 1)は母語話者(JM) と学習者(TM2)による「取引中止」の音調曲線である。左の母語話者の音調曲線は 二本見られ、山(アクセント核)も二つ見られる。それに対し、右の学習者のは 一つしかなく、山も一つのみである。また、母語話者の「取引中止」は前部要素 の「取引」と後部要素の「中止」の間に隙間が見られ、つまり一度息を区切って 再び発音したことがわかる。しかし、学習者は隙間がなく、連続して発音したこ とが明らかである。一方、 「前後崩壊型」は 4 種類のうち、最も複雑である。その アクセント核は後部要素の拍数により移る。或いはアクセントを無くす。このよ うに、指導する際に、この 2 種類のアクセント・パターンにより注意すべきであ る。また、 「後部決定型」と「曖昧型」は全てアクセント核が後部要素の初頭拍(二 つ目の語彙の初頭拍)に来るため、学習者にとって困難ではない。逆に言えば、 教わったことのない複合名詞のアクセントを学習者は後部要素の初頭拍に置く傾 向が多いと言える。 6 60 注:数字は(表 1)に従い、 「1.そのまま型」 、 「2.後部決定型」 、 「3.曖昧型」 、 「4.前後崩壊型」といった 複合名詞アクセントの種類を示す。 (図 1) 母語話者と学習者による「取引中止」の音調曲線の相違 以上、学習者全体の実験結果を見てきた。次に、個人差の場合を述べる。学習 者のうち、とりわけ、TM3 と TW3 はほかの学習者と大きな相違が見られた。TM3 は「利害損'得」 、 「短期海外留'学」 、 「高性能携帯電'話」のアクセントを JW と同 じ正しく発音したため、「そのまま型」の誤読は少なかった。しかし、「ヨーロ' ッパ金融政'策」を「ヨーロッパ金融政'策」と間違えた。つまり、彼はこれらの 語彙を見ると、 後ろからの二つ目の漢字にアクセントを入れたわけである。 また、 外来語の「ス'ーパーマ'ーケット」や「スポ'ーツセ'ンター」を「そのまま型」 のパターンで発音してしまった。なお、 (図 2)は母語話者(JM)と学習者(TM3)に よる「スーパーマーケット」の音調曲線である。左の母語話者の音調曲線は一本 しかなく、山(アクセント核)も一つのみである。それに対し、右の学習者のは 二本であるため、山が二つとなっている。更に、 「前後崩壊型」のアクセントは全 て間違った(表 4 を参照されたい)。他の学習者が「そのまま型」の誤読が多かっ たのに対し、TM3 は「前後崩壊型」で誤った発音をするという対照的な結果が出 た。一方、TW3 は高校時代から日本語を専攻し、どの複合名詞アクセントの種類 でも学習者のうち、誤読率が最も低かった。学習歴の長さ、或いは学習方法、音 7 61 声に対する知覚・産出能力などの要因が複合名詞アクセントの習得と関係してい るかを今後の調査課題にしたい。 (図 2) 母語話者と学習者による「スーパーマーケット」の音調曲線の相違 5.終わりに 本稿は母語話者と学習者の複合名詞アクセントの相違を調査した。その結果、 学習者のアクセントの間違いは区々であるが、その誤り度合いを大まかに言うと 「そのまま型・前後崩壊型」>「後部決定型・曖昧型」である。より良く且つ円滑 なコミュニケーションを目指すため、複合語のアクセントを指導することが重要 である。よって、前述した「形態」 、 「意味」に加え「発音」の指導を強化すると 共に、教師は複合語のアクセントを(表 1)のように分類し教える必要があると思 われる。今回の調査を通じて、今後の複合名詞アクセントの指導に向けて提言し たいと思う。 参考文献 中国語 黄華章(2013)『初學者的日語發音』致良出版社 朱春躍(2008)『語音詳解』外語教学与研究出版社 日本語 天沼寧、大坪一夫、水谷修(2001)『日本語音声学』くろしお出版 NHK 放送文化研究所(2000)『NHK 日本語発音アクセント辞典新版』日本放送出版協 会 田中真一、窪薗晴夫 (2012)『日本語の発音教室 理論と実践』くろしお出版 松森晶子、新田哲夫、木部暢子、中井幸比古(2012)『日本語アクセント入門』株 式会社三省堂 山下好孝(2005)「日本語複合語のアクセント付与規則」『北海道大学留学生セン ター紀要』第 9 号、p.79-90 8 62 2015 年國際學術研討會 「第四屆東亞語文社會國際學術研討會:日本研究的去疆界化與再疆界化」 漢日古語辞典編纂及び使用の伝統について Assoc. Prof., Dr. Lã Minh Hằng Tel: 0982354426 Ad: 183 Dang Tien Dong, Dong Da, Ha Noi, Viet Nam The Institute of Han Nom Studies はじめに 日本は韓国及びベトナムと同じく 1~2 世紀特に 5~7 世紀ごろから漢字文化 の大きな影響を受けた。 漢字がそのまま使用さられたと共に各国にも漢字を借り 自国の文字を創作し多量の漢籍が書かれた。漢籍の増加に伴い数多くの古語辞書 も編纂された。 古辞書の中に、節用集との名称は世く知られた。節用集は日本文明を特徴づ けるものである。多種多様な節用集が、長期間にわたって作られ続け、版を重ね たことにより、節用集は日本人の生活上において極めて大きな意味を持った。 古辞書の時代区分、流れ、普及性及び日本人生活の役割について考察を通じ て、本論は漢日古語辞典編纂及び使用の伝統と共に日本文明を検討したいと思う。 1.日本古辞書:時代区分と代表的な版文 1.1.辞書の時代区分 日本最古の辞書が何であったか、日本辞書史がどのようなもので幕開けをし たか、という問題は興味のあるところである。 日本辞書史は外国語辞書にはじまると言える。辞書史の時代区分について吉 田金彦氏1 は国語史、文化史の時代区分と一致するとされた: 第一期:奈良時代から平安初期まで。紀元六二○年頃~九○○年頃。 第二期:平安中期から院政時代まで。紀元九○一年頃~一一八三年頃。 第三期:鎌倉時代から室町時代まで。紀元一一八四年頃~一六○二年頃。 第四期:江戸時代。紀元一六○四年頃~一八六七年頃。 第五期:明治維新から現今まで。紀元一八六八年頃~一九七○年。 辞書史における各期を次のように呼んでいる:第一期を古代前期とし、辞書 の草創期;第二期を古代後期とし、本邦辞書の形成期;第三期を中世とし、辞書 の展開期;第四期を近世とし、辞書の普及期;第五期を近代とし、辞書の躍進期 とする。古辞書と称するのは、一般に室町時代末期までに編纂された辞書類の総 称である。下節では先ず第一、二期の古辞書を系統的に検討し、日本古辞書の草 創、形成を理解し、次に節用集をはじめ中世期の辞書を考察したいと思う。 1.2.各種古辞書 1 吉田金彦、1971、辞書の歴史、『講座国語史3、語彙史』、大修館書店。 64 イ.奈良、平安時代の古辞書: 日本辞書史が「漢語抄」という対訳辞書に始まることは証明されている。 「漢語抄」とは和語(日本語)を似て漢語 (中国語) を説明するスタイルを持つも のであることが判る。「漢語抄」として最も著名なテキストは、『和名類聚抄』に 引用されている『楊氏漢語抄』である。この書は養老年間(七一七年~七二四 年)成立された最古の辞書だと認められた。 当時、日本人は中国の『説文解字』及び『玉篇』を利用したと共に『新撰字 鏡』 や『類聚名義抄』(以下『名義抄』と省略)という日本古字書を編纂した。 『新撰字鏡』は後代への影響はほぼなかったと考えられているが、改編本系『名 義抄』や世尊寺本『字鏡』などには、明らかに影響がある。しかし、漢和字書と して『新撰字鏡』の価値は、『名義抄』の出現によって、取って代わられた感があ る。『類聚名義抄』は珍しく、後世に広く知られた古字書であった。『篆隸万象名 義』も、この時期によく重視された版である。『篆隸万象名義』は『玉篇』3の注 部分を略化し、二つの書体(篆書と隸書)を示したものである。 2 『和名類聚抄』(以下『和名抄』と省略)は源順(九一一年~九八三年)が 二十四歳のころに勤子内親王の命によって撰述され、意味分類の類書形式の辞書 である。『和名抄』は『漢語抄』の集大成として成立した。『和名抄』には十巻本 と二十巻本とがあり、近世までよく用いられているのである。『和名抄』を引用 し、字類抄系という中世辞書である『色葉字類抄』(十二世紀)が形成された。 ロ.鎌倉時代の古辞書: 鎌倉時代になると古辞書史は展開期に入る。『類聚名義抄』を継続し、『和名 抄』を引用し、部首引きとイロハ引きという二種の漢和辞書を形成された。その 上、学問専用という漢和辞書も編纂された。 ロ1.部首引き漢和辞書:原撰本系『類聚名義抄』は鎌倉時代に入り、大幅 な改編がなされた。辞書史的には前代の『新撰字鏡』、『和名類聚抄』、『類聚名義 抄』を集大成し、後代の漢和辞書の源泉となって『倭玉篇』、『旧倭玉篇』が形成 された。そのような前代の辞書は史的にみて重要な位置を占める。 ロ2.イロハ引き辞書:院政、鎌倉時代になると「イロハ引き」という各種 辞書が形成された。前代までの辞書が、与えられた漢字をどう読むかという目的 であったのに対し、字類抄系統本は、和語にどのよう な漢字を当てるかという目的の辞書である。『仙源抄』 はイロハ引き辞書としてよく知られている。字類抄系 統の諸本には下種がある:『色葉字類抄』、『節用文 字』、『世俗字類抄』と『伊呂波字類抄』。 型 1 :『いろは字』版 2 西崎亨氏『日本古辞書を学ぶ人のために』79 ページ:『新撰字鏡』は全体の三三%が『玉篇』からの引用で あると認められた。『新撰字鏡』は昌泰年間(八九八年~九○一年)に成立し、一八○○余りの和訓を記載し、 現在最古の漢和字書として知られている。 3 『玉篇』の原本は伝わっていない。 『玉篇』の抄録本である『篆隸万象名義』の完本が知られているので、 これを『玉篇』の一異本として利用することができる。(西崎亨氏『日本古辞書を学ぶ人のために』80 ペー ジを参照)。 65 ロ3.学問専用の漢和辞書は下記の三種がある: ?、韻字書系譜の辞書は漢詩文を作成する時漢字の平仄、所属韻と故事を調 べたいという辞書である。『文鳳抄』、『平他字類抄』4と『聚分韻略』5は韻字書と してよく使用された。 ?、漢詩文の参考書と並行しているのが、歌学書である。鎌倉初期成立の 『和歌色葉』特に『八雲御抄』は注目された歌学書である。 ?、語源辞書の成立からは、この時期漢字の受容が深いことが確認される。 『名語記』は代表的な語源辞書である。『名語記』を調べることにより、当時の訛 形、言語意識、地域差、身分差、豊富な擬声語、擬態語、口語的な表現などの様 々な言語情報が得られる。 ハ.室町時代の古辞書: 『下学集』、『節用集』及び『倭玉篇』は室町時代の代表的な古辞書であっ た。『下学集』には室町時代の文書語、世俗語の三一一○語の漢字書きの語句を天 地門、時節門、神祇門などの一八門に意味分類し、それぞれに依拠する漢語を漢 字表記した上で排列し、この右傍に読み方を片仮名で記す。 『運歩色葉集』は現存三冊で、見出し語の当時の語彙量は一万七千余語があ った。これはイロハ引きによる語の検索のために用いる辞書である。『下学集』と 『運歩色葉集』は『節用集』の形成に重要な影響を与えた。 この時期に五十音引き『温故知新書』6という辞書も形成された。この辞書 には五十音順の部に意味分類の門があり、こらは韻辞書の『聚分韻略』の乾坤門 から始まって時候、気形、支躰、態芸、生植、食服などの十二門に下位分類さ れ、五十音分類の現存最古の辞書である。 キリシタン資料としての辞書である『落葉集』も編纂された。『落葉集』の 特徴は字音語、イロハ引きによる「色葉字集」といった 国語辞書そして単漢字部首篇立ての漢和辞書といった三 種辞書の合冊形式であった。 『節用集』の形成は日本での漢字受容に特別な意 味を持つ。特に、室町時代の『節用集』が基礎となって 近世において様々な形式の『節用集』が形成され、漢字 の知識を広範な人々が受けられるようになった。 型 2 :『和名集』版 2.古辞書の流れ 2.1.古本節用集の特徴 節用集という書名は元々『論語』学而篇の「節用而愛人」の意味で用いられ 4 西崎亨氏『平他字類抄』には漢字を意味分類し、これを更に平仄に分類している。現存の『平他字類抄』は 全て江戸時代中期以降の書写であると認める。 5 西崎亨氏は『聚分韻略』は漢字を韻に分類し、簡単な漢字注を付した韻書、更に作詩のための意味分類がな されていると述べる。 6 『温故知新書』は所収語数が約一万三千語。五十音引辞書の現存最古のものであると認められる。 (西崎亨 氏『日本古辞書を学ぶ人のために』、世界思想社、220 ページを参照)。 66 た。この「節用」は費用や時間を節約するという意味である。一方、「節用」は 『史記』の本文中「節用(日常随時用いる)」の意味とも考えられる。しかし、こ の「節用」語自体が節用集には収録されていないのも不思議である。 「節用集」とは、もともと室町時代に成立した国語辞書の名称で、当時の書 き言葉を語頭仮名のイロハ順で大別し、その下を天地、時節、草木、人倫など 12 前後の意義範疇(門)で細分し、別に多少の注記を示すのが特徴である。門名に は『聚分韻略』の影響が認められる。連歌を作ったり手紙を書いたりする際に、 語を漢字でどう書くか確かめるために引く辞書である。 原本は失われており、現存する室町時代の諸本にも序や跋文が無く、編者や 成立年代を特定することは難しいが、編纂の基礎資料となった『下学集』の成立 (文安元<1444>年)以降、現存最古の写本『文明本節用集』の記述(文明六< 1474>年)以前の成立と見られ、編者も収録語から禅宗の僧侶が関係していると 推定されている。 節用集は室町時代後半(1393 年~1573 年)から明治時代前期までよく使わ れた漢和辞書の総称である。節用集は訓(カナで表記)から漢字が調べられる。 節用集は漢字が書けずカナだけ読める人々にとって便利である。諸古本には付録 の部分は少なく、語彙の説明(辞書の部分)が主な内容である。例:『易林本節用 集』、(以下『易林本』と省略)には語彙の説明は 86%7を占め、残った部分(14% を占める)には十幹、十二支、京師九陌横竪小路、分毫字様などを記載する。後 期節用集(『易林本』)以降の諸本は逆に語彙説明の部分を減らすようになって、 60~70%しか占めない。 2.2.諸本節用集の分別 江戸時代初期までの節用集は古本節用集と呼ばれる。古本節用集は現存 62 本がある。その中に刊本は天正 18 年本、饅頭屋本(二本)、易林本(四本)と草 書本合わせて8本がある。写本は合計 37 本がある。残る 17 本8については写本だ か刊本だか研究者がまだ結論を出していない。 本文の構成や付録など組織上の相違で三つに分類され、これが冒頭語の相違 にほぼ応ずるので、それを用いて伊勢本、印度本、乾本と称する。 諸本の系統を知るには、辞書冒頭イ部の天地門に最初の語を見るのが近道で ある。国名「伊勢」(イセ) が最初であれば,その本は原本に近い「伊勢」本類に 属する。のちにこの「伊勢」が巻末の「日本国名尽」に移されたため「印度」(イ ンド) が最初となった「印度」本類が現われ、続いてイロハ順の整備によって 「印度」がヰ部に移り「乾」(イヌヰ) を最初とする「乾」本が作られたと推定 されている。62 古本の中に「伊勢」本が 24 本、「印度」本が 16 本、「乾」本が 5 本ある。残る 17 本には書名と現蔵図書館が知られているが、別の情報が無く: ?、書名及び現蔵図書館を詳しく書いたのは 8 本がある。その本について、 今後研究者の考察を待つと希望する。 ?、書名のみ知られていて、別の情報が無い。そのような本は 9 本がある。 それらは「有名無実」という状態本である。諸本節用集について表1を参照: 表1:諸本節用集一覧 7 8 『易林本』である各部分の長さ(ページ数)に基づく。 それらは、書名若しくは書名及び所蔵図書館しか知られない。 67 本量 合計 節 用 集 総量 刊本 3 伊勢本 写本 21 31 未詳 刊本 7 0 印度本 写本 16 23 62 未詳 刊本 7 5 乾本 写本 0 8 未詳 3 『易林本』(4本)は乾本に属して、全部刊本である。それが基礎となって 近世節用集の数百本が形成された。そのため、代表的な古本節用集として『易林 本』は研究者の注目を得られている。 2.3.易林本及びベトナム『大南国語』との比較 諸本分類から見ると節用集は時代別に古本節用集と近世本節用集 (60 古本と 500 近世本と対応) の 2 種類が分けられた。古本諸本から見ると版本節用集と写本 節用集の 2 小類が細分された。しかしながら、中国文化圏におけるベトナムでは 古語辞典が 14 本で 3 種類に分けられた。本節で日本語『易林本』とベトナム語 『大南国語』は類似点について考察し欲しい。 両者配列について:『易林本』は語頭順と意味別で細分された。しかし、『大 南国語』の場合は意味のみで細分された。詳しく表2を参照。 表2:易林本と大南国語の配列 配列 出典 易林本節用集 大南国語 部 語頭順の配列 有る 無い 門 意味配列 有る 有る、小さく分ける 『易林本』には語頭順でイ、ロ、ハ、ニ、ホ、へなどの 47 部が分けられ、 続いて部の中に意味別で乾坤門、官位門、人倫門、草木門、衣食門などの 17 門が 細分された。ベトナム古辞書『大南国語』には『易林本』と違って意味分類のみ で天文門、地理門、人倫門、身体門、宮室門などの 50 門が細分された。検索能率 という点では、『易林本』のほうが使用しやすいと考えられる。『易林本』の組織 は下の点を注意しなければならない: 2.3.1.門配列 『易林本』での門配列が順に従わない。例: ?、伊部配列順番は乾坤門、官位門、人倫門、草木門、気形門、衣食門、 器財門、支体門、数量門、名字門、食服門、時候門、官名門、神祇門、人名門、 言語門と言辞門だ。 ?、邊部には乾坤門、時候門、官位門、人倫門、支体門、草木門、気形 門、食服門、言語門の順番である。 ?、太部は乾坤門、官名門、人倫門、支体門、草木門、気形門、食服門、 神祇門、名字門、器財門、言語門の順番である。 認め:『易林本』での門配列は一定の規則を守らないと言える。『易林本』の 68 門配列について表3を参照9。 表3:『易林本』の門配列 乾 官 人 草 気 衣 器 支 数 名 坤 位 倫 木 形 食 財 体 量 字 1 2 3 4 5 6 7 8 9 1 0 イ ロ ハ ニ x x x x x x x x x x x x x x ホ ヘ ト チ ユ メ ミ x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x 食 服 1 1 時 候 1 2 官 名 1 3 神 祇 1 4 人 名 1 5 x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x 言 語 1 6 言 配列順 辞 1 7 x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x 1,2,3,4,5,6,7,16 1,2,8,4,5,6,9,7,16 1,2,3,4,5,6,9,10,7,16 1,3,4,5,11,7,9,10, 17 1,12,3,8,4,16 1,12,2,3,8,4,5,11,16 1,12,2,3,4,5,11,16 1,12,3,4,8,5,11,7,16 1,3,8,15,4,17 1,3,8,5,4,11,17 1,3,8,5,4,11,7,10,17 2.3.2.門名 イ.『易林本』内、各部において門名は異なる場合がある。例: 言語門(伊部、路部、波部)>言辞門(仁部、礼部、良部など)。 衣食門(伊部、路部、波部、久部)>衣服門(登部、知部、利部な) 。 ロ.ベトナム語『大南国語』との比較と門名は差別がある: 『易林本』では門は 17 個があり、『大南国語』では 50 門に達する。そのた め、両者の門名が非常に違う。両者門名の対応は下のようになる: ロ1.一対一:即ち『易林本』の A 門は『大南国語』の B 門に当たる。例: 『易林本』人倫門 =『大南国語』人倫門、 『易林本』言語門(言辞門)<>『大南国語』俗語門。 ロ2.一対二:即ち『易林本』の A 門は『大南国語』の B 門と C 門に当た る。例:『易林本』乾坤門 →『大南国語』天文門と地理門と分けられ、 『易林本』身体門 →『大南国語』身体門と身体挙動門に分けられる。 ロ3.一対数:『大南国語』では詳しく分ける傾向があって『易林本』の1門 は『大南国語』の数門に当たる。例: 『易林本』 :食服門 →『大南国語』 : 飲食門、餅餌門、冠帯門、衣服門と女 妝門に分けられる。 『易林本』:器財門 →『大南国語』:火用門、器用門、撒網門、舟船門、鑄 治門、法器門、公器門と兵器門に分けられる。 『易林本』: 草木門 →『大南国語』:百花門、百果門、蔬菜門、百草門と百 9 本論の限定に関して表 2 には『易林本』所出の 47 部を全て挙げない。 69 木門の 5 門に分けられ; 『易林本』 :気形門 →『大南国語』:羽虫門、毛虫門、鱗虫門、甲虫門と虫 豸門の 5 門に分けられた。 特に『易林本』の器財門において幾つかの語彙が『大南国語』の文事門、珍 寶門、織絍門等の門に属する。例: 「鏤盤」→『大南国語』 :珍寶門に属する、 「白楮」→『大南国語』:文事門に属する、 「玻璃」→『大南国語』:珍寶門に属する、 「織物」→『大南国語』:織絍門に属する。 門名対応について詳しく表4を参照 表4:両辞典における門名の対応 易 乾 坤 1 官 位 2 人 倫 3 草 木 4 気 形 5 衣 食 6 器 財 7 支 体 8 数 量 9 大 天文 地理 餅餌 女妝 錦繍 衣服 火用 器用 撒網 舟船、 鑄治 法器 公器 x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x x 作用 文事 神 祇 1 4 x 織絍 采色 冠帯 官 名 1 3 x x 婚姻 耕農 蠶桑 飲食 時 候 1 2 x 身体 菽粟 食 服 1 1 x x 人倫 身体挙 動 宮室 名 字 1 0 x x x 70 人 名 1 5 言 語 1 6 言 辞 1 7 兵器 x x x 珍寶 衆香 雑技 人品 酬応 x x 疾病 x 喪祭 x 喪礼 俗語 百花 百果 蔬菜 百草 百木 x x x x x x x 羽虫 x x x x x 毛虫 鱗虫 虫甲 虫豸 水部 土部 金部 注 :線が付いたところが筆者の提案である。 2.3.3.門内における詞目 意味範疇から見て『易林本』には間違った門に置いた言葉がある。例: 「八月」と「六親」:数量門に置く→ 提案:言語門に属する。 「一券」、「一杯」、「一部」:言語門に置く→ 提案:数量門に属する。 「腹」、「歯」:人倫門に置く→ 提案:支体門に属する(体の一部分だ)。 「扁鵲」、「東方朔」、「東坡」、「楊雄」、「王維」、「王羲之」、「屈原」、「楊貴 妃」:人倫門に置く→ 提案:人名門に属する。 3.節用集の普及 3.1.『節用集』の主流 節用集諸本は非常に多く、古本節用集は 60 本、近世節用集は 500 本にも達 した。60 古本の内、古写本系『文明本節用集』と刊本系『易林本』は代表的な古 本だと認められる。乾本諸本『易林本』が基礎となって近世の節用集が形成され た(写本、木印本、銅活字小型本を含む)。従って『易林本』について厳密な研究 を行えば、単に典型的な古本節用集を理解できるだけでなく、その後期諸本に対 しての役割も明らかになると思われる。 71 江戸時代には出版文化の隆盛と識 字層の広まりのなか,「早引節用集」 「真草二行節用集」、「女節用」、「俳諧 節用集」等,様々に増補・改編された 刊本が数百種(500 本ぐらい)にのぼ り,「節用集」はイロハ引きの実用辞書 の汎称となって明治まで出版が続く。 特に日本語史の資料としては,15~16 世紀の古写本・古刊本が,当時の語彙 や漢字表記の実態を知る資料として, 型 2 :『近世辞書論考』122 ページによる 重視され「古本節用集」と呼ばれて江戸時代以降 の「節用集」と区別されている。また「古本節用 集」は,諸本間の収録語や意義部門分けに異同が 大きく,それらの系統や影響関係は国語辞書とし ての成長を示すものとして,辞書史上でも重要な 研究対象である。 江戸時代に小型乾本という早引き節用集 10 諸 本が益々増加した。以下、早引き節用集、いろは 節用集の影印を参照。(『近世辞書論考』による)。 型 1 :『近世辞書論考』104 ページによる 3.2.『節用集』とその日本人文化生活の役割 最初、節用集は僧侶、貴族、上級武士、芸術家だけが使用した。時代が下る に従って、一般の人々も使用するようになった。いよいよ、節用集の内容も改編 された。 節用集は家庭用の百科辞典として使用された。当時、節用集は漢字表記、読 み、字体、用字をはじめ漢字用法の種々相について知る辞典の役割だけでなく行 政的な文章、生け花、茶道など生活上の多方面の参考書や日本全国の神社、お 寺、皇室などのカタログでもあった。特に日本語史の資料としては、15~16 世紀 の古写本・古刊本が、当時の語彙や漢字表記の実態を知る資料として重視され、 「古本節用集」と呼ばれて江戸時代以降の「節用集」と区別されている。また 「古本節用集」は、諸本間の収録語や意義部門分けに異同が大きく、それらの系 統や影響関係は国語辞書としての成長を示すものとして、辞書史上でも重要な研 究対象である。 そのため、節用集は日本文明の表現だと認められる。節用集(特に江戸時代 の諸本節用集)を通じて日本人の当時の社会生活・言語生活が理解される。 イ.全国の道路、当時の社会などの知識を紹介する。節用集には世界地図、 日本地図、江戸、京都、大阪三つの大都会の景色、富士山の景色、日本全国の神 社、お寺、皇室などのカタログ等がほぼ記載されている。 ロ.19 世紀において、大切な手紙、行政的な文章は全て漢文で書かれた。 10 小型節用集には、語彙解釈の部分しかない。このような節用集はイロハ順と音訓での音節の数量により配 列された。これらは前期大型節用集により編纂された節用集である。 72 節用集は詩文を創作する人々にとして不可欠の参考書だと思う。彼らは難しい漢 字、漢字及び日用という大和言葉を区別する時必ず節用集を調べた。上記のこと は漢和辞書の主な内容になった。その他、節用集には言葉の実用(行政、社会的 な文書、手紙などの書き方)、食べ物の標準、着物、建物、カレンダー、生活上の 様々な規則(生け花、茶道など)なども紹介されている。それらは節用集の社会 的な役割だと言える。 3.3.『節用集』の出版 江戸、明治時代において、節用集の出版、使用は更に拡大した。市内で住ん でいた人々だけでなく、侍、商人、各地の農民も節用集を使用し始めた。当時、 節用集は一般的な人々も親しむようになった。 この時期において、上記の 500 本を超えて、1000 本の節用集が出版された 。従って、出版社は全国各地にあったと認められる。当時、薬と節用集は深い 関係があり、薬名は節用集の後ろに書かれて、薬屋さんは同時に節用集を売り、 配る人にもなった。その時、多くの薬屋も節用集の出版社になった。特に、広告 のために、薬屋さんは小型節用集を人々に献呈した。 11 終わりに 節用集が編纂されたことによって、日本は文明国家への路をたどった。節用 集は日本文明を特徴づけるものである。多種多様な節用集が、長期間にわたって 作られ続け、版を重ねたことにより、節用集は日本人の生活上において極めて大 きな意味を持った。そのため、節用集を厳密に研究すれば、日本文化と、日本に おける漢字受容をもっと理解できるようになると思われる。それは今後の課題で ある。 この論文に対して有益なコメントを下さった高橋久子助教授に感謝いたします。 参考資料 1.今西浩子編『易林本節用集漢字語彙索引』、和泉索引叢書48、和泉書院発 行、大阪市、2000 年。 2.上田万年、橋本進吉編『古本節用集の研究』、東京帝国大学文科大学要、第 2、大正五年三月。 3.安田章編『中世辞書論考』、清文堂出版、諸和58年9月10日発行。 4.山田忠雄編『本邦辞書史論叢』三省堂刊。 5.西崎亨編『日本古辞書を学ぶ人のため』、世界思想社、東京、2001 年第三刷発 行。 6.Yokoyama Toshio、The Setsuyoshu and Japanese Civilization、『Senri Ethnological Studies』16、 1984 年 12 月、1983 年 4 月。 7.関場武編『近世辞書論考-早引、往来、會玉篇』、慶應義塾大学言語文化研究 所、東京、平成六年発行。 Yokoyama Toshio、The Setsuyoshu and Japanese Civilization、『Senri Ethnological Studies』16、 1984 年 12 月、1983 年 4 月。 11 73 8.関場武編『中世近世辞書論考-洋学、往来、歌語辞典』、慶應義塾大学言語文 化研究所、東京、平成8年発行。 9.吉田金彦、1971、辞書の歴史、『講座国語史3、語彙史』大修館書店。 10. 中田祝夫編『古語大辞典』、小学館 11.安田章、『天理図書館、善本叢書、節用集二種』八木書店、 12.中田祝夫『古本節用集六種研究並び総合索引』昭和四三年四月。 13.『天正 18 年本節用集』東洋文庫叢刊第十七 74 日本語とベトナム語の音声単位の比較研究 発表者名:ホアン・アイン・ティ准教授 所属:ハノイ国家大学人文社会大学・言語学部 本論文は日本語とベトナム語の音声単位の相違点に注目する。日本語のベトナム人学習者の発音エラー がこれらの相違点からの原因を明らかにする。 キーワード:音節、拍、エラー 1. 日本語の音声単位 伝統的な音声学の見方はことばの流れから小さな単位分析することだと言え る。その単位は「音素」という。例えば英語の/ta/の音節は/t/に/a/を変えるこ となく/m/と交換され/ma/となる。また/t/と/m/をそのまま/a/を/u/と交換すれば、 /tu/は/mu/になる。この交換法で、音素間との境界が確立できる。それが音声 の専門的な単位だが、一般人にとって知覚できる単位は「音節」である。音 節は伝統的な音韻論の概念であるが、その単位が日本語の中にあるかどうか で様々な意見がある。Masayoshi Shibatani によると、「日本語の音声は音節 単位とモーラという単位で区別するのが必要だ」、また「日本語におけるモ ーラは1仮名文字で表記され、和歌や俳句のように日本詩の中で拍を組み合 わせて単位を構成する」と述べた。それによれば日本語の音声単位は「拍」 であり、モーラと相当する単位と明らかになった。 日本語学音声学者の中で、様々な意見があるが大きく二つに分けることがで きる。前者は音声的な単位である「音節」であり、後者は時間的長さに関連 のある音韻論的単位「拍」である。西郡仁朗(2006)によれば,「音節」は 音声学で扱われる伝統的な CVC 型の構造としてとらえられるが,「拍(モ ーラ)」は仮名文字1字(拗音の場合は2文字)に対応した区切 りを持つ音 声単位である。開音節構造を主体とする日本語の場合,多くの拍は音節と同 じ区切りとなるが,特殊拍の場合は音節と拍の間で相違が発生する。例えば, 「切手」/ キッテ/ は2音節であるが3拍であり,他にも「お父さん」/オト ーサン/ は3音節で5 拍、「新聞」/シンブン/は2音節で4拍とするのが一 般的な見解である。」 Masayoshi Shibatani によれば、音節は母音を中核的な要素とするため、母音 がなければ形成されない。一方、拍は子音のみでも形成される。上述の「切 75 手」/ キッテ/や「お父さん」/オトーサン/の場合、「ッ」と「ン」は母音で はないので音節にはならない。一般的には「拍」として認知される。 言語の音声単位について考察した時、筆者はカオ・スアン・ハオ氏の討論に 注目した。カオ・スアン・ハオ氏は音素と音節について言語学者と討論した とき、彼は音声単位が音素と主張する意見に反論しながら、日本語の事例を 挙げた。それによると、「音素」というのは西洋言語の(ローマ字・アルフ ァベットなど)影響を受けたもので、実際には存在しない。全て言語におい て、一方的な見解から解釈した音素という単位ではなく、客観的・自然的な 音声単位とは音節である。つまり、発音することができて、聞き取れる単位 は音節しかない。この音節は日本語では「拍・モーラ」である。(Cao Xuân Hạo, Tiếng Việt – Mấy vấn đề ngữ âm, ngữ pháp, ngữ nghĩa) 前述したように、殆どの観念は一致し、日本語の音声単位は「拍」であり、 等しい長さで発音すると認めたが、他にも異なる意見が存在する。殆どの学 者の意見は音声単位の長さに集中したので、文字側の見解がないがしろにな った。 佐野敦至氏は次のように述べている。「ここで金田一氏は拍というものを、 リズムによって物理的に、また意識によって心理的に捉えたつもりなのだろ うが、筆者(佐野)は拍として意識されているから、というよりもむしろ仮 名文字書記法によってそう意識させられているから、それを同じ長さで発音 するのではないかと思う」。この観念は先述のカオ・スアン・ハオ氏の観念 と所々一致している。つまり言語の音声は文字のイメージを必ず受けるので、 避けることはできない。 また、日本語音韻単位の基礎的な議論上で問題となるのは、促音・長 音・拗 音からなる特殊拍をどのように扱うかである。特殊拍は日本語の音韻上で大 きな特色となっている。西郡仁朗(2006)においては、外国人の日本語学習 者にとって、この特殊拍の学習が困難であると指摘されている。 上記の通り、日本語の音声単位について様々な見解が存在するが、次項はベ トナム語と日本語を比較し、どのような相違点があるかを考察したい。 2. ベトナム語の音声単位と日本語との相違点 レ・クアン・ティエン氏 (Le Quang Thiem) によると、ベトナム語において大 変大きな意味を持っている単位は音節である。各言語の音節と類型の音節は 同一ではないと述べた。西洋の言語と違い、ベトナム語の音節には3つの機 76 能がある。第一が発音の単位、第二が形態的単位、最後が意味的な単位のス リ・イン・オアン(3 in 1)である。「2004 年・各言語の対照研究 -(Lê Quang Thiêm, Nghiên cứu đối chiếu các ngôn ngữ)」 カオ・スアン・ハオ氏によると、言語学者の殆どが西洋言語の音声単位を扱 った方法を非科学的だと主張し、ベトナム語の習得においては必ず音節から やらなければならない。続けて、ハオ氏は次のように述べた。 「ベトナム語の音節は日本語の音節より複合的な構造(“3 in 1” ・筆者)であ る」 前述より、レ・クアン・ティエンとカオ・スアン・ハオ両氏は、ベトナム語 の基本的な言語単位は音素ではなく音節だと主張した。更にベトナム語の音 節は「チエン(tiếng)」と言われる。この 3 in 1 単位は、西洋各言語の単位 と異なり、次の機能を有している。1.発音の単位、2.語彙の構成、3. 単一 の音節でも、本格的な単語として機能する。 例えば、「“Hán”・カン」というチエンは1音節で、発音の1単位であり、 発音する際、必ずこのままの音節ごとに区切って発音する。そして 「“Hán”・カン」という音節は「“Hán Việt・漢越”」という語彙を構成する。 加えて「“Hán” 」という音節は単語にもなり、「漢」という意味を持ってい る。このような1音節の単語は日本語にも存在するが、ベトナム語ほど多く ない。ベトナム語の殆どが、1 音節で機能する単語で構成されている。例え ば、次の単語が典型的なケースである。「“nhà”・家, “bàn”・机, “bố”・お父 さん, “mẹ”・お母さん etc」 上述の通り、ベトナム語の「チエン」は 3 in 1 のように特有の機能を有する 単位である。 ベトナム語の音節は、末尾音韻に基づていると次のように4つの種類がある。 *末尾子音のない開音節(CV/Consonant Vowel):ta (ター), hồ (ホー), cũ (クゥ)... *末尾セミ母音(/w/, /j/)の音節(CVS/Consonant Vowel Semi-Consonant): tai (ターイ), may (マイ), áo (アオ)... *鼻末尾子音の音節(CVN/Consonant Vowel Nasal Consonant): tam (ターム), hàn (ハン), hồng (ホン)... 77 *無声末子音(/p/, /t/, /k/)の音節(CVC/Consonant Vowel Consonant): táp (タ ッ), mật (マッ), học (ホック)... 日本語の拍と比較すると、第一種類(CV)・開音節が同じように見えるが実 際はどうであるか。また、それが日本語を学習する上でどのような影響があ るのか。これらの問題について次項より考察していく。 3. 日本語学習者のベトナム語母語のエラー ベトナムにて、今日まで日本語音声に関する研究がなされてきたが、未だ不十分で あると考える。日本語の語彙や文法の面で注目された一方、音声単位、または母 音・子音など日本語の音声体系での研究が不十分であるといえる。そのため日本語 を学習するベトナム人の殆どにも反映されている。実際に筆者が大学二年生に講義 した時、「日本語音声単位とは何」と学生に質問したところ、殆どの学生が「音 節」と答えた。したがって、「拍」という概念はまだ知られていない。 3.1.拍の長さのエラー 日本語の拍を音節的な観点で俯瞰すると、閉音節「VC」、あるいは「CVC」 が存在しない。「V/V:」(例:絵・エ、王・オウ)、「CV/CV:」(例:肩・ カタ、項・コウ)の2種類に分けられるが、見たように両者は開音節である。 ベトナム語と比較した時、構成面は同一と見られるが発音面は重要な相違点 がある。前述のように、ベトナム語には、4 種の音節の中に、末子音のな い・開音節が豊富である。前記の ta (ター), hồ (ホー), cũ (クゥ)のような音節 を発音する際、音節の長さに制限がないので、無声末子音(/p/, /t/, /k/)の音 節と区別するために必ず伸ばしたほうが良い。 さらに、ベトナム語の音節は(六つの)声調を持っているため、開音節でも 長くなったり、短くなったりすることである。1 声の ta (ター)は長く発音 されるが 6 声の tạ(タ)は短く発音される。見たように、(ta ・ター)と (tạ・タ)両方は単音節だが前者は長く発音される一方、後者は短く発音さ れる。したがって、1 声の開音節は 6 声の開音節にならないように短く発音 してはいけないということである。つまり、無声末子音の音節と 6 声の開音 節は他の音節より短く、早く完成させている。 一方で、日本語の音節は拍とするのでは短音に決まった長さがある単位であ る。したがって、拍の長さがきちんと守られ、日本語を母語とする話者はは っきり理解できる。しかしながら、母語(ベトナム語)の影響を受けて、ベ トナム人の日本語学習者は「V」と「CV:」拍の長さを伸ばしてしまう傾向が 78 多い。つまり「V」と「V:」、「CV:」と「CV:」を区別しない場合が多い。 そのため、実際にコミュニケーションをする際、無意識に反映される。原因 として「V」と「V:」、「CV」と「CV:」区別せずに開音節として解釈する 背景が挙げられる。例えば、「四年生」は「ヨ・ネ・ン・セ・イ」と6拍に 分けられるがベトナム人の日本語学習者は前の部分を伸ばし、「ヨ・ウ・ ネ・ン・セ・イ」と7拍に発音する場合が多い。同じように、「定義」は 「テ・イ・ギ」と3拍だが後ろの部分は伸ばさあれ、「テ・イ・ギ・イ」と 4拍に発音される場合がある。先述の特殊拍は促音「ツ」・拗音「ツ」・長 音「-」三つで構成されるが、ベトナム語を母語とする話者はこの傾向のせ いで、長音「-」の有無を区別できていない。例えば、都会「ト・カ・イ」 と東海「ト・ウ・カ・イ」、井戸「イ・ド」と移動「イ・ド・ウ」など、長 さで意味を区別する単語において、ベトナム語を母語とする話者にとってこ の長さの区別は理解しにくいだろう。したがって発音の間違いと意味の誤解 が生じる。実際のベトナム人とのコミュニケーションに日本人が理解できな い場合もある。筆者の自分もこのような経験が発生した。本当は日本の「都 電・トデン」と表現したかったが「ト・ウ・デ・ン」に発音してしまい、日 本人の相手が理解できなかった。 3.2.拗音と二重母音の誤解 広辞苑によると、拗音は日本語の「ア、ウ、オ」の母音の前に半母音/j/を伴 い、「や、ゆ、よ」の仮名と他の仮名を下に加えた「キャ、キュ、キョ」な ど、2文字で表記される音節である。しかし、モーラの単位で見れば、普通 の拍と等しい長さの1拍として認知された。仮名2文字で表記されているが、 日本語の母語話者は1拍と認識している。拗音の構造上、2音素/j/と/a/から 成り立っているが、両方の要素を平等に扱い発音されるわけではなく、後ろ の要素を強調する。したがって、「ヨ」という単語の中には「イ」と「オ」 の二つに分けられるが、「オ」の方がはっきり聞こえる。 その一方、ベトナム語における二重母音が三つある。①/je/「イエ」、②ươ 「ウオ」口角を上げて発音する、③uô「ウオ」口を丸く開けて発音するの3 つである。これらは日本語と違い、平等に両方の要素が発音されなければな らない。なぜなら、この発声方法は主母音と末尾半子音の構成や、/u/韻と主 母音の構成を区別するためにある。例えば、「“tai”・ターイ」と「“toa”・ト ゥア」の場合は、それぞれが二重母音ではなく、(“/a/”)主母音と(“/j/”) 末尾半子音、/u/韻と(“/a/”)主母音の組み合わせである。、日本語の拗音に おいても、先述したベトナム語における母語の現象が反映されて、両方の要 79 素を強調される傾向がある。例えば、「よく」「ヨ・ク」が「イ・オ・ク」 に、病院「ビョ・ウ・イ・ン」が「ビ・オ・イ・ン」あるいは「ビ・イ・ オ・イ・ン」と発音する場合がある。 この現象の原因について、注目に値する方言特徴のための見解があるが次の ようである。ベトナム語には3の(北部弁、中部弁、南部弁)方言があるが 北部弁の中に/j/という音素がないので人達は発音できない。したがって、日 本語の「ヤ、ユ、ヨ」の/j/ができない人は北部弁の人しかない。この見解は ベトナム語方言の専門家ホアン・ティ・チャウ教授の見解であるが、も一度 考察することが必要だと思う。 本論文では、日本語を学習するベトナム人話者における様々なエラーの中から2種類を 取り上げて考察した。筆者の考察上、これらのエラーは初級レベルのベトナム人学習者 に限らず、日本語が達者なベトナム人にも共通する課題である。 参考文献 Cao Xuân Hạo 1998. Tiếng Việt – Mấy vấn đề ngữ âm, ngữ pháp, ngữ nghĩa. NXB Giáo dục. (カオ・スアン・ハオ 1998、幾らかの音声論・文法論・意味論の課題) Lê Quang Thiêm 2004. Nghiên cứu đối chiếu các ngôn ngữ. NXB Đại học Quốc gia Hà Nội. (レ・クアン・ティエン 2004「各言語の対照研究」 Masayoshi Shibatani 1999. The Languages of Japan. Cambridge University Press. 佐 野 敦 至 「現代日本語の音韻体系」 http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/234/1/3-521.pdf 金田一春彦 1967 「日本語音韻の研究」東京堂出版 西郡仁朗「日本語促音の自学自習教材“KITEKITTE”の開発 -‐ マルチメディア支援多言語対応 WBT 教材 1 」 http://nihongo.hum.tmu.ac.jp/~nishigori/paper/kitekitte.pdf 80 1 ファン・ボイ・チャウの「国民国家」観の形成と日本 ホーチミン市国家大学 NGUYEN TIEN LUC(阮進力) はじめに ファン・ボイ・チャウ(Phan Boi Chau、潘偑珠。以下「ファン」と略称) は 20 世紀初 頭ベトナム1の最も代表的な知識人活動家であるとして広く知られている。彼は在日期 (1905-1909)ベトナム民族運動を指導し、愛国宣伝のための著作活動も行った。その中 で彼ははじめて「国民」、「国家」をという概念を挙げ、新しい「国民国家」観を提起し た。それはベトナムにおける「国民国家」観の形成に大きな役割を果たしたと考えられ る。 本発表ではファンの在日期の「国民国家」観の形成過程とその内容、及び日本の「国民 国家」形成が与えた影響について検討する。そして、その後のベトナムにおける「国民国 家」観の形成と、彼の思想の果たした役割についても展望したい。 1.渡日以前のファン・ボイ・チャウの「国」、「民」観 19 世紀以前のベトナム知識人は君臣という概念を持ち、臣民と国土は天帝から天子 (国王)に託されたものであるという伝統的王国観に従っていた。つまり、彼らは臣民と 国土は国王の所有であり、国の根本は君主であり、また君主は君主を戴く国を前提として 初めて臣民が存在すると認識していた。つまり、民は国王の赤子=臣民であると位置づけ ていたことになる。 ファンは、1900 年郷試に合格したが官界に入る道を拒み、本格的な革命活動への道を 歩みはじめた。彼の活動舞台は一地方に限らず、全国的な広がりを持つに至った。それに よってファンは「国」の領域という概念の認識が変化したと見られる2。 次に、渡日以前のファンは「民」についてどのように認識したのか。彼の最初の著作は 『琉球血涙新書』であるが、現存していない。しかし、彼の回想録『獄中書』及び『年 表』にその内容の概略が記されている。まず、『獄中書』によると、「社稷滅亡の惨状、降 伏の国王がの奴僕となるの寄辱とを述べて、よろしく民智を啓き、民気を涵養して、滅亡 を救い恥をそそぐの基とせぬばならぬと説くこと万余言」3とある。他方、『年表』では、 この書は五段で構成されたという。その内容は、最初の一段は「亡国喪権の辱を痛言し、 将来結局の惨を予陳した。中の三段では、「救国図存の策を詳言した。第一に、「民智を開 くこと」、第二に、「民気を振るうこと」、第三に、「人材を田植えること」であり、最終段 ではフエ朝廷の要人に救国事業を行うよう要望し、自らも不朽の事業に勉励したと書かれ ている4。 ファンの回想録を見ると、「民」とは解釈していないが、少なくとも、「救国図存」のた 1 一般は「ベトナム」と表記しているが、引用した部分では「ヴェトナム」「越南」の表記も使っている。 20 世紀初頭のファンの民族活動の範囲の認識変化の詳細はグエン・ティエン・ルック(2008)『在日期の ファン・ボイ・チャウの活動』ベトナム語版、ホーチミン市国家大学出版社、13-21 頁を参照。 3 「獄中書」潘偑珠著、長岡新次郎・川本邦衛訳編(1966)『ヴェトナム亡国史 他』平凡社、112 頁。 4 「ファン・ボイ・チャウ年表(略称:年表)」『ファン・ボイ・チャウ全集』、越訳文、第 6 集、トゥア ン・ホア出版社、1990、138-139 頁。 2 81 2 めに、「民」に大きな期待を抱いていたのは明らかである。このような考え方は、伝統的 な知識人の観念にが見られないものだった。この点において、ファンの「民」に対する認 識は、19 世紀後半の知識人の「皇帝の赤子」という認識とは異なったと考えられる。 2.在日期のファン・ボイ・チャウの「国民国家」観の形成 2.1.渡日後のファン・ボイ・チャウの「国民」「国家」観 1905 年春、ファン・ボイ・チャウは武器援助を求めるために、日本に赴いた。渡日直 後、彼は『ヴェトナム亡国史』を執筆した。ベトナムの「最初の革命文書」1であるとさ れるヴェトナム亡国史』は、「国」概念を詳しく論じているわけでないが、「亡国」「国破 君亡」2という表現を繰り返し用いている。 まず、ファンはフランスがベトナムを都合よく統治するために、阮朝体制を存続させた ことに対して、これはベトナム「亡国」を意味すると訴えている。「ヴェトナムのもとの 国王はハム・ギ王であった。幼年で王位につかれてわずか一年、何の道ならぬ行いがあっ たわけでもなければ、何の罪科があったわけではない。(中略)しかし、フランス人は王 を追跡して捕らえ、遠い異境のアフリカのアルジェに遷した。そして、これを軟禁して外 部との接触を絶ち、ヴェトナム人の往来音信を禁じた」3。つまり、ベトナムの「正統」 国王はフランス人に故郷を追われ、外国に遷されたのである。他方、彼は「ヴェトナムの 現在の王は成泰王と言われる。フランス人は内殿をその住まいとしてとどめ、皇帝という 名をその称号として残してはいるが(中略)国王は一歩都を出れば、すべてフランス人の 指令に従わねばならず、国内の一切の政令・詔勅も先ずフランス人に伺いをたて、その応 諾を得てはじめて施行される」4と述べている。このように、ファンは「現国王」の政権 がフランスの傀儡政権に他ならないと見なし、阮朝の存続していても、ベトナムは「亡 国」の状態にあることを強調したのである。 以上の引用文は「亡国」とは「君亡」を意味するのではなく、むしろ、「君」は生きて いるにもかかわらず、「国」はすでに亡びたと指摘している。とするならば、ここでファ ンの念頭にある「国」とは、国王・朝廷と同様ではない。ファンは「国」概念を国王・朝 廷とを弁別しているのである。このように、この段階で、ファンは 19 世紀民族運動の皇 国観を越えて、新しい「国」観を提示したのである。 次いで、1907 年に執筆した『和涙貢言』の中で、彼は「国亡びて三十年、種の滅びる こと十のうちの六、七分」5と述べ、「亡国滅種」という概念を挙げている。同書で、ファ ンは次のように説明している。「何故『亡国』と呼ばれているのか。なぜならば、敵軍は 我が都を攻撃し占領し、我が国権を奪い、王は捕虜を投獄するように軟禁され、民は馬牛 を打つように虐待されている」、「何故『滅種』と呼ばれているのか。敵の野心は虎の餌を 食べるように、我が命脈を奪う。敵の政府は千万の税を収め、敵の商人はすべての我が利 1 チュオン・タウ(1962)「ファン・ボイ・チャウの思想変化に対する中国革命の影響」「歴史研究」、第 43 号、15 頁。 2 『ヴェトナム亡国史 他』、前掲、48 頁。同書の中で漢文「国破君亡」は「ヴェトナム国は破れ、国王は 牛われた」と訳されているが、ベトナム語訳版では「国は破れ、王は逃亡した」とされている。『ヴェトナ ム亡国史』の文脈を見ると、ベトナム語訳版の方がベトナムの現実に即していると考えられる。 3 「ベトナム亡国史」『ヴェトナム亡国史 他』、前掲、45 頁。 4 「ヴェトナム亡国史」、前掲、46 頁。 5 「和涙貢言」『ファン・ボイ・チャウ全集』、越訳文、第 2 集、トゥアン・ホア出版社、1990、52 頁。 82 3 権を奪ったので(中略)飢饉の人は先に死に金持ちは後に死ぬだろう」1。このように、 ファンは、ベトナムは国が失われたにとどまらず、その国を支える「種」の滅亡の危機に 立たされているという認識があった。 ここで注目されるのは、「亡国」はすでにげんじつのものとなったが、「滅種」はこれか ら生ずる可能性がるとしていることである。このことは、ファンが、「国」こそ滅びはし たが、「種」は依然存続しており、「種」が存続している上、救国を図ることはまだ可能で あるという認識を持っていたことを意味している。実際、彼は 1906 年の『海外血書』(初 編)の中で「一日早くその計画を立てることは自存の計であり、一日早くその計画を実行 することこそ独立の策であるはずでありませんか」2と述べ、「独立」「自存」の改革を実 現することを呼びかけている。 そして、この「独立」「自存」の計画を実現に向けて、ファンはベトナム人に愛国心を 鼓吹した。『海外血書』(続編)で、ファンは「国の独立を回復する唯一無二の計策は全国 民の『同心』である。『同心』すれば、必ず国を保つことができ、『同心』しなれば、必ず 国を滅ぼす」3と説き、「全国民の同心説」を揚げている。 ところで、ファンは「ベトナム人」という表現を用いているが、それは誰を指すのであ ろうか。まず、『海外血書』(初編)には「我がヴェトナム人、上は故家世族より、紳士富 豪をへて、下は兵民走卒からカトリック教の信者、南圻六省の仏籍ヴェトナム人に至るま で、おしなべてヴェトナム人の天を戴き、ヴェトナム人の土を雇む我がヴェトナムの堂々 たる丈夫であります」4と述べている。 次に、『海外血書』(続編)では、社会階層のイメージがより具体的・鮮明的な形になっ ている。すなわち、富豪(紳豪、地主、そして出現しつつあった都市富裕階層);貴族 (朝廷の貴族);現職士夫(国内の志士);挙国習兵(フランス植民地下のベトナム人兵 士);天主教民(ベトナム人カトリック教徒);遊従会党(会党組織の成員);英雄児女 (革命運動に参加した女性たち);通訳・書記・給仕(フランス人の下で働く通訳・書記 ・公務員);仇敵家子弟(フランス人に殺害された者の子弟);留学生(海外の志士)が挙 げられている5。 それでは、どの階層が抗仏運動の指導的役割を果たすことを期待されていたのであろう か。それは「士」たちに他ならない。「士」とは、当時のベトナムにおいて中国と同様に 読書人階層を指す。しかし、ファンの考える「士」は科挙合格者のみからなる従来の 「士」だけでなく、受験生、海外留学生を含むのであった。また、彼は伝統的な「士」で なく、開明的な「士」に期待したのである。 それでは「士」は如何なる役割を期待されていたのであろうか。1906 年頃に執筆した とされる『和涙貢言』で「士」の役割に直接に言及した。彼は「書を読み、理を明るい者 はただ士のみ。思想偉大なる者はただ士のみ。重きを任じ、遠きに道する者もただ士の み」、「熱心を以って宗主と為し、愛国を以って目的と為す。団体を連結し、智識を交換 1 「和涙貢言」、前掲、53 頁。 「海外血書」(初編、和訳文)『ヴェトナム亡国史 他』、前掲、217 頁。 3 「海外血書」、(初編、和訳文)、前掲、216 頁。 4 同上、218 頁。 5 「海外血書」(続編、越訳文)『ファン・ボイ・チャウ全集』、第 2 集、トゥアン・ホア出版社、1990、 205-206 頁。 2 83 4 し、公理に服従し、公民の徳を修め、公民の儀を守り、公民の約を立て、公民の権を唱え る。(中略)我が緒兄弟(士たち)がよろしく負担し、首唱すべきものである」1と述べ、 「士」の存在を重視する。 ファンは「民」を皇帝の「赤子」=臣民として位置づける従来の伝統的な「国」観を否 定した。彼にとっては社会階層や地域、宗教の違いがあろうとも、フランス人の植民地支 配下に苦しむベトナム人のすべてが兄弟であり、ベトナム国の同胞の民であり、ベトナム の「国民」なのである。 2.2.ファン・ボイ・チャウの「国民国家」観の形成 以上に述べたように、ファンは渡日から 1907 年までの時期に「国民」「国家」という概 念に到達したが、国家体制論、主権論についてはほとんど議論してこなかった。この問題 に関する彼の認識は在日期の活動を通じて必ずしも十分なものではないが、彼の主な二作 『新越南』『越南国史考』からその一端をうかがい知ることが可能である。 東遊運動の最盛期に著わした作である『新越南』(1907 年)の中で、ファンはまず、将 来ベトナム国家の「十大快」を挙げている。すなわち、1)強国の保護を受けない、2) 民を妨害する官吏はいない、3)心が満たされない民はいない、4)栄誉を得られない兵 はいない、5)平等でない租税は存在しない、6)公平でない法律は存在しない、7)不 完成な教育は存在しない、8)開墾されていない土地はない、9)発達していない工芸は ない、10)繁栄しない商業はない2と述べ、将来目指すべきベトナム国家は独立国家であ り、公平、平等な国であり、また、工業・商業をも発達した国であると指摘している。 それでは彼の国家の体制及び国家の権力、また国民と国家との関係など具体的にどう認 識したのか。彼はベトナム独立を回復した「新越南」という国家を次のように描いてい る。まず、ベトナムを「維新後、内治権と外交権はすべて我々が掌握する。文明事業は日 増しに進歩し、勢力範囲は日増しに拡大する」3と記し、国家主権をベトナム人の手に掌 握することを主張した。さらに、民権が発揮されることを強調している。「維新後、民智 は啓き、民気は増大し、民権は発達するであろう」4。このように、ファンの認識は『新 越南』においてはじめて国家主権、民権に及んだのである。 そして、「維新後」の政治体制については次のように書かれている。「民衆によって国事 を決定する。議院堂は首都に置く、そして上院、中院、下院を設置する。国事を実施する ためには、上院の同意、次に中院の同意、最後に下院の同意を得なければならない。上級 の人も下級の人も金持ちも貧乏な人も問わずすべて我が国の民は選挙権を得る。我が民は 上に対しては王の廃立、下に対しては官吏を任免する権利を得る。我が民は弊害の王、腐 敗の官を譴責・処罰する権利も得る」5。ファンは、将来の政治体制として君(王)の存 在を認めながらも、国会制度、下院、中院、上院の三院からなる国会の導入を考えていた のである。 以上のように、ファンが想定しているベトナム国家は、国家主権を持ち、その体制は君 1 「和涙貢言」、前掲、56 頁。 「新越南」」(越訳文)『ファン・ボイ・チャウ全集』、第 2 集、トゥアン・ホア出版社、1990、253 頁。. 3 「新越南」、前掲、254-255 頁。 4 同上、255 頁。 5 同上、256 頁。 2 84 5 主立憲であるが、三院制の国会を通じて国民が主権を行使するものであった。したがっ て、この「国家」では、国民の自由権、言論権などが保障されなければならない。彼は 「維新後、我が権威は我が民の手に掌握され、我が人道を護り、自由の窓を開ける。報道 陣は内治外交を自由に論議する」1と述べている。 ファンは独立主権回復後のベトナムにおいて採用すべき政体の問題に関して言及した初 めての人物であろう。初期の彼は君主制そのものを否定したわけではなかったが、阮朝君 主専制国家を前提とする勤王運動世代の皇国観と違って、立憲君主制を主張した。それは 1906 年に完成文した『越南維新会章程』の中で、「ベトナムを回復し一立憲君主国を立て る」2と規定したことからも明らかであった。そして、『新越南』では、立憲君主制そのも のを具体的に描いたのであった。 他方、1908 年に執筆した『越南国史考』の中では、ファンは「国」という概念を次の ように定義している。「万国公法の定めるところに接すれば、各を得て国と為すの例は曰 く人民、曰く土地、曰く主権である。三者の一つでも欠けば、一国の資格を成さず。三者 の内、人民をもって最も重要とす。人民なければ、則ち土地の存在すること能わず、主権 の存在すること能わず。人民存在すれば、則ち国存し、人民亡べば、則ち国亡ぶ」3。こ こでは、「国」を構成する三要素として「人民」「土地」「主権」が上げられ、「人民」こそ が最も重要な要素であり、それがなければ、国家主権もありえないことが強調されるので ある。 また、『新越南』に続いてここでも国民の「公徳」4という概念を再び上げている。「も し、わが国の人が一心に公徳を考えたならば、国土の主人の責任を全うするであろう。あ あ、国は全ての人の共有のものである。国は共有であれば、心を合わせて力を合わせ支え なければならない。欧米の風雨が八方に拡がり、我々は如何なる人間であるのか。鴻貉の 天地(ベトナム国家を指す)を新たにしなければならない。そうしてはじめて美しい歴史 の一頁となる。国民の前に手を合わせ頭をたれて『公徳』の二字を捧る」5とファンは述 べている。ファンは国家の独立を回復するために、そして国家を建設するために、国民の 「公徳」を盛り上げなければならないと考えたのである。 これまで述べてきたことで、ファンの議論した「国民国家」は明確になったと思われ る。しかし、ファンの「国民国家」観の大きな限界にも触れておく必要がある。ファンに おいては、全国のベトナム人とは少数民族を含まず、越人のみを指すものであり、また、 ベトナム国家とはベトナムに居住する様々な民族を統合した多民族国家ではなく、基本的 にベトナム人(越人)のみの国家であった。彼の「全国民の同心」を呼びかける対象は少 数民族を全く含まなかった。ファンにおいても、なお、伝統的な「小中華思想」は払拭さ れていなかったのである6。 1 同上、256 頁。 「年表」、前掲、112 頁。 3 「越南国史考」」(越訳文)『ファン・ボイ・チャウ全集』、第 3 集、トゥアン・ホア出版社、1990、368 頁。 2 4 「新越南」、前掲、193 頁。 5 「越南国史考」、前掲、484 頁。 6 この点について、例えば、古田元夫『ベトナム世界史』、東京大学出版会、1995、58-59 頁を参照。 85 6 にもかかわらず、ファンの「国民国家」の認識は同世代ベトナム知識人ファン・チュ・ チン、フィン・チュク・カンらの認識と比べると、先駆的なものであった。実際、在日期 のファンの著作はベトナム本国に搬入され、その思想は国内の民族運動に影響を与えたよ うである。1907 年にハノイを中心とするドンキン義塾運動で「国民読本」という教科書 が使われたが、その内容、特に、「国民の公徳」の議論はファンの議論と驚くほどにかよ っており、直接的な影響があったことを想定せざるをえないのである1。 3.ファン・ボイ・チャウの「国民国家」の形成と日本 以上、在日期のファンの「国民国家」観の形成過程を考察した。ここでファンの「日 本」要素が彼の「国民国家」観の形成にどのような影響を及ぼしたのか、ということにつ いて触れたい。 第一は、日本滞在期にファンは、日本に滞在していた日本人やアジア諸国の活動家の思 想、とりわけ梁啓超の「国民国家」思想から大きな影響をうけたということである2。こ の問題に関しては既に多くの指摘がある。例えば、楠瀬正明氏は、梁啓超は中国の積弱を もたらした原因が「国家と天下との差を知らない」「国家と朝廷との差を知らない」「国家 と国民との関係を知らない」と指摘している3。ファンは梁啓超の分析方法を借りてベト ナム亡国の原因は上述したように、内在的原因を強調した。特に、『海外血書』(続編)に おいては「亡国」の根源が「君が民のことを知らない」「臣が民のことを知らない」 「民が国のことを知らない」4という三点があったと指摘している。ファンのベトナム亡 国論が梁啓超の中国積弱遡源論の影響を受けたのは確かである。 しかし、梁啓超の立憲論は、清朝体制を維持しつつ、議会制を導入することを主張した ものであるが、ファンの君主立憲制は既存の王朝体制を維持するのではなく、革命政府を 中心とする反仏の皇族の子孫を樹立し、新しい国家を建設することである5。 第二に、ファンが日本の「国民国家」=近代天皇制国家をベトナムの国民国家形成のモ デルとして強く意識したことである。まず、ファンは「日本の天皇は民を敬うこと尊師、 厳父の如くであり、民を愛する時には、まさしく慈母の幼な子を愛するが如くである。そ して孤児を育って病人を救い、病院・学校を建てるなど、民を先にし己れを後にしないこ とは一つしてない。また、講和、開戦、徴税、徴兵など、一つとして「民議院」において 取り決めないことはない」6と述べ、天皇及び天皇制を称賛したが、同時に、最大権力を 持っている者は、天皇ではなく、「民議院」であることを強調している。 また、『越南国史考』でファンは「仏・米の共和制、日・英・独の立憲制は皆民智から 1 今井昭夫「20 世紀初ベトナム愛国啓蒙運動における「国民」の創出~『国民読本』などのドンキン義塾の 塾書を中心に~」『東京外国語大学東南アジア学』、第 1 号、1995、85 頁を参照。 2 ファンは梁啓超の他にも、日本の思想・教育家の吉田松陰、福沢諭吉、中国の革命活動家孫文、章炳麟な どに関心を持ち、彼らの思想を受けた。ファンの「国家主権」「民権」「国民の選挙権」など議論には民主主 義思想の強い影響が窺われる。 3 楠瀬正明(1981)「20 世紀初頭におけるベトナムのナショナリズム~潘偑珠を中心として~」『広島大学文 学部紀要』第 41 巻、177 頁。 4 「海外血書」(続編、越訳文)、前掲、196 頁。 5 例えば、楠瀬正明(1981)、前掲、187 頁。 6 「海外血書」(続編、越訳文)、前掲、198 頁。 86 7 生まれた。民智は民権に功たること大である」1と述べ、日本の近代国家体制を立憲君主 と見なしている。ファンの認識は必ずしも正確なものではなかったが、日本の政治体制が 天皇絶対主義ではなく、立憲君主であるということだったのは明らかである。そして、フ ァンは『新越南』で「今の日本国は将来のベトナム国家の如くである」2と強調し、日本 型近代国家を目指すことを決意した。 勿論、ファンは、「日英仏独米諸国はその思想が豊かであり、その程度が高く、公徳を 崇め、団結を固くし、愛国合群を人生不可欠の義務とすべきことを知っている」3「日・ 英・独・仏・米諸国は皆強国であり、すなわち、民権が崇まれている国である。(その諸 国)では刑法、政令、課税などは議院による決まる」4と述べ、欧米文明国をもモデルに したが、日本の影響が最も大きかった。そこに彼が日本に滞在したことの意味が見出せる のである。 ただ、ファンの「国民国家」観はこれらの影響を受けつつも、あくまでも、ベトナム現 状・ベトナム民族運動の解決すべき諸問題との格闘の中から形成されたということであ る。そのことが、ファンの「国民国家」観に独自の性格を付することになったのである。 おわりに これまでの在日期のファンの著作の検討を通じて、彼の「国民国家」観の形成過程を考 察し、それが形成されていたことが明らかになったと思う5。 ファンの「国民国家」観は、19 世紀の勤王運動期の知識人の伝統的君臣思想を大きく 越えて、「国民」「国家」の認識から初期の「国民国家」の認識へと進んでいったのであ る。ファンはベトナムにおける「国民国家」論の創出者であると言える。当時、ベトナム はフランス植民地支配に組み込まれ、「亡国」「滅種」の状態にあったので、その「国民国 家」観は根本的には、国家の独立を回復するために、国民の団結・国民の愛国心を鼓舞す ることによって、国民の結集を促進するものであった。したがって、ファンの「国民国 家」においては、「国家」政体論よりも「国民の資格」論の方がより重視されることにな った。また、彼の「国民国家」認識は、ベトナムに居住しているさまざまな民族を結合さ せた国家ではなく、基本的には越(キンとも呼ぶ)族の国家であった。その点では、ファ ンの「国民国家」観はまだ完成されたものではなく、萌芽的なものであった。 にもかかわらず、ベトナムの「国民国家」の形成にとって、ファンの「国民国家」観、 そして彼を中心として展開された民族運動が大きな役割を果たしたことは間違いない。彼 の認識は、次世代のベトナム民族運動の指導者によって、受け継がれたと考えられるので あろう。それは特に、後にホーチミンの革命論で、ベトナム独立を回復するために、国民 の団結を図るというファンの発想が継承されたことに示されており、さらに彼の「国民国 1 「越南国史考」、前掲、392 頁。 「新越南」、前掲、273 頁。 3 「越南国史考」、前掲、391 頁。 4 「越南国史考」、前掲、387 頁。 5 これまでの研究では、在日期のファン・ボイ・チャウの思想に「国民国家」の認識があったか否かは疑問 があるとされてきた。例えば、楠瀬正明氏は「潘が梁の変革論から立憲論を摂取していないこと、従って潘 が建設すべき国家として希求した「国民国家」の構想が未完成であったこと」(1981 年の論文、前掲、187 頁)と書いている。但し、同氏は「資料の制約から本稿で扱う時期は 1905 年から 1907 年半頃までである」 と述べており、おそらく、ファン・ボイ・チャウの「国民国家」観に関する最も重要な著作である『新越 南』と『越南国史考』は検討されていないようである。 2 87 8 家」の認識はファンの限界を克服して、ベトナム全域に居住しているすべての民族の統合 を創出するという考えにまで至ったのである。1941 年にホーチミンは「越南独立同盟会」 (ベトミン)という民族、社会、階級、党派を超える組織を結成し、フランス・日本の二 重支配から独立運動を指導した。その結果、1945 年 9 月 2 日にベトナム民主共和国の成 立が宣言されることになったのであるが、それはベトナムの「国民国家」の誕生であっ た。 参考文献 (1)ベトナム語の文献(ABC 順) 1.チュオン・タウ(1962)、「ファン・ボイ・チャウ思想変化に対する中国革命の影響」、 『歴史研究』、第 43 号、史学院、ハノイ 2. グエン・ティエン・ルック(2008)、『在日期(1905-1909)のファン・ボイ・チャウの 活動』、ホーチミン国家大学出版社 3. 『ファン・ボイ・チャウの全集』、第2集、チュオン・タウ編纂、トウアン・ホア出 版社、1990 4. 『ファン・ボイ・チャウの全集』、第6集、チュオン・タウ編纂、トウアン・ホア出 版社、1990 5. チャン・ヴァン・ジャウ(1975)、『19 世紀中葉から 8 月革命までのベトナム思想発 展』、社会科学出版社、ハノイ 6. ヴィン・シン (2001)、『日本とベトナム:文化交流』、ホーチミン市文芸出版社。 (2) 日本語の文献(50 音順) 7.今井昭夫(1995)「20 世紀初ベトナム愛国啓蒙運動における「国民」の創出~『国民 読本』などのドンキン義塾の塾書を中心に~」『東京外国語大学東南アジア学』、第 1 号 8. 楠瀬正明(1981)「20 世紀初頭におけるベトナムのナショナリズム~潘偑珠を中心と して~」『広島大学文学部紀要』第 41 巻 9. 楠瀬正明(1997)「清末立法運動と梁啓超」曽田三郎編『中国近代化過程の指導た ち』東方書店 10. 白石昌也(1993)『ベトナム民族運動と日本・アジア ファン・ボイ・チャウの革命 思想と対外認識』巌南堂書店 11.潘偑珠著、長岡新次郎・川本邦衛訳編(1966)、『ヴェトナム亡国史 他』、平凡社 12.古田元夫(1995)『ベトナム世界史』、東京大学出版会 88 夏目漱石『心』英訳で読む「中 両親と私」 ――Meredith McKinney 訳の分析―― 徳永光展 福岡工業大学社会環境学部 1.キーワード 夏目漱石、『心』、英訳、「中 両親と私」、Meredith McKinney 2.問題の所在 夏目漱石『心』 (1914)は「上 先生と私」 (36 章)、 「中 両親と私」 (18 章)、 「下 先生と遺書」 (56 章)からなっている。英訳としては、佐藤(近藤)いね 子訳(1941)、Edwin McClellan 訳(1957)、Meredith McKinney 訳(2010)がこれ まで出版されてきた。本発表では、旧訳を参照した上で挑まれたと見られる McKinney の最新訳を分析対象とし、日本語独特の表現が英訳ではどのように処 理されているかを検証しながら、日本語原文を読む読者と英訳に接する読者と の間では如何なる解釈の相違が発生するかという問題に考察を進めようとする ものである。全体は長文であるため、今回は青年「私」が大学を卒業して故郷 に帰省した夏の出来事を綴った「中 両親と私」に的を絞って、日英比較言語 文化論の足がかりとなる議論を構築してみたい。日本独特の文化的背景に根ざ した表現が英語ではどのように書き表されているかに着目し、仮にずれが生じ ているならば、その原因を如何に理解すべきかに記述の重点を置きたい。 3.分析の実際 「中 両親と私」では、「私」と郷里の父母を中心とした物語が展開される。 大学を卒業して帰省した「私」を待っていたのは、死が迫りつつある父の姿で あり、それを取り囲むようにして集った人々とのやり取りであった。 父の病状を気遣って帰省した「私」の前に現われたのは、以前の帰省の際と さして変わらない父の姿であった。「私」は母に向かって、「でも医者はあの時 到底六 づ かしいつて宣告したぢやありませんか」(三十八)“But back then the 90 doctor’s diagnosis was that it was a very problematic illness,wasn’t it?”と肩透かしを くったかのように問いかけずにはいられない。「到底六 づ かしい」は a very problematic illness(深刻な病状)と訳された。また、 「医者は」という箇所は the doctor’s diagnosis とされ、主体がより明確になるように処理されている。 父の病と前後して、明治天皇の病状も悪化の度を増していった。父は、天皇 の死に自らの死を重ね合わせているかのような気分で、毎日の新聞報道に接す るが、 「私はつい此間の卒業式に例年の通り大学へ行幸になつた陛下を憶ひ出し たりした。」 (三十九)For my part, I recalled the sight of the emperor when he had so recently come to the university, as was the custom, for our graduation ceremony. (84)ために、その様子をにわかに信じられないでいる。「行幸」は一 語で表現できず、一方、陛下は the emperor と訳される。 明治末年頃、大学、具体的に言えば東京帝国大学を卒業するのは大変な名誉 であった。両親は兄の時と同様に、親戚縁者を呼んで、卒業を祝す宴を催すこ とにこだわった。しかし、明治天皇が病の床に臥しているため、 「私」の祝宴を 自粛しなければならない状況に追い込まれた。 「今年の夏は御前も詰まらなから う。折角卒業したのに、御祝もして上げる事が出来ず、御父さんの身体もあの 通りだし。それに天子様の御病気で。――いつその事、帰るすぐに御客でも呼 ぶ方が好かつたんだよ」 (四十一)“You’re having a very boring summer, aren’t you? my mother remarked. “We can’t celebrate this fine graduation of yours, and your father so unwell. And then there’s His Majesty’s illness―we really should have had that party as soon as you got home.”(87) 天皇を母は天子様 と呼ぶが、「天子様の御病気」は His Majesty’s illness と訳されている。一方、 「御客でも呼ぶ」は had that party(パーティーをする)という意訳で切り抜 けられている。 「私」は東京でよい就職口にありつきたいと願っているが、 「広い都を根拠地 として考へてゐる私は、父や母から見ると、丸で足を空に向けて歩く奇体な人 間に異ならなかつた。」(四十二)My own point of view, based as it was on the great cosmopolitan world of Tokyo, made me seem to my parents as bizarre as someone who walked upside down.はずなのであった。 「広い都」は the great cosmopolitan world of Tokyo とされ、東京という文字が訳文に見えることが分 かる。そのような「私」の判断は兄の場合と同様であったが、 「学問をした結果 兄は遠国にゐた。教育を受けた因果で、私は又東京に住む覚悟を固くした。」 (四 十三)という箇所は、Thanks to my brother’s education, he was living far away, and my own education had resulted in my decision to live in Tokyo.(91)と訳 されている。「結果」は Thanks、「因果」は had resulted と訳されている。 「私」は東京で威信のある職業に就くことにこだわる。そこで田舎の父に言 うのである。「「此所に斯うしてゐたつて、あなたの仰しやる通りの地位が得ら 91 れるものぢやないですから」/私は父の希望する地位を得るために東京へ行く やうな事を云つた。/「無論口の見付かる迄で好いですから」とも云つた。/ 私は心のうちで、其口は到底私の頭の上に落ちて来ないと思つてゐた。」(四十 四、「/」は改行を示す)この箇所は以下のように翻訳されている。“While I’m here, you see, I can’t find myself the position you say I should,” I said. This was my explanation to him for returning to Tokyo. Of course, I added, he need only send the money until I found myself a job./Privately, I felt that such a thing was unlikely to actually come my way.(93) 「地位」は position、 「口」は job、最後の「其口」は such a thing で処理されているが、興味深く思 われるのである。 「私を取り巻く人の運命が、大きな輪廻のうちに、そろ/\動いてゐるやう に思はれた。」(四十四)は、the fates of those around me also seemed to be slowly turning through the great karmic wheel.(94)と訳され、「そろ/\」と いう擬態語は slowly で処理された。 「私」は両親よりも先生との関係の方が重要 であるかのような口ぶりなのだが、その理由は「要するに先生は私にとつて薄 暗かつた。」(四十四)Sensei was, in a word, still opaque to me. (94)からなの である。 父の状態が悪化するにつれて、 「私」は親戚を呼び寄せる時機につき、思い悩 むようになる。 「兄は忙がしい職にゐた。妹は妊娠中であつた。だから父の危険 が眼の前に逼らないうちに呼び寄せる自由は利かなかつた。」(四十六)からな のだが、この箇所は My brother was in a busy line of work. My sister was pregnant. Neither was in a position to be called until my father was in evident danger.(97)と訳出されている。 「父の危険が眼の前に逼る」という婉曲 的表現は、my father was in evident danger.(父が明らかに危険である)とい うように直接的に表現された。 「私」は父にそんな弱い事を仰しやつちや不可せんよ。 (四十六)と言って励 ますが、それに該当する箇所は“Let’s hear you talking a bit more optimistically. (98)で、 (もっと楽観的な言葉で話そう)とされ、 「弱い事」は訳文中の言葉から 類推させるような仕組みになっているのである。しかしながら、 「その中に動か ずにゐる父の病気は、ただ面白くない方へ移つて行くばかりであつた。」(四十 六)のであり、相当する英訳は、My father’s illness was the one thing that stood still in the midst of all this coming and going, and it was slowly growing worse. (98)なのである。そこで、 「私」は兄と妹の夫に来てもらうよう打電する が、「妹の夫からも立つといふ報知があつた。」(四十六)は、and my sister’s husband replied similarly(98)であり、(兄と同様の返答)という訳され方なの である。 母は言う。 「此様子ぢや、とても間に合はないかも知れないけれども、夫にし 92 ても、まだあゝ遣つて口も慥なんだから、あゝして御出のうちに喜こばして上 げるやうに親孝行をおしな」(四十七)。ここには「私」の就職口が決まったと いう報告を父にすれば、それが最高の親孝行であるという含みがある。英訳は The way things are going, it may be too late, but really, the way he talks shows he’s still quite aware of things. You should be a good son and make him happy while you still can.” (100)だが、原文の最後の一文には a good son (よい息子)という原文には見られない表現が見受けられるのである。 妹の夫がやってきた時には、妹本人の不在を「身体が身体だから無暗に汽車 になんぞ乗つて揺れない方が好い。」(四十八)と言ってかまおうとする。この 箇所は“You mustn’t let her rock about in trains, in her condition,”(101-102) という意訳が採用されている。 明治天皇が遂に崩御する時がやってきた。父は、「大変だ大変だ」(四十八) と叫ぶが、“Oh no, this is dreadful!”(102)では繰り返される「大変だ」という単 語は隠蔽される。 ちょうどその頃、 「悲痛な風が田舎の隅迄吹いて来て、眠たそうな樹や草を震 はせてゐる最中に、私は一通の電報を先生から受取つた。」(四十八)が、それ は先生が会いたいという意味の電報を打ってきたということなのであった。こ の箇所は、These tragic winds were penetrating even our distant corner of the land, shaking summer’s sleepy trees and grasses, when suddenly I received a telegram from Sensei. (102)となっているが、「眠たそうな」という擬人法は訳 文では影を潜めている。続いて、「 「大方手紙で何とか云つてきて下さる積だ らうよ」母は何処迄も先生が私のために衣食の口を周旋して呉れるものと許解 釈してゐるらしかつた。」 (四十九)とあるのだが、対する英訳は“He must plan on sending a letter about it,” she said, still insisting on interpreting things in terms of the position that Sensei was helping me procure.(104)と一文に纏め られている。「口」は position である。「先生が口を探してくれる」。(四十九) という箇所でも“Sensei would find a position for me” (104) と訳されているの である。 父の病状は悪化の一途を辿った。 「たまに何か欲しがつても、舌が欲しがる丈 で、咽喉から下へは極僅しか通らなかつた。」(四十九)という具合なのだが、 この箇所は If he occasionally wanted to eat something, it was only to taste it ―he actually are very little. (105)と訳され、「舌」や「喉」という器官は影を 潜めている。医者に浣腸をしてもらった結果、 「少し自分の寿命に対する度胸が 出来たといふ風に機嫌が直つた。」 (四十九)ように「私」には見受けられたが、 and his mood improved. He seemed to regain some of his will to live. (105) (気分がよくなり、生への意欲を再び得るかのように見えた)という訳文に接 93 すると、 「寿命に対する度胸」という表現は慎重に書き換えられている事実に気 づく。 母は、 「私」が就職の内定を得たかのような口ぶりで父を励まそうとした。 「傍 にいる私はむづがゆい心持がしたが、母の言葉を遮る訳にも行かないので、黙 つて聞いてゐた。」(四十九)が、「私」は訳文が It made me cringe to sit there listening to her, but I couldn’t contradict her, so I held my peace.(105)(そこ に坐って母の言葉を聞くことは私を戸惑わせたが、私は母に反論することもで きず、沈黙を守った。)のであった。この言い難い表現が原文では「むづがゆい 心持」 (四十九)なのだが、訳文ではより洗練された表現に改められているとで も言うべきであろうか。 その後、間もなくして「父の病気は最後の一撃を待つ間際迄進んで来て、其 所 で し ば ら く 躊 躇 す る や う に 見 え た 。」( 五 十 ) My father’s condition deteriorated to the point where the fatal blow seemed imminent, only to hover there precariously. (106) が、 「病気が躊躇する」とは擬人法であるため、 英語には訳しにくい。その一方、 「兄の頭にも私の胸にも、父は何うせ助からな いといふ考があつた。何うせ助からないものならばといふ考もあつた。」 (五十) という箇所は、My brother believed, as did I, that our father was doomed, and this being so, we longed for it all to be over. (107)と訳され、「何うせ助からな いものならば(すべてが終わってしまうことを待ちわびる)」というところまで、 明確に記述がなされているのである。その点において二人の考えは一致を見せ た。それまでさして仲の良くなかった兄弟ではあったが、 「二人に共通な父、其 父の死なうとしてゐる枕元で、兄と私は握手したのであつた。」 (五十)という。 この部分は、There at the bedside of our dying father, my brother and I were reconciled.(107) (死に瀕している父の枕元で兄と私は和解したのであった。) と訳されている。しかしながら、父の他界後の話になると、 「又例の兄らしい所 が出て来たと思つた。」(五十一)That’s just like him, I thought.(108)し、それ は「イゴイスト」(五十一)Egoists(108)という英語でしか表現できない種の兄 の性格であるかのように「私」には映ったのである。と言うのも、 「兄は私を土 の臭を嗅いで朽ちて行つても惜しくないやうに見てゐた。」(五十一)からであ るが、英訳では Apparently he was perfectly happy to let me rot here in the dank and dreary countryside. (109)とされ、 (どうみても兄は私をこの暗く退屈 な田舎で朽ちさせて実に幸せであった)とまで強調された表現になっている。 「土の臭を嗅いで」という原文の表記が訳文では(暗く退屈な)と書き換えら れているのだが、原文の比喩表現をそのまま訳出したのでは英語圏の読者には その意がよく伝わらないと翻訳者は判断したに違いない。 時が迫り、 「御光御前にも色々世話になつたね」 (五十二)などど言われると、 「母は父のために箒で脊中をどやされた時の事などを話した。今迄何遍もそれ 94 を聞かされた私と兄は、何時もとは丸で違つた気分で、母の言葉を父の記念の やうに耳へ受け入れた。」(五十二)のであった。この箇所の英訳は以下のよう になっている。She told the tale of how he had beaten her on the back with a broomstick. My brother and I had heard the story many times before, but now we listened with very different feelings, hearing in her words a precious recollection of one, as it were, already dead.(110) つまり、(父があたかも死ん だかのように)という語句が末尾に添えられているのである。 「そのうちに昏睡が来た。」(五十二)は And then my father slipped into unconsciousness.(111)で、「昏睡」は(無意識)と訳されている。 ちょうどその時、「私」は先生から長い手紙を受け取る。「其日は病気の出来 がことに悪いやうに見えた。」(五十三)が、The day my father’s condition seemed particularly bad. (113)という英訳を日本語に復元すると(その日、父 の状態が特に悪く見えた。)となり、原文で「病気の出来」(五十三)という、 いわば擬人法的な語調が訳文では影を潜めるのである。 「母があれは誰、これは誰と一々説明して遣ると、父は其度に首肯いた。」 (五 十三)が「首肯かない時は、母が声を張りあげて、何々さんです、分りました かと念を押した。」 (五十三)のであった。英訳は、If he failed to nod, she raised her voice and repeated the name, asking if he understood. (113)(もしも父が うなづくことに失敗したら、母は父が理解するのを求めるかのように、声を上 げ、名前を繰り返した。)となっており、「何々さんです」という言い方こそ避 けられているものの、切迫した雰囲気は十分に描出されているのである。 (本当にどうもありがとう)に相当する英語 “Thank you all very much,” (113) が「何うも色々御世話になります」 (五十三)の訳文である。 「御世話にな ります」とは一種の挨拶言葉であるから、そのまま訳すのは相応しくない。よ って、上記のような文に落ち着いたのだと考えられるのである。 一方、 「私」は、父の臨終を前にして先生から届いた手紙が気懸りで仕方がな い。 「私の眼は几帳面に枠の中に嵌められた字画を見た。」 (五十四)が、my eyes taking in the careful script that filled the little squares of the manuscript paper (115)と英訳され、 「字画」という漢字ならではの表現はどうしても表わし きれない。また、 「中 両親と私」を締めくくる「私はごう/\鳴る三等列車の 中で、又袂から先生の手紙を出して、漸く始から仕舞迄眼を通した。」 (五十四) という箇所における「ごう/\」というオノマトペが醸し出す臨場感は、Seated in the thundering third-class carriage, I retrieved Sensei’s letter from my sleeve and at last read it from beginning to end. (117) の thundering(とどろ くような)という語が代替しているのである。 「ごう/\」は「鳴る」という動 詞を一般的に取るので、この判断は適切であるはずである。 95 4.結語 こうして英訳を原文と併せて参照してみると、翻訳者の苦心が様々な配慮を生 んでいることが如実に理解できる。日本の文化的背景に根ざした語句は、無数 に存在していると言ってよいが、それらを一対一対応する形で訳出する困難は 容易に想像できる。 本稿では、日本独特の文化的背景を持った語句で、日本人の立場から見れば 訳出困難が想起される箇所に絞って英訳の状況を概観してみた。そのような部 分を抽出すれば、夏目漱石『心』の読み替えにも資するであるはずであるし、 また、日英比較言語文化論への足がかりも得られると信じるものである。 【付記】 本文の引用は、『漱石全集 第 9 巻』(岩波書店 1994 年 9 月)、訳文の引用は Natsume Sôseki, Kokoro translated by Meredith McKinney. New York: Penguin Group, 2010. によった。 【参考文献一覧】 夏目漱石『漱石全集第 9 巻』(岩波書店 1994 年 9 月) Natsume Sôseki, Kokoro translated by Ineko Sato.Tokyo:The Hokuseido Press,1941. Natsume Sôseki, Kokoro translated by Edwin McCllelan. Chicago: Henry Regnery Company,1957. London: Peter Owen,1967. Rutland:Tulltle, 1969. London: Arena,1984, New York: Dover Publications,2006. Natsume Sôseki, Kokoro translated by Meredith McKinney. New York: Penguin Group, 2010. 96 斷詞斷句標記之操作與運用 ──以日譯中視譯與筆譯為例── 國立臺中科技大學 應用日語系 日本市場暨商務策略碩士班 助理教授 林雅芬 日語學習者經常無法正確理解語法結構複雜的長句。趙順文(1999)根據結合 價語法原理提出「階梯圖分析法」 ,在兼顧語言線性狀原則(principle of linearity)下, 用「一子句以一行一數字」的方式,呈現長句內的語法關係。永田小繪(2010)則提 出一套適合中文學習者在中譯日視譯(sight translation)或閱讀時使用的新式斷句法 (Slash reading method; SR 法;斷詞斷句 (segmentation))。在教學上運用時,永田 小繪(2011)也指出中文學習者有時仍無法順利掌握複雜長句內的主述關係,而且當 標記出不適切 SR 時,反而會妨礙理解長句。顯示出外語學習者若無法正確掌握語 法語意關係,則仍無從適切標記。斷詞斷句的前提仍然須建立在正確理解語法語意 關係上,其功能則應定位於輔助釐清語法語意關係。 日語經常省略主詞與話題,此一特性常使日語學習者在分析語法結構時主詞與 述詞配對錯誤。語言形式與語意語用功能的類似性亦常導致分析錯誤或譯文不順 暢。因此,本篇試圖整理出斷詞斷句在標記時如何運用符號及操作,希冀能讓複雜 長句的語意及語法關係在線性狀原則下仍然可視化,協助日語學習者在視譯及筆譯 時,順利理解源語並進一步譯出順暢譯語。 關鍵詞:斷詞斷句(segmentation)、畫斜線閱讀法,斷句法 (slash reading method)、 視譯(sight translation)、長句(long sentence)、日語(Japanese) 第 1 頁,共 8 頁 97 1. 研究動機 針對日語學習者的口譯教學,實務經驗上多半使用針對主修口譯學習者或 專業口譯員所使用的斷詞斷句標記法。但日語學習者在日語能力上不及主修口 譯的學習者或專業口譯員,單以斜線畫分語意單位常無法順利譯出正確合適的 譯文。 另一方面,針對日語學習者的日語教學,一般日文閱讀科目較重視學習日 語的語法與句型,課堂上雖會讓學習者閱讀日文文章後再以口語或以文字譯 出,但學習者偏向先找尋語言形式上的線索,其次再找尋自己熟悉的語意。因 此常出現日語學習者譯文語法、語意結構與源文不符,或出現不自然的中文。 在此狀況下,學習者是否正確習得,是否能自然運用該日語語法或表達方式等 令人懷疑。另外,日語學習者普遍較欠缺翻譯技巧,複雜長句常無法順利閱讀 理解而影響學習。學習狀況除了測驗、文字或口語譯出外,是否有其他具體方 法可觀察日語學習者如何理解源文,這亦是值得探討的課題。 日語學習者相較於母語,須耗費較多注意力在日語的語法、語意、語用等 注意事項。因此本篇將試圖整理出強化日語學習者對於語法、語意、語用認知 的標記符號與操作方式。希望藉由可視化所閱讀的日語語法、語意、語用等關 係來嘗試解決前述教學課題。 2. 前人文獻 日語閱讀時的關卡是複雜長句。趙(1999)基於語言線性狀原則(principle of linearity),以結合價語法原理提出「階梯圖分析法」,採用「一子句以一行一數 字」的方式,呈現出長句內的語法關係,例如例(1)可分析成例(2)。 (1) ・・・したがって人は自分自身の欠点の方が多いくせに、他人の欠点はこれを許 せないということになるのである。 (2)・・・したがって 1 人は 3 自分自身の欠点の方が 1 多い 1 くせに、3 他人の欠点は 2*これを 2 許せないという 2 ことになるのである 3。 *表示省略主詞。1 子句 1 行的方式,在視覺上能讓學習者清晰看見子句的 結構,有助於理解語法結構,筆者在日語教學實務上也曾運用過,但此法須重 新列出句子,適合用於講解語法結構,當學習者自己閱讀文章時,會需要一套 能夠直接在原來印刷的日文句子上標示出語法語意結構的標記方式。 斷詞斷句(segmentation)是視譯(sight translation)之前處理原稿的方式,又稱 第 2 頁,共 8 頁 98 為畫斜線閱讀法 (slash reading method),在日本亦運用於英語教學與中文閱讀教 學(鳥飼 2013:53、永田 2010、永田 2011)。視譯之前斷詞斷句的處理方式是在源 文原稿「語意可畫分處畫上斜線」,源語可譯成兩句譯文的地方畫雙斜線//。 關鍵詞或重要詞組則圈起來或在下面畫底線(塚本 2005:106)。所謂的關鍵詞或重 要詞組,例如有楊(2001:110)所列的具多重語意或語意模糊的人名、書名、機關 名等專有名詞;外來語、複合詞等。 另外,英語教學所運用的畫斜線閱讀法 (slash reading method)亦是依語意區 塊在英文下列位置插入斜線(高梨、卯城 2000)1。 1.接續詞、疑問詞、關係代名詞、標點符號等之前面。 2.長主詞、長受詞之後面。 3.插入句、 「介詞+名詞」 、 「to+動詞+受詞」 、 「表場所或時間的副詞句」 等語法結構之前後。 由此看來,依語意畫入斜線之位置多半相當於日文的「文節」 、主要子句之間、 關係子句+主要名詞之前後、從屬子句前後等地方。 在中文教學上的運用,永田(2010)為加強中文學習者在閱讀與中文譯日文的 能力而提示出新式畫斜線閱讀法(SR)。 1. /、// :畫分出具意思的區塊。 標點符號,。:;的地方皆先畫上斜線。 2.・:主謂關係 3. *:表示存在「有」 4.>:修飾與被修飾關係 5.[ ]:表示並列關係 6.網底:時間、空間 7.底線:連接關係 8.雙底線:使役、被動 第 2,3,4,8 項與動詞有關,各自可形成較長的成份,並且也因源語中文為孤 立語,在語言形式上標記語法結構的符號不如日文多。因此中譯日時有必要以 符號標示出第 2,3,4,8 項。但日譯中時,源語日文為黏著語,具備較多詞性標記 (mark),例如「が」表主格、「は」表話題、「を」表受格、「れる・られる」 表被動・尊敬・可能・自發、「せる・させる」表使役、「る・た・Vない+ N」表修飾結構等。日文在視覺上可藉由助詞、助動詞等標幟,比起中文更能 清晰顯示出詞性與子句的語法結構。因此永田(20010)第 2,3,8 項符號在語言方向 是日譯中時,或許是較不需要特別標記出的。第 4 項符號只有在「~ない+N」 修飾與被修飾的結構時因容易與形容詞混淆,才有必要標記。 此外,由語言的標記性(markness)來看,語言形式上若具有語法語意特徵的 1 高梨庸雄・卯城祐司(編)(2000)『英語リーディング事典』研究社出版 p.41-72。文獻內容參考 自石澤(2000:3)。 第 3 頁,共 8 頁 99 標記(marked),應有助於閱讀與理解。但有時中文與日文語言形式雷同,或日文 多義詞,就有可能產生不適當的理解。反之語言形式省略或語言形式上無標記, 也有可能形成理解上的誤會或障礙。例如日文雖常用「が」標記出主詞, 「は」 標記話題,但也常因省略而導致日語學習者無法確切掌握行為者或話題,而在 日譯中時未恢復主詞或話題,導致譯文語焉不詳,或與前文連貫性不佳。另一 種情形則可能因源語主詞、話題省略,而將與動詞呼應的主詞或話題配對錯誤。 因此在標記符號與操作方式方面,有必要解決語言形式相同或類似所引起的問 題,以及語言形式省略時要如何因應。 另外,永田(2011:255)在確認了指導 SR 的效果後,發現有些誤譯無法以 SR 來解決。例如:①SR 標記不適當影響理解、②無法掌握「形容詞+動詞」的結 構③無法掌握中文詞序所代表的含意、④無法掌握長句結構「主語+數個插入 成份+謂語」內的主謂關係、⑤詞性判讀錯誤、⑥欠缺慣用語知識⑦不太了解 句子內容等。我們認為⑥⑦可待加強詞彚與相關背景知識來改善,而①~⑤應 該可設法在斷詞斷句的標記符號與操作方式上加強辨識提醒的效果。 閱讀源語、分析語法語意結構、掌握意思之後,需要調整源語內概念的順 序,再譯出適合傳播媒體的譯文。楊(2000:110)指出可先譯出日文的副詞修飾句 與主要名詞的修飾成份,將句子切斷後再以連接詞、副詞、指示詞等銜接成另 一個句子。譯出的方式則可採取儘量順著源語詞序的同步式視譯,或儘量依照 源語的訊息焦點,稍微改變源文表達方式,順應譯文來譯出 (楊 2000:32)。我們 認為譯文是否順應譯文習慣涉及翻譯的歸化(domestication)、異化(foreignization) 問題,同時也是和語言表達方式是有標記或無標記相關。如此一來,筆譯與視 譯由於傳播媒體不同,譯文亦應隨傳播媒體不同而改變。 視譯譯文須使用令人易於聆聽的聲音語言,例如簡單句之類,訊息密度較 低,有較多單一事項的句子。訊息密度若太高,則不易由聽覺接收。反之,筆 譯則相對較能接受,如複雜修飾句之類,訊息密度高、有較多事項的句子。因 此,筆譯譯文可說較能夠進行較多且較大幅度調整譯文順序。非同步式的視譯, 因無需配合源語講者的線型傳播而可進行譯文較大幅度的調整。反之,有稿同 步口譯時的視譯譯文則須儘可能順著詞序,以貼近源語產出時的順序。 總而言之,閱讀理解日文後筆譯或視譯成中文的過程裏,涉及語言形式或 句內成份在語法關係間的上下階層關係、句內成份在語意關係間的上下階層關 係、鄰近成份間的語法與語意關係、詞組順序之調動、子句順序之調動等層面。 這些語法語意關係若能反應在斷詞斷句的標記上,應更能協助日語學習者將日 語正確順利地閱讀、理解與譯出。 第 4 頁,共 8 頁 100 3. 斷詞斷句標記符號之整理 為整理出適合日譯中時處理源語的斷詞斷句標記符號,筆者參照上述前人 研究所介紹的長句分析、新 SR 法、視譯時的斷詞與調整譯文等方法,先行試做 斷詞斷句標記符號之草案,然後在筆者擔任的日文課程與口譯課程2進行指導與 練習。之後,對照學習者標記、筆譯、視譯情形後,再修改、優化斷詞斷句標 記符號與操作方式。標記符號的設定考量到三個面向:是否儘量能發揮語法或 語意的辨識功能、是否為學習者平時熟悉的符號、是否有可能運用於逐步口譯 時的筆記(note taking)。至截稿為止,斷詞斷句的標記符號與操作方法,以及標 記時的注意事項,可以整理如下。當源語欠缺語言形式上的標記,或者語言形 式雖有標記易於混淆時,可運用下列斷詞斷句標記符號,以彰顯須留意之處。 斷詞斷句的標記符號與操作方式--以日譯中筆譯視譯為例 斷詞斷句時須不斷地自我監測,隨時修正。注意事項包括── 反思 1:句子成份之間是同一層或不同層? 反思 2:意思是如此或有其他含意? 反思 3:有無易混淆項目? 行動:要隨時修正。 1 符號 T 2 S 3 V1, V2, V3… ^ / 4 5 說明 找出話題 T (topic) 。該句未顯示出表話題的詞句時,往前句找;前 句沒有再往前前句找。閱讀時須想著:這句在談論什麼? 恢復省略的話題可標上「^T」並以箭號將話題由前句或先前句子拉過 來。 找出主詞 S (subject)。閱讀時須想:有人做動作嗎?誰做此動作。恢 復省略的主詞,標上「^S」並以箭號將主詞由前句或先前句子拉過來。 找出與話題搭配的動詞,依照待會譯出的順序標上 V1, V2, V3・・・。 當動詞省略時,標上「^V」 。 恢復被省略的成份標^。例如 ^T、^V、^O 容易與旁邊成份混淆的詞語後面畫入單斜線。 例如:詞語/詞語 今/日本は 今日/本は 2 大一綜合日文科目「日文 II」 ,學期課,週一、三各 2 節。斷詞斷句標記之說明、練習、筆譯、講 解上一次譯文等,共 3 週進行。每次練習文章約 1 至 2 段。至本篇截稿為止每次練習時間約 50 分鐘, 共 6 次,約 5 小時。日譯中筆譯的源語教材為該科使用的教科書『国境を越えてI』第 5 課書面語 言文章「日本人の飽食を支える開発輸入」 。另外在大三「中日口譯 II」(學期課,每週 2 節)課程內, 延續台灣燈會逐步口譯教材後,讓學習者進行有關長崎燈會、長崎市、長崎市內中島川公園景點的 日文簡介文章之視譯練習。斷詞斷句標記練習的進行方式與「日文 II」相同,至本篇截稿為止,每 次約 40 分鐘,共 3 次,約 2 小時。 第 5 頁,共 8 頁 101 6 ○ 7 = 8 or 9 M 10 adv 11 畫出一條 底線 12 {[( )]} 13 U 14 → ← ∵ ∴ ex. p.s. <-> 將同形異義詞與異形類義詞圈起來。語法能力較不理想的學習者甚至 可圈起每個助詞來加強語法概念的認知。 同形異義詞:例如「で」可表原因・手段・動作範圍・だ的中止形。 「を」可表受格、移動範圍。「れる・られる」可表尊敬・可能・被 動・自發等,可在源語下面寫上「尊敬」或「可能」等功能以提醒。 異形類義詞:例如自動詞「決○ ま る」 、他動詞「決○ め る」 , 「に」 「で」 具有標示場所的功能,但「に」搭配的是靜態動詞,而「で」搭配的 是動態動詞。例如,市内○ に は、港を見下ろす有名な山、きれいな 川がある。又例如「しかし、しか○ も 」。 同位格、換句話的句子之間標上「=」 例如,花子という=モデルさん。 長崎市は~街です。 =街 A或B,在供選擇成份或供選擇的句子之間標上「or」 行き先は台北?or 台南? 表說話者說話時的態度 Modality。符號剛好與「気持ち」(kimochi) 的 M 相同。おそらく、かもしれない、だろう…等。 国産品を使っているのはおそらくMレタスと水だけだろうM。 長的副詞句。如「~の際に・~のもと・~の場合・~のため・~に 対して…」 搭配的成份畫底線,尤其是當兩個搭配成份中間有其他插入成份時。 例如「必ずしも~ない」「食べたいものを食べたい時に口にする」 。 以括號標出修飾關係。大括號、中括號、小括號畫出同一子句的界限, 亦標示出彼此屬於同一層或不同層結構。修飾句內的「る・た・V な い」可加強在右邊括號上畫出箭號,拉至被修飾的主要名詞。 例如:・・・ハンバーガーの場合 adv、(国産品を使っている)>のは/お そらくMレタスと水だけだろうM。 U (union) 詞語或子句之間是呈現並列關係時,標上 U 例如,可譯成「與、和、以及、同時…」時。 子句之間或句子之間欠缺語言形式時標上符號,彰顯接續關係之邏輯 性3。依話題發展流程區分:順時 「→」 、逆時「←」 、原因「∵」 、 歸結「∴」 、舉例「ex.」 (example)、附註「p.s.」 ( postscript) 、 對比「<->」等。尤其順時關係「→」容易被誤以為是並列關係。表 示「強調」的接續關係,常有語言形式,因此不特別設標記符號。 順著時間順序標「→」 做/發生了①之後,再做/發生②,再做/發生了③…。 逆著時間的順序標「←」 時間序列①②,但語言形式卻呈現②①。 例如: 「②、その前に①」。 3 主要參考市川孝(1978)將接續關係分為三大類: 「論理的に結びつける」 「二つ以上の事柄」 「事柄を 拡充する」 。 第 6 頁,共 8 頁 102 順著推論的順序「∴」 「①原因・事實・佐證 ∴ ②結果・論點・結論」 逆著推論的順序「∵」 「①結果・論點・結論∴ ②原因・事實・佐證」 就同一話題,附註限定條件・局限範圍或附帶一提,標記「p.s.」 例如: 本はご自由にお持ち帰りください。p.s.ただし、お一人様、1 冊に限ります。 兩個名詞或兩個句子的對比「<->」 「①。<->しかし②」 例如:りんごは食べる。みかんは食べない。 <-> 二、確保譯文順利合適譯出與調整譯文順序之標記符號與操作方式: 1 2 3 寫上術語譯文 圈起來以箭號拉動 => 不會的術語寫上譯文。 詞序調動。圈起來以箭號拉到譯文合適產生的位置。 詞性轉換標「=>」 。例如,源文為動詞,譯文須譯成名詞則 標成 V=>N 。 食べ残し、無駄に捨てる。譯成:吃剩的食物就遭踏地丟棄。 V=>N 4 // 5 6 ①②③… 依譯語習慣將譯文 調整成自然的譯文 7 調整譯文風格 8 監測比對譯文與源 文是否正確、流 暢,再行修正。 同句源文裏適合譯成兩句譯文的地方畫雙斜線「//」 。 已有句號的地方不用特地畫。 源文句//子 譯文:句子 1。句子 2 源語內的多重修飾子句,依譯出順序在底下標①②③。 譯文調整成符合中文習慣。例如,中文偏好「充當話題的 名詞,敍述話題的子句 1,敍述話題的子句 2…」的結構。 因此日文較長且複雜的「修飾句+被修飾的主要名詞」結 構,在筆譯時常可先譯出被修飾的主要名詞當成句首話 題,後面再放長修飾句的譯文4。 依源文產出方式,看進行的是筆譯或逐步式視譯或同步式 視譯,來調整譯文是否須儘量依源文產出順序或能進行較 大幅度調動。 中文的詞序可決定主詞、動詞、受詞,監測譯文是否正確 譯出源文日文的語法語意關係。中日文之間的同形異義 詞、異形類義詞是否已釐清。 4. 結論與今後課題 本篇從語言形式在視覺上有無標記的觀點,針對非主修口譯的日語學習者嘗試 整理出斷詞斷句的標記符號與操作方式,期盼藉由標記符號彰顯出日語源語的語 4 其實須視修飾句與主要名詞之關係,有待他稿撰述。 第 7 頁,共 8 頁 103 法、語意結構,藉由可視化的過程,輔助日語學習者更正確、順利地將日文譯成中 文。而由於本篇擬定構想至課堂指導、練習、觀察、分析之期間不足兩個月,亟需 再充實、執行、檢視與修正。同時,上述標記符號與操作方式是否具備實際效應, 亦應再進一步觀察、分析與研究。 但既使如此,經由於課堂運用,我們發現到觀察學習者所進行的斷詞斷句標記 情形,有機會提供教師確認日語學習者腦海中對於所學教材裏語法語意的認知狀 況。同時,我們也發現日語學習者對於日語源語所產生的不合適理解或譯文,有時 並非來自日語能力或知識不足,而是對於文章或話語的形成機制、話題開展、結構 不熟悉有關。這也透露出日語教學除了語法・語意・語用・文化等方面以外,其實 尚需適時帶入閱讀、聆聽等方面的策略。在此深深反省亦重新認知到教師授課時應 著重提供較多知識、經驗、技術上的整合、連結與創新,以促使學習者更進一步將 所學與舊有知識、經驗、技術形成更新的整合、連結與創新。 參考文獻 石澤竜義(2011)「スラッシュ・リーディングを用いた速読指導」『平成 22 年度研究 紀要・研究集録』 奈良県立教育研究所。 http://www.nps.ed.jp/nara-c/gakushi/kiyou/h22/8choishi.pdf 市川孝(1978)『国語教育のための文章論概説』教育出版。 塚本慶一(2005)《实用日语同声传译教程》大連理工大學出版社。原版本為塚本慶一 (2003)『中国語通訳への道』東京:大修館。 鳥飼玖美子(2013)『よくわかる翻訳通訳学』京都:ミネルヴァ書房。 永田小絵(2010)「読解と翻訳のための中←→日スラッシュ・リーディング」 『マテシス・ ウニウェルサリス』第 11 巻、第 2 号、p.271-284、獨協大学国際教養学部。 永田小絵(2011)「スラッシュ・リーディングにおけるエラー分析」『マテシス・ウ ニウェルサリス』第 12 巻、第 2 号、p.245-256、獨協大学国際教養学部。 益岡隆志(1991)『モダリティの文法』東京:くろしお出版。 趙順文(Tio, Sun Bun) (1999)〈英、日語長句結構的階梯圖分析〉《東吳外語學報》第 14 卷,p.1-34。台北:東吳大學外語學院。 楊承淑(2000)〈從眼球運動觀察日譯中「視譯」的斷詞方法〉《口譯教學研究:理論 與實踐》p.173-191,輔仁大學出版社。日文版為楊承淑(1997)「 日中サイトトラ ンスレーションにおけるセグメンテーションについて」『通訳理論研究』第 12 号、p.4-7。之後收錄至『「通訳理論研究」論集』編集委員会編(2004) 『「通訳 理論研究」論集』,日本通訳学会, p.123-136,東京:日本通訳学会。 楊承淑(2001)「サイト・トランスレーションの機能と技法」『 通訳研究』p.21-35, 東京:日本通訳学会。 第 8 頁,共 8 頁 104 新時期日本観光政策と官民協働に関する研究 国立高雄餐旅大学応用日本語学科 兼任助理教授 郭子瑄 要 旨 2003 年に日本の小泉純一郎前首相は当時日本国内経済の低迷と少子高齢化の到来 とグローバル化と世界接軌の要因で「観光立国」の発展を推進すると狙った。観光 産業が成長発展すれば、日本経済を牽引し始まると首相の考えであった。そして 2006 年 12 月に「観光立国推進基本法」が成立し、2007 年 6 月に「観光立国推進基本計 画」を閣議決定した。さらに 2008 年 10 月に国土「観光庁」を設置し、海外からの 旅行者に来日観光の推進する役割を担っている。 それから「官民協働」の概念で日本の「観光立国」の効果を考察し、概略四つを 明らかにしている。一、訪日国際観光客数別。は 2007 年に 691 万から 2012 年に 1035 万人増えた;二、訪日観光目的別。について 2007 年の 595 万 4180 人から 2013 年の 796 万 2517 人なった;三、外国人の訪日輸送(海と空を含み)。について 2007 年 9 万 1521 回から 2013 年 11 万 255 回に達った;四、国内宿泊観光指数について 2010 年の 1 万 6906 回から 2013 年の一万 8190 回に進んでいる。 本文はマクロの概念で日本の「観光立国」政策と官民協働について検討し、観光 産業の制度規範と「官民協働」の相互関係のモデルはどのように観光産業と地域経 済の発展を有効的に推展をするのか。さらに、このような有効分析や発展の歩みな どの経験は、我が国の観光産業と地域の発展に新たな目標を目指している。。 關鍵字: 観光立国 地域発展 観光産業 105 一、はじめに 日本は 2003 年当時、日本国内の経済が低迷し、少子高齢化の到来、及びグローバ ル化の進みの中で、前首相小泉純一朗は世界と接軌するため「観光立国」の発展を 狙って推進した。また観光産業が成長すれば日本の経済を牽引し、日本の経済を取 り戻す力が極めて重要な成長分野だと思った。 さらに、 「観光立国」の実現は、国内外における交流人口を増大させることによっ て、地域経済の町づくりを活性化や雇用機会の増大をもたらすとともに、日本の魅 力を発見し、伝播することによる諸外国と国際的な相互理解の増進を通じて、世界 平和への貢献を目指すも期待できる。 このため、日本政府は平成 15 年(2003 年)より、観光立国実現を掲げ、ビジッ ト·ジャパン·キャンペーンを官民一体で推進し、様々な取り組みを推進してきた。 平成 20 年には、外国政府や関係省庁への調整·働きかけをより強力に実施し、さら に、観光立国を総合的かつ計画的に推進するため、観光庁を設置した。以来、観光 庁と相関機構が日本の観光政策の牽引役として、官民を取り組んで進めてきた。 平成 23 年 3 月に発生した東日本大震災は、被災した観光地域に壊滅的な打撃を与 え、さらに、国民の自粛ムードや訪日旅行への不安により国内外の旅行が減少し、 全国の観光分野に深刻な影響を及ぼした。一方で、復興を支援するために国内外か ら寄せられた支援の輪を、多くの観光交流を生み出すきっかけにもなかった。 それに、厳しい震災直後から正確な情報発信、主要国政府への働きかけやメディ ア·旅行会社招請、一般消費者への働きかけにより、現地旅行者や現地メディア、国 際会議関係組織に訪日旅行需要について日本側の官民現地組織等多くの関係者とネ ットワーク形成維持を的確に進める必要があった。それで、平成 24 年(2012 年)に は訪日旅行需要についてほぼ震災前の水準まで回復した。また平成 24 年3月に閣議 決定した観光立国推進基本計画に掲げた「訪日外国人旅行者を平成 32 年初めまでに 2,500 万人とすることを念頭に、平成 28 年までに 1,800 万人にする。」等の国際観 光振興に関する目標の実現に向け、日本の普遍的な魅力と新たな魅力を継続的に発 信し、訪日旅行の促進を行っていく。 1 こうした「観光立国」の実現と訪日旅行推進に係る業務を限られた国費で効率的 に実施するため、自らの組織運営、業務運営の効率化を進めるとともに、日本側の 民間事業者や地方自治体、相手国側関係組織等の資金や人的資源などの外部資源の 活用を官民連携に積極的に勧めなければならない。 1 独立行政法人国際観光振興機構 第三期中期目標、国土交通省。平成 25 年 2 月 28 日。 106 二、「官民協働」のパートナーシップの新しいあり方 本文は「官民協働」について「国家」と「社会」の発展関係について説明する。 主に、日本政府はどのように社会組織(營利と非營利)と協働に関するモデルを明ら かにする。 2 日本の「観光立国」の目標に達成するまで、「官民協働」 3の推進が必要である。 日本の社会では福祉や医療、社会教育などの分野においては、新しい公共の概念に 基づき官民が協働して成果をあげている取り組みが少ながらず見受けられる。観光 分野においてもある。 観光分野においては、新しい公共と言う言葉が普及する以前より、官民が協働す る体制が整っているように見える。観光協会の構成メンバーは地元の民間事業者で あり、法人格のあるなしにかかわらず基本的には民間団体としての位置づけにある。 そして、その観光協会と観光行政が二人三脚で観光振興にこれまで取り組んできた。 そしてよく見ていくと両者の関係性はパートナーシップの姿とはかなり異なるもの であることが分った。また大切なのは成果をだすことである。その一方、多く地域 において現体制において期待される成果がなかなか生み出せずに閉塞感に包まれて いるのも現実であり、そしてマネジメント脆弱であることが指摘されるポイントも ある。 4 それから日本国内で「観光立国」を目指すため観光町づくり組織とは、三つをで ある:一、地域資源を編集加工して商品化して販売する機能がある;二、「官と民」 「観光関連の人や組織とそれ以外の人や組織」 「行政と行政」という三つの壁を超え る機能がある;三地域資源をコーディネートする地域のワンストップ窓口機能を有 している。そして行政からの補助金を受けている場合もあるが、様々な事業を組み 合わせることで、行政からの自立を目指している。それゆえ行政と対等なパートナ ーシップを結ぶ資格を持っている。このような町づくり組織は、地元のステークホ ルダーへの配置、行政依存の財政構造などの理由により、真正面から顧客ニーズに 向き合えない現状の体制から抜け出し、顧客志向のサービス提供により資金を獲得 する収益構造に転換することで、結果として、町全体の観光マネジメントが部分的 にでも効果的に機能する仕組みとなっている。その官民協働するパートナーシップ 型の観光マネジメントには、その目的及び地域特性、リーダーシップのあり方など によって、いろいろなスタイルが考えられる。例え首長自らリーダーシップを発揮 して官民の連携で進める行政主導型のケースもあれば、行政が部局ごとに横の連携 をはかりながらインフラ整備も含めて取り組み、青年会議所や商工会議所、観光協 2 日本の非営利組織に関する発展と特徴について、欧米社会の発展と文化に強く影響している。それは現代的と伝統的のあわ せ、その特徴は上から下まで自発性で非営利、組織あり、非官僚的な特性を持っている。郭子瑄,「新時期日本政府與非營利 組織之互動:立法規範與制度變遷」 、博士論文、2012 年 1 月。 3 原田晃樹「NPO 再構築への道」、勁草書店、2010 年 4 月 30 日。 4 大社 充「地域プラットフォームによる観光まちづくり」、学芸出版者、2013 年 3 月。 107 会と言った複数の民間団体が個別に役割を担うケースもある。また民間人リーダー が中心となって民間の人や組織が主導的な役割も果たし、行政は裏方にまわってそ れらの活動を支えるというケースもある。 このような対等のパートナーシップの担い手の新しいあり方は「新しい公共」へ と思われている。それとも、今後の「観光立国」や「観光振興」に不可欠な新協働 の型である。 三、觀光立国と制度規範 「観光立国」設立背景としては人口減少と少子高齢化が進む日本において、観光は 地域における消費の増加や新たな雇用の創出など幅広い経済効果や地域の方々が誇 りと愛着を持つことができる活力に満ちた地域社会の実現をもたらすことから注目 されるようになっています。5また観光による交流の拡大を通じて、地域に住む方々 が地域の魅力をよりよく自覚するとともに、訪れ方にとってもその魅力をよりよく 感じていただく、いわば、 「住んでよし、訪れてよしの国づくり」を目指す言葉とし て「観光立国」と言われている。 6 そして「観光庁」の設立は「観光立国」を実現するためである。日本国全体とし ては官民を挙げて観光立国の実現に取り込む体制が必要となって三つ挙げられる: 一、日本が国を挙げて「観光立国」を推進することを発信するとともに、観光交流 拡大に関する外国政府との交渉を効果的に行うこと;二、 「観光立国」に関する数値 目標の実現にリーダーシップを発揮して、関係省庁への調整、働きかけを強力に行 うこと;三、日本政府が一体となって「住んでよし、訪れてよしの国づくり」に取 り込むことを発信するとともに、地方公共団体と民間の観光地づくりの取り組みを 強力に支援することが必要であることから、国土交通省に観光庁を設置し、観光立 国を総合的かつ計画的に推進することとした。 それから、平成15年1月小泉純一郎総理が観光立国懇談会を主宰し、4月にビ ジッとジャパン事業開始、平成18(2006)年12月に観光立国推進基本法が成立し、 平成 19(2007)年 6 月観光立国推進基本計画を閣議決定、平成 20(2008)年 10 月観 光庁設置し、25(2013)年 3 月第一回観光立国推進基本官僚会議を開催した。 7 そして観光庁の理念としては、 「観光立国の実現」を通じて、日本経済社会の活性 化、活力に満ちた地域社会の実現の促進、国際相互理解の増進や国際平和の実現、 健康で文化的な生活の実現などに貢献する。このため具体的な目標を定めて、五つ 取り組んでいる:一、日本の魅力を内外に発信する;二、日本の国内外の交流人口 を拡大し、日本や地域を元気にする;三、地域の自律的な観光地づくりを応援する; 5 6 7 額賀 信「観光統計から見えてきた地域観光戦略」、B&T ブックス日刊工業新聞社、2008 年 11 月 24 日。 佐々木 一成「観光振興と魅力あるまちづくり」、学芸出版、2011 年 4 月 20 日。 観光立国推進基本法 http://www.mlit.go.jp/kankocho/kankorikkoku/index.html 108 四、観光関連産業を活性化する;五、すべての人が旅行しやすい環境を整備する。8 このような観光整備で日本の外国人旅行者数を見てみると 2003 年(521.2 万人)と 2008 年(835.1 万人)と 2013 年(1.036.4 万人)と比べてみると、2013 年は訪日外国人 旅行者数は、1.036 万人(体前年比 24.0%増)となり、これまで過去最高であった 2010 年の 861 万人を上回り、初めて年間 1.000 万人を突破した。そして 2013 年の観光に おいて日本が世界に誇るべき出来事が多かった年である。6 月は「富士山-信仰の対 象とげいじゅつの源泉」が世界遺産となり、12 月に「和食;日本人の伝統的な食文 化」が無形文化遺産になるという輝かしい出来事が続いた。また日本の各地で様々 な行事やイベントが開催された。4 月に東京ディズニーランドが 30 周年を迎えたほ か、東京銀座いにリニューアルした歌舞伎座がオープンした。さらに伊勢神宮の式 年遷宮や出雲大社の本殿遷座祭など、地方にも注目が集まった。 図表 1:訪日外国人旅行者数の推移 9 その一方、図表-2、2012 年の日本の観光収入から見ると、前年度と比べて 3.8% 増 151 億ドルである。世界では 20 位になっている。日本の国際観光支出は 279 億ド ルである。そして訪日外国人旅行消費額は 1.4 億円で、日本人国内旅行消費額は 20.6 億円である。日本人の海外旅行者数の推移を見ると 2013 年は 1.747 万人である。ま た 2013 年、日本の国際会議開催件数は 342 件で世界 7 位だ。それから都道府県別の 8 観光庁ビジョン http://www.mlit.go.jp/kankocho/about/vision.html?print=true&css= 9 日本「2013 年観光白書」、平成 25 年度観光の状況及平成 26 年度観光施策、第 186 回国会提出、国土交通省観光庁、P10。 109 外国人実宿泊者数 2013 年は 2.105 万人である。さらに日本の男性海外旅行者数は 971 万人で、日本人女性海外旅行者数 778 万人である。さらに訪日外国人旅行者の 目的から見てみると、観光、レジャーは 54.6%で業務 30.2%、その他は 15.2%だ。ま た 訪 日 外 国 人 旅 行 者 の 訪 問 率 上 位 都 道 府 県 の 順 番 は 1 位 東 京 都 47.3% 2 位大阪府 25.1%、3 位京都府 18.9%、4 位神奈川県 11.2%、5 位千葉県 9.6%である。 さらに旅行消費が日本国内にもたらす経済効果(直接効果)2012 年度には、付加 価値効果は 10.9 兆円(GDP の 2.3%)で、雇用効果は 213 万人(全雇用の 3.3%)で、 税収効果は 1.8 兆円(全税収の 2.2%)である。 図表 2:2013 年日本の観光に関する数字 記 事 内 容 備 註 日本の国際観光収入 151 億ドル 2012 年 日本の国際観光支出 279 億ドル 2012 年 訪日外国人旅行消費額 1.4 億円 日本人国内旅行消費額 20.6 億円 日 本 人 の海外旅行者数の 推移 1.747 万人 日本の国際会議開催件数 342 件 都 道 府 県別の外国人実宿 泊者数 2.105 万人 日本人男性海外旅行者数 970 万人 日本人女性海外旅行者数 778 万人 訪日外国人旅行者の目的: 54.6%(観光、レジャー) 30.2%(業務)、15.2%(その他) 訪 日 外 国人旅行者の訪問 1 位東京都 47.3% 率上位都道府県の推移 3 位京都府 18.9% 5 位千葉県 9.6% 旅 行 消 費が日本国内にも 1 付加価値効果 たらす経済効果 2 雇用効果 (直接効果)2012 年度 3 税収効果 2 位大阪府 25.1% 4 位神奈川県 11.2% 10.9 兆円(GDP の 2.3% 213 万人(全雇用の 3.3% 1.8 兆円(全税収の 2.2% 旅 行 消 費が日本国内にも 1 生産誘発額 4.67 兆円 たらす経済効果 2 粗付加価値誘発額 23.8 兆円 (波及効果)2012 年度 3 雇用効果 399 万人 4 税収効果 4.1 兆円 資料参考:2013 年観光白書より,筆者自行整理。 110 2012 年 2012 年 四、観光發展と「官民協働」 日本観光振興協会は(公社)、2014 年 9 月 5 日~8 日の間、国民の観光に対する認 識やオリンピック·バラリンピック東京開催が日本人に及ぼす影響を探るため、全国 18 歳以上の男女約 2200 名を対象し、「観光立国に関する国民の調査」を実施した。 その結果は、最近一年間の旅行経験を聞いてみた、最近一年間に宿泊旅行をした人 宿泊の回数を聞くと、全体 6 割近く 3 泊以上 31%、一泊または二泊 28%である。そ してなぜ宿泊旅行をしなかった理由として、男性は「連続して休みが取らない」、女 性は「ほかのことに時間やお金をかける」が多いと答えた。 い そして「観光」に対するイメージと評価に関して 8 割以上の人は観光に対して「癒 やし·リフレッシュ」をイメージしている。そして観光が日本経済復活の柱の一つに なると「思う」人は 44%である。特に「交通網·交通機関の整備」、 「観光施設·宿泊 施設の整備」、「交通案内標識の整備」の政策は観光立国実現のために力を入れるべ きと 7 割の人が必要と思っている。 10 観光白書を調べてみると外国人旅行者へ利用しやすい宿泊施設の情報発信に取り 組んで、宿泊施設経営者が外国人の宿泊を積極的に力を入れ、受け入れるようとす る意識を醸成し、日本の旅館の魅力を発信し、 「日本旅館ブランド」の特徴や日本宿 泊施設の全体像を宣伝するため窓口サイトを開設し、FIT が必要とする各宿泊施設 の基本的な情報を簡単に入手できる共通フォーマットに基づいた情報の実施などを 提案し、宿泊業界体とともに更なる情報提供の充実策について検討していく。 それに、2013 年都道府県別、ホテルの種類の客室稼働率(図表三) 11を見ると日本 全国の宿泊施設タイプはリゾートホテルとビジネスホテルとシティホテルに分けて いる。全国から見るとシティホテルの利用率がやや高くなっている、そして 80%以 上利用している都道府県別は東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県、京都府、大阪府、 北海道、宮城県、福島県、島根県、広島県、愛知県、沖縄県である。その特徴につ いて大都会では東京都、神奈川県、京都府、大阪府、北海道でシティホテルの利用 率が高くなっている、それは便利性であり、利用しやすい、値段的な魅力があると 思われる。リゾートホテルの利用は具対的に沖縄の利用者が多い、全国の都道府県 で唯一の観光特徴である。 さらに、外国人旅行者の受け入れ交通機関による快適·円滑な移動手段を充実と便 利性を向上するため完備な交通環境を整備する。平成 25 年に羽田空港における空港 アクセスの改善に、更なる利便性の向上に航空ネットワークの拡充し空港アクセス 10 11 日本「観光立国に関する国民の意識調査」、公益社団法人日本観光振興協会、平成 26 年 12 月 17 日。 日本「2013 年観光白書」、平成 25 年度観光の状況及平成 26 年度観光施策、第 186 回国会提出、国土交通省観光庁、P14。 111 図表 3:2013 年都道府県別、ホテルの種類の客室稼働率 に関する深夜早朝時間帯と都心を結ぶバスを運行する環境を築ぐ、または訪日外国 人旅行者のタクシー、レンタカーの利用環境改善に向け、観光タクシーのルートを 拡充し、日本の交通ルールや日本での運転可能な免許証情報を実施した。そして公 共交通機関や道路の利用にも多言語対応の環境整備や、ガイドラインを作成し、分 りやすい案内を標識し、利用しやすいよう、移動手段の便利性に関する施策を地方 の経済界、公共団体、関係事業者などと連携して様々な交換会の開催などに取り組 んでいる。(図表四) 12日本国内の輸送機関別旅客輸送量の推移から見てみると、主 な交通手段は鉄道と航空とフェリーである。鉄道の利用はトップで、航空それから フェリーである。2006 年と 2013 年を比べると鉄道の便利性と安全性が高いため利 用者が増えつづ、かえて航空とフェリーの利用が減少した。 そして 2011 年では、東日本大震災の影響で鉄道や航空に大幅減ってしまった。さ 12 日本 「2013 年観光白書」 、平成 25 年度観光の状況及平成 26 年度観光施策、第 186 回国会提出、国土交通省観光庁、P164。 112 らに大震災の復興対応をするため充実な観光対策を実施し、2012 年に交通機関が 2010 年より回復し、利用者数が増えた。 図表 4:日本国内の輸送機関別旅客輸送量の推移 年 鉄 道 航 (単位:百万人) 空 フェリー 2006 22,129 96 3.1 2007 22,680 96 3.0 2008 23,021 93 2.8 2009 22,738 84 2.4 2010 22,796 84 2.2 2011 22,466 78 2.2 2012 23,099 85 2.2 2013 23,281 91 2.3 注 1 国土交通省「国土交通月例経済」(平成 26 年 3 月号)より観光庁作成。 注 2 2012 年の値は速報値。 注 3 フェリーは長距離の輸出人員を示す 五、おわりに 新時期日本国の「観光立国」政策の推動について、国家と社会の基礎体制で特別 な「官民協働」の形を構築している、それは「制度規範」と「官民協働」の元素を 含まれている。新時期の「観光立国」について政府と民間の役割は何なのか。また 観光立国の目標の実現にどのように行っているのか、観光白書の数字を使って説明 できる。 「観光立国」の理念は「観光立国の実現」を通じて、日本の経済社会の活性化、活 力に満ちた地域社会の実現の促進、国際相互理解の増進や平和の実現、健康で文化 的な生活の実現などに貢献する。観光理念としては「観光立国の実現」を通じて、 日本の国際観光収入と訪日外国人旅行消費額を見ると日本経済社会に活性化をもた らした。さらに日本人にとって海外旅行数と訪日外国人旅行者数の増えつづによっ て日本と外国の国際相互理解の増進と国際平和の実現を促進した。その具体的な意 味は日本の魅力を内外に発信し、日本の国内外の交流人口を拡大し、日本の経済社 会や日本の地域を元気した。また都道府県別の外国人実宿泊者数や客室稼働率や日 本の国際会議開催件数によって観光関連産業を活性化した。さらに日本の旅館の魅 力と特徴をうまく外国人に伝えて発信した。それから日本政府が外国人旅行者の受 け入れ及び交通機関の快適性、円滑な移動手段を充実と便利性を向上するため、完 備的な交通観光の整備の改善や航空ネットワークの拡充や空港アクセス改善に深夜 113 早朝時間帯と都市を結びバスの運行などの実施が人が旅行しやすい環境を整備し、 鉄道や航空及びフェリー輸送に対して安全性と便利性を備えた。日本人と外国人に 対し「観光の癒し·リフィレッシュ」のイメージを観光立国の政策に実現した。 官民協働の発展で民間人リーダーが中心となって民間の人や組織が主導的な役割 し、行政は裏方にまわってそれらの活動を対等のパートナーシップの担い手の新し いあり方である。それとも、今後の「観光立国」や「観光振興」に不可欠な新協働 の型である。政府の役割としては観光に関する規範や条例や方針、マニュアル、ハ ンドブックなどを策定し、民間の役割は政府の不足な部分を補完し、また協働で政 府の代替的な構築をしている。このような政府と民間の協働はパートナーシップの 新しいあり方である。それに旅行消費にもたらした直接の付加価値効果や雇用効果 や税収効果は日本の国内経済と地域の経済を活力化し、雇用機会に対し雇用率が増 加した。地方の経済界及公共団体と観光産業業者などの連携する関係者たちの相互 信頼性を立てるし、二人三脚で取り組んで相互依頼関係を繋がった。このような対 等のパートナーシップの担い手は「観光立国」を実現するため必要な官民協働の概 念である。 参考文献 原田晃樹,「NPO 再構築への道」、勁草書店、2010 年 4 月 30 日。 大社 充,「地域プラットフォームによる観光まちづくり」、学芸出版者、2013 年 3 月。 額賀 信, 「観光統計から見えてきた地域観光戦略」、B&T ブックス日刊工業新聞社、 2008 年 11 月 24 日。 佐々木 一成,「観光振興と魅力あるまちづくり」、学芸出版、2011 年 4 月 20 日。 郭子瑄,「新時期日本政府與非營利組織之互動:立法規範與制度變遷」、国立中山大 學中國與亞太區域延究所博士論文、2012 年 1 月。 日本「観光立国に関する国民の意識調査」、公益社団法人日本観光振興協会、平成 26 年 12 月 17 日。 日本独立行政法人国際観光振興機構 第三期中期目標、国土交通省。平成 25 年 2 月 28 日。 日本「2013 年観光白書」、平成 25 年度観光の状況及平成 26 年度観光施策、第 186 回国会提出、国土交通省観光庁、P10。 日本観光立国推進基本法: http://www.mlit.go.jp/kankocho/kankorikkoku/index.html 日本観光庁ビジョン: http://www.mlit.go.jp/kankocho/about/vision.html?print=true&css= 114 国語伝習所及び公学校における漢文教授内容の 変更について 文藻外語大学 安達信裕 キ ー ワ ー ド : 国 語 伝 習 所 公 学 校 伊 沢 修 二 漢 文 教 授 はじめに 本 報 告 の 目 的 は 、植 民 地 初 期 の 台 湾 の 初 等 教 育 機 関 に お け る 漢 文 教 育 に つ い て 明 ら か に す る こ と で あ る 。植 民 地 初 期 の 初 等 教 育 機 関 と い え ば 、 1896( 明 治 29)年 か ら 開 校 さ れ た 国 語 伝 習 所 と 1898( 明 治 31)年 に 国 語 伝 習 所 の 代 わ り に 開 校 さ れ た 公 学 校 が 挙 げ ら れ る 。よ っ て 、本 報 告 で は 、国 語 伝 習 所 と 公 学 校 で 行 わ れ た 漢 文 教 育 に つ い て 明 ら か に し て い く 。 ま た 、植 民 地 初 期 に お け る こ の 一 連 の 教 育 事 業 を 推 進 し た の が 初 代 学 務 部学務部長の伊沢修二である。本報告では、伊沢に着目していく。 さ て 、植 民 地 期 台 湾 で の 教 育 は 、台 湾 人 を 日 本 人 に す る こ と を 目 的 と し た 、い わ ゆ る 同 化 教 育 で あ る 。そ し て 、同 化 教 育 の 内 実 は 国 語 教 育 で あ っ た と さ れ 、伊 沢 の 台 湾 で の 教 育 も 国 語 教 育 を 中 心 に 論 じ ら れ て い る 。 先 行 研 究 が 国 語 教 育 に 偏 っ て し ま っ た の は 、日 本 の 植 民 地 教 育 の 特 色 で ある同化教育の手段が領台当初から国語教育だったと認識されており、 同化教育を明らかにすることは国語教育を明らかにすることだと考え ら れ て い る か ら で あ ろ う 。し か し 、近 藤 純 子 は 伊 沢 の 漢 文 や 漢 字 を 利 用 し た「 対 訳 法 」は 、過 渡 的 方 法 で は な く 、伊 沢 が 選 択 し た 教 授 法 だ っ た と 評 価 し 1 、別 の 論 考 で も 伊 沢 の 漢 字・漢 文 を 使 っ た 教 育 方 法 の 可 能 性 を 探 っ て い る 2 。陳 培 豐 は 伊 沢 が 台 湾 教 育 制 度 構 想 に お い て 漢 文 、漢 字 を 温 存 し 、書 房 を 公 学 校 化 し よ う と し て い た こ と を 指 摘 し て い る 3 。こ れ ら の 先 行 研 究 を 踏 ま え 、本 報 告 で は 漢 文・漢 字 を 利 用 し た 教 授 法 お よ び 書 房 1 近 藤 純 子「 伊 沢 修 二 と『 対 訳 法 』― 植 民 地 期 台 湾 に お け る 初 期 日 本 語 教 育 の 場 合 ― 」 『 日 本 語 教 育 』98 号 、 日 本 語 教 育 学 会 、 1998 年 、 124 頁 。 近 藤 は 論 文 の 中 で 漢 字 と 漢文を峻別していないが、本文で論じるように伊沢は漢字と漢文がもつ特色をきち んと分けた上で、教育に利用している。 2 同「伊沢修二と日本語教育」 『 ア ジ ア 教 育 史 研 究 』 11 巻 、 2002 年 。 3 陳培豐『 「 同 化 」 の 同 床 異 夢 』 、 三 元 社 、 2001 年 、 50-54 頁 。 1 115 の 利 用 を 伊 沢 の 教 育 構 想 の 中 で も 核 と な る 方 法 だ と 位 置 づ け て 、そ の 教 育思想の特徴について明らかにしていきたい。 本 報 告 で は 、ま ず 、国 語 伝 習 所 に お い て 漢 文 教 授 が 始 ま っ た 経 緯 を 説 明 す る 。次 に 、公 学 校 に お い て 漢 文 を 教 授 す る 科 目 で あ る 読 書 科 に つ い て 論 じ て い く 。読 書 科 は 、伊 沢 の 教 育 構 想 が 大 き く 影 響 し て い る と 考 え ら れ る た め 、伊 沢 の 漢 字・漢 文 を 利 用 し た 教 育 を 中 心 に 論 じ る 。そ し て 、 最後に伊沢の漢文を利用した教育が否定された原因についてまとめる。 1.国 語 伝 習 所 に お け る 漢 文 教 授 に つ い て 国 語 伝 習 所 は 1896( 明 治 29)年 に 開 校 さ れ た 4 。国 語 伝 習 所 は 、官 吏 や通訳の養成を行う甲科と、初等教育を行う乙科に分かれていた。 手 当 金 が あ っ た こ と か ら 多 く の 生 徒 を 集 め た 甲 科 に 対 し 、乙 科 は 生 徒 集 め に 苦 労 し た よ う で あ る 。地 方 に よ っ て は 、寄 付 金 に よ り 乙 科 の 生 徒 に も 給 費 を 行 っ た 所 も あ っ た 5 。つ ま り 、台 湾 人 側 が 乙 科 で 行 わ れ た 教 育 の必要性を理解し、希望していたわけではないといえるだろう。 台 湾 人 側 が 日 本 人 に よ る 初 等 教 育 の 必 要 性 を 認 め な か っ た 事 実 は 、国 語伝習所が台湾の伝統的な初等教育機関である書房との生徒の獲得競 争 に 容 易 に は 勝 つ こ と が 出 来 な か っ た こ と か ら も 確 認 で き る 。領 台 に 伴 う戦乱のために書房もほとんど半減に等しいほど激減したが、その後、 漸 増 の 傾 向 を 示 し 、 1897( 明 治 30) 年 3 月 か ら 翌 年 の 9 月 に か け て は 480 校 増 加 し 、 1707 校 と な っ た 6 。 こ の 事 実 か ら も 書 房 が 台 湾 社 会 に 深 く 根 付 い て い た こ と が わ か る 。 1898( 明 治 31) 年 に 書 房 義 塾 に 関 す る 規 定 が 出 さ れ 、書 房 に 対 す る 取 り 締 ま り が 本 格 化 し て い く と 、そ の 数 は 漸 減 し て い く が 、公 学 校 の 生 徒 数 が 書 房 の 生 徒 数 を 上 回 る ま で に 7 年 も か か っ て い る 7。 こ の 書 房 の 影 響 力 は 、当 時 の 台 湾 社 会 に お い て「 漢 文( 台 湾 句 讀 8・台 「 国 語 伝 習 所 規 則 ( 府 令 第 15 号 )」 第 一 条 、 『 沿 革 史 』 、 168 頁 。 『 沿 革 誌 』 、 179 頁 。 6 『 沿 革 誌 』 、 969 頁 。 7 1904 ( 明 治 37)年 の 書 房 生 徒 数 は 21661 人(「 書 房 教 師 生 徒 及 収 入 一 覧 」 『 沿 革 誌 』、 1002 頁 ) で 、 公 学 校 の 生 徒 数 は 23178 人 (「 年 度 別 公 学 校 一 覧 」『 沿 革 誌 』 408) で ある。 8 1897( 明 治 30)年 に 発 布 さ れ た「 国 語 学 校 規 則 中 改 正( 府 令 第 42 号 ) 」 (『 沿 革 誌 』、 575 頁 )に お い て 、「 国 語 科 在 学 中 の 本 島 人 生 徒 に は 、 未 だ 漢 文 及 台 湾 尺 牘 に 通 暁 せ ざるもの多く、単に国語を課するのみでは、卒業後実際に適し兼ねる憂もあるの で 、 国 語 学 校 長 上 申 の 旨 趣 を 採 用 、 漢 文( 台 湾 句 讀 )及 尺 牘 を 加 え る 」と さ れ て い る ことから、台湾句讀とは台湾の伝統的な漢文の読み方を指していると判断する。 4 5 2 116 湾 尺 牘 等 )」 が 必 須 で あ り 、 漢 文 を 解 さ な い 乙 科 卒 業 生 は 日 常 の 生 活 に も 支 障 が 生 じ た 9 と さ れ る ほ ど 、漢 文 を 重 視 す る 社 会 で あ っ た こ と に 起 因 し て い る 。こ う い っ た 台 湾 の 社 会 背 景 が あ っ た た め 、乙 科 の 生 徒 確 保 は 困 難 を 極 め 、中 に は 内 々 に 漢 文 教 授 を 始 め た 学 校 も あ っ た こ と や 、各 地 の 地 方 庁 か ら 漢 文 教 授 を 認 め る よ う に し き り に 上 申 が あ っ た た め 、1897 ( 明 治 30) 年 10 月 に 国 語 伝 習 所 規 則 が 改 正 さ れ 、 乙 科 に お い て 「 土 地 ノ 情 況 ニ 依 リ 」漢 文 を 教 授 し 得 る こ と に な っ た 。そ し て 、漢 文 の 内 容 は 表 1 の よ う に 定 め ら れ た 10 。 そ の 内 容 は 、 書 房 で の 教 育 内 容 と ほ ぼ 同 じ で あ り 、い く つ か の 国 語 伝 習 所 で は 、漢 文 教 師 と し て 書 房 教 師 を 雇 教 師 に 採 用 し 、 書 房 と の 対 抗 上 い く ぶ ん 有 利 に な っ た と い う 11 。 表 1 国 語 伝 習 所 に お け る 漢 文 週 六 時 間 第一課程 三字経及 孝経ノ台 湾句讀竝 書取 週 六 時 間 第二課程 大学中庸 及論語ノ 台湾句讀 竝書取 週 第三課程 論語及孟子ノ台湾 八 句讀竝書取簡易ナ 時 ル時文及台湾尺牘 間 ノ作文 週 八 時 間 第四課程 孟子ノ台湾句 讀竝書取簡易 ナル時文及台 湾尺牘ノ作文 出 典 :『 沿 革 誌 』、 p.197 よ り 作 成 。 こ の よ う に 各 地 の 国 語 伝 習 所 は 書 房 教 師 を 雇 い 、そ の 漢 文 教 授 を 任 せ た の だ が 、学 務 部 は 書 房 の 漢 文 教 育 の「 改 良 」を 行 お う と し て い た 。1897 ( 明 治 30)年 に 、国 語 学 校 国 語 科 で も 漢 文 教 授 が 開 始 さ れ 、漢 文 教 授 法 の「改良」がはじめられた。国語学校で漢文教授が開始された理由は、 漢 文( 台 湾 句 讀 、台 湾 尺 牘 等 )が 出 来 な け れ ば 日 常 の 生 活 に も 支 障 が 出 る と い う 台 湾 の 社 会 状 況 に 対 応 す る た め で あ る と 説 明 さ れ て い る が 、そ の 教 授 の 方 法 は「 従 来 書 房 で 実 施 せ る も の と 異 り 、教 育 学 上 の 理 論 を 応 用 し 、将 来 書 房 教 授 の 改 良 を も 図 ら ん と す る も の で あ っ た 」と さ れ た 12 。 残 念 な こ と に 、教 育 学 上 の 理 論 を 応 用 し た 書 房 教 授 の 具 体 的 な 改 良 点 は 、 史 料 上 の 制 約 で わ か ら な い 。た だ 、書 房 の 漢 文 教 育 を 問 題 視 し て い た こ とだけは確かである。 さ て 、 1898( 明 治 31) 年 に 国 語 伝 習 所 に か わ っ て 公 学 校 が 初 等 教 育 を 担 う こ と と な る が 、漢 文 の 教 授 は 読 書 と い う 科 目 で 行 わ れ る こ と と な 『 沿 革 誌 』 、 197 頁 。 同上。 11 同 上 、 197-198 頁 。 12 同 上 。 9 10 3 117 る 。こ の 新 た な「 漢 文 」学 習 課 程 に 大 き な 影 響 を 与 え た の は 、初 代 学 務 部 部 長 伊 沢 修 二 で あ る 。次 節 で は 、伊 沢 修 二 の 漢 字・漢 文 に 対 す る 考 え 方や台湾での教育方針等に着目して、読書科が生まれた背景を探る。 2 .公 学 校 で の 漢 文 教 授 の た め の 読 書 科 上 述 し た よ う に 、 1898( 明 治 31) 年 に は 「 台 湾 公 学 校 令 ( 勅 令 178 号 )」が 発 布 さ れ 、公 学 校 が 開 校 し た 13 。こ の 公 学 校 に お い て 、漢 文 は「 読 書 科 」 と い う 授 業 で 教 え ら れ る こ と に な っ て い た 。「 読 書 科 」 は 、 日 本 の 教 科 書 と 「 漢 文 」 を 同 時 に 教 え る 科 目 で あ っ た 。 漢 文 の 部 分 は 、『 増 訂 三 字 経 』を 台 湾 句 讀 か ら 始 め 、最 終 的 に 日 本 の 訓 点 を 施 し て 読 ま せ る という課程である。具体的な課程表は表2にまとめた。 表 2 公 学 校 読 書 科 課 程 表 毎週教授 毎週教授 第一学年 時間 毎週教授 第二学年 時間 第三学年 時間 小学よみかき教授書及 同左 小学読本巻一 掛図一、二 一二 大 学 中 庸( 台 湾 句 一二 一二 論語 増訂三字経 讀) (台湾句讀) 孝経(台湾句讀) 毎週教授 毎 週 教 授 第四学年 時間 毎週教授 第五学年 時間 第六学年 時間 小学読本巻三 小学読本巻二 一二 小学読本巻四 一二 増訂三字経 論語(台湾句讀) 一二 論 語( 本 国 訓 点 ) 孝経(本国訓点) 出 典 : 公 学 校 教 科 課 程 表 、『 沿 革 史 』、 p.233 よ り 作 成 。 書 房 で の 漢 文 教 育 と 公 学 校 で の 漢 文 教 育 の 大 き な 相 違 点 は 、教 科 書 と その教授法である。この意図とはどのようなものか考察していきたい。 考 察 す る た め の 史 料 と し て 、 挙 げ ら れ る の は 伊 沢 が 1897(明 治 30)年 に 帝 国 教 育 会 に 於 い て 演 説 し た「 台 湾 の 公 学 校 設 置 に 関 す る 意 見 」で あ る 。こ の 演 説 に お い て 伊 沢 は 、帝 国 議 会 に 提 出 し た「 公 学 模 範 学 校 規 則 」 に つ い て 細 か く 説 明 し て お り 、そ の 演 説 内 容 と「 公 学 模 範 学 校 規 則 」が 帝 国 教 育 会 の 会 報 で あ る 『 教 育 公 報 』 に 掲 載 さ れ て い る 14 。 こ の 史 料 か 『 沿 革 誌 』 、 223 頁 。 伊 沢 修 二 「 台 湾 の 公 学 校 設 置 に 関 す る 意 見 ( 承 前 )」、『 教 育 公 報 』 196 号 、 帝 国 教 育 会 、 1897 年 7 月 、 10 頁 。 13 14 4 118 ら 伊 沢 の 考 え が わ か る の だ が 、確 認 し て お か な け れ ば な ら な い 点 は 、公 学 校 令 が 発 布 さ れ る 前 年 の 1897( 明 治 30) 年 7 月 に 伊 沢 修 二 は 罷 免 さ れ て い る こ と で あ る 15 。 そ の 理 由 は 、 伊 沢 が 中 心 と な っ て 計 画 し た 「 公 学 模 範 学 校 規 則 」が 却 下 さ れ た の に 、伊 沢 が 反 対 し た た め だ と 言 わ れ て い る 。却 下 さ れ た 理 由 は 、財 政 的 な 問 題 で あ り 、教 授 内 容 自 体 は 、発 布 さ れ た「 公 学 校 令 」と「 公 学 模 範 学 校 規 則 」に は 大 き な 違 い が な い 。よ って、この史料より「読書科」の意図が確認できると考えられる。 具 体 的 に 検 討 す る 前 に 、伊 沢 修 二 の 読 書 科 構 想 は 、彼 の 漢 文 へ の 認 識 が大きく影響している。よって、まずは彼の漢文認識から論じていく。 伊 沢 は 台 湾 に 渡 る 前 に 、台 湾 の 漢 民 族 の 教 育 は 四 書 五 経 な ど の 暗 誦 に 過 ぎ な い と し 、漢 文 ど こ ろ か 漢 字 を 廃 止 し 、片 仮 名 で 教 育 す る こ と を 主 張 し て い た 16 。 し か し な が ら 、 伊 沢 は 渡 台 後 に 台 湾 人 と の 言 語 に よ る コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン の 困 難 さ と い う 問 題 に 直 面 し 、こ の 考 え 方 を 改 め て い く こ と に な っ た 。伊 沢 た ち は 通 訳 者 と し て 北 京 官 話 が で き る も の を 連 れ て 行 っ た が 、ま っ た く 通 じ な か っ た 。し か し 、漢 文 を 勉 強 し た 台 湾 人 に 対 し て は 、漢 字 を 利 用 し て コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン を と る こ と が 出 来 た 。こ の 経験が伊沢を漢字の積極的利用へ立場を転向させたのだろう。 ま た 、伊 沢 は 教 育 勅 語 の 旨 趣 を 広 め る た め に は 漢 文 訳 が 有 効 で あ る と 考 え て い た 。 1897( 明 治 30) 年 に 、 伊 沢 は 教 育 勅 語 の 趣 旨 を 知 ら せ る た め に 、 教 育 勅 語 の 漢 訳 文 を 発 布 し 、 台 湾 教 育 の 最 高 の 指 針 と し た 17 。 さ ら に 、 1899( 明 治 32) 年 に は 教 育 勅 語 の 意 義 を 漢 文 で 書 い た 『 教 育 勅 語 述 義 』が 発 布 さ れ 、書 房 義 塾 に 交 付 さ れ る な ど 初 等 教 育 で も 漢 訳 文 が 利 用 さ れ 始 め る 18 。 こ の よ う に 伊 沢 は 国 語 教 育 や 教 育 勅 語 の 精 神 を 台 湾人に周知させるために漢訳を積極的に利用した。 以上のことから、伊沢が台湾に渡ってすぐに漢字の有用性を認識し、 漢 字 を 積 極 的 に 利 用 し て き た こ と が わ か る 。し か し 、そ れ で は な ぜ 開 設 当初から国語伝習所において漢文教授をしなかったのであろうか。 改めて伊沢が積極的に漢字を利用して台湾人に理解させようとした 15 伊沢は罷免された後、数年間は台湾総督府の学務顧問を嘱託されている(前掲書 『 周 遊 前 記 』、 296 頁 )が 、 学 務 顧 問 と し て 伊 沢 が 台 湾 の 教 育 政 策 に ど の 程 度 影 響 を 与えたのかは定かではない。 16 伊 沢 修 二 「 台 湾 教 育 談 」 、 『 伊 沢 修 二 選 集 』 信 濃 教 育 会 、 1958 年 、 571 頁 。 17 『 沿 革 史 』 、 277 頁 。 陳 は 発 布 以 前 か ら 漢 訳 の 教 育 勅 語 が 利 用 さ れ て い た こ と を 指 摘 し て い る 。 ( 陳 前 掲 書 、 46 頁 。 ) 18 『 沿 革 誌 』 、 975-6 頁 。 な お 、 そ の 訳 文 は 末 松 謙 澄 の 手 に 依 る も の と あ る 。 5 119 内 容 を み る と 、日 本 語 と 教 育 勅 語 で あ り 、四 書 五 経 な ど は 含 ま れ て い な い 。こ れ は 伊 沢 の 、清 朝 へ の 帰 属 意 識 を 失 く さ せ 、彼 等 の 思 想 を 改 造 し 、 日 本 人 の 思 想 に 同 化 さ せ る と い う 教 育 方 針 19 が 影 響 し た も の だ ろ う 。 書 房 の 漢 文 は 清 朝 の 思 想 界 を 維 持 し て き た も の で あ り 、そ れ を 乙 科 で も 教 え 続 け る と い う 発 想 が 伊 沢 に な か っ た の で あ る 。し か し 、伊 沢 が 想 像 し た以上に台湾では漢文が台湾の道徳の根本にまで根づいていたことや 廈 門 と の 通 商 に 必 要 で あ っ た こ と か ら 漢 文 を 認 め た 20 。 さ て 、上 述 し た よ う に「 読 書 科 」で は 教 科 書 及 び 教 授 法 が 変 更 さ れ た 。 ま ず 、教 科 書 は 天 皇 の 支 配 の 転 覆 を 容 認 す る 考 え な ど の 日 本 の 統 治 に 不 都 合 な 個 所 を 訂 正 す る と い っ た 編 集 が 行 わ れ た 21 。 次 に「 漢 文 」の 日 本 の 訓 点 に よ る 読 み 方 を 教 え る 理 由 に つ い て 伊 沢 は 「 日 本 の 今 日 の 公 用 文 な ど が 、皆 所 謂 漢 文 脈 か ら 来 た 文 法 で あ り ま す か ら 、之 を 教 へ る に は 、矢 張 り 日 本 の 訓 点 を 教 へ て 置 き ま す と 、誠 に 教 え 易 い こ と に な る か ら 」 と 述 べ て い る 22 。 つ ま り 、 公 学 校 で の 「 漢 文 」 学 習の最終目的は日本の漢文訓読法によって孝経や論語の内容を理解す る こ と な の で あ る 。さ ら に 、中 学 に お い て 詩 経・易 経 等 を 台 湾 句 讀 で 教 え る と と も に 元 田 永 孚 が 編 纂 し た「 幼 学 綱 要 」も 教 え る こ と を 計 画 し て 「 日 本 風 の 漢 文 読 方 」を い た 23 。そ の 目 的 は 、日 本 語 の 文 法 を 理 解 さ せ 、 教 え る こ と で あ る が 、伊 沢 が「 幼 学 綱 要 」の す ば ら し い 点 と し て 、日 本 の国体と道徳にとって都合のよい四書五経の文句が引用されているこ と を 挙 げ て い る 。伊 沢 は 公 学 校 の 修 身 科 に お い て 教 育 勅 語 の 趣 旨 を 知 ら し め る こ と を 目 標 と し た が 、教 育 勅 語 の 趣 旨 を 儒 教 と 関 連 付 け て い る 24 。 こ う い っ た 方 法 論 を 考 慮 す る と 、伊 沢 は「 幼 学 綱 要 」の 内 容 を「 古 来 支 那 人 の 尊 崇 し て 居 る 25 」 四 書 五 経 と を 関 連 付 け て 理 解 さ せ よ う と し た と 考 え ら れ る 。以 上 の こ と か ら 伊 沢 の 読 書 科 に お け る「 漢 文 」教 授 は 三 字 経 や 四 書 五 経 を 中 国 の 伝 統 的 な 知 識 体 系 で は な く 、 教 育 勅 語 ・「 幼 学 綱 要 」 と 強 く 結 び つ け る こ と で 、「 漢 文 」 を 日 本 の 国 体 理 解 へ の 糸 口 と 伊 沢 修 二「 明 治 廿 八 年 の 教 育 社 会 」、『 教 育 時 論 』350 号 、 開 発 社 、 1895 年 1 月 、 19 頁 。 20 前 掲 『 周 遊 前 記 』 、 252 頁 。 21 前 掲 『 周 遊 前 記 』 、 252 頁 。 22 伊 沢 前 掲 、 「 台 湾 の 公 学 校 設 置 に 関 す る 意 見 ( 承 前 ) 」 、 10 頁 。 23 同 上 。 24 伊 沢 前 掲「 台 湾 の 公 学 校 設 置 に 関 す る 意 見 」、『 教 育 公 報 』195 号 、 帝 国 教 育 会 、 1897 年 6 月 、 9 頁 。 25 伊 沢 前 掲 「 台 湾 の 公 学 校 設 置 に 関 す る 意 見 ( 承 前 ) 」 、 10 頁 。 19 6 120 することを意図したものであったといえよう。 伊 沢 が 台 湾 人 に 尊 皇 や 国 体 を 理 解 さ せ る こ と を 重 視 し た の は 、そ の 理 解 こ そ が 教 育 目 標 で あ る「 同 化 」に 繋 が る と 考 え て い た か ら で あ る 。言 い 換 え れ ば 、「 天 皇 の 『 臣 民 』 に な る 」 = 「 同 化 」 と い う 図 式 が 伊 沢 の 同 化 論 で あ る 。こ の 国 語 で は な く 、徳 教 が 国 民 た る 性 格 を 形 成 す る と い う 、伊 沢 の 同 化 に つ い て の 考 え 方 は 公 学 校 教 育 の 理 念 に も 反 映 さ れ て い る 。 公 学 模 範 学 校 の 本 旨 第 一 条 で 、「 徳 教 を 施 し 実 学 を 授 け 以 て 国 民 た る の 性 格 を 要 請 し 一 般 公 学 の 模 範 に 供 す る を 以 て 本 旨 と す 26 」 と う た っ ていることからも、それは明らかである。 上 述 し た よ う に 公 学 校 で 教 え ら れ た「 漢 文 」は 、書 房 で 行 わ れ て い た 漢 文 を そ の ま ま 引 き 継 い だ 国 語 伝 習 所 と は 違 い 、日 本 の 漢 文 訓 読 と 関 連 付 け ら れ る こ と に よ っ て 、日 本 の 国 体 や 教 育 勅 語 を 深 く 理 解 す る た め の ツ ー ル と し て の 役 割 を 与 え ら れ た 。 し か し 、 2 年 後 の 1900( 明 治 33) 年 に は 早 く も 公 学 校 改 正 の 動 き が 始 ま り 、 1904( 明 治 37) 年 に 公 学 校 改正令が出され、読書科は廃止される。 伊 沢 が 構 想 し た 、漢 字・ 「 漢 文 」を 利 用 し た 同 化 教 育 を 考 え て み る と 、 こ の 教 育 は「 台 湾 句 讀 」に よ る「 漢 文 」教 授 が 重 要 視 さ れ る た め 、そ の 教育にあたる台湾人教師が同化教育の要にならざるを得ない。よって、 台 湾 人 教 師 が 教 育 勅 語 や 日 本 の 国 体 を 理 解 す る こ と 、さ ら に 台 湾 人 教 師 の 同 化 教 育 へ の 能 動 的 同 意 が 必 須 条 件 だ っ た 。し か し 、台 湾 人 教 師 は 同 化 教 育 に 賛 同 し て い る わ け は な く 、そ こ が 問 題 と な っ た 。例 え ば 、1900 ( 明 治 33) 年 に 公 学 校 で の 「 漢 文 」 教 授 が 「 内 地 教 師 の 支 配 を 免 れ て 、 全 く 其 勢 力 範 囲 以 外 の も の と な る の 傾 き あ り 27 」 と い う よ う な 、 日 本 人 教 師 の 危 惧 を 招 く 状 況 が 報 告 さ れ て い た 。つ ま り 、伊 沢 の「 漢 文 」を 日 本 の 国 体 や 尊 王 理 解 に 利 用 す る と い う 目 論 見 は 外 れ 、結 局 公 学 校 で も 書 房 で 教 え ら れ て い た 漢 文 が 教 授 さ れ て い た の で あ る 。そ も そ も 伊 沢 の 手 法は台湾人が同化教育に協力してくれるという信頼の上で成り立って いる。 伊沢が台湾人教師は同化教育に協力してくれると考えた根拠はなん だ っ た の だ ろ う か 。そ の 手 が か り は 、伊 沢 の 台 湾 占 領 に 対 す る 認 識 に あ る 。伊 沢 は 台 湾 占 領 を「 支 那 の 皇 帝 」に 忠 実 な 台 湾 人 は「 皇 帝 」が 締 結 「 台 湾 総 督 府 公 学 模 範 学 校 規 則 案 」、『 教 育 公 報 』 195 号 、 帝 国 教 育 会 、 1897 年 6 月 、 20 頁 。 27 平 井 又 八 「 漢 文 教 授 ニ 就 テ 」 『 国 語 研 究 会 会 報 』 第 一 号 、 1900 年 、 40 頁 。 26 7 121 し た 条 約 を 尊 重 し 、忠 誠 を 誓 う 対 象 を「 支 那 の 皇 帝 」か ら 天 皇 へ と 移 し 、 日 本 の 「 良 民 」 と な る の は 当 然 だ と し て 、 正 当 化 し て い た 28 。 こ の よ う な 認 識 が 伊 沢 の 同 化 論 の 根 底 に あ っ た の で は な い だ ろ う か 。言 い 換 え れ ば 、伊 沢 の 同 化 教 育 と は 、清 朝 時 代 に 台 湾 人 が 漢 文 を 通 し て 忠 義 を 学 ぶ こ と で 皇 帝 を 崇 拝 し て い た よ う に 、「 漢 文 」 を 通 し て 日 本 の 国 体 と 教 育 勅語を理解し、天皇を崇拝するようになるという図式である。 も ち ろ ん 、伊 沢 の 思 惑 通 り に は 同 化 は 進 ま な か っ た 。書 房 教 師 に 教 育 勅 語 の 漢 訳 文 を 配 っ た に も か か わ ら ず 、 1911( 明 治 44) 年 の 書 房 義 塾 で 使 用 さ れ て い る 教 科 書 の 調 査 で は 、多 く の 書 房 が 中 国 大 陸 で 出 版 さ れ た 教 科 書 を 使 用 し て い た 実 態 が 報 告 さ れ て い る し 29 、公 学 校 で の「 漢 文 」 教 授 も 日 本 人 教 師 の「 勢 力 範 囲 外 」の 状 況 で あ り 、伊 沢 の 構 想 通 り に 進 んだとしても台湾人が同化教育に能動的に同意したとは考えられない。 こ の よ う な 状 況 で あ っ た た め 、領 台 初 期 の 教 育 の 中 で 日 本 人 教 師 に と っ て 、「 漢 文 」 教 師 で あ る 台 湾 人 教 師 を 公 学 校 教 育 の 中 で ど う す る の か は 大きな問題であったと考えられる。そのため、早々にも読書科の廃止、 四 書 五 経 の 教 授 の 廃 止 、対 訳 法 で の 国 語 教 授 の 廃 止 が 進 め ら れ た と も い えるだろう。 おわりに 国語伝習所の漢文教育は書房と同じであったが、公学校では「漢文」 が 日 本 の 漢 文 訓 読 と 関 連 付 け ら れ る こ と に よ っ て 、日 本 の 国 体 や 教 育 勅 語 を 深 く 理 解 す る た め の ツ ー ル と し て の 役 割 を 与 え ら れ た 。「 漢 文 」 教 育 が す ぐ に 廃 止 さ れ た 背 景 に は 、伊 沢 の 領 台 の 認 識 に 原 因 が あ っ た こ と を指摘した。 本 報 告 で は 、公 学 校 で の 漢 文 教 授 に 着 目 し 、分 析 を 行 っ た 。漢 文 教 授 は 、先 行 研 究 で は ほ と ん ど 触 れ ら れ な い も の で あ る が 、本 報 告 で 明 ら か に し た よ う に 、伊 沢 の 教 育 構 想 で は 漢 文 教 授 は 同 化 教 育 に お い て 重 要 で あ っ た 。た だ 、伊 沢 の 教 育 構 想 に お け る 台 湾 人 教 師 の 育 成 に つ い て 触 れ ることができなかった。この点は、稿を改めて分析を行いたい。 28 吉 野 前 掲 『 台 湾 教 育 史 』、 49 頁 。 29 上 沼 八 郎 「 台 湾 に お け る 書 房 『 教 科 書 』 と 日 本 認 識 に つ い て ― 植 民 地 教 育 史 研 究 ノ ー ト 六 ― 」 高 千 穂 論 叢 第 29 巻 第 二 号 、 高 千 穂 商 科 大 学 、 1994 年 。 上 沼 は 、 総督府の書房への取り締まりが漸進主義であったとし、その漸進主義が台湾島民の 伝統的な大陸帰属の意思を温存しせしめ、独立自決と半植民地の抵抗精神を育てて い っ た の で は な い か と 推 測 し て い る ( 87 頁 ) 。 8 122 参考文献一覧 台 湾 教 育 会 編『 台 湾 教 育 沿 革 誌( 復 刻 版 )』、南 天 書 局 、1995 年 、168 頁 。原 本 は 1939 年 に 発 刊 。 弘 谷 多 喜 夫「 植 民 地 教 育 と 日 本 人 教 師 」 (『 講 座 日 本 教 育 史 』 ( 第 三 巻 )第 一 法 規 、 1984 年 )。 呉 宏 明「 台 湾 に お け る 書 房 教 育 の 一 考 察 」、 『 木 野 評 論 』14 号 、京 都 精 華 大 学 、1983 年。 王 育 徳 「 書 房 の 話 」(『 台 湾 青 年 』 13 号 、 1961 年 ) 国 府 種 武『 台 湾 に お け る 国 語 教 育 の 展 開 < 復 刻 版 > 』、冬 至 書 房 、1997 年 、17 頁 。 原 本 は 第 一 教 育 社 か ら 1931 年 に 出 版 。 国 府 種 武 「 台 湾 に お け る 日 本 語 教 育 に あ ら わ れ た 国 権 思 想 」『 日 本 文 学 』 10 巻 、 1961 年 。 渡 部 宗 助 「 台 湾 教 育 史 の 一 研 究 ― 明 治 30 年 代 を 中 心 に ― 」『 教 育 学 研 究 』 第 36 巻 3 号 、 日 本 教 育 学 会 、 1969 年 小 熊 英 二「 崩 壊 す る 日 本 語 」、西 川 長 夫・渡 辺 公 三 編『 世 紀 転 換 期 の 国 際 秩 序 と 国 民 文 化 の 形 成 』、 柏 書 房 、 1999 年 小 熊 英 二 著 『〈 日 本 人 〉 の 境 界 』、 新 曜 社 、 1998 年 近藤純子「伊沢修二と『対訳法』―植民地期台湾における初期日本語教育の場合 ― 」『 日 本 語 教 育 』 98 号 、 日 本 語 教 育 学 会 、 1998 年 陳 培 豐 『「 同 化 」 の 同 床 異 夢 』、 三 元 社 、 2001 年 伊 沢 修 二 「 台 湾 教 育 談 」、『 伊 沢 修 二 選 集 』 信 濃 教 育 会 、 1958 年 伊 沢 修 二 「 新 版 図 人 民 教 化 の 方 針 」、『 伊 沢 修 二 選 集 』 信 濃 教 育 会 、 1958 年 伊 沢 修 二 君 還 暦 祝 賀 会 編『 楽 石 自 伝 教 界 周 遊 前 記 』( 復 刻 版 )、国 書 刊 行 会 、1980 年 。 原 本 は 1912 年 に 出 版 。 伊 沢 修 二「 台 湾 の 公 学 校 設 置 に 関 す る 意 見( 承 前 )」、 『 教 育 公 報 』196 号 、帝 国 教 育 会 、 1897 年 平 井 又 八 「 漢 文 教 授 ニ 就 テ 」『 国 語 研 究 会 会 報 』 第 一 号 、 1900 年 吉 野 秀 公 『 台 湾 教 育 史 』、 台 日 日 新 報 社 、 1927 年 。 上沼八郎「台湾における書房『教科書』と日本認識について―植民地教育史研究 ノ ー ト 六 ― 」 高 千 穂 論 叢 第 29 巻 第 二 号 、 高 千 穂 商 科 大 学 、 1994 年 。 9 123 日韓語中的音韻詞組:以台籍學習者為主 林智凱 美國夏威夷大學馬諾亞分校 東亞語文學系博士候選人 關鍵字: 聲調詞組、台籍學習者、日語、韓語 1. 前言 本研究旨在討論台籍學習者在日韓語音韻詞組的語音產出中所呈現的情形,其中音 韻詞組包含聲調詞組及語調詞組兩部分。本研究理論根據 Venditti 等人(2008) 的日 語韻律結構與 Jun and Oh (2000) 的韓語韻律結構。兩者皆提出在韻律字(prosodic word)以上為聲調詞組(accentual phrase)與語調詞組(intonation phrase),如圖一所示, a. 日語 IP AP W (AP) (W) S S… S S IP = Intonation phrase 語調詞組 AP = Accentual phrase 聲調詞組 W = Prosodic word 韻律字 S = Syllable 音節 Venditti 等人 (2008: 464) b. 韓語 IP AP W (AP) (W) S S… S S | | | | T H L H X% IP = Intonation phrase 語調詞組 AP = Accentual phrase 聲調詞組 W = Prosodic word 韻律字 S = Syllable 音節 當其子音為送氣音或是硬 音,T=H。其他情形時,T=L。 X% = 語料詞組邊界聲調 Jun and Oh (2000) 圖一:日韓語的韻律結構 125 在韻律字以上的層級,日韓語相同,主要差異在於韻律字的預設(default)聲調模式。 日語聲調為固定模式,每字皆有其聲調,由重音核有無及其位置所決定,反映在韻 律字上,如(1)所示,1 (1) 重音核位置 日語假名 轉寫 意義 聲調 第一音節 いのち i.no.chi ‘生命’ HLL 第二音節 こころ ko.ko.ro ‘心’ LHL 第三音節 おとこ o.to.ko ‘男性’ LHH 無 さかな sa.ka.na ‘魚’ LHH (1)中有四例,但只有三種聲調模組。重音核可出現在三音節中的任一音節上,如前 三個例子。重音核也可不出現,如第四例,さかな sakana ‘魚’。(1)的第三例與第四 例在表層結構上並無差別,皆為 LHH。只有當後接無底層聲調的助詞時,如主格 が ga 時,才會在表層產生差異,如(2)所示, (2) 重音核位置 日語假名 轉寫 意義 聲調 第三音節 おとこ-が o.to.ko-ga ‘男性-主格’ LHH-L 無 さかな-が sa.ka.na-ga ‘魚-主格’ LHH-H 當無底層聲調的助詞後接於重音核位於第三音節的詞彙時,此時重音變化才會在助 詞上體現,其聲調為低。若無底層聲調的助詞後接於無重音核之詞彙時,助詞聲調 與前方相同,皆為高調。此外,若是後接有底層聲調的助詞,如など nado (HL)‘表 列舉’,則會影響原有聲調。根據 Vance(2008: 158),など nado (HL)‘表列舉’會改變 重音核於第三音節的詞彙與無重音核的詞彙,所以當など nado (HL)‘表列舉’出現在 重音核於第三音節的詞彙時,など nado 需變成 LL,如やくしょ-など yakusho-nado ‘役所-之類’,其聲調為 LHH-LL。若是無重音核之詞彙時,則會保留など nado (HL) 重音,如くるま-など kuruma-nado ‘車-之類’,其聲調為 LHH-HL。 韓語聲調與日語不同,韻律字無區分重音核,其聲調主要依據韻律字預設 (default)模式,T(=H/L)HLH。區分方式由韻律字字首子音類型決定。預設值為低調。 當字首子音為送氣音或是硬音時,如 pp、tt、kk、ttɕh、ss、ph、th、kh、tɕh、h 和 s 1 表一中的例字以標準日語為主,在此不討論方言差異。聲調以高調(H=high)與低調(L=low)為主。 126 等十一個子音,則為高調。2 如(3)所示, (3) 字首子音 韓語諺文 轉寫 意義 字首子音聲調 送氣音 케이크 khe.i.kheu ‘蛋糕’ H 硬音 쓰레기 sseu.re.ki ‘垃圾’ H 其他 드라마 teu.ra.ma ‘戲劇’ L 除了重音核的有無可區分日韓語的聲調之外,日韓語在音韻字上的區分還有助 詞是否受前聲調影響。在(2)中,已提過日語中的助詞其底層聲調會影響表層音韻字 聲調,但在韓語中則無此限制。 在韻律字之上為聲調詞組,日韓語中決定聲調詞組的方式不同。根據 Venditti 等 人(2008: 464),日語聲調詞組的大小由韻律字中聲調模式所決定。有重音核者之韻 律字為獨立聲調詞組,無重音核者之韻律字無法獨立成聲調詞組,須與其他無重音 核者之韻律字合成聲調詞組,如(4)所示, (4) 語調詞組 [ 聲調詞組 [ ]AP 音韻字 [ ] ]IP [ ] IP [ ]AP [ ] AP [ ] [ ] [ ] Ya ma no ga o yo i de ru Ya ma da ga u ta t te ru 聲調 H L LL LHLLL LH HH L HHH H 語調詞組 [ ]IP [ ]IP 聲調詞組 [ ]AP [ ]AP 音韻字 [ ] [ ] 聲調 Ya ma no wa o yo i de ru H L LL LHLLL 在韓語中,則無如(4)之組成規則。韓語的聲調詞組與音韻字的聲調可視為相同, 亦即韓語直接投射音韻字的聲調到聲調詞組上。根據 Shin 等人(2013: 169),韓語的 聲調模組,以音節數量為區分標準,基本型為四音節。當音節總數小於四個時,則 2 聲調區分以高調(H=high)與低調(L=low)為主。 127 有五種可能性,分別為雙音節時的 LH 與 HH,以及三音節時的 LHH、LLH 與 HLH。 若音節總數大於四個時,則只有 LH…LH 及 HH…LH。這大於四音節的兩模組與四 音節時的模組相同。唯一差別在於中間 H…L 的呈現方式。當聲調詞組大於四音節 時,中間的高低落差間距會加大,且呈現出較為平滑之下降曲線。 在聲調詞組之上為語調詞組。在日韓語中組成語調詞組的方式不同。在日語中, 助詞扮演著重要角色。根據 Venditti 等人(2008: 464),主題助詞は wa,形成獨立語 調詞組,但主格助詞が ga,則不會產生獨立語調詞組。韓語則無此限制。除了構詞 上的方法,音韻上判斷語調詞組的方法乃係根據語調詞組邊界聲調(intonational phrase boundary tone)。在直述句中,語調詞組邊界聲調會降低,在疑問句中,語調 詞組邊界聲調則會提升。 在學習者的聲調詞組研究,Jun and Oh (2000)針對美籍韓語學習者研究,指出美 籍韓語學習者的聲調詞組數量較韓語母語者為多,且隨學習年限呈現反比,亦即學 習時間越長,聲調詞組越少。同樣的情形亦適用在語調詞組上。在語調詞組中的基 頻變化,平野宏子等人(2006)指出,漢語為母語的日語學習者,其日語語調詞組與 母語者的語調詞組相比,漢語為母語的日語學習者的語調詞組呈現出均一化下降趨 勢,但日語母語者則為高低起伏的下降趨勢,如圖二所示, 漢語為母語的日語學習者 日語母語者 圖二: 語調詞組差異(漢語為母語的日語學習者與日語母語者) 圖二中,日語母語者的結果與韓語的模式相近(Jun 1998),都是屬於高低起伏的下降 模式。藉由以上的討論,對於台籍學習者而言,便會產生困難點,如劃分聲調詞組 與語調詞組,以及語調詞組中的下降模式。本文研究重點將側重於這兩部分。 2. 研究目的、問題及實驗過程 本文研究目的以語音實驗為主,分析台籍學習者的聲調模組與語調模組。本文研究 問題有三: (1) 台籍的日韓語學習者,是否在聲調詞組中與母語者有差異? (2) 台籍的日韓語學習者,是否在語調詞組中與母語者有差異? (3) 台籍學習者的基頻變化率是否有差異? 128 本研究包含四位受試者,兩位母語者,一位為日籍(東京出身,錄音時年紀 39 歲),一位為韓籍(首爾出身,錄音時年紀 30 歲),以及兩位台籍學習者,一位為中級 日語學習者(錄音時年紀 20 歲),另一位為中級韓語學習者(錄音時年紀 30 歲)。學習 者的母語皆為中文,但理解閩南語。實驗進行時間為 2014 年 12 月至 2015 年 1 月。 錄音時在安靜室內,錄音內容及材料以朗讀段落為主,段落總長度不超過 300 個音 節。錄音後進行語音標示及測量。錄音後分析軟體為 Pratt (版本 5.3.15)。本文分析 四項參數: 聲調詞組數量、語調詞組數量、語調詞組中基頻最高點出現位置,以及 語調詞組中最高點之後的基頻變化率。 3. 結果及討論 錄音結果比較分成詞組數量(3.1)、語調詞組中基頻最高點出現位置(3.2),以及 語調詞組中最高點之後的基頻變化率(3.3)。在呈現結果時,同時也回答本文所提出 的研究問題。 3.1 詞組數量 首先,詞組數量統計如表一所列, 表一: 詞組數量統計結果 台籍日語學習者 日語母語者 台籍韓語學習者 韓語母語者 語調詞組 30 35 45 22 聲調詞組 49 49 67 66 結果顯示,在聲調詞組的數量上台籍學習者與母語者落差不大,但在語調詞組上則 有所落差。台籍日語學習者在語調詞組上,較日語母語者少。而台籍韓語學習者在 語調詞組上,則較韓語母語者多。造成學習者與母語者在語調詞組上的落差,不同 的語言,其原因也不同。日語中的主題助詞は wa,需形成單一獨立語調詞組,這 可在母語者的產出觀察得到,但台籍日語學習者則會忽略主題助詞は wa,將其併 入其他詞組,於是日語母語者的語調詞組多於台籍日語學習者的語調詞組數量。在 韓語中,助詞不似日語具有區分詞組的功能,在聲調詞組之上,便直接投射到語調 詞組上。台籍韓語學習者的結果呈現出與美籍韓語學習者相同的傾向,語調詞組的 數量皆比母語者多,表示台籍韓語學習者對語調詞組的劃分仍然不似母語者可直接 投射聲調詞組於語調詞組上。 以上的討論也回答了第一與第二個研究問題,學習者與母語者的聲調詞組數量 上沒有差異,但在語調詞組上有落差,但日韓語之間則有不同。日語母語者多於台 129 籍日語學習者,但台籍韓語學習者則多於韓語母語者。 3.2 語調詞組中基頻最高點出現位置 在前言中曾提到日語的聲調由重音核有無及其位置所決定,而韓語聲調由字首 子音類型決定。這樣的區分有兩種結果,就是日語的語調詞組中的最高點會比韓語 的語調詞組的中的最高點,在位置上更有向後浮動的空間,或是可理解成韓語的語 調詞組的中的最高點會較往前。結果如圖三所示, 0.8 0.7 0.6 0.5 0.4 0.3 0.2 0.1 0 平均 台籍日語學習者 日語母語者 台籍韓語學習者 韓語母語者 0.271142374 0.296790423 0.420912018 0.246866723 圖三:最高點出現位置(百分比) 在圖三中就母語者的結果而言,與預期結果相同,日語母語者其語調詞組中的最高 點較韓語母語者的最高點為後。但若考慮學習者之結果,則發現台籍日語學習者的 語調詞組最高點與母語者的語調詞組最高點分布範圍相似,都在語調詞組中的前三 分之一,且最多不超過語調詞組的二分之一。台籍韓語學習者的聲調詞組最高點較 母語者偏後,且台籍韓語學習者的最高點浮動範圍極大。而韓語母語者其分布範圍 不超過語調詞組總長的二分之一。 3.3 語調詞組中最高點之後的基頻變化率 日韓語在語調詞組中的基頻變化,根據平野宏子等人(2006)與 Jun (1998)的研究, 成現出平滑下降的模式,而平野宏子等人(2006)同時指出漢語為母語的日語學習者 的基頻變化為均一化下降模式。本文計算在語調詞組中的基頻變化率,以最高點之 後的變化情形為主。在計算時,基頻變化率 = 基頻差距值/時長差距值。以時長差 距為分母,其中的基頻差距為分子。當數值為負時,表示傾斜方向為右下至左上。 130 數值為正時,則表示為左下至有上的方向。數值越大,下降幅度越大。反之,數值 越小,下降幅度越小。以雙樣本 t 檢定計算,結果如表二所示,3 表二: 雙樣本 t 檢定 平均值 樣本數 標準差 台籍日語學習者 -72.54 29 53.00 日語母語者 -140.10 34 105.12 台籍韓語學習者 -86.39 38 64.73 韓語母語者 -43.02 22 20.47 自由度 p 值 58 p < 0.01 61 p < 0.01 統計結果顯示不分語言類別,學習者與母語者之間皆有顯著差異(p < .01)。 藉由圖四,則可看出,這兩語言的母語者分別位於下降幅度變化的兩端,而台 籍學習者則是介於中間。 0 -50 -100 -150 -200 -250 -300 平均 日語母語者 台籍日語學習者 台籍韓語學習者 -140.1 -72.54 -86.39 韓語母語者 -43.02 圖四:最高點之後的基頻變化率 日語因重音核有無的差異與助詞重音的影響,在語調詞組中最高點之後的基頻 變化率分布範圍大於其他三組。日語母語者的聲調下降幅度大於台籍日語學習者的 下降幅度。日語在有重音核的位置下降幅度較大,但學習者下降幅度不夠大。而韓 語母語者的下降幅度則小於台籍韓語學習者的下降幅度。韓語聲調在下降時,聲調 為緩降,而學習者較母語者為陡。 藉由 3.2 與 3.3 節中的結果,可回答了第三個研究問題。在語調詞組中的基頻 3 在兩語言的學習者中,發現其韓語學習者有 7 個聲調詞組其最高點出現在語調詞組最後位置,日語 學習者則有 1 個例子。這些在計算中因為秒數差為零,無法計算其斜率,故不列入表二。 131 變化率,台籍學習者與母語者不同,不僅在高點出現的位置有所不同,更在高點之 後的下降幅度上有統計上的顯著差異。 4. 結論 本研究藉由聲學分析,呈現出台籍學習者在日韓語上的差異,同時與母語者比 較之後,發現在聲調詞組的數量上無差異,但在語調詞組上有差異。此外,在語調 詞組中,學習者與母語者在高點位置與下降幅度皆有差異。日語母語者下降幅度大 於台籍日語學習者,而台籍韓語學習者下降幅度則大於韓語母語者。 在經過聲學分析之後,最後本研究提出簡單的教學啟示。日韓語的韻律皆為單 一高點而下降的模式,其中可包含若干次高點,但差異在於高點位置與下降幅度。 日語有重音核,會影響高點位置,但韓語沒有重音核,高點位置無限制,所以理解 日語重音核的位置在學習上有其重要性,而理解韓語的字首重音類型則是另一項學 習要點。此外,下降幅度也是在學習中值得注意的要點。日語音重音核使得下降幅 度有緩陡差異,而韓語沒有此差異,所以在學習日韓語時,區分出韻律的高低緩陡 為重短之一。最後,本研究為初步實驗分析,未來仍須更多受試人數,提供更加客 觀與有系統的研究資料,以作為未來教學與學術研究的基礎。 參考文獻 平野宏子、顧文涛、広瀬啓吉、峯松信明、河合剛 (2006) 「基本周波数パターン 生成過程モデルに基づく日本語学習者音声の韻律の分析」『社団法人電子情 報通信学会 信学技報』106(333)、p.19-24。 Jun. Sun-Ah. 1998. The Accentual Phrase in the Korean prosody hierarchy, Phonology. 15(2). 189-226. Jun, Sun-Ah and Mira Oh. 2000. Acquisition of 2nd Language intonation, in Proceedings of International Conference on Spoken Language Processing, vol. 4. 76-79, Beijing, China. Shin, Jiyoung, Jieun Kiaer, Jaeeun Cha. 2013. The Sounds of Korean. Cambridge: Cambridge University Press. Vance, Timothy. 2008. The Sounds of Japanese. Cambridge: Cambridge University Press. Venditti, Jennifer J., Kikuo Maekawa and Mary E. Beckman. 2008. Prominence marking in the Japanese intonation system. In Oxford Handbook of Japanese Linguistics. S. Miyagawa and M. Saito (ed.), pp. 456-512. Oxford: Oxford University Press. 132 日本語学習過程における モ チ ベ ー シ ョ ン 変 動 パ タ ー ン の 比 較 分 析 陳 亭希/山藤 夏郎 (南台科技大學應用日語系助理教授) キ ー ワ ー ド :大 学 大 衆 化、学習意欲、不本意就学者 1 . 序 一 般 的 に 、学 習 者 の モ チ ベ ー シ ョ ン は 、学 習 の 成 否 を 左 右 す る 重 要 な 因子として働いていると考えられている[シャンク&ジマーマン ( 2008=2009)、 加 藤 ( 2010)]。 わ れ わ れ も 以 前 、 日 本 語 学 習 過 程 に お け る モ チ ベ ー シ ョ ン の 変 動 要 因 の 分 析 を 行 っ た こ と が あ る が[ 山 藤 & 陳 ( 2012)]、前 稿 に お い て は 、大 学 の 大 衆 化 状 況 ― ― ト ロ ウ モ デ ル に お け る ユ ニ バ ー サ ル 化 ( 大 学 進 学 者 の 同 年 齢 人 口 比 に お け る 50% 超 過 状 態 ) ― ― と い う 変 化 の 中 で 、台 湾 の 大 学 に お け る 日 本 語 学 習 者 の 中 に「 不 本 、、、 意 就 学 者 」( 大 学 で 日 本 語 を 専 門 的 に 学 ぼ う と い う 意 思 ・ 意 欲 を そ も そ も 持 っ て い な か っ た に も か か わ ら ず 、何 ら か の 事 情 に よ っ て 日 本 語 学 習 を 開 始 / 再 開 せ ざ る を え な か っ た 学 習 者 )と 呼 ぶ べ き 一 群 の 学 習 者 が 存 在 し て い る こ と が 確 認 さ れ た 。し か し 、同 時 に 明 ら か と な っ た の は 、そ の よ う な「 不 本 意 就 学 者 」で あ っ た と し て も 、学 習 の 初 期 段 階 で は「 一 般 就 学 者 」と 同 様 に 高 い モ チ ベ ー シ ョ ン を 示 す と い う こ と で あ っ た 。さ ら に 、重 要 な の は 、両 グ ル ー プ と も に 、4 年 間 の 学 習 過 程 で は 、モ チ ベ ーションが漸次低下していく傾向が見られたという点である。 本 発 表 は そ の 継 続 調 査 の 結 果 報 告 と な る が 、そ の 目 的 は 以 下 の 2 点 に まとめられる。 ① 2012 年 度 の 卒 業 予 定 者( 日 間 部・夜 間 部 )を 対 象 と し て 前 回 調 査 ( 2011 年 度 ) と 同 一 の 質 問 紙 調 査 を 実 施 し 、「 不 本 意 就 学 者 」 の 有無を測ると共に、モチベーション変動パターンにどのような偏 差が見られるのかを確認すること ② ケ ラ ー の ARCS モ デ ル に 基 づ い た 分 析 を 行 い 、 学 習 者 の モ チ ベ ー ションがどのような要因によって形成されているのかを明らかに 1 133 すること 2 . 調 査 概 要 と 考 察 質問紙調査法によって学習者のモチベーションにかかわる実態把握 を 試 み た 。 調 査 時 期 は 、 2013 年 6 月 。 調 査 対 象 は 、 卒 業 を 目 前 に 控 え た 南 台 科 技 大 学 応 用 日 本 語 学 科 4 年 生 60 人 ( 男 性 8 人 、 女 性 52 人 )、 及 び 同 夜 間 部 4 年 生 32 人( 7 人 、25 人 )。回 答 は す べ て 母 国 語 で あ る 中 国 語 で 行 っ て も ら っ た( 以 下 に 掲 出 す る 設 問・回 答 の 内 容 は 、す べ て 調 査 者 に よ っ て 事 後 、 日 本 語 に 翻 訳 さ れ た も の で あ る )。 2 - 1 . 不 本 意 就 学 者 の 割 合 ま ず 本 発 表 の 目 的 の 第 一 、「 不 本 意 就 学 者 」 が ど の 程 度 存 在 す る の か と い う 問 題 に つ い て 確 認 す る 。基 本 資 料 の 質 問 項 目 8「 日 本 語 学 科 に 入 った動機」を集計すると、表Ⅰのような結果となった。 表 Ⅰ 「 日 本 語 学 科 に 入 っ た 動 機 」 回答 11 年 度( 日 ) 12 年 度( 日 ) 12 年 度( 夜 ) 本来は日本語学科に入るつもりはなかったが、 試験の得点から日本語学科に入らざるを得なか 22( 2 5 . 8 % ) 14( 2 3 . 3 % ) 0( 0 % ) っ た 日本語を学びたかった 41( 48.2%) 31( 50.7%) 26( 82.3%) 日本文化に興味があった 26( 30.5%) 29( 48.3%) 17( 53.1%) 将 来 、日 系 企 業 で仕 事 をしたいと思 った 17( 20%) 将 来 、日 本 へ行 って仕 事 をしたいと思 った 12( 14.1%) 14( 23.3%) 12( 37.5%) その他 13( 15.3%) 5( 5.4%) 9( 15.0%) 8( 25.0%) 2( 2.2%) ( 複 数 回 答 ) 上記選択項目のうち、 「本来は日本語学科に入るつもりはなかったが、 試 験 の 得 点 か ら 日 本 語 学 科 に 入 ら ざ る を 得 な か っ た 」と 回 答 し た 学 生 を 「 不 本 意 就 学 者 」 と 見 な す と す る な ら ば 、 2011 年 度 日 間 部 は 全 体 の 25.8% 、 2012 年 度 日 間 部 は 全 体 の 23.3% が 「 不 本 意 就 学 者 」 に 相 当 す る こ と に な る 。こ こ で も 前 回 調 査 と 同 様 、や は り 一 定 数 の「 動 機 な き 日 本語学習者」が存在していることが確認される。しかし、その一方で、 顕 著 な 差 が 見 ら れ た の は 、夜 間 部 に は「 不 本 意 就 学 者 」が 存 在 し な い と 2 134 い う こ と で あ っ た 。 こ の 原 因 に つ い て は 、や は り 大 学 入 試 制 度 の あ り 方 が 大 き く 関 わ っ て いるものと考えられる。前稿では、不本意就学者の存在理由について、 大 学 大 衆 化 と 大 学 入 試 制 度 と い う 外 的 要 因 か ら 説 明 を 試 み た 。詳 細 は 前 稿 に 譲 る が 、夜 間 部 の 場 合 は 日 間 部 と は 事 情 が 大 き く 異 な っ て い る 。一 般 的 に 、日 間 部 は 全 国 規 模 で 広 く 競 争 が 行 わ れ る 一 方 で 、夜 間 部 の 場 合 は 、地 域 規 模 の 競 争 し か な く 、他 地 域 か ら の 受 験 生 は 著 し く 少 な い と い う 状 況 に あ る 。ま た 、近 年 の 少 子 化 の 影 響 で 、定 員 割 れ を 起 こ し て い る 夜 間 部 の 学 科 も 少 な く な く 、基 本 的 に 自 分 の 希 望 す る 大 学・学 科 に 入 り やすい状況にあるということが結果に大きく影響したものと考えられ る。 で は 、「 不 本 意 就 学 者 」 の 存 在 す る 日 間 部 と 、 存 在 し な い 夜 間 部 と の 間 で 、モ チ ベ ー シ ョ ン の 変 動 パ タ ー ン に は ど の よ う な 違 い が あ ら わ れ る のだろうか。 2 - 2 . 大 学 在 学 中 の モ チ ベ ー シ ョ ン の 推 移 以 下 、不 本 意 就 学 者 を 含 め た 学 生 群 の 4 年 間 の モ チ ベ ー シ ョ ン 変 動 パ タ ー ン に ど の よ う な 傾 向 が 見 ら れ る の か を 確 認 す る 。調 査 票 で は 、学 生 自 身 に 自 己 の 学 習 経 験・態 度 を ふ り か え っ て も ら い 、各 学 年 各 学 期 ご と の 自 身 の モ チ ベ ー シ ョ ン の 程 度 を 5 段 階( 1 ~ 5 )で 評 価 し て も ら っ た 。 そ し て 全 体 を 、上 記 質 問 項 目 8 の 結 果 に 基 づ い て「 一 般 就 学 者 」と「 不 本 意 就 学 者 」の 2 グ ル ー プ に 分 類 し 、そ の 上 で 両 者 の 平 均 値 を 算 出 し た 。 併 せ て 2011 年 度 日 間 部 の 結 果 を 示 し 、 そ の 推 移 を 比 較 し た ( 表 Ⅱ ・ 図 Ⅱ )。 表 Ⅱ 2 0 1 1 / 2 0 1 2 年 度 日 間 部 に お け る 不 本 意 就 学 者 と 一 般 就 学 者 の モ チ ベ ー シ ョ ン 推 移 の 比 較 group1 平均値 group2 平均値 1年 1年 2年 2年 3年 3年 4年 4年 前期 後期 前期 後期 前期 後期 前期 後期 4.02 4.22 3.78 3.68 3.62 3.33 3.19 3.02 3.95 4.00 3.77 3.59 3.27 3.09 3.18 2.68 3 135 group3 平均値 group4 平均値 4.17 4.02 3.59 3.41 3.35 3.28 2.80 2.89 4.00 4.02 3.29 3.00 3.64 3.57 2.86 2.71 group1: 2011 年 度 一 般 就 学 者 group2: 2011 年 度 不 本 意 就 学 者 group3: 2012 年 度 一 般 就 学 者 group4: 2012 年 度 不 本 意 就 学 者 図 Ⅱ 2 0 1 1 / 2 0 1 2 年 度 日 間 部 に お け る 不 本 意 就 学 者 と 一 般 就 学 者 の モ チ ベ ー シ ョ ン 推 移 の 比 較 5 4.5 4 11一般 3.5 11不本意 3 2.5 12一般 2 12不本意 1.5 1 1前 1後 2前 2後 3前 3後 4前 4後 以 上 の 結 果 か ら 確 認 さ れ る の は 、 前 稿 の 分 析 結 果 と 同 様 、「 不 本 意 就 学者」であっても、学習の開始時には高い学習意欲を示すということ、 、 そ し て 「 一 般 就 学 者 」「 不 本 意 就 学 者 」 の 両 群 は と も に 4 年 間 の 間 に 同 、、、、、、、、、、、、、、 じように学習意欲を低下させるということである。 次 い で 、 2012 年 度 の 日 間 部 と 夜 間 部 の モ チ ベ ー シ ョ ン の 推 移 を 比 較 したのが次の表Ⅲ及び図Ⅲである。 表 Ⅲ 2 0 1 2 年 度 日 / 夜 間 部 に お け る モ チ ベ ー シ ョ ン 推 移 の 比 較 group1 平均値 group2 平均値 1年 1年 2年 2年 3年 3年 4年 4年 前期 後期 前期 後期 前期 後期 前期 後期 4.13 3.98 3.51 3.32 3.42 3.35 2.82 2.85 4.09 4.16 3.62 3.50 3.38 3.09 3.13 2.97 4 136 group1: 日 間 部 group2: 夜 間 部 図 Ⅲ 2 0 1 2 年 度 日 / 夜 間 部 に お け る モ チ ベ ー シ ョ ン 推 移 の 比 較 5 4.5 4 3.5 3 日間部 2.5 夜間部 2 1.5 1 1前 1後 2前 2後 3前 3後 4前 4後 図 Ⅲ の よ う に 、日 間 部 と 夜 間 部 の 間 で は 学 習 意 欲 の 変 動 パ タ ー ン に ほ ぼ 差 が な い と い う こ と が 明 ら か と な っ た 。夜 間 部 の 方 が 就 学 動 機 が は っ き り し て い る も の の 、結 局 、日 間 部 と 同 じ よ う に 学 習 意 欲 を 低 下 さ せ て い る 。こ の 結 果 か ら 言 え る こ と は 、日 本 語 学 習 を 始 め る き っ か け が 何 で あ る か は 、学 習 の 過 程 に お い て は 特 に 重 要 な 要 因 と し て は 働 か な い の で は な い か 、と い う 前 稿 の 推 測 を 再 確 認 す る こ と が で き た と い う こ と で あ る。 2 - 3 . A R C S モ デ ル に 基 づ く 学 習 意 欲 の 測 定 J・ ケ ラ ー の ARCS モ デ ル は 、 モ チ ベ ー シ ョ ン の 構 成 要 素 を 、 注 意 ( Attention : 面 白 そ う )、 関 連 性 ( Relevance : 役 立 ち そ う )、 自 信 ( Confidence:や れ ば で き る )、満 足 感( Satisfaction:や っ て よ か っ た ) と い う 4 項 目 に 細 分 化 し 、そ れ ら を さ ら に 、そ れ ぞ れ 、A= 知 覚 的 喚 起 ・ 探 求 心 の 喚 起・変 化 性 、R= 目 的 指 向 性・動 機 と の 一 致・親 し み や す さ 、 C= 学 習 要 件・成 功 の 機 会・個 人 的 な コ ン ト ロ ー ル 、S= 自 然 な 結 果・肯 定的な結果・公平さ、という3類に下位分類したものである[ケラー ( 2009=2010)] 表 Ⅳ の 質 問 項 目 は 、ARCS モ デ ル に 準 拠 し て 設 計 さ れ た 調 査 方 式[ ケ ラ ー ( 2009=2010)] を 応 用 し て 作 成 し た も の で あ る 。 4 種 類 の ARCS カ テ ゴ リ ー の 各 項 目 を 含 む 25 項 目 か ら 構 成 さ れ て お り 、 回 答 者 自 身 に 自 己 評 価 し て も ら っ た 。回 答 に 利 用 す る 評 価 点 は 、1 か ら 5 ま で の 範 囲 5 137 と し た 。そ し て 回 答 者 を 11 年 度 日 間 部 、12 年 度 日 間 部 、12 年 度 夜 間 部 の 3 群 に 分 類 し 、平 均 値 を 算 出 し た 。そ の 結 果 が 、表 Ⅴ 及 び 図 Ⅳ で あ る 。 表 Ⅳ 学 習 意 欲 測 定 の た め の 質 問 項 目 1.教 師 は 、 大 学 の 日 本 語 の 授 業 の 内 容 に 関 し て 私 た ち を 熱 心 に 取 り 組 ま せ る 方 法 が わ か っ て い た 。 2.大 学 の 日 本 語 の 授 業 で 学 習 し た 内 容 は 、 私 に と っ て 役 立 つ も の で あ っ た 。 3.私 は 日 本 語 を マ ス タ ー す る 自 信 が あ っ た 。 4.教 師 は 大 学 の 日 本 語 の 授 業 が 重 要 だ と 思 わ せ て く れ た 。 5.日 本 語 学 習 が 成 功 す る か ど う か は 自 分 次 第 だ っ た 。 6.教 師 は 、 要 点 を 解 説 す る に あ た っ て 私 た ち を 引 き 込 む よ う な 活 溌 な パ フ ォ ー マ ン ス を 示 し て く れ た。 7.私 は 大 学 の 日 本 語 の 授 業 に 満 足 し て い る 。 8.私 は 大 学 の 日 本 語 学 習 で 高 い 目 標 を 立 て 、 そ こ に 向 け て 努 力 を 重 ね た 。 9.私 の 日 本 語 の 授 業 で の 成 績 は 他 の ク ラ ス メ ー ト と 比 較 し て 公 平 だ っ た と 思 う 。 10.ク ラ ス メ ー ト は 皆 、 学 習 内 容 に 興 味 を 持 っ て い る よ う だ っ た 。 11.大 学 の 日 本 語 の 授 業 は 楽 し か っ た 。 12.自 分 で 思 っ て い た 自 己 評 価 と 比 較 し て 、 教 師 の 評 価 ・ 成 績 に は だ い た い 満 足 し て い る 。 13.大 学 の 日 本 語 の 授 業 で 学 ん だ こ と に 対 し て は 満 足 し て い る 。 14.大 学 の 日 本 語 の 授 業 は 、 私 が 期 待 し て い た こ と や 学 習 目 標 と 関 連 し て い た 。 15.教 師 は 皆 の 興 味 を 引 く た め に 普 段 と 違 う 特 別 な こ と を 行 っ て い た 。 16.ク ラ ス メ ー ト た ち は 積 極 的 に 日 本 語 の 授 業 に 参 加 し て い た 。 17.自 分 の 学 習 目 標 を 達 成 す る た め に は 、 よ い 成 績 を 取 る こ と が 重 要 だ っ た 。 18.教 師 は さ ま ざ ま な 面 白 い 教 授 法 を 用 い て い た 。 19.大 学 で の 日 本 語 学 習 は 、 努 力 し さ え す れ ば 成 功 で き る と 思 っ て い た 。 20.大 学 で の 日 本 語 の 授 業 が 私 に と っ て メ リ ッ ト が あ る の は 明 ら か だ っ た 。 21.大 学 の 日 本 語 の 授 業 で 問 わ れ た こ と は 私 の 好 奇 心 を 十 分 に 引 き 起 こ し て く れ る も の で あ っ た 。 22.大 学 の 日 本 語 の 授 業 は 、 易 し す ぎ ず 、 ま た 難 し 過 ぎ る も の で は な か っ た 。 23.評 価 や そ の 他 の フ ィ ー ド バ ッ ク に よ っ て 、 私 の 学 習 へ の 取 り 組 み が 認 め ら れ て い る と 感 じ た 。 24.大 学 の 日 本 語 の 授 業 の レ ベ ル は 、 私 が こ な せ る 適 当 な 程 度 の も の で あ っ た 。 25.自 分 の レ ベ ル を 把 握 す る た め に 必 要 な フ ィ ー ド バ ッ ク を 十 分 に 得 て い た 。 表 Ⅴ 各 群 に お け る A R C S カ テ ゴ リ ー 得 点 比 注 意 ( A) 関 連 性( R) 自 信 ( C) 満 足 感( S) 6 138 11 日 4.01 3.98 3.02 3.15 12 日 1 4.03 2 4.05 3 3.25 7 3.21 12 夜 4.47 4.28 3.53 3.84 11 日 3.27 3.68 4.16 3.20 12 日 6 3.33 4 3.53 5 4.20 9 3.70 12 夜 3.94 3.94 4.19 3.66 11 日 3.08 3.06 3.53 3.06 12 日 10 2.79 8 2.93 19 3.67 11 3.25 12 夜 3.06 3.5 4.19 3.44 11 日 3.33 3.13 3.16 2.74 12 日 15 3.20 14 3.31 22 3.28 12 2.77 12 夜 3.88 3.59 3.34 2.56 11 日 2.94 3.12 3.10 3.38 12 日 18 2.97 16 3.05 25 3.02 13 3.38 12 夜 3.53 3.09 3.56 3.91 11 日 3.18 3.47 3.22 12 日 21 3.02 17 3.39 23 3.15 12 夜 3.25 3.44 3.43 3.55 3.28 11 日 12 日 20 3.51 24 3.49 12 夜 3.63 3.65 3.47 3.55 3.32 3.41 図 Ⅳ 各 群 に お け る A R C S カ テ ゴ リ ー 総 平 均 値 7 139 3.3 3.22 A 3.69 3.41 3.4 R 3.39 C 3.19 3.28 S 2.8 3 3.2 11日 12日 12夜 3.61 3.48 3.76 3.5 3.4 3.6 3.8 4 ま ず は っ き り し て い る の は 、夜 間 部 の 方 が 相 対 的 に 高 い 評 価 を 示 し て い る こ と で あ る 。上 述 し た よ う に 夜 間 部 の 学 生 も 長 期 的 に は 学 習 意 欲 を 低 下 さ せ る 傾 向 が 見 ら れ る も の の 、自 ら の 学 習 過 程 に 対 し て は 全 般 的 に 高 い 評 価 を 下 し て い る こ と が わ か っ た 。そ の 理 由 と し て は 、不 本 意 就 学 者 の 不 在 と い う 要 因 が 働 い て い る 可 能 性 も 指 摘 で き る も の の 、相 関 性 に つ い て は 分 析 が 及 ば な か っ た 。今 後 の 課 題 と し た い 。次 い で 、個 別 項 目 に つ い て 概 述 す る と 、 ARCS カ テ ゴ リ ー の う ち 、 S( 満 足 感 ) が や や 低 い 傾 向 に あ り 、 特 に 項 目 12 が 顕 著 に 低 い 値 を 示 し て い る こ と が わ か っ た 。「 や っ て よ か っ た 」 と 思 え な い 傾 向 が あ る と い う こ と は 、 前 節 の モ チベーション変動図の推移とも照応している。 3 . 結 論 一 般 論 と し て 言 え ば 、モ チ ベ ー シ ョ ン は 、学 習 者 の 性 格 や 経 験 に 依 存 す る 点 も 多 く 、汎 用 的 な 制 度 設 計 が 難 し い と い う 問 題 を 抱 え て い る の だ が 、全 般 的 な 傾 向 と し て は 、学 習 の 初 期 が 高 く 、そ れ が 漸 次 低 下 し て い く と い う 点 は 、は っ き り し て い る 。た だ し 、1 年 時 と 4 年 時 の 学 習 意 欲 の い ず れ を「 正 常 な 」状 態 と 見 、い ず れ を「 異 常 な 」状 態 と 見 る の か に つ い て は 、な お 精 査 を 待 っ て 判 断 す べ き で あ る だ ろ う 。こ の 現 象 に つ い て た だ 単 に「 や る 気 が な く な っ た 」と 評 価 す る の で は な く 、学 習 行 為 が 「 日 常 化 」し た こ と に よ っ て 、学 習 初 期 の あ る 種 の「 異 常 な 」興 奮 状 態 か ら 覚 め た 、と 判 断 す る こ と も で き る か ら で あ る 。い ず れ に せ よ 、学 習 者が4年間一定の高さで学習を推移させるわけではなく、それが変動 ( 低 下 )し て い く と い う 前 提 に 立 っ て 、個 々 の 授 業 な い し カ リ キ ュ ラ ム 8 140 をデザインしていく必要があるというのは確かであるだろう。 参 照 文 献 加 藤 冨 美 江 ( 2010)『 日 本 語 教 育 へ の 指 針 ― 学 習 者 の や る 気 を 伸 ば す ! ―』学術出版会 J.M.ケ ラ ー 著 ( 2010)『 学 習 意 欲 を デ ザ イ ン す る ― ARCS モ デ ル に よ る インストラクショナルデザイン―』鈴木克明訳、北大路書房 デ ィ ル・H・シ ャ ン ク & バ リ ー・J・ジ マ ー マ ン 編 著( 2009)『 自 己 調 整 学習と動機づけ』塚野州一訳、北大路書房 山 藤 夏 郎 & 陳 亭 希 ( 2012)「 日 本 語 学 習 過 程 に お け る モ チ ベ ー シ ョ ン 変 動要因の分析」『國際學術研討會論文集「大學普及化之日語教育的 可 能 性 ― 動 機 管 理 、大 班 級 授 課 、學 生 品 保 ― 」』南 台 科 技 大 學 應 用 日 語 系 ( 所 ) 編 、 p.107-136 9 141 国学者藤井高尚の著作にみられる送り仮名表記 神作晋一 南臺科技大學應用日語系助理教授 キーワード:藤井高尚 送り仮名 語幹 活用語尾 音節数 1.はじめに 日本語史の近世期、文字表記研究については仮名遣いや仮名文字遣が多く行わ れているが、同じ表記でも送り仮名を取り上げたものはあまり見られない。 発表者は、神作晋一(2001、2003、2005、2014a、2014b)等で、本居宣長など 近世の国学者の送り仮名の実態を調査してきたが、その後の時代の国学者等の状 況はまだ論じられていない。明治時代以降の国語政策を論ずるにも、江戸中期以 降の動向を押さえておくことに意義がある。 藤井高尚(1764[明和元]-1840[享保 11])はいわゆる鈴屋門下で宣長の門弟の 国学者である。 『伊勢物語新釈』『消息文例』などが知られているが、その他多く の著作を残している。 本研究では藤井高尚の著作『三のしるべ』 (1826(文政 12)年)『松の落葉』 (1826 (文政 12)年)の送り仮名を取り上げて傾向を分析・考察し、宣長以降の国学者 の送り仮名の実態を探っていくことを目的とするものである。 2.先行研究 近世の送り仮名や語表記については、早くから池上禎三(1955、1957、1982) の指摘がある。池上氏は江戸後期滑稽本の実態にふれ、 「漢字一字につき二音節の 基準」ということを述べている。 実態の調査としては、原口裕(1989)室町時代後半から現代までをたどる詳細 な調査があり、近世では『好色一代男』 (1682[天和2])年刊) 、 『雨月物語』 (1776 [安永五]年刊)、 『南総里見八犬伝』 (1844[天保十一]年刊)の三作について、 142 活用語の音節数 1と振り仮名の関係から送り仮名の分析を試みている。原口氏は その中で、 二音節動詞は振り仮名が二音節のため送り仮名は振り仮名による表記になる。 /三音節動詞、四音節動詞の活用語尾は送り仮名で示すが、四音節動詞の場合 振り仮名が三音節になるため、時折三音節動詞の活用語尾が振り仮名になるこ ともある。/『南総里見八犬伝』では二音節動詞の送り仮名表記が増えている。 という指摘をされている。送り仮名と音節数については菊地圭介(2000a)が定家 本の動詞表記、菊地圭介(2000b)では石川雅望(1754~1830、狂歌師、国学者、 戯作者)の「おくりがな法」、佐藤麻衣子(2009)は享保期の浄瑠璃本の捨て仮名 について論じている。 神作晋一(2001)では宣長がもっとも活発に出版活動を行っていた寛政年間の 著作(『菅笠日記』 『玉あられ』 『宇比山踏』 ) 、神作晋一(2014a)では『玉勝間』 、 また神作晋一(2005)では、口語文( 『古今集遠鏡』 )などの論考を記したことが あるが、三音節動詞にほとんどゆれが見られないことなどから、それまでの慣用 を考慮しながらも、読みやすさへの配慮のために、かなり意識的に統一されてい たということを見出した。 以下、こうした動詞の音節数との関わりなどを中心に、宣長以降の状況として 藤井高尚の著作の調査・分析・考察を行う。 3.資料・調査手順について 3.1 調査対象について 藤井高尚『三のしるべ』 『松の落葉』を取り上げる。なお、この2作の出版にい たる経過は、工藤進思郎(1982)等に記されている。実際に版下を施したのは蔀 關牛 2であるが、執筆・校合などは高尚本人のものである。 3.2 使用テキストについて 1 また、狂言の古写本について調査した坂口至(1987)でも、 「Ⅰ 二音節目までは原則として送 り仮名を分出しない/Ⅱ 三音節以上は様々であるが、送らないものも多い。 」と音節数とのか かわりに言及されている。 2画家。名は徳風、字は子堰、通称仙三、大坂の人。蔀関月の男で立売堀一丁目に居住、画法を父 に授かり、 『摂津大坂全図』で知られた。他に『古状揃具註抄』 『庭訓往来具註抄』 『女諸礼綾錦』 など。天保一四(一八四三)没、行年不詳。 (三善貞司『大阪人物辞典』清文堂出版 2000 年) 143 テキストは『三のしるべ』(略称『三』 )が和泉書院影印叢書 67 のもの、 『松の 落葉』 (略称『松』 )が大阪心斎橋通書肆河内谷儀助 3の版本を使用し、それぞれ 『日本随筆大成』(吉川弘文館)の本文( 『三』第一期 22 巻、 『松』第二期 22 巻) を参照した。 3.3 用例の扱いについて 用例については、動詞(補助動詞を含む) ・形容詞を取り上げる。動詞・形容詞 については送り仮名の対象としてどの先行研究においても見解が一致している。 なお2作とも文語文法で漢字仮名交じり文によって書かれているが、漢文や漢文 体の部分(引用など)は除いた。 語の認定は、小学館『日本国語大辞典第二版』などを参照して、 (一部を除き) 複合語と見られるものも、できる限り細かく分けた 4。 動詞・形容詞は表記形態によって次のように分類できる。 (1)漢字書きのもの 例「立かへり」、 「同じくて」 、「同ジ宮」 (2)漢字書きで小文字の語尾を付けたもの 例「有リぬべし」 コエ アサ (3)漢字書きで振り仮名を付けたもの 例「 越 て」 、 「 淺 けれど」 AE EA AE EA 待 高貴 (4)仮名書きで右側に振り漢字を施しているもの 例「 まつ 程」 「 たかき 人」 AE EA AE EA (5)仮名書きのもの 例「ゆきて」 、「おほし」 (6) 「心…」のように語の一部が漢字のもの 例「心うさよ」、 「心ざし」 このうち(1) (2) (3)のものを今回の調査対象とする。文語文法の活用体系と 歴史的仮名遣いにより原形(終止形)を五十音順で示し、あとは次の方針による。 1 動詞 〇音節数(文字数) ・活用形式 5 一音節動詞(Aカ変・Bサ変・G下二段)/二音節動詞(C上一段動詞、D ナ変、F四段活用、G下二段、H上二段、 )/三音節動詞(F四段活用、G下 二段、H上二段)/四音節以上の動詞(F四段活用、G下二段、H上二段) 〇活用形(接続) 未然形/連用形:転成名詞(名詞としての用法) 、連用中止・接続助詞「て」 、 3 4 5 愛媛県大洲市立図書館蔵本(国文学資料館のデータベースを通じて閲覧) (たとえば「寫し誤れる」とある場合、 「寫す」と「誤る」に分けて、それぞれの活用語尾と下 接語を考えるものとする。 ) ラ変については、考察の都合上、四段動詞とともに考察する。 144 助詞・助動詞(「て」以外) 、複合語の前半部、連用修飾などの上記以外の連 用形/終止形:そのまま終止するもの、助動詞接続(と・べし・らむ・めり・ まじ等)/連体形/已然形/命令形 2 形容詞 ク活用、シク活用 /活用形(未然、連用、終止、連体、已然、命令さらに カリ活用の別) 、その他は動詞の場合に準ずる。 4.調査結果・分析・考察 4.1 動詞(表1・2) 表1 音節数・表記形式別 三つのしるべ 異なり 総数 漢字 振仮名 小文字 異なり 1 15 11 4 1 1 2 1 2 1 2 2 1 1 1 3 107 107 3 1 4 2 2 1 18 33 17 13 1 20 8 73 69 5 7 2 2 2 3 24 120 94 26 25 9 94 82 12 10 1 2 2 1 4 13 4 9 7 2 7 5 2 3 1 6 6 3 77 480 403 76 1 86 音節数 活用形式 Aカ変 1 Bサ変 G下二段 C上一段 Dナ変 2 F四段 G下二段 H上二段 F四段 3 G下二段 H上二段 F四段 4 G下二段 5 F四段 総計 松の落ち葉 漢字 振仮名 小文字 二作計 27 27 42 2 2 4 1 1 3 179 179 286 9 9 13 43 43 76 352 352 425 19 19 21 160 159 1 280 23 23 117 15 15 17 10 10 23 36 36 43 7 7 13 884 883 1 1364 計 表1は音節数別に、表記を分類したものである。異なり、延べ(総数)とも四 段動詞が多い。表記では漢字表記が一番多く、振り仮名付きが「三のしるべ」で ナ イデ 15.8%(479 例中 76 例)ほどある。小文字を付けたものはわずかに1例(成 リ 出 マ 坐 すところ)であった。 また、表2は音節数別に活用語尾表記の有無について分類したものである。音 節では2と3が語尾表記の境目と仮定されるが、 「見ゆ」などの特殊事例や網掛け で示した例外もある。 4.1.1 一音節動詞 く す う こころう Aカ変( 来 )、Bサ変( 為 ) ・G下二段( 得 、 心得 6) AE E E EA E 6 EA AE EA 「心得」 「出来」は正確には一音節動詞ではないが、活用はそれぞれ「得」 「来」と同じなので こちらへ分類した。 145 4.1.2 二音節動詞 に み ゐ C上一段動詞( 似 る、見 る、居 る)下一段動詞(蹴る)は用例がなかった。 ( (AE EA AE EA AE EA →構造上、送り仮名が問題とならないのでここまでの記述は省略する。 表2 活用語尾表記の有無 三のしるべ 松の落葉 活用語尾 1 2 3 4 1 2 3 4 音節数 表記→ 0 計 0 計 総計 無 不足 有 語幹 無 不足 有 語幹 ↓表記 1漢字 12 1 13 28 2 30 43 2振仮名 7 7 7 1 ↓※1 ↓※2 ↓※1 ↓※2 3小文字 0 1漢字 107 42 3 45 197 190 79 5 328 602 799 2 2振仮名 9 11 20 20 3小文字 1 1 1 1漢字 56 122 178 31 4 163 198 376 3 2振仮名 4 34 38 1 1 39 3小文字 0 1漢字 1 7 1 9 10 13 23 46 55 4 2振仮名 1 10 11 11 3小文字 0 5 1漢字 6 6 7 7 13 総計 126 114 3 236 1 480 218 120 22 524 884 1364 活用語尾表記 「0」問題対象外 「1無」なし 「2不足」一部不足 「3有」あり 「4語幹」語幹部分を表記 ※1 二段動詞の連体形「…る」だけ表記(『三』2例、『松』5例) ※2 「見ゆ」(『三』46例、『松』312例) F 四段動詞 活用語尾が送られないものがほとんどであり、振り仮名が付された場合、活用 語尾は振り仮名に含まれる。例外となるのは次の通り。振り仮名の付されたもの が多い。 ナ ナ オ マ マ シ シ 生 し、生 しつゝ、負 ひ、請はんに、坐 し、坐 すところ、知 りたまふ、知 AE AE AE AE AE AE シ AE AE AE AE AE AE AE ナ りたまふ、知 りて、知るべし。成 リ出(以上『三』)云ひ、行けるはどに、 AE EA AE EA 織りたるあり。織りたる布ならめど、請ふこゝろに、折りとり、読めるは、 舞ふに( 『松』 ) GH 下上二段動詞 下二段・上二段においても二音節動詞では活用語尾が表記されていない。振り ヲ 仮名も漢字部分に含まれる。例外は、 「見ゆ」を除くと、 「竟 ヘたまへる( 『三』 ) 」、 ヲ 「竟 【ヲ】へぬる(『三』 )」の2例である。二段活用の連体形の例は「出るは、 出るものにしあれば、出るよしを、( 『三』 ) 」であった。 D ナ行変格活用 シニ シ 死 たる後、死たる人、死て、死 ぬべき人( 『三』 ) 146 死にける家にて、死にたらん後、死にたる家の、死にたる處の、死にたる処 は、死にたる処も、死にたる人、死につる人の、死ぬるものなし( 『松』 ) 4.1.3 三音節動詞 F 四段動詞 A 活用語尾が過不足なく送られ、振り仮名も語幹部分に限られ、活用形によ る差もなく、安定した表記形になっている。 例外は「申す」 「侍る」である。 a.「申す」系 21 例( 『三』3、 『松』18) 、 「申」系 27 例( 『三』4、『松』23) b.「侍る」系 19 例(『三』5、『松』14) 、 「侍」系3例( 『三』3、 『松』0) GH 下上二段活用動詞 A 二段活用の場合も、活用語尾が正確に送られていて、安定した表記になって いる。振り仮名を振る場合は語幹の部分だけに限られている。例外は、 a. 定て、 ( 『三』) b.〈をしふ(教) 〉66 例 「教ふ」系 16 「教」系 50 例(すべて名詞形の例) c.二段活用の連体形 例:合るやう、治るは、用ることゝは、用ることの 4.1.4 四音節以上の動詞 F 四段動詞 四音節以上の動詞の場合も、三音節動詞の場合と同じく、活用語尾が正確に送 られている。振り仮名も語幹部分だけであるし、安定した表記形になっている。 オコナ オコナ 『三』) 行 ひの、行ひも、行ふ人、 行 ふべき、奉らんも、奉り、( E A A E E A 尊みていふこと、定まれるは、 『松』 GH 下上二段活用 これらも四段活用と同様、活用語尾が送られている。 ちなみに二段活用の連体形、已然形の例では、「考ふ」を例にとると 「考ふる」 、「考る」13 例( 『三』0『松』13)であった。 4.2 形容詞(表3) 『松の落葉』は一例( 「珍らしき」)を除きすべて活用語尾が過不足なく表記さ れていた。 『三のしるべ』では一部振り仮名に含まれているものと、活用語尾表記 147 がないか不足しているものがあった。 表3 形容詞 活用形式 表記 異なり 1漢字 ク活用 17 2振仮名 1漢字 シク活用 5 2振仮名 総計 三のしるべ 計 無 不 有 語幹 異なり 38 38 14 17 5 2 10 26 3 23 8 13 2 10 1 94 7 15 72 0 松の落葉 計 無 不 75 有 語幹 75 123 122 1 198 197 1 4.2.1 ク活用 清く、 【キヨ】清くなり、近き世には、短しと ヨキ 活用語尾が送られている一方で、 「善 神」などがある。これは語幹が一音節に なっていることが影響していると考えられる。 4.2.2 シク活用 タヾ 同じさまに、久しくなりぬ。正しき神道、正 しくあるべき AE アシキ シク活用の場合も、おおむね活用語尾が送られているが、例外として「 悪 神、 アシ アシ アシ タヾシ マヅシ 悪 かりし、悪 き国、悪き事、悪 く、正 く、貧 きと、貧くても」 ( 『三』 )などが ある。振り仮名がついているものもあるが、 「し」の部分がひらがなで表記されな いものが見られる。 5.まとめ 以上、これまで考察してきたことをまとめてみる。 1.三音節以上の動詞は活用語尾が送られるが、二音節以下の動詞は活用語尾 が基本的には漢字部分に含まれるものの、例外となる2音節動詞の活用語 尾表記が増えている。 2.1の原則で不都合が生じる場合、 「よみ」を示すのは振り仮名となる。 3.形容詞は、原則的に活用語尾に過不足なく安定した表記であるが、シク活 用などで不十分な表記が目立つ。 今回の高尚の調査では、基本的には宣長のものと同じ傾向を示しているものの、 一部の語で、活用語尾を送っているところも見られた。読み誤りそうなところは 振り仮名を駆使している部分もある。 なお、紙幅や配分の都合などで、用例文をあまり載せることが出来なかった。 148 発表時(やその後に)などに補足できればと思う。 主要参考文献 池上禎三(1955)「明治以来の正書法」『言語生活』46 p.22-23 池上禎三(1957)「国語表記法の諸問題」 『続日本文法講座2』 明治書院 p.25 池上禎三(1982) 「表記の歴史から見た現代語」 『講座日本語学2』明治書院 p.8 神作晋一(2001)「本居宣長の送り仮名意識――漢字と仮名の関係――」『国語文 字史の研究6』 和泉書院 共著 神作晋一(2003) 「上田秋成の送り仮名――富岡本『春雨物語』を対象として――」 『千葉大学日本文化論叢』4 2003-3 神作晋一(2005) 「『古今集遠鏡』の送り仮名――口語表記の与えた影響――」 『國 學院雑誌』106-5 2005.5 神作晋一(2014a) 「本居宣長『玉勝間』の送り仮名」 『台湾日本語文學』35 2014-6 神作晋一(2014b) 「尾崎雅嘉『古今和歌集鄙言』の送り仮名」 『南台人文社会學報』 12 141-165 菊地圭介(1996) 「おくりがな」 「すてがな」の語史」 『語文(日本大学)』94 1996-3 菊地圭介(2000a)「藤原定家自筆かな文献における動詞表記について――いわゆ る「おくりがな」を漢字とかなの使用法の中に位置付けて考える――」小久保 崇明編『国語国文学論考』笠間書院 菊地圭介(2000b) 「石川雅望の「おくりがな法」について」 『解釈』46-5・6 2000-6 久保田篤(1999)「黄表紙の片仮名」 『国語と国文学』76-5 1999-5 特集号 工藤進思郎(1982) 「藤井高尚『松の落葉』の刊行と著述祝―中村寛宛書簡による 考察を中心として」 『岡山大学文学部紀要』3 坂口至(1987) 「近世初期の送り仮名――和泉流古狂言『和泉家古本』の場合――」 『国語国文研究(熊本大学)』25 号 p.13 佐藤麻衣子(2009) 「享保期浄瑠璃本における捨て仮名―『出世握虎稚物語』の調 査から」 『日本女子大学大学院文学研究科紀要』16 59-71 原口裕(1989) 「近代の送り仮名」『漢字講座4 漢字と仮名』 武蔵野書院 149 五丶演講者・主持人・評論人簡歷 (按場次順序,敬稱省略) 【專題演講】 陳明姿 日本東北大學文學博士 國立台灣大學日本語文學系教授 樫原修 日本東京大學人文科學研究科國語國文學博士 (かしはらおさむ) 日本國立廣島大學大學院 綜合科學研究科教授 全成燁 日本東北大學文學博士 (전성엽) 韓國仁濟大學 日文日語學科教授 【主持人/評論人】 蘇文郎 東吳大學日本語文學系博士 國立政治大學日本語文學系專任教授 葉淑華 東吳大學日本語文研究所博士 國立高雄第一科技大學應用日語系教授 林淑丹 日本國立御茶水女子大學博士 文藻外語大學日本語文系副教授 陳志文 日本國立東北大學日本語學博士 國立高雄大學東亞語文學系教授兼人文社會科學院副院長 150 六丶發表者簡歷 (按場次順序,敬稱省略) 【論文發表】 A 會場 第一場次 洪心怡 日本大阪大學 言語文化學博士 國立高雄第一科技大學 應用日語系副教授 陳連浚 日本安田女子大學文學研究科博士 南臺科技大學 應用日語系助理教授 涂美珠 日本駒澤大學人文科學研究科博士 新生醫護管理專科學校 應用日語科專任副教授 野川博之 日本早稻田大學東洋哲學研究所博士 法鼓文理學院 佛教學系兼任助理教授 郭獻尹 南臺科技大學 應用日語研究所碩士 東吳大學日本語文研究所博士課程在學中 東吳大學推廣部 兼任講師 第二場次 LA MINH HANG The Institute of Han-‐Nom Studies 研究員 HOANG ANH THI 越南河內國家大學・人文社會大學準教授 NGO MINH THUY 越南河內國家大學・外國語大學東洋言語文化科學部學部長 151 NGUYEN TIEN LUC 日本國立廣島大學大學院 文學博士 越南胡志明國家大學・人文社會科學大學 日本學科長 B 會場 第一場次 徳永光展 日本大阪大學 文學研究科博士 日本福岡工業大學大學院 社會環境學研究科教授 林雅芬 日本新潟大學 現代社會文化研究科博士 國立台中科技大學 應用日語系專任助理教授 郭子瑄 國立中山大學 中國與亞太區域研究所博士 國立高雄餐旅大學 應用日語系兼任助理教授 安達信裕 日本廣島大學大學院博士 文藻外語大學 日本語文系助理教授 第二場次 林智凱 美國夏威夷州立大學 東亞語文學系博士候選人 陳亭希 日本大阪大學博士 南台科技大學 應用日語系助理教授 山藤夏郎 日本廣島大學博士 南台科技大學 應用日語系助理教授 神作晋一 日本國學院大學 文學研究科博士 南台科技大學 應用日語系助理教授 152
© Copyright 2024 ExpyDoc