平成 27 年 12月1日 第9号 守口市立第三中学校 校長 大野 友己 2学期末テストも終わり、今年1年もあと残すところ1か月となりました。 気候も一日の朝夕の気温差があり、急に冷え込みが増してきました。 今月中旬からは3年生は進路決定に向けて、1・2年生は2学期の締めくくりの懇談会 も控えています。健康管理には十分気をつけて、これからも学校生活を過ごしてください。 後期執行部の活動方針や各学級で討議した内容について、 生徒総会が開かれました。 1・2 年生の新執行部はやる気満々!前期に引き続き「授業 集中プロジェクトの実施」「マラソン週間の実施」など各委員長 からの方針案が示されました。 第 2 部では、「さつき学園に引き継ぎたい三中の良さ」を学級討議の中で意見を出して もらい執行部からまとめの発表がありました。『授業の取り組み』では“集中して取り組 める”“挙手発表がしやすい雰囲気”“チャイム着席ができる”が ベスト3でした。『学校行事への取り組み』や『委員会活動』、 『学校生活全般』では“掃除がきちんとできる”“少人数ならではの 仲の良さ”などたくさんの三中生の良さが全校生徒で確認されました。 「さつき学園に向けて」~ ~ メニューは、ご飯・味噌汁・キュウリとわかめとしらすの酢の物・豚肉 のしょうが焼きという「一汁三菜」にチャレンジしました。事前学習2時間、 献立の立て方を学習したり、食事に大切な栄養源を考えながら実習の 計画を立てました。家庭科の柴田先生と藤田先生とチームワークで無事、実習は「ご馳走さま!」 で終えることができました。小学校の給食指導を専門 的に行っている先生からの授業も意欲的に取り組んで いました。 12月行事予定 日 曜 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 火 水 木 金 土 日 月 火 水 木 金 土 日 月 火 水 木 金 土 日 月 火 水 木 金 行 昼 食 事 各種委員会 5 限授業 5 限授業 5 限授業 ○ ○ ○ ○ 口座振替日 ○ ○ ○ ○ ○ 3 年進路懇談 (3 年5限授業) 三中校区ウィンターフォーラム 5 限授業 5 限授業 5 限授業 5 限授業 5 限授業 天皇誕生日 終業式 大掃除 『 1・2 年懇談 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 11 月に入り、新しく鉢植えの交換をしていた だきありがとうございます! 春から夏・・秋の終盤を迎え、もうすぐ冬の 到来でしょうか。 視聴覚室の廊下には、 ポトスが飾られています。 黒杭先生と執行部の共同作 品です! 11 月 7 日(土)スピーチコンテストが開催されました! 2 年生灘本笑実さんの「平凡で何が悪い!」が市長賞 と特別賞、3 年生曽野朱里さんの夜間学級との交流をテ ーマにした「この学校だからできた経験」が昭平会賞を 受賞するという素晴らしい成績でした。また、今回は夜 間学級から、特別ゲストスピーチで発表した北野さんの作文 を紹介したいと思います。 × × 第三中学校 夜間学級 北野 幸子 昭和十九年秋頃、大阪市から八尾の親戚を頼り疎開することになりました。両親と姉、兄、私、二人の弟、家族七人でした。 ますます戦争が激しくなり、通学途中に、空襲警報のサイレンが鳴るようになりました。学校に行くことも、家に帰ることもで きず、とにかく隠れました。アメリカ軍の飛行機が、飛行士の顔が見えるほどの低いところで飛びます。大きな爆音にびっくり して、近くの牛小屋に飛び込んだこともありました。 そんな毎日で、勉強なんてしていたのか思い出せません。 大阪市内から被災者が数珠つなぎになって学校にやってくることもありました。背中の防空ズキンも焦げ、頭から血が流れて いる人がたくさんいました。その中でも、忘れられない光景があります。 お母さんが、赤ちゃんを背中におんぶしているのですが、お母さんも赤ちゃんも焦げて、真っ黒でした。私たちの目には、赤ち ゃんがもう死んでいるのがわかりました。それでも、お母さんは赤ちゃんをおんぶしていました。そのお母さんが本当に可愛そ うやなぁと思いました。 ある夜、遠くの方で焼夷弾という爆弾がたくさん落とされました。 「きれいやなぁ」と言ったら、 「何言うてんねん」と父が私 の頭を抑えつけました。 私は、あまりにも父がこわいので、床下の防空壕に逃げました。子どもだった私には焼夷弾が花火のように見えました。 でも、その爆弾の下には、家を焼かれたり、死んでしまった人がたくさんいることを父は言いたかったのだと思います。昭和 二十年八月十五日正午。大勢の人々がラジオのあるお店の前に集まりました。みんな膝まづき、天皇陛下の言葉を聞きました。 中国で戦争体験した父は、日本が負けるはずないと叫んでいました。大人たちも、みんな泣いていました。私は、もう戦争が終 わったのだから、普通の生活ができる。学校で勉強ができると思い、嬉しくてはしゃぎまわっていると、父がすごく怒りました。 ところが、戦争後待っていたのは、食べるものもない貧しい生活でした。おまけに、ある日突然父がいなくなったのです。 私たちはどうしていいかわかりませんでした。 私は、とにかく勉強がしたくて、弟を連れて学校へ行きました。でもお腹が空き、勉強など頭に入りませんでした。何か口に 入れたくて、姉のお下がりの牛革のランドセルのベルトを噛みました。毎日、毎日、ベルトがボロボロになるほど噛みました。 塩辛い味がして、本当にオイシかったです。 そのうちに、私が働かなくては食べていけなくなりました。十二歳から、大きなお屋敷に住み込み、子守りの仕事をしました。 ある日、魚屋さんで料理してもらった魚を取りに行くよう奥さんに言われました。見た事もないような立派な魚でした。 持って帰ると、奥さんは料理した魚の頭と骨を犬にやりました。私は、奥さんがいなくなると思わずその魚を犬からとって食べ ました。こんな不公平なことはないと思いました。 今の若い人たちには、私のような思いを絶対にさせたくない。戦争は絶対だめだと強く思っています。 今、私は夜間中学で勉強しています。四年前の九月五日、家のポストに入っていた生徒募集ビラを見て 入学を決心しました。今、子どもの時に勉強できなかった悔しさを取り戻すために頑張っています。
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