98 明海歯学(J Meikai Dent Med )44(1) , 98−105, 2015 下顎位の偏位を伴う患者に対し咬合再構成を行った一症例 伊藤 北風 2 善浩1§ 新平2 川邉 溝部 好弘2 健一2 本木 荒木 萌洋2 久生2 1 明海大学 PDI 埼玉歯科診療所 明海大学歯学部機能保存回復学講座オーラル・リハビリテーション学分野 要旨:患者は上下顎部分床義歯の新製を主訴として来院した 65 歳の女性である.他歯科医院で 3 年前上下顎部分床義 歯を作製したが,作製時より物が噛みにくかったため新義歯の作製を希望し本診療所へ来院した.初診時,下顎前歯部の 咬耗,上下顎部分床義歯人工歯の摩耗,不適切な咬合接触を認め,咬合高径の低下,下顎の左側偏位が疑われた.治療方 針として三次元的な咬合再構成を行うこととした. ウィリス法を基準として咬合高径の拳上を行い,下顎の左側偏位の改善を図るためプロビジョナルレストレーションを 用い偏位の改善を行ったのち,得られた下顎位をトランスファーし上顎は全部床義歯補綴,下顎前歯部は陶材焼き付け鋳 造冠,下顎欠損部はインプラントによる補綴を行った. 適切な咬合高径と下顎位の偏位を改善したことにより,機能的で快適な咬合関係を再構成できたものと考える. 索引用語:低位咬合,下顎偏位,咬合再構成 A Case of Occlusal Reconstruction with the improvement mandibular position Yoshihiro ITO1§, Yoshihiro KAWABE2, Akihiro MOTOKI2, Shinpei KITAKAZE2, Keniti MIZOBE2 and Hisao ARAKI2 1 2 PDI Saitama Dental Clinic, Meikai University school of Dentistry Division of Oral Rehabilitation, department of Restorative and Biomaterials Sciences, Meikai University School of Dentistry. Abstract : The patient was a 65-year-old female, who visited our clinic desiring the production of new maxillomandibular partial dentures. Although maxillo-mandibular partial dentures had been inserted at a practicing dentist 3-years ago, because mastication had become difficult, the patient visited our clinic to request the production of new dentures. At the first medical examination, attrition of the mandibular anterior teeth, abrasion of the artificial teeth of maxillo-mandibular partial dentures, and unsuitable occlusal contact were noted, and a decrease in the occlusal vertical dimension and a left deviation of the mandible were suspected. Regarding treatment guidelines, 3-dimensional occlusal reconstruction was planned. Bite raising was performed on based the Willis method, and the left deviation of the mandible was improved using provisiona l restoration.The improved mandibular position was transferred to an articulator, and we planned to insert a complete denture in the maxilla, and porcelain fused-to-metal crowns in the mandibular anterior tooth, and set implant prosthesis in the mandibular defect area. The consideration was as follows ; Due to the recovery of an appropriate occlusal vertical dimension and improvement of the eccentric mandibular position, a functional and comfortable occlusal relationship could be achieved. Key words : infraocclusion, mandibular deviation, occlusal reconstruction 下顎位の偏位を伴う患者に対し咬合再構成を行った一症例 緒 言 顎口腔系の生理的機能を阻害する要因として下顎位の 偏位や咬合高径の低下が挙げられる.咬合崩壊をきたし 99 い,最終補綴に与える機能と形態が,歯周治療,咬合治 療などを通して口腔内に適応するかを観察したのち,再 評価を行い,下顎位の三次元的な改善を図り最終補綴を 行ったので若干の考察を加え報告する. た患者の咬合再構成を行うには,下顎位,咬合高径,咬 症例の概要 合様式,咬合平面に対する現状の把握は重要である. 今回,咬合高径が低下し,さらに下顎が左側に偏位し 患者は 65 歳の女性で上下顎部分床義歯の新製を主訴 た症例に対して,プロビショナルレストレーションを用 としている.来院 3 年前に上下顎部分床義歯を他歯科医 Fig 1 Intraoral photograph at the first medical examination without denture. Fig 2 Panoramic X-ray at the first medical examination. ───────────────────────────── §別刷請求先:伊藤善浩,〒358-0003 埼玉県入間市豊岡 5-1-3 明海大学 PDI 埼玉歯科診療所 100 伊藤善浩・川邉好弘・本木萌洋ほか Fig 3 明海歯学 44 2015 Intraoral photograph at the first medical examination with denture. Fig 4b Upper midline was different from the lower one. よび根尖病巣様透過像を認めた.下顎残存歯は高度に咬 耗し,臼歯欠損部は上下顎ともに顎堤の吸収を認めた. Fig 4a Facial photograph at the first medical examination with denture. 特に下顎欠損部では著明な骨吸収が認められ,プラーク コントロールは不良であった.旧義歯は下顎臼歯部の人 工歯に摩耗を認め,咀嚼能力の低下,咬合高径の低下が 院で装着されたが,装着時より物が噛みにくかったため 疑われ,咬合平面の不正も認めた(Fig 3).歯周組織検 新義歯の作製を希望し本診療所へ来院した. 査の結果,上顎左側第二小臼歯に 4 mm 以上の歯周ポケ 初診時の口腔内所見(Fig 1)とオルソパントモグラ ットを認めたが他の部位では 3 mm 以下だった.本症例 フィー(Fig 2)より補綴物の辺縁部不適合,う蝕症お の問題点として,上顎左側第二小臼歯挺出による咬合平 下顎位の偏位を伴う患者に対し咬合再構成を行った一症例 101 面の不正,旧義歯の摩耗による咬合高径の低下,下顎前 で,プライマリープロビジョナルレストレーション作製 歯部では歯冠部歯質の咬耗による形態不良,および上顎 時,鼻下点オトガイ底間距離を 64 mm から 69 mm へ咬 左側第二小臼歯の残存により歯根膜受容による下顎の左 合拳上を行った.その時に,下顎安静位と嚥下法を併用 側偏位があげられた(Fig 4a, b).問題点に対し,まず し決定した咬合高径が機能的に問題ないことを確認し 咬合高径と水平的下顎位を改善することとした.その後 た. 3 次元的に下顎位を改善した後,最終補綴へ移行した. 治療経過 水平的顎間関係の決定にはゴシックアーチ描記法を用 い,下顎運動路検査を行った.ゴシックアーチ描記によ り左右側への滑走運動は正常であったが,前方滑走時に 咬合高径の検査を行ったところ鼻下点オトガイ底間距 左側への偏位を認めた.アペックスとタッピングポイン 離が 64 mm,瞳孔口裂間距離が 69 mm であった.そこ トはアペックスに対しタッピングポイントが前方に 5 mm のずれていたため,本症例ではタッピングポイント を咬合位として用いた(Fig 5).プロビジョナルレスト レーション装着と並行して,歯周基本治療として TBI を行った,PCR は初診時 68% であったが TBI を 3 回行 ったところ 18% と改善した.また,上顎左側第二小臼 歯に麻酔抜髄,下顎左側中切歯,側切歯,下顎右側中切 歯,側切歯にう蝕処置を行い,コンポジットレジンにて 間接覆髄を行った,下顎左側伏歯,下顎右側犬歯,第一 小臼歯,第二小臼歯に感染根管治療を行い,側方加圧充 填を行った後にファイバーコアにて支台築造を行った. Fig 5 Gothic arch tracing at the bite taking for the 1st. provisional restoration. Fig 6 Set of 1st. provisional restoration. プライマリープロビジョナルレストレーション装着 時,上下顎正中は一致していなかった(Fig 6).そこで 102 伊藤善浩・川邉好弘・本木萌洋ほか Fig 7 The difference of upper and lower mid-line after three month later. 明海歯学 44 Fig 9 Gothic arch tracing at the bite taking for the 2nd. provisional restoration. Fig 10 Fig 8 2015 Bite taking for the 2nd. provisional restoration. Facial photograph after three month later. と残存歯のプロビジョナルレストレーションを模型上に 戻し,プライマリープロビジョナルレストレーションの 下顎左側偏位の改善を図るため下顎臼歯部の咬頭傾斜を 調整で得られた下顎位をトランスファーし顎位の決定を 小さくしフラットテーブルに近い状態にした.プライマ 行った(Fig 10). リープロビジョナルレストレーション装着後,左側に偏 セカンダリープロビジョナルレストレーションは上下 位していた下顎位は徐々に右側への偏位を認め,咬合を 顎の正中を一致させて作製し,咬合様式はリンガライズ 安定させるため左右上顎臼歯部にレジン添加と調整を行 ドオクルージョンとした(Fig 11a, b).その後下顎欠損 った.なお,調整は 3 週間間隔で行った. 部にインプラントによる補綴を行うため上顎義歯の咬合 プロビジョナルレストレーション装着 5 か月後,上顎 を参考とし,ワックスアップを行った.インプラント埋 義歯の正中に対し,下顎前歯の正中は右側に 2 mm 偏位 入は GC 社製 した部位で下顎位が安定した(Fig 7).下顎右側へ偏位 イプインプラントを埋入した.本症例では付着歯肉の不 したことにより顔貌の正中が一致し,口輪筋など周囲筋 足が認められたため 2 回法を選択し,2 次手術時に遊離 の緊張が改善したため左側口角の拳上が改善された(Fig 歯肉移植術を行った. 直径 3.8 mm 長さ 10 mm スクリュータ 8).この状態で下顎位および下顎運動を再評価するた 2 次手術後インプラントプロビジョナルレストレーシ め,ゴシックアーチを採得した(Fig 9).左右,前方に ョンを装着し,即時重合レジンの添加・調整を行い,下 偏位なくスムーズに滑走運動が行えるようになり,左右 顎位を確認するため再度ゴシックアーチの採得を行った 的な下顎位の偏位がなく安定したため,得られた下顎位 (Fig 12).下顎運動に問題なく,下顎の左右の偏位はな でセカンダリープロビジョナルレストレーションを作製 かったが,アペックスとタッピングポイントは前方に 5 することとした.上顎は咬座印象を行い,下顎はロウ堤 mm のずれがあったがプロビジョナルレストレーション 下顎位の偏位を伴う患者に対し咬合再構成を行った一症例 Fig 11a 103 Set of 2nd. provisional restoration. Fig 12 Final examination by Gothic arch tracing. で得られた下顎位から変化がないため,下顎位は安定し ていると判断し最終補綴へ移行した. 残存歯,インプラント上部構造は陶材焼付冠とし,上 顎義歯前歯部は硬質レジン歯,臼歯部は金属歯とした (Fig 13).インプラント上部構造は上顎義歯の咬合をリ ンガライズドオクルージョンとしたため,セメント固定 とした.完成時装着に先立ち重合収縮などによる補綴物 の偏位を考慮しリマウントを行い咬合器上で調整を行っ Fig 11b Occlusal contact point of 2nd. provisional restoration. た.最終補綴後バイトアイⓇの採得を行い,咬合接触バ 104 伊藤善浩・川邉好弘・本木萌洋ほか 明海歯学 44 2015 Fig 14 Occlusal contact area using BiteEye BEⓇ-1 at the final prosthesis. るとの報告1)があるため残根部はリリーフを行い,残根 状の歯根膜が咬合力の調整に関与しないようにしたこと で下顎位の偏位の改善に強く貢献したと考える.下顎位 の偏位を改善するにあたり,左右のフラットテーブル上 に片側 4 点ないし 5 点,両側で最大 10 点の左右の咬合 接触のバランスが得られている状態で,義歯を使用する ことで筋力の左右差の是正が行われるという深水ら2, 3) の報告を応用し,プライマリープロビジョナルレストレ ーションはフラットテーブルに近い状態にした.また咬 合調整を生体が許容できる間隔として 3 週間隔で即時重 合レジンの添加調整を行った4). 咬合平面の不正と咬合接触の不正に対しては咬合拳上 で対応した.咬合拳上は日常臨床でよく行われる処置で あるが,咬合拳上量や方法について明確な指針はない. Fig 13 Intra oral photograph at the final prosthesis. 咬合拳上量については安静空隙量内であればよいとの考 え方5)や,安静空隙量を超えて拳上しても新しい安静空 ランス,咬合接触面積の確認を行った(Fig 14).その 隙が出現するとの報告6, 7)もある.咬合拳上量の決定方 結果,咬合接触バランス,咬合接触面積に左右差や前後 法8)についても,機械的に補綴に必要な量を咬合拳上す バランスの不良は認められず良好に経過していた. る方法,患者の感覚を利用する方法や MKG にマイオモ 考 察 初診時に認められた下顎位の偏位は上顎左側第二小臼 ニターを併用して機能的に検索しようとする方法などが ある.また,咬合拳上は段階的に行うことを推奨する報 告と,一挙に行うことを推奨している報告9, 10)がある. 歯の残存による歯根膜受容が原因と考えられる下顎の左 今回の症例では安静空隙量内で 5 mm の咬合拳上を一度 側偏位に対し,オーバーデンチャーによる補綴を行うこ に行ったが患者に不快感などなくスムーズに咬合拳上量 ととした.この時,残存歯根に根面板を装着し,根面板 に適応した. と義歯床粘膜面を接触させて咬合力を残存歯根に伝達さ 水平的顎間関係の決定にはゴシックアーチを各段階で せるオーバーデンチャーでは正常有歯顎者に類似してい 採得し決定した11−15).決定には下顎は左右の咀嚼関連筋 下顎位の偏位を伴う患者に対し咬合再構成を行った一症例 群によって吊り下げられた状態にある,筋の異常緊張が 生じると容易にその位置を変えてしまうが,筋の異常緊 張を取り除き,左右の咀嚼関連筋群の生理的緊張のバラ ンスが保たれた状態をつくることできれば,その状態で 得られた時の下顎位が生体にとって安定した下顎位であ る16)という報告を基に今回は行った.ゴシックアーチを 採得し下顎位を決定するあたり,アペックスとタッピン グポイントが一致する場合そこを基準に義歯の作製を行 うが,今回アペックスとタッピングポイントはどの段階 においてもアペックスと 5 mm ほどのずれを認めた.こ れは不適切な義歯により習得した顎位ではなく,有歯時 の咬合関係により偏位した顆頭位がそのまま固定化し, 習慣性の咬合位となって残っているためと考えタッピン グポイントを基準17, 18)として義歯の作製を行った. 遊離端欠損の治療においては可撤性部分床義歯または インプラントによる補綴方法の 2 種類が臨床応用されて いる.それぞれ利点・欠点があるが,今回は,咀嚼機能 の回復には部分床義歯よりインプラント推奨するとの報 告19)を応用し,インプラントによる補綴を行った.その 結果,補綴装置による違和感を最小限に抑える事がで き,患者の主訴である噛みにくさは初診時,焼き肉やト ンカツなどの肉類が咬み切れないとのことだったが,最 終補綴後は肉類も咬み切ることができるようになり患者 の満足も得られた. 結 論 患者の主訴である物が噛みにくさは可撤性部分床義歯 からインプラントによる補綴を行うことで改善できた. 下顎偏位に対しては歯根膜による受容をなくすことで偏 位の改善が行えた.また,プロビジョナルレストレーシ ョンの評価,調整を安定するまで行うことで偏位を起こ さないよう補綴できたと考える. 本論文の要旨は,日本顎咬合学会第 32 回学術大会 (2014 年 6 月,東京)において口頭発表を行った. 105 出版,東京 pp104 1996 2)深水皓三,堤 嵩詞,阿部伸一,岡田尚士:治療用義歯を 用いた総義歯臨床.松風,京都 pp104, 2014 3)柳田澄子,小林義典:無咬頭歯を排列した治療用義歯の下 顎偏位修正効果.歯学 80, 840−864, 1992 4)小林義典:無歯顎補綴における下顎位の診断と求め方 咬 み合せの科学 22, 380−393, 2002 5)小貫伸一,森田啓一,高橋 衛,松木教夫:補綴装置によ り咬合高径の復帰に成功した症例について 口病誌 33, 340 −349, 1966 6)鎌田一道,佐々木元,棟久信宏,山科 透,佐藤隆志,津 留宏道:患者の機能と感覚を利用して咬合の拳上量を決定し た一症例.広島大学歯学雑誌 10, 291−295, 1978 7)石原寿郎,井上昌幸,河野正司,川口豊造,坂東永一,丸 山雅昭,小沢 実,真柳昭紘,中尾勝彦:オーラル・リハビ リテーションの一症例における下顎位の診断.補綴誌 13, 204−211, 1969 8)山崎達夫,佐々木元,棟久信宏,佐藤隆志,長沢 享,津 留宏道:Mandibular Kinesiograph Myo-monitor を併用して咬 合拳上を行った一症例.補綴誌 21, 405−411, 1977 9)小山栄三,平川光彦,岩崎 禎:低位咬合を伴った補綴 例.阪大歯学誌 17, 128−135, 1972 10)小林義典,馬場 正,渋谷 始,佐藤哲雄:著名な低位咬 合症の咬合拳上例.歯学 64, 1−11, 1967 11)大道英徳:水平的顎間関係の修正により咀嚼機能を改善し た全部床義歯患者の症例.補綴誌 52, 236−239, 2008 12)斉藤善広:総義歯咬合採得におけるゴシックアーチとタッ ピングポイント記録についての統計分析.顎咬合誌 29, 252 −265, 2009 13)平沼譲二,長尾正憲,溝上隆男,小林義典,松本直之:コ ンプリートデンチャーの咬合採得.補綴誌 39, 793−815, 1995 14)村上義和,志賀 博,小林義典:無歯顎者における Gothic Arch および Tapping Point の定量的評価.歯学 80, 783− 808, 1992 15)大島雅樹,田中 彰,小林義典:ゴシックアーチ描記法に 関する臨床研究.歯学 140−153, 1997 16)菅野詩子,菅野博康:咬合再構時の下顎位.顎咬合誌 27, 32−39, 2007 17)松本直之,佐藤修斉:習慣性の咬合位是正のための処置方 針.歯科展望 69, 1419−1427, 1987 18)田中久敏,金森敏和,加藤正人,岩本一夫:習慣的な前方 咬合位を伴った総義歯患者の治験例−治療義歯による下顎位 の決定.歯科展望 69, 1403−1418, 1987 19)歯の欠損の補綴歯科診療ガイドライン 補綴学会,東京 pp51−54, 2008 引用文献 (受付日:2014 年 10 月 30 日 1)三浦裕士:月刊歯科技工 目でみる顎口腔の世界.医歯薬 受理日:2014 年 12 月 3 日)
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