2015-11号

チャペルヘの招き
2015 年 10 月 26 日
№456(2015-11 号)
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
(マタイによる福音書11:28)
四国学院大学
宗教センター
www.sg-u.ac.jp
メールアドレス [email protected]
時間 10:45~11:05a.m.
場所 清泉礼拝堂
10月26日(月)
担 当 金子えつこ(非常勤講師)
題 目 見たことも聞いたこともないもの
聖 書 コリント人への手紙第一 2:7-16
讃美歌 Ⅱ-26
11月2日(月)
担 当 赤木崇敏(文学部准教授)
題 目 異郷の異邦人
聖 書 エフェソの信徒への手紙2:11-13
讃美歌 90
奏
奏
楽 新宮久子(非常勤講師)
楽
笠井友希(文学部3年)
10月27日(火)
担 当 福田哲
(日本キリスト教団多度津教会牧師)
題 目 復活信仰
聖 書 コリントの信徒への手紙一 15:29-34
讃美歌 Ⅱ-26
奏 楽 野町太郎
11月3日(火)
10月28日(水)
担 当 得永幸子(社会福祉学部教授)
題 目 Peace at any cost?
聖 書 マタイによる福音書5:29-30、5:9
讃美歌 Ⅱ-26
11月4日(水)
担 当 野町太郎
題 目 備えの日々
聖 書 マタイによる福音書24:45-51
讃美歌 90
奏 楽 野町太郎
奏
楽 野町太郎
10月29日(木)
チャペルアワーはお休みです。
10月30日(金)
チャペルアワーはお休みです。
チャペルアワーはお休みです。
11月5日(木)
担 当 金関貴之
(学生支援センター事務課課長)
題 目 フィリピンでの体験から
ユニバーシティ・モットーを考える
聖 書 マタイによる福音書5:13
讃美歌
90
奏
野町太郎
楽
11月6日(金)
担 当 渡邉祐(非常勤講師/
日本キリスト教会観音寺教会牧師)
題 目 二つの線
聖 書 エレミヤ書48:46-47
讃美歌 90
奏
楽
野町太郎
★☆チャペルアワー担当者からのメッセージ☆★
★見たことも聞いたこともないもの、人 の心 に思い浮かんだことのないもの。それが来たら
あなたはどう対処しますか?
金子えつこ(非常勤講師)
★復活はいくら説明されても理解できません。信仰をもって受け止めるとき、死は「終わりなき望み」
となります。
福田哲(日本キリスト教団多度津教会牧師)
★平和を実現するために、自分に何ができるのか。考えさせられるこの頃です。せめて、恐れず
に語り始めることから出発しようと思います。
得永幸子(社会福祉学部教授)
★中国で考えさせられた異文化交流についてお話したいと思います。
赤木崇敏(文学部准教授)
★後期が始まりました。聖書の言葉に触れて、心の肥やしをたくさんいただきましょう。
野町太郎
★本年夏季に実施された「外国事情 フィリピン」に一部同行させてもらいました。その時感じた
ことから、本学のユニバーシティ・モットーである「汝らは地の塩である」ということを考えてみ
たいと思います。
金関貴之(学生支援センター事務課課長)
★私たちはどこから来てどこへ行くのでしょうか。
渡邉祐(非常勤講師/日本キリスト教会観音寺教会牧師)
「聖書の中の奇跡」
(2015 年 10 月 8 日のチャペル・トークから)
湯川洋久(総合教育研究センター准教授)
今日は、私が経験してきた、奇跡について、証ししていきたいと思います。
今日あげた聖書箇所は、聖書学者たちによって事実ではないと言われているところです。私も事実
ではないのだろうと思っています。私にとって奇跡とは、現代科学で解くことのできないことが起きるという
事とは限らず、日々の生活の中、通常では起こることが確率的に非常に小さいことをも含まれます。
私が勝手に認定した自分に関わる奇跡の一部を挙げてみます。
アメリカ東部の有名大学院に私費留学でありながら合格したこと。私費留学でその大学に合格した日
本人は 10 年以上出ていなかったことから、私のような人間が合格できるとはとても思えなかったにも関
わらず合格できました。自分の実力を遥かに超える出来事でした。
大学院卒業後行った神学校に、何と学費卒業に必要な単位数分タダ、住居費タダ、で行けたこと。
しかも入学可能かどうかの問い合わせは、願書締め切りのずっと後だったこと。これは、すでに入学許可
の下りていた留学生が、奨学金が学費の半分しか出ないため留学できないと判明し、辞退したすぐ後
の問い合わせだったため、本来留学生二人で半分ずつ支給されるはずだった留学生用の奨学金が全
額余っていたからでした。
他にも多々あります。
実は私の経験した奇跡の多くに共通点があります。自分の力で何とかしようと必死になる。しかしそ
れでもうまくいかない。最後には道は閉ざされ不安の真っ只中で、全く思いがけない所から道が開ける、
ということが多いのです。真剣にならなくてはいけない時ほど、悩みや不安も深く、また、自分の力だけで
はどうしようもないことに気づかされることも多いのです。そしてそんな時に開ける道。自分の力ではなく、
何か大いなる力からたまたまもらったものに過ぎないと謙虚にさせられてしまう自分がそこにいます。
もちろん、そのような奇跡が起きない人もいます。それは熱心なクリスチャンであってもです。私の頭の
中には常に途上国の人たちがいます。死を受け入れつつも神様を賛美するクリスチャン、信仰を持たず
とも、素晴らしい生き方をし、それでも不遇をかこつ人々。なぜ私のようなテキトーな人間に世俗的な
祝福が恵まれ、素晴らしい人が祝福を受けないのか。私には理由は分かりません。
しかし、世俗的な祝福を受けるということは、単に神様からたまたま選ばれたというだけに過ぎません。
なぜか祝福を受けなかった人に対して大きな責任を持つだけなのです。
自分の力の範囲を超えてしまったところに祝福があるとき、その結果は自分に帰すものではなく、神
様に帰すものであると素直に思い知らされ、謙虚になれます。結局、こうして今私がこうあるのは、自分
の力でここまでたどり着いたのではなく、神様の大いなる力に許されて、望外の恵みを受けた結果に過
ぎないことを思い知らされるのです。そうなると、その後例え犠牲を払うことになっても、それは今までの祝
福をお返しする行為に過ぎないことになります。
神の大きな手の中にあって平安をさらに学んだ今日この頃です。
宗教委員長
宗教センタースタッフ
金珍熙
嶋田美紀