9 第39代 天武天皇

9
第39代
天武天皇
天武天皇
第39代天皇
『集古十種』「天武帝御影」
在位期間
673 年 3 月 20 日 - 686 年 10 月 1 日
元号
朱鳥(あかみとり)
先代
弘文天皇?(天智天皇)
次代
持統天皇
誕生
631 年? 不詳
崩御
686 年 10 月 1 日
大和国
陵所
檜隈大内陵
御名
大海人(おおあま)
異称
天渟中原瀛真人天皇
浄御原天皇
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父親
舒明天皇
母親
宝皇女(皇極天皇/斉明天皇)
皇后
鸕野讃良皇女(持統天皇)
夫人
藤原氷上娘
藤原五百重娘
蘇我大蕤娘
子女
草壁皇子
高市皇子
舎人親王
皇居
飛鳥浄御原宮
*天武天皇の出自の謎?
我国の正史である日本書紀巻第23・舒明 2 年正月の条に宝皇女を皇后とし、二男
一女を生ませた。一は葛城皇子(天智天皇)、二に間人皇女(孝徳の皇后)、三に大海
人皇子(天武天皇)と明記してある。
しかし下記事由により様々な謎が生じ諸説が提言され論議されてきた。
第 1 に日本書紀では誕生年を記していないことが多くこの 3 人にも明記無く、歿年か
ら換算した結果の矛盾や後年資料(一代要記、神皇正統記等)で諸説あり混乱を招いて
いる。
第2に「天智」は成人前より歴史の表舞台での活躍が記され出生年が推定できるが、
「天武」は壬申の乱前後まで殆ど登場せずその経歴が不明であること。
第3は日本書紀が天武系の手で編纂されているため都合の悪い部分を削除して、天武
系の正当性を主張する内容になっていることを前提としている。
第 4 は「天武」の妃は皇后となった鸕野讃良皇女をはじめ四人も「天智」
「の皇女で、
当時は近親婚が珍しくは無かったが実弟に四人も娘を与えるのは異常とされること。
第 5 に外交交渉で「天智」は百済や唐との関係を重視したが「天武」は唐とも断交し
新羅一辺倒に方針変更したこと
第 6 に「天武」は壬申の乱で天皇親政専制権を手中に収め、先進の律令制度を徹底す
ることで全国統一国家体制を整え、大王を天皇と、倭国を日本国に改称して我国の伝統
としての天皇制を確立した人物であるが、約百年後天武直系の称徳天皇没後に天智系の
白壁王が光仁天皇として即位したが以降天武系は排斥され全く姿を消してしまったこ
と。
第 7 に日本書紀は30 巻からなるが壬申の乱の記述だけに 1 巻を使っているのは異例
で皇位簒奪の事実を否定するためだとすること。
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*どんな諸説があるの?
<漢皇子説>
宝皇女(皇極・斉明天皇)が舒明天皇との再婚前に高向王との間にもうけた漢皇子(あ
やのみこ)とする説で、この説では「天武」が「天智」より年長であることに矛盾が無
く、父が天皇で無いことから皇位継承権が低く、天智との血縁関係を深めるために近親
婚を繰り返した謎も解けるとしている。更には日本書紀30巻の1巻を費やしてまで壬
申の乱の詳細を記すことで皇位簒奪ではなく正当な皇位継承であることを主張してい
るのがうなずける。従って上記の謎の要因の多くを解明できる説として残存している。
しかし高向王が如何なる人物か?漢皇子の生育過程が全く不明で史料が皆無という
点に難点があり、史実なら「天武」は聖徳太子の例からみても偉人でありなんらかの伝
説が史料として残されていなければならず、この点から通説にはなりにくい。
<古人大兄皇子説>
古代の大王継承権として血縁の濃さが第一条件に挙げられており父子相続、兄弟相続
を常としたが6~7世紀に「大兄制」と呼ぶ長子相続思想が成立し、有力父母の長男を
大兄(おおえ)という尊称をつけたとされており、「舒明」の第一皇子は蘇我蝦夷の妹
を母とする古人大兄である。乙巳のクーデターが無ければすんなり大王になれたはずが
大化元年に謀反で中大兄に討伐されたとある。しかし日本書紀では重要な場面に顔を出
し「皇極」から譲位されようとした時の行動が大海人皇子と全く同一パターンで仏道修
行に吉野に隠遁するとして辞退した。そして 8 年後に大海人皇子が日本書紀に登場し、
天智即位時には古人大兄の娘・倭姫王(やまとひめのおおきみ)が皇后となり、
「天智」
の譲位申出に倭姫王の称制を勧めて自分は辞退したとある、更に壬申の乱で多くの蘇我
系豪族が近江朝に造反し大海人方に味方した等から謎の多くを解明できるとした説で
ある。
しかし年代差が大きすぎる矛盾や大化元年に「古人大兄を討たしむ」との記載もあり
説得力に欠けるとされている。
<帰化人説>
日本書紀・天武紀から天武天皇は天文・遁甲に才能を有し、後漢の武帝に自らを擬し
たとされており思想的に異質なものが感じられることや、大化 5 年新羅が金多遂(きむ
たすい)を人質として送り込んできたとあり、高句麗王室を簒奪した泉蓋蘇文(せんが
いそぶん)が天智 7 年に唐による高句麗滅亡で帰化したとする説や白村江の敗戦で百済
の王族が多数帰化しており、この説は常識からすれば突飛すぎますが白村江の戦で唐・
新羅軍に大敗し進駐を受けた当時(663年)の状況を第二次世界大戦の敗戦で米軍の進
駐を受けた当時とみると荒唐無稽とも云えず、当時は半島の王族を尊重していた史実も
あり天武の謎が解けるとして存在感がある。しかし詳細にみると矛盾点も多く各説も推
測の域をでることが出来ない。
<通説>
日本書紀を国史として信用するも多少の潤色は已むを得ないとする説である。
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謎の要因第1,2は日本書紀が天武系の天皇により編纂された国書であり、当然「天
武」の偉業を称えるための記事が盛り込まれる筈であるが、壬申の乱前後の記事が詳細
にあるにもかかわらずそれ以前については歴史の表舞台に登場せず、特に国家の大事件
である白村江の戦や近江遷都にも姿を見せないのが謎とされる要因だが、「舒明」以降
は「近代史」であり読者が周知の事実は省略し、史実以外の作り話の挿入は難しかった
ので消去法を取ったと考えれば話は合うし、天武が天智より十才以上離れた幼少の同父
母弟と考えれば謎は解ける。
謎の要因第3は国の歴史書の作成は時の覇権者が前史を作成するのが常で中国史書
に見られる現象と同じと考えれば何の不思議もない。
謎の要因第4は「天智」は皇女には恵まれて十人以上にもなるが皇子は四人で建皇子
は夭折し、大友、川島、志貴皇子は 3 人共に母が地方豪族の娘か采女だったため大王継
承者としてのランクが低く、当初は年の離れた弟・大海人に期待をかけたが、大友皇子
が成長するにつれその才能を発揮するようになったのと最高の参謀・鎌足を失い天智も
判断を誤ったと考えると謎が解ける。
謎の要因第5は 668 年の高句麗滅亡で唐の半島攻略も一段落し、高宗も没し権力は武
則天が握り内政に目を向けたため、それまで従属していた新羅が唐から独立しようとし
てある程度成功している実状を知り、天武は進駐軍である唐から離れても新羅からの情
報で制度改革していけると読んで遣唐使を大宝年間まで中止したと観れば謎は解ける。
謎の要因第6は天武系に適当な皇位継承者が居なくて天智系の白壁王が光仁天皇と
してたまたま即位したのを好機と捉えたのが山部王・白壁王の第一皇子で母は百済系の
ため皇位継承権の望み無く官僚として才能を発揮していたが、当時専政権を得ようと策
謀していた藤原式家と組んで天武系の皇后・井上内親王と皇太子・他戸親王(おさべし
んのう)を無実の罪で追放し、自分が皇太子に登り豪腕を振るったのは中大兄の再来か
とみられ、多くの犠牲者による怨霊に苦しめられたのは事実で天武系の排除も桓武(山
部王)の戦略と考えれば謎は解ける。
謎の要因第7は「天武」が「天智」の実弟であるなら皇位継承の原則からすれば「天
武」は大友より上位にあり簒奪意識は無かったと考えられ、壬申の乱後大友の息子を含
めて天智系の皇子女を全て皇族として処遇した事実からも編纂時の潤色と考えれば謎
は解ける。
<註>
白壁王:天智の皇子・志貴の孫にあたり藤原家の策謀で光仁天皇として即位
うののささらのこうじょ
鸕野讃良皇女:遠智娘を母とする天智天皇の皇女で天武の皇后となり持統として即位
おおえ
大兄制:継体の長子・勾大兄(安閑天皇)が最初で中大兄(天智天皇)が最後で七名が記録に
あり即位したのは三名で必ずしも大王になっていない
はくすきのえのたたかい
白 村 江 の戦 :百済国復興支援のため半島出兵し唐・新羅軍に大敗した
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遁甲:一種の星占術で後漢書に記されている
じんしんのらん
壬申の乱:天智の歿後、天武が挙兵して近江朝を打倒した戦(672)
き ん た す い
せんがいそぶん
金多遂説や泉蓋蘇文説:新羅と高句麗の王族で倭との接点があり、帰化人説に引き合い
に出される同時代に活躍した人物
「近代史」:我国の歴史書としての古事記は推古朝で終わっており、日本書紀の編纂者
にとっては舒明朝以降は近代史と考えた
高宗・武則天:唐の第 3 代皇帝が高宗でその皇后となり独裁権を握り、一時唐を廃して
周を建国した女帝
遣唐使:舒明朝から天智朝まで 7 回派遣記録あるも33年の空白後大宝年に派遣
その後菅原道真が 20 回目の遣唐使に任命されるも唐の荒廃で廃止
山部王:壬申の乱で死亡した人物は不詳、天武に味方しようとして殺された皇族
奈良末期の山部王は白壁王の皇子で母は百済系の高野新笠で藤原式家の支援
で桓武天皇として即位、長岡京・平安京に遷都した傑物
井上内親王・他戸王:聖武の皇女で光仁の皇后となり他戸親王を生み皇太子に成ってい
たが藤原式家の策謀で廃嫡され後に暗殺?
藤原式家:不比等の三男・宇合(うまかい)を祖とする藤原家で南家や北家に支配され
ていたが光仁天皇擁立で権力を握り桓武を支援した
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