エラー防止のための教育・訓練

第133回講演会(2015年11月6日,11月7日) 日本航海学会講演予稿集 3巻2号 2015年9月30日
エラー防止のための教育・訓練
正会員○國枝
正会員 鹿島
佳明(東京海洋大学) 正会員
英之(東京海洋大学) 正会員
中村
村井
直哉(航海訓練所)
康二(神戸大学)
要旨
海上保安庁によると、毎年 2,000 隻を超える海難が発生しており、2013 年に発生した海難の約 30%が衝突
海難であった。また、原因別では全体の 79%に当たる 1,829 隻が人的要因であり、見張り不十分が全体の約
21%でもっとも多く、次いで操船不適切が約 13%となっている。
筆者らが海上航行中に衝突の危険を感じた事例を分析した結果、見張り不十分などのエラーを発生させる
背後要因として「思い込み」があった。さらに 130 件の衝突海難事例を調査し、背後要因として「思い込み」
が圧倒的に多いことが判った。そこでエラーの背後要因としての「思い込み」への対策として、クリティカ
ル・シンキングを習得する教育訓練を検討した。検討した結果、ケーススタディ及びアクティブ・ラーニン
グによりクリティカル・シンキングを効果的に習得できると考えられる。検討したケーススタディ及びアク
ティブ・ラーニングの効果的な教育・訓練方法を提案する。
キーワード:教育・訓練、ヒューマンエラー、背後要因、思い込み、クリティカル・シンキング
1.はじめに
海上保安庁のまとめによると、2013 年に発生した
海難は 2,036 隻で、過去 10 年間では 2 番目に少ない
B
数となっているものの、毎年 2,000 隻を超える海難
が発生している。その中でも衝突海難が最も多く、
683 隻で全体の約 30%を占めている。原因別では全
体の約 79%に当たる 1,829 隻が人的要因である。ま
た、見張り不十分が原因とされる事例は約 21%の
豊後水道
485 隻で最も多く、次いで操船不適切が約 13%の 309
A
隻であった(1)。
筆者らが海上航行中に衝突の危険を感じた事例
を分析すると、見張り不十分などのエラーを発生さ
せる背後要因として「思い込み」が関わっているこ
とが判った。そこで、日本近海で発生した衝突海難
図1
衝突の危険を感じた事例
事例を調査した結果、約半数に「思い込み」が関連
していた。
直した直後においては、本船の後方から本船より速
筆者らは「思い込み」の対策としてクリティカ
力の速い船舶が明らかに右舷側を追越す態勢で接近
ル・シンキングの習得が有効であると考え、ケース
していた(図 1:A)。当直航海士は、当該他船は右
スタディ及びアクティブ・ラーニングの効果的な教
舷側を追越すものと考え、その後十分な注意を払っ
育・訓練方法を検討したので報告する。
ていなかった。豊後水道を航過し、別府港へ向けて
左転しようと左舷側を確認したところ、右舷側を追
2.衝突の危険を感じた事例
越すと思っていた船舶が左舷側を追越していること
2.1
に気づき、左転を止めた(図 1:B)
。
追越し関係
豊後水道を北上し、左転して別府方面に向かおう
本事例は継続的な見張りが実施されておらず、見
としたときに追越し船と衝突の危険を感じた事例で
張り不十分であったといえる。当直航海士は当初追
ある(図 1)
。
越し船が本船の右舷側を追越す態勢であったことを
別府港に向けて航行中、当直航海士が 08 時に入
確認したが、「追越し船は右舷側を追越す」という
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「思い込み」ににより、その後継続的な見張りをし
すると思い込んだ理由の主なものは、以下のとおり
なかったために左舷側から追越し船が接近している
である。
にもかかわらず、左転しようとした。
(1) 漁船が避航すると思い込んだ。
(2) 他の漁船が避航したので、当該相手船(漁船)
3.事故事例調査
も避航すると思い込んだ。
国土交通省運輸安全委員会(以下、「運輸安全委
(3) 小型船である相手船が避航すると思い込んだ。
員会」)が公表している事故事例の中から、2000 年 1
(4) 航路に沿った針路又は航路に向けた針路に変針
月から 2014 年 12 月までの 15 年間で発生した衝突事
すると思い込んだ。
故海難について調査した。
(5) 第 3 船を避航したため、新たに衝突の恐れが生
日本沿岸の事故から無作為に 130 件の船舶同士の
じたが、保持船である相手船が避航してくれると
衝突事故を抽出し、運輸安全委員会が公表している
思い込んだ。
事故原因について調べた。
3.1
(6) 相手船が避航すると思い込んだ。(特に理由な
調査結果
し)
調査した衝突事故原因は図 2 に示すとおりである。
最も多い事例は、保持船である相手船が漁船の場
合で、たとえ保持船であっても漁船が避航すると思
い込んでいる例である。また、小型船が避航すると
思い込んでいる例が数例あった。特徴的な例として
は、相手船が航路に沿った針路に変針する、あるい
は航路に向けて変針すると思い込んでいる事例が 3
件あった。
4.エラーの背後要因への対策
エラーの背後要因として、最も多いと考えられる
「思い込み」を無くすことは不可能であろうと思わ
れる。ただ、事故防止の有効な対策として考えられ
るのは、エラーの背後要因が事故に繋がる前に当事
者に気づかせることである。エラーに結びつく「思
い込み」が発生しても、気づかせてそれを修正し、
図2
事故に結びつかないようにする。当事者に気づかせ
衝突海難の原因別分類
る工夫が事故防止の対策として重要であると考える。
見張り不十分が圧倒的に多く、全体の約 53%にあ
「思い込み」は自己中心的思考によってもたらさ
たる 69 件であった。操船不適切、居眠り、ルール違
れると考えられるが、その対極にあるのが、合理的
反と続く。さらに、これらの背後要因を調べると、
思考又は批判的思考と呼ばれるクリティカル・シン
「思い込み」によるものが約 46%にあたる 60 件あ
キングである。
思考作業を合理的に行うためのクリティカル・シ
った。
ンキングのために、以下のことに留意する必要があ
本船が海上衝突予防法における保持船にあたる場
合は、避航船である相手船が本船を避けると「思う」
るとされている(2)。
ことは当然である。しかし、本船が避航船にあたる
(1) 思考の広さ。思い込みに陥らないためには、物
場合の「思い込み」による事故事例は 35 件あり、こ
事を多面的に見ること、自分の視点を相対化する
の中で保持船である相手船が避航するとの「思い込
ことが必要である。
み」は 26 件あった。その他の 9 件については、
「船
(2) 今、どんな感情か明らかにする。非合理的な感
首をかわると思った」
、「船尾をかわると思った」と
情の裏には非理性的な思考がある。感情を理性に
の記載はあるが、なぜそう思ったのか特段の理由の
従わせる必要がある。
(3) 思考の深さ。本質まで届いているか、問題に対
記載はなく不明である。
して注意深く観察し、じっくり考えようとする態
本船が避航船であり、保持船である相手船が避航
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度が必要である。
げる内容としては、「思い込み」に陥った過去の事例
(4) 決めつけ思考に対する注意。絶対、当然、決ま
を対象として実施すれば臨場感も加わり、効果的で
っている、あり得ない、などの決めつけに対する
あると考える。
注意が必要である。
例えば、2 章で示した豊後水道における追越し船
(5) 論理性。非理性的思考を理性的思考に変える必
の事例では、以下の内容について少人数で議論する
要がある。
ことによってクリティカル・シンキングが身につく
(6) 明瞭さ。正確さ。曖昧でない。
と考える。
(7) 的確さ。真実かどうか。
(1) 事実と推測を明らかにし、推測を何故事実と思
(8) 公平さ。否定的事例を見落とさない。
っていたか?すなわち、「右舷追越し」は推測で
(9) 妥当性。解決しようとする問題の答えは適切か。
あり、何故そのように考えたのか?「右舷追越し」
(10) 発見した理性的思考を自分に向かって発信し
を事実と思い込まないためには、何が必要だった
実行する。
のか?
2 章で示した豊後水道における追越し船の事例で
(2) 問いを立てる。何故継続的な見張りを怠ったの
上記の留意事項を検討してみる。まず、(1)思考の広
か?RADAR などの計器は使用しなかったのか?
さでは、当直航海士は「後方から追越し船が接近し
(3) 変針までの相当な時間で気づくチャンスはあっ
ており、右舷側を追越す態勢である。」という最初の
たか?どうすれば気づいたか?何によって気づ
一場面で「右舷追越し」と判断し、それが「思い込
くことができたか?
み」となっている。継続的に観測することで、その
(4) 他のことに意識が集中していたことが考えられ
後の異なる場面で他船を見て状況を把握することを
るが、常に安全を確保するにはどうすれよいの
怠っている。(2)感情の観点では、当直航海士は、お
か?
そらく別府港へ向けての変針のこと、さらにはその
(5) チーム機能は活かせたか?コミュニケーション
先の別府入港に意識が集中していたため、現状の他
としての通信は使用できたか?
船との関係に対して十分に思考が向いていなかった
クリティカル・シンキングの習得にディベートの
ものと考えられる。(3)思考の深さという点において
活用を提案している例(3)があるが、我々が取扱う
も、追越し船の行動を瞬時に判断し、以後深く考え
事例では意見の対立をさせる必要はないので、ディ
ていないために、状況の変化を的確に捉えられてい
スカッションが良い。ディスカッションは、様々な
ない。さらに、(4)決めつけ思考に対する注意は払わ
角度から意見を述べることができ、思考の広さ、深
れておらず、最初の見張りで「右舷追越し」と決め
さを求めることもできるので、議論をする中でクリ
つけている。 このように本事例は、クリティカル・
ティカル・シンキングが育まれると考える。
シンキングに必要な留意点の多くが欠けていたこと
5.2
が判る。
アクティブ・ラーニング
中央教育審議会の報告書(2012 年 8 月)には、学
5.教育・訓練による対策
生が主体的に問題を発見し解を見いだしていく能動
「思い込み」からの脱却法として、クリティカル・
的学修(アクティブ・ラーニング)への転換が必要
シンキングを身につける必要があり、そのためには
であると、記載されている。また、文部科学省はア
教育・訓練が重要である。
「思い込み」を防ぎ、又は
クティブ・ラーニングを次のように定義している。
「思い込み」に気づくためのクリティカル・シンキ
「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、
ングの習得を目的とし、航海当直及び操船技術の習
学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・
得と関連させた教育・訓練の方法を検討した。
学習法の総称。学修者が能動的に学修することによ
って、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、
5.1
ケーススタディ
経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、
船長や航海士が過去に経験した事例や、経験から
問題解決学習、体験学習、
調査学習等が含まれるが、
想定される事例を教育・訓練の内容とし、事故原因
教室内でのグループ・ディスカッション、ディベー
や事故防止に関連した議論を行うケーススタディは
ト、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラー
効果があると考える。ケーススタディとして取り上
ニングの方法である(4)。」これは、思考を活性化さ
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せる学習形態と言え、クリティカル・シンキングの
には背後要因として「思い込み」があることが判っ
習得に適していると考える。
た。そこで、
「思い込み」防止の対策として有効であ
るとされているクリティカル・シンキングを身につ
アクティブ・ラーニングを実施する上で非常に良
い教育プログラムとして、
「揚投錨操船訓練」がある。 けるための教育・訓練について検討した。検討した
航海状態から指定された錨地に投錨する
「投錨訓練」
結果、ケーススタディとアクティブ・ラーニングの
では、事前に船長役の学習者が図 3 に示すように、
導入によりクリティカル・シンキングの習得が可能
海図を利用して計画を立案する。具体的には①指定
と考えられる。
された錨地及び周辺の調査、②針路の決定、③船首
ケーススタディでは、実際に経験した事例を題材
目標の決定、④本船の基準に沿った速力逓減計画の
とすることにより臨場感を増し、少人数での議論を
作成、⑤正横方向目標の決定、⑥予備目標の決定、
行うことで、クリティカル・シンキングを身につけ
⑦航海計器の活用案、などを計画するとともに、チ
られると考える。
ームとして作業をする三等航海士役及び操舵手役の
また、アクティブ・ラーニングでは、与えられた
学習者と事前の打ち合わせを行う。作成した計画は
目的を達成するために学習者が主体的に考えること
船長などの熟練者のチェックを受け、助言を受ける
から、クリティカル・シンキングを習得できると考
とともに、必要な修正を行う。
えられる。
今後、クリティカル・シンキング習得の評価方法
について検討するとともに、提案した教育・訓練の
検証を行うこととしたい。
7.参考文献
(1) 海上保安庁監修:海上保安レポート 2014
(2) 鈴木敏昭:思い込みの心理学,ナカニシヤ出版,
pp.175-177,2009.12.
(3) 鈴木健・大井恭子・竹前文夫編:クリティカル・
シンキングと教育,pp.137-163,世界思想社,
2006.11.
(4) 文部科学省:新たな未来を築くための大学教育
図3
の質の転換に向けて~生涯学び続け、主体的に
投錨計画の例
考える力を育成する大学へ~(答申),中央教
育審議会,2012.8
実際の訓練では、風潮流、航行する他船や漁船の
影響を受けて計画通りとならない場合が多いが、そ
れらに対応して安全で効率的に操船し、投錨する。
訓練終了後には、自己評価を行うとともに、船長な
どの熟練者から評価を含めたデブリーフィングを受
ける。
一連の訓練の中で、学習者は計画、計画の修正、
実行、自己評価及び熟練者からの助言と評価により
操船に関わる知識・技術を習得することができる。
さらに、
幅広く、
深い思考を求められることとなり、
クリティカル・シンキングの習得に適していると考
える。
6.まとめ
衝突海難の原因としては、見張り不十分や操船不
適切などが指摘されているが、さらのそれらの原因
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