「人はなぜすすんで救命衣を着ないのか?」 ~安全行動を促すための心理学の活用とその実践~ 神戸運輸監理部 海上安全環境部 調整官 筒井 宣利 私はかつて船員労務官、運航労務監理官、外国船舶監督官、船員労働環境・海技資格課 長の職を勤め、船内の労働環境がより安全になるよう励んできたつもりです。 昨年 4 月より直接現場に出向くことのない立場になったので、海上労働安全に係る自主的 な研究ができるようになりました。ここ最近行っている安全行動への心理学の活用と、そ の成果を活かした講演活動について述べることで、船内の安全衛生活動に寄与できればと 思い寄稿する次第です。 私の勤める神戸運輸監理部は、海事部門を地方運輸局機能と同等とした兵庫県 1 県を管 轄する全国でただ一つの組織です。管内には、(かつては)世界に冠たる神戸港、船舶通航 量日本一の明石海峡と、豊かな漁場を持つ大阪湾・瀬戸内海・日本海があります。 管内では小型漁船の海中転落事故が、漁船員の高齢化の進展や彼らの救命衣着用率の低さ などから続発しています。兵庫県漁業協同組合連合会は、重大事故再発防止のため、平成 22 年から救命衣着用促進を主な課題とする「命を守る運動」を開始し、今年で 6 年目にな りました。当運輸監理部は、救命衣の着用促進、重大事故防止の観点から、全県下で海上 保安部とともに、小型漁船の乗り組み員向けの講演活動を大いに援助・協力をしています。 私どもの行う講演は、救命衣にかかる法令説明、救命衣の必要性・種類と保守点検方法、 海中転落救助訓練、SOLAS 条約に定められているサバイバル技術まで幅広いなかみです。 パワーポイントを駆使し、視覚的に分かりやすく工夫したプレゼンテーションや、救命衣 ファッションショーなど、細かな演出をしていたので、受講者への研修効果は高いと自負 していました。 「命を守る運動」を始め、講演会や訓練を精力的に行ったものの、小型漁船員さんの救 命衣不着用・海中転落死亡事故が相変わらず続き、講演会の受講直後に事故を起こした例 もありました。私自身力不足を感じ無力感に苛まれ、ずいぶんと落ち込みました。 私は受講者の行動を変えるまでには至っていないと思い、効果的に安全行動を促すこと ができるように違うアプローチを探ることとし、講演内容を抜本的に見直すこととしまし た。さりとて職場にある教育資材は古いものが多く、長期間、手が止まり困り果てていま した。 しかし答えは、意外と身近なところにありました。リビングに放置してあった愚女の教 科書を何気なく目にしたところ、目から鱗がおちるとはこのこと、次なる講演企画の端緒 を確実につかみました。それは「心理学」です。 一般的に、人間は意識して間違いを犯そうとして行動はしないということが第一の発見 です。人の行動には目的があり、合目的的に動くものです。 その一方で、ヒューマンエラーによる事故が後を絶ちません。そこには脳の生理上の問 題、認知や学習・習慣化のメカニズムが関係しているのでは、と気づきました。 脳は体重の 2%の重さしかないのに 20%のエネルギーを消費するまったく効率の悪い臓 器です。受験勉強の時などを思い出しますと、脳を酷使すれば甘いものが欲しくなったり します。これは、脳を使うと大量のエネルギーを消費するからなのです。そして脳は、な るべくエネルギー消費を避けるようプログラミングされています。それは、今までに学習・ 経験したことを即座に取り出す「直感システム」と、考え出した答えを、再考するのにも 大きなエネルギーがいることから、新たな考えを生み出そうとしない「思い込みシステム」 で、直感的に認知し、あまり深く考えて行動しないということが安全行動阻害の遠因では ないかと分かりました。 新たに構成した講演では、冒頭に「直感」「思い込み」を実体験してもらうため、次のよ うなクイズをしています。しゃべるといい感じに説明できるのですが、文章化すると少し 伝わりにくくなっています。辛抱して、最後までお読みいただければ幸いです。 <クイズ> 「この親子にいったい何があったのでしょうか?」 最高気温が記録された真夏の昼下がり、荷物を満載した荷車が急な坂道を登ろうとして いました。前後に一人ずつ人がいます。前で引くのは中年、後ろで押している青年でした。 前の人はパンチパーマにねじり鉢巻き、ダボシャツにステテコ姿に腹巻き、足下は地下 足袋で、くわえタバコから見える歯は長年の喫煙のせいでしょうか真っ黄色、無精ひげも 生えて、少し薄くなった額からは汗がしたたり落ちていました。 この人と話をしました。 私: 「暑いのに大変ですね。 」 すると中年の人は野太い声で「後ろにいる息子が、急に引っ越しをするというもんだか ら、こんな事になっちゃった。 」さらに「よく勉強できて、親孝行な息子だから、手伝わん とね。 」とだみ声で応えてくれました。 後ろで押す青年は、いわゆるロン毛で、上はTシャツに下はスポーツ用のジャージ姿、 足下は最新のナイキのスニーカーで、イケメンで大学生くらいでしょうか、彼も大汗をか いて荷車を押していました。 青年にも「暑いのに大変ですね」と声をかけました。 すると青年はさわやかな声で「ありがとうございます。 」と応えました。 私が「前のお父さんが、賢くて親孝行の良い息子さんだと褒めてましたよ。 」と言ったと ころ、青年は「えっ~~!」と語気も荒く、続けて「父親と思ったことは一度もありませ ん。あんなの父親じゃないですよ。 」さらに怒鳴るように言い返してきました。 ここまでの会話のうち、誰一人として嘘をついていません。 さて、この親子にいったい何があったのでしょうか? といったクイズです。 講演会の参加者に聞くと、 「親子げんかをしている」というのが一般的な回答です。「婚外 子」だの思いもよらない珍回答も出てきますが、さてその答えは? ヒントは「思い込み」です。答えは、文末に記しておきます。 新たに構成した講演では、 「人はなぜすすんで救命衣を着ないのか?」を中心課題に、そ の心理構造と安全行動促進のための心理学の活用をテーマとしました。 最初に、心理学の世界では古典のジャンルに分類される B.F.スキナーの「行動分析学」 を説明します。学習や習慣化のメカニズムを説明した古い学問ですが、活用できます。当 たり前のことを、心のメカニズムを説明しています。 彼の「オペラント行動の法則」は、人間はその行動の結果、直後に有益な形(好子)で 現れたり、不利・不快な状況(嫌子)が改善された場合に、行動の強化(定着・習慣化) がみられるというものです。 反対に、直後に不利・不快な状況(嫌子)が現れたり、有益な形(好子)がなくなった 場合に、行動の弱化(定着・習慣化のしにくさ)がみられるというものです。 「好子・嫌子」と「出現・消失」の組み合わせにより、次図のように暗い時は電灯をつけ るという行動が強化され、習慣化していきます。反対に電灯のスイッチを消し忘れやすい のは、行動者本人にとって不利・不快な状況が現れ、習慣化しにくいというものです。 オペラント行動の法則~行動随伴性~ 直 前 行 動 直 後 明るくて よく 見える 失 ★好子の出現の強化=行動の直後に好子が出現 すると、その行動は将来くり返される。 →暗いときは必ずスイッチを入れる。 好 子(こうし) 嫌 子(けんし) 好子出現 の強化 行動 消 好子(こうし)の出現 オペラント行動の法則~行動随伴性~ 現 電気の スイッチを 入れる → 出 暗くて 何も見 えない → 好子消失 の弱化 嫌子出現 の弱化 嫌子消失 の強化 この法則からみると、救命衣着用という行動は、着用行動の直後に「暑い」 「動きにくい」 や「引っかかる」といった『嫌子』が発生するため、着用行動をするという習慣が形成さ れにくくなります。 一方、日常で変化のない「生きている」ということは人間にとっては『好子』に間違い ないのですが、その実感には気づきにくいものです。 この「オペラント行動の法則」から、いくら私たち公務員が法令を説明しても、着用行 動は自発的・積極的に起こりにくいことを説明します。 また、罰則をちらつかせて無理矢理着させようとしても、心理上は受け入れられないこ とも分かりました。 上から目線の命令は、自由への侵害の反発を意味する「カリギュラ効果(自己効力感の 喪失と復元) 」によって、さらに「着ない」態度をとり意固地にさせることとなります。 この「カリギュラ効果」は、日常よく経験します。商店街の壁に穴がちょうど目の高さ に空いていて、そのそばに「この穴のぞくな」と張り紙が貼ってあります。そんな時、私 たちは何かしら興味を引いたり、覗きたくなったりします。 私自身、さぁ風呂掃除をしようと立ち上がったところ、家人から「早く掃除をしなさい」 といわれると、急にやる気が起こらなくなったりします。 「カリギュラ効果」は、人間のストレス回避の仕組みです。自分で決めて自分の意思で 行動する事は人間にとって、一番ストレスを感じない状態です。 前述の風呂掃除の場合、自分の意思で掃除をしようと思っていたのに、一転命令でさせ られるとことは、他人の介入によりその自由が侵害されストレスが増します。ストレスを 回避し自由を取り戻すため、介入された内容(掃除をする)と相反する行動(掃除をしな い)を選択し、ストレスを回避します。このことを「自己効力感の回復(心理的リアクタ ンス) 」のメカニズムといいます。 何かをしたいと思っていたのに、命令や指摘をされるとしたくなくなるという気持ちは、 このようなこころの仕組みで起こっているのです。 次に、B.F.スキナーの動物実験の紹介をして、行動選択のきっかけについて話します。 その実験とは、T字路を三つ用意し、Tの字の両耳部分の一番奥にチーズと電気ショッ クを設置し、三匹のネズミをTの字の下側におきます。チーズは前述の「好子」であり、 電気ショックは「嫌子」となります。 一つ目のパターンは、左にチーズ、右に電気ショックを設置します。 二つ目のパターンは、左にチーズ、右には何も置きません。 三つ目のパターンは、左には何も置かず、右に電気ショックを設置します。 ネズミをTの字の下側におき、常に左側に行かせるには、どのパターンが一番効果的で あったかというものです。 講演でこの質問をすると、参加者が一番効果的だとの答えたのが、一つ目のパターンで す。教育や躾けの「アメとムチ」は、日本人の常識なのでしょう。しかし、実験結果は違 うものとなっています。 一つ目のパターンネズミは、チーズは食べたし電気ショックは怖し、といったジレンマ 状態になり、挙げ句の果てにストレス性胃潰瘍になってしまったのだそうです。 三つ目のパターンのネズミは、そのうち全くT字路には興味を示さなくなり、行動すら しなかったそうです。因みに、とある官庁で行った講演では、三つ目のパターンが一番効 果的と答えました。日本の公務員の働き方や、評価のされ方が如実に表れていて興味深い ものとなりました。 一番学習効果の高かったのは、二つ目のパターンでした。望ましくない行動をした場合 でも罰などの嫌子を与えない事が望ましい行動を促せる結果となりました。 この実験を通じて B.F.スキナーは、 「好子」コントロールが望ましいと説いています。罰 則や介入の「嫌子」によるコントロールはそもそも手間とコストがかかるし、新たな「嫌 子」を導入し続ける必要があり不経済だと断じています。褒賞を与えるなどの「好子」に よる統制が、効果的で効率的であり、「アメとムチ」ならぬ「アメと無視」が好ましいと言 っているのです。 望む行動への導きは、与えた命題に対する行動が成功したら、何らかの報酬を与える事 が効果的ですが、物や金銭を与え続けると、 「望む行動」から「金銭授受」へと目的が移行 する傾向があります。報酬は、安易に与えない方が良く、「好子」は常時ではなく時々与え た方がいいという説もあり、物や金銭にこだわらない「声がけ」も有効(後述、マズロー の法則)であるとの説もあります。 反対に望む行動ができなかったら、その原因を調査し対策を講じることはもちろんです が、ことさら個人の責任を追及し罰したり、過度の反省行動を求めることは、行動への積 極性を摘む事になりかねません。 「無視」することがスキナーは効果的だと言っています。 多くの組織の原則は「信賞必罰」ですので、こと安全行動に関しては少しやり方を変える 必要があるのではないでしょうか。 講演の終盤では、これまでの研究の成果から、心理的影響を考慮した救命衣着用行動促 進のため、次の 2 点を講演で強調しています。 当たり前で古いと思われるかもしれませんが、改めて実践をすることが有用です。 第一点は、救命衣を着ることの「好子(不着用による嫌子) 」を体験・学習する「入水訓 練」です。 救命衣を着用せず入水すると、溺れて苦しい目にあいます。一方、着用して入水すると 浮揚するので呼吸ができ、苦しむことはありません。その差を体験することにより、溺れ る、息ができないという「嫌子」を明確に獲得できます。 EX.救命胴衣着用の促進のために 直 前 → 苦しくない 体験 苦しくない 行 動 救命衣を 着ずに 入水する 救命衣を 着て 入水する → 直 EX.救命胴衣着用の促進のために 後 直 溺れて 苦しい 浮いて いる 苦しくない ★入水行動の際、救命衣着用の有無で「嫌子」 が明確になる。 体験 前 → 救命衣の 大切さが 分からない 行 動 救命衣を 着て 入水体験 をする → 直 後 救命衣の 大切さが 分かる ★生存という「好子」を認識することによって、救 命衣を着ることの契機が獲得できる。 「入水訓練」には「落水者救助訓練」を加味し、仲間の命をも守ることの技術を学ぶこ とができます。さらにより深く「生きる」事を好子として理解するため、海中転落事故の 遺族の声や救命衣を着用したことによって生還できた人の話を聞くことなどは効果的と思 われます。 二点目は、心理学者のエイブラハム・マズローの「人間の 5 段階欲求説」です。 次図のように、人間には 5 段階あり、下部の欲求が満足されれば上部の欲求を満足させ るために行動したり、その環境を求めるとい うものです。そのうち、安全行動促進の方法 として、有効と思われるものは「なかまとし て認め、褒める」 (社会的欲求・尊厳欲求の充 マズローの法則(エイブラハム・マズロー) 自分の能力を引き出し 創造的活動がしたい。 他者から認められたい。 尊敬されたい。 足)の活用です。 救命衣を着用している人を「弱虫」とか「変 わり者」という目で見るのではなく、 「命を大 切にする人」 「安全を率先している人」と認め 集団に属する。 仲間を求める。 雨風をしのぐ家 健康 食べたい 寝たい この段階で、内発型モ チベーションが生まれ る可能性が高まります るだけでいいのです。 表彰など大げさに褒めるという事はしなくても「今日も安全に気を使ってるね」 「格好い いね。 」という声がけだけでも効果があると思われます。露骨過ぎると逆効果になりまねま せんが、さりげなく話すことが必要です。 みなさんは最近はやりの Facebook ご存じでしょう。 スマホなどで、近況を書き込むと、友人は「読んだよ」という意思表示のため「いいね!」 というボタンを押すようになっています。その数や反応をみて楽しむもので、ネット上で の繋がりが確認できます。Facebook などの SNS は、人間の社会的欲求や尊厳欲求を満た す現代的なツールで、私自身も利用して社会的欲求を充足させています。今の若者には必 須のもので、今後、海上におけるネットワークの確保、電波環境を充実させていくことが、 若者にとって最低限の生活環境ではないかと思います。 救命衣着用行動をしたことにより、仲間が「いいね!」や「認める」 「声をかける」とい った行動で、社会的欲求・尊厳欲求を満たし、行動する本人にとって「好子」として認識 され、救命衣着用習慣の端緒になるものと考えます。 これらの考えを盛り込んだ、安全行動促進のための心理学的アプローチに関する講演は、 旅客船事業者、内航・外航海運会社、地方交通審議会船員部会、他官庁でも行いました。さ らにローカルラジオでも取り上げられ、いずれも好評価を得ているのではないかと思って います。 心理学的なアプローチの有効性は明らかですが、そもそも安全行動を教える側が、その 行動の目的や方法をしっかりと獲得し、教える際には丁寧な説明で、行動者本人に契機を 獲得させないと、自発的な活動は望めないでしょうし、継続して行動を維持するやる気の 維持も難しいものとなります。いかに相手を「得心」させ「安全行動」の契機をつかませ ることが安全行動促進活動の第一歩です。私は、その点を強化してさらに講演内容の充実 を図っています。さらに、ヒューマンエラーに潜む心理的なメカニズムやその克服方法、 さらに効果的に安全行動が定着するよう、心理学を活用した具体的な方策を研究し、少し でも船内でお役に立てる講演ができればと決意を新たにしています。 最後に荷車のクイズの答えを。 前で引っ張っていたのは「母親」でした。 前の人物の説明は、パンチパーマなど「男性」思わせるようくどいほど示して、脳内に 映像が浮かぶようにして「認知のゆがみ」を誘発しました。 一度頭の中に男性の姿が浮かぶと、なかなか取り消せないようで、これが安全行動の阻害 要因となる「思い込み」のメカニズムです。 最後までのご精読ありがとうございました。 本文にお示ししたような心理学的アプローチに興味ある方は、是非お声がけ下さい。喜 んで講演させていただきます。
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