【琉球大学法文学部人間科学科紀要. 人間科学】 【Human science. Bulletin of the Faculty of Law and Letters, University of the Ryukyus, Department of Human Sciences】 Title Author(s) Citation Issue Date URL Rights 沖縄における地方の雨乞い 山里, 純一 人間科学 = Human Science(32): 55-77 2015-03 http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/123456789/31515 沖縄における地方の雨乞い 山里純一 J u n i c h iY a r n a z a t o R a i n r n a k i n gR i t u a l si nt h eRyukyus 皐魅は人間の生存を脅かす最たるものの一つである。気象学や科学技術が 発達した現代においでさえ、降雨は自然に委ねる他はないが、これを人間の 力を越えたものに頼って雨を得ょうとする行為が雨乞いである。雨乞いは地 域共同体や行政レベルで行われ、一定の儀礼を伴うが、本稿は宮古・八重山 を中心に、沖縄本島の中北部および久米島の事例も参照しながら沖縄におけ る地方の雨乞い儀礼について、概観したものである。 はじめに 雨乞いとは、人間の力を越えた存在すなわち神仏に対して「雨を降らせて 下さい」と乞い願うもので、地域共同体や行政レベルで行われる一定の儀礼 を伴った宗教行為である。年中行事の中で行われる祈願もあるが、一般的に は、長期にわたって雨が降らず人々の生活に深刻な影響が出始めた時に行わ れる臨時の共同祈願である(1)。雨乞いは日本各地で行われており、その方法 も多種多様で、地域的な差もあるが、民俗学研究所編『民俗学辞典』では、 雨乞いを①お龍もり、②雨乞踊り、③貰い水、④神を怒らす、⑤千駄焚き、 1 1 1 波照間島では、旧暦 1 1月に 2度 、 3月に l度の「アミニゲエ(アサニゲエ ) J と称 2月半ば)・「ナ する降雨祈願、「ミーガクムリィ J(12月初め)・「イシィカクムリィ J( ンガクムリィ J( 4月半ば)と称する、 3日 間 、 5日 間 、 7日間の能もり、 5月の「ア ミジワー」と称する、これまでの雨乞い儀礼に関わる感謝と来年の豊作祈願、といっ た一連の雨乞い祈願が行われる。このように年中行事の中で雨乞いを行う地域もあ るが、ここでは皐魅の時の臨時の雨乞いについて主に扱う。 FHU Ed 琉球大学法文学部紀要人間科学第 3 2号 2 0日年 3月 ⑥女の相撲と百祈洗い、の六つの形態に分類している。 高谷重夫は全国の雨乞い習俗を網羅的に情報収集および調査・研究を行い 『雨乞習俗の研究Jという大著を公刊しているが、その中で、非常に細かい 独自の分類案を提示している。しかし「沖縄の習俗は本土のものとやや様 相を異にする」と述ベペ本書では沖縄の事例については「将来の課題」と し、あまり取り上げられていない。 琉球王府主催の雨乞いについては、尚家文書や『球陽』などによって具体 的な実施状況がほぼ把握できるヘしかし沖縄の地方で行われる雨乞いにつ いては、久米島で時々、行政の要請に応じて雨乞い祈願が行われる他、雨乞 いの一場面が舞台などで再現されることはあるが、具体的な実施状況に関す る記録に乏しいのが現状である。ただ宮古・八重山の場合は、地元の研究者 や有志によって書かれた研究論文や記録の他、口頭伝承資料が豊富に残って いるへそこでこれらの資料を中心に、沖縄本島の中北部および久米島の事 例も参照しながら、沖縄における地方の雨乞い儀礼について見ていくことに したい。 1.雨乞いの諸段階 (1)四か村の雨乞い 人々の思いが神に通じて雨が降れば、雨乞いはその時点、で終了するが、自 山高谷重夫『雨乞習俗の研究j (法政大学出版会、 1 9 8 2年) 7 0 0頁 1 3 1 尚家文書「雨乞日記」など。拙稿「琉球王府の雨乞儀礼 J( U n t e r n a t i o n a lJ o u r n a l o fOkinawanS t u d i e s jV o l ふ 2 0 1 0年)を参照。 宮古島の信仰と祭杷j(第一書房、 2 0日年)に、 川}宮古の雨乞いについては、岡本恵昭の f 狩俣村・伊良部村・平良市・島尻村・多良間村の雨乞い祭事の概要が記されている。 また八重山の場合は、喜舎場永殉の『八重山古謡』上巻(沖縄タイムス社、 1 9 7 0年) と「雨乞い行事に関する覚書J ( r 八重山民俗誌J上巻、沖縄タイムス社、 1 9 7 7年) に、石垣島四か村や離島の雨乞い記述がある。中でも石垣島四か村(登野城・大川・ 石垣・新川1)と黒島の事例は詳細を極めている。 F 同U nhU 沖縄における地方の雨乞い(山里純一) 然の営みは人知を越えたところにあるから、一回、雨乞いを行ったからと いって直ちに雨が降るとは限らない。そのため効果がなければ雨が降るま JI ) で、方法を変えて繰り返し行われる。四か村(登野城・大川・石垣・新I の雨乞いは6回に及んだという。 [初回] 各御縁で祈願を行う。 [ 2回目] 「砂上げj と称す儀礼を行う。浜の白い砂を運び御様の境内に撒く。 [ 3回目} 7 歳以上の村人全員で(チィジイカジィという) i 前水持み」を行う。 ①朝、大阿母がいる美崎御獄へ行き祈願する。 ②四か村の後方にある「前山 J ( 5 1 から流れ出る水(前水)を汲みに行く。 登野城は多良間嶺のふもとのヤドゥレーに、大川と石垣はパンナーの 水元へ、新川は万世山(前勢山)のふもとにある商代ナーにそれぞれ 行き、くわずいもの葉で作った釣瓶で水を汲む(この水をウムル水と 称した)。 ③ウムル水を、登野城はクパント御獄、大川は大石垣御様、石垣は宮烏御 獄、新川は長崎御織に運ぶ。登野城村の場合、クパント御獄から、さ らに天川御綴へ運ぶ。 ④各村の近くの海岸の浅瀬に、 3本の棒を「マーダー結い J (上部を結 ぶ)して海中に立てられたものに横棒を通して、左右にウムル水を吊 . J ;. t 誌じ り下げ、スパガーニ(葛)を両手で恭しく捧げ持った女頭(女性の下 回廻る。 級役職)を先頭にその周りを 3 ⑤その後、桃林寺と権現堂を礼拝し、最後は美崎御識に集合した後、各村 1 5 1 前山とは登野城村は「多良両嶺」、大川村と石垣村は「パンナ山」、 新川析は「芳 勢岳」のことで、登野城はヤドゥレー、大川・石垣はバンナーの水元、新JII は if~ ナー へ出かけ「前水Jを汲む。 i 円 RU 琉球大学法文学部紀要人間科学第 3 2号 2 0日 年 3月 の御巌に戻る。 なお、 1 8 8 3 年(明治 1 6 ) からは「火焚き Jという方法が新たに加わるよう になった。登野城村は多良間嶺、大川村はチィカラチィキィ、石垣村はウー ソ一山(一名キーマラゲー)、新川村はスブ岳の頂上で火焚きが行われたと いうへ [ 4回目] うふ 「大シキ拝み」を行う。大シキとはウムトゥダギ(於茂登岳)から流れ出 る水をせきとめた大きな水源のことで、登野城・大川・石垣・新川・平得・ つの村が合同で行う。それぞれの村の代表は 真栄里・大浜・名蔵・崎枝の 9 大川村の辻野家に集合し、その隣の苅手川家の「イピ」の前で「大シキ拝み に行く理由 Jを祈願してから名蔵御巌へ向かう。そこで一泊(夜龍もり)し 大シキの神を遥拝する。 [ 5回目] 蔵元の全役人が桃林寺へ行き、白旗を掲げ4日間僧侶と一緒に読経をす る 。 [ 6回目] 龍宮祭を行う。 ①登野城村の天川御織の南方海岸で、四か村と真栄里村に割り当てた供物 を、平得村が作った芭蕉船に乗せて龍宮の神に届ける。 ②蔵元に集合した後、美崎御毅で三十三拝の祈願を行い、権現堂に行列を なして参詣する。 以上、 6回に及ぶ雨乞い行事は、もちろんその聞に降雨があれば中断され ることになるので、最終回まで行われることはめったにないが、 1 8 7 7 年(明 治1 0 ) の大皐魅に実施されたのを最後に行われていないというげ)。 1 6 1 m 喜舎場永淘「雨乞い行事に関する覚書J(前掲注 ( 4 ) )P . 8 8 喜舎場永殉「雨乞い行事に関する覚書 J(前掲注(4 ) )P . 8 7 。なお石垣字会では、 昭和 5 5年 ( 1 9 8 0 )8月 7日に雨乞いを行う予定で準備を進めていたが、実施前に雨 3回目]の前水汲みから宮烏御 が降ったので行事を取りやめたという。この時は [ -58- 沖縄における地方の雨乞い(山里純一) なお 3 回目・ 4 回目の雨乞い行事において、例えば前水を汲む時、大シキを拝 む時、また御獄境内における雨乞い腐りの時、また移動の際の道歌として雨 乞い歌(雨乞チィジィ)が謡われる(喜舎場永瑚『八重山古謡(上) J) 。 登野城のクパント御畿ならびにイヤナシィ御畿で、雨乞い踊りの際に謡わ れる「雨乞チィジィ」は次のようなものである。 クパントゥイニナシィ クパントゥ御織の 〈ノウリンユウンガナシ〉 イヤナシィドゥ イヤナシィ御識とは 水ヌ主 水の神を把っている 雨遠サ 雨が遠くて皐魅で ナラヌユウ 生活ができません 水遠サ 水が遠くてひでりして ナラヌユウ 何もできません 雨サアリドゥ 人聞は雨と生活は一体です スダチャリ 雨と育ちは一体です 水サアリドゥ 水と生活は一つです 育ダチャリ 生きるには水が必要です 大石垣 大石垣御裁の タルファイ タルファイ神様 ク ノ fントゥヌ クパントゥ御織の マルファイ マルファイの神様 タンデイトウドゥ どうぞ雨を降らせて下さい タルファイ マルファイ神様 ガーラトゥドゥイ 命をかけての心願です モウシィンガニ モウシィンガニ女神様よ 縁境内における雨乞い踊りまでを行うつもりであったようである(石垣稔『平民の 時代.1 (自家版、 1 9 8 6年)P . 3 4 2-3 4 6 )。 -59- 琉球大学法文学部紀要人間科学第 3 2号 2 0日 年 3月 ウチイグ雨 陰陽打組んだ大雨で タボウラル 慈しんで下さい 夫婦雨 夫婦雨をば 給ボウラル 恵んで下さい ニカヌ夜ヌ 今夜中も 明キルンケ 明けるまでも ユサル夜ヌ 夜どおし ナミルケ 降り続けて下さい ドゥルドゥルデ ドゥルドゥルと音高く 給ボラル 恵んで下さい ゾウリイゾウリィデ ゾウルゾウルと音高く 給ボラル 降らして下さい マシィマシイン 田圃の舛ごとに ンチャショウリ 満水させて下さい ノ fリン ノfリ 割り割りも アバショウリ 溢れるくらい恵んで、下さい ここに出てくるクパントゥ御様は、伝承によれば、八重山に稲種子を初め 神の屋敷跡、またイヤナシィ御援 て伝えた兄タルファイと妹マルファイの 2 は妹マルファイの、大川村の「大石垣 J (御様)は兄タルファイの墓であっ たという。クパントゥ・イヤナシィの神は登野城村にとどまらず、八重山の 大浜村、竹富村および宮古の多良間村など、他の地域の両乞い歌にも取り入 れられており、広く知られた雨の神となっている。 この後、天川御獄に移動して謡われる「雨乞チィジィ」は次のようなもの 。 である(喜舎場永瑚『八重山古謡(上) j) パイナーラヌ島カラ 南の方の七つの島から 親島ヌ上カラ 親島の上方から 〈ユパタボライシ〉 -60- 沖縄における地方の雨乞い(山里純一) 雨ヌ根ヌ黒ミキィン 雨の根が真っ黒くなっている 水ヌ根ヌ黄ルミキィン 水の根が精:黄色になってくる 黒ミヤガリクル雨 真っ黒くなってくる雨雲 黄ルミヤカリクル雨 暗黄色になってくる雨雲 パガ島ヌ上カイ わが八重山の島の上方に 石垣島ヌ中カイ 石垣島の全島の中へ 夫婦雨給ボウラル 夫婦の豪雨を恵んで下さい 打組雨タボウラル 陰陽打組んで降る大雨を恵んで下さい この歌では、パイナーラの島から真っ黒い雨雲が八重山島の上空に流れて きて夫婦雨を降らせて欲しいと祈願している。パイナーラの島は、親島すな わち南方にある雨の古里のことである。水を司る神として崇持されたマル ファイ・タルファイ二神は、南方から稲種子を八重山に伝えたとされたこと と関係がある。 4回目の「大シキ」を拝む時の「雨チィジィ」はまた異なる。 マナパンヌ大神 南蛮国の大神さま 大本ぬ大主 大本の大主さま 〈イー雨ユタボウリ〉 タンデイトゥドゥ大神 どうかお願いします大神さま ガーラトゥドゥ大主 嘆願致します大主様 水元ユ拝ムス 水元の神さまを拝みます シキ元ユ持ムス 湧水源の神さまを拝みます 五マタヌサシデ水 五筋のさし出水 七割リヌウシイディ水 七割の湧出水 マナパンとは遠い南の国を意味する南蛮のことであるヘパイナーラの島 1 8 ) マナバンの語は、八重山のアカマタ・クロマタの歌に「トウタピヌ ユタピ、マナ パンタピヌ ミタピ(唐旅の四旅、真南蛮旅の三旅」という句があり、『おもろさうし』 巻1 3r 船ゑとのおもろ御さうし」には「真南風鈴鳴りぎや真南風きらめけば唐 南蛮 貢積でみおやせJ( 7 8 0番)とある。いずれも唐の語とセットで出てくる。 -61- 琉球大学法文学部紀要人間科学第 3 2号 2 0日 年 3月 と同じように、雨の古里は南方にあると意識されていたことから南蛮国の大 神を祈願対象としたのであろう。 以上、 6回に及ぶ石垣四か村の雨乞い行事や雨乞い歌を見ると、回数を重 ねるにつれて祈願の対象も各村御援の神→シキ元(水元)の神→大シキ元 (ウムトゥダギの水元)神→南蛮国の神→仏(読経)→龍宮の神へと、身近 な御畿の神から、より遠方の、また権威のある神(仏)へと拡大されていっ たことがわかる。 ( 2)黒島の雨乞い どの地域でも両乞いが1 度 、 2 度 、 3 度と方法を変えながら繰り返し行われ るが、 6回に及ぶのは八重山では四か村と黒島のみである。喜舎場永殉の 「雨乞い行事に関する覚書」によって紹介すると次の通りである。 [初回} 娩にわたって祈願する。 司はそれぞれの御議に行き 3日3 【 2回目】 おんぼい 「御拝」といって、各戸から I 人づっ御織に出て司と共に祈願する。 [ 3回目] 2回目と同じ「御拝」を午前8時 、 1 0時、正午の3回行う。 [ 4回目] 1 6歳以上の男女が総動員され3日間行われる。各御議所属の若者1 人が向か いの海にある「神石」に木を植える「木植えの儀式」が行われる(初日の み)。この後、青年達は銅錦と太鼓を打ち鳴らしながら東筋の東方海岸にあ る「野原井戸」へ行く。そこで女の人達が司に代わって祈願をする。午後か r あも らは、村人が「雨りの浜」を起点に、太鼓と銅鐸を打ち雨乞い神歌( 雨乞 -62- 沖縄における地方の雨乞い(山里純一) J)を謡いながら北廻りする人と、南廻りする人の二手に分かれて すうま晶 海岸を廻る「潮廻りの儀式Jがあり、またこの時、各御毅前の海岸では雨乞 チイヂィ い踊りも行われる。 [ 5固目 1 島役人および村の代表等が島の 8つの御撮を廻る「 る。各御識においては御巌所属の村人とともに、 λ古参拝」が行われ 「竜王加那志」の雨乞い歌 を謡いながら祈願する。 [ 6回目 1 東筋村の山泊海岸において石垣島のウムトウダギの神を遁拝する「実装願 い」を行う。 黒島では、各御織の司による祈願→全戸から l 人づっ出て御拝 ( 1日l回) →2 度目の御拝(1日 3回)→ 1 6歳以上の男女による 1日がかりの種々の祈願 ( 3日間)→島役人参加による「八山参拝」→「大本願い j と 、 4 回固までは 段階的に参加者や祈願方法を広げて行き、最終の6 回目は石垣島ウムトゥダ ギ遥拝で終えるという構造になっている。 ところで四か村の雨乞いで行われる、 「マーダー結ぃ J (上部を結ぶ)し て海中に立てられた 3 本の棒に横棒を通して、左右にウムル水を吊り下げ、 その周囲を 3 回廻るという儀礼も珍しいが、黒鳥の雨乞いで特異なのは「野 原井戸」拝みと、 すうま.e. 「木植えの儀式jおよび「潮廻りの儀式」である。そのう ち「野原井戸」については、昔、野原メークという人が南の島からやって来 た雨の神をもてなしたところ、野原メークの畑だけはひでりの時でも雨が降 り豊作となったことから、村人も野原メークの家の側に井戸を拝むように なったという伝承がある。 -63- 琉球大学法文学部紀要人間科学第 3 2号 2 0 1 5年 3月 ( 3)多良間島の雨乞い 宮古諸島の多良間島でも、最終のテインガナスウガンまで数えると 6 回に 及ぶ雨乞い祈願が行われたようであるヘ 【初回 1 御綴・神社、またそこに至る道路を清掃し、浜の白砂を撒く(シュクミツ ショウズ)。 翌日、各戸から 1 人づっ御様・神社に行き、司を中心に祈願する。雨が降 るとされる壬発戊己の日が来る度に祈願を 2、3回繰り返す。 [ 2回目] シユクミツショウズをして、神社・御様の他、共向井戸にてウミパイ(正 座して合掌し両手を地につけ拝し、立って合掌しさらに座って拝すことを 3 回繰り返す)を 3日間行う。 [ 3回目 1 3日間休んだ後、シュクミツショウズをして、 3日間、神社・御獄・井戸で 朝晩、雨乞いニイリを謡い祈願する。 [ 4回目 1 3日休んだ後、 3目と同じニイリを謡う祈願を行う。 [ 5回目] 全員で l 個所から順次、ニィリを謡いながら御様・神社を廻る。 [ 6回目] 最終の雨乞いとして、綱曳きやテインガナスウガンを行う。 回目 -5 回目の各段階でニイリが唱えられるが、そのニイリには このうち 3 3 種ある。 [その日 1 . ウヤグミシヤアレーマイ 余り怖れ多い事であるが 剛垣花良香「多良間島雑記J( r 南島』第 3輯 ) 。 -64- 沖縄における地方の雨乞い(山里純一) 〈アミユタボーリ〉 ウウキウトラシャレマイ 2 . ヤグミシャンスラダナ ウトラシャンスラダナ 3 . ウングスクンワーラマイ ウプウタキンワーラマイ 4 . ウプツカシャウガンドー カラヌヌスガナスドー 5 . キユヌピヌシュルーヤ ウヤキピヌシュルーヤ 6 . スマヤミナシュルイ フンヤミナシュルイ 7 . ナミテイカミウイショー ウデイツキウガンショー 8 . ヤーラキアミヌツメンドゥ 〈雨を賜へ〉以下略す 申し上げる事は怖れ多い事であるが 怖れ多い事も知らずに やむにやまれぬお願の為に申し上げます 運城のお綴にゐらっしゃる 大御毅に居らっしゃる ウプツカシャウガンで居らしゃいますぞ 島全体の生命の主で居らっしゃいますぞ 今日の日の揃えは うやき日(吉日)の揃えは 島民は皆揃って 村人皆揃って 皆合掌してゐるのは 腕をつけて(地にひれ伏して)持むのは 和やかな雨の故に トゥドゥカアミヌプシャンドゥ 静かな雨の欲しさに 9 . スサイイスゥガクトゥユパ 申し上げる事をぱ ウミウキユガクトゥユパ 1 0 . テインニトゥシワーリトイ ナカピトゥシワーリトイ 御耳に入れるという事までも 天に御通しなさいまして ナカピ御通しなさいまして 1 1.キユヌピスンウワチュイ 今日の日に於いて ウヤキピスンウワチュイ うやき日に於いて 1 2 . シゥクヤイキナリケ ウチャギドゥルタッケ 底は池になるまで 小高い所は泥になるまで 1 3 . ヤーラキナアミユウルシー 和やかな雨を降らして トゥドゥカアミユウルシー 1 4 . ユナウラシタボウリ 静かな雨を降らして 世直し給へ -65- 琉球大学法文学部紀要人間科学第 3 2号 ユアムラシタボウリ 2 0 1 5年 3月 世盛らし給へ )は[その 1 )の5-8 番の歌詞が、 [その2 「今日三日になるまで皆で合掌して祈 願しているが、お受けとりになりませんか」と置き換えられている。 [ 3回 目]の雨乞いでは、 3日間のうち、初日と 2日日は[その日のニイリを謡い、 3日目)は[その 2 )を謡う。 最後の 1日 ( [ 4回目 1 [ 5回目]の雨乞いの時謡われるのが[その 3 )のニイリで、前半 部分が次のような内容の歌詞に置き換えられる。 1.ユヌクイドゥアラパン ユヌツブドウアラパン 2 . マタニグイウミウキ ユフニグイウミウキ 3 . ナウフヮタティウミウキ ウムラタテイウミウキ 4 . ウングスクワラマイ ウプウタキワラマイ 同じ声(お願い)ではあっても 同じ祈願であっても またお願い申し上げましょう また根声(祈願)を申し上げます 御神名を唱えて申し上げます ウムラ(神名)を唱えて申し上げます 運城御嫌に居なさいます 大御獄に鎮ります 5 . ウプツカシャウエガンド一 大司で居らっしゃいますぞ カラヌヌスガナスドー 6 . ウリブドウヌカンヌ ウリプドゥヌシヅヌ 7 . タスキダナワイムシ マゥファダナワイムシ 8 . パイダイラワーラマイ パイフウグワーラマイ 9 . ナカピノ Tャクシャド トウノ〈ントゥラルジャド 1 0 . ウリプドクヌカンヌ ウリブドウヌシヅヌ 全村民の生命の主でゐらっしゃるぞ それ程の神様が これ程のシヅ(霊戚)が お助けにならないはずがない 守って下さらないはずがない 中天より少し南に居なさる 南の雲上に居なさる ナカビパャクシャ(神名)ぞ トウパントゥラルジャ(神名)ぞ これ程の神が これ程のシヅ(霊威)が 66- 沖縄における地方の雨乞い(山里純一) 1 1 . タスキダナワイムシ お助けにならないはずがない ウファダナワイムシ 守って下さらないはずがない ニイリを唱える時は、正座して神に向かい、長老が音頭をとり若者はその 後から繰り返す。また前掲ニイリ 1 0番の「ティンニトゥシワーリトイ」とい う箇所は立って唱え、司は神前に用意してあった桶の水を木の枝に浸して参 集人の頭上にはね雨の意を表した。 I 天に御通し」の詞を唱える時に起立 するというのは天の神に対する崇敬の表れである。なお[その 3 )のニィリで も、雨の神は甫の島の雲の上に居るという考えが示されるが、これが八重山 でいうパイナーラとは必ずしも同じ概念であるとは言えない。実は多良間島 には雨乞い由来語がある。ウベーガラユヌスという人が石垣島へ行き、メー ラパイという人に自分の娘を与えることを口実に雨乞いのニイリを教えても らう。そして二人は多良間島に向かうが、ユヌスは娘を樟(桶)に隠し、 メーラパイに娘が留守中に行方不明になってしまったことを告げる。怒った メーラパイは捨て台詞を残して石垣島に帰ってしまう。その後、ユヌスが樟 (桶)を開けてみると娘の姿はなく、落胆したユヌスはまもなく死去する。 そこで村人は2人を雨乞いの神として杷ることにした、というものである。 このユヌスの功績をたたえたニイリによれば、 「ウパントのアヤナス」と いう詞章も出てくる。こうしたことから多良間島ニイリの「南の神 Jとは石 垣島の雨乞い歌でしばしば謡われる小波本御畿のイヤナシ神を指しているに 違いない。多良間鳥の雨乞いにおいて石垣島の雨の神が祈願の対象になって いる。但し伝承記録の限界もあり、これは宮古諸島の中でも多良間島に限ら れる。 2 . 雨乞いの諸相 (1)火焚き -67- 琉球大学法文学部紀要 人間科 学: 第 3 2号 2 0 1 5年 3月 雨乞いの方法の 一つに 、 1 1 1 頁で火を焚くという行動がある 。石垣島の凹か 村では村ごとに火焚きを行う山が決められていたが、昭和初期に 実際 に行わ れた同乞いにおける火焚きの場所を 当時の新聞仙) から拾い上げ、比較すると 次のようにな って いる 。 (表1)石垣島匹│ か村の火焚き場所 明治 1 6年 u gf 日 8年 昭 和 9年 4年 昭和 1 登里子城 多良間嶺 岳の頂 丘ぬ頂 岳の頂 大川 チィカラチィキ 多良間岳 多良間岳 タラマニー 石垣 ウーソ 一 山 ツカラ岳 ウンソ一山 ツカラツキ 新川 スブ岳 新川山 7 イシ岳 7 イ シヤ 7 1 9 4 7年当時の石垣島の港湾・ 1 1岳・河川地図には 、パンナ ー 岳連 山および 前勢岳連山のピークの呼称が記されている1 ( 1 ) 。 ( 図 1)パン ナー岳・前勢岳連山地図 宮 崎 石 桓 稽 南方からハンナー岳連山を臨む 6 8 沖縄における地方の雨乞い(山里純一) ダキヌツヅ岳 J I 多良間ニー岳 J I ツカラツキ岳」 これには「番名山 J I 前勢岳」の名が見える。したがって(表 1)の「岳の頂」 「ウーソー岳 J I 「丘ぬ頂」、 「チィカラチィキ J I ツカラ岳 J I ツカラツキ J、 「多良間 嶺J I 多良間岳 J I タラマニー J、 「ウーソ一山 J I ウンソー山」は、表記 上の違いはあっても同じ岳とみて間違いない。新川村の火焚き場所のスブ岳 と新川山の名は見えないが、恐らく前勢岳の別称であろう(問。 このように村ごとに火焚きの山は決まっていたが、 ( 表 1)を見る限り、 その時々の雨乞いによって変更されることもあったようである。 大浜と宮良の火焚きの場所はいずれも水岳である。水岳という山の名称、と 雨乞いの火焚きとの因果関係はわからないが、いかにも雨乞いに関係のあり そうな名称である。 大浜では、各御獄の司が花米・板香を持って 3日間祈願し、雨が降らなけ れば3日間延長し、それでも降らなければさらに 3日間の祈願を行う。 9日間 続けても効果がない時、住民総出で水岳に登り、枯木や生木を積み重ねて 火を焚き、 r ドラや太鼓を打ちながら雨乞いをする( 八重山大浜村の郷土 誌 . i) 。 宮良では、水岳は悶乞い岳であり、水の元、水の神の居るところとして尊 崇していた。皐魅が続くと、 1 5歳以上の男女全員が村の司とともに水岳に登 r り、雑木やシパ等を伐採して火焚きをする( 宮良村誌.i ) 。 白保では、神司が御援で祈願をし、さらに水岳の東側カタフタ山の頂上で 火焚きを行ったという。 伊原間では、成人男性が山(筆者注:ハンナ岳の北に連なる山。地元では サーリ山と呼んでいる)の頂上に登り、枯れ木をうず高く積んで火を入れ、 r 。 もうもうたる黒煙白煙をたて雷神に祈ったという( 伊原間村誌.1 ) 1 1 0 ) r 石垣市史』資料編近代 6 新聞集成 m( p . 3 7 7、p . 46 3 )、同近代 7 新聞集成 N ( p. l7 5 ) {1¥)大浜信賢「八重山ニ於ケルマラリアノ流行学的研究 第 I報 J( r八重山支庁衛生部 業 績J第 3号別冊、 1 9 4 7年、『石垣市史』資料編近代 3I マラリア資料集成」所収) 叩多良間嶺が字大川に属していることから大川山とも言われるように、前勢岳が字新 -69- 琉球大学法文学部紀要人間科学第 3 2号 2 0 1 5年 3月 川平村の場合は前嵩で行われ、 5 0 歳以下の男が山頂に登り、 ドラ・太鼓を 打ち鳴らし、指笛を吹きながら、生木を切り倒し、燃やした。 西表島祖納は、祖納岳・干立カラザ山・大石鼻Eの3ヶ岳で岡、与那国は 宇良部岳で雨乞いの火焚きが行われたという (140 山らしい山がない竹富島・黒鳥・鳩間島・新城島・波照間島などでは火焚 きは行われない。それは宮古諸島でも同じである。 火焚きは、もうもうと上がる煙が雲を引き寄せ雨雲となり、また太鼓・銅 鐸を叩き、指笛を吹きながら行うことで天に居る水神を起こし悶を降らせよ うとする強い願望を示すものであるとするならば、できる限り天に近い高い 山ということになるが、村からの距離なども考えて設定されたのだろう。ま た八重山での火焚きは、山にある枯れ木なども伐採して行われるため、白保 のカラ岳のような、いわゆるはげ山では行われない。 雨乞いにおける火焚きは全国的に行われており、きわめてポピュラーな 方法の I つであるが、喜舎場永瑚によれば、これが八重山で行われるように 8 8 8 年(明治 1 6 ) に、当時八重山島役所長 なったのはそれほど古くはなく、 1 であった佐賀県出身の松枝太ーによって教えられたものであるという。ちな みに松枝太ーは 1 8 8 0 年(明治 1 3 )7 月に三代目の役所長として着任し、 1 8 8 5 年(明治 1 8 )4 月に離任するまで約5 年間八重山の行政に携わったが、 1 8 8 5 年 (明治 1 8 ) には、蔵元火の神を与儀風水見の意見に従い、構内の東南隅から 西北隅に遷座したことでも知られる人物である。彼の在任中の明治 1 6 年に雨 乞いがあったのかは不明だが、火焚きは四か村の雨乞いに初めて導入され、 その後各地に広まっていったのであろう。 川に属していることから「新川山」と呼ばれたとしても不思議ではない。問題は「ス プ岳」であるが、これが前勢岳のことであるとする確たる根拠は今のところ見出せ ないが、別の山と見なすことも困難である。 9 8 1年) P . l0 9 ".星勲『西表島の民俗.1 (友古堂書庖、 1 同池間栄三・新里和盛『与那国島誌.1 (私家版、 1 9 5 7年) P . l8 6-1 8 8 -70- 沖縄における地方の雨乞い(山里純一) ( 2 )雨乞い石 沖縄では道路の突き当たりなどに自然の石を置き魔除けとする習俗があ る。石敢嘗のような機能を持つことから研究者によっては「無文字のイシガ ントー Jと称されることもあるが、そうした呼称は適切ではない。石垣市四 か字ではこうした石をピッチリまたはピッチルと呼んでいるが、雨乞いの 時、農民は一斉にピッチリを倒したという伝えがある畑。 西表島では「ピジリ Jと言い、地域によって名称は異なるようであるが、 川平の宮烏御獄境内の隅に置かれている「ピッチユル」は別物で、豊年祭や 結願祭の時には、これを担いで境内をまわる、豊作を感謝するピッチュル担 ぎが行われる。ピッチリとピッチュル、まぎらわしい用語であるが、何故、 ピッチリを倒すと雨が降ると信じられていたのかわからない。神を怒らせて 雨を降らせることの部類かも知れない。なお石敢嘗の文字が書かれたものを 倒したり、撤去したりすると雨が降るという話は聞かない。 小浜島の雨乞いでは、神司を先頭に、神衣裳をまとい頭に葛を巻いた女性 達がウフダキ(大岳)に行列をなして登り、頂上で天空に向かつて合掌する 一方で、男性違は、大雨とともに天から降ってきたと伝えられる嘉保根御巌 の鳥居の側にあるカンドゥラ石を担いでウフダキ(大岳)の頂上に登り、そ こから石を転がし、また担いでは登って転がすということを繰り返したとい う。カンドゥラ石という呼称がまさしく雷石から来たもので、ゴロゴロと転 がる音が雷鳴を呼び起こし慈雨をもたらす意味が込められていたであろう。 雨乞い石と名付けられた石が各地にある。その一つが久米島の君南風殿内 の雨乞い石である。久米島では 1 9 9 8 年(平成 1 0 )8月2 4日と、 2 0 1 3年(平成 2 5 ) 8月1 2日に、行政側からの要請で雨乞いが行われている(ヘ君南風は首 岡牧野清「八重山のピッチル(自然石)信仰 J( W 八重山文化論集』八重山文化研究会、 1 9 7 6年) 2 0 1 3年 8月 1 2日付。山里克也「君南風の司る祭記J(特別展図録『久 ∞年.1 (久米島自然文化センター、 2 0 0 1年) 米のきみはゑ 5 醐『琉球新報~ EA 噌 円,, 琉球大学法文学部紀要人間科学第 3 2号 2 0 1 5年 3月 里弁が裁と殿内の神棚に祈願を済ませた後、左縄とアマフイカンダという植 物を巻いた雨乞い石の周囲を関係者が輸を作り、君南風は柄杓で水を汲み石 周する問。雨乞い石は君南風殿内の に水をかけながら石の周囲を左廻りに 7 境内にもともとある石である。君南風殿内での儀礼の後、西海岸のハンニ崎 へ向かう。途中のシユツケツ御巌とシレーミ御様で神女たちが祈願を行う が、その問、ハンニ崎の寄り石で藁を燃やす。この寄り石も雨乞い石の性格 が付せられている。 宮良では海辺にある石をアマイシ(雨乞い石)と呼んでいる。干潮時には 全部露出するが、満潮時には上部のみ海上に見える石である。宮良では当 初、集落北方の高台に創建された山崎御嫌で、ウムトゥダギの水元の神への 遁拝も兼ねて雨乞いの祈願を行っていたが、その後、山崎御織は宮良湾岸の 浜川原の地に移転された。アマイシは御撮の正面より南方3 0 0メートル沖に ある。雨乞いの時は、そのアマイシに対してその先にある「パイナーラ」の 島から慈雨を乞うのである。 西表島の浦内川中流域の、遊覧船の船着場である通称軍艦岩の近くに、上 が平坦な大きな岩があり、それを雨乞い岩と呼んでいる。干立村の人々はこ の上で雨乞い歌を謡い祈願を行ったという。 なお石垣島平久保半島の東海岸側の伊波浜にあるイファンガニと呼ばれる 赤い岩は、俗に「安良大かね」と呼ばれ、叩くと鐘の音がひびき、たちまち 雨が降るという伝承がある畑。 特に「雨石」という呼称、はついていないが、黒島の雨乞いでも、海中にあ る神石に木を植える儀式が行われたという。 " n雨乞いで石に水をかけるのは、大正時代、宜野湾新城でも行われたようである(佐 喜真興英『シマの話.1)。また石の周りを 7周することにどういう意味があるかはわ からないが、石垣島大川村でも、大石垣御様の東方の畑の中にある「石」の周りを、 雨乞い歌を謡いながら 7固まわるという。 9 9 9年) 畑『石垣島古郷安良の原風景司その歴史と自然・.1 (石垣市、 1 4 円 司 ,e 沖縄における地方の雨乞い(山里純一) (3)綱引き 沖縄各地でさまざまな祭りにおいて綱引きが行われるが、その目的の一つ 5日ぴ綱引きを行うが、 に雨乞いがあった。たとえば渡名喜島では旧暦6月2 そのガーイ歌には、 あみくだき ぬぶてい アミクダキ(雨乞いする御綴)登って あみたぽり しゃくと 雨乞い祈願をしたら あみぬ しゅしたりが うあみたほち 雨を司る神さまが 大雨を賜った など、雨乞い歌が謡われる。 0 0 4年)によれ 『沖縄の綱引き習俗調査報告書.] (沖縄県教育委員会、 2 ば、国頭村奥問、宜野湾市真志喜、那覇市鏡水、糸満市与座/真境名、南風 原町宮城/与那覇/兼城、宮古島市城辺砂川などで、綱引きに雨乞い祈願が 含まれている。粟国島でも綱引きの真似事が行われたという(へ 久米島の雨乞いでは、君南風による首里弁が犠遁拝、雨乞い石の厨囲を左 回りに廻りながら水をかける儀礼が行われた後、参加者が水をかけあいなが ら綱引きをする。多良間では雨乞いを重ねても雨が一向に降らない時は、最 終手段として綱引きをした。 石垣市の豊年祭では、真乙姥御識の神前で女綱引きが行われる。かつて大 雨乞いを行っても雨が降らなかったので、頭職をはじめ上役の貴婦人たちに よる綱引きを行ったところ降雨があったため、以後、女性だけによる綱引き が行われることになったという回。 ( 1 9 ) ~沖縄民俗j 1 5号 四喜舎場永淘「石垣島の豊年祭と真乙姥綱曳 Ja 八重山民俗誌j(前掲注 (6))所収)、 瀬名波長宣『八重山小話j (沖縄春秋社、 1 9 7 3年) P . 2 8 4 J 円 i 円 琉球大学法文学部紀要人間科学第 3 2号 2 0 1 5年 3月 (4) スパンガニ葛 雨乞いにおいて最もよく用いられる植物にスパンガニ葛がある。石垣方言 でクジィといい、和名はトウズルモドキである。山中の河川沿いに自生し水 分を多量に含んだ太めの葛である。聞か村の雨乞いでも用いられている。前 水から汲んだウムル水の中にトウズルモドキの若い茎を入れて持って帰り、 美崎御様で祈願している大阿母が合掌している手の上部からその茎で水を流 したという。また海中に吊したウムル水の周囲を廻る際、女性が両手で捧げ 持つものがトウズルモドキである。 川平の雨乞いでも、アマユナーの水の神を迎え入れるクイの行事におい て、大かずらとトウズルモドキを絢ったスパと称するものが用いられる。 大浜では御議祈願、水岳でのピータテイ(火立て)のアマニンガイ(雨願 い)をしても降雨がなければ、御議で3日間ユグマリ(夜龍もり)し、御畿 の庭では、祈願者全員がマーニ(くろつくづの葉で鉢巻をして、 「雨乞Jを 謡いながら、輪の中央に置かれた樽または聾の水をマーニの葉で外にはねな がら回る。それでも降雨がない時、最終の方法としてとられたのが「スパン んかい ぱぎつかさ ガニ招迎」である。各御獄の脇司と村の代表者、村人達がヤマカシラを先頭 にカンズニパル(現在、赤下橋を越えて空港方面へ行く道路が通っている) にあるカクズ(顎)石の東方のナーヤマへ行き、水性の人がスパンガニ葛を 切り出す。そしてスパンガニ葛を皆で担ぎ、ヤマカシラを先頭に「スパンガ ニ節Jを謡いながら戻り、ナームル浜(舟着御織の東北の i 兵)で司をはじめ みんぬ 村人の迎えを受ける。そこで東方に向かつて雨乞いをする。その後、民の 井戸のところで今度は北東に向かつて雨乞いをし、最後はカースンヤと称す る岩場の窪みにスパンガニ葛を投げ入れる。以上が一連の流れである。 富良でも、アマイシ(雨乞い石)に祈願をし、山崎御織の庭で「雨乞チイ ジィ Jを謡った後、再びアマイシに祈願するが、その時、スパンガニ葛を供 えてカンフツィを奏上するというが、そのカンフツィは残っていない。 円 i 必 せ 沖縄における地方の雨乞い(山里純一) スパンガニ葛は水分を多く含む植物であるため、呪術的な意味からこれを 用いることが多かったのであろう。 ( 5 )川に毒を流す 白保の雨乞いでは、神司による御織で祈願をし、さらに水岳の頂上で火 焚きを行っても雨が降らない場合、イジョウ木(もっこく)の皮を剥ぎ臼 で鵠いた粉末(シイサーと称する)を各戸にー斗ないしはー斗五升づっ供 出させ、村の役員が小舟に乗って轟川の上流へ行き、これを流す「シイサー 入れ」が行われた。この「シイサー」には毒があり、これを川に流すことに り、川に棲む魚や鰻やエピなどが死んで浮き上がってくるので、村人はこれ を捕食した則。 同じことが伊原聞でも行われた。村から臼を担いでホーラカーラ(大浦 J I I ) の上流まで行き、周辺に生育しているガーナキ(リュウキュウガキ) の実を取って自の中に入れ杵でたたいて潰したものを川に流した。これを 「カーラキジャシ」と言った。川を荒らす、かき乱すといった意味である。 ガーナキの実には毒があり、流した後、エピやうなぎが浮いてよく採れたと いう。そして「カーラ キジャスカ J I Iを汚すと雨を給 アーミタボラル J ( わる)という言葉が伝えられている。 神を怒らせて雨を得ょうとする雨乞いは全国的に行われていて、怒らせる 方法もさまざまであるが、沖縄のように川に植物の毒を入れ魚類を殺す方法 は珍しい。白保では、毒に酔った魚類が浮かび上がるといっても、半分以上 は死んで川底に沈んでしまい、 4 、5日すると臭気を放つようになる。そのこ とに神が怒って雨を降らすという説明がなされる。 ( 6 )雨乞い踊り 則昭和 1 3年 ( 1 9 3 8 )7月 1日に、自保でこのような雨乞いが行われ、翌日、住民の r 先島 誠意が天に通じ、少々の降雨があり、南西方向に雷鳴もとどろいたという ( 朝日新聞』昭和 1 3年 ( 1 9 3 8 )7月 3日 付 ) 。 司 d phu 琉球大学法文学部紀要人間科学第 3 2号 2 0 1 5年 3月 何回かの雨乞い祈願でも雨が降らない時に、御畿の境内や、御獄近くの海 岸など特定の場所で行われる。 八重山の雨乞い踊りはだいたいパターンが決まっていて、巻踊りの形式を 採る。すなわち、参加する人は男女ともにマーニ(くろっぐ)の葉を頭に巻 き、水を入れた聾(桶・たらい等のところもある)を中心にして円陣を組 む。そして太鼓と銅鐸に合わせて「雨乞い歌」を謡いながら水聾の周囲を廻 る。水嚢の側には白い衣裳を着た神ツカサが立っていて、クロツグの葉を水 聾の水に浸して周囲に撒く、というものである。 沖縄本島の宜野座村でも似たような雨乞い踊りが行われたようである倒。 宮古島では、老弱男女が円陣をなし、各自、両手を上下に振り、手を打 ち、足を踏み、はねる、集団舞踊のクイチャーがあるが、皐魅が続くとツカ サたちの御畿で雨乞い祈願をした後、御議前の広場か近くの四辻で「雨乞い 2 3 ) 。雨乞いの時のクイチャーは、円陣のまま手拍子 クイチャー」が踊られる ( はせず左右に廻る、マーズユニー・クイチャーブドイというものである刷。そ の時、ツカサは柄杓で踊っている人に水をかける。 雨乞い踊りには必ず歌が伴うが、もう一つ重要な要素として神女が踊る人 に水をかけることが挙げられる。これは王府主催の雨乞い儀礼でも見られ る。雨が降ったような状態を作り出すことによって雨を誘うという呪術で、 J 'G'フレーザーがいうところの模倣呪術聞に属する。 主盆旦ζ 1 (忽)金武町屋嘉の雨乞いは、根屋の庭でドラムカンみたいなもので火を炊き、祈願を行っ た後、その中に、火が消えない程度に根人たちが水を撒いたという。 {お}仲宗根将二『宮古風土記J(ひるぎ社、 1 9 8 8年) p . 3 0 2-p . 3 0 3 o {剖}岡本恵、昭前掲注 ( 4 )著 P . 2 5 9 )J'G・フレイザー『金枝篇.1 (神成利男訳・石塚正英監修、図書刊行会、 1 8 9 0年) { お 一7 6 - 沖縄における地方の雨乞い(山里純一) 首里王府が主催する雨乞いとは別に、地方が独自に行う雨乞いは、まず村 の御巌の神への祈願から始まる。それはどの村でもほぼ共通している。それ 度目、 3 度目と方法を変えながら雨乞いは繰り返さ でも雨が降らなければ、 2 れる。村によって特徴が表れるのはこの時からである。しかしそうは言って も各地の雨乞い儀礼は日本の雨乞い儀礼と似通っている。例えば、雨乞いを 繰り返す中で、祈願の対象がより遠くの神、権威のある神へと拡大していく ことや、八重山で明治以降火焚きが雨乞い儀礼に導入されていること、また 石垣島の白保や伊原聞の雨乞いに見られる神を怒らせて雨を降らせる発想 や、久米島の石に水をかける方法などは本土との共通性が指摘できょう。し かし、神を怒らせる方法とか、歌に合わせて水の周りを廻り、植物の葉で水 をかける雨乞い踊り、綱引き、スパンガニ葛の使用、石を倒したり転がした りする方法などに沖縄の独自性が見られる。 自然科学が発達した現在においては、かつてのような大規模な雨乞いが行 われることはなく、往時の雨乞い行事を経験した人も少なくなっていく中 で、雨乞い習俗に関する知識や情報はだんだん得がたい状況にある。 円 門 i i
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