1 マタイによる福音書22:41~46 「救いとは何か」 突然ぶしつけな

マ タイに よる福 音書 2 2:4 1~46
「救い とは何 か 」
突然ぶしつけな問い掛け かもしれま せんが、救いとは一体何で しょうか? 難しい質問だ
と思います。何が救いなの でしょうか ? 救われるということは、 自分の願望 が成就するこ
とでしょうか?思ってもみ なかったよ うな幸運にあずかることで しょうか? 私たち が本当
に救われたと思うような時 とは、どの ような時なのでしょうか?
私自身のことを考えてみ ますと、た とえば私が自分は救われた と実感する 時とは 、
「もう
ダメだ、どう考えて も無理だ。間に合わ ない、うまくいかな い、限界だ 」と思う その 時に、
思ってもみない仕方で、道 が開かれる ような時です。
あるいは、自分が孤独な時 に、こうい う自分が理解されることは ないし、理 解してくれ
る人もない。自分は独りぼ っちだと感 じている時に、あなたはひ とりではな い、私がいる
と、その辛さはよく分かる と、誰かに 寄り添ってもらえた時など です。
私の場合は、自分の願望が 実現した時 に救われたと感じるという よりも、失 敗したり、
大きく挫折した時、人間味 のある人格 的な 優しさを感じた際に、 ああ救われ たと強く感じ
ます。皆様はどうでしょう か?
救いとは何なのか、何が 救いなのか という、 こういう一言では 捉えきれな いような大き
な問題を扱う時には、しば しばその逆 のことを考えるとその事柄 がよく分か るということ
があります。それで行くと この場合は 、救いの反対にあるものは 何か?私た ちにとって最
も救いの無いものとは何か という問い が生まれるのですけれども 、 私たちを 全く独りぼっ
ちにさせてしまうような大 きな挫折、 何の報いもないもの、それ は何かと、 そういう風に
考えていくと、答えはかな りはっきり してくるのだと思います。 言うまでも なく、その 最
も救いの無いものとは、死 です。
救いとは何かを考える時、 私の脳裏に いつも 浮かぶ文章がありま すので、皆 様に御紹介
させていただきたいと思い ます。それ は20世紀最大の神学者と 言われるカ ール・バルト
が書き残した一文です。彼 は、その時 代の教会を鋭く批判しなが ら、こう語 りました。 難
しい、聞きなれないような 言葉で語ら れていますので、一度聞か れただけで はなかなか理
解しずらい言葉なのですが 、お読みさ せていただきます。
「教会はほとんど全体にわ たって、神 の恵みよりも、人間の罪を 事実上重大 に取っている
のではないか。その言葉と態 度において 、値しない者に与えられる自 由な約束の 代わりに、
理想を宣べ伝え、その実現 と追求によ って、初めて私たちが神と の平和に値 する者となる
と思っているのではないか。
『 あなたは すべての罪を負われた』とい うことと、宗教的更新、
道徳的純潔、人間的自由、 民族的、な いしは社会的共同のための 戦いへと鼓 舞することと
は、別な二つのことである ことを、そ もそも教会は知っているの であろうか 。教会の宣教
は、実はほとんど、あるい は全くあか らさまな律法の説教になっ ていないか 。しかも神の
律法の説教などではなく、 むしろきわ めて人間的な律法の説教に。」
私たちの周りには救いと呼 びうるもの が、たくさんあるように思 えま すが、 私たちの主
イエス・キリ ストによる救い は、私たち の人間的な理想の実現とは 違います。けれども、私
たちの願いが成就するとい うことと、 主イエスが与えようとして おられる救 いとは、別の
ものです。
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病気が治ること、長生きす ること、財 産を蓄えること、苦労のな い人生を送 ること。或
いはまた、世界中が民主主 主義化され るなどして、特定の思想や イデオロギ ーや秩序が、
この世界に実現するという ことが、救 いなのでもありません。ま たさらには 、教会に集う
この私たちが、道徳的な人 間に、きよ く正しい人になっていくと いうことが 、あるいは教
会が単に大きくなっていく ことが、イ コール、私たちを支える救い、なのでは ありません。
それらのものは、救いの結 果として与 えられるかもしれないもの ですが、そ れらが、聖書
の中で語られている、第一 に求められ るべき救いではありません 。
私は、この言葉を思い返す たびに、本 当に私たちの語るべき救い を語れてい るのか?毎
週の説教で救いを語りなが ら、そこで 本当に神様が与えようとし ておられる 救いを語り、
それを差し出せているのだ ろうかと問 われます。
ユダヤ教の当局者たちとの 激しい論争 を繰り返されていた主イエ スですけれ ども、今朝
の御言葉では、主イエスの方か ら、ファ リサイ派に問いかけられま した。42 節 の言葉です。
「あなたたちは、メシアのこと をどう 思うか。誰の子だろうか。」メシアと は 、救い主とい
う意味の言葉ですから、この質 問は、
「 あなたたちは、救い主のことを どう思 うか?」とい
うことはつまり、突 き詰めていくとこ れは、
「あなたたちは 、救い につい て ど う思っている
のか?」という質問として 捉えること ができ ます。
主イエスの質問に対して 、ファリサ イ人たちは、「ダビデの子で す。」と答 えました。こ
の言葉には、当時のユダヤ 教の指導者 たちの救済観、救いの 理解 が反映され ていました。
確かに、「ダビデの子」とい う言葉自体 は、このマタイによる福音 書の 最初の 言葉である、
一章一節にも、「アブラハム の子、ダビ デの子、イエス・キリストの 系図」と記 されていま
すように、歴史的に、主イ エスはダビ デの子孫ですので、その言 葉は正しい のですが、し
かし彼らは、「ダビデの子」 という言葉 が持つ意味を取り違えてい ました。
ファリサイ派の人々が、メシアは ダビ デの子 という言葉を使う時、そこ には、救い主は、
あのダビデのような王様の 再来だとい う意味合いがありました。 ダビデ王が イスラエルの
国を築いた の は、紀 元前 1000 年頃で すから、そ の時代は 、 この 当時から 数 えても 1000
年も前のことです。けれど も、 その長 い 1000 年もの間、イスラ エルの国は 常に外敵に蝕
まれ、支配され、植民地に されるとい う屈辱的な道を歩んで きま した。しか しユダヤ人た
ちは一つの希望をもってい ました。自 分たちは、神に選ばれた民 であるから 、神様は必ず
や、かつてのダビデ王のよう な時代 が来 て、強い王が救い主としてユ ダヤ人の中 から出て、
憎き周辺諸国を滅ぼして、 このエルサ レムを再び諸国の中心に据 えてくださ る、という 期
待をもっていました。具体 的には、こ の 当時に彼らを圧迫してい たのはロー マ帝国 でした
ので、自らを神と名乗るロ ーマ皇帝を 打ち倒してくれる、ダビデ 王の再来の ような救い主
を、ユダヤ人たちは待望さ れていまし た。そしてさらに 、ユダヤ 人の王国が 復活する暁に
は、その強い王様の下で、 まさにこの 自分たちこそが、 今度は、 諸外国の中 で力を奮うの
だという願いを、彼らは思 い描いてい ました。 彼らにとっての救 いとは、こ のこと だった
のです。そしてそこに全て の解決があ ると彼らは信じていました 。
主イエスはそこで、 43 節以降の言葉を 語られます。 43 節から 45 節。
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「イエスは言われた。
『では、どうし て ダビデは、霊を受けて、メシアを主と 呼んでいるの
だろうか。「主は、わたしの 主にお告げ になった。『わたしの右の座 に着きなさ い、わたし
があなたの敵を、あなたの足も とに屈 服させるときまで』と。」
このよう に ダビデが、メ
シアを主と呼んでいるので あれば、ど うしてメシアがダビデの子 なのか。』」
途中で詩編の 110 篇が引用 されます 。詩編 110 篇は、メシア の権威の高さ を謳った歌で
す。そしてそこに 出て来る、
「わたしの 右の座に着く」、
「 メシアが、神様の右の 座に着く」、
即ち神様と並ぶ高みに達す るというこ の表現 は、とてつもなく有 名な表現で 、これは、こ
の詩編から、新約聖書の中 に何度も引 用されていますし、今朝も 私たちが、 礼拝の中でそ
れを信仰の告白とした、使 徒信条の中 にも 、この言葉は使われて います。こ の詩編を作っ
たのはダビデだとされてい ますが、ダ ビデは 、自分の主人である 方に向かっ て、父なる 神
様が、
「あなたをわた しの右の座に着か せる」と宣言された のだと謳いました 。このダビデ
が生きていた時点では、ダ ビデの文字 通りの主人は、サウル王だ ったはずで すけれども、
この詩編は、のちの時代に 、ユダヤ人 たちの中でも、到来するメ シア、救い 主についての
預言であると解釈されるよ うになり、 元々はダビデにとってのサ ウル王を意 味していた、
主という言葉、主人という 言葉が、メ シアを指す言葉として解釈 されるよう になったので
す。
主イエスはその詩編を引 用されなが ら、
「このようにダ ビデが、メシアを主 と呼んでいる
のであれば、どうし てメシアがダビデ の子なのか。」と 、彼らの救済観に 修正 を加え ようと
されました。つまり、メシ アは系図の 上では、ダビデの子 であり 、ダビデの 子孫 だけれど
も、メシアは、ダビデの下 に続くよう な子孫として、ダビデがや ったのと似 たようなこと
をやるような、ファリサイ 派が望んで いるように、ユダヤ人だけ を救うよう な、そんなス
ケールの小さな、メシアで はないと。 メシアは、ダビデを超えた 、破格の大 きさと力強さ
を持っておられる、神の右 の座に着く 神の子なのだと。それゆえ にそのメシ アによる救い
も、ダビデが一時、イスラ エル王国と いう国を 築いて、しかし今 は跡形もな くなってしま
ったような、そんな程度の 救いではな くて、 それはまた、あなた がたの願望 の投影のよう
なそんな狭い救いでもない 、メシアの 救いは、それは過去にはな かったもの で、それは、
私たちの想像をはるかに超 える大きな ものだと、主イエスは おっ しゃったの です。
46 節 の御言葉。「これに はだれ一人、 ひと言も言い返すことがで きず、その 日からは、
もはやあえて質問する者は なかった。」論争は、主イエスの 一本勝ちという感 じです。その
日からは、もう質問する者 はなくなっ た。当局者たちは、論争を 仕掛けて論 破するという
方法を、完全に諦めました が、無言で 立ち去る彼らの腹の内は、 もう問答無 用の武力行使
でイエスを血祭りにあげる べしと決ま っていたのだと思います。 悲しいかな 、彼らの中に
は、完全に論破されながら も、主イエ スの言葉によって、考えを 正されて、 悔い改める者
はいませんでした。
そしてこの場面は、ユダ ヤ教と キリ スト教の 、完全な決別の場 面です。今 日でもユダヤ
教の救いは、一般的に言っ てこの時の ままです。それは 自分たち ユダヤ民族 のため だけに
もたらされる救いであり、 ユダヤ教の メシアは、 今でも、かつて のダビデ王 のような、民
族解放の救い主として、待 望されてい ます。
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キリスト教の救いは、どこ ま でも神の 御子である 救い主、メシア 、主イエス ・キリスト
にかかっています。そのメ シアは、何 を持って私たちを救おうと されたのか というと、 主
イエス・キリストは、十字 架に架かっ てくださいました。その目 的は、 命を かけた十字架
によって、
「この私の罪が赦され 、こ の 命が救われ る」ということです。主イ エスの十字架
によって、罪赦され、罪の 報酬である 、最も救いのない状態であ る死からも 解放され、命
に移されることが、キリス トが与えて くださる 救いです。
罪は、ちょっと迷惑をかけ たとか、お 手数おかけしてすいません でしたとい うぐらいの
ことではなくて、罪ですから、言うなれ ば犯罪ですから、しっかりと罰せ られ ないかぎり、
赦されることは、ないので すが、主イ エスが十字架で私の身代わ りに、しっ かりと罰せら
れてくださったおかげで、 何も罰を受 けていない私の罪が赦され るという、 本来は起きな
いことが起こった。まさに 救われた と しか、言いようのないこと が起こった 。
これが、ファリサイ派の人 々も、また 私たち自身も皆、かつては 聞いたこと も、見たこ
とも、考えたこともなかった、また、その救いが必要だと思うこ ともできな かった、
「イエ
ス・キリストというメシアの 救い」です 。
私は正直に言って、最初は 、これが救 いだとは思えませんでした 。主イエス ・キリスト
がという神の右に座すよう な、神の御 子が、十字架に架かる。言 うなればキ リストは、負
けてしまった、殺されてし まったわけ です。それが私にとって、 なぜ救いな のか、クリス
チャンホームで生まれてい ながら、ず っと分かりませんでした。 ずっと分か らないなと思
い続けていた私は、高校生 の時に、す ごく特殊な夢を見ました。 いつでもは っきりと思い
出せるという夢は、私には たった二つ しかないのですけれども、 その一つが 、その夢でし
た。
その夢の中で私は、ものす ごく歓喜し ながら、わっはっはーと笑 い声をあげ ながら、手
に長い槍を持って、棒の上 に縛り付け られている人の脇腹を、下 からグサッ と刺したので
す。脇腹からは血が噴き出 しました。 その刺した時の手の生々し い感触と手 応えを、今も
まだ覚えています。そして 帰り血も、 顔に浴びました。生暖かい 血でした。 しかし、それ
でも私は、わっはっはー、 やったやっ たと、興奮して笑ってい る 。そこで夢 が終わりまし
た。ガバっと起きて、うわ あっ、私は 恐ろしいことしてしまった 、どうしよ う、という思
いになりました。日曜日の 朝でした。 その日は聖餐式があって、 自分の前 に 主イエスの血
をあらすぶどう酒が運ばれ てきた時に 、心が震えました。 私がや りで突き刺 したんだ。 私
が主イエスを傷付け、主イ エスは 私に 傷つけられた。 けれども十 字架で失っ たその主イエ
スの命は、私のために差し 出された キ リストの 命だった。すごく 深い、私へ の愛が、主イ
エスの十字架にはあったん だというこ とを、私はその夢を通して 、神様に教 えていただき
ました。
こんなふうに愛されたこと はちょっと ない。十字架で、私たちの 罪のせいで 殺されてい
ながら、こんな風なかたち で、その十 字架の上から、赦し返して 、愛し返し てくださる方
は、ほかにいません。私が 自分や、他 人を愛せなくても、赦せな くても、こ の方は、神の
む
げ
子、メシアとして、赦して いる、愛し ている。そうだったら、私 には、それ を 無碍 にする
様なことはできない。
本来赦されないはずの、 招 かれざる者 である はずの私は、しかし 、今、不思 議と、神様
の家族として招かれて、こ の主イエス の 教会で礼拝をしています 。そして私 だけでなく、
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この救いを信じる者は、誰 でも、どん な罪や、背きを犯した人で も、主イエ ス ・キリスト
のおかげをもって、条件無 しに、無償 で、赦される。
旧約の預言者イザヤは、こう語 りまし た。
「たとえ、お前たちの罪が緋色の よ うでも、雪
のように白くなることがで きる。」私た ちはここで救われます。私 たちのすべ ての希望は、
この点にかかっています。 私たちの全 ては、罪と死という 救いの ないところ から、愛なる
キリストとの出会いによっ て救われて 、 新しい命に出発でき、新 しく生き 始 めることがで
きます。
祈り
父なる神様、私たちは、主イエスによっ て罪赦されて、今雪よりも白くさ れま したから、
感謝いたします。あなたの 、他には な い救いを感謝いたします。 今あなたの 救いを知るこ
とができました。私たちの 中に、なお 残る罪があるならば、どう か、主イエ ス・キリスト
十字架の血によって、今、 その罪を全 て、洗い流してください。
あなたのものとされて、こ うして今祈 りながらも、なおつまずい て、あなた から反対の
方向に倒れていこうとする 私たちです 。どうかあなたが先回りし て、支えて 、いつも御自
分のもとに連れ戻してくだ さい。あな たが 、罪と死の危険から救 い、守って ください。
あなたが私たちに注いてく ださってい る、あたたかい眼差しを感 謝いたしま す。人から
の眼差しに支えられて立つ 生き方から 、どうぞ、あなたの 暖かな 、愛の 眼差 しに守られて
生きる者へと、私たちを変 えてくださ い。この朝を感謝します。 そして、あ なたがこれか
ら与えてくださる、明るく 、新しい一 週間を期待して、そこに希 望を置きま す。今週も、
私たちがいつも、このあな たの救いの 中で、目覚め、呼吸し、 毎 日を歩んで いくことを許
してください。主の御名に よってお祈 りいたします。
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アーメン