わが国物価の歴史的分析

わが国物価の歴史的分析
花 輪 俊 哉
(一橋大学助教授)
1.生命保険会社とインフレーション
生命保険会社はインフレーションに弱いといわれている。この場合
のインフレーションは、「過度の貨幣量の膨張」を意味するもので
はなく、「一般物価水準の持続的上昇傾向」を意味するものでなけれ
ばならない。持続的上昇傾向は二つの内容をもっている。その1は物
価の上昇率であり、その2は物価の上昇期間である。物価の上昇率の
程度に応じて、インフレーションはギャロッビング・インフレ∵ショ
ンとかクリービング・インフレーションとか呼ばれている。また上昇
期間については、景気変動過程での物価上昇は、一般にインフレーシ
ョンと呼ばれていない。より持続的、より長期的上昇傾向を指すと考
えたい。さらに傾向という言葉について言及しておきたい。現実に物
価の上昇が起る場合を開放型インフレーションと呼びインフレーショ
ンの典型と考えられるが、インフレーションは必らずLも開放型ばか
りではない。価格統制が行われたりすると物価の上昇が表面化しない
可能性がある。この場合のインフレーションを潜伏型インフレーショ
ンと呼んでいる。本稿でのインフレーションは、開放型インフレーシ
ョンだけを取扱うことにしよう。
さて、インフレーションには失業と同様に恵のイメージかつきまと
っている。それはインフレーションのもたらす弊害からくると思われ
る。インフレーションが各経済主体に平等に影響するならば、所得や
ー1一
わが国物価の歴史的分析
富の不平等は生じないかもしれない。しかし、現実にはそのようなこ
とは起りえないので、インフレーションの弊害が生じてくるのである。
一般に年金生活者、利子所得者等は、インフレーションに対して所得
の適応は遅いので、所得の適応が速いと考えられる企業所得にくらべ
て損をするし、また、債権者(一般に家計と考えられる)は、債務者
(一般に企業、政府と考えられる)にくらべて損をするといえよう。
物価上昇率が高ければ高い程、インフレーションの弊害は大きくなる
であろう。そして、ギヤロツビング・インフレーションともなれば、
貨幣制度自体が崩壊し、生産・分配・支出がすべて縮小することにな
るだろう。現代の資本主義経済では、このような崩壊のおそれよりは
むしろクリービング・インフレーションの方か現実的であると思われ
る。本稿では、明治百年以来の物価動向を考察したいと思う。このこ
とは生命保険会社の今後を考える場会にも役立つことと思う。
2.一般物価の概念注1
物価の歴史的観察は、貨幣の購買力で示される貨幣価値の歴史的観
察でもある。すなわち、一般物価水準が上昇する場合には貨幣の購買
力が低下し、逆に一般物価水準が下降する場合には貨幣の購買力が増
大すると考えられる。ところで、一般物価水準は必らずLも自明の概
念ではない。一般物価水準は、個々の商品およびサービスの個別価格
と対置される概念であり、一定の合成商品の価格水準を意味している
が、これら商品をいかなる視角で合成するかについて二つのアプロー
チが考えられる。
第一のアプローチは、貨幣の価値を交換経済との関連で把握する。
交換経済は原始的には物々交換経済と考えられるが、現在では分業・
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わが国物価の歴史的分析
交換が深化・拡大していることによって貨幣経済という形態が支配的
である。この貨幣経済においては、貨幣と個別商品との交換比率を意
味する個別価格は貨幣の個別的購買力を示しているといえよう。そして、
これら個別的購買力の総合として、貨幣の一般購買力すなわち貨幣の
価値が概念されたのであった。もちろん、このアプローチでも生産財
と消費財のように、商品の特色によって類別することはできるし、重
要な仕事でもある。この場合には、一般物価水準は、生産財物価水準
と消費財物価水準との加重平均としてとらえることができよう。卸売
物価指数はこのアプローチの代表と考えられる。
これに対して、第二のアプローチは、貨幣の価値を経済主体の支出
行動との関連で把握する。すなわち、消費支出をつかさどる消費者と
投資支出をつかさどる投資者の行動との関連で一般物価水準を考察す
る立場であり、この場合の一般物価水準は消費者物価水準と投資者物
価水準との加重平均として把握することができる。GNPデフレータ
ーはこのアプローチを示すと思われるけれども、これはイン70リシッ
ト・デフレーターでもあるし、また従来計算されてはいなかった。し
たがって、GNPデフレーターのうち大きなウェイトを占めると思わ
れる消費者物価を代表と考えることができる。しかし、消費者物価も
歴史的観察を行う場合には、長期的な指数が存在しないこと、ならび
に消費構造の変化がある場合には正確な消費者物価たりえないこと等
の理由から不十分な指数と考えられるから、本稿では卸売物価を中心
にして、その歴史的考察を行うことにしょう。
注1拙稿「貨幣価値についての一考察」 一橋論叢 第66巻第4号
3.卸売物価の長期的変動
卸売物価は、明治初年より昭和45年までかなり変動が激しかったと
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わが国物価の歴史的分析
考えられる。しかしながら、全般を通じてみたとき、物価変動はむし
ろ軽微であることに驚くのである。すなわち、明治初年一昭和45年の
年平均物価上昇率は7・8%であったが、その間に昭和20年−21年の物
価上昇率364.5%等を含んでいることを考えた時、むしろ物価は長期
的にはかなり安定的であったと思われる。
鵬初年より1。年期毎の年平均物価上昇率をみると次の通りである警1
第1表:物価の歴史的考察
年平均物価上昇率
期 間
明治1年(1868)一明治10年(1877)
4.5%
明治11年(1878)一明治20年(1887)
0.5
明治21年(1888)−明治30年(1897)
4.6
明治31年(1898)−明治40年(1907)
3.7
明治41年(1908)一大正6年(1917)
5.1
大正7年(1918)一昭和2年(1927)
−1.4
昭和3年(1928)一昭和12年(1937)
1.4
昭和13年(1938)一昭和22年(1947)
49.0
昭和23年(1948)一昭和32年(1957)
12.5
昭和33年(1958)ー昭和42年(1967)−
0.9
昭和43年(1968)一昭和45年(1970)
2.9
物価上昇の激しかった時期は戦争期であり、明治37年−38年の日露
戦争、大正3年−7年の第一次世界大戦こ 昭和12年7月の日華事変ぼ
っ発、昭和16年12月一昭和20年8月の第二次世界大戦および昭和25年
の朝鮮戦争ぼっ発などの影響が大きかったといえよう。これに対して、
物価の下降は不況期におけるものであるが、中でも大正9年3月恐慌
ぼっ発にともなう物価の下降は、大正9年−10年の22.8%と著しいも
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のがあった。次に各時期の物価動向をより精細に考察しよう。
注1.本表を作成するにあたり、日本銀行統計局 島村高嘉氏の御助力を得た。
ここに感謝の意を表したい。
4.明治初期・中期の卸売物価
明治初期は近代日本の確立期であった。したがって卸売物価の上昇
が著しかったとしてもやむをえなかったであろう。明治1年には鳥羽
伏見の戦があり、五か条の御誓文が公布され、新政府の基本方針が明
らかにされたのであった。また明治2年には東京への遷都が行われた。
そして明治4年には廃藩置県が実施され、中央集権制は次第にその形
を整えるにいたった。したがって明治1年一明治5年の年平均物価上
昇率は8.4%の急上昇であった。しかし新政府は近代産業を育成する
ために官営の富岡製糸工場等を設立(明治5年)するとともに、たま
たま生じた東京の大火(明治5年)を契機に東京の再開発を行なった。
また地租改正(明治6年)を実施して地価の3%を土地所有者から金
納させることにした。これにより新政府の財政が著しく安定したこと
はいうまでもない。さらに新政府は金融制度の整備を行ない、明治4
年に貨幣の統一をはかるとともに、明治5年国立銀行条例を公布して
党換券を発行させることになった。新政府は財政難のために、これら
国立銀行から多額の不換紙幣を発行してまかなったことからインフレ
ーションがおこった。明治14年松方正義は従来の積極政策をやめ緊縮
政策を採用した。そして明治15年日本銀行を設立することによって紙
幣発行権を統一し、はじめて金融の安定がはかられたのであった。こ
のようなデフレ政策のために物価は下降したが、不況は深刻化した。
こうして明治11年一明治15年の年平均物価下降率は1.3%であった。
さて、明治22年には大日本帝国憲法が発布され、翌23年第一回帝国
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わが国物価の歴史的分析
議会が開かれた。ところで、物価問題について特筆すべきは、日清戦
争期(明治27年一明治28年)のインフレーションである。このため明
治26年一明治30年における年平均物価上昇率は7.8%に達した。しか
うニーール
し、この戦争に勝ったわが国は、賠償金として2億両(約3億1,000
万円)を受けとり、これをもとにしてわが国は金本位制度の勘立(明
治30年)をみたのであったが、この意義は大きかったといえよう。
5.明治後期・大正期・昭和初期の卸売物価
次に明治34年一大正4年における物価の動向をみると、その間にお
ける物価上昇は全体を通じて年平均2,1%の上昇でしかなかった。し
かし、この間におこった日露戦争(明治37年2月一明治38年9月)の
影響で明治37年一明治40年では6%の物価上昇を示したが、反面その
反動で明治40年一明治42年では4.1%と物価の下降を示したのであっ
た。この不況期には、各地の銀行の取り付けおよび支払停止が生じ、
これが不況をさらに深刻化させたのであった。その後も小さな景気変
動はあったが、全般的には物価は落ち着きを取りもどし、明治42年一
大正4年では年1.2%程度にとどままったのである。
また大正4年一昭和6年における物価上昇についてみても、全体を
通じてみて年平均1.1%の上昇であり、極めて安定していたように思
われる。しかし、第一次世界大戦(大正3年7月一大正7年11月)の
影響は、日露戦争以上の影響力を示したのである。すなわち、卸売
物価の対前年増加率は、大正5年20,9%、大正6年25.8%、大正7年
31.0%と年々上昇率を高めた。その後も大正8年22.5%、大正9年
10.0%と次第に上昇率は減じてきたとはいうものの、かなりの上昇が記
録されたのである。このような物価の急上昇は社会不安を引きおこし、
大正7、8年には米騒動などが起ったのである。この戦争景気の反動
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もまた大きかった。大正10年には22.8%も物価は下降し、大正11年に
もひきつづき 2.2%の下降が示された。その後も物価は全般的に下降
傾向を示し、大正9年一昭和6年までの年平均物価下降率は7.1%で
あった。この第一次世界大戦の反動期には、大正9年3月の恐慌ぼっ
発による株式価格の暴落、商品市況の悪化、および昭和2年3月の金
融恐慌、ついで昭和4年10月のニューヨーク株式市場大暴落にはじま
る世界恐慌が重要な影響力をもったのである。このような世界的規模
の恐慌にさらにプラスして不況を深刻化させたのが井上蔵相によって
行われた金解禁(昭和5年1月)であった。これは国際的に割高なわ
が国の物価を押えることを目標にして行われたものであり、国内的に
は強力なデフレ政策が必要であった。これは国内経済の安定をそこな
うことになり、金の流出が著しく、結局昭和6年12月に金輸出を再禁止
せざるをえなかったのである。この不況の激しさは、主要な輸出商晶
であった生糸が暴落し、明治29年以来の安値となったことにも示され
る。
6.昭和初期より第二次世界大戦終息までの卸売物価
昭和6年一昭和17年は、太平洋戦争にいたるまでの物価上昇期であ
り、全体を通じて年平均上昇率は8.9%であった。第一次世界大戦の
反動および世界恐慌によって下降した物価は、満州事変のばっ発(昭
和6年9月)を契機として上昇に転じていった。また昭和6年に行わ
れた金輸出再禁止によって、円の為替相場は下落し、それを反映して
物価が上昇したことも重要である。その後はやや物価は安定を示した
けれども、昭和12年7月日華事変が起る頃より物価は上昇を強め、昭
和11年一昭和17年の物価上昇率は年平均10.8%を示したのである。こ
れは軍事財政の膨張によるインフレ政策の進行によって、軍需生産を
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わが国物価の歴史的分析
中心とする生産財の価格が上昇するとともに、圧迫された民需品の価
格が上昇したことによると考えられる。このような物価の上昇は、政
府の軍事計画をもおぴやかすことになるので、政府も各種の統制令を
おこなったのである。たとえば、昭和12年8月暴利取締令改正公布施
行、昭和14年4月物価統制大綱決定、および昭和14年10月価格等統制
令公布等である。このようにして物価上昇がつづいたままで太平洋戦
争(昭和16年12月)に突入するのである。
昭和17年一昭和21年の期間の物価動向は、いわば太平洋戦争中(昭
和16年12月一昭和20年8月)の物価動向を示すものであるが、戦時イ
ンフレーションによって年平均物価上昇率は70.8%の上昇であった。
それも昭和18年に7.0%、19年に13.3%、20年に51.1%、21年に364.5
%と加速度的に上昇率を高めていった。物価安定のために、物資統制
令公布施行(昭和16年12月)、衣料配給総合切符制実施(昭和17年2
月)、食料管理法公布(昭和17年2月)、緊急物価対策要綱閣議決定
(昭和18年4月)、国民動員実施要綱閣議決定(昭和18年5月)、特
別価格報奨制度実施(昭和18年8月)、戦時物価審議会の設置(昭和
20年1月)等種々な物価統制が行われた。しかし、価格の統制は必ら
ずLもうまくいかず「やみ物価」となってあらわれたが、それでも終
戦後にくらべれば、まだましであったといえよう。
1.戦後より対日講和会議調印までの卸売物価
昭和20年から昭和26年の時期は戦後の超インフレーションの時代で
あり、年平均物価上昇率は114.0%に達した。なかでも昭和21年の対
前年上昇率は364.5%を示し、終戦後のインフレーションの激しさを
示している。その後も昭和22年に195.9%、23年に165.6%、24年に
63.3%、25年に18.2%、26年に38.8%と高上昇を示した。このような
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わが国物価の歴史的分析
戦後の超インフレーションは超過需要インフレーションと考えられる。
つまり、供給力は戦災によって破壊された上に、需要面では復員や軍
事工場の解雇手当などの財政支出の増大ならびに戦時中抑圧されてき
た購買力が爆発したことによって超過需要は著しかった。なかでも消
費財に対する超過需要は大きく、生産財の物価上昇率より大きかった。
また経済再建のための巨額の資金が産業界に流出されたが、これがほ
とんど日銀貸出しの増加という形で供給されたことも物価上昇に拍車
をかけたと思われる。
.この期におけるやみ物価指数は、生産財についてみると、昭和21年
8月=100として、21年115.9、22年304.3、23年479.2、24年444.1、
25年371.3、26年549.0となっている。また消費財についてみると、
20年9月=100として、22年1月に254、24年4月に 820、25年6月
に 480、26年4月に 683、26年12月に638となっている。
もちろんこの間政府はなにもしなかったわけではない.。昭和21年2
月には金融緊急措置令によるいわゆる新円発行を行ったが、それ程大
きな効果はえられなかった。それはインフレーションの根本的原因が
供給能力の減少からきた為であろう。したがって、生産力を増大させ
るために傾斜生産方式が採用され、それを助けるために復金融資や補
給金制度が実施されたのであった。しかし、わが国の物価が次第に安
定に向いはじめたのは昭和24年を契機としてであった。昭和24年はわ
が国の戦後回復にとって極めて大切な年である。まず第一は、戦後の
生産増大のあい路となっていた原材料の不足が民間貿易の制限付き再
開によって解消されるようになったこと、第二は、超均衡予算と補給
金の打ち切りを含むドッジ・ラインの実施によって、財政面から超過
需要を抑圧しようとした。第三は、単一為替相場の設定であり、それ
までは複数為替相場によって貿易が行われていたが、単一為替相場に
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わが国物価の歴史的分析
よって、重化学工業品は割安に、軽工業品は割高になったといえよう。
第四に、シャウプ税制改革勧告によって、戦後の税制の基本が定まっ
たのである。このような施策によって、昭和24年−26年には物価も鎮
静化しはじめた。すなわち、この間の年平均物価上昇率は28.1%に低
下した。これはまだかなりの物価上昇であったが、昭和20年−24年の
177.9%とくらべ著しい安定化を示したといえよう。しかし、この物
価の安定化は強力な施策によるところから、日本経済は不況色を強め
ていた。この時朝鮮動乱(昭和25年5月)が起り、日本経済に刺激を
与えたが、反面安定化した物価をふたたび騰貴させたのであった。
8.高度成長期における卸売物価
昭和26年9月に対日講和条約が調印され、また28年7月には朝鮮戦争
休戦協定が調印され、わが国は高度成長と卸売物価の安定を経験する
にいたった。昭和26年−45年の物価の安定は驚くべきもので年平均上
昇率は僅か0.8%にしかすぎなかった。昭和26年−35年の前期が0.3
%、昭和35年−45年の後期が1.3%であった。経済が戦後の混乱期か
ら抜け出て正常化するにつれて、景気変動が明瞭になってきた。景気
上昇期には物価が上昇し、景気下降期には物価が下降したのはいうま
でもないが、全体を通じてみると著しく物価が安定していたのであっ
た。この景気変動は一般に国際収支の天井によって生じた。すなわち、
経済の過熱は国際収支の赤字を作り、金融引締め政策をよぎなくさせ
た。そして、この効果があがり国際収支が黒字になると金融の緩和政
策が行われた。しかし、国際収支の黒字の定着化が40年頃から明確に
なるに及んで、国際収支の天井よりはむしろ消費者物価上昇の天井が
強く意識されるようになってきたようである。昭和46年8月のニクソ
ン声明により、わが国の輸出中心主義は大きく反省にせまられ、国内
一10−
わか国物価の歴史的分析
開発による福祉増大が強く望まれるようになった。消費者物価の上昇
が強く意識されるようになったのは、昭和35年、36年頃からであるが、
それ以前でも、たとえば28年−35年には13.6%も上昇していた。この
間における卸売物価は零%の上昇率であることによって、両者の商牡
が問題になりだしたのである。消費者物価は35、36年頃から完全雇用
経済に近づいたこともあって急上昇しはじめた。対前年上昇率は36年5.3
%、37年6.8%、38年7.6%と加速度的な上昇を示した。その後次第
に5%程度に落ちつき昭和36年−44年の平均上昇率は5.7%であった
が、この数字は先進諸国第一の上昇であった。
9.卸売物価安定のメカリズム
以上で明治初年よりおよそ百年にわたって卸売物価の動向を考察し
てきた。戦争中のように統制か行われた場合はともかく、資本主義経
済は原則として自由経済であったことを考えると、戦争期も含めて年
2,1%の上昇率であったことは驚異的であろう。このような卸売物価
安定のメカニズムは何か誓1
まず第一に一般物価の軸としての生産費構造−これは効率賃金に反
映される−の役割を強調する必要がある。一般物価はこれを中心軸に
して、この回りを変動すると考えられる。労働生産性は経済成長に応
じて絶えず向上するであろう。いいかえれば、生産費は次第に引き下
げられるといえよう。この生産費の引き下げは利潤を高める。したが
って、労働者は自己の分け前の増加を要求し、これを実現していくこ
とができる。したがって、経済が成長していく発展的社会では物価の
長期的下落がもたされたとするならば、まさに物価の長期的下落を相
殺するような貨幣所得の上昇があったと考えられるであろう。貨幣所
得の上昇は、成長企業の生産費低下の分け前として生ずるのみならず、
−11−−
わが国物価の歴史的分析
この上昇した貨幣所得に労働市場の競争を通じて平準化していく結果、
停滞的企業の貨幣所得も上昇するのである。このことは停滞的企業の
製品価格は上昇することを意味するが、この上昇を相殺するように成
長的企業の製品価格の下降が起り、全体としてみると長期的な物価安
定が実現したものといえよう。
注1.A.H.Hansen,Monetary Theory and Fiscal policy.1949.
10.卸売物価の将来と経済政策
ところで現在までは一応卸売物価の長期的安定が達成されてきたよ
うに思われるけれども、今後の見通しは必らずLも楽観的ではない。
なぜならば、第一に労働組合の勢力増大によって賃金上昇の圧力が強
まったことであり、第二には企業の独占力が強化され、管理価格が支
配的となるおそれがあることであり、第三には夜警国家から福祉国家
へと変化するにつれて完全雇用政策が強力にとられることになったか
らである。このような継続的な完全雇用状態の下で効率賃金を安定的
に維持するためには、生産性向上率に対応した貨幣所得の上昇が必要
になってくるであろう。所得政策が叫ばれる理由である。
さて、わが国の物価は主として超過需要によって生じたと思われる。
ある場合には戦争期のように財政面から、またある場合には民間投資
面から、またある場合には輸出面からの超過需要によって生じてきた。
その上超過需要は単に全体の水準ばかりが問題ではなく、個々のボト
ルネックにもとづく物価上昇が現実的である。したがって、物価安定
策としては、全体としての超過需要の管理だけではなく、個々のボト
ルネック解消のための直接的処置も重要であった。戦時中の統制はそ
の典型であったが、戦後の原材料輸入も極めて重要な意味をもってい
たと考えられる。超過需要を考慮せず、貨幣量のコントロールのみに
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わが国物価の歴史的分析
よって物価の安定をはかろうとしたこころみは、物価の安定を実現で
きても経済の急速な不況化をもたらしかちである。ドッジラインによ
る物価の安定策はこの例であり、必らずLも成功とはいえなかったよ
うに思われる。しかし、貨幣量のコントロールが全く無意味であるわ
けではなく、むしろ金融政策の一環として行われることによって望ま
しい効果をあげたと思われる。さらに金融政策も財政政策と協調(い
わゆるポリシー・ミックス)することによって望ましい物価安定が達
成できたと思われる。
−13一