柄谷行人『言葉と悲劇』スピノザの「無限」より

柄谷行人『言葉と悲劇』スピノザの「無限」より
こういう言葉があります。
《故郷を甘美に思うものは、まだくちばしの黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられるもの
は、既にかなりの力を蓄えた者である。全世界を異郷と思うものこそ、完璧な人間である。》
これは、サイードが『オリエンタリズム』においてアウエルバッハから孫引きした、一二世紀ドイツのス
コラ哲学者聖ヴィクトル・フーゴーの『ディダシカリオン』の一節です。
(
エドワード・W . サイード『オ
リエンタリズム』)これはとても印象的な言葉で、トドロフも『他者の記号学』の中でサイードから再引
用しています。僕なんかが漠然と考えていたことを言い当てている、という感じがするんですね。
その言葉は、思考の三段階ではないとしても、三つのタイプを表していると思います。まず最初の「故郷
を甘美に思う」とは、いわば共同体の思考ですね。アリストテレスがそうですが、このタイプの思考は、組
織された有限な内部( コスモス) と組織されない無限定な外部( カオス) という二分割にもとづいているわ
けです。もちろん、このタイプの思考は、なにもアリストテレスにかぎらない。今の文化記号論でもみん
な内部と外部の分割がまずあって、その境界線を越える、というような問題として語られているわけです
ね。しかし、そういう意味での共同体の外部というものは、むしろ「異界」と呼ぶべきだと思うんです。ま
た、外にいるものを「他者」ではなく、「異者」( ストレンジャー) と呼ぶべきだと思うんですよ。僕のいう「外
部」とか「他者」とかは、このレベルでは存在しないのです。それは、この種の内部と外部の分割がありえな
いような“空間”においてのみ現れるからであり、逆に、それはそのように閉じられたシステム
( 外部を含
む) をディコンストラクトするものだからです。
次の「あらゆる場所を故郷と感じられるもの」とは、いわばコスモポリタンですが、それはあたかもわれわ
れが、共同体=身体の制約を飛び超えられるかのように考えることですね。あるいは、共同体を超えた普
遍的な理性なり真理なりがある、と考えることです。デカルトは、それがあるかどうか、あるとすればい
柄谷行人『言葉と悲劇』スピノザの「無限」より
かにして可能なのか、ということを考えた人ですね。いわゆるデカルト主義になってしまうと、それがあ
ることが当然になってしまう。つまり、自然科学があらゆる共同体を超えた真理である、ということにな
るわけです。もちろんこのことは、科学哲学の領域では、徹底的に吟味されていますけれども・・・・・・。
ふつう科学哲学の人たちは、デカルトのことを悪役に仕立てるんですね。しかし、僕は去年
『GS』にデ
カルトの『方法序説』に関する注釈を一部書いてみたけれども、デカルトに対する批判はほとんどが見当
違いだと思います。デカルトは、現代の科学哲学の持っている問題を、パラドックスまで含めてすべて提
出しています。そして、まさにそういうデカルトからのみスピノザが出てこられるのです。あるものを悪
役に仕立てるのは、見えすいたレトリックであり、哲学の「歴史」( 出来事) をもう一つの「物語」に変えるも
のです。デカルトを、われわれはスピノザ的に読むべきなのです。
第三の「全世界を異郷と思うもの」というのが、いわばデカルト=スピノザなのです。むろん、ある意味で
デカルトは第一、第二のタイプでもあるわけです。スピノザは、そういう意味で「完璧な人間」ですね。こ
の第三の態度というのは、あらゆる共同体の自明性を認めない、ということです。しかし、それは、共同
体を超えるわけではない。そうではなく、その自明性につねに違和感を持ち、それを絶えずディコンスト
ラクトしようとするタイプです。それは、第一のタイプが持つような内と外との分割というものを、徹底
的に無効化してしまうタイプであり、しかもそれは、第二のタイプで普遍的なものというのとも、また違
うわけです。
内と外との区別のない空間というのは−僕はそれを「社会的」な交通空間と呼びたいのですが−いいかえ
れば、それ以上の外がないという意味で、いわば「無限」の空間なんです。ふつう内部と外部というのは、
有限と無限定との区別であるわけですが、その区別を無効にしてしまうような無限性、それがスピノザの
いう「無限」だと思います。
柄谷行人『言葉と悲劇』スピノザの「無限」( 1 9 8 9 、第三文明社) より