見る/開く

【沖縄県教育庁文化財課史料編集班】
【Historiographical Institute, Okinawa Perfectual board of Education 】
Title
Author(s)
Citation
Issue Date
URL
Rights
仲吉良光論−近代を中心に−
納富, 香織
史料編集室紀要(25): 127-154
2000-03-16
http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/okinawa/8023
沖縄県教育委員会
史料編集室紀要
第2
5
号
(
2
0
0
0)
仲 吉 良 光 論 一 近 代 を 中 心 に-
納富
香織★
1. は じめ に
1
8
8
7-1
9
7
4)の足跡 を、明治か ら沖縄戦直後の時期 を中心 に辿
本稿 の 目的は仲善 良光 (
ることである。沖縄近現代史 における仲吉良光の位置付 けは、主 として復帰運動史の文脈
」
で語 られ、新里恵二他 (
1
9
5
7)が 「将来起 り得 るべ き事態 を予測 し得 た 「米軍 の占領第
(
1
)
- 日か ら、 日本復 帰 の声 を挙 げた人物」 と評 して以来、復 帰運動 を最初 に始め た 「
復帰
男」 としての評価 が最 も一般 的である。 また新崎盛曙 (
1
9
7
6
)は、仲書 について 「強固 な
」「文化 的復帰論者」
の代 表的人物であ り、彼の主張 は
(
2
)
文化 的一体感 を核心 とす る
「
復帰
思想 の一つの典型」 をな しているとす る。
後述す るように本 人の回想 のみな らず、数 々の証言か らも明 らかなように、仲書が沖縄
戦終了直後 か ら日本 とのつ なが りを強 く意識 ・主張 してい た ことは確 かである。例 えば
1
9
4
6
年1
0月 2日、沖縄 か ら東京へ と移住 した仲書 は、神 山政 良 ら在京有志 1
2
名 とマ ッカー
(
3
)
サー連合軍最高司令 官宛てに次の ような陳情 を行 ってい る。
「
血は水 よりも渡 しといわれる如 く、沖縄全住民は、日本民族たる自覚強烈、いかなる境遇
に陥るも、本土同胞 と運命を共にしたいとの念願が支配的であります。(
中略)沖縄人民は
政治、行政その権利 とも、本土同胞 と全 く平等で、みじんも差別がないのであ ります。この
一点で沖縄が日本の一部たる確たる証拠で、竃 も疑う余地はあ りません。
」
これ以後、仲書 は党派的な立場 に拘泥す ることな く 「
鳥が鳴かぬ 日はあって も、仲吉が
復帰 を唱 えない 日はない」 といわれる程、復帰運動 に投入 してい くことになる。 しか し、
それは最初か ら強固 な復帰思想ではな く、仲書が行動 ・経験 したことを通 じて紡 ぎ出 され
た言葉であ り、思想 である。つ ま り仲吉の復帰思想 を検討す るためには、戦後の状況 を分
析す るだけではな く、そ こに至 るまでの彼の足跡 について も言及す る必要があるだろ う
。
そ こで本稿 において は仲吉 良光の戦前 の足跡 を素描 し、「
復帰男」 とい う呼称 のみでは表
わ しきれない側面 に着 目 しつつ、仲書 を復帰運動へ と駆立てていった深淵 を探 る とい う二
方向か ら論 を進めてい きたい。 なお、仲書 の著述活動 の変遷 については、巻末 に添付 した
「
仲吉 良光著作 目録 (
暫定 )」 を参照 されたい。
2.キ リス ト教 と文学 と一学生時代
★ のうとみ かお り (
史料編集室)
_1
2
7-
史料 編 集 室 紀 要
第2
5
号
(
2
0
0
0
)
(l) チム シカラーサ ン-沖縄中学校時代
仲吉 良光 は、1
8
8
7
年 (
明治2
0
) 5月2
3日、首里儀保村 に生 まれた。祖先 は、浦添親方良
憲 (
小禄家) を元祖 とす る馬氏であ り、 8世板良敷親雲上 良元の次男 9世名嘉地親雲上 良
(
L
l
)
実 を系祖 とす る仲書殿 内である。仲吾親方良平の時 に、琉球処分 を迎 える。
1
8
7
2年の琉球建 藩か ら、7
9
年の琉球廃藩そ して沖縄県の設置 とい う、いわゆる 「
琉球処
分」 を経 て琉球社 会は激動期 を迎 えるが、 この世替 りは士族層 たる仲書家 にどの ような影
響 をもた らしたのであろ うか。仲書の出 自に関 して、比屋根安定 は 「
仲吉良光氏 は首里儀
(
5
)
保 の出身で、川平輿世川 な どの一門で早 く那覇 に下 った らしい」 と述べてい る。 また 「
那
=
l
\
覇育 ちの私」 とい う仲書 の回想か らも分 か るように、幼少時代 に首里か ら那覇へ移 り住 ん
だ もの と考 え られ るが、彼 自身による記述 は一切 ないので、 これが世替 りの影響 による も
うが
なちか
さむれ ぐわ のなのか どうか明確 ではない。 しか し 「
拝 で 悲 しや廃藩の士族笠 に顔 か くち馬 小 引 ち ゅ
さ」 とい う俗歌が流行す る程、廃藩置県後 の士族 は就職難 に苦 しんだ時代 であった。 また
日清戦争 の決着 に よ り、沖縄県内 における帰属問題 は実質的 な解決が図 られ、「日本」へ
の傾斜が益 々深 まっていた時期で もあった。 この ような時代 において、仲音 は生 を享け成
長 してい くこととなる。
伸吉 は、那覇高等尋常小学校 を経 て、1
9
0
3
年 (
明治3
6
)4月、沖縄県立中学校へ進学す
る。当時の学制 は、尋常科 4年、高等科 4年 となってお り、高等科 2年 を修 了 した後 に中
等学校 - の受験 が許可 されていた。 しか し中学校へ の進学 ・進級 は大変厳 し く、1
9
0
8年
(
明治4
1
)沖縄 県立 中学校へ入学 した当間重剛の回想 によれば 「中等学校 へ の入学試験
は、落 ちるのが あた りまえだ とい う時代 で、合格 した ら、何家の何某のセガ レは中等学校
(
7
)
9
0
3
年 (
明治
-受 か ったそ うだ と、忽 ち評判 に」 なった とい う。 また、仲吉が入学 した 1
(
a
)
3
6
)4月の入学生 1
2
4
名 中、 5年間で卒業 で きた ものは3
4
名であった。
仲 吉 の同窓生 には、敗戦後 の1
9
4
6
年 4月、仲吉 の後 をついで首里市長 になった小 湾喜
長、ハ ワイ沖縄 県 人会で活躍 した牧師の比嘉賀秀 (
静観)、戦前 は琉球新報 、沖縄時事新
報、沖縄教育等 で活躍 し、戦後 には諮言
句会 。民政府副知事 となった又吉廉和 、講談社 の経
営 に関わった森 田孟睦、戟前 は雑誌 『
改造』記者 を勤め、戦後 は東京 において沖縄人連盟
の設立 に尽力 した能平名 (
永丘)智太郎 らがいた。伸吉 はこれ らの同級生 と共 に学生生活
\
=
l
を送 り、 5年生 の時 に学友会役員 として演説幹事 ・雑誌幹事 を務めていた。 また、中学時
代 の仲吉 は数 々の奇行 で知 られていた とい う。当時那覇の市場 にカマース- とい う有名 な
(
1
O
)
乞食がいて、 これ に対 して仲吉 カマデーはカマ一 夕- リイとい う揮名 を付 け られていた。
仲苦 の青年期 を最 も特徴づ ける もの として、キ リス ト教 との関わ りが挙 げ られる。その
事情 は必ず しも明 らかではないが、比屋根 安定、比嘉春潮等 の回想 か らその一端が窺 え
る。特 に、宗教学者の比屋根安定 (
1
8
9
2-1
9
7
0
)は、仲書 の説教 をきっかけにキ リス ト教
川、
に入信 、その経緯 を次 の ように回想 してい る。1
9
0
7
年 (
明治4
0
)7月、当時私立養秀 中学
校 3年生 で あ った比屋根 は、首里 の識名殿 内で行 なわれていたキ リス ト教伝 道説教会 に
て、紺 がす りの 単衣 に短袴 をはいた小柄 な青年の説教 を聞 く。
-1
2
8-
史料 編 集 室 紀 要
第2
5
号
(
2
0
0
0
)
「
今朝、雨が降っていた。母は布を織っていたが、手を休めて、チュ-ヤ、ヌーガヤラ、チ
ムシカラーサ ンと云った。諸君、チムシカラーサンを感ずる者にして、人生の意義が判 り、
基督教への道が開かれる」
「チ ムシカラーサ ン」 (
何 とな く心寂 しい) とい う言葉 を聞いて、比屋根 は 「己が霊魂
を激 しく動 か されて怪 しくも、燃 ゆるが如 くに感 じて、基督教 を信 じよう」 と決心 した と
い う。3
0
分近 くも熱弁 をふ るったこの青年 は、県立 中学校 5年生の仲吉 であ った。比屋根
は仲吉の説教 を聞い た翌 日か ら教会 に通い洗礼 を受 け、キ リス ト教青年会の一員 となるo
沖縄 メソジス ト教 会は1
8
91
年 (
明治2
4)頃、 日本 メソジス ト派の長野忠恕牧師によって
l
/
∼
89
9年
設立 され た。当初 は ご く少数 の信者数であ ったが、第 2代村井競牧 師が赴任 した1
t
2)
か ら飛躍 的 に発展、那覇の久米村 に教会が作 られた。当時は特 に児童の宗教教育
(
明治3
に力 を入れてお り、県立中学校で英語講師 もしていた米国メソジス ト派宣教 師シュワルツ
も1
9
0
7年 (
明治4
0) に建 て られた安里の宣教 師館 にて、毎週の ように英語聖書研究会 を開
催 していた。同教 会 にはキ リス ト教青年会があ り、その青年幹部 として仲書が活躍、首里
メソジス ト教会の開拓伝道 を活発 に行 っていた。 5年生の第 2学期 には、試験 に もろ くに
・
、
卜
い
出席せず教 会へ入 り浸 り、 クリスマスの余興準備 に没頭 していた とい う。
この時期 は、伊波 普猷、月城 らが、沖縄 メソジス ト教会 にて積極的に活動 を していた時
。
期 にあたる。月城 は言 う 「キ リス ト教 の精神 も天国に行 くのが 目的ではな く此 の現実 に
・
l
l
、
立 って社会改善 の為 めに奮闘す るこ とにある。
」 月城 は同教会 にて英文聖書講義 の講 師 と
な り、一方、普猷 ほ沖縄文化 についての談話会 を行 っていた。 トルス トイに傾倒 していた
とい う仲吉 もまた、 キ リス ト教の教 えを学ぶ ことによって 「
新時代」 の空気 を吸い込 んで
いたのだろ う。 この ような青年期 の思想形成 は、後 の人生 において も影響 を与 えてい る。
1
9
0
8年 (
明治4
1
) 3月 1
8日、沖縄県立 中学校第2
0回卒業生 として仲吾 は同校 を去 る。仲
0・41
年の沖縄県立 中学校生徒成績表が残 っているが、そ
吉が第 4・5学年 にあたる明治4
れ に よる と仲吉 の成績 は、第 4学年で は、席次 3
1
位 、歴史89点、化学 4
4点 の平均成績 71
点、第 5学年では席次3
1
位、歴史9
1
点、幾何 5
1
点、平均成績7
5
点であ り、文系科 目、特 に
5
)
(
1
歴史が得意であ り、逆 に理数系の科 目が不得手であった様子が読み とれ る。6
6
名の卒業生
中、那覇出身者が3
5
名、首里 1
2
名、国頭 6名、島尻 5名、中頭 ・宮古 ・八重 山各 1名、他
府県出身が 5名であ り、那覇 。首里 出身者が殆であ った。卒業後 は多 くの生徒が進学 し、
進学先 と しては特 に東京が多 く、仲吉 もその一人であ った.高等教育機 関が存在 しなか っ
た近代 沖縄 において は、教育制度 を通 じて沖縄か ら東京 な ど日本本土へ とつ なが る通路が
形成 されてお り、それが沖縄 にとって 日本の文明-近代化 を受容す る一つの経路 となって
いた。 こう して、仲 膏 は後 に長い期 間生活 を送 ることになる東京へ旅立つ こ とになる。
(2)文学 への傾倒-早稲田大学時代
9
0
8
年 (
明治4
1
) 9月、早稲 田大学英文科へ入学 した。大学時代 の仲吉 は一体 ど
仲吉 は1
の ような生活 を していたのだろうか。特 に、中学時代 か ら目覚めていたキ リス ト教 との関
-1
2
9-
史料 編 集 室 紀 要
第2
5
号
(
2
0
0
0
)
わ りは どうであったのだろ う。比屋根安定の回想 によれば、仲吾 は1
91
0
年 (
明治4
3
)頃の
『
沖縄青年会雑誌』 に 「
ヘ ブライズム とヘ レニズム」 とい う論文 を掲載 した り、上京当初
2 .3年 は東京神学社 に在学 中であった伊江朝貞等 とともにキ リス ト教信者 の団体 を組織
(
1
7
)
し、植村正久が主催す る日本基督教 団富士見町教会 に通 っていた とい う。 同時期 に在京沖
縄青年の間で、キ リス ト教信者達が 「
霊友会」 なるもの を組織、会員数 は 1
3
名程いた とい
(
1
8
)
う新 開記事 が見受 け られ る。 当時、東京沖縄青年会長 であった護得久朝惟 がその会員 を
「
堕落学生」 と決 め付 け、青年たちの間で反感 をかった とい う。比屋根 がい う 「キ リス ト
教信者の団体」 とは、 この 「
霊友会」 とい うものであ り、仲害 も関与 していたのだろ う。
その一方 で、仲書 は当時の沖縄 における教会の在 り方 に疑問 を持 ち始めてお り 「
芝居の
、い
■
9
0
9
年 (
明治4
2
)
第二種 教会の第二種」 との新聞記事 を投書 している。それによると、1
初 めて県制が施行 されるな ど 「
沖縄 の物質界」 はその風速 を増 しているが、趣味や精神的
な ものが ないが しろになってお り、特 に芝居 と宗教 の在 り方 については再考すべ きであ
る。演劇 については 「
第二種」程度 (
筆者注 一仲吉 は文芸 について三等級 の存在状態 を念
頭 に置いてお り、理想的で もな く通俗 的で もない中間の もの とい う意咲)の上演 をす るべ
きであ り、 キ リス ト教 については伝道方法、指導者、機 関の在 り方 を改善 し、世界最大の
民族宗教 たるヘ ブライズムを研究すべ きだ としている。仲吾の投書 に対 して 「
牧羊生」 な
る人物が、 この ような考 えは人間内部の意志 と信念 を軽 ん じることであ り、仲吉の態度 は
(
2
0
)
不遜である と反論 した。後 の琉球新報記者時代 に仲吉 は、演劇 を社会教化 の一機関 として
位 置付 け、「
抽象 的 に教壇 の上 か ら説教す る よ り形 に表れた人世の或 る一部 を舞台の上 に
・
}
卜
写 して見せ る力が人心 に染 むる点 に於て甚 だ力が強 く感銘 も又強いのだ」 と述べ ている。
この ように早稲 田大学時代 の仲書 は、キ リス ト教や トルス トイズ ムに対 して変化が生 じ
91
0
年 (
明治4
3
)11月2
0日に トルス トイが死去、そのニュースは各方面で
ていた。例 えば1
話題 とな り 『
早稲 田文学』明治4
3
年1
2月号 では小特集が組 まれた。 しか し中学校時代 トル
(
2
2
)
ス トイに傾倒 していた とい う仲吉 は、一見冷淡 とも思 える記事 を新聞に寄稿 してい る。仲
吉 は トルス トイの死去 に対 して 「
格別驚 きもしない惜 しくも思わないが随分長 く生 きてい
たな と思 った」 と感想 を述べ、ニーチ ェ、 ゾラ、 イプセ ン等 に続 き トルス トイが亡 くなっ
た ことによって 「
名残 な く前代 の文星は消 えた」 としている。 しか し仲吉 は決 してキ リス
ト教か ら離脱 したわけではなかった。 これ以後仲書がキ リス ト教 に関わった とい う史料 は
見 つか らないが、沖縄戦後 、知念 の収容所 にいた時 も 「
聖書 と眼鏡 は手離 さず にいたの
(
2
'
5
)
で、毎 日聖書 を読 んでいた」 とい う。恐 らく東京で暮 らす内に仲吾 は、沖縄 内部の旧態依
然 とした物事 を排 除 し、近代化 を希求す ることに目覚めたのであろ う。 この心性 は決 して
仲吾個人の ものではな く、同時代 の沖縄知識人に共通す る ものであった。 また制度面 にお
ける沖縄 の 日本化 は、後年の復帰陳情 における正当性の根拠 となってい く。
その具体 的な表 われ として、仲舌 は次第 に文学へ と傾倒 し始 める。明治 1
5
年東京専 門学
3
年 には坪 内遣遥が中心 とな り文学科が創設、同
校 として創設 された早稲 田大学は、明治2
(
2
L
l
)
3
5
年 には早稲 田大学 と改称、そ して同3
7
年 に英米文学科が誕生 した。仲吉在学中の文学部
-1
3
0-
史料 編集室紀 要
第2
5
号
(
2
0
0
0
)
には、坪 内雄蔵 (
避遥 )や文芸批評家 ・新劇指導者 と して名高い島村滝太郎 (
抱月)、神
(
2
5
)
9
0
6年 (
明治3
9)
、坪 内 によって創設
学の植村正久等 、多彩 な教 師陣が揃 っていた。 また1
された文芸協会 は、演劇革新 に本腰 を入れるため、その機 関誌であった 『
早稲 田文学』 と
明治4
4年 5月 に分離 、「ハ ム レッ ト」や 「人形の家」 な どの演劇が次 々 と上演 されていた
時期 であった。早稲 田大学時代 の仲吉 は、沖縄の新 聞に しば しば寄稿 してい るが、それは
シェークス ピア、 ダヌ ンチオ、 イプセ ン等 に関す る記事 であ り、明 らかに当時受講 してい
た坪 内や島村 の影響 を受 けている.例 えば坪 内はバ ーナー ド 。シ ョーやイプセ ンに関す る
(
2
(
1
)
講義 を、島村 は近代劇や ツルゲ-ネ7、 トルス トイ等 の講義 を開講 していた 。
それでは仲吉 は文学 とどの ような関 り方 を していたのか。例 えば明治4
3
年末、英文科学
生 。講師 ・出身者 。関係 者か ら成 る 「
早稲 田大学文学会」が創設 された。その綱領 によれ
ば、毎年例会 5回、特別会 2回が開催 さj
t、例会 においては関係者 の公演、学生の研 究又
(
2
7
)
は作 品発表等 を行 な うこととなっている。仲舌 もその会 に参加、会員相互で作品の批評 を
している様子が 『
早稲 田文学』誌上 に記 されてい る。
、
(
2
「
仲盲君の 『
琉球へ。
』では斎藤君が 押 の文字はぞんざいでとても読めないよ。以後もっ
と丁寧に書 き給え。
』と一本 きめつける」
仲著 の作品 「
琉球 - 」が どの ような ものであったのか知 る由 もないが、仲 間 と互いの作
品 を批評 しあった り、諸雑誌の作 品について語 り合 う仲吾の姿があった。 この ような気風
の中で、仲吉 は新文学 を吸収 し、 またその成果 を沖縄 に紹介 していた。仲吉 は、その知識
をもとに沖縄 の文学 パ寅劇 について も論 じ、沖縄毎 日新 聞の文壇 を山城翠香 、末吉麦 門冬
(
2
9
)
の後 を受 けて書いている
。
もう一つ、仲吾 の東京 での生活 において重要 なのは、在京県 人 とのつ なが りであ る。
1
8
8
6年 (
明治 1
9)1
1月の 「
勇進 社 」、1
8
8
8年 (
明治 2
1
)の 「沖縄 学生会」、そ して1
8
9
0年
3
)の 「沖縄青年会」 と改称 した在京県人会の同郷集団は、第 1回県費学生の集 ま
(
明治2
りをその晴夫 とす る。その後 も在京県人学生の数 は増加 し、学生寮創設の要望が出 される
ほ どであった。その結果 、1
91
0
年 (
明治4
3
)か ら学生寮の計 画が本格的に進 め られ、資金
面 は尚家 と篤志家の寄附 によ り賄 われることにな り、翌 1
91
3
年 (
大正 2) 3月に学生寮の
落成式が行 なわれた。 それは明治 ・大正時代 に起案 ・落成 され た こ とか ら 「沖縄県 明正
(
3】ノ
(
3
0
)
塾」 と命名 された。仲害 もここにいた とい う記述が散見 されるが、彼 の早稲 田大学時代 と
は時期が合 わず、 さ らに仲吉 良光の名前 は1
9
2
7
年度 (
昭和 2) までの塾生名簿 には見 当た
I
l
.
:
・
らない。 とはいえ明正塾 は、初代舎監 ・東恩納寛悼、第 2代 ・神 山改良、第 3代 ・比嘉良
篤であることか ら分 か る ように、その運営 は在京有力県 人 によってなされてお り、当時の
在京県人が集 う場所 であ った ことを考慮す る と、仲吉 も出入 りを していたこ とは間違いな
9
2
5
年 (
大正 1
4
)の関東大震災で大打撃 を受 け、 さらに昭和
いだろ う。その後 明正塾 は、1
9
2
9
年 (
昭和 4) 閉館 した。 しか し早稲 田時代 に
前期 の社会不況か ら経営 が困経 にな り、1
(
3
:
n
始 まった在京県人 との人脈 は、その後 の仲書 にとって とて も大 きな もの となってい く。
-1
31-
史料 編 集室紀 要
第2
5
号
(
2
0
0
0
)
1
9
1
2
年 (
明治4
5
)7月 5日、仲吉 は早稲 田大学 を卒業す る。7
0
7
名の仝卒業生 の うち、
(
3
1
)
8
名、英文学科 は第一部、第二部併せ て4
6
名であった。仲膏 は卒業 に際 し
文学科卒業生 は8
(
:
う
5
)
「ガルス ワ-シーの社会問題劇」 とい う論文 を提 出 してい る
.『林檎 の木』等で小説家 と
』『銀 の箱』等 の社会問題劇 で戯 曲作家 と して も人気が あったジ ョン
しては勿論 、 『
争闘
(
3
(
)
)
・ゴールズ ワージー (
1
8
6
7
1
9
3
3
)を仲吉が どの ように論 じたのだろ うか。残念 なが らその
論文 を発見す る こ とは出来 なか ったが、仲書が入社 した後 の 『
琉球新報』大正 2年 2月
3
7
)
(
9日に、「ガルス ウアシイの社会問題劇」 を論 じた記事が掲載 されてい る。その内容 は、
「ガルスウアシイ」 の社会問題劇 とは、社会生活の価値基準 を再 び世 に問い直す ものであ
り、特 に 「因習の久 しい社会階級制度の不公平 な点 を指摘 し相互の誤 れる思想 を排 した相
互の理解 に依ってのみ円満 な社会組織 は営 まれる ものだ と云 う事 を示そ うとした」 として
い る。その内容か ら推察す るに、 これは仲膏が執筆 した記事 であ り、卒業論 文の主 旨とそ
う変 わ らない ものであろ う。仲吉 は 「ガルス ウアシイ」の劇 に、沖縄 の姿 を重ねていたの
だろうか。仲吉 は これ以後、沖縄 内部の 「因習」 と対決す ることになるが、その根底 には
この ような思想が息づいていた。
(l) 「
閥族」 との対決- 『
琉球新 幸
剛 時代
早稲 田大学 を卒業 した仲吉 は、恩 師の片上伸 に台湾の新 聞社 を勧 め られ る もそれ を断
(
3
8
)
り、大阪 日報社 に勤め ることになった と回想録で述べ ている。 しか し 「
仲吉 良光消息 先
に早稲 田大学英文科 を卒業 したる同氏 は今度東京報知新聞記者 として碑せ らるる事 に決定
(
3
(
り
せ る由なる」 との新 聞記事 もあ り、卒業直後の状況 ははっ き りしない。いずれにせ よ、沖
9
1
2
年 (
大正
縄 で一人暮 ら しを していた仲 吉の母が沖縄以外 の土地で働 くこ とに反対 、1
1
;
ド
元 )1
1月2
4日付 けで琉球新報社 に入社、県政記者 と して働 くこととなる。当時の沖縄では
『
琉球新報』 (
明治 2
6
年 9月創刊 )、『
沖縄新 開』 (
明治3
8
年1
1月創刊)、『
沖縄毎 日新聞』
1
年1
2月創刊 ) の 3紙が競合 していた。入社 当時の琉球新報社 は、社長渡久地政
(
明治4
湖、主幹太田朝敷、政治記者 に当真嗣合、社会部 に渡 口政戊等 の顔ぶれであ った。
仲吉の記者ぶ りは とて もユニー クであった。当初 は社会部 を希望 していたが、人事の関
9
1
3
年 (
大正 2)6月赴任 したばか りの第1
0
代沖縄県知事高橋
係 で県庁担当 にまわ され、1
/
ノ
】
1
)
琢也 にインタビュー をす るなど 「
硬派」 な県政記者 として も働 いていたoその一方で同僚
記者 に悪戯 を しか け る様子 が紙面 に登場す るな ど、茶 目っ気 のあ る人柄 だ った ようであ
(
,
I
Z
)
(
1
3
)
風 船玉」 「
鎌足朝 臣」 とのペ ンネーム を使用 していたが、「
風船
る.仲吉 は 「-記 者 「
=、
玉」の由来は、市 中をふ らふ らと祐樫 うとの意味である らしい。
」
仲吉 は県政記事 の他 、特 に演劇評論 を多 く執筆 してお り、当時沖縄 にあった中座 (
明治
4
3-大正 1
0
)
、香霞座 (
明治4
3-大正 2頃球陽座- )、球陽座 (
大正 2-大正 5)-頻繁 に
1
[
)
)
(
出入 りしていた様子が見 うけ られ る。明治末期か ら大正 にかけての演劇界 は、客層が支配
-1
3
2-
史料 編集室 紀 要
第2
5
号
(
2
0
0
0
)
階級 か ら庶 民へ と移行 した ことによって、それ までの組踊 や史劇 か ら、歌劇へ とス タイル
も変化 してい った時期 であ り、芝居 は庶民 に とって 「
新 知識」 を吸収す る貴重 な場 となっ
ていた。組踊 な ど古 典芸能 に も造詣 が深 く、学生時代 に新文学 を吸収 した仲吾 は文芸欄 を
担 当す る機 会 も多か った。
仲 害 は、 『琉 球 新 報 』 以外 の新 聞 ・雑 誌 で も活 躍 してい た 。1
91
3年 (大 正 2)4月
(
4
(
)
)
5日、元沖縄新 聞記 者 の仲里朝敦が週刊新 聞 『
発展』 を創刊 、琉球新報社会部記者 であっ
た渡 口政成 が所有 していた 「
九三活版」 とい う印刷所 で印刷 が行 なわれてい た。実業部顧
問 と して太 田朝敷 を冠 し、 山 田有幹 (
沖縄新 聞)、義手 用量利 (
琉 球新報 )、 そ して仲書
(
u)
も加勢記者 と して毎号執筆 していた とい う。 『
発展』 は残念 なが ら現存 していないので詳
(
4
8
)
細 は不 明で あ るが、 当時の新 聞記事 か ら創刊号 の ライ ンナ ップが わか る。 それ による と、
創刊号 1
2
頁 の紙面 は、実業 ・農業 ・文学 ・家庭 に関す る記事 の他 、組踊 ・小 説 ・和歌 ・琉
歌 な どが掲 載 、執 筆 者 には、伊 波 普 猷 、仲 吉朝 助 、太 田朝 敷 らが いた 0「本 県文壇 の駿
将」 と称 され た仲吉 は、「
別 れた女郎へ」 とい う小 説 を掲載 、新 聞小 説 と して好読物 であ
。『発 展』 を仲 間
るが、 「同氏 の 自叙 伝 の一節 な りと云 う説 もあ り」 と冷 やか され てい る
(
1
り
)
と共 に売 り歩 いてい た こともあった。
仲吉 は また新 聞記者 だけで はな く、文学青年 と して も活躍 していた。沖縄 にお ける雑誌
9
1
2
年 (
明治4
5
)6月、嘉芋 川重利 、 山城正忠 、 山 田有幹 に よって 『アソ
の憶矢 と して 1
9
1
4
年 (
大正
ビ』 が発刊 されたが 同誌 は 3号 で廃刊 、 その後 雑誌創 刊 が待 たれ ていた 。1
3)11月 、仲 吉 は記 者仲 間であ り文学 の同志 で もあ った山田有幹 (
沖縄新 聞)、山城正忠
(
5
0
)
(
歌 人)、嘉手 用量利 、末吉麦 門冬 (
共 に琉球新報 ) と同人誌 『五人』 を発行 す る。内容
は創作 、評論 、詩歌 な ど多岐 にわたっていた。創刊号 において仲吉 は精神 世界 の 自由 を説
く 「
非 道徳 主義者 の弁護」 と題 された評論 を執筆 してい た。雑誌 の冒頭 に掲 げ られた 5人
の写真- 仲 吉 は左端 に座 り、 どこか遠 くを見つめてい る- が、当時沖縄 において最 も活躍
していた文学青年 た ちの鷹揚 と した雰 囲気 を伝 えてい る。
県 内 3紙 の競合 は激 しか った とはい え、単 に同 じ社 内のみではな く、その枠 を超 えた交
流 は幅 広 く行 な わ れ て お り、 そ れ は や が て青 年 記 者 団 の成 立 につ なが っ た 。1
91
3年
(
大正 2)4月2
1日、政況視察のため東京- 出張 していた当真嗣合 (ペ ンネームが梅 山)
帰 沖 歓迎会 の席上 で、青年記者 団が結 成 された。 メ ンバ ーは、 『
沖縄毎 日新 聞』 か ら城 間
恒 加 、伊 波 普成 (
月城 )、小 橋 川朝 明 (
南村 )、末吉安 恭 (
麦 門冬 )、 『沖縄教 育』 か ら親
泊朝 摺 、 当真 嗣彦 、 『
発展』 か ら仲 里朝敦 、 『
琉 球新報 』 か ら渡 口政成、富原 守 明、当真
嗣合 、仲吉 良光 とい う11人で あ った。 同時 に会 の規約 が制定 され、「団員 の親 睦 を計 り、
その権利 を保 護 し、新 聞雑誌 の権威 を発揮 す る」 とい う目的が掲 げ られた。結成当 日に団
員 に よる記念撮影会 が行 なわれたが、その写真 には和服姿 の仲吉 が誇 らしげ に写 っていた
(
5
1
)
こ とだろ う。青年記 者 団成立 の背景 には 「政治権力 の枠 か ら少 し離 れた立場 で、(新 聞記
t
i
c
)
2
)
者 ) とい う職業の在 り方 を模索 し始め た」 こ とがある との ことだが、仲吉 はその後 、政治
との関 りを深 めてい き、当間嗣合、末吉安恭、小橋 川南村 、嘉 芋川重利 とと もに沖縄 に新
-1
3
3-
史料 編 集 室 紀 要
第2
5
号
(
2
0
0
0
)
たな新 聞 を生み出す ことになる。
大正期 になると沖縄 において も 「
本土」政党 による系列化が激 しくな り、その争いは新
I
t
I
い
9
0
9
年 (
明治4
2)3月に府県別が施行、県会議
聞社 に も多大 な影響 を及ぼ した。沖縄 では1
91
2年 (明治4
5)、沖縄 で初 めての衆議 院議員 選挙が実施 さ
員選挙 が実施 され た。続 く1
れ、政友会の公認 を受 けた高嶺朝教、岸本賀 昌が当選 した。その両代議士が 中心 とな り政
友会沖縄県支部が結成 、1
91
2
年 (
大正元) 1
2月2
5日に創立大会が那覇で開かれた。仲吉朝
助 を創立委員長 とし、常任理事 に当間重怪、仲舌朝助、素数松助、仲宗根清 、仲里金五郎
(
5
I
)
が就任 した。そ して1
91
3
年 (
大正 2) 5月に行 なわれた県会議員選挙 を経 て、同年 8月2
1
日に岸本 ・高嶺 を中心 に 「
県政研 究会」 とい う政治結社が組織 された。同会 には殆 どの県
会議 員が参加 したが、会員 は入会前 に何 れ も政友会へ入党す ることになっていた。同年 6
(
5
5
)
月、政友会系 の高橋琢也知事が赴任 し、沖縄 は立憲政友会一色の 「
全県一党」 となった0
第 2回県会議員選挙 には、太 田朝敷、渡久地政湖、仲吉朝助等が立候補 したが、太 田の
4名の
選挙活動 に仲吾 も動員 され、太 田の選挙 区 となった島尻郡伊平屋 に代理で出向 き、1
(
5
6
)
村議 に郡有志連署の書状 をそれぞれ に涯 した とい う。仲吉 もまた政友会 に賛意 を示 してい
た証左 であろ う。県議選挙 はほ とん ど無競争であ り、のんび りとした選挙運動が行 なわれ
ていたのである。結局、県議会は仲舌朝助が議長、太田朝敦が副議長 となった。
しか しこうした 「
全県一党」体制 も、大正 3年 6月の大味知事赴任 を契機 として劇的に
変化す る。憲政会系の大隈内閣 よ り任命 された第11
代沖縄県知事 。大味久五郎 (
在任大正
3年 6月 9日∼大正 5年 4月2
8日) は、沖縄県 における憲政会の勢力拡大 を図る一方で、
反対分子 に対 して圧力 を加 えた。特 に政友会 に対 しては冷遇 し、勢力拡大 を計 る尚順 と結
んで政友会潰 しを行 う。その政争の発端 は高嶺朝教の衆議 院議員辞任劇であった。
大正 3年 7月高嶺朝教が議員 を辞任 した。それは政財界 に隠然 たる影響力 をもっていた
尚順 が、 自分 の義兄弟 たる護符久朝惟 を代議士 にさせ るための裏工作であ ったとい う。尚
家資本 で作 られた沖縄銀行 の頭取 で もあ った高嶺 は、「
松 山王子」 たる尚順 の意向には逆
らえなか った。 しか し、その真相 は沖縄 の新 聞では報道 されず、 うやむや になって しまっ
(
5
7
)
た とい う。その補欠選挙 に、護得久以外誰 も立候補 しないので、琉球新報編集局では、渡
久地政湖 の発案 に よ り太 田朝数の擁立 を計画 した。仲吉 も若手新 聞記者 と して真剣 に県政
の在 り方 について模索 していたが、 この動 向 を知 った尚順が涯久地政湖 を呼 出 し、結局
「
太 田擁立」 は立消 え となった。琉球新報社 も尚順の意向には逆 らえなか ったのである
。
結局 8月末の補欠選挙 には護得久朝惟が当選 したが、その後 も中央の政争が沖縄の新聞界
に持 ち込 まれ、新 聞記者たる仲書 もその渦中に身 を投 じることになった。赴任 したばか り
の大味知事 は 「
警察政治」 を断行 、県会議員その他 の政治家 に尾行がつけ られ、新聞社内
r
)
8
)
(
に も刑事 の出入 りが頻繁 になった とい う。その ように沖縄政界 を把握す る一方、大味知事
.
は 「
琉球王か、琉球総督 か」 とい う専横 ぶ りを発揮、尚家訪問の際、前方向 に騎馬警官、
背後 に人力車の警護 をつけた大名行列 を披露 した。琉球新報社では大味知事 の政治 を批判
(
5
(
)
)
す る記事 を、大正 4年始めか ら数度 にわたって掲載 した。執筆者 は当真嗣合 であ り、読者
-1
3
4-
史料 編 集 室 紀 要
第2
5
号
(
2
0
0
0
)
か らは賞賛 のハ ガキが次 々 と寄せ られた どい う。
県政記者 として仲 書 は、大味知事 と度 々対面 した。知事 は琉球新報 の知事批判記事 につ
いて激怒、仲書 ら記者たちの県庁出入 りを禁止す るとの脅迫 を した。それ を受 けて編集会
議 が 開かれ、「
沖縄 県民 の存在 の根本義 を揺掘せ ん とす る もの に対 しては、一歩 も仮借す
(
(
1
0
)
べ か らざるな り」 との社説 を掲載 した。その後 も大味知事 は、視察の名 目で娼妓の身体検
(
f
l
l
)
査 を覗いた とい う 「
検ばい疑惑」 な ど色 々 と物議 を醸 した とい う。
高橋知事 に対す る好評価 とネガをなす ように、仲吉の大味知事 に対す る評価 は非常 に厳
9
1
5
年 (
大正 4)の
しい。大味知事時代 の業績 である那覇 ・与那原 間の県営鉄道の開通 、1
那覇 一鹿児 島間の定期航路 開始 について も、前時代 か らの計画であって大味知事の手柄で
はない、 と断言す る。それだけ新聞記者 として仲吉が政争 に対 して積極 的 に関わっていた
ことを示す ものであ ろう。又、同様 に太 田朝数 も大味知事 に対 しては評価 が低 く 「
在職中
は思い切 った暴君ぶ りを発揮 し、本県 を植民地 として見立ててその総督 にで もなった気で
いた もの と見 え、到 る処で一流の忠孝論 を強調 し、その態度の尊大 なる と相保 って県民 を
(
6
2
)
恐縮 させ た ものであ る」 と述べ る。1
9
1
5
年 (
大正 4) 3月2
5日、第 2回衆議 院議員選挙 に
おいては、岸本賀 昌、仲吉朝助、護得久朝惟 の三候補の激戦 となった。『
沖縄毎 日新聞』
は岸本、『
沖縄新民報』が護得久 を支持 、『
琉球新報』では編集局 の大方 は仲吉朝助派であ
ったが、護得久が株 主 に名 を連ねてい る関係上、厳正 中立 を標梼 した とい う。 しか し、末
吉安恭 (
麦 門冬)が キャッチ した護得久派買収事件 を記事 に しようとした際 に、尚順 より
渡久地政湖へ圧力がかか った。編集責任者であった仲吉 は勿論 、末吉、小橋 川、素手川 ら
若手記者 は報道すべ きである としたが、涯久地政湖の泣 き落 と しによ り、記事 は差止 にな
った。結局、仲書朝助 は落選 し、岸本 ・護符久が当選 した。沖縄県代議士 に当選 した護得
久朝惟 ・岸本賀 昌両代議士 は、選挙後 5日目に政友会本部へ脱党の意志 を伝 えた。
護符久 は東京遊学 時代 に憲政会幹部 と多少交流があ ったが友 人等 の勧告 で政友会へ入
党、大味知事県政下 になった ことを受 け、憲政会へ移 った とい う。それ と相前後 して当真
重慣 ・那覇区長 ら数名が政友会 に脱党届 けを提 出 していた。政友会沖縄県支部 は、護得久
・岸本両代議士、仲 吉朝助政友会支部長 ら幹事が集 り、「
形式 のみで実質の伴 わない政友
会沖縄県支部は存続す る必要 な し」 と解散が決定 された。 こう して大味知事 の圧力 と、知
事 と手 を結 んだ尚順 らによ り、全県一党体制 は崩壊 した.その後、護得久朝惟が大味知事
と結 び、仲書朝助 を沖縄農工銀行頭取 の座 か ら追放、その後任 に讃得久 自らが就任、涯久
地政湖 を専務 に し、県会議長の座 も仲書か ら伊江朝助 に変 わった。仲吉朝助 は失脚 し、大
味知事 と手 を結 んだ尚家一族が権勢 を図ることとなった。
こう した政情 を背 景に、琉球新報社 も結局 はその勢力 に屈服せ ざるを得 な くなるだろう
との判断か ら、新報記者の一部か ら 「閥族打破」の声が上が った。そ こで、当真嗣合、仲
吉 良光、素手用量利 、末書麦 門冬 、小橋川南村 ら若手記者 5名が、新 しい新 聞を誕生 させ
るべ く秘密裏 に奔走 し始める。高嶺朝教、仲書朝助、与那原 良懐 の 3氏が資金 を提供、当
真 が東京 か ら活字機械 を、大阪 で用紙 を購 入 した。当真 と仲 吉 の間で暗号 電報がかわ さ
-1
3
5-
史料 編 集 室 紀 要
第2
5
号
(
2
0
0
0
)
れ、その動向が仲 間に知 らされていた とい う。 9月中旬頃、当真が帰押 し、 5人は首里儀
保 にある末書麦門冬宅で旗揚 げの協議会 を開催、新聞名は 『
沖縄朝 日新聞』 にすること、
11月に京都で行 なわれる大正天皇即位 国民祝典の 日に創刊することを決定 した。翌 日、当
真が代表 して渡久地政湖 に 5人の辞職 を伝 え、大味知事へ は仲吉がその旨を伝 えた。退社
の際 には、仲書 らの後任が決 まるまで編集業務 は滞 りな く続 ける との 「
紳士協定」 を結
び、新 たに我謝盛翼 (
高安玉免)、又書康和、上聞正雄が入社 した。
91
5
年 (
大正 4)1
0月 3日、仲
こうして、沖縄 に新 しい新聞が誕生することとなった。1
(
(
)
3
)
吉 ら 5人は琉球新報社 を退社する。その時の心境 を仲吉は 「ただ、太田さん独 りを残 して
(
(
)
4
)
去 るのが後髪引かるる思いであった」 と回想 している。
(2)新聞社の創刊- 『
沖縄朝 日新聞』時代
1
91
5年 (
大正 4)1
1
月1
0日、大正天皇の即位式 に 『
沖縄朝 日新 聞』は発刊 された。新開
(
G
5
)
名 は当真嗣合が命名、「
旭 日昇天の勢い」 たれ との意味が込め られていた。仲吉が記者 を
していた頃の 『
沖縄朝 日新聞』は現存せず、当時の状況は仲書の回想等 に頼 らざるを得 な
L
l
l
L
、
いが、創刊号 は県制並市町村制についての記事であった とい う。創刊当初の 『
沖縄朝 日新
聞』 はなかなか好評であ り、発行部数 も琉球新報 と大差 ない程であった。創刊か ら 9ケ月
ほ どたった頃、仲吉 は当真嗣合 と 2人でライバル紙である琉球新報の発行部数 を知るため
印刷所 に忍 び込み、機械の回転数 を数 えてその部数 を調べた とい う。
仲吉 ら新聞記者 と大味知事 とは相変わ らずそ りが合わず、ある日着流 しで知事室 に入室
した仲吉 を大味知事 は激怒、そこで仲吉は通 りがかった給仕の袴 を借 りて意気揚々 と知事
(
(
)
7
)
91
6
年 (
大正
室 に舞い戻 り、知事 をへ こました とい うエ ピソー ドもある。その大味知事 は1
5) 4月2
8日付で更迭、『
沖縄朝 日新聞』 は 「
夜 は明けた り」 との見出 しをつけた。
その一方で仲吾 は政治 とのつ なが りを益 々深 くめてい く。1
91
7
年 (
大正 6) 4月、第
3回衆議院議員選挙 に政友会公認候補 として当真嗣合が立候補 した。定員 2名に立候補者
は、護得久朝惟、岸本賀昌、我如古楽一郎、そ して当真の 4人であったが、当真の運動員
(
(
描)
として仲著 は選挙活動 を行 った。当真の政見発表演説会が辻の 「
下の芝居」小屋で開催 さ
れたが、 これが沖縄初の選挙演説であ り仲苦 も一席喋 った とい う。選挙期 間中の新聞発行
業務 は末吉麦門冬 と素手用量利が中心 とな り、仲吉 と小橋川南村 は選挙活動 に夢中になっ
(
G
(
)
)
ていた。結果は憲政会公認の護得久朝惟が最高点で当選、以下我如古、岸本、当真 という
1
5
2票 を獲得 した。続 く県会議員選挙で も政友会
順位 であった。当真 は落選は した ものの1
7名当選す るなど政友会復活 の兆 しが見 え始め、政友会支部再発足へつ なが っ
系議員が 1
91
7
年 (
大正 6) 7月1
4日、当真重慣、高良隣徳、当真嗣合、伊波普成 らが政友
た。続 く1
会支部復活 を協議 、 9月 4日ついに政友会沖縄県支部は復活 した。仲吉 も入党勧誘 に力 を
)
(
7
0
入れていた という。
仲吉 はとて も活動的な新聞記者であ り、政治か ら文学 まで幅広い取材 をこな していた。
91
6
年 (
大正 5)頃 『
沖縄朝 日新聞』 に 「
伊江島
文芸面 においても活躍 してお り、仲舌 は1
-1
3
6-
史料 編 集室 紀 要
第2
5
号
(
2
0
0
0
)
ローマ ンス」 を連載 、それを中座が脚本化 し同年 6月1
7日に 「史劇
女の執念 (
伊江 島ロ
ーマ ンス)
」 と して上演 、好評 を博 した とい う。1
91
8
年 (
大正7
) 6月、沖縄朝 日の記者 に
なった比嘉春潮 は 「
私が 『
朝 日』へ行 って、 ともに記者 と して活動 したの は、当真 、仲
吉、末書、嘉手川、屋嘉 の 5人 しかいなか った。中で も最 も活動的で有能だ ったのは当寅
(
7
】
)
さん、仲吉君 だった」 と伸吉の記者ぶ りを回想 している。
また、仲書 は記者 のみではな く発行兼編集人 として業務 に携 わってお り、 同新聞社 が名
誉棄損 で訴 え られた時、仲舌 はその責任者 として出廷、罰金 1
0円 を支払 った こともあ っ
(
7
2
)
た。1
91
8年 (
大正 7)遭難 した運輸丸の 「
義指金流用疑惑」で社長 の当真嗣合 と会計担当
(
7
3
)
の野村安茂が逮捕 され るい う事件が起 こったが、その時の資金繰 りは仲吉が行 った。義指
金裁判 は当真無罪、野村執行猶予 2年 との判決が出 され、社 内 も一応平穏 を取 り戻 した。
しか し仲吉 は、1
91
9年 (
大正 8)沖縄朝 日新聞 を退社、東京へ と移住す る ことになる。
仲吉が沖縄 を離 れた理 由は如何 なる ものであったのか。一つ には仲吉 の母が 同年 2月 に亡
くなった ことが挙 げ られ る. もう一つには、仲吉 は沖縄で活動することの限界性 を感 じて
いたのではないか。当初 は渡米す る予定であったが外務省 の許可が下 りず断念、そ して仲
吉は 「
活路」 を東京 に求めるべ く出発す ることになる。周 りの人々にはその出発 をあ ま り
7L
4)
(
知 らせず、見送 りには池宮城積宝 だけが来た とい う。 こうして仲吉 は活動拠 点 を日本本土
へ移す ことになった。沖縄社会 における旧支配層 と渡 りあいつつ新 聞記者生活 を送 って き
た仲吉 は、以後 しば ら く沖縄 を離 れることになる。
4.郷 土 との つ なが り- 在 京 時代
(1) 『
東京 日日新聞』 とアメ リカ留学
1
91
9年 (
大正 8) 4月、仲舌 は東京 日日新 聞社 -入社 す る。仲害 を同社 へ紹介 したの
91
7
年 (
大正 6)復活 した政友会沖縄県支部発会式 に本
は、政友会員江藤哲蔵であった。1
(
7
5
)
部代表 として江藤が来県 した際 に知 り合 った とい う。仲吉の最初の勤務先 は同社横浜支局
(
7
6
)
9
2
0年 (
大正 9)1
0月、留学のため休職 した との記録が残 ってい る。そ
であった。 しか し1
(
7
7
)
して同年 1
0月 8日には、次の ような旅券 を獲得 してい る。
「
5
0
0
0
1
6 仲 吉 良光 戸主 沖縄県那覇 区天妃 4-2-7
(
旅行 地名 ) 英 ・仏 ・白 ・和 ・伊 ・米 ・加
(
下付 月 日) 1
0月 8日」
(
年齢)3
1・
5
(
旅行 目的)新 聞事業視察
(
7
i
3
)
従来、仲吉 は1
9
21
年 (
大正 1
0
) に東京 日日新聞 を辞職 して渡米 した となっているが、会
社側 の記録、旅券 の交付 日か ら推測す るに、大正 9年の時点で、仲書 は 日本 を離れたので
はないだろ うか。旅券 に記載 されてい る国々を訪 れ たか どうか定 かではないが、 しか し
1
9
21
年 (
大正 1
0) 6月 に発行 されてい る- 中の学友会雑誌、『養秀創立4
0
周 年号』の卒業
・
小
在米」 と書かれている。仲吉の渡米理由は不 明だが 、古波蔵保好
(
8
0
)
氏 による と 「
英語の勉 強 をす るために、仲吉氏 は渡米 した」 との ことであ り、恐 ら く何 か
生名簿 には 「
仲吉 良光
-1
3
7-
史料 編集室紀 要
第2
5
号
(
2
0
0
0
)
信念があっての行動 だったのだろう。その後、仲吉 は東京 日日新聞社 を1
9
2
2
年 (
大正 1
1
)
(
8
1
)
年1
0月休職満期 につ き解雇 された との記録 も残 っている。
仲吉 の アメ リカ時代 については不 明な部分 が多いが、『
沖縄県人事興信録』 によれば、
1
9
2
3
年 (
大正 1
2
)ロサ ンゼルス市 にあった 日系新 聞の羅府新報社へ入社 し、1
9
2
5
年 (
大正
(
8
2
)
1
4
)4月帰 国、東京 日日新 聞に再入社 してい るとある。その他 アメ リカで コックの見習い
(
8
3
)
(
8
1
)
を していた とい う証言や、ス クールボーイ として皿洗 いを していたな どの証言 もある.仲
吾の親戚が ロサ ンゼルス にいた とい う話 もあ り、恐 らくその親戚 を頼 って渡米 した もの と
(
8
5
)
思 われる。その頃の ロサ ンゼルス には 日本 人街が形成 されてお り、多 くの沖縄県人が居住
9
2
1
年 (
大正 1
0
)「黍
していた。 ロサ ンゼルス には屋部憲伝 。宮城与徳 らがお り、彼 らは1
明会」 を組織 、宗教 や社会問題 について学習 していた。屋部憲伝 は仲吉の県立中学校一期
I
.
<
l
・
l
上の先輩であ り、その従兄憲重 とは同級生 である。 仲著が彼 ら県人会 と関 りがあった とい
う史料 は発見 されていないが、何 らかの交流があったのか もしれない。いずれにせ よ、 こ
の 「アメ リカ体験」 は、沖縄戦後の仲吉 に とって重要 な もの となってい く。
(2)沖縄 県振興計画 と在京県人
9
2
5
年 (
大正 1
4
)帰国、『東京 日日新 聞』-再入社 して、横 浜支局 に再 び勤務す
仲書 は1
る。そ して同文局次長 を務 めた後 、1
9
2
9
年 (
昭和 4) には内閣通信部へ移動、東京麹 町に
(
87)
あった東京 日日新 聞本社- と配属 された。
仲吉が帰 国 した時の 日本 は、第一次世界大戦後 の戦後不況、震災不 況 に見舞 われてお
り、全 国的 に深刻 な経済危機 を迎 えていた。その ような もとで、1
9
2
0
年 (
大正 9) に砂糖
(
8
呂
)
相場が暴落、甘庶栽培 を基幹産業 としていた沖縄 は大不況 に陥る。 このいわゆる 「ソテツ
1
9
2
5
年) に象徴 されるように沖縄の産業経済は破綻、
地獄」期 には、沖縄 三銀行 の倒産 (
沖縄 では移民 と出稼 ぎ者が大量 に増 え、県外 に労働力が流出 した。
この ような沖縄 の窮状 を打 開す る策 として、様 々な沖縄救済論議が巻起 こ り、やがて沖
縄県振 興計 画が生 み 出 されてい く。 この 「ソテ ツ地獄」 の衝撃 は在京県 人の間で も広 が
り、沖縄救済請願運動、及 び沖縄振興計画策定過程 において、政府 と沖縄 を結ぶパ イプ役
を果たす ようになるが、その主要 メンバ ーは沖縄県人会 に属 していた。学生 を中心 とした
在京県 人組織 であ った沖縄青年会 は、1
9
2
2
年 (
大正 1
1
)沖縄県人会へ と改称 され、「会員
(
t
m
)
相互 ノ懇親 ヲ図 り且沖縄県人 ノ向上発展 こ貢献 スル」 とい う目的が掲 げ られ た。指導者層
は神 山改良、 漠那憲和、伊江朝助 ら沖縄青年会 とほぼ同一であ り、仲吉 も顧 問 を務 めてい
る。その後、 アジア太平洋戦争末期の1
9
4
5
年 7月、報 国沖縄協会 (
1
9
4
5
年11月に第一次沖
縄協会 と改称 )が結成 され、1
9
4
5
年11月には沖縄 人連盟が組織 されてい く。
1
9
2
4
年 (
大正 1
3
)には官民協力の もとに 「経済振興会」が結成 され、県議会や国会への
請願運動が なされた。1
9
2
5
年 (
大正 1
4
)3月の第5
0
議 会 においては、「
沖縄 県財政経済の
沖縄救済 に関す る県議案 」 (
安達
救済助長 に関す る建設議案」 (
岸本賀 昌外 3名提 出) と 「
謙蔵外 4名提 出)が採択 され、砂糖消費税 の引 き下 げが実施 された。 この ような動 向 を
-1
3
8-
史料 編 集 室 紀 要
第2
5
号
(
2
0
0
0
)
「
沖縄 島救済す るに政府の補助の如 きは畢克 カンプル的の応急手当に過 ぎず、要 は県人 自
身の努力 にあることを益 々痛感 した (
中略)本県人の乞食的要求が限 りな く続 くとこの次
(
(
)
O)
に来 るのは国民 の反感 と云 うこ とを今 尚ほ恐 れて居 る」 として、太 田朝敦 は 「
経済振 興
会」 か ら脱退す るが、 これ以後、沖縄 の陳情運動 は再燃す ることになる。
1
9
31
年 (
昭和 6) 6月、第2
2
代沖縄県知事 の井野次郎 は1
0ケ月 をかけて 「沖縄県振興計
5
年計画」案 を策定 した。その計画 をもとに那覇市長照屋宏 を長 とす る 「
沖縄県振興促
画1
進期 成 会」 が発足 、政府 にその実行 を働 きか けるが、在京沖縄 県人の神 U
」政 良や比嘉 良
篤、そ して仲吉 も積極的に活動 を した。東京 日日新 聞記者であった仲吉 は、その肩書 きで
大 臣や次官の所 に も簡単 に出入 りがで きたので、各省 で色 々 と渡 りをつ け、井野知事 らと
(
(
)
1
)
の面会 を取 り持 った とい う。 「
午後三時出勤 になっているの も午前 中に県 に関す る仕事 を
(
9
2
)
したい為 で社 で も内々それ を認 めてい る」 とい う仲吉 は、郷土沖縄 の為 に奔走す る。結
局、沖縄振興計画 は昭和 8年度か ら予算化 され るものの、戦時体制下 においてその殆 どは
実施 にいた らなか った。
仲吉 は、砂糖専売 問題 、泡盛輸 出に関す る問題 に精力的に取 り組 んでいた。特 に首里の
(
9
3
)
5
年頃か ら外来米輸入の統制が行 な
主要産業 たる泡盛産業 に関 しては熱心であった。昭和 1
われ るようにな り、泡盛の原料米であるタイ米輸入が厳 しくなったのだが、 この苦境 を救
ったのが仲吾であ った。仲吉 は原料米の払い下げを直接農林省 に要請、それが きっかけ と
な り、沖縄 か ら陳情貝が上京、佐久本 政敦 (
瑞泉酒造)、崎山起栓 (
崎 山酒造 )、玉那覇
1
;
1
I
・
有義 (
瑞穂 酒造)の 3人が米穀局長 に面会、無事 にタイ米が払い下げ られた とい う
・
。
1
9
3
7
年の 「国民精神総動員実施要綱」の発表 、1
9
4
0
年 に大政翼賛会成立 とい うように、
戟時体制へ と移行 してい くにつj
l沖縄 の思想 ・文化 の取締 りが強化 さj
tるようになった。
1
9
3
0
年代後半か ら1
9
4
5
年 にかけて行 われた生活改善運動 は、沖縄 のみ な らず、在本土県人
の間で も推進 されてい く。極 めて文化的な形 で推進 されたこの運動 においては、抑圧 され
た もの と称揚 され た ものが存在 していたが、 それは国策 に沿 うかたちで推進 されてい っ
(
≡
)
5
)
た。仲書 もこの運動 に関心 を もってお り、「
生活改善」 を標梼 していた関西沖縄県人会の
1
9
3
7
年創刊) に も度 々投稿 していた。特 に、「
今 日凡 ゆる制度
準機 関誌 『
大阪球陽新報』 (
が他県 と何等異 る点 なきに独 り琉装 のみが旧琉球のス タイルその他残存 す る事 は全体主義
(
9r
)
)
の今 日余 り好 ましくない」 とい うように、琉装 。洗骨等の改善 を主張 していた。 この時期
あた りか ら、仲書 は 「日本」の範噂 に入 らない沖縄 の同有性 を排 除 しようとす る傾向が強
くなってい く。 また、仲書が戦後 、GHQや 日本政府 に 「
復帰陳情」 を していたことは よ
く知 られているが、 この ような沖縄県振興計画 d救済運動 に奔走 した ことは これ まであ ま
り触 れ られて こなか った。 しか しこれ らは決 して切 り離 して考 えるべ きものではな く、 日
本政府-沖縄 の枚潜 を陳情す るとい うス タイルは、 この時期 に確立 され た ものであ り、仲
書が敗戦直後 に日本への傾斜 を表明す る文脈 の一つ として位置づ けるべ きである。
仲吉 は新 聞記者 とい う職業 に誇 りを もっていた。仲吾 は自分の職業 について 「
新聞記者
は物質的にあ ま り恵 まれず、又社会的地位 も高 くはないが新聞記者の生活 は他 の職業 に比
.1
3
9.
史料編 集室 紀 要
第2
5
号
(
2
0
0
0
)
して相 当活気があ り、男子が精魂 を打 ち込 んでその一生 を捧 げて然 る可 き男性的快心 な仕
(
(
)
7
)
事 である。
」 と語 ってい る。その後、仲吉 は沖縄 を救済す る為 に、郷土沖縄 において政治
の世界へ 身 を投 じることになる。
5.再 び沖縄 にて
(1)旧都復興の シンボル- 首里市長時代
1
9
4
2
年 (
昭和 1
7
) 4月の衆議院議員選挙 に立候補す るため、仲書 は東京 日日新聞社 を辞
し、帰押 した。立候補 に至 るまでの事情 は明 らかではないが、沖縄 の現状 を自らの力で打
開 してい きたい との情熱があったのだろ う。伸書 は、言論界か ら政界-転 身 した太 田朝敷
・当真重懐等多 くの先輩 と同 じ道 を歩み始め ようとしていた。
仲書 は同年 4月 8日に立候補者 として紙面 に登場す るが、1
0日後の 4月 1
8日には立候補
(
I
)
8
)
を辞退 している。 とい うの も、同選挙 は翼賛選挙 であ り、翼賛会本部か らの推薦候補 は、
仲井 間宗一、平良辰雄、仲宗根玄憶の 3氏であったが、定員 5名の ところに立候補者が仲
3
名 とい う激戟が繰 り広 げ られ ようとしていた。その ような中、仲膏が辞退 し
薯 を含めて1
(
9
(
)
)
た背景 には、同 じく立候補 していた漠那憲和の意向が働 いていた とい う。 また、同時期 に
0
名
行 なわれた沖縄県議会選挙 も立候補者が乱立、特 に那覇市 は定員 4名 に対 し立候補者 1
とい う混戦ぶ りであったことも仲吉の決意 に拍車 をかけたのであろ う。 ちなみに、県議会
(
l
o
o
)
選挙 において首里市 は無投票 とな り、「
推薦制の誇 り」 と報道 されてい る。仲吉 は立候補
を辞退す ることによって翼賛選挙 に奉ず ることがで きるとし、その心境 を 「
君子争 わず」
(
1
0
1
)
の名文句 で表現 している。衆議院選挙 は漢那憲和、仲井間宗一、伊植肇、桃原茂太、湧上
聾 人が当選、仲吉 はその後、第 7代 目の首里市長 に就任す ることになる。
首里市では、1
9
4
2
年 (
昭和 1
7
)3月2
0日に任期満了予定の第 6代首里市長 ・伊豆味元永
3
年 3月2
9日-昭和 1
7
年 3月)の後任 問題 をめ ぐって市会が紛糾、県随一の翼
(
在任 昭和 1
(
1
0
2
)
賛市政 に危機が訪れている と評 されていた。後任市長 に勝連助役 を昇格 しようとす る動 き
と、 これ に反対す る一派が衝突、何度 も市会が流会す る混乱ぶ りであった。結局 、白紙の
状態か ら候補者選 びが再度行 なわれ、仲吉が全会一致で推薦 された。仲吉 が推薦 された背
景 には、彼 が 首里 出身であること、そ して泡盛産業 に対 して協力的であったことが考 えら
れ る。 こう して仲吉 は、生 まれ故郷 ・首里 の第 7代 目市長 になった。
貧乏都市首里 の市長 になった人は、「
貧乏 くじをひいた幸薄 き市長」 と して世 間の同情
を浴 びていた。廃藩置県以来、主 だった産業 もな く衰退の一途 を辿 ってい た首里市 は財政
的 にか な り逼迫 した状 況 で あ り、第 4代 首里 市 長太 田朝 敷 (
在任 昭和 4年 6月 1
8日昭和 8年 6月 1
7日) は、琉球新報社長 を兼j
aなが ら無報酬でその役職 についていた程であ
る。1
9
3
9
年 (
昭和 1
4)には、当間重剛那覇市長 によ り、那覇 ・首里 ・真和志 ・小禄 。豊見
城 を合併 し、地域産業 を活性化 させ ようとい う 「
大沖縄市」建設 も構想 されていた。
就任後、仲吉が最初 に着手 したのは龍樺 を淡水養魚場 に改造 して、市民 に 「
必勝食」 を
_1
4
0-
史料編 集室紀 要
第2
5
号
(
2
0
0
0
)
進 上 しようとい う事 業 で あ った。 これ に よ り旧都 の美化 と空 閑の有効利 用 になる と、
1
9
4
2
年 (
昭和 1
7
)1
0月 4日作業着手、尚穆王以来 1
8
5
年ぶ りに龍樺 の夜藻 を行 った02万
7千 人の市民が総動 員 され、仲書 は率先 して作業 に勤 しみ 、5
6日間でその作 業 は完了 し
(
】
0
3
)
た。その費用一万 円は、淵上知事の出 した県税出港税撤廃 を仲吉が早川知事 に陳情、その
(
l
o
ヰ
)
実硯 に感謝 した沖縄 酒造組合が寄附 した ものであった。 この龍揮夜藻 は、市民 の精神作興
運動 の一環 とされ、「眠れる首里市民」 の奮闘ぶ りは、全県民の注 目を浴 びた。 さらに主
要道路 ・排水路 の整備 、食糧増産の一環 としての芋作 ・養豚 の奨励等 の事業が行 われた。
9
4
3
年 (
昭和 1
8
)廃藩置県後 に那覇の真数寺 に保管 されていた 「海外発展の名鐘」
また、1
(1
05)
である万国津梁の鐘 を、首里城内 にあった博物館 に移管 したの も仲吉の業績 であった。
仲吉 は、沖縄 を東亜の心臓部 ・南進基地 として位置付 け、それが国家的使命 であ り、沖
縄県の振興 を図 る術 である と考 えていた。 また那覇港 の繁栄 には首里人の活躍があ り、我
(
1
0
6
)
々は先祖の偉業 を継承 し率先 して大沖縄市建設 に尽力すべ きであるとした。首里市の産業
を復興す るため、仲書 は首里青傘 ・芭蕉製品の機械化等様 々な事業 を試みたが、特筆すべ
きことは、壊滅状態 であ った泡盛産業 を復興 したことである。その具体策が泡盛 を南方戦
9
4
4
年 (
昭和 1
9
)
、仲吉 は陸海軍両省 に泡盛採用 を陳
線 の兵士 に供給 す る ことであった。1
情、泡盛製造のため玉那覇有義氏 (
瑞穂酒造)外 4名 を軍属 として ビルマへ派遣 した。現
地の学校 を借 り入れ工場 を作 り友軍のために泡盛づ くりを した とい う。つ ま り泡盛の南方
(
1
0
7)
(
1
0
呂
)
進 出 を実現 したのである。安里延 に代表 されるような当時の南進論 を仲吉 も信 じていた。
仲舌 は 「
黙 々 と報 国復 興路 を遇進 あれ これ実 に眼 ま ぐる しい位 の ミ
復興音頭ミ を奏で突
撃 また突撃、殊 に増産都建設 に余念がない。むっつ り市長の豊かな企画性 と実践力 は旧都
(
l
o
t
)
)
歴代市長 中の-異彩 であろ う」 と、その手腕 をかな り評価 されている。つ ま り戦時体制下
における旧都首里 の復興 ・躍進のシンボル として仲書 は活躍 した。 しか し、それは沖縄戦
- と続 く道程 で もあ った。
(2)沖縄戦 と 「
復帰」思想
1
9
4
4
年の 「
1
0・1
0
空襲」以来、沖縄 島は空襲 に怯 える 日々が続 き、首里市民 もまた同様
の不安 を抱 えることになった。昭和2
0
年 2月に入 ってす ぐ那覇 ・首里市 と島尻 ・中頭郡 に
疎 開命令が出 され、首里市 は羽地 。今帰仁の割 り当て とな り、5
,
0
7
0人の移動 が決め られ
(
1
1
0
)
た。 しか し、多数の市民が首里 に残留 していた。
仲舌 は首里市長 と して軍 に全面協力 していた。市民の集 ま りなどでは仲吉が精神的激励
をす るのが決 ま りになってお り、毎月 8日の大詔奉載 目には、仲吉 は じめ市職員が沖縄神
(
1
1
】
)
社 に参拝、戦勝祈願 を していた。昭和2
0
年 3月の春季皇霊祭 の 日に仲吾 は 「
軍司令部やそ
の他 の情報 か ら米軍 は硫黄 島攻略後、必 らず沖縄 を襲撃す る」 と判断、「
沖縄 を本土攻略
の根拠地 とすべ く必ずや って くると思 って新 たな決意で皇軍 と協力決戦身構 えに移 るべ き
(
)
1
2
)
時 だ」 と県民の奮起 を促 すべ く 『
沖縄 日報』 に寄稿 した とい う。首里市役所 の防空壕 は儀
0
人ほ どが避難 して
保西森の地下 に作 られ、そ こには仲吉以 下、市職員お よびその家族約5
-1
4
1-
史料 編 集 室紀 要
第2
5
号
(
2
0
0
0
)
いた。隣の壕 には大政翼賛会書記長の当間重剛や同書記の田端-村、浦崎純 らがお り、そ
の 3人か ら仲吉 は司令部の情報 を仕入れていた とい う
。
1
9
4
5
年 4月 1日、沖縄 島に上陸 した米軍は、圧倒 的な戦力で進撃、 日本軍司令部のある
首里 に戦線が迫 り、緊迫 した状況の中で、4月2
4日首里住民 に避薙命令が出 された。疎 開
準備が整 った ところで、勝連助役 の音頭 によ り 「
首里市万歳」 を三唱 した後、住民 は南部
などへ避難 したが、 その道程 で命 を落 とす者 も多 かった。仲吉 ら市職員 はその後 も残 り、
4月2
7日の早朝 には真和志村繁多川 にある県庁の壕 で、最後 の南部地区市 町村長会 と警察
署長合同会議が開かれ、会議後 には戦勝祝賀会の約束が交 わ された。 しか し戦況がい よい
(
1
1
3
)
よ激化、「
若 し死 ぬ な ら首里市内、特 に生 まれた儀保村 の土 にな りたい」 と願 っていた仲
吉 だが、首里市役所員 らとともに南下、 6月頃知念の収容所へ身を寄せ る。 これが仲吉 に
とっての終戦であ った。
回想記 に よれば、仲書 は収容所 に設置 された療養所 で通訳 を務めなが ら、衛生兵 たちが
読 み捨 てた雑誌 や新 聞等 よ りアメ リカの世界 政策 を知 る。 中で も 『ライ フ』 に掲載 され
た、今後 も天皇制が維持 され るとの記事 を読み 「
何 だか身内がほのぼの と勇気のわ き出る
の を覚えた」 とい う。それか らアメ リカには領土拡大の意思がな く、民主主義の主張があ
る との記事 を読み、酒造家宮城康太郎 ら仲 間 と 「日本復帰」 を決意、「
対 日講和 の際、沖
縄 はやは り日本の一部 として残 るよう、配慮方 をワシン トン政府 に進言 されたい。 これ に
は理論 も理屈 もあ りませ ん。沖縄 人は 日本人ですか ら、子が親の家 に帰 りたがるが如 く人
(
l
l
,
1
)
間自然の感情であ ります」 との陳情書 を、1
9
4
5
年 8月 4日に駐留米軍へ提 出 した とい う。
当時の 『ライフ』誌上では、硫黄 島の戦いや沖縄戦の様子が詳細 に報 じられてお り、天皇
(
1
1
5
)
制 に関す る記事や、米国の戦後構想 に関す る記事 も見受 け られるム これ らの雑誌や新聞が
仲吉の情報 源であ った とい う回想 は、ほぼ間違いないだろ う。 しか し現時点では、同陳情
書 の存在 は確認 されてお らず、その内容 について明確 なことは分 か らない。 この点 につい
ては後述す るが、仲書 はその思想 的展 開を 「日琉 同祖論」 に取 りつかれた、 と表現 してい
る。ある日、百名海岸 にて海水浴 を している時に、久高島にかかる夕陽 を見 て、向象賢の
(
】
】
(
)
)
「
羽地仕置」が脳裏 に浮かび、 日琉 同視論- と思いが及 んだ とい う。
6月末頃、沖縄 をほぼ制圧 した米軍 は、沖縄 島各地 に収容所 をつ くり住民の救済 を行 う
一方で、沖縄住民 の 自治組織 をつ くりあげていった。軍政府 は沖縄人による諮問機 関 を設
置■
、各収容地区か ら選出 された1
2
8名 の代表者が集め られ、 8月1
5日には仮沖縄 人諮言
句会
0日に開かれた第二回沖縄 人諮絢会 において、1
5人の委員が選出 され、
が開かれる。 8月2
(
】
1
7
)
志喜屋孝信 を初代委員長 と して 8月2
9日には沖縄諮言
句会が正式 に発足す る。 しか し、その
C 調査 (
軍の諜
人選か ら当間重刷、平良辰雄、仲吉 良光 は除外 された。当間、平 良は CI
報部隙)の結果であ ったが、仲著 は軍政府政治部の通訳兼 ア ドバ イザーを務 めていたマサ
ジ ・マルモ ト中尉 の判断 によって除外 された とい う。伸書 は同氏 に 「
戦争がすんだ ら沖縄
は 日本へ復 帰すべ きである」 との論文 を送付、諮絢会 メンバ ーの選定 に も関与 していたマ
ルモ ト中尉 は 「
戦争 が終結 していない時期 にこの ような考 えの持 ち主 を入れ るわけにはい
_1
4
2-
史料 編 集 室 紀 要
第2
5
号
(
2
0
0
0
)
(
1
1
8
)
か なか った」 と判断 した とい う。 この回想が正確 な らば、仲吉は諮絢会メ ンバーが選定 さ
れ る以前 に、 この ような主張 を行 っていたことになる。仲吉が提 出 した とい う陳情書 は沖
縄 諮言
句会 に も、軍政府副長官 ムー レ-大佐が同文書 を諮問す るとい う形で知 られたが 「
必
ず しも住民多数の意見 ではない」 として葬 り去 られた とい う。委員の一人であった仲宗根
源和 は 「同会で仲害氏の陳情書 を公式 に取 り上げたことはなかった。然 し、 この陳情が、
幹部の志喜屋 、又吉 (
康和)民 らにとって、はた迷惑 な ものであったことは十分考 え られ
、
l
い
1
1
る。結局、陳情書 は幹部の間で処理 したのではなかろ うか」 と述べ ている。 しか し、 この
陳情書 は ワシ ン トン政府へ送 られた とい う通知が、仲吉の もとに届 け られた とい う。
こう して伸吉は、米軍政府が設立 した沖縄 の中央機 関たる沖縄諮言
句会 とは全 く立場 を異
(
1
20)
にす るこ とになる。 この ような中、仲舌 は沖縄戦で荒廃 した首里復 興の指導者 としてその
姿 を現 し始 め る。沖縄戦後、各地 にで きた収容所以外 の土地はオフ 。リミッツ区域 になっ
てお り、住民 の移動 は認め られていなか った。そのため住民の間か ら旧居住 区-の移動、
(
1
2
1
)
食糧配給 な ど多数の陳情書が諮言
句会 に提 出 されていた。軍政府 は1
0月2
3日に住民の旧居住
(
1
2
2
)
区への移動 を指示、 これ によって徐 々に住民の帰還が行 なわれるようになる。 しか し、那
覇 ・首里住民 の移動 は、同年11
月に陶業関係者が壷屋一体へ入城 を許可 されたのみで、そ
の見通 しが なかなかつかなかった。仲吉 は捕虜 になった直後 か ら首里復興 を構想、その陳
情 をす るため に、仲書 は知念の収容所 か ら首里が編入 された糸満地区の軍司令部へ、平敷
慶久、金城幸祥 らと通 い続 け米軍 に陳情 を続 けた。
1
9
4
5
年11月 2日、仲書 を代表者 とす る 「
新都市建設方 に関す る請願」 なる陳情書が米国
(
1
2
3
)
軍政府本部宛 に提 出 された。それは 「
鳥のその巣 を慕 うが如 き」心情か ら戦前の居住 地へ
の帰還 を希望 し、軍政府の施設地区外 の那覇、そ して首里、真和志全体 を一区 とす る新都
市建設 を要望、 さらにその復興 に必要 な材木等の支給 を軍政府 に要求 してい る。 この 「
新
都市建設」 とは、戦前 の 「
大沖縄市建設」 をモデル とした ものであ り、1
9
5
4年の那覇 。小
禄 。首里合併 に通 じる都市計画であった。他 の陳情書が軍政府 ・諮言
句会宛 になっているの
に比べ、仲書 は 「
軍政府本部」宛 としてお り、仲吾 の行動が諮言
句会 を視野 に入れていない
ことが分 かる。11月 9日の諮絢会の軍民協議会 において、軍政府か ら 「
仲吾様 の首府問題
(
1
2
4
)
の陳情書 を貰 ってス トリー ト少佐 に上 げ ま した」 との報告が なされている。
首 里復 興 を働 きか けた結 果、伸 吉 は糸 満地 区隊長 プ ラ ンナーの協力 を得 る。 そ して
1
9
4
5
年1
2月 1
4日に先遣 隊4
7
名が首里への立 ち入 りを許可 された。それは丁度 「
忠 臣蔵」の
日であ り、先遣隊の行動 を赤穂 4
7
士 になぞ らえた非常 に仲吉 らしいアイデアであった。先
1
9
4
5
年1
2月 1
4日 首里建設先発隊
遣 隊 を撮影 した写真 には 「
(
1
2
5
)
る。
仲吉 良光」 と明記 されてい
その後 、第 2陣が 1
2月下旬頃、第 3陣が 1
9
4
6
年 1月頃に首里へ入 った。茅葺 き屋根 を作
るため女性が知念村付近でカヤ を刈 り、竹 を佐敷村 か ら取 り寄せ住宅の建設 を行 った。市
9
4
6
年 1月には首里初等学校が設置 され るなど教育行
の行 政組織 も簡略 なが ら整備 され、1
政 も開始 された。 また豊平良顕 を中心 と して文化部 も設置 され、沖縄戦で散逸 した文化財
-1
4
3-
史料 編 集 室 紀 要
第2
5
号
(
2
00
0)
(
1
2
(
)
)
の収 集 も行 われ た。国頭 に疎 開 していた首里市民 は、元首里市議 の真 栄城玄 明 を中心 に
「
帰還促 進期成会」 を結成、やがて首里市の赤平、平 良、汀良町の一部か ら徐 々に解禁 さ
(
1
2
7
)
れ、戦前 同地区 に居住 していた市民 は帰還 を許 されるようになった。1
9
4
6
年 2月2
7日まで
(
1
2
8
)
戸 4000人が首里へ帰還 し、 さ らに病 院 なども開設 された。当初 は首里解放 を認めて
に600
(
1
2
0
)
いなか った軍政府 も 「
首里が全面的 に民地区 になる模様 である」 との ワ トキ ンスの発言か
(
1
3
0
)
らも分 か るように、徐 々に住民の移動 を認め、仲吉 らの復興活動 を模範 的だ と賞賛 した。
仲吉 は首里復興 を進めつつ、沖縄 の帰属 に関す る講演 を行 っていた。前述 した ように仲
書の 「
復 帰陳情書」 なる ものは未 だに発見 されていないが、沖縄戦終了直後 か ら日本 との
結 び付 きを強 く主張 していたのは確 かである。知念収容所 にいる時か ら日本復帰 を盛 んに
(
1
3
1
)
説 いて、 それをパ ンフレッ トに して各地 に配 っていた とい う証言 もある。 しか し、その主
張 とは如何 なる内容の ものであったのか。それを知 る一つの手掛 りとして、伸書が東京-
9
4
6
年 8月 5日号 に掲載 され
移住 す る までの間 に行 っていた講演 の概要が 『
沖縄新民報』1
ている。そ こで仲書 は、 日本の主権範囲 を定めた 「ポツダム宣言」や、領土不拡大 を宣言
した英米 の 「
大西洋憲章」 などに言及 しつつ、沖縄が信託統治領の対象地城ではない とい
う主 旨の講演 を行 っていた。即 ち、沖縄民 は政治 に も参与 して きた 「自治能力」 ある日本
の一地方民であ り、「
沖縄県民の総意 でアメ リカの統治領 たるを表現 しない限 り、右宣言
(
大西洋憲章 一筆者註)の手前 日本 か ら隔離 しない筈 である。 さうなれば勝手 に沖縄 を信
託統治領 たるは決 め得 まい (
中略)結局沖縄帰属 は国際連合で決定す る」 ことになるだろ
(
1
3
2
)
うと述べ てお り 、少 な くともこの時点では 「日本復帰」 を主張 してはいない。
何 れせ よ、軍政府 の統治法 として 「
離 日化」政策が図 られ る中、仲害 の主張は極めてユ
ニークであった とい えよう。仲吉がその ような主張 を した背景 として、伸 吉のアメ リカ経
験 が挙 げ られる。仲舌 はアメ リカに対 してある程度の予備知識 を持 ってお り、本人の回想
に よれば、 アメ リカの民主主義 を信 じてい るか らこそ、その ような主張 を行 った とい う。
また、英語力があ ったため、当時の国際情勢 を知 ることがで きた。
仲書 の ような志 向は本当 に少数であったのだろ うか。沖縄戦 を経 て、新 たな権力関係 の
下で戦後 の歩み を始めていた住民 の意識 を探 る手掛 りは非常 に少ないので、明確 な様相 は
(
1
3
3
)
不 明であ る。例 えば、当時、石川の収容所 にて仲書の二、三軒隣に住 んでいた牧港篤三は
(
1
3
4
)
9
4
6
年 3月29日の諮
仲吉 の主張 を聞いて、「
非常 にシ ョック」 をうけた とい う。 しか し、1
ママ
絢 会協議会 において山城篤男教育部長の 「
ハ ナ少佐 日 く、教員 に して近 頃時局の話が多い
との こ とである。倒せ ば沖縄 の帰属問題、国際関係、及 日本 に未練がある様 だか ら注意 し
(
1
3
5
)
て貰 いたい」 との発言 も見 られる。仲吉の回想 によれば、当時 「
青年、学生、教育家その
他 の大衆 は私の案 に共鳴、復帰運動 は りょう原の火の ごと く四方 に燃 えひろがった」 との
ことだが、 これは少 々誇張 された表硯 であろ う。仲吉 はその後、沖縄社会 か ら徐 々に孤立
してい く。 また
「
『
沖縄 は、 日本 に返還 して くれ』 と言 った ような建 白書 を所在米軍 に提
(
1
3
(
)
)
出す る手続 をとった ようだが、 これは斥 け られた との ことである」 との記事 が 『
沖縄新民
報』で報 道 されてお り、仲舌の動 向は在本土県人の間で も知 られていた。
-1
・
ト
1-
史料 編 集 室 紀 要
第2
5
号
(
2
0
0
0
)
この ような仲吾の行動 について、軍政府側 は警戒 してお り、仲舌 を公職か ら遠 ざける方
9
4
6
年 2月1
5日、軍民協議会で市町村長任命問題 について討議 されたが、そ
針 をとった。1
の席上で 「
上陸前の市町村長が米軍政府か ら見て適任でない人が居 る。例首里市長の如 き
である。首里市長 は陳情書 を提 出 した りして居 る。此の内容が不可である」 と軍政府政治
(
1
3
7
)
部長の ワ トキ ンスが発言 している。その陳情書が 「
首府問題」 についての ものなのか、そ
れ とも 「
復帰陳情」 についてなのか、その内容は明言 されていないが、何 れ にせ よ軍政府
5日の諮言
句会協議会で、又吉
の意向 に沿 わない ものであったことは間違いない。続 く3月2
(
1
3
8
)
康和 が 「
首里市長 は どうす るか。軍政府 は仲吉 はいけない と云 ってい る」 と発言、結局
4月 4日に、基本的 には戦前 の市長村長が新市長 に任命 されたが、仲吉 は任命 されず、小
(
1
3
り
)
湾喜長が首里市長 となる。伸著 は 「
無念 だったが しかたが ない」 と回想 している。
その後 も、仲吉 と軍政府 ・沖縄民政府 との確執 は続 く。仲吉 は市長排斥後 も、市長の仕
事 に関与 した り、首里市拡張や新聞事業等の陳情 を行 っていたが、その行動 は軍政府の反
感 を買い、民政府職員が仲吉 に対 して 「
忠告」 を行 った。 5月2
7日の軍民連絡協議会 にお
p
いて、 ワ トキ ンス は 「
首里 は糸満地 区 になって居 るが独立 してい る様 に恩 はれる。C・
を使 って情報 を取 らして も、知 らさない様 に して居 る。仲吉氏が取 らさないで居 るのでは
ないか。沖縄 を日本 に帰属 させ よとは此の仲舌氏か」 と発言、仲舌 に対す る不信感 をあ ら
(
I
l
o
)
わに している。仲吉 は夫人 とともに首里高等学校-就職 したが、す ぐに退職 させ られた と
(
】
1
1
)
い う証言 もあ り、仲害 は徐 々に沖縄 におけるポジシ ョンを失 ってい った。
(1
1
2
)
日本本土への引 き揚 げ希望者 を募 った とき、仲吉 はす ぐに応募 した とい う。その経緯 は
如何 なる ものであったのか。仲吾 自身の回想 によれば、糸満地区隊長の 「
東京のマ ッカー
サー司令部へ復帰陳情 を提 出すべ し」 とい う忠告 によって、東京行 きを決心 した とのこと
である。 また伸吉 を東京-向かわせ たのは 「
米軍 とい うよ りもむ しろ、沖縄諮絢会や沖縄
(
1
4
3
)
民政府であった」 とい う見解 もあるが、 これ まで見て きた ように軍政府側 はかな り明確 に
(
1
4
4
)
仲吉 を排 除 しようと してお り、それ を受 けた民政府職員が仲吉 に忠告 を行 ったのである。
また仲吉 自身の意志 として も、家族が横浜 にいることもあ り、戦前か らのつ なが りもある
東京 にて活動 をす ることを希望 した と考 え られる。
在沖縄 の 日本人の送還 について、 6月頃か ら民政府で検討が始 まる。 6月1
0日の 「
軍民
連絡協議会」 において、志喜屋が 「
沖縄 人」の 日本への帰還の可能性 を聞いた時、 ワ トキ
ンスは 「日本 に居 る全 沖縄 人 を帰す計 画であ るか ら日本-沖縄 人が行 くこ とは困経であ
(
1
」
r
'
)
5
名の送還がな
る」 と返答 した。 しか し、その後 も検討が続 け られ、 7月始めには 日本人2
され、続 く7月 1日の軍民連絡会議 において、叉吉康和が 日本への帰還希望者 リス ト (日
(
l
l
r
l
)
3
7人、沖縄 人9
8人) を軍政府 に提 出 した。 これ を受 けて軍政府 はその送還事業 に着
本 人2
・
;
丁
、
手 し、第一便が1
9
46
年 7月2
2日出港 、仲吉 は 日本本土-旅立つ。同 日の志喜屋孝信の 『日
記』 には 「日本本土行二十数名本 日出発。仲吉良光様 に真栄城守行様へ の伝言 を托す」 と
記 さj
tてお り、 また仲舌 か らも志喜屋 、又吉両氏宛 に、「
引 き揚 げの際御 配慮 に預 か り御
(
1
1
8
)
芳志有難 く感謝」 の 旨の礼状が届 いた とい う。 沖縄 を去 る時 に、仲吉 は 「といん うび ら
-1
45-
史料 編 集室 紀 要
第 25
号 (
2000)
.
[
1
1
)
I
らん、沖縄 の政治、るか じ失 なたる船の くくち」 とい う琉歌 を詠 んでいる。 こうして仲吉
(
1
5
0)
は、 日本兵捕虜百余名 と1
5
名の沖縄県人 とともに、7月2
3日鹿児 島港へ着 いた。その後、
東京 を中心 に 日本復帰運動 に専心す ることになる。
6。お わ りに
以上見 て きたように、近代 の仲吉 はキ リス ト教信者、沖縄 に新思潮 を もた らした文学青
年、新 聞記者、首里市長 と多彩 な顔 を持つ人物であ り、必ず しも 「
復帰男」の呼称 のみで
は照射 しきれない多様 な側面 を持 っていた。それでは、一体何が仲吉 を 「
復帰男」 た らし
めたのか。仲吉の復帰思想形成のポイ ン トを三つ指摘 したい。第一 に、仲吉が職業 として
選 んだ新聞記者 と政治 との関わ りが挙 げ られる。沖縄 の抱 える諸問題 を解決するために、
仲吉 は極めて政治的 な活動 に乗 り出 してい くが、琉球新報 。沖縄朝 日新 聞時代 に直面 した
旧支配層 との対立 は、即 ち新勢力 - 日本化の受容 となった。その傾 向が顕著 になってい く
のはや は り、仲吾 が沖縄 を離 れた後であろ う。そ こで第二 と して、仲書が その人生の大半
を東京 で過 ご してい る典型的な在京県人であったことが挙 げ られる。特 に沖縄の経済振興
に関す る陳情運動が大 きな意味 を持 ってお り、仲吉の復帰思想 は 「
沖縄 の救済」 を日本政
府 に陳情す る とい うス タイルを確立 した ソテツ地獄期の沖縄県振興計画 に遡 って検討 され
るべ きである。第三 に沖縄戦後、仲吉 は首里復興 に専心す るが、その行動 によって沖縄 に
おけるポジシ ョンを失 ったことが、東京 にて復帰運動 を始 める大 きな動機 になっている。
つ ま り沖縄の改革 は、沖縄内部 だけでは行 うことがで きない とい う仲書の考 えがあった。
冒頭 で掲 げた ような仲吉の 「
血 は水 よ りも濃い」とい う論調 を、 ナシ ョナ リズムに包摂
(
1
5
1
)
された思想 と見 ることもで きる。 しか しなが ら仲吉の行動 を、単 なる自発 的ナシ ョナ リズ
ムの一形態 と看倣す ことは、果 た して妥 当であろうか。例 えば、在京時代 に仲吉 は県人 に
9
2
9
年 (
昭和 4) に真栄田三益 を中心 に結成 された
よる社 会運動への支援 を行 っている。1
「日曜会」 メ ンバ ー に、当時獄 中にいた徳 田球-の救援金 と して 「一言 も意見 を言 わず
(
1
5
2
)
」 5円を出 した とい う。仲著 は 「日本」 とい うよ り 「
沖縄」の問題 を抱 え込む状況 に、
に
常 に置 かれていた と言 えるだろ う。勿論 その行動 自体 も厳密 に論議 されるべ きである。
また仲吉の主張 を 「
復帰運動」の基点 として位置付 けることも適切ではない。何故 な ら
仲吉 の復帰陳情活動 は、1
9
5
0
年代 以降の大衆的な復帰運動 に多大 な影響 を及 ぼ した とは言
い稚 く、少 な くともそれが どの ような人々に、 どう影響 を与 えたのか とい う検討抜 きに論
復帰」 と
じる ことはで きない。 これは 「
復帰運動」 自体 に対す る評価 に も関 るだろ う。「
一 口に言 って も、そ こに托 され る意味内容 は様 々である。仲書の主張 を単 に 「
復帰運動」
の基点 として組み込 むのではな く、それぞれの復帰主体 に応 じて検討す るべ きである。
1
9
4
6
年 8月、東京へ渡 った仲吉 は占領初期 の在本土県人の間で、沖縄 に関する貴重 な情
報提 供者 と して、 自身の経験 を話 した。 そ してそれは、特 に在京有 力県人 に影響 を与 え
6
年 8月には、神 山改良 ら県人有志 とGHQ に復帰 陳情 を行 ったことを皮切 りに、在
た。4
_1
4
6_
史料 編 集 室 紀 要
第2
5
号 (
2
0
0
0)
(
l
t
{
'
3
)
本 土 県 人 ら と沖縄 諸 島 日本復 帰期 成 会 を組織 、仲 吉 は東 京 へ い って か ら初 め て 「
復帰」 と
い う言 葉 を使 った 。 この よ うな在 京 県 人 の動 向 は、 そ の後 の復 帰 運 動 に少 な か らず 影 響 を
与 え て い る 。1
9
51
年 の サ ン フ ラ ンシ ス コ講 和 会議 と前 後 して 、 大 衆 的 な復 帰 運 動 が起 こる
が 、 そ れ は 一 体 如 何 な る もの で あ っ た の だ ろ うか 。 「
復 帰 」 運 動 にお い て、仲 吉 が 果 た し
た役 割 と位 置 を見 定 め る た め には、 在 京 県 人 の動 向 も併 せ て検 討 すべ きで あ ろ う。在 京 県
人 と復 帰 運 動 の 関 わ りにつ い て は別 稿 を改 め た い。
註
」
歴史評論 』8
3
号 、1
9
5
7
年
(1)新里恵二 ・喜久里峰夫 ・石川明 「
現代沖縄 の歴史 『
(
2)新崎盛曙 『戦後沖縄史』 日本評論社 、1
9
7
6
年 、p
p.
4
7-6
0
9
7
3
年 、p
p.6-1
0
。沖縄
(3)仲吉 良光 『陳情続 けて二十余年 われ ら沖縄復帰期成会の歩み』1
県祖 国復帰 闘争史編幕委員会 『
沖縄県祖国復帰闘争史』沖縄 学販 、1
9
8
2
年 、p
p.7-8。同
史料 の原本 は管見の限 り見つかっていない。但 し同内容の英文陳情書が 「
仲吉 良光復帰 関係
資料 1」 〔
琉球大 学 附属 図書館蔵 〕、 「
仲吉 良光 関係 文書」 〔
那覇市史蔵〕 に所収 されてい る
が、 これには在京有志 1
2
名 (
漢那憲和 ・伊江朝助 ・東恩納寛惇 ・神 山改良 ・仲吉良光 ・大横
信 泉 ・伊礼 肇 ・高嶺 明達 ・嘉手 用量利 ・船 越義英 ・亀 川盛 要 ・大 田改作 ) の署名 は な く
「
Ry
o
k
oNa
k
a
yo
s
h
i
」 の署名があるのみである。
(4)『角川 日本姓氏歴史人物大辞典4
7沖縄県姓氏家系大辞典』角川書店 、1
9
9
2
年
(5)比 屋 根 安定 「あの頃の仲 吉 良光 カマ 一 夕- リ イの 『チム シカラーサ ン』
」『お きなわ』
第 1巻 第 5号 、1
9
5
0
年
(6)仲吉良光 「私 の新聞記者時代 (2)
」『沖縄 タイムス』1956年 4月25日
9
6
3
年 、p
.
3
0
(7)当間重剛回想録刊行会 『
当間重剛回想録』星印刷 、1
『
球陽』第 1
8
号 、明治4
2
年 4月。沖縄県立 中学校 (
後 の沖縄県立第-中学
(8)「成績報告 の大略」
校 ) の学友会雑誌 『
球陽』 は1
8
9
2
年 (
明治 2
5
)創刊 され、その後 、1
9
1
4
年 『
学友会雑誌』、
1
91
7
年 (
大正 6) に 『
養秀』 と改題 された。 尚、『
球陽』第1
6
号 (
1
9
0
7)、第 1
7
号 (
1
9
0
8
)
、
第1
8
号 (
1
9
0
9
)、第2
0
号 (
1
9
1
1
)
、第2
1
号 (
1
9
1
2
)は、沖縄県公文書館蔵。
(9)『球陽』第1
7
号 、1
9
0
8
年 (
明治4
1)9月
(
1
0)比屋根前掲書。 「ス-」 は平民 が 「タ- リー」 は士族 が使 う言葉で共 に 「お父 さん」 とい う
意味 であ り、「カマデー」 は士族 を指す言葉である。 そ こへ仲吉 の童名 「カマ」がついた愛
称 である。
(
ll
)比屋根前掲書.比屋根 は 「
仲吉 良光氏は私 に とり大恩人の一人である」 とし 「
私 は仲書氏の
ため沖縄 のため、氏が伝道界 に献 身 しなかったことを惜 しまれてならない」 と回想する。
(
1
2)沖縄 メソジス ト教会 については、沖縄 キ リス ト教協議 会 『沖縄 キ リス ト教史料 』 (
1
972年、
p
p.
1
0
7-1
1
3
)石川政秀 『沖縄 キ リス ト教史』 (いのちのことば社 、1
9
9
4
年 、p
p.
1
5
6-1
7
7
)
参 照 。 ち なみ に中根 学 『人 間 ・普 猷 思 索 の流 れ と啓 蒙 家 の夢 』 (
沖縄 タ イム ス社 、
1
9
9
9年)で は、『護教』第7
7
5
号 (
明治3
9
年 6月 2日) の記事 によ り、宣教 師 シュワルツは
1
9
0
6
年 (
明治3
9
)6月頃か ら沖縄 に定住 し始めた との ことであるが、「第二の故郷 シュワ
ル ツ氏談 (
『
琉球新報』大正 4年 7月2
6日) によれば、「沖縄 県下 には十年前鹿児 島に在 り
し時 よ り往来 したるが居 を 卜せ Lは七年前 〔
筆者註一 明治4
1
年〕 な り」 とある。
(
1
3)比屋根前掲書
(
1
4
)伊 波 月城 「基督教思想 の伝播 に就 いて (上 ・下) 『沖縄毎 日新 聞』1
9
0
9
年 (
明治4
2
)1
0月
1
6・1
7日。 同時期 の沖縄知識人 とキ リス ト教 の関 りについては、仲程 昌徳 『伊波月城 琉球
の文芸復興 を夢 みた情熱家』 (リブロポー ト、1
9
8
8
年)、中根前掲書、石田正治 「
伊波普猷 に
お け る信仰 と愛郷主義 キ リス ト教 による国民道徳 の形成 (
一 ・二 ) (
『
法学研究』第6
5
巻
第 1号、第 2号 、1
9
9
8
年)等参照。
(
1
5
)『沖縄 県立 中学校 生徒 成績表 (明治4
0
年 4月調 )』、『
沖縄県立 中学校生徒成績 表 (
明治 4
1
年
4月調 )
』 ともに史料編集重蔵 (
複製)
0
」
」
」
-1
47-
史料 編 集 室 紀 要
第2
5
号 (
2
0
0
0)
8
号 、1
9
0
9
年 (
明治4
2
)4月
(
1
6
)『球陽』第 1
(
1
7
)比屋根前掲書 、p.
4
1
9
0
9
年 (
明治4
2
)7月 7日
(
1
8
)富士見 町生 「葉書一括」『沖縄毎 日新聞』1
(
1
9
)仲書生 「芝居 の第二種 教会の第二種」
『
琉球新報』1
9
0
9
年 (
明治4
2
)8月1
5・1
6日
(
2
0
)牧羊生 「仲書生 の第二種論 を読 む」『沖縄毎 日新聞』1
9
0
9
年 (
明治4
2
)8月 1
8日。牧羊生 と
は、那覇 メソジス ト教会の野原牧師のペ ンネームであった。比嘉春潮 『
沖縄 の歳月』 中公新
書 、1
9
6
9
年 、p
.
3
0
1)-記者 「
演劇 に就 き 社会教化の一機関 として 『
琉球新報』1
9
1
3
年 (
大正 2)2月2
6日
(
2
(
2
2
)仲吉良光 「トルス トイ逝 く (
上下) 『
琉球新報 』1
9
1
0年 (
明治4
3
)1
2
月 5・7日
(
2
3
)『沖縄 の証言 上』沖縄 タイムス社 、1
9
7
1
年 、p
.
4
0
(
2
4)早稲 田大学大学史編集所編 『早稲 田大学百年史』早稲 田大学 出版部 、1
9
9
0
年 、p
p.
7
2
7-7
4
6
9
9
2
年 、p
p.
2
3
9-2
4
6
。植村 と
(
2
5
)早稲 田大学第一 ・第二文学部編 『早稲 田大学文学部百年史』1
の関係 か ら、仲吉 は富士見町教会へ通 ったのだろう。
(
2
6
)当時の授業 内容 については 『早稲 田文学』参照。
(
2
7
)「文芸消息 早稲 田大学文学会創設 『早稲 田文学』1
9
1
0
年 (
明治4
3
)1
2
月
(
2
8
)「早稲 田文芸会第二例会の記 『早稲 田文学 』1
9
1
2
年 (
明治4
5
)4月
(
2
9
)仲程 呂徳 『
伊波月城 琉球の文芸復興 を夢みた情熱家』 リブロポー ト、1
9
8
8
年 、p
.
2
1
9
「
神 山文庫 」6-3 〔
史料編集室整理番号 〕)
、及び 『
沖縄県史 4 教育』p
.
7
5
7
。明
(
3
0)「塾報 」(
正塾 関係 の史料 は 「
神 山文庫」 〔
史料編集重蔵〕 に整理 されている。 尚、同史料 目録 は1
9
9
9
年 に刊行 されてお り (
『
沖縄県史研 究叢書 4 神 山文庫 目録』)、 また戦前期分 の史料紹介 と
して大域将保 「
『
神 山文庫』 について」(
『
沖縄 史料編集所紀要』第 5号 、1
9
8
0
年)が ある。
(
31)阿波根朝松編 『琉球育英史』琉球育英会、1
9
6
5
年。『
沖縄県史 4 教育』p
.
7
5
7
(
3
2
)「塾報 」(
「
神 山文庫」6-3)
(
3
3
)例 えば、1
91
2(大正元)年 1
2
月1
5日、早稲 田校友会が首里の伊江朝助男爵邸 にて開催 され当
年度卒業生 の紹介が行 われている。「
早稲 田校友会 『
琉球新報 』1
9
1
2
年 (
大正元) 1
2
月1
7日
(
3
4)「早稲 田大学 の本 年得業式 は去五 目午后三時 よ り行 わる 卒業生 中本県人は大学部英文科仲
吉 良光専 門部政治経済科今帰仁朝英の両氏 な りと 『
琉球新報 』1
9
1
2
年 (
明治4
5
)7月 1
6日
(
3
5
)「文蛮敦学会消息 『早稲 田文学』1
9
1
2
年 (
大正元) 9月号
(
3
6
)ゴールズ ワージーは小説 とは遠い、劇ではか な り明確 な形で社会問題 を取 り上げてい る。吉
川道 夫 「ゴールズ ワー ジー とシ ョー」 (
杉本 龍太郎他 編 『イギ リス文学展 望』 山 口書店、
1
9
9
2年 、p
p.
4
61-4
7
5
)参照。 尚、 当時の表記 は 「ガルス ウアシイ」 であ るが、現代 では
「ゴールズ ワージー」が一般的である。
(
3
7
)-記者 「
社会問題劇 『
琉球新報』1
91
3
年 (
大正 2)2月 9日
(
3
8
)仲吉 良光 「私 の新聞記者時代 (2) 『沖縄 タイムス』1
9
5
6
年 4月2
5日。仲吉 の新聞記者時代
を知 る手掛 か りと しては残存す る新 聞のほか、彼 自身の回想録等がある。「
私 の新 聞記者時
代 1-2
5
」(
『
沖縄 タイムス』1
9
5
6
年 4月2
4日∼5月31日)、「大正昭和 の沖縄 政界 1-8」
『
沖縄 タイムス』1
9
6
4年 8月11日-1
8日)、「私 の琉球新報記者時代 1-6」 (『琉球新報』
1
9
71
年 8月11日-8月2
0日)、「
『
沖縄朝 日新 聞』創刊当時の沖縄 (
『
沖縄 タイムス』1
9
7
1
年
9月2
8日∼1
0月1
2日)
(
3
9
)『沖縄毎 日新聞』1
91
2
年 (
明治4
5
)7月 9日
(
4
0)「仲吉 良光氏 入社 早稲 田大学英文科 出身仲吉 良光氏 は此程本社記者 に招賭 され昨 日よ り入
社執務 した り」『
琉球新報 』1
9
1
2
年 (
大正元 )11月2
5日
(
41
)「高橋 知事 を訪ふ」『琉球新報』1
9
1
3
年 (
大正 2)6月1
0日 「
徐 ろに政治 を図 らん」6月1
2日
(
4
2
)「編集局無駄 ばな し」『
琉球新報』1
9
1
3
年 (
大正 2)5月2
2日
(
4
3
)「編集局無駄 ばな し 『琉球新報』1
9
1
3
年 (
大正 2)8月 9日
(
4
4
)仲告 が 「鉄砲 玉 にな らなければいい」 と編集局では気 を操 んでいる。「編集局無駄 ばな し」
『
琉球新報 』1
9
1
3
年 (
大正 3)6月 3日
(
4
5
)例 えば、 -記者 「中座見物 『
琉球新報』1
9
1
2
年 (
大正元)1
2
月2
6日
」
」
」
」
」
」
」
」
」
(
」
」
」
-1
48-
史料編 集室紀 要
第2
5
号
(
2
0
0
0)
(
4
6
)「
『
発展 』愈 々発 刊」
『
琉球新報 』1
9
1
3
年 (
大正 2)4月 6日
(
4
7
)仲 吉 良光 「私 の新 聞記者時代 (5)
」『沖縄 タイムス』1956年 4月28日
(
4
8
)「新 聞発 展 の産声 」『
沖縄 毎 日新 聞』1
91
3
年 (
大正 2)4月 6日、「
『
発 展』 愈 々発刊 『
琉 球新
報 』1
9
13年 (
大 正 2)4月 6日。 その後 1
91
4
年 (
大正 3)9月 『
沖縄 民報 』 と改題 、社 長 は
伊 江朝 助 となる 。
(
4
9
)風 船 玉 「新 開売 子 となるの記 (一 ・二 ) 『琉 球新報 』1
9
1
3
年 (
大正 2)6月 2
8・2
9日。「辻
巡礼 記 (
-) 売 子 に化 けて恋 の辻巡 り 法被 姿 の気 軽 さよ 『
沖縄 毎 日新 聞 』1
91
3
年 (
大正
2)6月2
8日
(
5
0
)『五人』創刊号 、1
9
1
4
年 (
大正 3)11月 〔
県 立 図書館 蔵〕
(
51)「記 者 団 の成 立 梅 山君 歓 迎 会席 上 に於 て 」「青 年 記 者 団組織 『琉 球 新 報 』1
91
3
年 (
大正
2)4月 21日。撮 影会 、宴 会 の梯 子 を末吉 麦 門冬 が詳細 に報 じてお り仲 舌他 6名 が和 装 、
5名 が 洋 装 で撮 影 に臨 んだ。 麦 生 「撮 影 の記」「宴 会 の記 『沖縄 毎 日新 聞 』1
91
3
年 (
大正
2)4月2
3-2
5日
(
5
2
)粟 国恭子 「人 物列伝 沖縄 言論 の百年 末吉 麦 門冬 (
1
6
7
) 『沖縄 タイムス 』1
9
9
4
年 8月
11日∼ 9月2
8日参照 。
(
5
3)同時期 の政党 と新 聞 につい て は、太 田朝 敷 『沖縄 県政五 十年 』 (
1
9
3
2
年初版 、 リュ- オ ン企
画1
9
5
7
年再版 )大 田 呂秀 『
近代 沖縄 の政治構 造』 (
勤草書房 1
9
72年)等 参照
(
5
4)『琉球新報 』1
91
2
年 (
大正元) 1
2
月2
6日
(
5
5
) しか し、 政友会 の党是 に共 鳴 した とい うよ りも隣県 の鹿児 島 にな らって との こ とであ った。
太 田朝 敷 『
沖縄 県政五十年 』p
p.
2
3
3-2
3
4
9
5
6
年 4月2
0日
(
5
6
)仲 吉 良光 「私 の新聞記者 時代 (7) 『沖縄 タイムス』1
(
5
7)仲 吉 良光 「
私 の新 聞記者 時代 (8)
」1
9
5
6
年 5月 1
日 。高嶺 は辞任 の理 由 を沖縄 銀行等 の 「
社
業 に専 念 す る ため」 と述べ て い るが 、 『
大 阪朝 日新 聞』 で は尚順 に よる もの だ と報道 され て
い る。「沖縄 県 政物語」 湧上華 人 『
沖縄 救 済論集 』p
.
2
7
1
9
7
1
年 8月1
7日
(
5
8
)仲吉 良光 「私 の新報 記者 時代 (4) 『沖縄 タイムス』1
(
5
9
)「大味知事 の王様振 り (1-4) 『琉球新報 』大正 4年 1月 1
2
-1
5日
(
6
0
)「琉球 王欺琉球 総督欺 『琉 球新報 』1
9
1
5
年 (
大正 4)1月11日等
(
61
)「知事 の検徴 問題 『琉球新報 』1
9
1
5
年 (
大正 4)9月 4日
(
6
2
)太 田朝 敷 『沖縄 県政五十年 』p
p.
2
4
9-2
5
0
(
6
3)「常 置外 四氏 の退社 常 其 嗣合 、仲 吉 良光 、末吉 安茶 、小橋 川朝 明、素 手 用量利 の 5氏 、本
社 を退社 し沖縄 朝 日を発刊 す るこ ととなれ り。 『
琉球新報 』1
9
1
5
年 (
大正 4)1
0月 3日
(
6
4
)仲吉 良光 「私 の新報 記者時代 (6) 『琉球新報 』1
9
7
1
年 8月2
0日
(
6
5
)仲吉 良光 「
『
沖縄 朝 日新 聞』創 刊 当時 の沖縄 1
」『沖縄 タイムス』1971年 9月28日
(
6
6
)現存す る新 聞資料 につい て は、下地智子 「明治 ・大正期 に沖縄本 島内で発 刊 され た新 聞 の保
存 状 況」 (
琉 球 大学 法 文学 部編 『近代 沖縄 の文学 資料 の収 集 ・研 究 とデ ー タベ ース化』 文 部
省 科学研 究費補助金研 究成果報告書 、平成 7 ・8年度 )参照。
(
6
7
)高嶺朝 光 『新 聞五十年 』p.
6
0
(
6
8
)「逐塵 界 『琉 球 新報 』1
9
1
7
年 (
大正 6)3月 1
3日。琉 球新報 は当真擁 立 を批 判 的 な論 調 で報
じてい る。「さび しい さび しい 当真君推 薦演 説会 『
琉球新報 』1
9
1
7
年 (
大正 6)3月1
4日
(
6
9
)仲 吉 良光 「『沖縄 朝 日新 聞』創 刊 当時 の沖縄 6 『沖縄 タイムス』1
9
7
1
年1
0
月 3日
(
7
0
)仲吉 良光 「大正 昭和 の沖縄 政界 5 『沖縄 タイムス』1
9
6
4
年 8月1
5日
」
」
」
」
」
」
」
」
」
」
」
」
」
」
」
」
(
7
1)比嘉春潮前掲書p
p.
6
0-6
2
9
1
7
年 (
大正 6)4月 7日
(
7
2
)「朝 日社 罰金 さる」『琉球新報 』1
(
7
3
)「朝 日社 の裁判事件 」『琉球新報 』1
9
1
8
年 (
大正 7)5月 8日
(
7
4
)仲 害 良光 「私 の新聞記者 時代 (完 )」
『
沖縄 タイムス』1
9
5
6
年 5月2
7日
(
7
5
)仲 吉 良光 「私 の新聞記者 時代 (1)」
『
沖縄 タイムス』1
9
5
6
年 4月2
4日
(
7
6
)『東京 日日新 聞人事部退社 職員原 簿 』1
9
4
0
年 (
昭和 1
5
)1
2
月
(
7
7
)海外 旅 券 下付 表 (附与 )返納 表 進達 -。件 (含 附与 明細 表 )、1
9
2
0
年 (
大 正 9)ュ
o月 -1
2
月、
-1
49-
史料編 集室紀 要
第2
5
号
(
2
0
0
0)
〔
分類番号 3門 8類 5項 8号、外交史料館蔵〕
。 ちなみ に 「白」 はベルギーであ る。
(
7
8
)『沖縄 大百科事典』等
(
7
9
)沖縄 県立第一 中学校学友会 『養秀創立4
0
周年号 』1
9
2
1
年 (
大正 1
0
)
(
8
0
)筆 者 が イ ンタビュー した際の証言。古波蔵氏 は1
9
4
0
年 (
昭和 1
5
)
、大 阪毎 日新 聞か ら東京 日
日新 聞記者 とな り、仲吉 の長女 と結婚 した とい う。古披蔵保好 「
私 の戦後史」 『
私 の戦後史
p.
1
9
3-2
2
3
第 9集』沖縄 タイムス社 、p
1
)『
東京 日日新 聞人事部退社職員原簿』1
9
4
0
年 (
昭和 1
5
)1
2
月
(
8
(
8
2
)高嶺朝光編 『沖縄県人事興信録』沖縄朝 日新聞社 、1
9
3
7
年 、p
.
2
7
4
9
7
4
年 3月 5日
(
8
3
)比嘉春潮 ・栄子対談 「仲吉 良光君 を悼 む」 『沖縄 タイムス』1
(
8
4
)当間前掲書p.
8
7
(
8
5
)由井晶子氏 の ご教示 に よる。
(
8
6
)当時 の在 ロサ ンゼルス沖縄県 人 の状況 については、北米沖縄 クラブ 『北米沖縄 人史』 (若夏
社1
9
81
年)、比屋根 照 夫 「
羅府 の時代 (
『
新沖縄 文学 』8
9-9
3・9
5
号 )野本 -平 『
宮 城与
徳』 (
沖縄 タイムス社 、1
9
9
7
年)等参照。
(
87) 『
早稲 田大学校友会名 簿』 によれば、仲舌 の連絡先 は以下の ように移動 してい る。
大正元年 、 3年 沖縄 県那覇区久米 2
大正 1
0
年 那覇区下泊町二三
大正11
年 、1
3
年 那覇市 下泉町 2ノ 3
大正 1
4
年 東京 日日新 聞横 浜支局記者 横浜市 同支社局
昭和 3年 東京 日日新 開横 浜支局次長 横 浜市東京 日日新聞支局
昭和 4 ・5 ・6年 東京 日日新 聞内閣通信部 麹 町東京 日日新 聞社
昭和 11
年、昭和 1
6
年11月、東京 日日新聞社 内国通信部 麹 町有楽町東京 日日新聞社
『
早稲 田大学校友会名簿』大正元年 ・3・1
0・1
1・1
2・1
4
年、昭和 3・4・5・6・
1
1・1
6
年 〔
早稲 田大学図書館蔵〕
(
88) 沖縄救 済関係 史料 と しては、「沖縄救済 関係史料 」〔
「
神 山文庫」蔵〕 その主 要 な史料 は 『
那
覇市史 資料 編第 2巻 中の 5』 に所収 されてい る。
(
8
9
)『会員名簿 東京沖縄 県人会』1
9
3
7
年 (
昭和 1
2
)
、1
9
4
0
年 (
昭和 1
5
)
.
(
9
0
)「太 田朝数 よ り神 山改 良宛書簡」1
9
2
7
年 (
昭和 2)4月 8日 『
那覇市 史第 2巻 中の 5』p
.
2
4
(
9
1
)高嶺前掲書 、p
p.
1
1
6-1
1
7
9
3
9(
昭和 1
4
)7月 1日
(
9
2
)「東都識者 の心境打診 東京 日々新 聞仲吉 良光氏 『大阪球陽新報 』1
(
9
3
)例 えば仲吉 良光 「泡盛元売捌所 問題 に付卑見 開陳」〔「神 山文庫 」7-8
2
〕
瑞 泉 酒造株 式 会社 、
(
9
4
)この辺 の事 情 は、佐 久本 政敦 『泡盛 と と もに 佐 久本 政敦 自叙伝 』 (
1
9
9
9
年 、p
p.
8
3-8
5
)参照。
(
9
5
)西原文雄 「昭和 十年代 の沖縄 にお ける文化統制」 『沖縄県史料編集所紀 要』創刊号 、1
9
7
6
年
(
9
6
)仲吉 良光 「琉 装改 良の要 目 『帯』 の問題 ミミンサー帯ミ を普及せ よ」 『大阪球 陽新報 』1
9
2
7
年
)8月 1日
(
昭和 3
(
9
7)仲舌 「
操弧界 に出でん とす る者へ」 『
沖縄県立第三中学校十周年紀年 』1
9
3
9
年 (
昭和 1
4
)
9
4
2
年 (
昭和 1
7
)4月 8日、1
8日
(
9
8
)『大阪朝 日新 聞 鹿児 島沖縄版 』1
(
9
9
)「仲吉 君 が立 つ と首里 の票 は全 部 さらわれ る。『漠那危 う し』 の状態 だった。 『仲膏 君 をなだ
めて くれ』 と漢那 さんの使 い と して嘉手 用量利 氏が私 に も頼 み に来 た。仲書 さんは 『
君子争
わず』 と断念 して、の ちに首里市長 になった」高嶺朝光 『
新 聞五十年 』p
.
2
6
4
(
1
0
0)『大阪朝 日新 聞 鹿児 島沖縄版 』1
9
4
2
年 (
昭和 1
7)4月 5日
(
1
01 「ミ君子争 わずミ と仲 膏氏首里市 長就任」 『大阪朝 日新 聞 鹿児 島沖縄版 』1
9
4
2
年 4月2
1日
(
1
0
2
)『大阪朝 日新 聞 鹿児 島沖縄版 』1
9
4
2
年 (
昭和 1
7)3月2
0日
(
1
0
3
)「川魚召 し上 がれ首里 に養魚場 設置」 『大 阪朝 日新 聞 鹿児 島沖縄版 』1
9
4
2
年 5月2
4日。作
業 の様 子 は勝 連盛英 「
龍揮 凌漢 を竣へ て 『
文化 沖縄 』第 4巻 第 3号 1
9
4
3
年 (
昭和 1
8
)3月
(
1
0
4)仲書 「戦 争 と市 政 (首里市 )」 『那 覇市 史 資料 編 第 2巻 中の 6 戦時記録 』1
9
7
4
年 、p
p.
9
4
2
年 (
昭和 1
7)9月2
3日
1
8
1
-1
9
0
0『沖縄新報 』1
」
」
)
」
_1
5
0-
史 料 編 集室 紀 要
第2
5
号 (
2
0
0
0)
(
1
0
5
)「芋食生活 に帰 れ」『大阪朝 日新聞 鹿鬼 島沖縄版 』1
9
4
3
年 (
昭和 1
8
)8月1
9日、「市長 さん
の総指揮 で 一首里市 あげて甘藷増産 に遇進」1
9
4
3
年 (
昭和 1
8
)9月 9日、「蘇 る首里市 貧
乏に眠る市民 を覚醒」1
9
4
3
年1
2
月2
6日
(
1
0
6
)「大沖縄市建設 には双手 を挙 げて賛成」『大阪朝 日新聞 鹿児 島沖縄版 』1
9
4
2
年 5月1
6日
(
1
0
7)「
兵隊 さんに泡盛 を 仲書市長の骨折 りで」『
大阪朝 日新聞 鹿児 島沖縄版 』1
9
4
3
年 (
昭和
1
8
)1
2月11日、仲吉 良光 「戦争 と市政」、お よび玉那覇有祥氏 (
硯 ・瑞穂酒造代表取締役)
への聞取 り調査 による。
(
1
0
8
)「沖縄人の南海発展 の気運 を愈々促進 し、南進国策の第一線 に立 た しめん としている現状で
ある」安里延 『
沖縄海洋発展史- 日本南方発展史』1
9
4
1
年 (
昭和 1
6
)
9
4
4
年 (
昭和 1
9
)2月2
9日
(
1
0
9
)「短篇 ・人物風 土記」『大阪朝 日新聞鹿児 島沖縄版』1
(
1
1
0
)「2市 2部の立退人員」『沖縄新報』1
9
4
5
年 (
昭和 2
0
)2月11日
(
111
)「軍人であふれ た城下町 首里の戦時体験座談会」『那覇市史 資料編第 3巻 7 市民 の戦
時 ・戦後体験記 1
』1
9
8
1
年 、p
.
5
5
0-5
5
8
首里市 )
」『那覇市史 資料編第 2巻 中の 6 戦時記録』1
9
7
4
年
(
1
1
2
)仲吉良光 「戦争 と市政 (
(
1
1
3
)『お きなわ』第 1巻第 4号 1
9
5
0
年
(
1
1
4
)仲吉良光 『日本復帰運動記 私の回想か ら』沖縄 タイムス社 、1
9
6
4
年 、p
.
1
6
(
1
1
5
)「今後何が起 ころ うとも日本国民 の天皇 に対す る敬意 は変 わ らず、仮 に昭和天皇が退位 した
として も皇太子がその跡 を継 ぐであろう十一
wh
a
tt
od
owi
t
hJ
AP
ANb
yWI
LF
RI
DF
LEI
S
HER"
『
LI
F
E』AP
Rm 1
6,
1
9
4
5
。作者は大戦前 1
8
年間を日本 に暮 らしたジャー
ナ リス トである。 また
"U.
S.
BAS
ESI
NTHEPOS
TWARP
ACI
FI
CI
-(
『
LI
F
E』J
UNE4,
1
9
4
5
)では、4
5
年 5月、連
合国によるサ ンフランシス コ会議 中に締結 された■
'
Th
eS
a
mF
r
a
n
c
i
s
c
ot
r
u
s
t
e
e
s
h
i
p
sp
l
a
n
■
■
に基づ
いた信託統治領 (
マーシャル諸島等)が明記 されている。仲吉 はそれ までの 「
委任統治領」
ではな く、第二次大戦後の国際連合体制下 における 「
信託統治領」 についての情報 を的確 に
判断 していた。
(
1
1
6
)『沖縄 の証言 (
上)
』沖縄 タイムス社 、1
9
7
1
年、p
.
4
0
(
11
7)志喜屋孝信 は当初 、在京県人 を呼び寄せ ることを念頭 に置いていた とい う。「
初めは各方面
のエキスパ ー トを呼 び集めて沖縄 の復興 をや る積 りだった。細 山さん、漠那 さん等在 日先輩
を電報で呼 び寄せ ようと思 った。 (
中略) また越権 だ と思 うか ら東京か ら連 中 を呼ぼ うとい
った ら賛否両論 があった。 その後 間 もな く十五人か ら成 る諮諭会が出来て、 まあ、や ってみ
ようといふ事 になった。
」 志喜屋孝信 ・吉名腰 尚武 「
対談 ・知事 の椅子 『月刊 タイムス』
1
9
5
0
年 9月号
(
1
1
8
)宮城悦二郎 『為政者 たちの証言』 ひるぎ社、1
9
9
3
年 、p
p.
1
4-1
6
上)
』p
p.
4
0-4
1
(
1
1
9
)『沖縄 の証言 (
句会の活動 を中心 に記述 された研究が多かった。我
(
1
2
0
)当該時期 については、 これ まで沖縄諮言
部政男 「占領初期 の沖縄 における政軍関係」 日本 政治学会編 『近代化過程 における政軍関
係』1
9
8
9
年、若林千代 「占領初期沖縄 における米軍基地化 と 「自治」、1
9
4
5-1
9
4
6
年」 日本
国際政治学会編 『国際政治』第1
2
0
号 、1
9
9
9
年
(
1
21)同時期 の陳情 書 は、沖縄県立 図書館史料編集室編 『沖縄県史史料 戦後 1 沖縄諮言
句会記
録』沖縄県教育委員会 、1
9
8
6
年、p
p.
5
8
1
-6
0
2に所収 されている。
(
1
2
2
)1
0月3
0日に住 民 の移動が許可、北部地区か ら知念地区 と中城村安谷屋地区へ の移動 を皮切
りに逐次解放 とな り、翌年の 4月には一段落 した とい う。沖縄市長村長会 『
地方 自治 7周年
記念誌』1
9
5
5
年 、p
.
1
5
5
9
1
(
1
2
3
)『沖縄諮絢会記録』p.
句会記録』p
.
1
5
5
(
1
2
4
)『沖縄諮言
(
1
2
5
)「軍人であふれた城下町 首里の戦時体験座談会」『那覇市史 資料編第 3巻 7』p.
5
5
0
9
9
7
年
(
1
2
6
)宮里朝光 「敗戦後 の首里の学校」『教育史編 さんだ よ り』那覇市立教育研究所 、1
(
1
2
7)「
あち らで も帰還運動 首里 は一部解除」『
沖縄新民報 』1
9
4
6
年 3月2
5日
(
1
2
8)「その後 の沖縄 仲吉前首里市長 か らの便 り 首里 の復 興捗 る 早 くも病 院 と学校 開設」
」
-1
51-
史料 編 集室 紀 要
第 25号 (
2000)
『
沖縄新民報 』1
9
46年 4月 5日
(
1
29)1
946年 3月 1日 「
諮言
句会協議会」 におけるワ トキ ンスの発言。『
沖縄諮諌会記録 』p.
3230
又首里那覇 に都会 を作 りたい との諮言
句会委員の発言 に、カ ドウェル太肘 は 「
那覇は一部分 だ
945年11月 7日、pp.
1
49-1
5
0
が、首里 は多分出来 る」 と答 えている。「
軍民会」 1
(
1
30)軍政府政治部長 ジェームス ・ワ トキ ンスは、1
946年夏頃 に作成 された と思 われる報告書 に
おいて、首里復興の様子 を次の ように描写 してい る。
「
貧困で よるべ ない避難民か ら勤勉で 自己改良的な市民への変化 は、首里市 において よ り顕著
に示 された。 (
中略) この町は1
9
46年の春 に再定住 が行 われ、元の住人が戻 り、たるんだテ ン
トや傾 きかけた小屋 に住み始めた。そ して辛抱強 く廃城 を片付 け、中心部か ら離れた ところ
に農業 を復興 させた。首里 はみすぼ らしい町であったが、 きちん とした骨組み と布で作 られ
たテ ン トが並 び、行 政組織 と教 育 に使 うための コ ンセ ッ トが作 られた。瓦磯 は積み重 ね ら
れ、橋 や井戸 が作 り直 さj
t、畑 には縁が戻 り、 さつ まい もや豆や米が作 られた。 5月 には首
里の再興 を祝 うお祭 りが市民 によって催 され、そのス ピーチや余興のプログラムは、外国人の
監視者がいて も続 け られた。人 々は、最終的には、首里 は昔 の輝 きを取 り戻す だろ うとい う
ヴィジ ョンを思い描 いていた」H
so
c
i
a
lr
e
ha
bi
l
i
t
a
t
i
o
n■
-ワ トキ ンス文書刊行委員会 『
沖縄戦後初
期 占領資料 (
pa
pe
rofJ
a
me
sT.Wa
t
ki
ns
)87』1
99
4年、緑林堂書店 、pp.
2
07-209
(
1
31 『
当間重刷回想録 』p.
86
(
132)仲 吉 良光 「沖縄 よ何処 へ ゆ く 信 託統 治 につ き 首里 市 での講演概 要 『沖縄新民報 』
1
9
46年 8月 5日。尚、同内容 の文書が 「
神山文庫 」 (
1
5-1) に所蔵 されてい る。
(
1
3
3)米軍 占領初期 の沖縄 においては、「日本」 に縛 られ ない沖縄 の 自治 と解放意識が存在 してい
た。鹿野政直 「『
沖縄 』 と 『
琉球』 のはぎまで (
『
戦後沖縄 の恩想像』朝 日新 聞社 1
987年)
沖縄 の 自治』への渇望-戦後初期政党関係史科 を中心 にみる政治意識 『
沖縄県史
鳥山淳 『
研究紀要』第 4号 、1
998年。但 し両論文の分析 時期 は主 として1
9
40年代後半か ら1
951
年頃で
ある。
(
1
3
4)池宮城秀意 ・牧港篤三他 「
戦後の新聞記者体験座談会 『
那覇市史』資料編第 3巻 8、1
981
年 、pp.
324-342、枚港篤三 ・大城立裕他 「
沖縄 に とって戦後 とは何か 『
新沖縄文学 』27
号
(
1
35)『
沖縄諮言
句会記録 』p.
41
9
(
1
36) 「
仲吉前市長 の建 白書斥 け られる 『沖 縄新民報』1
946年2月1
5日。同紙は、福 岡の沖縄県事
務所の援助 を受けた親泊政博が福 岡で発行 していた。
(
1
3
7) 『
沖縄諮絢会 記録 』p.
2
97
(
1
3
8) 『
沖縄諮言
句会記録』p.
40
4
(
1
3
9)仲吉 「
戦争 と市政 (
首里市) 『
那覇市史 資料編第 2巻中の 6戦時記録 』1
97
4年 、p.
1
90
(
1
4
0)沖縄県立 図書館史料編集室編 『
沖縄県史料 戦後 2 沖縄民政府記録 1』p.
68
(
1
41)金城幸祥 『
米寿記念誌』 自費出版 1
991
年。金城幸祥氏 は、戦前 の首里市役所員であ り、
戦後、仲吉 とともに首里復興 に着手 した人物である。首里高校 は糸満高等学校首里分校 とし
て1
9
46年 1月 2
6日に設立が認可 された。2月1
7日に元首里第二国民学校跡 (
硯城西小学校)へ
移転 、 3月31日に分離独立 した。養秀同窓会 『目で見 る養秀百十年 』1
990年
(
1
42)高嶺朝光 『
新聞五十年』p
p.
35
4-35
7
(
1
43)新崎盛時 『
戦後沖縄史』p.
52
(
1
44)特 に又害東和 が関与 している。「
仲吉良光君は1
945年 6月頃沖縄 の戦火息絶 えんと共 に沖縄
概史 を述べ、苦 んで も日本 と共だ と云ふ散文 を全 島に飛 ば した。蓋 し名文であった。のみ な
らず軍政府 を飛 び越 えて直接作戦部隊 に交渉す ること両三度、 これは軍政府が禁止 してあっ
た。 ワッ トキ ン少佐 は写真入 れのデ リーオキナ ワ ン紙 を諮言
句会 に呈 してその不都合 をな じ
り、そ して彼 に注意す るように との こ とであった。私 は暇が なか ったので彼 の畏友 島袋全
発、山田有幹 両氏 に行 って貰 った。 〔
中略〕私 は山田君 と相談 して仲吾君 を第一便で 日本 に
送った。
」又膏康和 「
時 は流れる (
3) 『うるま新報 』1
951
年 7月25日
(
1
45)『
沖縄民政府記録』「
軍民連絡協議会」 6月1
0日、pp.
87-88
(
1
46) 『
沖縄民政府記録 』pp.1
07-1
08
)
」
」
「
」
」
」
」
」
_152m
」
史料 編 集室 紀 要
第 25号 (
2000)
(
1
47)軍 政府 は98名 の沖縄 人 を 「これ らの人 々は 自身 を 日本 人だ と考 えてい る。 しか し、SCAPが
彼 らを沖縄 人 や 日本 人 と して分類 す る方法 は不確 かで ある」 と してい る。I
Re
pa
t
r
i
a
t
i
onof
Ci
vi
l
i
a
ns To J
a
pa
n,HEAD(
)UARTERS I
SLAND COMMAND APO 331,8 J
ul
y 1
946
RYUKYUAN REPATRI
ATI
ON 1 J
ULY 1
946TO 31De
c
e
mbe
r1
946"RYUKYUSCOMMAND
MI
LI
TARY GOVERNMENT- APO331,
No.1
46 〔
沖縄 県公 文書館蔵 〕
(
1
48)嘉 陽安 春 『
沖縄 民政府』久米書房 、1
986年 、p,1
09
(
1
49) 『
沖縄 の証 言 (
上)』p.1
24
(
150) 「沖縄 か らの一般帰 還者 鹿児 島へ上 陸 『
沖縄 新民報 』 1
946年 8月 5日、「
仲 吉 良光氏談 」
」
『自由沖縄 九 州版 』 第 6号
1
946年 8月5日
(
1
5
1
)「
〔
「
血 は水 よ りも渡 し」 とい う〕 ス ロー ガ ンの もとで、沖縄 人 は十全 な帝 国 臣民 となって、
一歩 先 に近代 化 を達 成 した他府 県 人 と肩 をな らべ るため にヤマ ト人 に同化 しよ う とす る、 自
発 的 な動 きをつ くりだ して きた。 (
中略)帝 国政府 に よる統 治 の経験 を美化 し血 の繋 が りを強
調 す る仲 吉 らの請願 運 動 が、復 帰 運動 の展 開 に大 きな影響 をお よは したので あれ ば、それ は
日本 を 『
祖 国』 とす る 『
直観 的 な確信 』 が沖縄 人 の なか に、 いか に強力 に根 づ い てい たか を
しめす もので は ない だ ろ うか。」 石 田正治 「
沖縄 にお け る初期 軍政一 間接 統 治 と復 帰運動」、
赤揮 史朗 ほか編 『ア ジアの激変 と戦後 日本 (
年報 。日本 現代 史 四巻)』現代 史料 出版 、1
998年
(
152) 永 久子 ・城 間得栄 「昭和初期弾 圧時代 の女 たち」新 崎盛曙編 『
沖縄現代 史へ の証 言 (
上)』
沖縄 タイムス社 、1
982年 、 p.11
2
(
153) 仲 吉 良光 『陳情 続 け て二 十余 年 われ ら沖縄 復 帰期 成会 の歩 み』 1973年 、p.5。 ち なみ に
「
復 帰」 とい う言葉 を初 めて使 ったのは仲ま であ る とい う。
付録。仲吉良光著作 目録 (
暫定)
凡例
1
2
3
4
5
6
7
目録は、署名/著作 ・記事名/掲載誌/発行年の順で記 した。
旧漢字 ・旧かな文字は、原則 として常用漢字 ・新かな表記に改めた。
本論文の当該期のみを対象としている。
筆者が未発見の史料については *を記 した。
無署名記事については、仲書の回想等から判別できるもののみ掲載 した。
掲載紙の 『
琉球新報』 と 『
沖縄毎 日新聞』は、それぞれ略 して 『
琉新 『
沖毎』 とした。
便宜上、明治、大正、昭和は、それぞれM、 T、 Sに略 した。
』
琉新』M41
年9月9日
仲書生 「
鎌倉街」 『
仲書生 「
芝居の第二種教会の第二種」 『
琉新』M42
年8月1
5-1
6日
東京早稲 田仲書生 「『
人形の家』 と銘苅子」 (1-4) 『
沖 』M42
年1
1
月3
0日1
2月1・2・4日
屋我 ・仲舌 ・友寄 「
其三人 (
修善寺行)
」 (1・2) 『
沖毎』M43年月1
5・1
6日
早稲田仲書生 「
金次第」 『
沖毎』M43
年2
月2
8日
早稲田仲書生 「
組踊花売之縁における新味」 (
上下) 『
琉新』M4
3年6月8・9日
仲書生 「
懐疑肉感の人ハムレット」 『
沖毎』M43年7月1
8日
(
不明) 「
ヘブライズムとヘ レニズム」 『
沖縄青年会雑誌』M43
年頃*
仲吉良光 「トルス トイ逝 く」 (
上下) 『
琉新』M43
年1
2月5・7日
仲吉良光 「
古琉球人の情的生活」(1-3) 『
沖毎』M4
4年2月6・9・1
0日
仲吉良光 「
伊大利の小説家ダヌンチオ」 (1-3) 『
沖毎』M4
4年3月1
8-2
0日
仲吉良光 「
道徳の勝利劇に恋愛勝利劇」(1-2) 『
沖毎』M4
4年3月2
4・2
5日
仲書生 「
文士劇の記事 について」 『
沖毎』M4
4年7月2
5日
東京早稲田仲書生 「イプセンの博愛劇」(1-4) F
l
i
中毎』M4
4年1
0月2-5日
(
不明) 「
琉球へ」 『
早稲田文学』M4
5年4月号誌上にて題名のみ確認*
仲吉良光 「
『ガルスウアシイ』の社会問題劇」 早稲田大学英文学科卒業論文M45年7月*
仲吉良光 「イプセン劇 相島』の研究」 『
琉新』M45
年1
2月1
5日
新参の-記者 「
結婚前」 『
琉新』T元年2
月5日
-記者 rF
F
'
座見物」 『
琉新』T元年1
2月2
6日
-記者 「
徳島の奇人柏木直平氏来る」 『
琉新』T2
年1
月21E
l
毎
-153 -
史料 編 集室 紀 要
第 25号 (
2000)
-記者 「
社会問題劇 」 『
琉新』T2
年2月9日
琉新 』T2年2
月9日
-記者 「ツルゲルネフと トルス トイと ドス トウイフスキイ」 『
-記者 「
沖縄の家庭 問題」 (
上中下) 『
琉新 』T2年2月 1
6・1
8・2
4日
琉新 』 T2
年2
月2
6日
-記者 「
演劇 に就 き社会教化の一機関 として」 『
-記者 「
香霞座の 『貞女 と孝子』
」 『琉新』 T2年3月9日
一記者 「
青年の為 に弁ず」 『
琉新』T2
年3月2
7日
仲吉良光 「
別れた女郎へ」 『
発展』創刊号 、T2
年 4月 5日*
琉新 』T2年 5月1
8日
-記者 「
福州遊郭或間福川帰来の人と記者」 『
琉新 』T2
年6
月1
0日
(
無署名) 「
高橋知事 を訪ふ」 『
(
無署名) 「
徐 ろに政治 を図 らん」 『
琉新 』T2
年6月1
2日
風船玉 「
新聞売子 となるの記」 (1 ・2) 『
琉新 』T2
年6月2
8・2
9日
(
無署名) 「
役者の妻 ・伊良披 ウ ト」 (1- 4) 『
琉新 』 T2
年1
2月7-1
0日
琉新 』 T2
年1
2月 1
1・1
2日
(
無署名) 「
役者の妻 ・真境名チル」 (5 ・6) 『
(
無署名) 「
役者の妻 .仲井間カメ」 (
7-1
0) 『
琉新 』 T2
年1
2月1
3-1
6日
(
無署名) 「
役者の妻 ・吉元 カメ」 (
ll-1
3) 『
琉新 』T2
年1
2月1
7-1
9日
1
4) 『
琉新 』T2年 1
2月2
0日
(
無署名) 「
役者の妻 ・大宜味 ツル」 (
(
無署名) 「
役者の妻 ・新垣マツル」 (
1
5) 『
琉新 』T2年 1
2月21日
1
6-2
0) 『
琉新 』T2年 1
2月22-2
6日
(
無署名) 「
役者の妻 ・仲間カメ」 (
-記者 「
帝国館の活動写真」 『
琉新 』T3年3月 4日
五人』第 1巻第 1号 ,T3
年1
1月号
(1
)
仲吉良光 「
非道徳主義者の弁護」 『
仲吉良光 「
エ レン ・ケイ女史の 『
恋愛 と道徳』の批評の批評」 『
五人』第 1巻第 2号*
-記者 「
摩文仁雑記」 (
上下) 『
琉新 』 T3年 1
2月2
6日
琉新 』T4年2月2
4-2
8日
(
無署名) 「
尾類の役者観」 (1- 5) 『
仲吉良光 「
伊江 島ローマンス」 『
沖縄朝 日新聞』 T5
年6月以前 に連載*
仲吉良光
仲吉良光
「
唐手体操 の始祖-中の誇」 『
養秀』第3
5号 S9年7月
川 )
「
琉装改良の要 目 『
帯』の問題」 『
大阪球陽新報 』S3
年8
月 1日
佐 々木笑受郎 ・伊波普猷 ・僻 春潮 ・仲吉良光他 「
佐 々木笑受郎翁 に日活戦争前後の沖縄の話 を聴 く」 『
沖縄
2日
(
〟,
日報』 S9年7月2
神 山改良 ・仲吉良光 ・真栄城守行他 「
在京陳情貞砂糖専売問題座談会」 (
上下)掲載紙 ・年代不明 sl
0年 8月頃か
伊江朝助 ・漢那憲和 ・伊鰻肇 ・神山政良 ・仲吉良光他 「
今潜 亀県民 に徹す 辻準廓制度改革 を断行せ よ 在京
3年 9月 9日
沖縄県人有志」 (
上下) 掲載紙不明 S1
仲吉 良光 「
泡盛元売捌所問題 に付卑見開陳」 S1
2年 「
神山文庫」 (
7-82)
仲吉良光 「
生活改善 は青年の力で 教化新運動 に県内外の援助 を望 む」 『
大阪球陽新報 』 S1
4年1月1日
漢那憲和 ・神山政良 ・仲吉良光他 「
洗骨 を廃止する座談会」 『
月刊琉球』第3巻第 1号 , S1
4年1月
伊江朝助 ・
仲吉良光 「
芋酒 よりも芋粕 を造れ 超非常時下の沖縄 県民の食糧 自給策に」 『
月刊文化沖縄』第2
巻第2
号、
S1
4年3月
伸吉良光 「
東都識者の心境打診 東京 日々新聞 伸吉良光氏」 『
大阪球陽新報』 S1
4年7月 1日
仲吉良光 「
操触界 に出でんとする者へ」 『
沖縄県立第三中学校十周年紀念誌 』 S1
4年
仲吉良光 「
砂糖販路拡張懇談会に出席 して」 『
更生の友』第 5巻第 4号 , S1
4年 5月
仲吉 良光 「
沖縄糖業転換政策への疑問 『
湖上知事事功 を急 ぐ可 らず』
」 『大阪球陽新報』 S15年9月15日
仲吉良光 「
分蜜糖会社改組試案」 『
大阪球陽新報 』 S1
5年 1
0月 1
5日
仲吉良光 「
銘酒泡盛が当面せる新課題 沖縄酒達の犠牲 を要望す」 『
大阪球陽新報 』 S1
5年 1
2月1日
仲吉良光 「
黒糖日下糖 も国家配給統制に服すべ し」 『
大阪球陽新報 』 S1
6年 1月1日
6年6月 5日第-印刷所
仲吉良光 『
沖縄糖業再出発論 農工一体の新体制- 』 S1
仲吉良光 「師範学校昇格問題」 『
月刊文化沖縄』第3
巻第 5号 、 S1
7年7月
仲吉良光 「
交通問題一班」 『
月刊文化沖縄』第3
巻第7
号 、 S1
7年9月
仲吉良光 「
趣味の一致」 『
月刊文化沖縄』第 4巻第1
1
号 、 S1
8年1
月
仲吉良光 「
信託統治 につ き 首里市にお ける講演概要」 『
沖縄新民報 』1
9
46年8月 5日 「
神 山文庫 」 (
1
5-1
)
注
(Ⅰ)『
五人』 (
第 1巻第 1号 ,T3年11月号) より題名のみ確認
(Ⅱ)『
比嘉春潮新開切抜綴 2』
(
班)『那覇市史 資料編2 中 4』
(
Ⅳ)「神山文庫新聞切抜 き集 5」 (ll- 5)
(Ⅴ) 同上
-154 _