熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repository System Title 東アジアの先史農耕 Author(s) 甲元, 眞之 Citation 青驪, 5: 30-33 Issue date 2008-02-29 Type Book URL http://hdl.handle.net/2298/22921 Right 東 ア ジアの先史農耕 は じめ に 日本 列 島 に展 開 した農 耕 文化 を考 察 す る と きに、 これ まで は常 に水 稲 耕 作 と畑 作 耕作 とい う 「二 項 対 立 」 で 捉 え 、水 稲 耕 作 に比 重 を置 い た論 調 が 多 か った こ とは否 め な い。 これ は律 令 以 降、 「 税 」 の対 象 と して米 が 扱 われ た こ とか ら もた ら され る もの で あ り、 と りわ け近 世 以 降 の 「石 高 制 」 で 地 域 の生 産 性 を把 握 す る仕 組 み が 大 き くか か わ っ て い た こ とは否 め ない 。柳 田 民 俗 学 も水 稲 栽 培 こ そ 日本 民族 の基 本 的 な生 活基 盤 で あ る とす る点 にお い て そ の意 識 の強 さを十 分 に窺 う こ とが 可 能 で あ る 。 しか しこ れ に対 して一 部 の民 俗(族)学 の 方面 か ら畑作 栽 培 の 重 要性 が しば しば指 摘 され 、 日本 列 島 の農 耕 文 化 は畑 作 栽 培 が 基 本 で あ り、 そ れ を基 盤 と して水 稲 栽 培 が 卓 越 す る よ う に な っ た との論 説 も佐 々 木 高 明氏 や坪 井 洋 文 氏 な どに よ り提 示 され 、今 日 まで根 強 い支 持 を得 て きて い る。 考 古 学 研 究 の 分 野 で も、 水 稲 栽 培 に先 行 して あ る種 の 畑作 栽培 が営 まれ て い た とい う推 測 は古 くか ら提 示 され て きて い る し、 山 崎純 男 ・小 畑 弘 己 両 氏 に よ り、縄 文 時代 の穀 物 の 実 証 的 研 究 が な され る に至 って い る。 こ こで は東 北 ア ジ ア にお い て は畑 作 栽 培 が基 本 的 な 農耕 で あ り、 列 島 に波 及 して水 稲 栽 培 が 卓 越 した こ と を指 摘 して み た い 。 稲 作の始 ま り 栽 培 稲 の最 も遡 上 す る確 実 な事 例 は、 湖 南省 彰 頭 山遺 跡 出土 の そ れ で あ る。住 居 の壁 土 や土 器 の 胎 土 中 か らイ ネ籾 が検 出 され て お り、 そ の所 属 年 代 は確 か で あ る。 そ れ に続 く時期 と して 、 河 南 省 の責 湖 遺 跡 や 湖南 省八 十 競 遺 跡 、 それ に最 近 報 告 され た 漸 江 省 跨 湖橋 遺 跡 な どが挙 げ ら れ る。 さ らに 山 東省 の 泰 山 の 北側 で も後 李 文 化 に属 す る稲 籾 が 発 掘 され て い て 、紀 元 前6000年 以 前 に長 江 か ら黄 河 流 域 に まで稲 作 栽 培 が 及 んで い た こ とが 分 か って きた 。 一 方湖 南 省 の 玉 蜷 岩 洞 窟 や 吊樋 岩 洞 窟 か ら一 万年 前 に遡 る イ ネ籾 が 発 見 され 、 プ ラ ン ト ・オ パ ー ル で もそ れ が 裏付 け られ る と され るが 、 出土 した稲 は黄 金 色 を呈 して い て 、 決 して1万 年 前 の もの とは 思 わ れ ない 。水 中 で保 存 され るか 、 炭化 しな い 限 り1万 年 とい う時 を経 て今 日 ま で 伝 え られ る こ と はあ りえ ない 。 ま して や黄 金色 を呈 した ま まで 残 る こ とは あ りえ ない の で あ る。 遺 跡 か ら検 出 され る イ ネの 長 幅比 を年 代 順 に並 べ る と、 紀 元 前 七 千 年 紀 の 買 湖 遺 跡稲 か ら紀 元 前 三千 年 紀 後 半 の 樫 沢 遺 跡稲 まで徐 々 に長 さが 減 じ、幅 が 太 る傾 向 を読 み 取 る こ とが で きる。 こ れ と野 生 種 の分 布 の 北 限で あ る湖 南 省 茶 陵で 採 取 され た もの と比 較 す る と野 生 種 か ら栽培 種 の変 遷 をス ム ーズ にた どる こ とが で きる 。江 蘇 省 の 龍軋 荘 遺 跡 の第5層 で 長 さが 再 び長 くな る イ ネ が 出 現 して い る こ とは、 この 時期 に イ ンデ ィ カ型 の イ ネが 栽 培 化 され た こ とを物 語 って い る。 す な わ ち東 ア ジ ア にお い て は紀 元 前8000年 頃 ジ ャポ ニ カ型 か らイ ネの 栽 培 化 が 開始 され た の で あ る。 紀 元 前6000年 か ら3000年 前 まで は 、稲 作 栽 培 の 痕 跡 は黄 河 流 域 を北 限 と して 、 そ れ 以 上 の拡 大 は 認 め られ な い。 紀 元 前3000年 以 降 山東 半 島先 端 部 や遼 東 半 島 に分 布 が 広 が り、 紀 元 前 二千 一30一 年 紀 に な り朝鮮 半 島 に もそ の足 跡 が及 ぶ よ うに な る。 イ ネの 栽 培 法 長 江 流 域 の先 史 時 代 稲 籾 が発 見 され た遺 跡 で は、 古 い 時期 か らその ほか の栽 培 物 を伴 う こ と が 知 られ て い る 。 漸 江 省 跨 湖 橋 遺 跡 で は マ メ とウ リ、 八 十 士 當遺跡 に は ヒエ 、 ダイズ 、 シ ソ な ど が あ り、 准 河 や 黄 河 流 域 に な る と他 の栽 培 穀 物 を伴 う事例 が 一段 と増 加 して くる。 仰 詔 文 化 段 階 で は イ ネ と ア ワ の組 み 合 わせ が 多 く見 られ るが 、 龍 山文化 以 降 に な る と多様 な栽 培 穀 物 が 伴 う こ とが しられ る。 例 を挙 げ る と山東 省 縢 州市 荘 里 西 遺 跡 で は 、龍 山文 化 の文 化 層 か らイ ネ と と もに キ ビ、 コ ウ リ ャ ン、 野生 ダイ ズ が 出 土 し、両 城鎮 の龍 山文 化 層 か ら イ ネ、 ア ワ、 キ ビ、 コ ム ギ 、 ダ イ ズ 、 シ ソが 検 出 され て い る 。 河南 省 王 城 歯 遺跡 で は 、龍 山文 化期 にア ワ、 キ ビ、 ダ イズ 、 イ ネ が あ り、 そ れ らに伴 う雑 草 と思 わ れ る キ ビ科 や マ メ科 の種 子 が 多 くあ り、殿 代 に はそ れ らに コム ギ が 混 じる と と もに 、 イ ネ の割 合 が 減 少 して い る。 山西 省唐 寺 遺跡 の 夏代 か ら 股 代 に か け て で は、 ア ワが 出土 種 子 の7割 を占 め 、キ ビ、 イ ネ 、 オ オ ムギ 、 ダ イズ に キ ビ科 や マ メ科 の雑 草 が 多 く発 見 され た。 同様 な傾 向 は 陳西 省 周 原遺 跡 で も認 め られ る。股 代 前 期 の洛 陽皇 角 樹 遺 跡 で も出土 した穀 物 に は イ ネ 、 ア ワ、 キ ビ、 コム ギ 、 ダ イズ 、 シ ソが認 め られ、 雑 草 と して の エ ノ コ ロ グサ が 伴 っ て い る 。 考 古 学 的 な所 見 に よる と、准 河 以北 、黄 河流 域 で は紀 元前6000年 の斐 李 商 文 化 以 降 、 ア ワや キ ビが 発 見 され て い て 、 そ の後 、 イ ネ が この 地域 で も栽培 され る よ うに な った こ と を示 して い る。 黄 河 流 域 にお い て は 、 イ ネ を含 む 多様 な栽 培 穀 物 が 先 史 時代 に は存 在 して い た の で あ っ た。 長 江 流 域 で検 出 され る イ ネ は湿 地 帯 に お い て栽 培 され た と想 定 され て い るが 、 黄河 流 域 で は ど うで あ っ た で あ ろ うか 。 この こ と を考 え る と きに最 近 発 見 され た 山東 省 で の イ ネの 実例 が 良 い 資 料 とな る 。 趙 家 荘 遺 跡 で は龍 山 文化 期 の 多 数 の イ ネ籾 が採 取 され て い るが 、 どれ も細 長 く、 胚 の部 分 に 縦 方 向 に刻 み を入 れ た よ うな溝1がみ られ、 発 育不 全 の もの ばか りで あ った 。 これ ら の 「 溝 」 が で きた イ ネ は 日本 で言 う 「しい ら」 に あ た り、 日照 不 足 、 低 温 、水 不足 、 あ る い は 栄 養 不 良 で で きる。 龍 山文 化 期 は 温 暖 湿潤 気 候 下 にあ り、 日照 不 足 や 低 温 で あ った こ とが 考 え 難 い こ とか ら、7-8月 の 実 が生 育 す る時期 に水 分 の 供給 が 十 分 で は なか った こ と を物 語 っ て い る。 イ ネ籾 が こ う した状 態 を示 す こ と は、黄 河流 域 の 先 史 時代 遺 跡 か ら、 エ ノ コ ロ グサ や キ ンエ ノ コロ 、 タデ 科 や ア カ ザ科 な どの雑 草 が 多 く発 見 され る こ と と も通 じ、 紀 元 前 三千 年 紀 以 前 の黄 河 流 域 の稲 は水 田耕 作 で は な く、畑 作栽 培 で もた ら され た可 能 性 が 高 い こ と を示 唆 して い る。 東 北 ア ジア の 栽 培 穀 物 柳 田 國 男 が 日本 列 島 に稲 作 が もた ら され た 契機 と して 、 タカ ラ ガ イ の重 要 性 を取 上 げた の は あ まね く人 口 に月 會表 して い る 。 これ は 中国 で股 代 か ら周代 に重 宝 さ れ た タ カ ラ ガ イ を求 め て 、 琉 球 列 島 か ら稲 作 民 が 北 上 して列 島全 体 に及 んだ とす る壮 大 な ロマ ンで あ っ た。 ま た考 古 学 者 の一 部 は中 国 の長 江(揚 子 江)流 域 か ら直 接 九 州 に稲 作 栽培 技 術 が到 来 した と見 て い る。 また 農 学 者 の 中で も水 田 に伴 う雑 草 が 朝鮮 よ り も中国 と類 似 性 が 高 い こ とを指 摘 して、 稲 作 の 直接 渡 来 説 を提 示 す る研 究 者 もい る 。 この よ う な 中国 長江 流 域 か ら 日本 列 島 に直 接 イ ネが 渡 来 した 一31一 とい う説 に対 して 、今 日の 考 古 学 的所 見 で は容 易 に これ を否 定 す る こ とが 可 能 で あ る。 紀 元 前6000年 以 前 、 中国 東 北 部 の一 部 の 地域 で は ア ワや キ ビを主 体 と した畑 作 農 耕 文 化 が 開 花 してい た。 内蒙 古 敷 漢 旗 の 興 隆窪 遺 跡 で は ア ワ、 キ ビ、 ダ イズ が 多 く出 土 し・ 中で もキ ビが 多 くみ られ る。 炭 化 種 子 の 中 には ミ ミナ グサ や マ メ科 の 仲 間 の キバ ナ オ オギ の類 が 突 出 し・ ヒ ユ 科 、 タデ科 が 比 較 的 多 く認 め られ た。 この こ とは雑 草 と栽 培 穀 物 が 共存 して い た状 態 を示 し て い る。 そ の後 、畑 作 栽 培 は徐 々 にそ の分 布 を拡 げ 、紀 元 前 三 千 年 紀 に は ロ シ ア沿 海 州 南 部 地 域 に ま で足 跡 をた どる こ とが で きる。 紀元 前 三 千 年紀 に属 す る沿 海 州 の ク ロ フ ノ フ カ遺 跡 で は キ ビ、 ア ワ と と もにエ ノ コ ロ グサ や イヌ ビエ の種 子 が併 せ て検 出 さ れ 、 こ の地 域 で 栽 培 され て い た こ とを 明確 に物 語 っ て い る。 さ ら に紀 元 前 四千 年紀 末 に まで 畑 作 栽 培 が 遡 上 す る可 能性 もあ る。 紀 元 前 四千 年 紀 後 半 の 寒 冷 化 現 象 が終 息 して 、 次 第 に温 暖 化 す る と と もに、 東 北 アジ ァ北 部 地 域 に まで 農 耕 文 化 の 分布 が 拡 大 した可 能 性 を示 唆 して い る。 中 国東 北 部 で の イ ネ の 種 子 の検 出 は遼 寧 省 大連 市 の大 階 子 遺 跡 が 唯 一 の例 で あ る。 考古 学 の 編 年 上 で は双 舵 子3期 にあ た り、紀 元 前 二 千 年紀 後 半 期 に属 す る 資料 で あ る。 この 大 噴 子 遺 跡 は 大 連 湾 に突 き出 した 平 坦 な丘 陵上 に立 地 す る遺跡 で、 天 水 以 外 に は水 の供 給 が 不 可 能 な場 所 で あ り、 イ ネ と と も にキ ビが 検 出 され て い る こ とか ら も、 イ ネ は畑 作 に よ り栽培 され た こ とを 窺 わせ て い る。 以上 の こ とか ら中 国 東北 部 にお い て の穀 物 栽 培 は基 本 的 に は畑 作 に よ り営 まれ た とす る こ とが で き る。 朝 鮮 半 島 で は北 部 の 智 塔 里 、 南 部 の東 三 洞 遺 跡 で ア ワが 採 取 され てお り、 紀 元 前 四千 年 紀 後 半 期 に は確 実 に穀 物 の 栽 培 が 行 わ れ て い た とす る こ とが で きる。 そ れ以 降北 部 地 域 を中心 と し て 、 ア ワ 、 コ ウ リ ャ ン、 モ ロ コ シ、 ダイ ズ、 アズ キ な どの穀 物 が そ の組 み合 わせ を少 しず つ変 化 させ な が ら も、 農 耕 栽 培 は持 続 的 に展 開 して きた 。 と りわ け朝 鮮 にお い て はマ メ類 が多 く栽 培 され て い た こ とが 特徴 とな って い る。 朝 鮮 に イ ネ が登 場 す るの は無 文 土 器 時代 前 期 にあ た る平 壌 市 南 京 里 遺 跡 が 最 初 で あ る。 こ の 遺 跡 は大 同江 の 河 岸 段 丘 に立 地 し、 そ の背 後 には低 湿 地 が 広 が る地 勢 を見 せ て い る。 この 立地 か ら水 稲 栽 培 を想 定 す る こ と も可 能 で あ る。 しか し、共 伴 す る穀 物 に は ア ワ、 キ ビ、 ダ イズ 、 モ ロ コシ な どが あ り、水 稲 耕 作 が 営 まれ て い た にせ よ畑 作 栽 培 の比 重 が 高 か っ た こ とを物 語 っ て い る。 朝 鮮 南 部 で の代 表 的 な無 文 時 代 の 農耕 遺 跡 で あ る大 坪 里 で も、 蛇 行 す る河 が 形 成 した 沖積 地 に あ りな が ら、 畑 の 畝 が 検 出 され 、 そ こか らイネ 、 オ オ ム ギ、 コ ム ギ、 ア ワ、 キ ビ な どの各 種 穀 物 が発 見 され 、 イ ネ も畑 作 に よ り栽培 され てい た こ とを示 唆 して い る。 朝 鮮 南 部 地 域 で イネ が 検 出 され た 遺 跡 で は畑 作 栽 培 に伴 う雑 草 が 多 く検 出 され る こ とか ら、 基 本 的 に は櫛 目文 土 器 時 代 以来 の畑 作 栽培 が 卓 越 して い た こ と を窺 わせ る。論 山 の麻 田里 遺 跡 で は谷 水 田が 検 出 され て い て 、確 実 な水 稲 栽 培 の 資 料 と して評 価 されて い る。 しか し随 伴 雑 草 をみ る とカヤ ツ リ グ科 以外 にア カザ科 、 タデ 科 、 アブ ラナ科 、 タチ カ タバ ミな ど もみ られ る。 カ ヤ ツ リグ科 に は田 畑 共 通 の雑 草 が あ る こ とか ら、 畑 作 に伴 う雑 草 が 優 越 して い る とい え る。 この こ とは水 田 で あ っ て も十 分 な水 の 補 給 を欠 く条 件 の 下 に栽 培 が 為 され て い た こ とを示 して い る。 李 朝 時 代 の水 田 に も この よ う な4年 あ るい は5年 単 位 で 田畑 を交 換 す る 田畑 兼 用 の耕 作 地 が 多 か っ た こ と を念 一32一 頭 に お くと、 朝鮮 で は畑 作 栽 培 に よる穀 物 栽 培 が 優 越 して い た の で は ない か と思 わせ る の で あ る。 表 五年 方式 年次 区分 田 畑 交 換 方 式(李 春 寧1964に よ る) 四年方 式 第一年 第二年 第三年 第四年 第五年 第一年 第二年 第三年 第四年 一 区 栗 大麦 大豆 蜀黍 水稲 水稲 栗 大麦 大豆 水稲 水稲 二区 大麦 大豆 蜀黍 水稲 水稲 栗 大麦 大豆 水稲 水稲 栗 三区 蜀黍 水稲 水稲 栗 大麦 大豆 水稲 水稲 栗 大麦 大豆 四区 水稲 水稲 栗 大麦 大豆 蜀黍 水稲 栗 大麦 大豆 水稲 五区 水稲 栗 大麦 大豆 蜀黍 水稲 終 わ りに 縄 文 時 代 後 期 後 半 期 の九 州 で は イ ネ や ア ワが 存 在 す る こ とが 、土 器 の胎 土 中 で検 出 され た 資 料 に よ り確 実 に捉 え られ て い る 。 そ れ ら穀 物 を 出土 した遺 跡 の立 地 か らみ て 、畑 作 に よ り栽 培 化 され た事 も肯 け る。 一 方 水 稲 栽 培 は 弥生 時代 早 期 にな らな い とそ の確 認 はで きな い 。水 田 を 形 成 す る に は 、砂 丘 背 後 の後 背 湿 地 か 、 沖積 低 地 の 湿 地帯 を対 象 とす るの が最 も簡 便 で あ り、 事 実 弥 生 時代 早期 の 水 田 や遺 跡 は こ う した環 境 に立 地 して い る。 弥 生 時 代 にお い て水 稲 栽 培 が 急 速 に展 開 す る の は、 紀 元 前800年 頃 か ら始 まっ た気 候 の 寒 冷化 現 象 を う ま く利 用 した結 果 に ほ か な らな い 。 東 北 ア ジ アで の 穀 物 栽 培 は畑 作 が基 本 で あ り、 水 利 条件 が適 合 的 な場 所 で水 田 が営 まれ た と い うの が 、 紀 元 前 二 千 年 紀 以 降 の東 北 ア ジ ア の実 情 とい え よ う。 椎 葉 芸 能 民俗 博 物 館10周 年 記 念 講 演 会2007年 一33一
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