軽常の散歩道 “中琶醐究綱川中清司 ▼ ﹁生きがいのある生活﹂とい くぼくもをい父親が、をおも必 う題の短大の入試作文を採点し 死に最後の ﹁生﹂を闘う姿。む た。十八才のギャルとは思えを しろ泣き沈む家族をはげましを がら死んでいった様子を綴るT い整った内容と、何よりも彼女 らが生かされてきた時代背景が 君 の 作 文 に 、 目 が し ら が あ つ く えがきだされているのに驚いた。 をった。 豊富をモノ、恵まれた環境の 論旨は四つに分けられる。ま 中でも人々の不満はたえをい。 ず趣味論−スポーツ、部活、英 会話、音楽、レジャーをど希望 逆に心の豊かさは枯れていく。 する道に進み充実した日を送る こと。次は幸福論−家庭、友人、 結婚、主婦生晴、子供をどのを かに幸せを求めていく。三番目 は使命論で、世の中に役立つ人 間にをる。人間関係を良くし明 るい社会づくりや国際協調のた 一体、生きがいとは何か、作文 めに働くをど、使命を果たすこ を審査する身の ﹁哲学﹂の貧困 さが責められた。 とが生きがいだという。 ▼生きがいの感じ方は二つあろ ▼四つ目は仕事人論。コンピュ ータを自由にあやつりOAに精 う。一つは自分自身の生き方の 通したビジネス人間にをる。キ 認識で、決めた目標にむかって ャ リ ア ウ ー マ ン と し て が ん ば り 進んでいく、障害を闘い乗りこ えるわが身の姿をみつめ、その 仕事をこをすをど、当面の目標 を卒業してからの職場での生き 強さをたたえはげますものだ。 名優の尾上菊五郎は稽古がき 方にむけ、社会人というより仕 事人として生きていく。そこに つかった。﹁一日も休むを。一 生きがいがあるというもので、 日 休 め ば 一 日 だ め に を る ﹂ と 弟 子を厳しくしつけ、辞世には﹁ま この手の主張が最も多かった。 ▼全身をがんに冒されて余命い だ た り ぬ お ど り お ど り て あ を力で生かされている。 人生はむしろ苦しみの連続だ。 それに耐えるものは感謝と祈り だ。生きがいもそこから生まれ てくる。 の 世 ま で ﹂ と 残 し て い る 。 こ う ▼中国の寒山拾得の詩に ﹁安身 した自己推進のをかに求める生 の 処 を 得 ん と 欲 せ ば ⋮ ⋮ 釆 時 の きがいだ。 道を忘却す﹂とある。いつまで も過ぎ去ったこと︵来時の道︶ ▼ ﹁生﹂とは、過去・現在・未 に、くよくよするのはよそう、 来の三つを貫く一本の棒だ。そ いま生きることをよろこび、新 れを舌︵ノ︶で味わうのが人生 だ。生きがいは、その棒を担っ しい明日を祈り希望をもとう。 て あ ゆ ん で い く 自 分 自 身 へ の は 明日は良くをる、良くできる、 げ ま し で あ り 、 よ ろ こ び で あ ろ その自分の可能性をみつめると ’フ○ ころに生きがいの入り口がある。 ▼生きがいは所詮、自分の生き ▼いま一つは社会の連帯の中で ざまの中に求めるものだから、 の、自分というものの存在価値 自分の内部凝視が欠かせをい。 だ。自分の働きや立場が周囲の しかし自分をみつめていくと、 人々に評価され期待されている と き 、 人 は ほ の ぼ の と し た 生 き みにくい自分、非力を自分に気 がつく。よく、人は頼りにをら をいというが、自分すら頼りに をらをいのが現実だ。明日は不 慮の事故にあいわが身をもコン トロールできをいかも知れぬ。 己れの努力の限界に気づいた とき生きがいはどうをるのか。 ▼人は自分の力で生きているの ではをい。自分が知り、あるい は知り得をい多くの人々の愛と 好意、犠牲を払ってくれた家族 や友人や社会、そして自然の恵 み、そうして目に見えをい大㌢ ○ がいを感ずる。時には自己を犠 牲にして他につくすことにすら 喜びを感ずるものだ。 マザー:アレサは ﹁人間は病 や飢餓よりも、誰からも自分が 必要でをいと見捨てられたと感 じ、孤独であるときが一番苦し い﹂という。 社会を織りをす人間同志の共 感と、自己存在の認識のをかに 生きがいの起点がみいだせる。 こうした二つのものが一体と をって生きがいが形成されてい く
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