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From the Pulpit of the Japanese Baptist Church of North Texas
May 31, 2015
すべての人が救われるために
ペテロ第二 3:8
鶴田健次
さて、この世には、色んな人種、色んな民族、色んな国籍の
人々がいます。また信じている宗教や思想や哲学も、実に様々
です。また人々の価値観や世界観や人生観もそれぞれ違います。
しかし、聖書的な見方をすれば、あるいは、神様の目から見
れば、この世には、ただ二種類の人がいるだけです。それは、
神を知っている人と知らない人です。あるいは自分の罪の問題
が解決されて永遠の命に向かって生きている人と、まだ罪の問
題が解決されずに永遠の死に向かって生きている人です。この
世のすべての人は、必ず、このどちらかに属しています。
この事を列車にたとえてみますと、並行して走る二組のレー
ルの上を、二本の急行列車が互いに逆方向に走っているのに似
ています。上りは、永遠の命に向かう天国行きの列車で、下り
は、永遠の死に向かう地獄行きの列車です。
そして、もともと人間は生まれながらに、いわば罪という切
符を持っているので、例外なしに、最初から永遠の死に向かう
下り電車に乗っていて、その終着駅は地獄である、というのが
聖書の死生観であり、また聞き逃がしてはならない神の警告で
あります。
つまり、人間は一人の例外もなく、生きている途中、どこか
の駅で、天国行きの上り列車に乗り換えなければならない重大
な課題を抱えているのだとうことです。
そして、この重大な課題に本当の解決をもたらす唯一の道が、
神の子イエス・キリストであるというのが聖書の重要なメッ
セージです。
さて今日は、ペテロ第二の手紙 3 章 9 節の御言葉を開きたい
と思いますが、この御言葉を通して、主は、ご自身の切なる思
いを、今朝、私たちに伝えようとしておられます。では、もう
一度、この御言葉をお読みしたいと思います。
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束
のことを遅らせておられるのではありません。かえって、
あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとり
でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むこ
とを望んでおられるのです。
ペテロは、ここで、主が再臨の約束を果たしておられないと
思えるほどに、その時を引き伸ばしておられるのは、「すべて
の人が救われることを望んでおられる」からだと説明していま
す。主は「ひとりでも滅びることを望まれない」。 これが主
の御心です。
ところで、この部分を注意深く読んでみますと、ペテロは、
大変興味深い事を書いています。つまり、主の忍耐は、そのよ
うな、悔い改めなければ滅んでしまう人々に向けられているの
ではなく、「あなたがた」に対して向けられているのだ、とい
うのです。あなたがたとは誰のことでしょう。それはイエス・
キリストを信じる私たちのことです。
では、なぜ主の忍耐が、私たちクリスチャンに対して向けら
れているのでしょうか。パウロは、ローマ書 10 章 13、14 節に
おいて、これと関連しながら、このように言っています。
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」ので
す。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求める
ことができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして
信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、ど
うして聞くことができるでしょう。
つまり、宣教の使命を与えられたクリスチャンが、その使命
をキチンと果たしているかどうか、その事が問われているわけ
です。そのことに関して、主は忍耐深くあられる。それが、ペ
テロの主張であります。
「主は、ひとりでも滅びることを望まれない」。この切実な
る主のお心を私たちの心として、福音宣教の使命に生きる者で
ありなさい。そうペテロは私たちに語りかけているのです。
そこで今日は、このところから、『すべての人が救われるた
め』と題して、聖書のメッセージを取り継ぎたいと思います。
三つのポイントでお話します。
1.宣べ伝える責任 ペテロは、再臨の約束を遅らせておられる主の忍耐は、クリ
スチャンに対してであると言っています。つまり、福音宣教に
対する主の切実なるお心を、あなたは知っていますかという問
いかけでもあります。
たとえどんなに素晴らしい知らせでも、それを伝える人がい
なければ、人はそれを聞くことができません。ですから、人が
救われるためには、この良き知らせを人に伝えるということが
不可欠なのです。
ですからパウロは、ローマ書 10 章 15 節の後半で、預言者イ
ザヤの言葉を引用しながら、「良いことの知らせを伝える人々
の足は、なんと立派でしょう」と言っているわけです。口語訳
の聖書では、「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の
足は」と訳されています。
福音を知らせる者の足は美しい。つまり足の本当の美しさは、
その足がどんな形をしているかではなく、その足が何をするた
めに使われているかで決まるのだということです。
預言者イザヤが活躍していた時代は、外国との戦いが頻繁に
あったときです。戦争の時、イスラエルの民が心待ちにしてい
たのは戦況の知らせです。当時は、今のように情報伝達の手段
が発達していないわけですから、戦況の知らせは、戦場から
走って来る伝令によって伝えられたわけですが、この場合の
「良き知らせ」というのは勝利の知らせのことです。
伝令が走って持ってくる勝利の知らせに、イスラエルの民は
喜びに満たされたのです。ですから、この勝利の知らせは、実
に「良き知らせ」であり、その知らせを運んで来た伝令の足は、
いかにも立派に見えたことでありましょう。
パウロは、キリストを宣べ伝える者の姿の中に、そういう麗
しさを見ながら、「クリスチャン一人ひとりは勝利の伝令をす
る者である」という位置付けをしたわけです。
世の中には色んな勝利がありますが、究極の勝利は、永遠の
天国を手に入れることです。なぜなら、すべての人は、自分の
罪のために、その裁きとして永遠の滅びが定められているから
です。ですから、そういう定めの中で、どんなに富を築き、名
声を博しても、死後の世界が永遠の滅びであれば、その人の人
生は大敗北です。
ところが、たとえどんなにこの世的には恵まれない人生を生
きなければならなかったとしても、その人がイエス・キリスト
にある永遠の命を手に入れることができたなら、その人の人生
は大勝利です。ですから、人は一人の例外もなしに、この重要
な事実に気付き、永遠の滅びから救われるために、キリストの
福音を聞き、それを信じるという選択をしなければならないの
です。
そう考えれば、福音を伝える事は、してもしなくてもいいも
のではありません。川で溺れそうになっている人を見ながら、
見ないふりをして通り過ぎることはできません。そうすれば、
その人は必ず溺れ死んでしまいます。福音も同じです。
ウィリアム・キャリーという人は、1793 年にイギリスからイ
ンドに宣教師として行きましたが、到着するやいなや5歳の息
子を亡くしてしまいます。その衝撃で彼の妻は精神病になりま
した。それでも彼は屈せず、インドで福音を伝え、最初の一人
をキリストに導くのに7年もかかりましたが、彼は諦めません
でした。そしてその後 40 年間、休暇も取らずに一生懸命福音
を伝えたので、インドにキリストの福音が広がっていったので
す。
アドニラム・ジャドソンは、アメリカの最初の海外宣教師と
して、1814 年にミャンマーに行きました。そこで6歳になった
息子を亡くし、1年半の間、牢に閉じ込められ、妻は熱病で死
んでしまいます。彼は精神的に衰弱しましたが、ミャンマーの
人々に福音を伝える使命と情熱を持ち続けたのです。そして、
5年後に初めて一人の人をイエス様のもとに導くことができま
した。実を結ぶためには犠牲が必要であり、犠牲なしに実を刈
り取ることはできないということです。
ロバート・モリソンは、中国に派遣された初めてのキリスト
教宣教師です。中国に到着した彼は、妻を亡くし、その後7年
間の努力の果てに、やっと最初の回心者を得ました。彼は絶え
ることなく福音のために働き続け、中国を福音化させる大きな
貢献をしました。
なぜ彼らは、ここまでの犠牲を払い、忍耐をもって福音を宣
べ伝える事ができたのでしょう。それは彼らが聖霊による力を
得、宣べ伝える責任を自覚していたからです。
皆さんが救われたのも、皆さんに福音を伝えてくれた人がい
たからです。私たちは、福音の恵みにあずかるだけではなく、
福音を伝える責任があることを心に深く刻みたいと思います。
2.神様の熱心
ここでペテロは、「ひとりでも滅びることを望まず」と主の
御心を述べています。まさに、ルカの福音書 15 章に出てくる、
あの「いなくなった一匹の羊を見つけるまで捜し歩いた羊飼
い」の心です。
あの失われた一匹の羊に対する「羊飼いの熱心」、そのこと
を通して、聖書は、あなたに対する「神様の熱心」も、またそ
ういうものだと教えているのです。
この「見つけるまで捜す」という心は、その一匹を捜すまで
はどんな犠牲をも厭わないという覚悟があります。もし、二、
三時間捜して見つからなかったら戻って来るから、というので
はないのです。また、もし今日中に見つからなかったら諦める
しかない、というのではないのです。
たとえ、どれだけの時間がかかっても、またどんな犠牲を払
わなければならなくても、その一匹が見つかるまでは絶対にあ
きらめない。そんな羊飼いの気持ちが伝わってきます。
それと同じように、神様は、あなたを永遠の滅びから救い出
すためなら、どんな犠牲をも惜しまずに、大きな愛と忍耐を
もって、最後の最後まで、あなたを探し続けておられるのだ、
とイエス様は教えて下さったのです。
数年前のある朝のことですが、ホスピスで危篤状態にある久
子ライスさんという方を訪ねて、日本語で福音を伝えて欲しい
という電話がありました。そこで私は、11 時半に指定のホスピ
スに行くことにしました。
私はすぐにラスベガス教会の祈祷部の責任者に連絡を取り 、
11 時半から危篤状態の久子さんという方に福音を語るので、皆
さんに祈りの応援をお願いして下さいと頼みました。
家内と一緒にホスピスに着いたのは 11 時 25 分でした。病室
には久子さんの息子さんご夫婦がおられましたが、息子さんの
奥様は、韓国人教会で伝道師をされている方でキム・イナさん
と仰いました。イナさんの話によれば、久子さんは長い間、福
音に対して硬く心を閉ざし、話を聞こうともされなかったそう
です。
11 時半になり、私は久子さんに声をかけ、自己紹介をし、し
ばらく世間話をしました。ベッドのかたわらでは、イナさんが
一生懸命に祈っておられました。少し打ち解けた感じになった
ので、私はさっそく、「久子さんはイエス様のお話を聞いたこ
とがありますか?」と尋ねました。
すると、久子さんは急に体を強張らせ、無愛想な声で、「私
は仏教ですから」と仰いました。私は、「久子さんは今、平安
がありますか?」と聞きました。彼女はそっけなく、「ありま
す。私は仏教で、息子も仏教で、それでいいんです」と言われ
ました。
私は、「そうですか、でも少しだけ神様の話をさせてくださ
い」と言って、死後の世界の話をし、罪を持ったままでは天国
には行けないことを伝え、イエス・キリストの十字架だけが罪
の赦しと、天国への道であることを説明しました。
すると、久子さんは、「もうそんな話は聞きたくない」と仰
いました。私は聖霊の助けが必要だと思い、「では、久子さん
のために一言祈ってもいいですか?」と聞きました。久子さん
は 、 そ の 言 葉 に も 激 し く 抵 抗 さ れ 、 英 語 で “ Please stop it!
Please go away!”と仰いました。
すると、そばで祈っておられたイナさんが、英語で、「お母
さん、どうしてそんな事を言うんですか。この先生は、お母さ
んのことをご存知でもないのに、遠くから、わざわざ、お母さ
んに会いに来て下さったのですよ。どうか、そんな事は言わな
いで下さい」と言われました。
そこで、私は一息おいて、「では最後に一つだけ聞いてもい
いですか?」と尋ねると、久子さんは「では一つだけです」と
言われました。私は、ゆっくりと、「久子さんは本当に心に平
安がありますか?天国に行けると本当に思いますか?」と聞き
ました。
すると彼女は、「地獄でもいい」と言われました。すかさず
私は、「どうして地獄でもいいんですか?」と聞くと、「質問
は一つだけと言ったから、もうこれでおしまい。これ以上、何
も聞きたくないです」と仰いました。
しかし、私もそこで話を止めるわけにはいかず、また久子さ
んがあまりにも頑ななので、「どうして久子さんは、キリスト
の福音をそんなに嫌がるんですか? 聞いても、信じたくなけ
れば信じなくてもいいのです。しかし、これは久子さんの永遠
に関わる事ですから、聞くだけ聞いて下さい」と言って、どっ
ちみち彼女はベッドから動けない人ですから、強引に話を続け
ました。
私は、いつまた「もういい」と言われるかを気にしながら、
久子さんのために大切な独り子の命を犠牲にされた神様の愛を
伝えました。そして、罪を持ったままでは天国に行けないこと、
また、この罪の赦しはキリストの十字架による以外に方法がな
いことを、5分くらいで、できるだけ分かり易く伝えました。
そして語り終えるとすぐに、「久子さん、ご自分の罪を認め、
イエス様を救い主として信じませんか?」と聞きました。する
と、驚いたことに、あれだけ反発していた久子さんが、はっき
りと「イエス!」と仰ったのです。
私は、突然の態度の変化に半信半疑でしたので、「久子さん
は本当に自分の罪を認めますか?」と聞くと、「イエス!」と
仰いました。続けて「ではイエス様をご自分の救い主として信
じますか?」と聞くと、久子さんは、もう一度はっきり「イエ
ス!」と仰いました。
そこで私が、「では信仰を告白する祈りをしますから、私が
祈るとおりに祈ってください」と言うと、信仰告白の祈りを一
言ずつちゃんとして下さり、最後に「アーメン!」と仰いまし
た。
するとイナさんが泣きながら久子さんを抱きしめ、「ハレル
ヤ!」と言われると、久子さんはもっと大きな声で「ハレル
ヤ!」と言われました。それからすぐにベッドの上で病床洗礼
を授けました。
翌朝、早天祈祷会が終って 8 時ごろ、久子さんを訪ねてお祈
りをし、一緒に記念写真を撮ろうと思ってイナさんに電話をす
ると、イナさんは、喜びの声で、久子さんが朝の 4 時 16 分に
平安のうちに天に召されたことを伝えて下さいました。
イナさんの話によると、久子さんは私たちが訪ねた日の前日
を乗り切れない状態だったそうですが、何とか乗り切ることが
でき、私たちが行った日の朝だけ少し元気になり、私たちが洗
礼式を終えて帰った後から急にまた容態が悪くなり、翌日の早
朝、平安のうちに天に召されたということでした。
これは、どう考えても聖霊の働き以外に考えられません。人
生の最後の最後まで久子さんを探し続けられた神様の熱心がこ
れをなさったのです。
神様の熱心は、私たちに近づく方法を見つけ出し、私たちの
心が、一番神様を受け入れやすいようになった時、人を用い、
時を用いて、私たちをご自分のもとに迎えて下さるのです。
3.イエス様のためにもう一人を
ローマ書 10 章 1 節に、「兄弟たち。私が心の望みとし、ま
た彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われること
です」とあります。
人生の最も有効な使い方は、いつまでも残ることのために生
きることではないでしょうか。いつまでも残るものは神の国だ
けで、それ以外のものは、すべて滅び去ってしまいます。もち
ろん、この世の生活においても、それぞれに与えられた役割が
ありますから、その役割をきちんと全うすることはとても重要
なことです。
しかし、この世のどんな事柄も、人を永遠の滅びから救い出
すことと比べれば、その価値は取るに足りません。ですから、
どんな立場の人でも、その置かれた所で、主を証しするために
生きるのでなければ、その人の人生は空しいものです。
この世界には、あなたでなければ福音を伝えることのできな
い人がいるのです。もし、あなたのおかげで、誰か一人が永遠
の天国に行くことができたら、それは計り知れない意味を持つ
のです。
ですから、私たちは伝道の大切さをもう一度、心に刻み込む
必要があります。主は、ひとりでも滅びることを望まず、すべ
ての人が救われることを望んでおられるのです。
だからこそ、サタンは私たちに、この使命を忘れさせ、他の
ことに忙しくさせようと誘惑してきます。もしあなたが伝道す
る時間もないほどに仕事に忙しいとしたら、あなたは誘惑に
陥っているかも知れません。もしあなたが伝道をする時間もな
いほどに趣味に興じているなら、あなたは誘惑に陥っているか
も知れません。なぜなら、人を救いに導くことは何よりも優先
されるべき事だからです。
サドルバック教会のリック・ウォレン牧師のお父さんは、5
0年以上もの間、そのほとんどを、小さな田舎の教会で牧師と
して仕えた方だそうです。
お父さんは素朴な説教者でしたが、宣教の使命に生きた人で
した。お父さんが好んでした活動はボランティアの人々を連れ
て海外に出かけ、現地に小さな教会堂を建てることで、一生の
間に、世界中に150以上の教会堂を建てたそうです。
お父さんは、1999年に癌で天に召されますが、最後の一
週間は、意識がもうろうとして、ほとんど眠れない状態でした。
また、夢を見ていたようで、大きな声で寝言を言っていたそう
です。リック牧師は、お父さんの枕元に座り、その寝言に耳を
傾けながら、お父さんについて多くの事を学びました。
いよいよ最後の夜を迎えた時、家族と一緒にお父さんを見
守っていると、突然お父さんが、体を動かす力もないのに起き
上がろうとしました。そこで、リック牧師の奥さんが、「お父
さん、何をしようとしてるの?」と聞くと、お父さんは、こう
答えたそうです。
「イエス様のためにもう一人救わなくては! イエス様のた
めにもう一人を! イエス様のためにもう一人を!」 お父さ
んは、何度も何度も、その言葉を繰り返したそうです。
お父さんは、それから一時間ほどの間に、その言葉を百回以
上も繰り返したそうです。救霊の働きに対する余程の思いが
あったということでしょう。リック牧師は、お父さんのベッド
の横に座りながら、涙が止まらず、頭を下げ、神様にお父さん
の信仰を感謝しました。
その時、お父さんは、その弱り果てた手を伸ばして、リック
牧師の頭の上に置き、彼を任命するかのように、「イエス様の
ためにもう一人を! イエス様のためにもう一人を!」と言い
続けたそうです。そして、リック牧師は、その言葉を、彼に残
された生涯のテーマとして受け止めたそうです。
いかがでしょうか。「イエス様のためにもう一人を!」 こ
れは、私たちにとっても生涯のテーマではないでしょうか?
「イエス様のためにもう一人を」という願いを、私たちの人生
の一番の願いにしたいとは思いませんか。なぜなら、私たちの
愛する主は、この事のために死なれたからです。
パウロは今朝、私たちに、こう語りかけています。「兄弟た
ち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めている
のは、彼らの救われることです」
「彼らの救われること」、「彼らの救われること」、その一
心で、イエス様は十字架の道を歩まれたのです。ですから、私
の願いも、「イエス様のためにもう一人を!」、「イエス様の
ためにもう一人を!」というものでありたいと思います。