我が人生を顧みて

我が人生を顧みて
日
髙
康
弘
松本氏に紹介され、
「一双会」を知り、長谷川・中沼両氏の好意もあって、1
7号に寄稿したところ、中3で同クラスだった鳥谷君と松原君からお便りを頂
き、思わぬ懐かし味に浸っていたところ、松原君から、
「君の職業の遍歴の記録
に驚き、その記録を一双会の他のメンバーにも知らせたいので、
『最近一双会に
参加しましたので、改めて自己紹介をさせていただきます。』という形で、一双
会便りに寄稿したら。」との親切なお薦めを戴いた。誰もがあの激動の時代に歩
んだ道で特に誇れるほどの職歴があるわけでもなく、ろくに知らない他人の職
業遍歴を知ったところで面白くもあるまい、との戸惑いもあったが、折角のご
好意ついでに自分の人生をまとめようと思った次第です。
後年、今は亡き母が、
「一つの仕事にしがみつき、とことんやり通す。それが
男だ。」と私に不満を持った。「環境の変化は、好き好んで自分で作ったもので
はない。どんな環境にも適応し、そこで最善を尽くすのが俺の男の生き様だ。」
と反抗した。
昭和19年東京で強制疎開に遇い、中学 1 年2学期に松江中学に転入した。
何故松江だったのか未だに判らない。知らぬ地で、親類もなく、言葉や振る舞
いの違いに戸惑った。自己紹介の時、言葉使いに笑われたりしたが、いつの間
にか溶け込んでいった。戦時中のことは17号に書いたので省き、2 年の8月に
終戦を迎えた。小5の時、
「予科練」の映画を見て憧れ、自分流に大車輪が出来
るようになっていたので、体操部に入った。とにかく敗戦の反動で、生きる目
的もなく、部活動だけが生き甲斐だった。学校には指導者が居ず、器具もそろ
わず、松江市内の学校の生徒や先生は放課後市立松江女子校に集まり練習した。
そこに上迫忠夫先生(後にヘルシンキオリンピックに床で銀、跳馬で銅)がお
いでだったからである。お陰で第2回・第3回の国体に出場出来た。
勉強は嫌いだったが、数学だけは好きだった。何年の時か覚えていないが、
幾何の証明問題のテストで学年中私だけが解けた問題があり、赤山で公表され
た記憶がある。母も大喜びだった。
当時は遊ぶものもなく、家にある父の世界文学全集や日本文学全集=トルス
トイやドフトエススキー、藤村や太宰治などを読み漁るしかなかった。ややマ
セていたかも知れない。それでも谷崎潤一郎の「痴人の愛」を読んだとき、大
人の愛のむごさに吐き気がするほど嫌悪した。まだ純情だったのだろう。
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父は小 6 の時病死し、母と兄と二人の妹の5人家族であった。疎開当初、父
の遺産利子で、4人の子を育てられると読んでいた母の目論見は、戦中戦後の
あのインフレで崩れ去り、絨毯・蓄音機・たんすの中の母の着物などどんどん
米に変身する竹の子生活も底をつき、兄は松中から学費のかからない島根師範
に入ったからともかく、私は、机の前に掲げた「目指せヘルシンキ」を頑張る
わけにはいかず。高2=中学5年で皆より1年前に卒業し、住友炭坑の所長を
している叔父を頼って、一人で福岡飯塚市に行った。
当時は石炭ブームで、抗夫は高賃金のため欠勤が多く、流れ作業に支障を来
たすため、仕来り夫という名の出勤督促の職務があり、それらを集計する労働
課の事務を担当させられた。まだ生意気盛りの17歳、有る抗夫が私を痛めつ
けてやろうと言う話があり、中をとる人がいて手打ちの労を執ってくれた。と
ころが私は酒が飲めないので、困っていたら、柿を食べ食べ飲めば大丈夫と教
えてくれ、無事手打ち式が終わり痛めつけられずに済んだ事など覚えている。
いくら景気が良くても数年で石炭は終わりと思い、やはり大学に行かなけれ
ばと2年で退職し、その頃松江から平塚(神奈川県)に引っ越していた母のと
ころに帰った。それでも学資稼ぎに働かざるを得無いので、失業保険をもらい
に安定所に行ったら、安定所で働かないかと言われ、公務員試験を受けて横浜
公共職業安定所に就職した。これは幸運中の幸運であった。2年目に無謀にも
労働組合を創ったと言うのも想い出の一つである。此処も2年で退職した。
学資も貯まり何処の大学にしようかと迷ったが、入学試験の前に、高等学校
を卒業していないので、大学受験資格試験を受けなければならない。全教科を
受けるには何年もかかってしまう。幸い私立に5教科だけで資格試験と見なす
特例があり、何とかそれに通過して、法政大学の法学部法律学科に入った。し
かし、法律学の勉強がつまらなく、3年からは政治学科に転科した。2度の事
務員の経験から、事務屋だけはもう沢山だ、卒業後は教員になろうと決めてい
た。しかし学校に行くより、アルバイトの方が多かったと思う。
卒業し神奈川県の教員採用試験にも合格したものの、4月になっても呼び出
しがない。聞くと、まだ中高生は戦前生まれで少なく、教員の採用の余地がな
いという。県教育委員会の人事担当にお願いに行ったところ、社会科では全く
ない。ベビーブームの小学校の代用教員にならないか。と鼻も引っかけてもら
えない。たまたま「お兄さんは何をしている?」と聞かれ、
「兄は中学校の体育
の教員だ」と答えると、「体育は出来るか?」ここからが松江高の出番だ。「体
操選手として、2回も島根県代表として国体に出ました。」「社会と体育だけで
はなあ?」こちらも必死である。
「数学は大の得意で、自信があります。」
「それ
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ならば三浦半島の小規模校から頼まれているので話してやろう。」早速校長面接
となり、6月1日に辞令が出るという。話が壊れると困るので、
「明日から来ま
す」と言い5月いっぱいは宿直室に泊めて貰い、無料で奉仕した。
以来、無免許ながら体育主任5年、数学は9年も担当した。オリンピックで
メダルを取った上迫忠夫先生が、開成高校の先生で東京におられたので、その
学校に2回も模範演技に来ていただいたし、体育主任研修会の講師に来ていた
だいて、私まで鼻高々だった。その後結婚して転勤し、現在住む「松田中学」
に10年勤めた。部活も体操部を創り、35歳まで体育祭で模範演技を行った。
ただし今では逆上がりも出来ない。
その頃私に、障害児教育の資格を取らせるため、内地留学させようという話
があり、内心「俺のような優秀な教員をバカを教える教員にするのか」と憤慨
したが、「この子達の教育を見る目が、本当の教育の原点になる。」と言われ、
1年間東京学芸大学に内地留学をした。片道2時間の通学は大変だったが、4
0歳近くなって学生割引を使い、医学や心理学の勉強をした。一生で始めて本
気で勉強した。楽しかった。こうして養護学校教員免許を取得した。
終了後、元の学校に戻り特殊学級を開設した。この3年間ほど充実した時間
は無かった。おそらく進学することのない彼らが生きていけるだけのスキルと
あらゆる生活力を身につけてやらねばならない。国の指導要領も、教科書もな
い。教材や器具・カリキュラムすべて自分で創らねばならない。目の回るほど
の忙しさと生き甲斐があった。そのせいか田中角栄が創った第1回海外派遣短
期留学に選ばれ公費で外国旅行が出来た。
その後県教育委員会の指導主事に任命され、学校や教員の指導に当たった。
公教育は義務教育と言いながら、盲児・聾児以外の障害児を、猶予・免除とい
う方策で100年以上拒否してきた。ついに文部省は昭和54年には都道府県
に養護学校の義務化を決めた。ところが県下の指導主事の中で、障害児教育の
資格と経験者は私しか居ない。行政の責任者として私にお鉢が回ってしまった。
神奈川県教育委員会指導部義務教育課課長補佐、と言う私の嫌いな事務屋が押
しつけられ、養護学校を数校作って国の法に間に合った。
その後南足柄教育委員会の学校教育課長に帰り、更に県立養護学校3校の校
長を経て定年退職した。定年後は関東学院大学法学部で、社会科教育法・公民
科教育法・生徒指導論の3科目を10年間、同時に家庭裁判所の家事調停委員
を73歳まで務め、以後は地域でボランティアをしている。
こう見ると私の人生は、いつも知らない土地に一人で落下傘で飛び降り、そ
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こで仲間を創り、慣れない仕事をこなさなければならない運命だったのかも知
れない。そのすべてが楽しかった。素晴らしい上司も同僚もいた。全力投球も
したつもりだ。ただ変わっていく都度友人関係がとぎれて繋がらなかったこと
が淋しい。その反動で、東京の小学生だった学年同窓会の永久幹事を10年以
上やっている。昨年松江に行ったのも、私が全国特別支援学校退職校長会の会
長をしているからだ。しかし反面、亡母が言った「一つのことの達人になれ」
への引け目もついて回る。
幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学のすべてで教えた。普通教育も特
別支援教育も担った。民間企業も公企業も、国の行政も県行政も市の行政も経
験した。そんな人いるかい。と開き直るしかない。
いくら突っ張ってみたって、所詮、与えられた仕事をこなしたに過ぎない。
今はボランティアとして、神奈川県の県西部に何とかバイオマスエネルギーを
作れないかと有志で勧めている。壁が厚いが、もしこれが出来たら、私の生き
てきた一番の証になるだろう。
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