水田作の進歩から今後を想う

[雑草と作物の制御]vol.9
2013 p 1
水田作の進歩から今後を想う
長野県農業試験場
昨年4月 30 日、長野県の生んだ保温折衷苗代の
開発者、岡村勝政氏(諏訪市)が逝去された。保
中澤伸夫
後半になると耕耘機利用になり、就職する頃には
田植機やバインダ-も広く普及した。
温折衷苗代といっても、知らない若い人も多いが、
時を同じくして水田雑草取りは、昔の田押し車
筆者と同世代以前の農業者で知らぬ人はない。戦
(人力除草機)や網お面被りの四つん這い草取り
後の食糧難の時代、この新しい苗代の発明により
から解放され、除草剤利用が当たり前になり、農
高冷地でも冷害から稲が守られ、安定多収化につ
夫症と呼ばれた腰曲がりや葉先で目をやられ結膜
ながったことは、当時小学校の教科書に必ず載っ
炎になる人が激減した。このころ活躍されていた
ていて、当初の創案者となる軽井沢の荻原豊次氏
方は、雑草防除の分野で竹松哲夫氏(伊那市)と
とともに郷土が生んだ偉人ということで有名な話
植調の吉沢長人氏(蓼科村)のお二人の郷土人、
である。この保温折衷苗代の普及により、その後
また農村医学分野で東京出身の若槻佐久病院長が
全国の水稲収量が飛躍的に増加、当時飢えに苦し
有名である。米の増産のため全国民が力を合わせ
んでいた人々延べ幾百万人の命を結果的に救った
て取り組み努力していた時代であった。
といわれている。
時代が過ぎ、就職後しばらくして米供給が過剰
筆者の世代は終戦後昭和 20 年代の終わりで、幼
になって減反政策が始まり、その後需給ギャップ
少時にはまだ米が不足がちで大切に扱われていた。
がさらに拡大、あおりで米多収栽培の研究は重視
当時は馬で田起こしをし、畑苗代で手苗を取り、
されず停滞していった。しかし、昨年大きな政策
本田では全員が横一線に並んで田植え、稲刈りは
の転換がなされた。需給のミスマッチ対応のため
鎌で一株ごと手刈りした時代であった。この時代、
継続が必須とされた減反政策が、急遽廃止と政策
保温折衷苗代の岡村氏ともう一人、機械植えの端
決定された。当面は作付けの調整弁的役割を市場
緒となる「室内箱育苗」という卓越した早期育苗
価格動向および飼料稲栽培等への助成金に担わせ、
法を考案した松田順二氏(飯山市)の二人の偉業
収入確保と経営体質強化を進めるとされるが、生
が長野県で誕生したことは、理由があるように思
産者の対応がどうなるかは未知数である。
える。本県は内陸の山岳県であり農家人口は多い
米の栽培技術が変わり、農村が変わり、日本経
が耕地が狭く気象条件も厳しいため、効率的で生
済も大きく変わった。米の主食としての比重は低
産性の高い栽培技術を工夫する必要に常に迫られ
下し、国際競争力も厳しい。しかし、いつの時代
ていた。このため、試験場の技術者は食糧増産を
でも必ず技術者が粘り強く研究に取り組み、新機
めざし、志気高く米作り日本一の多収穫篤農技術
軸を打ち出し、困難を克服してきた。祖先が営々
にも注目して研究した。新技術の発明家を生む風
と築き上げてきた農業・農村はそう簡単に弱体化
土、土壌が十分備わっていたのである。
するものでなく、時代に適応して固有の風土とと
話を筆者の幼年時代に戻すと、米栽培が牛馬や
もにしぶとく受け継がれていくものと思う。
人手に頼った時代の記憶はすぐ終わり、小学校の
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