めざせ先輩ハチ公

めざせ先輩犬ハチ
吾輩はキクマルである。普段はキクと呼ばれる。毛色は白あるいは生成り色、
住いはハチ先輩の晩年と同じ渋谷の富ケ谷、今の飼主が駒場の東大教員という
ことで、ハチ先輩といろいろ共通している。背はハチ先輩よりやや高いが、体
重は少し軽く、大型犬の部類である点もまあ同じだ。ただ、吾輩は洋犬のスタ
ンダード・プードル、アキタイヌではないのが残念である。吾輩の育ての親(ブ
リーダー)も東大農学部獣医学科の教員だったので、この点でもハチ先輩との
縁を感じる。
ハチ先輩は駒場の農学部の門まで上野先生を見送り、出迎えしたと伝えられ
ているが、吾輩の場合は教養学部の飼主の研究室まで一緒に行くのが日課だ。
上野先生の専門は農業土木だが、吾飼主の専門は動物行動学・動物心理学であ
るので飼主の実験に協力する実験犬としてキャンパスに出入りしているわけで
ある。ただし、この二年は親が本郷の本部勤務になってしまったのでなかなか
大学に行けない。
では、研究室でイヌを使ってどんな研究をしているのか、飼主に代わって少
し紹介してみたい。飼主によれば、イヌの認知能力や行動に関する研究は、こ
の 10 数年の間に一気に盛り上がったそうだ。20 世紀の動物心理学では、ネズ
ミやハト、サルが主役で、実験動物を一頭ずつ実験箱や檻に入れて行う条件付
けの研究が中心だった。それが最近では、より自然な場面での社会的認知能力
の研究が増えてきた。イヌ研究の隆盛は社会知性の研究全般の発展と軌を一に
していると飼主は言っている。イヌは祖先のオオカミから別れて過去およそ1
万年間に渡って、人間と共に暮らしてきた。人間の目からみれば家畜化だ。祖
先のオオカミも高度な社会生活を営んでいたのだが、イヌは人間と共生するこ
とにより社会的認知能力にさらに磨きがかかった。人間が出すさまざまな信号
––たとえば指さしや指示動作といったシグナルや「待て」
「お座り」といった簡
単なことば––を吾輩達は難なく理解するが他の動物にはそれが難しいらしい。
一部の社会的認知課題では、チンパンジーよりイヌの方が成績が良いくらいだ。
さて飼主の研究室では、最近、イヌのあくび伝染に注目した一連の研究を進
めていて、吾輩もよくあくびをさせられる。眠い時や疲れたときに出るあくび
であるが、他人のあくびを見るだけであくびがうつることも良く知られている。
この現象は、なにも人間だけでなく、ヒヒやチンパンジー、そしてイヌでもあ
くびが伝染することが分かってきた。社会的文脈でのあくび伝染は、どうやら
情動(感情)の同期と関係があるのではないかと考えられ、共感性の進化・神
経基盤研究の一部を担っているらしい。研究室のテレサさんたちの実験では、
あくびをする人(モデル)とあくびを見るイヌの関係が親しい場合にそうでな
い場合よりも、あくびが伝染しやすいことが分かった。共感は親しい人同士で
生じやすいことに通じる発見だ。テレサさんたちは、オキシトシンという物質
がイヌの社会性にどう影響するかも研究し、「オキシトシンはイヌの”友情”を育
む」
(オキシトシン経鼻投与によってイヌの親和的社会行動が促進される)こと
を発表している。そうそう、多摩動物公園のオオカミ集団の観察から、オオカ
ミでも親しい個体間であくびがうつりやすいことも研究室での最近の発見だ。
アキタイヌについての研究もある。吾輩の友達の今野君は、博士研究で東北
地方に足繁く通って、アキタイヌの飼主さんに飼い犬の性格評定をお願いした。
同じ犬種でも個体毎に性格が違うことは、飼主なら誰でも知っている(もちろ
ん、犬同士でも互いの性格の違いはすぐわかる)。今野君は併せて唾液サンプル
から遺伝子多型の解析も行い、個体の性格とアンドロゲン受容体遺伝子(AR)
多型の関連を見いだした。具体的には、オスのアキタイヌにおいて AR の短い対
立遺伝子を持つ個体の方が長い対立遺伝子を持つ個体よりも攻撃性スコアが高
いことがわかった。アキタイヌの行動遺伝学的研究としては世界で初めての研
究なので、海外のマスコミでも注目された。吾輩はこんど今野君に、ハチ先輩
の遺伝子も調べてもらおうと思っている。
最後にハチ先輩は忠犬として有名だが、吾輩の場合、飼主以外にもすぐ尻尾
を振ってしまうお愛想犬である。修業が足りないので、ぜひ先輩を見習い、立
派なイヌになりたい。