【やさしい こころと経済学】心理的契約 横浜国立大学准教授・神戸大博士

【やさしい こころと経済学】心理的契約
横浜国立大学准教授・神戸大博士
11 /5 ~ 1 9
服部泰宏
日経
( 1 ) 会 社 と 社 員 の 間 の 約 束 ( 11 /5)
会社に長くいれば勝手に給料や地位が上がっていくのは遠い過去の出来事のように感じら
れ、今は「自分らしい働き方」を望む人が多い。会社と社員の関わり等を考える際に注目さ
れるのが「心理的契約」である。それはお互いに求め合っているものについて合意している
ことである。
その典型例が「終身雇用」である。これは会社と社員の間の書かれざる約束にすぎない。
「終身雇用」は文章化された契約ではないが、その約束が守られてきたのはなぜか。
それを解き明かすのが心理的契約という概念である。
( 2 ) 外 か ら 見 た 日 本 の 特 徴 ( 11 /6 日 経 )
「 企 業 と 社 員 の 間 の 書 か れ ざ る 約 束 」と い う ア イ デ ア の 起 源 は 、1 9 5 8 年 に 書 か れ た 米 国 の
ジェームズ・アべグレンの著書「日本の経営」にまでさかのぼる。
ア ベ グ レ ン は 企 業 と 社 員 の 終 身 の 関 わ り 合 い こ そ が 日 本 企 業 の 特 徴 で あ る と し 、そ れ を「 終
身関係」と表現した。米国人のアベグレンに「終身関係」という概念を提供されるまで、日
本企業と社員の関係がいかに特徴的であるかを日本人は気づかなかった。
心理的契約というサーチライトを手に、日本の人事管理そして会社と社員の関わり合いの
「今」について見ていく。
( 3 ) 文 章 化 さ れ な い 理 由 ( 11 /7 日 経 )
経済学や経営学では、契約が文章化されないのは、文章化が2つの理由で不完全だからと
考える。
1つ目に人間の情報探索能力に限界があること。2つ目には将来の環境変化への予測が困
難 だ か ら と い う の が 挙 げ ら れ る 。1 9 7 8 年 に ノ ー ベ ル 経 済 学 賞 を 受 賞 し た 米 国 の ハ ー バ ー ト ・
サイモンは、こうした情報探索能力や将来の予測能力の限界を「限定合理性」と表現した。
この限定合理性ゆえに文章化された契約は不完全なものになる。
心理的契約を理解するには、まずこの点が重要である。
( 4 ) 評 判 考 慮 し 約 束 を 守 る ( 11 /11 日 経 )
心理的契約の考え方では、約束事には①文章化された契約②文章には記載されない「書か
れざる約束」がある。
文章化された契約は法律で履行が担保され、法的な処分を避ける目的で契約を履行する。
書かれざる約束を守らせるメカニズムとして「評判効果」というものがある。私たちが約束
を破った場合、噂は広がり評判が低下し、今後の活動に支障をきたすだろう。
日本のように閉鎖的な社会で長期継続的に事業を営む場合は約束を守って短期的な利益を
求めるよりも自らの評判を守る利益の方が大きいはずである。
心理的契約論では「法律」と社会的関係における「評判」という2つのメカニズムによっ
て、私たちの約束は守られると考える。企業と従業員の約束を広く捉えることで、組織と人
の関わり合いの機微について理解できる。
( 5 ) 日 本 と 欧 米 の 混 合 型 に ( 11 /1 2 日 経 )
1 9 9 0 年 代 以 降 の 成 果 主 義 の よ う な 欧 米 流 の 人 事 制 度 の 導 入 で 、日 本 企 業 と 従 業 員 の 間 の 心
理的契約は、欧米型とも日本型ともいえない、ハイブリッド型へとシフトしている。
会社と従業員の間の心理的契約は、評価・処遇の面では年功主義から成果主義へと大きく
シフトした半面、雇用保障面ではなお長期雇用の重要性が失われていない。
神 戸 大 学 の 平 野 光 俊 教 授 は 、日 本 企 業 の 人 事 管 理 が 伝 統 的 ス タ イ ル と 米 国 流 ス タ イ ル の「 ハ
イブリッド型」へと進化していると指摘している。
( 6 ) 不 履 行 に 2 つ の 理 由 ( 11 /1 3 日 経 )
賃金の引き上げや上司からのフォローが十分ではないといった「契約の不履行」の発生は
契約を履行させる「評判効果」が2つの理由で弱体化しているからである。
1つは契約不履行を外的な理由にしやすい状況。そしてもう1つは社員との契約を順守す
る誘因の低下である。契約不履行は、従業員による貢献の質の低下と離職リスクの増大とい
う代償としてはね返ってくる。
( 7 ) 異 動 ・ 昇 進 の 効 果 ( 11 /1 4 日 経 )
心理的契約の不履行が起こるのは、実は従業員側の意識の変化も一因である。異動は従業
員にはストレスになるが、他方で自分と会社との関係を見つめ直し、果たすべき義務を確認
する転機である。神戸大学の金井壽宏教授は「キャリアの節目」と指摘した。
し か し 、1 99 0 年 代 以 降 の 組 織 の フ ラ ッ ト 化 等 が 、キ ャ リ ア の 節 目 を 減 少 さ せ た 。そ れ が「 自
分は会社に一定の義務を負っている」という従業員の意識を薄れさせ、自らの義務の中身を
忘れさせることにもつながっている、との調査結果もある。こうした「意識の薄れ」は、会
社との約束を守るとの意識も低下させうる看過できない問題だ。
( 8 ) 双 方 の 期 待 の 明 確 化 を ( 11 /1 7 日 経 )
心理的契約の不履行を防ぐためには従業員と企業間の期待の「ズレ」について、人事部門
や現場のマネジャーがきめ細かく配慮することが必要である。ただ全ての従業員の要求に応
えるのは容易ではないため、欧米の研究では、企業側の契約不履行がある程度やむを得ない
ことを前提に、いかに不履行発生コストを抑えるかが関心を集めている。
もう一つ重要なのが契約の明確化である。契約の明確化は企業には勇気がいることだが契
約履行を促す効果等それに見合う利点もある。企業と従業員が現実的な議論をし、お互いの
契約として明確化することが必要だ。
( 9 )「 特 別 扱 い 」 が 効 果 生 む ( 11 /1 8 日 経 )
従業員の多様な期待をどう管理するかが心理的契約の要諦だが、提唱者の米カーネギー・
メ ロ ン 大 学 の デ ニ ス・ル ソ ー 教 授 は 、
「 一 部 の 企 業 で は 特 定 の 従 業 員 を『 特 別 扱 い 』す る こ と
が許容され、企業にもメリットがある」といっている。
ル ソ ー 教 授 は こ れ を 「 I - DEA L 」 と 表 現 し て い る 。 ① 周 囲 と 違 う 特 異 な 扱 い ② 特 別 扱 い の
許 容 が 企 業 や 他 の 従 業 員 に プ ラ ス に な る 理 想 的 状 況 の 二 重 の 意 味 が あ る 。「 I -DEAL 」 は 会 社
と従業員の相互期待を従業員用にテーラーメイドすることに他ならず、心理的契約の究極の
形と言える。
( 1 0 )「 沈 黙 」 に 目 を 向 け る 必 要 ( 11 /1 9 日 経 )
企業が約束を破ったとしても、従業員は表立った不満の表明をせず、環境に合わせ自らの
考えや信念を修正している。この自己調整は人材の流動性が低い日本社会の特徴かもしれな
い。
しかし従業員の「沈黙」によって企業の不履行が穏便に処理されることは両者の関わり合
いに深刻な事態を招きかねない。企業には従業員が何を期待し、それが確実に履行されてい
るかを知る努力が求められる。企業と従業員の見えざる約束に注目することは従業員の「沈
黙」に目を向けることでもある。
今 こ そ 心 理 的 契 約 の 視 点 か ら 、日 本 企 業 と 従 業 員 の 関 係 性 を 見 つ め な お す 時 期 で は な い か 。