1年団通信 2015年6月26日発行第54号 発行責任者:大野孝之 [email protected] 印 刷 所:丸亀市立飯山中学校 http://www.hanzan-jh.ed.jp/ 今は平和な世の中でしょうか 詩朗読の高3問い掛け 今は平和な世の中なのでしょうか―――。 23日の沖縄全戦役者追悼式で平和の詩「みるく世(ゆ)がや ゆら」を朗読した沖縄県立与勝高 3 年、知念捷(まさる)さん(1 7)は、沖縄の島言葉を織り交ぜ「鎮魂の祈りを込めた問い掛 け」を繰り返した。「読み手が自分自身の心に問い掛け、何かを 感じ取ってほしい」 沖縄戦で夫を失った大伯母が、乳飲み子と共に残された悲し み。夫の遺骨さえ見つからない無念。「夫に先立たれた女性を 歌った『軍人節』という歌を何十回も口ずさむ姿を見て、少しでも 大伯母の気持ちに寄り添いたいと思った」と話す。 かわいがってくれた大伯母は今、老人ホームで暮らす。戦後 70年の歳月で大伯母は認知症を患い、夫との思い出も戦争の 記憶も奪われようとしている。 「風化にあらがうことはできない」が、曽祖母が残した手記や 家族の話から、大伯母の戦争体験に思いをはせた。 クワディーサーの木々やセミの声、梅雨明け直後の沖縄に吹く夏至南風(かーちーべー)とい う「沖縄の原風景」を随所にちりばめた。幼少時から琉球舞踊を習う知念さんは「命(ぬち)どう宝 (命こそ宝)」と歌う古来の琉歌も盛り込んだ。 「みるく世の素晴らしさを未来へと繋(つな)ぐ」。沖縄の基地負担は今も変わらず、国会では野 党が「戦争法案」と批判する安全保障関連法案の審議が続く。「政治や社会への批判ではない」と 話す知念さん。問い掛けへの答えを読み手一人一人に委ねた。(6月24日 四国新聞掲載) 上の記事は、昨日、この通信に載せた詩についての説明です。 この夏、私たち一人一人が自分のこととして平和について戦争について考えな ければならない、私たちの国日本の、戦後の平和な歴史の変わり目が来ています。 私は、みなさんのような子どもに再び戦争の経験をさせてはならないと、強く強く願っ ています。 生き地獄記憶今も 亡き母にすがり、涙枯れた 沖縄慰霊(おきなわいれい)の日(6月24日 四国新聞掲載) 砲弾の雨が降る中を逃げ惑った70年前の6月、米軍機の爆撃で母と祖父を一度に失った。遺 体(いたい)にすがり、枯(か)れるまで流した涙。15歳だった島袋文雄さん(85)は戦後70年を 迎えても、慰霊(いれい)の日には肉親2人を失ったあの惨状(さんじょう)がまぶたに浮かぶ。 「悲しい戦争が二度と起こりませんように」。23日午前、2人の最期の地となった糸満市の路傍 (ろぼう)に花を手向け、祖父が好きだった泡盛(あわもり)を供(そな)えた。 不戦訴える85歳男性 那覇(なは)市で育った少年時代、戦争を身近に感じていた。国民学校での団体行進、木刀の 素振り、皇居がある東に向かってお辞儀(じぎ)する宮城遥拝(きゅうじょうようはい)。「『天皇陛下 のためなら火の中でも水の中でも飛び込む』と、軍国主義が心身に染(し)み込んでいた」 沖縄戦前年の1944年、軍幹部を目指し県立一中(現・首里高)に入学。 卒業生には、南太平洋のガダルカナル島で戦死し、武勲(ぶくん)が天皇に伝わったとされる 「軍神」大舛松市陸軍大尉がいた。「『われら大舛大尉に続かん』と毎日唱(とな)えた」。米軍がじ わじわ迫る中、勤労学徒として動員され、日本軍の飛行場や港の造成作業に汗を流した。 45年4月1日、那覇市の北約20㌔の読谷村から米軍が上陸し、作業どころではなくなった。 「海を埋(う)め尽くす軍艦(ぐんかん)から花火みたいにボンボンと砲弾が撃ち込まれた」。母や 祖父らと南へ逃げた。 米軍が沖縄本島南部まで侵攻していた6月初旬の昼下がり、家族らと糸満市の民家に隠れて いると、爆撃で床が吹っ飛んだ。島袋さんは祖父の手を引き、石で覆(おお)われた畑の脇の水 路に逃げ込んだ。しかし爆音(ばくおん)におびえたのか、不意に祖父は手を離し、飛び出した。 1時間ほどで攻撃がやみ、目の当たりにしたのは「無数の死体が転がり、肉片が散らばる生き 地獄」。その中に、弾に撃たれ息絶えた母と祖父の姿があった。「ぽうぜん自失した。母の亡きが らにすがり、泣きじゃくった」。父を早くに亡くしていた島袋さん。「独りぼっちになった。数日泣き 続け、涙は枯れた」 その後、逃げ込んだ小屋で数人の日本兵や看護師と息を潜めていると、米兵が銃を乱射する 音が近づいてきた。覚悟を決めた日本兵らは手りゅう弾を爆発させ集団自決。島袋さんはとっさ に毛布をかぶり、血まみれになりながら生き延(の)びた。 6月22日、隠(かく)れていたサトウキビ畑で米兵に捕まった。収容所に運ばれる軍用トラック の荷台から見た那覇の街は焼け野原。「橋や学校、県庁の残骸(ざんがい)。勝つと信じて疑わ なかった自分は無知だった」。大舛大尉への憧(あこが)れは消えていた。 戦後は叔母に引き取られ、美術教師になった。戦前の教育を色濃く受けた軍国少年だっただ けに「子どもたちの人間性を豊かにすることに心を砕いた」。教育の恐ろしさは身に染みている。 島袋さんの心の傷は、何十年たっても癒(い)えない。「私と同じ苦痛を、後世の人々に味わっ てほしくない。戦争は絶対にやってはならない」と訴えた。 「教育の恐ろしさ」。教師である私の仕事とは何かということを、鋭い剣のようにこの言葉 が迫ります。私はみなさんに「自分の頭でよく考える人」になってほしいと願っています。
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