権威に関する問答

権威に関する問答
ルカによる福音 78
権威に関する問答
20:1-8
いよいよナザレのイエスの権威が真正面から問題にされる所です。場所は
エルサレム神殿の境内、しかも人々を集めて教えておられる最中に、これは
多分議会の調査委員会みたいなのが来たのでしょう。
「いかなる権威により、先日来の過激な行動をなさるのか? ここを何処と
心得られる?」というわけです。
「誰があなたにそのような権限を与えたか!」
過激な行動というのは、前日の宮の庭での乱暴狼藉です。両替業者の台を
ガサーッとひっくり返して、貨幣を敷石の上に散らす。犠牲の羊や山羊を売
る業者を庭から追い出す。何でもこの時はロープで鞭を作ってそれを振り回
して大乱闘をなさったらしい。「『わが家は諸国民の祈りの家なり』という
御言葉を忘れたか! これではまるで盗賊の巣だ!」その時の狂ったような勢
いに、業者も宮の係員もガリラヤのラビ一人を取り押さえられなかった。そ
の代わり、日を改めていよいよこの人を捕えて突き出すべく、第一段階にか
かったわけです。
旧約聖書を読みますと、やはり預言者と言われた人たちの行動は、時に奇
矯、時に過激ですね。エレミヤなどは陶器の壺かビンのような物を地面に叩
きつけて壊す場面があります。バーンと叩き壊して「万軍の主はこう仰せら
れる。エルサレムとその住民は、これと同じになる」……エレミヤ書 19 章の
所です。彼はその陶器のビンを民の長老と年長の祭司のうちの数人を証人に
立てて、その人たちの目の前で叩き割ったというのですが、直ちにやはり祭
司長のような人の指図で逮捕されますね。逮捕されて鞭で打たれて、足かせ
をはめて一日放置されるのです。
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イエス様の場合は、前章末尾のような事情で現場逮捕は実現しなかったの
ですが、なさったことはそれ以上です。
それにその前の城門での騒ぎがあります。ガリラヤの巡礼と一緒に入って
くる件です。「ラビ、あなたの弟子たちをお叱り下さい」と注意申し上げた
が、「いや、この者たちが黙れば石が叫びますぞ」とおっしゃった。その時
の弟子たちの叫びというのが「主の名によって来る王にホサナ」と言ったの
です。これはローマへの正面切っての反乱か一揆につながる、と恐れた人も
いました。ローマ軍の弾圧が起これば、辛うじて命脈を保っているユダヤの
宗教権益が元も子も無くなるでしょう。それに恐れ多くも大祭司様と神殿長
が許可している宗教活動を非難したり、まして破壊したりする権限が誰にあ
るかです。先ず、ここの対話を見てみましょう。
1.イエスの権威を問う人たち :1-2
1.ある日、イエスが宮で人々に教え、福音を宣べておられると、祭司長や
律法学者たちが、長老たちと共に近寄ってきて、 2.イエスに言った、「何の
権威によってこれらの事をするのですか。そうする権威をあなたに与えたの
はだれですか、わたしたちに言ってください」。
この権威ということが正式の許可とか免許ということであれば、そんなも
のは神殿長からも大祭司からも出していないのですから、この場合のニュア
ンスは「あなたは宮の境内でかかる暴挙をなす権限はないぞ」ということで
すが……
民の間で専ら預言者として評価が高かったイエスに対する問いとすると、
「神の預言者として任命を受けた証拠があるのか?」と迫ったことになりま
す。「預言者の声が絶えて既に 500 年、あなたが神の預言者だと言うからに
は余程の証拠と奇跡を見せてもらわねばならぬ」……答え方によっては、神
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を侮辱し冒涜した……という方向に持って行けるかも知れません。
更に、単に預言者ということではなく、「主の名によって来る王、メシア」
というのであれば、事はさらに重大です。当時「メシア」を名乗って信者を
糾合する人物は、それまでにもこの後も何人か出ているわけですね。律法学
者たちは、そういう時称メシアをチェックするために、いろいろな審問法を
案出していました。
この後 A.D.135 年にシモン・バル・コクバという革命家がメシアを名乗っ
て捕えられた時など、嗅覚テストのようなことまでしています。真のメシア
なら目隠ししても鼻で人を嗅ぎ分けられる筈だというのです。その根拠とい
うのが振るっていまして、バビロニア・タルムードに出ていますが、イザヤ
書に「その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところ
によって、定めをなさず」という言葉がありまして、これはメシアが来られ
る時、彼の判断は物事の真相を究めた深い判断であるということなのですが、
これが「その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くとこ
ろによって、定めをなさず」……たから鼻でなさるという単純な発想ですが、
悪いことにそのすぐ前にある「彼は主を恐れることを楽しみとし」の「楽し
みとする」というヘブライ語ヘリーホー
AxyrIh]
という動詞が「匂いを嗅ぐ」
という意味もあって、バル・コクバはこの方法でテストされて処刑されてお
ります。時代が違いますから、イエス様に同じことをしたかどうかは分かり
ませんが、「私は神の子、メシアとして権威を授けられた」と公言すれば、
当然七十人議会による審問を受けるということになりましょう。
この場合、そこまで言わせようとしたものか、それともイザヤやエレミヤ
のような預言者としての権威を実証できるかという線で迫ったのか、人によ
って説明も違いますけれど、答え方しだいによっては、逮捕の口実として充
分です。果たしてナザレのイエスはどう答えるか……敵は舌なめずりをして
いるのです。
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2.イエスの権威、明らかにされる :3-8.
3.そこで、イエスは答えて言われた、「わたしも、ひと言たずねよう。そ
れに答えてほしい。 4.ヨハネのバプテスマは、天からであったか、人からで
あったか」。 5.彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、
なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。 6.しかし、もし人から
だと言えば、民衆はみな、ヨハネを預言者だと信じているから、わたしたち
を石で打つだろう」。 7.それで彼らは「どこからか、知りません」と答えた。
8.イエスはこれに対して言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事
をするのか、あなたがたに言うまい」。
「言うまい」とはおっしゃっていますが、本当は言っておられるのですね。
「私の権威はヨハネの場合と同じ天からである」。「天から」というのは神
から直接ということです。ユダヤ人は神という単語を駆るべく避けて、天と
いう語で神を表しました。
ですから、ここでイエスが言葉を濁されたとか、論点をすり替えなさった
というのは当たっていません。事実、この時のこのお答えも、この後機動隊
による逮捕への原因の一つになっていきます。「私の権威は直接天から。そ
れは浸しのヨハネが受けた権威と同じ受け方だ!」それをこの問返しの形式
で強烈に表現しておられます。預言者、メシアという呼び名は押さえておら
れますが。
ヨハネという人はイエスの先駆者で、ヨルダン川の畔に立って人々に悔改
めを説いた人です。彼の教えを聞いて自分の罪を認めた人、神に赦しを請う
新しい決心をした人を、彼はヨルダンの水に沈めて洗礼したので、洗礼のヨ
ハネ、ヨハネのバプテスマと言われました。ヨハネのバプテスマはイエス様
が来られる直前、一世を風靡したものです。ですから「ヨハネのバプテスマ」
というのは、本当はヨハネの説教、ヨハネの活動全部を指しました。つまり
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ヨハネの悔改め呼びかけ運動です。あれは本当に神から直接遣わされた人だ
からできた神聖な働きだったことは、心ある人はみな認めていたのです。
イエスのお答えは、当時のラビ流儀にひねってありますけれど、そのおか
げで随分幾つものことを同時に表現していますね。
先ず、浸しのヨハネは決して自称預言者ではなく、神から特別に任じられ
て直接権威を受けた人だった。それが「ヨハネの浸しは天からである」です。
第二に、もしそのヨハネの権威を尊重したら、彼が私についてなんと言っ
たか、彼の証言が重みを持ってくるぞ、ということです。覚えておられます
か……「(私の後から)わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わた
しには、そのくつのひもを解く値うちもない」
第三に、そのヨハネの権威は、まさに私の権威の受け方と同じで、天から、
つまり天の父が直接私を遣わして、宮の庭でのあの行動をさせた。あれは天
の父の意志だと知れ! ということです。
この第三のポイントが中心で、祭司長、長老、律法学者らへの答えになっ
ているわけですが、これに加えて……
第四に、天から権威を受けたヨハネをヘロデが処刑したように、天から権
威を受けた人の子も、ヨハネと同じ扱いを受けるだろう……という暗示もあ
るのかも知れません。このテーマは次の農夫の譬につながっていきます。
それで結局、何故こんな形でお答えになったかですが……つまり、そのも
のズバリでおっしゃらずに、こういう問返しの形式でおっしゃったかです。
それは多分この時代のラビたちが論争でよく用いた問返し形式をユダヤ式に
流用なさって、いくつもの効果を上げておられるということ以外に、これだ
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け偽善的なあなたたちには、まっすぐに答えるに値しない……ということな
のかも知れません。彼らはヨハネの権威もイエスの権威も認めないけれど、
民衆を恐れて「知らない」と答えたのです。
3.イエスの権威は、あなたにはどう映るか?
これは、まとめとしてです。この権威に関する問答を読んで感じることは、
この問題に対しては論理的証明は無いということです。もちろん祭司長と律
法学者と長老たちは、イエスの権威もヨハネの権威も認めなかったわけです
が……
それじゃヨハネのバプテスマに天の権威を認めた人たちはどうだったのか
……ナザレのイエスの中に神の訪れを見た人たちは、果たしてそれを筋道立
てて不信の世界に証明できたか……というと、それは恐らく理屈としてはで
きなかったでしょうね。万人に納得のいくような筋道を立てて……というか、
少なくともここの律法学者と長老たちの目を開いてあげられるような証明は
無かったと思うのです。
この問題は結局、信仰の決断の問題なのです。
そしてこれは今日でも同じです。
ナザレのイエスを自分の主として崇めたいが、本当にこの方の十字架だけ
が私の罪の贖いだという説得的証拠はあるのか? 復活のキリストが私に命
を与えるというけれども、本当にイエス様だけが「神の訪れ」であり、イエ
ス様だけが天の権威によるという、万人を納得させる証拠はあるのか?
あるいは、自分自身は信じて本当に良かったと思っているが、決断を渋っ
ている友人や家族にどうやって伝えたら、筋道を立てて、信仰のこと、イエ
ス・キリストのことを納得してもらえるか。その証拠は果してあるのか?
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確かにキリスト教には昔から apologetics という学問があって、
「弁証論」
とか「護教学」と訳されます。たとえば、神の存在の証明とか、人間の罪の
哲学的理由づけとか、その罪の贖いは十字架以外のものではあり得ない理由、
イエスが神の子であって神の全権威を帯びていることの理論とか……無いこ
ともないのですが、いずれも、いわば楽屋落ちのような理論で、シラケルこ
とおびただしい。神学校では一応教えますけれど……それは信仰者にとって
は意味を持つけれども、万人を納得させるものではないのですね。
結局は一人一人がイエス様と向き合って、自分自身の正味の霊的ショック
を受けないと、そこは飛躍できないものです。だから私たちは、そういう出
会いと飛躍が人に起こることを祈りながら、そして色々助言も与えながら、
最終的決断については遠くからソーッとしておいてあげねばなりません。
「天からの権威」というものは、それに本当に触れた人にだけ「天からの
権威」になるのです。これを犯すと、空しいお芝居に堕するのです。
最後に、今から申し上げることはここの趣旨ではなくて、多分私の感想な
のですけれど、信じている人自身の問題として、この信仰の確かな保証は何
処にあるのか……ですね。聖書を学んで、イエス様をそういう風に信じて、
人が笑っても批判しても、そういう生き方をしている。そんな信仰が正しい
ことを誰が保証してくれるか……です。それこそ「何の権威によってこれら
のことをするのか。そんな信仰の生き方や物の考え方をする権威をあなたに
与えたのはだれか?」ですね。その時にどう答えるかです。
カトリック主義なんかですと、教会とローマ教皇がそれを保証してくれま
す。それに「諸聖人の通功」というのがあって、聖人たちやマリア様にまで
オンブできます。無教会主義の運動ですと、たいてい先生とのつながりを頼
りにしますね。あんな信仰を持った方を師と仰いでいるんだから、私の信仰
は 確か だ…… という こと で、 不安に なると 何ら かの 形でそ れを再 確認
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confirm して安心できる。
しかし我々みたいな生き方は、地上の何処にもそれがありません。あなた
の信仰、私の生き方の権威となり保証となるものが無いのです。各人が本当
にイエス様と出会って、罪の贖い、死から命への飛躍を経験したというその
事実しかないのです。その意味で私たちの答えはイエスのそれと同じです。
「ヨハネのバプテスマは何処からであったか! 私にこれをさせている権
威もそれと同じ」それが言えるためには、各人が余程真剣にこの本と取り組
み、イエス様と絶えず向き合って、恵みを受けていなければなりません。
(1984/09/02)
《研究者のための注》
1. この 20 章の問答がなされた時点については、ルカは「ある日」と書いているだけです。
は「その日々のうちの一つ」ですから、いわゆる受難週、つまり
最後の過越祭りのエルサレム滞在中で、何日目かは分かりません。話の中で仮に、エ
ルサレム入城と宮清めの翌日のように話しているのは、マルコ福音書 11 章の中の物語
のつながりからの想像です。
2. 1 節の状況設定によると、イエスは宮で人々に教え、かつ福音を宣べておられた
と言います。「教えていた」と「福音していた」は多分対句で、
同じ内容を二つの角度から述べたものでしょう。イエスが「福音なさった」というの
は、8 章 1 節のような意味でありましょう。Morris はこの「福音する」という語に注
目して、
「イエスの敵たちがイエスを罠にかけようとして策動していた正にその時に、
イエスは神のよき音ずれを人々に伝えようとしていた」という風に、一つの対照をこ
こに見ています。
3. 権威という語の本来の意味は、自由な裁量権と処置権と言いますか、何にも縛られず
に自分の判断で行動できる権限です。ギリシャ語では
と言いますが、元々「し
てもよい・許容されている・合法的である」という意味の動詞
の名詞形です。
この権威についての問いにより、「イエスの口からはっきりメシアとしての断言を引
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き出そうとしたのだ」と言うのは I.B.の MacLean Gilmore。これに対して NTD のレ
ングストルフは、「律法学者たちは当たり障りのない形で問題を表現できたから、こ
の問いでは、彼があるいはメシアかも知れないという点に触れなくても、ごく自然に
彼の権威を問うことができた」としています。つまり預言者としての権威です。ニセ
預言者なら死刑ということです。
4. ヨハネの活動とヨハネの浸しについては、このシリーズの第 10 講「すべて肉なる者の
救い」第 11 講「ヨハネの証言」を参照してください。
5. イエスが何故そのものズバリの直答をなさらなかったのかについて、I.B.における
MacLean Gilmore の説明はこうです。「ラビたちの論争は問いと反問という形式で戦
わされることが多かった。そして反問は、前の問いに対する答えをも何らかの形で伝
えるものであった」つまりイエスはこの問いで、相手をディレンマに追い込んで困ら
せただけではなく、この問返し自体がちゃんとした答えになっているということです。
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